『みんなのインスト』から【読書日誌】
- 2015/01/10
- 09:34
本記事は、ゲームマーケット2014秋にて販売された、ボードゲームを始めよう!Let's Play Boardgame! の sirouさんが編集された『みんなのインスト』を読んで考えたことについて書きました。
3つの対立軸
『みんなのインスト』では、インストの在り方についてたくさんの方が色んな意見を寄せています。その中では、既に多くの方が指摘されているように、真っ向から対立するような在り方のインストを良しとする意見がいくつかありました。とりあえず、私が気付いたその対立軸は次の3つです。
『みんなのインスト』を読む前、私は「説明は簡単にしてとりあえずやってみよう、戦略に関するアドバイスはアリ、ルールブックの朗読は止めようよ」という立場で、それ以外の立場があり得るなどと思ったこともありませんでした。しかし、『みんなのインスト』を読んで、意外とその立場は絶対というわけでなかったことが分かり、大変勉強になりました。
そもそも私がインストするときと言うのは、インストする相手が、プレステやったりするくらいはあるよ、という同年代(20-30代)のライトゲーマーで、ボードゲームは私に誘われたときにするくらいで、当然、自分でボードゲームを持っていたりするようなことはないような人だけで、ごく少数のタイトルを繰り返し遊ぶ自宅でのゲーム会(ゲーム会というか、単にみんなで集まった際に、私がボードゲームを取り出したと言うだけのもの)という状況でだけだったので、意図せず
という条件が設けられており、これら条件に見合ったインストが偶々「説明は簡単にしてとりあえずやってみよう、戦略に関するアドバイスはアリ、ルールブックの朗読は止めよう」という在り方だっただけなのですね。
つまり、先に挙げた3つの対立軸は、良いインストはどのようなものかという思想における根本的な対立軸なのではなく、どういう人達を相手に、どういう環境でするインストなのかという条件によって、それぞれの軸のどちらが良いかが決まるようなものだった、というわけですね。そして、掘り下げていけばそこで言う条件とは、そのゲームをどのように楽しむか、どのような点を楽しむか、というゲームプレイの目的にこそその根本が求められるのではないかと思います。
プレイ目的に応じたインスト
すいません。この「プレイ目的に応じたインスト」っていうタイトルは、『みんなのインスト』中の新井さとしさんによる記事のタイトルそのままなのですが。『みんなのインスト』を読んで、ホントに、この新井さとしさんの言うとおりだなあ、と思いました。
例えば、流石にルールブックの朗読はあり得ないだろうと思っていた私ですが、面白いことにそれすらも小野卓也さんの記事などを読むと、ああなるほど、こういうプレイ目的の下ではそれもアリなのか、と全く意見が改まってしまいました。小野卓也さんがされているように、インスト者すらルールを把握していない未開封のゲームを、その場で全員同一のスタートラインに立って、そこからゲームを理解する作業をすらゲームの一部として楽しむことを目的としたプレイにおいては、確かに「ルールブックの朗読はむしろ必然!」なわけです。このお話なんかは、インストがどうこうと言うより、そういうボードゲームの楽しみ方もあったのか!という驚きの方が大きかったわけですが。
ともかく、どういうインストが良いのかというお話は、どういう目的でプレイされるのか、ということを考えれば、多分、自ずと明らかになってくるような問題だと思うわけです。オープンな、ヘビーゲーマーだけが集まるゲーム会で、できるだけ多くの新しいゲームを、それぞれのメカニクスを余すところなく堪能すべくプレイしたいと思うならば、その時の良いインストとは「曖昧なところが無いように説明はしっかりして、戦略に関するアドバイスは無くし、けれどもインスト自体に時間を奪われないよう可能な限り説明準備をしておいてルールブックの朗読は止める」という形になる、と思います。まあ、プレイ目的と良いインストの在り方の対応をきちんと議論するためには、どのように楽しみたいかという点、その環境の要素等をもっと突き詰めていく必要があるのでしょうが、面倒なので止めときます(←おい!)
