コメント
No title
逆に、細かく分けるならこんな感じでしょうか。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
プレイヤーの意思決定 (a) プレイヤーの内部
―↓―――――↑―――――――――――――――――
運動神経 感覚神経 (b) プレイヤーの表面
━↓━━━━━↑━━━━━━━━━━━━━━━━━
両者をとりまく外部環境 (c) プレイヤーとゲームの間
━↓━━━━━↑━━━━━━━━━━━━━━━━━
操作機構 表現機構 (d) ゲームの表面
―↓―――――↑―――――――――――――――――
ゲームの可能性空間 (e) ゲームの内部
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
で、(a)→(b)の出力を「行為」と呼ぶ、と。
なお、(c)についてはおっしゃるとおり、(d)と境界が曖昧なところがあります。(c)だけ違うケースの例としては、普通のサッカーと無重力状態で行うサッカーなどがあります。
また、この図はゲームの可能性空間というものが客観的に存在するという前提になっています。ゲームの可能性空間はプレイヤーの脳内(想像力)で生み出されるとみなす考え方もあると思います。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
プレイヤーの意思決定 (a) プレイヤーの内部
―↓―――――↑―――――――――――――――――
運動神経 感覚神経 (b) プレイヤーの表面
━↓━━━━━↑━━━━━━━━━━━━━━━━━
両者をとりまく外部環境 (c) プレイヤーとゲームの間
━↓━━━━━↑━━━━━━━━━━━━━━━━━
操作機構 表現機構 (d) ゲームの表面
―↓―――――↑―――――――――――――――――
ゲームの可能性空間 (e) ゲームの内部
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
で、(a)→(b)の出力を「行為」と呼ぶ、と。
なお、(c)についてはおっしゃるとおり、(d)と境界が曖昧なところがあります。(c)だけ違うケースの例としては、普通のサッカーと無重力状態で行うサッカーなどがあります。
また、この図はゲームの可能性空間というものが客観的に存在するという前提になっています。ゲームの可能性空間はプレイヤーの脳内(想像力)で生み出されるとみなす考え方もあると思います。
No title
コメントありがとうございます。
井戸さんの図式はプレイヤー内部にゲームの出力が帰ってくるところまでを見事に描き出してますね。流石です。行為についても、井戸さんのおっしゃるとおり、(ゲームの内部に向かう)プレイヤー内部からの出力、と捉えることに私も同意です。
ちなみに、井戸さんの図式と私の図式での差は、細かい / 粗い だけでなく、意思決定の系と可能性空間の系以外の系について、
・【井戸さんの図式】各々の存在字体はゲームルールに先立っており、系と系の区分こそがゲームルールに構成されている
・【私の図式】(広義の)ゲームルールが各々の系の存在自体に対して構成的に働いている
という違いがあるのかな、と思います。
井戸さんの例示を使わせてもらいますと。
そのプレイされる場の重力加速度をゲームルールとは別の外部環境として考えるなら井戸さんの図式で扱うのが良いでしょうし、そのプレイされる場の重力加速度もゲームルールの部分として考えるなら私の図式でも良い、ということになるかと思います。そして、おそらくは、ゲームの分析においてどちらの捉え方も必要とされるものでしょう。
ということで。おかげさまで、プレイヤー及びゲームの各 表面 / 内部 並びに外部環境という5つの系の間での入出力から、行為について定義できました。
本当にありがとうございました!
井戸さんの図式はプレイヤー内部にゲームの出力が帰ってくるところまでを見事に描き出してますね。流石です。行為についても、井戸さんのおっしゃるとおり、(ゲームの内部に向かう)プレイヤー内部からの出力、と捉えることに私も同意です。
ちなみに、井戸さんの図式と私の図式での差は、細かい / 粗い だけでなく、意思決定の系と可能性空間の系以外の系について、
・【井戸さんの図式】各々の存在字体はゲームルールに先立っており、系と系の区分こそがゲームルールに構成されている
・【私の図式】(広義の)ゲームルールが各々の系の存在自体に対して構成的に働いている
という違いがあるのかな、と思います。
井戸さんの例示を使わせてもらいますと。
そのプレイされる場の重力加速度をゲームルールとは別の外部環境として考えるなら井戸さんの図式で扱うのが良いでしょうし、そのプレイされる場の重力加速度もゲームルールの部分として考えるなら私の図式でも良い、ということになるかと思います。そして、おそらくは、ゲームの分析においてどちらの捉え方も必要とされるものでしょう。
ということで。おかげさまで、プレイヤー及びゲームの各 表面 / 内部 並びに外部環境という5つの系の間での入出力から、行為について定義できました。
本当にありがとうございました!
