「勉強ができる」という蔑称 - 理系兼業主婦日記
嬉しくて嬉しくて、教科書を次々めくって読んでいたら、新入生の世話をしに来た6年生が、「おまえ、ほんとうに読めるのか?」と言った。
くやしいので音読してやったところ、「じゃあ、俺のも読んでみろよ」と6年生の教科書を渡された。それも読んだ。
「すっげー、こいつ、1年なのに6年の教科書読んでるよ!」と、大騒ぎになった。
それ以来、私には「頭のいい子」という称号がついて回った。
賞賛の意味でそう呼ばれることが多かったが、「変わってる」「すかしてる」という意味での蔑称として呼ばれることもあった。
もっと言うと、小学生は小学生らしく振る舞うことが要請されていて、それもかなり細かい基準があるんだよね。小学校1年生は小学校1年生らしく振る舞うことが要請されていて、小学校2年生は小学校2年生らしく・・・ってな感じで、かなり細かい暗黙的な規定があるわけ。
で、この規定からはみ出ると叩かれるわけ。
たとえば体育や音楽でずば抜けた能力をもつ場合、その子は胸を張っていられる。
でも、「お勉強」の教科に秀でている場合、その子はそれを無邪気に誇りに思うことはできないばかりか、後ろめたいことのようにすら思うことを強制させられる。
この非対称性は、なんなのだろう?
どうにも不思議だ。
なぜ、かけっこが速くてもいじめられないのに、勉強ができるといじめられるのだろう?
かけっこが速い子=素朴で子供らしい子、勉強ができる子=小賢しくてかわいげのない子、という印象がまかりとおっているように思えてならない。
まさしくその通りですね。勉強ができるのは子どもらしくないんですよ。
勉強ができる子供の多くは、ただ勉強がおもしろいから、楽しめるから、できるようになったのだと思う。
まさしく。
ただ、機械のように言われたことだけをやっていたからでもなく、先生に気に入られたい一心の功名心の塊だからでもない。
でも、どうしてもそういうことにしたがる大人が多いこと、そんな大人に影響を受けた子供が多いことに、多くの「勉強ができる」子供たちは傷ついてきたはずだ。
そういうことにしないと、自分の何か(安全?)が脅かされるんだよね。
自分が後ろ指を指されるのが嫌だから、自分以外の誰か、例えば、その、「らしくない子」に対して、ついつい後ろ指を指してしまう。
ひとたび後ろ指を指す立場を確保できれば、みんなの視線を、「自分が指さしているさきにあるもの」に誘導できるので、「みんなの視線が自分に向くことで自分が後ろ指をさされる」可能性を低めることができるというメリットがあるわけだ。
後ろ指を指す人間、っていうのは、だからちょっとかわいそうなんだよね。
つねにだれかに向けて指を指し続けていないと、指弾し続けていないと自分の安全が確保されないと思いこんでいる人間だから(というか、そのようにして適応を果たしてきた、というべきか)。
ある種の魔法or催眠術に掛かってるんですね、これを解く術(すべ)を誰が知っているかな?
日本の企業は、博士以上の高学歴者を敬遠するという。そこには、勉強のできる子供に対する偏見と同質の偏見がひそんでいるような気がする。
うーん…、それはちょっと話が飛躍しすぎな感があって、というのはどういうことかというと、日本の企業が博士以上の高学歴者を敬遠するのは、日本の企業の多くが、終身雇用的であり、「新卒一括採用からの叩き上げで人を育てる」という業界的な体質を持っているからであり、また、新たな職種or新たな需給関係をクリエイトしようとする(中途採用に対する)応募者の要望に迅速かつ柔軟に対応できるだけの経営的素地が確保されていないと言った問題が先んじてあるわけでね。
だから、その、「それ」と「勉強ができる子どもに対する偏見」との連関というものは、よしんばあったとしても非常に離れているというか、間接的な作用、幾重にもあいだにファクターが挟まったうえでの連関である気は、します。
また、女子がなかなか理系に進学しないことの原因の一つも、ここにあるのではないか。好きな男の子に「お前は頭いいから、俺とは違うよな」と言われて、胸をえぐられるような思いをしたり、女の子グループに「ちょっと勉強できるからって、大きな顔しないでよ」と仲間はずれにされたことがきっかけで、勉強、特に理数系から遠ざかる女子は、きっとたくさんいると思う。
日本の科学技術の発展を妨げているもののひとつは、「勉強ができる」ことを蔑みの対象とするような、小学校から企業にも広がる精神風土なのではないか。
子どもらしさ、というものを担保している大人の期待というのがどこに由来するものであるのか、ということを考える必要があるように思います。
それを考えていくと例えば、これは多くの、子どもの頃勉強が楽しかった現大人の多くがあとあとになって吐露or白状していることでありますが、勉強というのは、遊びのなかで覚えるものだと。知るものだと。こういう考え方が、ほぼ普遍的に認められるわけですね。
でも、一方で、小学校の頃勉強が楽しかった人たち、というのは、どちらかというと少数派ですから、つまり何が言いたいかというと、
勉強というものを遊びのなかの一つとして捉えることのできる人たち
と、
それとは全然違うものやというふうに捉える人たち
