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2011.12/13 [Tue]
久納好孚中尉・特攻の謎
2年にわたる取材を経て、KSSさんさんテレビのドキュメンタリー「遺す・ことのは~特
攻の始まりと終わりのこと~」が、29日14時30分からオンエアされる(60分)。
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取材に同行した者として感慨深いものがある。
2010年10月28日、29日の知覧、そして宮川正一飛曹の戦友であり、彼の特攻命令直後を知っている浜崎さんの取材。
ことし10月21日、22日、23日の鹿屋取材をへてのこと。
同行しなかった関東での取材では、ちょうど東北大震災の揺れにも出会ったそうだ。
きょうもいくつかの「謎」について問い合わせがあった。
一つが久納好孚中尉のこと。
呼び名が「こうふ」でいいのかということ。
ほかの史料で別の呼び名「よしたか」、姓も「くの」との記述もあるとのことだが、これだけは出身校の法政大学に問い合わせるか、親族以外は何ともならない。
もう一つは、彼の出撃が護衛していた「天山」攻撃隊全滅(19日)の責任をとらされての「懲罰特攻」との浜崎さんの証言についてだ。
これについては時系列的な問題があって何とも言えない。
久納さんの特攻にはいくつか謎があって、どれが真実なのか今ひとつわからないことがある。
わかっているのは、昭和19年10月21日16時25分に「大和隊」(爆装2、直掩1)を率いてセブ基地を飛び立って、そのまま還らなかったことである(ほかの2機は天候不良のため帰還した)。
「彼の性情と特攻に対する熱意から推して、体当たりしたものと推定された」(神風特別攻撃隊戦闘概要)。
ここで疑問がある。
久納さんは歴戦のパイロットである。
驟雨ふりつづくフィリピンの夕暮れ迫る空で、レーダーもなく単機で敵艦を発見することは困難なことはよく知っていたはずである。
なのに彼は単機のまま出撃し還らなかったのか?
久納さんの空との関係は大学入学とともに始まった。
法政大学に昭和15年4月に入ると同時に、「海軍予備航空団」にもはいり飛行機に親しんだ。
大学でもグライダー部に所属。
第11期海軍予備学生の募集が始まると募集に応じ、昭和17年9月30日に土浦海軍航空隊に入った。
ここで訓練を終えて徳島航空隊で実用機教程に入ったのが昭和18年8月31日、そこでの訓練を終えて12月1日、笠之原航空基地で第265航空隊(通称「狼」部隊)分隊士として宮川正さんら甲10期生と合流する。
あとは宮川さん、矢野川さんらの分隊士として、台湾・新竹、サイパン・アスリート、ペリリュー、ヤップと転戦。
7月にフィリピン・ダバオで201航空隊に再編成される。
フィリピンでは「反跳爆撃訓練」に取り組んだのもつかの間、9月から米機動部隊の空襲が始まり、201航空隊は「ダバオ水鳥事件」(9月10日)をうけてセブ基地に進出していたゼロ戦の大半を12日のセブ基地空襲で失ってしまう。
久納さんにとって部下を失う戦闘があったのはこのあとだ。
ルソン島・ニコルス基地にもどった201航空隊は、9月22日に21日のマニラ空襲に一矢報いるために、ゼロ戦15機に60キロ爆弾を2個積んでラモン湾にいる米機動部隊に攻撃をかけた。
部隊は2隊に分けられた。
第一小隊を鈴木宇三郎大尉、第二小隊を久納さんが率いた。
区隊長を兼務する久納さんの部下は、矢野川、八十川、街道の3人。
いずれも笠之原からの仲間である。
攻撃は成功した。
だが、久納さんは部下3人をこの攻撃で失った。
以後、久納さんは寡黙になったという。
しかし、息つく間もなく出撃命令はつづく。
10月13日、台湾沖航空戦に出撃。
こんどは隊長の鈴木宇三郎大尉を失う。
15日、第26航空戦隊司令官・有馬少将は階級章をはぎ取って、一式陸攻に乗り組み出撃。未帰還となった。
この「特攻の嚆矢」ともされる攻撃隊の護衛を務めたのも久納さんだった。
このあと関大尉と久納さんが交錯する。
鈴木宇三郎大尉の後任の関大尉が、ニコルス基地に戻ってきた久納さんと長門中尉を指揮所で殴ったというのだ(大野芳著「神風特攻隊「ゼロ号」の男」)。
目撃者がいる。
しかし理由は分からない。
19日、こんどは天山「新撰組雷撃隊」11機を、浜崎さんら4機のゼロ戦で護衛したが、久納、浜崎機と天山1機をのぞいて全滅した。
久納さんはマバラカットに帰ったが、ツゲガラオ基地に帰った浜崎さんは、翌日にマバラカットに戻り久納さんがセブ基地に行ったことを知らされる。
中島正飛行隊長に率いられた久納さんらのゼロ戦がセブに着いたのは20日午後7時。
そこで特攻を志願したことになっている。
そして整備兵に「搭乗機から機銃を降ろしてくれ、なまじそれに頼ると目的を達せられん」と懇請し(これは拒否される)、「僕は明日出撃したら絶対に戻ってこない。特攻できない時はレイテ湾へ行く」と言い残して21日に出撃した。
言葉は勇ましいが、まるで死に急いでいるような感じを受けるのは思い過ごしだろうか?