No title
以下問題提起だけです。
井戸さんの図式は、(「行為」をどこに位置づけるはともかく)標準的なケースを記述するのには十分なものだと思います。認知系のインターフェイスデザインの研究でも冒頭に必ず出てくる類の図式です(またこれはビデオゲームのプレイのプロセスを記述するのにはとくに適してると思います)。この図式自体にとくに異論はありません。
ただ、いままでの「ゲーム内行為」の話がそれで済むのかという点で疑問があります。よくわかってないのですが、もともとのぷらとんさんの問題意識は、「ゲーム内で行為とみなされるもの」とはなにか、そしてそれはどのようにしてそうみなされるのか、という点にあったのではないのでしょうか。
それゆえ、プレイヤーの系からの出力はあったがゲームの系には入力されないケースや、プレイヤーの出力にかかわらず、(プレイヤー外的な環境次第で)ゲームの系の状態が変化するケースが境界事例として考えられていたのではないのでしょうか。
だとすると、それらのケースはこの図式ではまだ十分説明できないように思います。プレイヤーの系に身体を含んだとしてもなお、身体的な出力はしたがゲームの入力とはみなされないケースはいくらでも考えられるからです。あるいは、プレイヤーは別のことを意図して体を動かしたが、結果として「操作機構」への入力としては意図せざる入力になった場合、それはゲーム内行為としてみなされるのかどうか。
おそらく井戸さんの図式でいうと、(a)から(d)までがすんなりいくというのが標準的な行為だと思いますが、その「すんなりいく」というのがどういうことなのか、どういう条件だとそれが許されたり許されなかったりするのかというのが問題の(もとからの)急所だったように思います。ぷらとんさんの言い方を借りると「(広義の)ゲームルールが各々の系の存在自体に対して構成的に働いている」ということのまさにその内実が問題なのではないんでしょうか。あるいは、(b)→(d)のあたりでなにが起きているのかという。
ビデオゲームだと、この内実はかなりの程度まで物理的なレベルで規定されているかもしれません(前の記事のコメントで書いたように、個人的にはこの考えには否定的ですが)。ただ、ボードゲームやスポーツでは、「ゲームの表面」は「ゲームの内部」と同様に物理的に規定できるものではないと思います。
あと、はじめのほうに話があったほかのプレイヤーの信念に影響を与えることをどう考えるかという話は、この図式だけだと拾えないかもしれません。
井戸さんの図式は、(「行為」をどこに位置づけるはともかく)標準的なケースを記述するのには十分なものだと思います。認知系のインターフェイスデザインの研究でも冒頭に必ず出てくる類の図式です(またこれはビデオゲームのプレイのプロセスを記述するのにはとくに適してると思います)。この図式自体にとくに異論はありません。
ただ、いままでの「ゲーム内行為」の話がそれで済むのかという点で疑問があります。よくわかってないのですが、もともとのぷらとんさんの問題意識は、「ゲーム内で行為とみなされるもの」とはなにか、そしてそれはどのようにしてそうみなされるのか、という点にあったのではないのでしょうか。
それゆえ、プレイヤーの系からの出力はあったがゲームの系には入力されないケースや、プレイヤーの出力にかかわらず、(プレイヤー外的な環境次第で)ゲームの系の状態が変化するケースが境界事例として考えられていたのではないのでしょうか。
だとすると、それらのケースはこの図式ではまだ十分説明できないように思います。プレイヤーの系に身体を含んだとしてもなお、身体的な出力はしたがゲームの入力とはみなされないケースはいくらでも考えられるからです。あるいは、プレイヤーは別のことを意図して体を動かしたが、結果として「操作機構」への入力としては意図せざる入力になった場合、それはゲーム内行為としてみなされるのかどうか。
おそらく井戸さんの図式でいうと、(a)から(d)までがすんなりいくというのが標準的な行為だと思いますが、その「すんなりいく」というのがどういうことなのか、どういう条件だとそれが許されたり許されなかったりするのかというのが問題の(もとからの)急所だったように思います。ぷらとんさんの言い方を借りると「(広義の)ゲームルールが各々の系の存在自体に対して構成的に働いている」ということのまさにその内実が問題なのではないんでしょうか。あるいは、(b)→(d)のあたりでなにが起きているのかという。
ビデオゲームだと、この内実はかなりの程度まで物理的なレベルで規定されているかもしれません(前の記事のコメントで書いたように、個人的にはこの考えには否定的ですが)。ただ、ボードゲームやスポーツでは、「ゲームの表面」は「ゲームの内部」と同様に物理的に規定できるものではないと思います。
あと、はじめのほうに話があったほかのプレイヤーの信念に影響を与えることをどう考えるかという話は、この図式だけだと拾えないかもしれません。
No title
> だとすると、それらのケースはこの図式ではまだ十分説明できないように思います。プレイヤーの系に身体を含んだとしてもなお、身体的な出力はしたがゲームの入力とはみなされないケースはいくらでも考えられるからです。
↓
この図式では、それは外部環境またはゲームの操作機構の働きによるものだと説明されます。
例えば、将棋で手を滑らせて駒を盤上に落とした場合(これは「行為」ではないですが)、それがゲームの入力とみなされるかどうかは、ゲームの操作機構によります(大抵はみなされません)。
> あるいは、プレイヤーは別のことを意図して体を動かしたが、結果として「操作機構」への入力としては意図せざる入力になった場合、それはゲーム内行為としてみなされるのかどうか。
↓
これは今までの議論にのっとれば、当人内部的には行為だがゲーム内部的には行為ではない、ということだと思います。
> おそらく井戸さんの図式でいうと、(a)から(d)までがすんなりいくというのが標準的な行為だと思いますが、その「すんなりいく」というのがどういうことなのか、どういう条件だとそれが許されたり許されなかったりするのかというのが問題の(もとからの)急所だったように思います。
↓
そうです。
そしてこの図式は、プレイヤー内部からゲーム内部への出力がすんなりいかない場合の原因として「プレイヤーの運動」「外部環境」「ゲームの操作機構」のいずれか(または複数)が考えられるという程度のことが言えるようになるものです。
