コメント
No title
ほぼ同意ですが1点だけ。
「介在者」の概念を導入する利点がよくわかりません。「介在者」概念で説明されている事柄は、以下のようなことだろうと思います。
システムへの入力を規定するのは、直接には物理的なもの(物理的なものだけじゃないかもしれませんがとりあえず出ている事例は「手」と「空気」なので)の特定のふるまいであって、プレイヤーの意図やそれにもとづいた出力ではない。
これはたしかに球場の風が入力になりうることの説明にはなるかもしれません。ただ、たとえば、将棋で手がすべって特定のマスに駒が落ちたとか、麻雀で自分の牌を誤って倒したとかいう場合、(反則扱いされないかぎりは)ふつうはなにもなかったものとして処理されると思います。
こういう例は、物理的には(おそらく「介在者」とみなされるものが)特定のふるまいをしているにもかかわらず、入力としては認められないケースということにはならないでしょうか。だとすると、「介在者」のふるまいによって入力か否かが決まるという考えはうまくいっていないんじゃないでしょうか。
ビデオゲームだとコントローラがかなり強力に入力を制御するので、この意味での「介在者」と言っていいかもしれませんが(※)、アナログだとあまりうまいこといかないのではないかという印象です(なんか誤解してるかもしれません)。
※ちなみに、個人的にはビデオゲームでもコントローラからの物理的入力がすべてゲームへの入力として認められるわけではないだろうという考えです。猫がコントローラを踏むことによって生じたハードウェアへの物理的入力を、当のゲームの入力としては認めずに取り消すというオプションがつねにプレイヤー側にあるからです(拙博論6.3.5.4にちょっと議論があります)。
「介在者」の概念を導入する利点がよくわかりません。「介在者」概念で説明されている事柄は、以下のようなことだろうと思います。
システムへの入力を規定するのは、直接には物理的なもの(物理的なものだけじゃないかもしれませんがとりあえず出ている事例は「手」と「空気」なので)の特定のふるまいであって、プレイヤーの意図やそれにもとづいた出力ではない。
これはたしかに球場の風が入力になりうることの説明にはなるかもしれません。ただ、たとえば、将棋で手がすべって特定のマスに駒が落ちたとか、麻雀で自分の牌を誤って倒したとかいう場合、(反則扱いされないかぎりは)ふつうはなにもなかったものとして処理されると思います。
こういう例は、物理的には(おそらく「介在者」とみなされるものが)特定のふるまいをしているにもかかわらず、入力としては認められないケースということにはならないでしょうか。だとすると、「介在者」のふるまいによって入力か否かが決まるという考えはうまくいっていないんじゃないでしょうか。
ビデオゲームだとコントローラがかなり強力に入力を制御するので、この意味での「介在者」と言っていいかもしれませんが(※)、アナログだとあまりうまいこといかないのではないかという印象です(なんか誤解してるかもしれません)。
※ちなみに、個人的にはビデオゲームでもコントローラからの物理的入力がすべてゲームへの入力として認められるわけではないだろうという考えです。猫がコントローラを踏むことによって生じたハードウェアへの物理的入力を、当のゲームの入力としては認めずに取り消すというオプションがつねにプレイヤー側にあるからです(拙博論6.3.5.4にちょっと議論があります)。
No title
「ゲームの系」と「当人の系」といった概念は、ゲーム内部的な視点や当人内部的な視点の関係がとてもわかりやすくなって良さそうに思いました。
気になったこととして、2つ目の補論を見るに「プレイヤーが何もしない(まま時間が経つ)ことによって(ゲーム内部的な)行為が生じることもあり得る」ということだと思いますが、この場合、例えばカタンで「交渉をしない」ことも行為に含まれるということですよね(当人内部的にも行為かどうかは別として)。さらにこの考えを突き詰めると、時間制限のあるアクションゲームでは常に行為が生じ続けることになります。
だからダメだというわけではないのですが、一般的な「行為」という意味からはかなり離れてしまうかなとは思いました。
気になったこととして、2つ目の補論を見るに「プレイヤーが何もしない(まま時間が経つ)ことによって(ゲーム内部的な)行為が生じることもあり得る」ということだと思いますが、この場合、例えばカタンで「交渉をしない」ことも行為に含まれるということですよね(当人内部的にも行為かどうかは別として)。さらにこの考えを突き詰めると、時間制限のあるアクションゲームでは常に行為が生じ続けることになります。
だからダメだというわけではないのですが、一般的な「行為」という意味からはかなり離れてしまうかなとは思いました。
No title
あれ? うーん。
お二人への回答を書こうとして、それがなんだか上手くまとまらないことに気付きました。
とりあえず。matsunagaさんのご質問について。
介在者の項を置かないと、例えば、野球におけるプレイヤーの身体について考えた時、それがプレイヤーの系に属するのかゲームの系に属するのか扱いに困るという問題が生じるのではないか、というのがその導入の意図でした。「プレイヤーの状態を、彼/彼女が抱いている信念で記述することが出来る」とする立場を変えない限り、野球においてプレイヤーの身体はゲームの系に属することになりますが、そうすると、参加するプレイヤーによって野球のゲームメカニクスの中味が変わってくることになってしまいます。もちろん、それで問題無いとする立場もあり得るのでしょうが、ゲームメカニクスについて語るためには、プレイヤーの身体とゲームメカニクスとを分離出来る立場の方がよいだろう、と思ったわけです。