それより、先のように「良いインストの在り方はプレイ目的による」とまとめた場合、一点、物凄く重要な問題が残ります。それは、プレイ目的は各々のプレイヤー間で共有されるのか、という問題です。
同卓したある人は「このゲーム会の中でできるだけたくさんのゲームをプレイしたいから、1回のプレイでみんながちゃんと楽しめるように、ルールに曖昧なところがないようしっかり説明しよう(説明して欲しい)」と思っていても、別のある人はもしかしたら「曖昧なまま、何となくのプレイでも楽しいゲームは楽しいし、楽しめるゲームに当たったら何度でもプレイさせたい(プレイしたい)」と思っているかもしれません。とりあえずは、プレイ前とか、ゲーム決めの前とか、卓決め前とかにちゃんと話し合えよ、ということになるかもしれませんけれども。
ただ、同卓した各プレイヤーのもともと持っていたプレイ目的が完全に一致するってことは、多分無いと思うんです。まあ折り合えるかなと言う妥協点にどこかで至ってるか、共有されないままでも偶々問題が生じずにプレイされているか。そして、実際には多くの場合そうなっているのではないかと思われるのが、そもそもそんなプレイ目的の詳細などプレイやインストに先立って各人が確立しているわけでは無い、という状態です。面白かったら繰り返しやるかもしれないし、面白くても別のゲームがしたくなるかもしれないし、競技的にプレイしたいともコミュニケーションを楽しみたいとも、実際にプレイに入る前にはっきり決まってないよ、という状態ですね。
ここで、インスト者と被インスト者の間にある非対称性に目を向けてみましょう。
インスト者は、如何にインストすべきかが、プレイ目的によって決まるのですから、ある程度そのプレイ目的をはっきりさせなければなりません。しかし、そこで言うプレイ目的とは、場の誰にとってのプレイ目的なのでしょう?インスト者でしょうか、それとも被インスト者でしょうか、はたまた被インスト者の中の特定の誰かでしょうか。実のところ、インスト者が想定するプレイ目的の基準は、インスト者にしか決められません。インスト者は、その1度のセッション※でのプレイ目的を想定し、実際にインストすることによって、自身の想定したプレイ目的を被インスト者に開示する特権を持っているんですね。インストは、「オレはこういう風に楽しみたいと思っているよ」、「オレはみんなにこういう風に楽しんで欲しいと思っているよ」、または「みんな(もしくは、ある特定のあなた)はこういう風に楽しみたいと思ってるんでしょ」という表明でもあるわけです。
そして、この「インスト者と被インスト者の間の非対称性」と、先の「プレイ目的の詳細は必ずしもプレイに先立って各人で確立されているわけではない」、という点とを合わせて考えると、インスト者はインストによって、同卓したプレイヤーとの1セッションにおけるプレイ目的(楽しみ方)を誘導することになっているのではないか、と私には思われます。初心者相手のインストを考えたら明らかだと思いますが、例えば、カタンをとりあえず1回やってみようと言って、港のルールや、最大騎士・最長道路のルールをプレイ途中の要所要所で説明していき、1セッション終わった後に「これでルールが分かったでしょ。じゃあ、もう一回やろう!」と切り出されたら、被インスト者たる初心者は「ああ、こういう風に何度も繰り返して楽しむものなんだな」と考えるでしょう。
この「インストによる楽しみ方の誘導」って、結構重要な観点だと思うんですよね。
インスト論の対立軸―楽しみ方を誘導することの是非
いや、わざわざ対立を煽らなくても良いよねってのは重々分かってるんですが。キャッチーなので(←最低)。
さて前項で、インストはそれによって同卓したプレイヤーの楽しみ方を誘導しているのではないか、という指摘をしました。しかし、このように誘導が起こり得るとして、誘導することがインストの在り方において良いか悪いかという判断は保留されたままです。で、結論から言うと、どちらも一長一短あって何とも言えないよね、ということになるのですが。
まず先に、私の個人的な立場を述べさせていただきますと。私は、「ボードゲームの面白さを引き出すためなら、楽しみ方の誘導はどんどんするべきだよ」派です。