考え方の枠組みに過ぎないので、これ自体で何か新しいことが判明したというものではありません。
定義が整理されてきたので、これで具体的な内実について議論ができるようになったというところだと思います。
↓
この図式では、それは外部環境またはゲームの操作機構の働きによるものだと説明されます。
例えば、将棋で手を滑らせて駒を盤上に落とした場合(これは「行為」ではないですが)、それがゲームの入力とみなされるかどうかは、ゲームの操作機構によります(大抵はみなされません)。
> あるいは、プレイヤーは別のことを意図して体を動かしたが、結果として「操作機構」への入力としては意図せざる入力になった場合、それはゲーム内行為としてみなされるのかどうか。
↓
これは今までの議論にのっとれば、当人内部的には行為だがゲーム内部的には行為ではない、ということだと思います。
> おそらく井戸さんの図式でいうと、(a)から(d)までがすんなりいくというのが標準的な行為だと思いますが、その「すんなりいく」というのがどういうことなのか、どういう条件だとそれが許されたり許されなかったりするのかというのが問題の(もとからの)急所だったように思います。
↓
そうです。
そしてこの図式は、プレイヤー内部からゲーム内部への出力がすんなりいかない場合の原因として「プレイヤーの運動」「外部環境」「ゲームの操作機構」のいずれか(または複数)が考えられるという程度のことが言えるようになるものです。
考え方の枠組みに過ぎないので、これ自体で何か新しいことが判明したというものではありません。
定義が整理されてきたので、これで具体的な内実について議論ができるようになったというところだと思います。
No title
>この図式は、プレイヤー内部からゲーム内部への出力がすんなりいかない場合の原因として「プレイヤーの運動」「外部環境」「ゲームの操作機構」のいずれか(または複数)が考えられるという程度のことが言えるようになるもの
>定義が整理されてきたので、これで具体的な内実について議論ができるようになったというところ
これはたしかにそうですね。同意です。
あと、はじめ「操作機構」が物理的なものであるというニュアンスで読んでしまったのですが、誤解でした(将棋の例から)。
井戸さんの図式には基本的に異論ないんですが、以下に書くように、部分的に改変したほうがいいかもしれないと思っています。ただ、この改変は話をややこしくするだけかもしれないので、井戸さんの図式で話がうまくいっているあいだは持ち出す必要はないとも思います。
長いのでコメント分けます。
>定義が整理されてきたので、これで具体的な内実について議論ができるようになったというところ
これはたしかにそうですね。同意です。
あと、はじめ「操作機構」が物理的なものであるというニュアンスで読んでしまったのですが、誤解でした(将棋の例から)。
井戸さんの図式には基本的に異論ないんですが、以下に書くように、部分的に改変したほうがいいかもしれないと思っています。ただ、この改変は話をややこしくするだけかもしれないので、井戸さんの図式で話がうまくいっているあいだは持ち出す必要はないとも思います。
長いのでコメント分けます。
No title
以下、まえの記事にコメントを書こうと思いつつ悩んでたことです。
まえの記事でぷらとんさんが出された「介在者」概念については、導入の動機は理解したんですが、[プレイヤー]→[介在者]→「ゲーム」という横並びの関係がしっくりこなくていろいろ考えてました(これは井戸さんの図式に対しても思うことです)。言い換えると、「介在者」や「外部環境」を、プレイヤーやゲームと同列の系とみなすことに対する疑問です。
これは具体的にいうと、「プレイヤーの身体をプレイヤーの系に含めるか介在者とみなすかゲームの系に含めるか」といった問いに対する疑問です。というのも身体は、ある意味ではゲーム内のもの(ゲーム内で特定の意味をもつもの)であると同時に、ある意味ではそのゲーム内の事実を成り立たせるための物質的な素材になっているものでもあるように思えるからです。つまり、身体はいずれかひとつの系に属するといったものではないように思える。空気も同様です。
そういうわけで、中間者としての「介在者」概念のかわりに「物質的素材」とか「質料」みたいな概念を提案しようとしてたのでした。それだと横並びの関係ではなく、以下の図式になります。
プレイヤーの系 → [出力] [入力] → ゲームの系
↑ ↑ ↑
============================= 素材
↑印は、しばしば構成(constitution)と呼ばれる関係で、ようするに物質的素材がなにかとして(たとえば、特定の出力として、特定の入力として、特定のゲーム状態として)みなされる/意味づけられるという関係です。矢印になってますが、時間的な前後関係はないです。
5つの項があるという点では井戸さんの図式と同じですが、「物理的な意味で同一のものが複数の領域にまたがりうる」ということを認める点でちがいます。この図式でいくつかの事例を説明すると、たとえば以下のようになります。
【風】野球では、ゲーム内の事柄としてみなされ、それによる素材上の変化もまたゲーム内の変化としてみなされる。将棋の場合、ゲームにはまったく関係しない。
【プレイヤーの身体】野球では、ゲーム内の事柄であると同時に、プレイヤーの系からの出力機構を担うものでもある(たとえば、素材としての身体の特定の状態が、特定の出力や特定のゲーム内状態とみなされる)。将棋では、ゲーム内の状態を構成するものではないが、プレイヤーの系からの出力機構として働く。
で、この枠組みだと、素材の特定の状態がなにと見なされるか/見なされないかを決めるルールがあるというのが自然な説明になると思います。これは「構成的規則」(constitutive rule)と呼ばれるやつで、制度的事実を説明するときにしばしば出てくる概念です。たとえば、「役所に特定の書類を提出することを制度上「結婚」という事態としてみなす」というルールをわれわれは受け入れているわけです。
それと同じく、特定のゲームをプレイする文脈では、しかじかのことを当のゲーム上のしかじかとしてみなすというルールをプレイヤーや審判は受け入れている。そして当然どのような構成的規則が受け入れられるかは、それぞれのゲームによって異なります。ぷらとんさんが「(広義の)ゲームルール」という言い方で想定しているのは、こういうことかなあと勝手に思っています。