戦火に消えた青春――その真実を記録する時間が少なくなっている。
☆きょうも読んでくれてありがとうm(__)m
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2010年10月28日、29日の知覧、そして宮川正一飛曹の戦友であり、彼の特攻命令直後を知っている浜崎さんの取材。
ことし10月21日、22日、23日の鹿屋取材をへてのこと。
同行しなかった関東での取材では、ちょうど東北大震災の揺れにも出会ったそうだ。
きょうもいくつかの「謎」について問い合わせがあった。
一つが久納好孚中尉のこと。
呼び名が「こうふ」でいいのかということ。
ほかの史料で別の呼び名「よしたか」、姓も「くの」との記述もあるとのことだが、これだけは出身校の法政大学に問い合わせるか、親族以外は何ともならない。
もう一つは、彼の出撃が護衛していた「天山」攻撃隊全滅(19日)の責任をとらされての「懲罰特攻」との浜崎さんの証言についてだ。
これについては時系列的な問題があって何とも言えない。
久納さんの特攻にはいくつか謎があって、どれが真実なのか今ひとつわからないことがある。
わかっているのは、昭和19年10月21日16時25分に「大和隊」(爆装2、直掩1)を率いてセブ基地を飛び立って、そのまま還らなかったことである(ほかの2機は天候不良のため帰還した)。
「彼の性情と特攻に対する熱意から推して、体当たりしたものと推定された」(神風特別攻撃隊戦闘概要)。
ここで疑問がある。
久納さんは歴戦のパイロットである。
驟雨ふりつづくフィリピンの夕暮れ迫る空で、レーダーもなく単機で敵艦を発見することは困難なことはよく知っていたはずである。
なのに彼は単機のまま出撃し還らなかったのか?
久納さんの空との関係は大学入学とともに始まった。
法政大学に昭和15年4月に入ると同時に、「海軍予備航空団」にもはいり飛行機に親しんだ。
大学でもグライダー部に所属。
第11期海軍予備学生の募集が始まると募集に応じ、昭和17年9月30日に土浦海軍航空隊に入った。
ここで訓練を終えて徳島航空隊で実用機教程に入ったのが昭和18年8月31日、そこでの訓練を終えて12月1日、笠之原航空基地で第265航空隊(通称「狼」部隊)分隊士として宮川正さんら甲10期生と合流する。
あとは宮川さん、矢野川さんらの分隊士として、台湾・新竹、サイパン・アスリート、ペリリュー、ヤップと転戦。
7月にフィリピン・ダバオで201航空隊に再編成される。
フィリピンでは「反跳爆撃訓練」に取り組んだのもつかの間、9月から米機動部隊の空襲が始まり、201航空隊は「ダバオ水鳥事件」(9月10日)をうけてセブ基地に進出していたゼロ戦の大半を12日のセブ基地空襲で失ってしまう。
久納さんにとって部下を失う戦闘があったのはこのあとだ。
ルソン島・ニコルス基地にもどった201航空隊は、9月22日に21日のマニラ空襲に一矢報いるために、ゼロ戦15機に60キロ爆弾を2個積んでラモン湾にいる米機動部隊に攻撃をかけた。
部隊は2隊に分けられた。
第一小隊を鈴木宇三郎大尉、第二小隊を久納さんが率いた。
区隊長を兼務する久納さんの部下は、矢野川、八十川、街道の3人。
いずれも笠之原からの仲間である。
攻撃は成功した。
だが、久納さんは部下3人をこの攻撃で失った。
以後、久納さんは寡黙になったという。
しかし、息つく間もなく出撃命令はつづく。
10月13日、台湾沖航空戦に出撃。
こんどは隊長の鈴木宇三郎大尉を失う。
15日、第26航空戦隊司令官・有馬少将は階級章をはぎ取って、一式陸攻に乗り組み出撃。未帰還となった。
この「特攻の嚆矢」ともされる攻撃隊の護衛を務めたのも久納さんだった。
このあと関大尉と久納さんが交錯する。
鈴木宇三郎大尉の後任の関大尉が、ニコルス基地に戻ってきた久納さんと長門中尉を指揮所で殴ったというのだ(大野芳著「神風特攻隊「ゼロ号」の男」)。
目撃者がいる。
しかし理由は分からない。
19日、こんどは天山「新撰組雷撃隊」11機を、浜崎さんら4機のゼロ戦で護衛したが、久納、浜崎機と天山1機をのぞいて全滅した。
久納さんはマバラカットに帰ったが、ツゲガラオ基地に帰った浜崎さんは、翌日にマバラカットに戻り久納さんがセブ基地に行ったことを知らされる。
中島正飛行隊長に率いられた久納さんらのゼロ戦がセブに着いたのは20日午後7時。
そこで特攻を志願したことになっている。
そして整備兵に「搭乗機から機銃を降ろしてくれ、なまじそれに頼ると目的を達せられん」と懇請し(これは拒否される)、「僕は明日出撃したら絶対に戻ってこない。特攻できない時はレイテ湾へ行く」と言い残して21日に出撃した。
言葉は勇ましいが、まるで死に急いでいるような感じを受けるのは思い過ごしだろうか?
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色々調べて、今は予備学生と呼ばれた学鷲を知ろうと勉強中でした。
久納中尉が寡黙になった理由や死に急いでいるかのような行動を思い出すたび、胸がつまります。
関大尉もまるで特攻のために戦闘機へ転科させられた感もあり、彼を知ると悲しさを感じます。
どんな人間にも人生があり思いがあり、一言では語れませんね。
生きている限り、知っていること伝えていきたいです。