インストすること自体そんなにあるわけじゃないんですが、私はドミニオンのインストをする際には、「このゲームは基本的には、手札に入ってくるお金の密度を上げて属州を買って行くゲームです。」という内容の具体的な戦略に関わるアドバイスを入れます。私がインストする相手はほとんどボードゲーム自体に触れたことのない初心者なので、そういった勘所を掴むのが苦手だろう、という想定も前提にありますが、同時に、「こうプレイしていけばとりあえずデッキ構築が回って楽しみを得られるよ。アクションを連鎖させていく深い戦略はそれが分かってから一緒に考えていきましょ。」という楽しみ方の誘導に対する肯定的な見方もまた、このインストにおいては前提とされています。
少なくともお金戦略(というかできればプレイ中に他の人のプレイを見て、ステロ戦略を見出して欲しいところではありますけども)を知っていれば、ドミニオンというゲームのメカニクスが生む楽しみどころを味わえるのではないか、「村・村・村、有効なアクションはありません」って展開を経験させられるよりずっと楽しく、ドミニオンというゲームにポジティブな印象を持って貰えるのではないか、と思うんですね。はい、まあ、ここが、完全に私の思想になっちゃってるところであって、個人的な立場・見解でしかない点ですが。
ともかく。上の例では、プレイングにおける楽しみ方の誘導でしたけれども、「同じタイトルを繰り返しやる⇔繰り返しやらない」とか、「競技性を楽しむ⇔ゲームから生まれるコミュニケーションをこそ楽しむ」とか、楽しみ方の色んな要素においても、それぞれどの方向に向かわせるかという誘導はありうるでしょう。
こうした誘導は、私が考えているように(私の講じている手段がその意図に対して合理的なものかは分かりませんが)、被インスト者にそのゲームをより楽しませることができる、少なくともそうできる可能性があるものと思います。しかし一方で、そんな押しつけはうざったい、プレイヤー各人のゲームの楽しみ方(プレイ目的)は他の人間から強制されるべきものではない、という意見を抱く方もたくさんいらっしゃるかと思います。私もその点は全くそのとおりだと思います。反論出来ません。でも、実際にインストするときは、誘導しちゃいます。しまくっちゃいます。その方がより善くそのゲームを楽しむことができるんだから!という、思想なんですね。
そして、私が抱いているのが「ボードゲームの面白さを引き出すためなら、インストにおいて楽しみ方の誘導はどんどんするべきだ」という思想であるとすれば、その思想に反対の人々もまた「楽しみ方はプレイヤー各自が持つべきで、他の人間がそれに干渉すべきではなく、インストにおいてもそうした楽しみ方の誘導は極力避けるべきだ」という思想を抱いている、ということになるのではないかと思います。つまり、ここでの良いインストの在り方をめぐる対立とは、楽しみ方を誘導することの是非にあるのではないか、ということなんです。
思想の対立って、なかなか解消しづらい問題ですよね。長考問題とか、キングメーカー問題とか、スコットランド奉行問題とか、ジレンマの要不要問題(←後日触れる予定です)とか、とかとか。などと、問題提起だけして解決する気はまるでない無責任男ぷらとんなのでした。
というわけで、今日の記事のまとめです。
ちなみに、プレイ目的(楽しみ方)って、広義のプレイ態度であって、やっぱりプレイ態度って重要な問題ですよね、と言ってみたりして。
※ 通常TRPGにしか使わない表現のような気がしますが、他に分かりよい言葉が見つからないので。言い表したいのは、1つのゲームを始まりから終わりまでプレイする1回のことです。
3つの対立軸
『みんなのインスト』では、インストの在り方についてたくさんの方が色んな意見を寄せています。その中では、既に多くの方が指摘されているように、真っ向から対立するような在り方のインストを良しとする意見がいくつかありました。とりあえず、私が気付いたその対立軸は次の3つです。
- とりあえずやってみる(=説明は簡潔に) 派
vs
プレイに入るのはきちんとルールを理解してから(=説明はしっかり) 派 - 戦略に関するアドバイスありだよ 派