ついでにこの枠組みからだと、「稠密性」も、構成的規則がどこまで細かく素材の連続性を拾って系に組み入れるかの度合いとして定義できます。
まえの記事でぷらとんさんが出された「介在者」概念については、導入の動機は理解したんですが、[プレイヤー]→[介在者]→「ゲーム」という横並びの関係がしっくりこなくていろいろ考えてました(これは井戸さんの図式に対しても思うことです)。言い換えると、「介在者」や「外部環境」を、プレイヤーやゲームと同列の系とみなすことに対する疑問です。
これは具体的にいうと、「プレイヤーの身体をプレイヤーの系に含めるか介在者とみなすかゲームの系に含めるか」といった問いに対する疑問です。というのも身体は、ある意味ではゲーム内のもの(ゲーム内で特定の意味をもつもの)であると同時に、ある意味ではそのゲーム内の事実を成り立たせるための物質的な素材になっているものでもあるように思えるからです。つまり、身体はいずれかひとつの系に属するといったものではないように思える。空気も同様です。
そういうわけで、中間者としての「介在者」概念のかわりに「物質的素材」とか「質料」みたいな概念を提案しようとしてたのでした。それだと横並びの関係ではなく、以下の図式になります。
プレイヤーの系 → [出力] [入力] → ゲームの系
↑ ↑ ↑
============================= 素材
↑印は、しばしば構成(constitution)と呼ばれる関係で、ようするに物質的素材がなにかとして(たとえば、特定の出力として、特定の入力として、特定のゲーム状態として)みなされる/意味づけられるという関係です。矢印になってますが、時間的な前後関係はないです。
5つの項があるという点では井戸さんの図式と同じですが、「物理的な意味で同一のものが複数の領域にまたがりうる」ということを認める点でちがいます。この図式でいくつかの事例を説明すると、たとえば以下のようになります。
【風】野球では、ゲーム内の事柄としてみなされ、それによる素材上の変化もまたゲーム内の変化としてみなされる。将棋の場合、ゲームにはまったく関係しない。
【プレイヤーの身体】野球では、ゲーム内の事柄であると同時に、プレイヤーの系からの出力機構を担うものでもある(たとえば、素材としての身体の特定の状態が、特定の出力や特定のゲーム内状態とみなされる)。将棋では、ゲーム内の状態を構成するものではないが、プレイヤーの系からの出力機構として働く。
で、この枠組みだと、素材の特定の状態がなにと見なされるか/見なされないかを決めるルールがあるというのが自然な説明になると思います。これは「構成的規則」(constitutive rule)と呼ばれるやつで、制度的事実を説明するときにしばしば出てくる概念です。たとえば、「役所に特定の書類を提出することを制度上「結婚」という事態としてみなす」というルールをわれわれは受け入れているわけです。
それと同じく、特定のゲームをプレイする文脈では、しかじかのことを当のゲーム上のしかじかとしてみなすというルールをプレイヤーや審判は受け入れている。そして当然どのような構成的規則が受け入れられるかは、それぞれのゲームによって異なります。ぷらとんさんが「(広義の)ゲームルール」という言い方で想定しているのは、こういうことかなあと勝手に思っています。
ついでにこの枠組みからだと、「稠密性」も、構成的規則がどこまで細かく素材の連続性を拾って系に組み入れるかの度合いとして定義できます。
No title
私がイメージしていた「(d)ゲームの表面」の中に、2つの違うものが含まれていることに気づきました。「(d-1)ゲームの入出力に介在する物質的な素材」と、「(d-2)その素材の状態をゲーム内の意味に変換するルール」です。
将棋において手が滑った場合の扱いを規定するルールは(d-2)にあたります。一方、(d-1)は「(c)プレイヤーとゲームの間」に統合してしまっていいように思いました。
そのように修正すると、「(b)プレイヤーの表面」と「(c)プレイヤーとゲームの間」がzmzismさんの図式における「素材」に相当するということになりますね。
将棋において手が滑った場合の扱いを規定するルールは(d-2)にあたります。一方、(d-1)は「(c)プレイヤーとゲームの間」に統合してしまっていいように思いました。
そのように修正すると、「(b)プレイヤーの表面」と「(c)プレイヤーとゲームの間」がzmzismさんの図式における「素材」に相当するということになりますね。
No title
なるほど。(d-2)は素材の状態を引数にする関数みたいなイメージでしょうか。だとすると、僕の図式とあまり変わらないかもしれません。
ちなみに入力可能性に相当するものをある種のメソッド(OOPの意味で)として考える人もいて、これも似たようなイメージなのかもしれません。
ちなみに入力可能性に相当するものをある種のメソッド(OOPの意味で)として考える人もいて、これも似たようなイメージなのかもしれません。
No title
matsunagaさんのコメント拝読致しました。
これまで挙げられた問題点をきちんと解決出来る優れた図式と感じます。
この図式からゲーム内行為の定義を捉えるために(議論に携わった皆がそれを可能にするためというより、既にmatsunagaさんや井戸さんは把握されたかもしれないことを私も捉えられるように、という意味合いが強いですが。)、ちょっと確認なのですが。
・matsunagaさんの図式では、何らかプレイヤーから出力されたものは、ゲームの系の状態が変化するかどうかと直接には関わりなく、必然的にゲームへの入力となる、ということで良いでしょうか?
・縦スクロール(横スクロールでも良いですが)シューティングで、プレイヤーが特に出力していなくてもゲームの系の状態が刻一刻と変化していく、というような事態は、外部からの入力には因らずゲームの系の内部で状態遷移が生じている事態、詳述すれば、プレイヤーとは関わりの無い物理的時間経過という素材の変化がゲームの系においてもその状態の変化を生んでいる事態、ということで問題無いでしょうか?
・もしそうであれば、突き詰めていくとゲームの系への入力はプレイヤーからの出力によってのみもたらされる、ということになるのかと思いますが、そのイメージで良いでしょうか?