これによって、同じく野球において、一塁に送球しようとして暴投してしまうなどという事態について次のように説明出来るように思いました。つまり、(この稠密度で捉えた場合)プレイヤーによる一塁への送球のための出力が、プレイヤーの身体という介在者によって、ゲームの系の実際の入力では出力で想定していた入力とは異なるものになってしまった事態である、と。
しかし、ここで気付いたんですが。
そう捉えてしまうと、身体を上手く使うことがゲームメカニクスと関わりのない事象であって、その楽しみがゲームとは直接的には無関係なものになってしまうので、それはそれで問題ですね。うーん。
次に、井戸さんのご指摘について。
確かに、ゲームの系のあらゆる状態遷移の起点を入力に求めその入力をこそ行為と捉えると、ゲーム内で「行為」が生じ続けてしまうことになってしまっておかしい、というのはおっしゃるとおりだと思いました。やはり行為というには出力においても限定されるべきかもしれません。が、出力と入力は完全には対応しないという本文での議論をそのまま引き継ぐと、単純に出力と入力の組み合わせたものを行為とすることもできません。うーん。
すみません。返信に長いこと時間かけた割には全然まとまってないアイデアでした。もちょっと考えます。
お二人への回答を書こうとして、それがなんだか上手くまとまらないことに気付きました。
とりあえず。matsunagaさんのご質問について。
介在者の項を置かないと、例えば、野球におけるプレイヤーの身体について考えた時、それがプレイヤーの系に属するのかゲームの系に属するのか扱いに困るという問題が生じるのではないか、というのがその導入の意図でした。「プレイヤーの状態を、彼/彼女が抱いている信念で記述することが出来る」とする立場を変えない限り、野球においてプレイヤーの身体はゲームの系に属することになりますが、そうすると、参加するプレイヤーによって野球のゲームメカニクスの中味が変わってくることになってしまいます。もちろん、それで問題無いとする立場もあり得るのでしょうが、ゲームメカニクスについて語るためには、プレイヤーの身体とゲームメカニクスとを分離出来る立場の方がよいだろう、と思ったわけです。
これによって、同じく野球において、一塁に送球しようとして暴投してしまうなどという事態について次のように説明出来るように思いました。つまり、(この稠密度で捉えた場合)プレイヤーによる一塁への送球のための出力が、プレイヤーの身体という介在者によって、ゲームの系の実際の入力では出力で想定していた入力とは異なるものになってしまった事態である、と。
しかし、ここで気付いたんですが。
そう捉えてしまうと、身体を上手く使うことがゲームメカニクスと関わりのない事象であって、その楽しみがゲームとは直接的には無関係なものになってしまうので、それはそれで問題ですね。うーん。
次に、井戸さんのご指摘について。
確かに、ゲームの系のあらゆる状態遷移の起点を入力に求めその入力をこそ行為と捉えると、ゲーム内で「行為」が生じ続けてしまうことになってしまっておかしい、というのはおっしゃるとおりだと思いました。やはり行為というには出力においても限定されるべきかもしれません。が、出力と入力は完全には対応しないという本文での議論をそのまま引き継ぐと、単純に出力と入力の組み合わせたものを行為とすることもできません。うーん。
すみません。返信に長いこと時間かけた割には全然まとまってないアイデアでした。もちょっと考えます。
No title
介在者の概念を認める場合、「介在者が入出力に対してどのように作用するか」というルールは、ゲームの系の中に含める必要があるように思います。
「手が滑って駒が落ちても無視する(普通の)将棋」と「手が滑って駒が落ちたら着手とみなす将棋」は、介在者の作用のしかたしか違いがありませんが、違うゲームになるからです(特に滑りやすい駒を使う場合)。
ゲームの系の中に含まれるものについてうまいことまとめれば、完成度の高い定義ができそうな気がしています。
ちなみに、介在者がどの入出力に作用するかによって4パターンに分けられますね。
A) どの入出力にも作用しない(将棋)
B) プレイヤー→ゲームの間のみに作用する(ビリヤード)
C) ゲーム→プレイヤーの間のみに作用する(フラッシュ暗算)
D) 上記のいずれにも作用する(サッカー)
「手が滑って駒が落ちても無視する(普通の)将棋」と「手が滑って駒が落ちたら着手とみなす将棋」は、介在者の作用のしかたしか違いがありませんが、違うゲームになるからです(特に滑りやすい駒を使う場合)。
ゲームの系の中に含まれるものについてうまいことまとめれば、完成度の高い定義ができそうな気がしています。
ちなみに、介在者がどの入出力に作用するかによって4パターンに分けられますね。
A) どの入出力にも作用しない(将棋)
B) プレイヤー→ゲームの間のみに作用する(ビリヤード)
C) ゲーム→プレイヤーの間のみに作用する(フラッシュ暗算)
D) 上記のいずれにも作用する(サッカー)
No title
ちなみにこの考え方を音ゲーなどに適用してみると、ほぼ介在者とゲームの系だけで構成されており、プレイヤーの系がほとんど存在しないことになってしまうかとは思いますが…
ニュアンス的には「プレイヤーの意思決定の系」とかのほうがしっくりくるかもしれませんね。
ニュアンス的には「プレイヤーの意思決定の系」とかのほうがしっくりくるかもしれませんね。
No title
こんな感じ?
a) プレイヤーの意思決定
↑
↓
b) プレイヤーの身体(介在者)
↑
↓
c) 外部環境(介在者)
↑
↓
d) ゲームの現実世界におけるあらわれ
↑
↓
e) ゲームの可能性空間
うーん、(d)がなんかすっきりしません。
a) プレイヤーの意思決定
↑
↓
b) プレイヤーの身体(介在者)
↑
↓
c) 外部環境(介在者)
↑
↓
d) ゲームの現実世界におけるあらわれ
↑
↓
e) ゲームの可能性空間
うーん、(d)がなんかすっきりしません。