vs
戦略に関するアドバイスはしないよ 派 - ルールブックの朗読でもいいよ 派
vs
ルールブックの朗読は止めようよ 派
『みんなのインスト』を読む前、私は「説明は簡単にしてとりあえずやってみよう、戦略に関するアドバイスはアリ、ルールブックの朗読は止めようよ」という立場で、それ以外の立場があり得るなどと思ったこともありませんでした。しかし、『みんなのインスト』を読んで、意外とその立場は絶対というわけでなかったことが分かり、大変勉強になりました。
そもそも私がインストするときと言うのは、インストする相手が、プレステやったりするくらいはあるよ、という同年代(20-30代)のライトゲーマーで、ボードゲームは私に誘われたときにするくらいで、当然、自分でボードゲームを持っていたりするようなことはないような人だけで、ごく少数のタイトルを繰り返し遊ぶ自宅でのゲーム会(ゲーム会というか、単にみんなで集まった際に、私がボードゲームを取り出したと言うだけのもの)という状況でだけだったので、意図せず
- お試しプレイの後何度か繰り返しプレイすることが前提
- インスト者(私)と被インスト者の間でボードゲーム経験そのものに大きな差がある
- ボードゲームそのものや新しいボードゲームをプレイすることそのものにモチベーションがあるわけではない(その集まりで目的とされているのは「何かして遊ぶこと」であって、その遊びがボードゲームであったり、特定のタイトルであったりする必然性はない、ということ)
という条件が設けられており、これら条件に見合ったインストが偶々「説明は簡単にしてとりあえずやってみよう、戦略に関するアドバイスはアリ、ルールブックの朗読は止めよう」という在り方だっただけなのですね。
つまり、先に挙げた3つの対立軸は、良いインストはどのようなものかという思想における根本的な対立軸なのではなく、どういう人達を相手に、どういう環境でするインストなのかという条件によって、それぞれの軸のどちらが良いかが決まるようなものだった、というわけですね。そして、掘り下げていけばそこで言う条件とは、そのゲームをどのように楽しむか、どのような点を楽しむか、というゲームプレイの目的にこそその根本が求められるのではないかと思います。
プレイ目的に応じたインスト
すいません。この「プレイ目的に応じたインスト」っていうタイトルは、『みんなのインスト』中の新井さとしさんによる記事のタイトルそのままなのですが。『みんなのインスト』を読んで、ホントに、この新井さとしさんの言うとおりだなあ、と思いました。
例えば、流石にルールブックの朗読はあり得ないだろうと思っていた私ですが、面白いことにそれすらも小野卓也さんの記事などを読むと、ああなるほど、こういうプレイ目的の下ではそれもアリなのか、と全く意見が改まってしまいました。小野卓也さんがされているように、インスト者すらルールを把握していない未開封のゲームを、その場で全員同一のスタートラインに立って、そこからゲームを理解する作業をすらゲームの一部として楽しむことを目的としたプレイにおいては、確かに「ルールブックの朗読はむしろ必然!」なわけです。このお話なんかは、インストがどうこうと言うより、そういうボードゲームの楽しみ方もあったのか!という驚きの方が大きかったわけですが。
ともかく、どういうインストが良いのかというお話は、どういう目的でプレイされるのか、ということを考えれば、多分、自ずと明らかになってくるような問題だと思うわけです。オープンな、ヘビーゲーマーだけが集まるゲーム会で、できるだけ多くの新しいゲームを、それぞれのメカニクスを余すところなく堪能すべくプレイしたいと思うならば、その時の良いインストとは「曖昧なところが無いように説明はしっかりして、戦略に関するアドバイスは無くし、けれどもインスト自体に時間を奪われないよう可能な限り説明準備をしておいてルールブックの朗読は止める」という形になる、と思います。まあ、プレイ目的と良いインストの在り方の対応をきちんと議論するためには、どのように楽しみたいかという点、その環境の要素等をもっと突き詰めていく必要があるのでしょうが、面倒なので止めときます(←おい!)