以上が全てyesで良ければ、matsunagaさんの図式を使ってゲーム内行為とは、確かに前からmatunagaさんがおっしゃっていたように、入力可能性(それは必然的に出力を伴い、したがって同時に出力の在り方についても限定されている)として捉えられますね。スッキリしました。
ただ、もしyesでないとすると、おそらく私の理解がどこか間違ってるんでしょうが…。
これまで挙げられた問題点をきちんと解決出来る優れた図式と感じます。
この図式からゲーム内行為の定義を捉えるために(議論に携わった皆がそれを可能にするためというより、既にmatsunagaさんや井戸さんは把握されたかもしれないことを私も捉えられるように、という意味合いが強いですが。)、ちょっと確認なのですが。
・matsunagaさんの図式では、何らかプレイヤーから出力されたものは、ゲームの系の状態が変化するかどうかと直接には関わりなく、必然的にゲームへの入力となる、ということで良いでしょうか?
・縦スクロール(横スクロールでも良いですが)シューティングで、プレイヤーが特に出力していなくてもゲームの系の状態が刻一刻と変化していく、というような事態は、外部からの入力には因らずゲームの系の内部で状態遷移が生じている事態、詳述すれば、プレイヤーとは関わりの無い物理的時間経過という素材の変化がゲームの系においてもその状態の変化を生んでいる事態、ということで問題無いでしょうか?
・もしそうであれば、突き詰めていくとゲームの系への入力はプレイヤーからの出力によってのみもたらされる、ということになるのかと思いますが、そのイメージで良いでしょうか?
以上が全てyesで良ければ、matsunagaさんの図式を使ってゲーム内行為とは、確かに前からmatunagaさんがおっしゃっていたように、入力可能性(それは必然的に出力を伴い、したがって同時に出力の在り方についても限定されている)として捉えられますね。スッキリしました。
ただ、もしyesでないとすると、おそらく私の理解がどこか間違ってるんでしょうが…。
No title
追記:
「ゲーム内行為が入力可能性として捉えられる」では、ちょっと言葉の用い方がおかしかったですね。
正しくは、出入力の可能性の空間がすなわちゲーム内行為の可能性の空間と同一のものになる、とでも表現すべきところでした。
「ゲーム内行為が入力可能性として捉えられる」では、ちょっと言葉の用い方がおかしかったですね。
正しくは、出入力の可能性の空間がすなわちゲーム内行為の可能性の空間と同一のものになる、とでも表現すべきところでした。
No title
ぷらとんさん
すべてyesで問題ないです。1つめと、1つめから3つめが帰結することについては、ちゃんと考えてなかったのですが、ご指摘いただいて整理できました。そのとおりです。
「ゲーム内行為」は、実際に入力として受けいれられたゲーム内出来事を指すと考えるのが自然なように思います。さらに、その出来事の諸々の帰結も行為とみなされるかもしれません(少なくとも、それらの帰結の責任はプレイヤーに帰属されうる)。
なお、ゲームの系の内部でもさまざまなサブシステムが互いに入出力をおこなっているとは思いますが、それらの入出力と、プレイヤー‐ゲーム間の入出力とは明確に区別したほうがいいだろうと思っています。
すべてyesで問題ないです。1つめと、1つめから3つめが帰結することについては、ちゃんと考えてなかったのですが、ご指摘いただいて整理できました。そのとおりです。
「ゲーム内行為」は、実際に入力として受けいれられたゲーム内出来事を指すと考えるのが自然なように思います。さらに、その出来事の諸々の帰結も行為とみなされるかもしれません(少なくとも、それらの帰結の責任はプレイヤーに帰属されうる)。
なお、ゲームの系の内部でもさまざまなサブシステムが互いに入出力をおこなっているとは思いますが、それらの入出力と、プレイヤー‐ゲーム間の入出力とは明確に区別したほうがいいだろうと思っています。
No title
追記
ちょっと考えてたんですが、この図式だと、マルチプレイで他のプレイヤーの信念に影響を与える行動をどう考えるかは悩ましいですね。とりあえずオプションは2つ思いつきますが、どっちも問題が出そうな予感がします。
(1) プレイヤーの信念のような心的事実もゲームの系に組み入れてしまう(つまり、「ある素材としての信念を、ゲーム内事実としての信念としてみなす」という構成的規則を認める)。そうすると、ほかのプレイヤーの信念に影響を与える行動もゲーム内行為ということになります。
(2) ゲーム内行為とは別に「ゲーム外だけどゲームにかかわる行為」(井戸さんの言い方だと「コミュニケーション」)みたいなレベルを認める。
個人的には(1)の方向でがんばってみたいのですが、もともとの議論にあったプレイヤーの系とゲームの系の関係としてゲームの行為をとらえるというアイデアと相性が悪いかもしれません。
(信念そのものをゲーム内のものと考えるのではなく、信念に影響を与えうるような記号(あるいは情報)までをゲーム内のものとして考えれば問題ないかもしれません。考え中です。)
ちょっと考えてたんですが、この図式だと、マルチプレイで他のプレイヤーの信念に影響を与える行動をどう考えるかは悩ましいですね。とりあえずオプションは2つ思いつきますが、どっちも問題が出そうな予感がします。
(1) プレイヤーの信念のような心的事実もゲームの系に組み入れてしまう(つまり、「ある素材としての信念を、ゲーム内事実としての信念としてみなす」という構成的規則を認める)。そうすると、ほかのプレイヤーの信念に影響を与える行動もゲーム内行為ということになります。
(2) ゲーム内行為とは別に「ゲーム外だけどゲームにかかわる行為」(井戸さんの言い方だと「コミュニケーション」)みたいなレベルを認める。
個人的には(1)の方向でがんばってみたいのですが、もともとの議論にあったプレイヤーの系とゲームの系の関係としてゲームの行為をとらえるというアイデアと相性が悪いかもしれません。
