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2011.03/20 [Sun]
東北津波は明日の土佐
東日本大震災にともなう大津波はこれまでの想像と想定を超えていた。朝日コムが沖合で大
津波を乗り越える巡視艇「まつしま」の映像をアップしているが、普通は波高が低いとされる沖合いで10メートルだから、丘ではものすごい高さになったことは想像に難くない。
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同じく朝日は、「日本一の防潮堤」「万里の長城」を誇った岩手県宮古市田老地区にあった防潮堤が、いとも簡単に突破破壊されたことをリポートしている。
「日本一の防潮堤」無残 想定外の大津波、住民ぼうぜん
ここでは「1896(明治29)年の明治三陸津波で1859人が、1933(昭和8)年の昭和三陸津波で911人が命を奪われた」。
住民たちは移転を検討したが、海辺にすみたいという声と代替地が不足していることで防潮堤を建設に踏み切った。
1939年から約50億円かけてつくった防潮堤は、なるほど60年のチリ地震津波では他の地域では犠牲者が出たもののここでは防潮堤が津波を防いだ。
しかし、こんどの大津波には為す術がなかった。
とまれ。
東北津波の映像は「明日の土佐」である。
土佐沖にはフィリピン海プレートがアジアプレートに潜り込む南海トラフがあり、過去大きな地震と津波が定期的に土佐沿岸をおそってきた。
現代から順に時代をさかのぼると次のようになる。
1946(昭和21)年、マグニチュード8.0
1854(安政元)年、マグニチュード8.4
1707(宝永4)年、マグニチュード8.6※
1605(慶長9)年、マグニチュード7.9~8.0※
1498(明応7)年、マグニチュード8.2~8.4※
1361(天平16・康安元)年、マグニチュード8.0~8.5
1099(康和元)年、マグニチュード8.0~8.5
887(仁和3)年、マグニチュード8.0~8.5※
684(白鳳13)年、マグニチュード8.0~8.3※
こんどの東日本はマグニチュード9.0だからいかに強烈なものだったかわかる。
ただ昭和の震災をのぞくと観測値ではないから、推定として差し引きする必要があると思う。
このなかで史料が残っているものとして最大のものが宝永地震である。
このときの地震・津波の記録を古文書からひろい集めたのが「宝永大地震――土佐最大の被害地震――」(間城龍男、1995年)。
そこにわが故郷、土佐清水市下ノ加江のことが載っている。
13~14メートルの大津波の襲った下ノ加江(当時は下茅)は、海辺の集落と田畑はもちろん「亡所、田苑一面浜となる」。
そのなかで鍵掛という地区のことである。
ここは宝永の時は、平地(現在の下ノ加江中学校があるところ)に集落があり、大きな被害を受けた。
現在の鍵掛は、そこより高い高地にある。
その理由を間城さんは、住民たちが後年津波被害を受けない現在地に移したと推理する。
なるほどと思う。
津波・洪水は自然災害である。
それを人間力で押さえ込もうというのも一つの知恵かもしれないが、それを避けるのも一つの知恵ではあるまいか。
人口規模などはもちろん違うが田老地区と鍵掛の行き方にそれを感じた。
もっともいまの下ノ加江もその「知恵」を失っているかのようである。
旧鍵掛のあったところには中学校があり、その北方には住宅地が建築されている。
そこを津波の被害から守るために、莫大な費用をかけて堤防をつくるのだろうか。
宅地計画見直しもふくめて高知県の地震・津波対策は待ったなしである。
☆きょうも読んでくれてありがとうm(__)m
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「日本一の防潮堤」無残 想定外の大津波、住民ぼうぜん
ここでは「1896(明治29)年の明治三陸津波で1859人が、1933(昭和8)年の昭和三陸津波で911人が命を奪われた」。
住民たちは移転を検討したが、海辺にすみたいという声と代替地が不足していることで防潮堤を建設に踏み切った。
1939年から約50億円かけてつくった防潮堤は、なるほど60年のチリ地震津波では他の地域では犠牲者が出たもののここでは防潮堤が津波を防いだ。
しかし、こんどの大津波には為す術がなかった。
とまれ。
東北津波の映像は「明日の土佐」である。
土佐沖にはフィリピン海プレートがアジアプレートに潜り込む南海トラフがあり、過去大きな地震と津波が定期的に土佐沿岸をおそってきた。
現代から順に時代をさかのぼると次のようになる。
1946(昭和21)年、マグニチュード8.0
1854(安政元)年、マグニチュード8.4
1707(宝永4)年、マグニチュード8.6※
1605(慶長9)年、マグニチュード7.9~8.0※
1498(明応7)年、マグニチュード8.2~8.4※
1361(天平16・康安元)年、マグニチュード8.0~8.5
1099(康和元)年、マグニチュード8.0~8.5
887(仁和3)年、マグニチュード8.0~8.5※
684(白鳳13)年、マグニチュード8.0~8.3※
こんどの東日本はマグニチュード9.0だからいかに強烈なものだったかわかる。
ただ昭和の震災をのぞくと観測値ではないから、推定として差し引きする必要があると思う。
このなかで史料が残っているものとして最大のものが宝永地震である。
このときの地震・津波の記録を古文書からひろい集めたのが「宝永大地震――土佐最大の被害地震――」(間城龍男、1995年)。
そこにわが故郷、土佐清水市下ノ加江のことが載っている。
13~14メートルの大津波の襲った下ノ加江(当時は下茅)は、海辺の集落と田畑はもちろん「亡所、田苑一面浜となる」。
そのなかで鍵掛という地区のことである。
ここは宝永の時は、平地(現在の下ノ加江中学校があるところ)に集落があり、大きな被害を受けた。
現在の鍵掛は、そこより高い高地にある。
その理由を間城さんは、住民たちが後年津波被害を受けない現在地に移したと推理する。
なるほどと思う。
津波・洪水は自然災害である。
それを人間力で押さえ込もうというのも一つの知恵かもしれないが、それを避けるのも一つの知恵ではあるまいか。
人口規模などはもちろん違うが田老地区と鍵掛の行き方にそれを感じた。
もっともいまの下ノ加江もその「知恵」を失っているかのようである。
旧鍵掛のあったところには中学校があり、その北方には住宅地が建築されている。
そこを津波の被害から守るために、莫大な費用をかけて堤防をつくるのだろうか。
宅地計画見直しもふくめて高知県の地震・津波対策は待ったなしである。
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問題提起
日本一の防波堤を誇った岩手県宮古市でもあの惨状です。『想定外』の津波という言い訳(?)は福島原発と同じです。どちらも住民に『安全』を訴えていたのも同じです。個人的には東電の想定外は絶対許されないのに、県、市町村の想定外は許されるというのは、『情』では納得できても『筋』では理解できません。
東電はつぶれても一向に結構ですが、いつものようにマスコミ論調のように誰かを血祭りにして自分は満足するというのは、根本的な問題解決につながらないと考えます。