それより、先のように「良いインストの在り方はプレイ目的による」とまとめた場合、一点、物凄く重要な問題が残ります。それは、プレイ目的は各々のプレイヤー間で共有されるのか、という問題です。
同卓したある人は「このゲーム会の中でできるだけたくさんのゲームをプレイしたいから、1回のプレイでみんながちゃんと楽しめるように、ルールに曖昧なところがないようしっかり説明しよう(説明して欲しい)」と思っていても、別のある人はもしかしたら「曖昧なまま、何となくのプレイでも楽しいゲームは楽しいし、楽しめるゲームに当たったら何度でもプレイさせたい(プレイしたい)」と思っているかもしれません。とりあえずは、プレイ前とか、ゲーム決めの前とか、卓決め前とかにちゃんと話し合えよ、ということになるかもしれませんけれども。
ただ、同卓した各プレイヤーのもともと持っていたプレイ目的が完全に一致するってことは、多分無いと思うんです。まあ折り合えるかなと言う妥協点にどこかで至ってるか、共有されないままでも偶々問題が生じずにプレイされているか。そして、実際には多くの場合そうなっているのではないかと思われるのが、そもそもそんなプレイ目的の詳細などプレイやインストに先立って各人が確立しているわけでは無い、という状態です。面白かったら繰り返しやるかもしれないし、面白くても別のゲームがしたくなるかもしれないし、競技的にプレイしたいともコミュニケーションを楽しみたいとも、実際にプレイに入る前にはっきり決まってないよ、という状態ですね。
ここで、インスト者と被インスト者の間にある非対称性に目を向けてみましょう。
インスト者は、如何にインストすべきかが、プレイ目的によって決まるのですから、ある程度そのプレイ目的をはっきりさせなければなりません。しかし、そこで言うプレイ目的とは、場の誰にとってのプレイ目的なのでしょう?インスト者でしょうか、それとも被インスト者でしょうか、はたまた被インスト者の中の特定の誰かでしょうか。実のところ、インスト者が想定するプレイ目的の基準は、インスト者にしか決められません。インスト者は、その1度のセッション※でのプレイ目的を想定し、実際にインストすることによって、自身の想定したプレイ目的を被インスト者に開示する特権を持っているんですね。インストは、「オレはこういう風に楽しみたいと思っているよ」、「オレはみんなにこういう風に楽しんで欲しいと思っているよ」、または「みんな(もしくは、ある特定のあなた)はこういう風に楽しみたいと思ってるんでしょ」という表明でもあるわけです。
そして、この「インスト者と被インスト者の間の非対称性」と、先の「プレイ目的の詳細は必ずしもプレイに先立って各人で確立されているわけではない」、という点とを合わせて考えると、インスト者はインストによって、同卓したプレイヤーとの1セッションにおけるプレイ目的(楽しみ方)を誘導することになっているのではないか、と私には思われます。初心者相手のインストを考えたら明らかだと思いますが、例えば、カタンをとりあえず1回やってみようと言って、港のルールや、最大騎士・最長道路のルールをプレイ途中の要所要所で説明していき、1セッション終わった後に「これでルールが分かったでしょ。じゃあ、もう一回やろう!」と切り出されたら、被インスト者たる初心者は「ああ、こういう風に何度も繰り返して楽しむものなんだな」と考えるでしょう。
この「インストによる楽しみ方の誘導」って、結構重要な観点だと思うんですよね。
インスト論の対立軸―楽しみ方を誘導することの是非
いや、わざわざ対立を煽らなくても良いよねってのは重々分かってるんですが。キャッチーなので(←最低)。
さて前項で、インストはそれによって同卓したプレイヤーの楽しみ方を誘導しているのではないか、という指摘をしました。しかし、このように誘導が起こり得るとして、誘導することがインストの在り方において良いか悪いかという判断は保留されたままです。で、結論から言うと、どちらも一長一短あって何とも言えないよね、ということになるのですが。
まず先に、私の個人的な立場を述べさせていただきますと。私は、「ボードゲームの面白さを引き出すためなら、楽しみ方の誘導はどんどんするべきだよ」派です。