(信念そのものをゲーム内のものと考えるのではなく、信念に影響を与えうるような記号(あるいは情報)までをゲーム内のものとして考えれば問題ないかもしれません。考え中です。)
No title
今の図式だと(2)のほうが合っているとは思います。プレイヤーの系が複数あって、プレイヤーの系同士の入出力(ただし間接的にゲームの系に影響を与える)が「ゲーム外だけどゲームにかかわる行為」ということになりますね。
それともうひとつのオプションとしては、(3)ゲームの可能性空間をプレイヤーの系に組み入れてしまう、というのも考えられるのではないかと。つまり、プレイヤーがゲームを認識することによって初めてゲームの可能性空間が形成されるという考え方です。
今の図式とはまったく異なるものになりますが。
それともうひとつのオプションとしては、(3)ゲームの可能性空間をプレイヤーの系に組み入れてしまう、というのも考えられるのではないかと。つまり、プレイヤーがゲームを認識することによって初めてゲームの可能性空間が形成されるという考え方です。
今の図式とはまったく異なるものになりますが。
No title
matsunagaさん
お返事ありがとうございます。
matsunagaさんの博論の「6.3.2 行為の設計」の頭の方でおっしゃっていること
>ゲームメカニクスの諸要素はゲームプレイの対象である。
>これは複数プレイヤーによるゲームプレイでも同様である。プレイヤーは、その対戦相手ないし協力相手のプレイヤーともたしかにインタラクトしている。しかし、その場合も、他のプレイヤーとのインタラクションは、ゲームメカニクスとのインタラクションを通してなされるものである。
からすると、「マルチプレイで他のプレイヤーの信念に影響を与える」こととは、プレイヤー同士はゲームの系(この「ゲームの系」がmatsunagaさんの博論でいうゲームメカニクスに相当するのだろう、というのが私の理解なのですが。間違っていたらごめんなさい。)を挟んで向かい合っているため、あるプレイヤーが何らかゲームの状態に変化をもたらすことによって他プレイヤーの信念にも作用すること、と考えるのかと思っていました。
例えば、人狼で言いますと。
プレイヤーAが「プレイヤーBが人狼ではないか。」と発言する出力により、ゲームの系が「プレイヤーAにより『プレイヤーBが人狼として疑われる』との内容の発話が為された」状態に変化し、このゲームの系の状態の変化が各々のプレイヤーの信念に作用する、という風に説明出来るのだろうと思ってましたが。この理解では何か誤っている(もしくは嬉しくない事態が発生する)でしょうか?
ちなみに、井戸さんの挙げられた(3)の案も面白いですよね。
ゲームプレイを全て主観的な営みとして捉えるというのは、実際、今までの議論における多くの問題に対して整合的なアイデアと思います。
以前、ゲームルールの一部分を誤解しているプレイヤーは、他プレイヤーと同じゲームに関わっていると言えるのだろうか? ということを考えたことがありまして。
ルールの誤解というのは、アナログゲームでは良くある事態です。そして確かに、こうした状況では究極的には各々のプレイヤーは同じゲームに関わっているとは言えないことになってしまいます。ただ、だから単にゲームは全く主観的な営みだ、と結論してしまう必要は無くて。共有されている部分のルールによって構成されているゲームの系(この系ならば各々のプレイヤーで違いは無い)に関わっているのだ、と考えれば良いのだろう、との結論に達しました。少なくとも、間主観的に認められるゲームの系は存在すると考え得るだろう、と。
勝手な想像ですが、matsunagaさんが(1)のオプションで考えたいというのは、ゲームの系というものが、プレイヤーと独立に――したがって、客観的に――存在しており、このゲームの系(すなわちゲームメカニクス)とのインタラクションにこそゲームプレイの本質が見出される、とのお考えがあるからではないでしょうか。であればこそ、ゲーム(ゲームのダイナミクスとでも言うべきもの)には関わりがあるのに、ゲーム外(ゲームメカニクス外)の行為というのは出来れば認めたくない、ということなのかな、と。
と言うかそれは、matsunagaさんが本当にそう思ってるかどうかは関係なく、単に私がその意見に与しているというだけですが。
以上、まとめますと。
matsunagaさんの図式で、既に記載されているプレイヤーの系及びゲームの系に並列にプレイヤーの系を複数置き、プレイヤーの系からの出力がゲームの系への入力となるという原則をそのまま適用することで特に問題無いのでは? ということでした。
お返事ありがとうございます。
matsunagaさんの博論の「6.3.2 行為の設計」の頭の方でおっしゃっていること
>ゲームメカニクスの諸要素はゲームプレイの対象である。
>これは複数プレイヤーによるゲームプレイでも同様である。プレイヤーは、その対戦相手ないし協力相手のプレイヤーともたしかにインタラクトしている。しかし、その場合も、他のプレイヤーとのインタラクションは、ゲームメカニクスとのインタラクションを通してなされるものである。
からすると、「マルチプレイで他のプレイヤーの信念に影響を与える」こととは、プレイヤー同士はゲームの系(この「ゲームの系」がmatsunagaさんの博論でいうゲームメカニクスに相当するのだろう、というのが私の理解なのですが。間違っていたらごめんなさい。)を挟んで向かい合っているため、あるプレイヤーが何らかゲームの状態に変化をもたらすことによって他プレイヤーの信念にも作用すること、と考えるのかと思っていました。
例えば、人狼で言いますと。
プレイヤーAが「プレイヤーBが人狼ではないか。」と発言する出力により、ゲームの系が「プレイヤーAにより『プレイヤーBが人狼として疑われる』との内容の発話が為された」状態に変化し、このゲームの系の状態の変化が各々のプレイヤーの信念に作用する、という風に説明出来るのだろうと思ってましたが。この理解では何か誤っている(もしくは嬉しくない事態が発生する)でしょうか?
