arret:宗教上の教義の解釈が不可欠な場合
裁判所の審判権の限界に関する新判例である。
事実関係が隔靴掻痒な感じではっきりしないが、包括宗教法人の管長が末寺A(宗教法人X)の住職で宗教法人代表役員Yの擯斥処分を行い、その理由が宗門の教義に異を唱えたことであり、住職=代表役員の地位を失ったYにXが立ち退きを求めたところ、その処分は不当だとして争われたものと思われる。
原審は処分が正当か不当かを判断するには、擯斥処分の事由である教義の解釈が問題となるので、これは法律上の争訟とはいえないと判例理論に則って判断したところ、Xは擯斥処分の事由としてもう一つ、管長しか許されていない法階授与をXが行って秩序を乱したことも挙げられるとして、上告した。
この理由なら宗教上の教義の解釈に立ち入らないで判断できるというわけである。
ところが最高裁は、確かにその理由なら宗教上の教義の解釈に立ち入らないで判断できることを認めながら、Xは教義に異を唱えたことを擯斥処分の理由にしているのであるからダメだとした。
かくして、寺がクビにしたにもかかわらず、その寺の土地建物を占拠している前住職に対し、立ち退きを法的に求めることはできないし、立ち退きしなくてよいという判断もしないということになった。力づくで決着を付けるしかなくなってしまいそうである。
普段、多数意見に与しても、それに対して当然起こる疑問とか射程とかを説明するために補足意見を付ける煩を厭わない田原裁判官も、今回は補足意見を書いていない。当事者からすれば、じゃあどうすればよいのかと当然聞きたいであろう。
思うに、この事件ではもう一回、擯斥処分の事由を宗教上の教義の解釈に立ち入らなくとも判断できるものにして擯斥処分を再度行い、再度同一の訴えを提起すれば、少なくともこの判決の見解を受け入れる限り、立ち退きを命じることができる。従って寺がその意思を法的に強制することは可能な事案だったように思われる。もし不可能な事案なら、改めて判例理論の問題性が浮き彫りになるところであった。
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