インストすること自体そんなにあるわけじゃないんですが、私はドミニオンのインストをする際には、「このゲームは基本的には、手札に入ってくるお金の密度を上げて属州を買って行くゲームです。」という内容の具体的な戦略に関わるアドバイスを入れます。私がインストする相手はほとんどボードゲーム自体に触れたことのない初心者なので、そういった勘所を掴むのが苦手だろう、という想定も前提にありますが、同時に、「こうプレイしていけばとりあえずデッキ構築が回って楽しみを得られるよ。アクションを連鎖させていく深い戦略はそれが分かってから一緒に考えていきましょ。」という楽しみ方の誘導に対する肯定的な見方もまた、このインストにおいては前提とされています。
少なくともお金戦略(というかできればプレイ中に他の人のプレイを見て、ステロ戦略を見出して欲しいところではありますけども)を知っていれば、ドミニオンというゲームのメカニクスが生む楽しみどころを味わえるのではないか、「村・村・村、有効なアクションはありません」って展開を経験させられるよりずっと楽しく、ドミニオンというゲームにポジティブな印象を持って貰えるのではないか、と思うんですね。はい、まあ、ここが、完全に私の思想になっちゃってるところであって、個人的な立場・見解でしかない点ですが。
ともかく。上の例では、プレイングにおける楽しみ方の誘導でしたけれども、「同じタイトルを繰り返しやる⇔繰り返しやらない」とか、「競技性を楽しむ⇔ゲームから生まれるコミュニケーションをこそ楽しむ」とか、楽しみ方の色んな要素においても、それぞれどの方向に向かわせるかという誘導はありうるでしょう。
こうした誘導は、私が考えているように(私の講じている手段がその意図に対して合理的なものかは分かりませんが)、被インスト者にそのゲームをより楽しませることができる、少なくともそうできる可能性があるものと思います。しかし一方で、そんな押しつけはうざったい、プレイヤー各人のゲームの楽しみ方(プレイ目的)は他の人間から強制されるべきものではない、という意見を抱く方もたくさんいらっしゃるかと思います。私もその点は全くそのとおりだと思います。反論出来ません。でも、実際にインストするときは、誘導しちゃいます。しまくっちゃいます。その方がより善くそのゲームを楽しむことができるんだから!という、思想なんですね。
そして、私が抱いているのが「ボードゲームの面白さを引き出すためなら、インストにおいて楽しみ方の誘導はどんどんするべきだ」という思想であるとすれば、その思想に反対の人々もまた「楽しみ方はプレイヤー各自が持つべきで、他の人間がそれに干渉すべきではなく、インストにおいてもそうした楽しみ方の誘導は極力避けるべきだ」という思想を抱いている、ということになるのではないかと思います。つまり、ここでの良いインストの在り方をめぐる対立とは、楽しみ方を誘導することの是非にあるのではないか、ということなんです。
思想の対立って、なかなか解消しづらい問題ですよね。長考問題とか、キングメーカー問題とか、スコットランド奉行問題とか、ジレンマの要不要問題(←後日触れる予定です)とか、とかとか。などと、問題提起だけして解決する気はまるでない無責任男ぷらとんなのでした。
というわけで、今日の記事のまとめです。
- 『みんなのインスト』の中では、3つの意見の対立軸があったけれど、対立の根本はそこにはない
- どんなインストが良いかは、プレイ目的(楽しみ方)によって決まっている
- インストにより、同卓した被インスト者のプレイ目的(楽しみ方)が誘導される可能性がある
- インストによって楽しみ方を誘導することの是非については、解消できない対立がある
ちなみに、プレイ目的(楽しみ方)って、広義のプレイ態度であって、やっぱりプレイ態度って重要な問題ですよね、と言ってみたりして。
※ 通常TRPGにしか使わない表現のような気がしますが、他に分かりよい言葉が見つからないので。言い表したいのは、1つのゲームを始まりから終わりまでプレイする1回のことです。