ちなみに、井戸さんの挙げられた(3)の案も面白いですよね。
ゲームプレイを全て主観的な営みとして捉えるというのは、実際、今までの議論における多くの問題に対して整合的なアイデアと思います。
以前、ゲームルールの一部分を誤解しているプレイヤーは、他プレイヤーと同じゲームに関わっていると言えるのだろうか? ということを考えたことがありまして。
ルールの誤解というのは、アナログゲームでは良くある事態です。そして確かに、こうした状況では究極的には各々のプレイヤーは同じゲームに関わっているとは言えないことになってしまいます。ただ、だから単にゲームは全く主観的な営みだ、と結論してしまう必要は無くて。共有されている部分のルールによって構成されているゲームの系(この系ならば各々のプレイヤーで違いは無い)に関わっているのだ、と考えれば良いのだろう、との結論に達しました。少なくとも、間主観的に認められるゲームの系は存在すると考え得るだろう、と。
勝手な想像ですが、matsunagaさんが(1)のオプションで考えたいというのは、ゲームの系というものが、プレイヤーと独立に――したがって、客観的に――存在しており、このゲームの系(すなわちゲームメカニクス)とのインタラクションにこそゲームプレイの本質が見出される、とのお考えがあるからではないでしょうか。であればこそ、ゲーム(ゲームのダイナミクスとでも言うべきもの)には関わりがあるのに、ゲーム外(ゲームメカニクス外)の行為というのは出来れば認めたくない、ということなのかな、と。
と言うかそれは、matsunagaさんが本当にそう思ってるかどうかは関係なく、単に私がその意見に与しているというだけですが。
以上、まとめますと。
matsunagaさんの図式で、既に記載されているプレイヤーの系及びゲームの系に並列にプレイヤーの系を複数置き、プレイヤーの系からの出力がゲームの系への入力となるという原則をそのまま適用することで特に問題無いのでは? ということでした。
No title
はい、「ゲームメカニクス」はぷらとんさんのゲームの系に相当します。
人狼の例はそれで問題ないと思います。ブラフとかプレッシャーの類を内外どちらとして扱うかが悩ましいというかんじですかね。ゲーム内とはどうもみなしづらいので。その場合は(2)をつかってゲーム外行為扱いでいいのかもしれませんが。
大きい話をすると、どこまでゲームの「内」に含むかという議論は、ひとつのゲームセッションをそれとして記述したり、それを生み出すものとしてのひとつのゲームをそれとして記述したりするためのものだと思っています(逆にそういうモチベーションがないなら、内外を区別する必要はとくにない)。なので当然ながら求められる記述のタイプによって内外の線引きは移動します。
(ちなみに、この線引きは、われわれの心的態度や実践に依存するという意味で、井戸さんが(3)で言われるように主観的なものですが、ある程度社会性を持っているという意味で、ぷらとんさんがおっしゃるように間主観的なものだろうと思います。)
で、ゲームセッションやゲームを記述する動機のひとつは、当のゲームを作品として(つまり評価の対象として同定・共有されるべきものとして)評価したいというものだろうと思います。これはお話をうかがうかぎり、ぷらとんさんも同じかもしれません。
ということを考えると、人狼の発言の例は内で問題ないが、ブラフは微妙と思ってしまうのは、当のゲーム(たとえば麻雀)を正当に評価するときに、「ブラフができる」みたいな要素を評価の理由に組み入れるか組み入れないかという点で自分の直観が揺らいでいるというだけの話かもしれません。
「オンライン麻雀はブラフができないから麻雀ではない」とか言う人(実際いますが)にとっては、ブラフはゲーム内行為であって、人狼の発言と同様にゲームの系の状態を変えるものだという説明にすんなり納得するのかもしれません。
というわけで、さしあたりこの問題は問題じゃないかもしれません。
人狼の例はそれで問題ないと思います。ブラフとかプレッシャーの類を内外どちらとして扱うかが悩ましいというかんじですかね。ゲーム内とはどうもみなしづらいので。その場合は(2)をつかってゲーム外行為扱いでいいのかもしれませんが。
大きい話をすると、どこまでゲームの「内」に含むかという議論は、ひとつのゲームセッションをそれとして記述したり、それを生み出すものとしてのひとつのゲームをそれとして記述したりするためのものだと思っています(逆にそういうモチベーションがないなら、内外を区別する必要はとくにない)。なので当然ながら求められる記述のタイプによって内外の線引きは移動します。
(ちなみに、この線引きは、われわれの心的態度や実践に依存するという意味で、井戸さんが(3)で言われるように主観的なものですが、ある程度社会性を持っているという意味で、ぷらとんさんがおっしゃるように間主観的なものだろうと思います。)
で、ゲームセッションやゲームを記述する動機のひとつは、当のゲームを作品として(つまり評価の対象として同定・共有されるべきものとして)評価したいというものだろうと思います。これはお話をうかがうかぎり、ぷらとんさんも同じかもしれません。
ということを考えると、人狼の発言の例は内で問題ないが、ブラフは微妙と思ってしまうのは、当のゲーム(たとえば麻雀)を正当に評価するときに、「ブラフができる」みたいな要素を評価の理由に組み入れるか組み入れないかという点で自分の直観が揺らいでいるというだけの話かもしれません。
「オンライン麻雀はブラフができないから麻雀ではない」とか言う人(実際いますが)にとっては、ブラフはゲーム内行為であって、人狼の発言と同様にゲームの系の状態を変えるものだという説明にすんなり納得するのかもしれません。
というわけで、さしあたりこの問題は問題じゃないかもしれません。
No title
ルールを誤解してる人が同じゲームをしてるかどうかは面白いですね。
当のゲームに参加するにあたって持つべき態度・動機・信念とそれらに則ったなすべき行動みたいのがあらかじめ参加要件として想定されていて、それを最低限満たしてないと当のゲームのプレイとしては認められないのかもしれません。
この参加要件はゲーム外の規範(~べき)としてあるものでしょうが、その規範のありかたはゲームによって(あるいは個々のプレイの文脈によって)多様だろうなと思います。
音楽でも、当の演奏がその音楽作品の演奏なのかどうか、どこまでを許容するのかという話がありますが(演奏のauthenticityというトピックです)、それとほぼ同型の議論だろうと思います。
当のゲームに参加するにあたって持つべき態度・動機・信念とそれらに則ったなすべき行動みたいのがあらかじめ参加要件として想定されていて、それを最低限満たしてないと当のゲームのプレイとしては認められないのかもしれません。
この参加要件はゲーム外の規範(~べき)としてあるものでしょうが、その規範のありかたはゲームによって(あるいは個々のプレイの文脈によって)多様だろうなと思います。
音楽でも、当の演奏がその音楽作品の演奏なのかどうか、どこまでを許容するのかという話がありますが(演奏のauthenticityというトピックです)、それとほぼ同型の議論だろうと思います。
No title
ブラフについてのもうひとつの解釈(4)として、ブラフは他のプレイヤーを介してゲームの系に影響を与えようとする行為であるという考え方もできると思いました。
その場合、ブラフの直接の対象となる「他のプレイヤー」は私の図式で言う「(c)プレイヤーとゲームの間」、zmzizmさんの図式で言う「素材」にあたるということになります。
その場合、ブラフの直接の対象となる「他のプレイヤー」は私の図式で言う「(c)プレイヤーとゲームの間」、zmzizmさんの図式で言う「素材」にあたるということになります。
No title
(4)いいですね。マルチプレイを一人のプレイヤーの観点から記述する場合はそれで十分なのかもしれません。
No title
井戸さんの(4)案とmatsunagaさんのお話のおかげで、今までちょっと悩んでいた問題が解決しました。
議論の本題とはあまり関係ないんですが、それは「純粋なゲームプレイではプレイヤーはゲームメカニクスとしか相互作用しないはずなのに、アナログゲームではしばしばプレイヤー同士が直接相互作用しているように思われるが、これはどういうことだろうか?」というものです。
麻雀でのブラフというのは、それを受け容れている当事者間(ブラフをしたり、それにプレイを反映させる人)にとってはゲームメカニクスとの相互作用であるのに対して、その存在を受け容れていない非当事者にとってはゲームメカニクスを通さずにプレイヤー間で直接相互作用していることになります。両者には共有されていないゲームメカニクスの部分があるんですね。したがって、プレイヤー間での直接の相互作用が発生するのは、共有されていない部分のゲームメカニクスへの働きかけによるのだ、と説明できそうなことに気付きました。
議論の本題とはあまり関係ないんですが、それは「純粋なゲームプレイではプレイヤーはゲームメカニクスとしか相互作用しないはずなのに、アナログゲームではしばしばプレイヤー同士が直接相互作用しているように思われるが、これはどういうことだろうか?」というものです。
麻雀でのブラフというのは、それを受け容れている当事者間(ブラフをしたり、それにプレイを反映させる人)にとってはゲームメカニクスとの相互作用であるのに対して、その存在を受け容れていない非当事者にとってはゲームメカニクスを通さずにプレイヤー間で直接相互作用していることになります。両者には共有されていないゲームメカニクスの部分があるんですね。したがって、プレイヤー間での直接の相互作用が発生するのは、共有されていない部分のゲームメカニクスへの働きかけによるのだ、と説明できそうなことに気付きました。
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matsunagaさん
>ゲームセッションやゲームを記述する動機のひとつは、当のゲームを作品として(つまり評価の対象として同定・共有されるべきものとして)評価したいというものだろうと思います。これはお話をうかがうかぎり、ぷらとんさんも同じかもしれません。
はい、そのとおりです。私自身では上手く言語化出来ていなかった意図を汲んで、代わりに上手く説明して頂けたような気がします。ありがたいです。
>当のゲームに参加するにあたって持つべき態度・動機・信念とそれらに則ったなすべき行動みたいのがあらかじめ参加要件として想定されていて、それを最低限満たしてないと当のゲームのプレイとしては認められないのかもしれません。
>この参加要件はゲーム外の規範(~べき)としてあるものでしょうが、その規範のありかたはゲームによって(あるいは個々のプレイの文脈によって)多様だろうなと思います。
さしあたり、私もその意見に同意です。
また、演奏のauthenticityのお話なども、大変参考になりました。
ありがとうございました。
>ゲームセッションやゲームを記述する動機のひとつは、当のゲームを作品として(つまり評価の対象として同定・共有されるべきものとして)評価したいというものだろうと思います。これはお話をうかがうかぎり、ぷらとんさんも同じかもしれません。
はい、そのとおりです。私自身では上手く言語化出来ていなかった意図を汲んで、代わりに上手く説明して頂けたような気がします。ありがたいです。
>当のゲームに参加するにあたって持つべき態度・動機・信念とそれらに則ったなすべき行動みたいのがあらかじめ参加要件として想定されていて、それを最低限満たしてないと当のゲームのプレイとしては認められないのかもしれません。
>この参加要件はゲーム外の規範(~べき)としてあるものでしょうが、その規範のありかたはゲームによって(あるいは個々のプレイの文脈によって)多様だろうなと思います。
さしあたり、私もその意見に同意です。
また、演奏のauthenticityのお話なども、大変参考になりました。
ありがとうございました。