がいて、真実的には絶対に前者のほうが真実なんだけれども、多くの地域社会的な大人、および、小学生の多数派は、そのように考えることをしないので、真実が隠蔽されちゃう、真実が被害をこうむる、真実を叫ぶ者が政治ゲームの敗者となって「悪貨が良貨を駆逐する」的になっちゃってる現状があるわけですね。
日本の科学技術の発展を妨げているもののひとつは、「勉強ができる」ことを蔑みの対象とするような、小学校から企業にも広がる精神風土なのではないか。
金持ちをさげすむ文化の源流もこのへんにある気がするね。
なんで一緒になってよろこぶことができないのかなぁ…。まあ、そのポイントは健全なる自尊心の欠如だと僕は思ってるんですけれどもね(この記事のまんなか当たりにある「少々脱線」と書いてある辺りを参照されたし)。
勉強ができる、できないにやたらと拘る人に問いたい。
子供のころは「子供らしさ」という基準で、大人になったら「頭のよさ」という基準で、他人の人格に優劣をつけなければ気が済まないのですか、と。
あなたたちは、なんとかして他人を見くびり、見下すことしか考えていないのですか、と。
「らしくない子」に対して思わず差別的な視線を向けてしまう、私たちのなかにある何か、が、最も根底のところでうずいている気がするね。
でね一方でね、こういうことを言うと本筋からちょっと外れ気味になっちゃうんでアレなんだけれども、そういう傾向は必ずしもマイナスの側面ばかりではないんですよね。
「らしい」「らしくない」っていうのが存在して、「らしくない」人たちを「らしい」方向へと誘導する圧力が存在すること自体は、右も左も分からない子に、「どういう方向に動けばいいのか」「どういうふうに振る舞うことが、いま、私が置かれている、人間社会の上での状況を踏まえたうえで有るべき姿なのか、求められている姿なのか」「この状況がどういう状況であるというふうに認定すればいまの私は最も心理的にラクになるか」と言ったことを身体的に、非理屈的に、直感的に察知させ、その方向に動かすという効果があるという意味でね、それは、私たちの人間社会にとって必要不可欠なものではあるんだよね。
だからこれは程度問題でね、結論を先に言っちゃうと、空気を読まない子は問題児だけれども、空気を読みすぎちゃう子もまた問題児なんだ。既存の人間社会の暗黙的なルールに鈍感な子がいる一方、敏感すぎる子がいるんですね。周りの人がどういうことを求めているかを察知できない子がいる一方、察知しすぎてくたびれてしまう子が、いる。この両極端が併存しているというのが、いまの子どもたちの有り様ですよ。これを認識しないでギャーギャー言っても始まらないわけです。
だからこれは、暗黙的なルールをどう扱うか、という問題に転送される。
私たちはどこまで、人間社会の側からの期待(暗黙的な要請)にこたえなくちゃいけないのか(というのは、暗黙的なルールにどこまでしたがわなくちゃいけないのか、というのと同じ意味ですが)、というところなんですね。
で、大人は、この問題を問い続けて操縦することができるんですが(ときどきできない人もいますが)、子どもは、こういう問題を操縦する経験に乏しいわけですね。でこの手の問題ってのは、やっぱり経験がものを言う、場数がものを言う、みたいなところもあって、どういうのが受け容れられるのか、受け容れられないのか、というのを、何度も何度もアタックして、てごたえをつかみながら、学んでいく、しかたぶんないんですね。
だから、なにが言いたいかというと、子どもたちだけで構成される社会においてね、そういう、らしくない子が排除されてしまうような傾向があることは、それは子どものルール操縦技法の未熟さに原因があるのであって、それはだからしかたがないんですね。私たちにできることは、子どもがおかしな操縦をしてたら、その都度、「それは違うぞ」と注意してあげる、ことくらいしかできない、でもそれがたいせつ、なんですね。
でね、じゃあなんで、特に本国では、より優秀な他国に比べて、そういう、勉強を楽しむ子に対して差別的な視線が向けられがちな傾向がとりわけ強いのかと申しますと、これはひとえに、子どもたちに原因があるのではなく、大人に原因があるんです。
繰り返しになるけれども、「勉強というのは苦役である」というふうに認識している人たちが一定数いて、その人たちが政治ゲームで権力を持ってしまうというところに、この構造の悲哀は存しているわけです。
ではなぜ勉強というのは苦役であるというふうに認識している大人たちが一定数いるのか、ということですが、これも複数の要因があるのですけれども、今回はその一つを紹介して、締めに代えさせて頂きたいと思います。
二十歳過ぎればただの人(3) - 子どもシェルター(言いたい放題)
中・高の優等生の中には、本当の優等生と偽りの優等生のタイプが居るという話をします。
--- 略 ---
思うに、このタイプの優等生と言うのは小学校高学年での優等生グループの生き残りです。中学校に入ると、小学校とは全く異なる資質が優等生について要求されます。その要求に応えられる子どもは中学校でも優等生ですし、それに応えられない子どもは劣等生または普通の子のグループに転落します。ところが、中には中学校での要求に応えられない部分を、驚異的な記憶力でカバーしながら、優等生であり続けようとする子どもが居るのです。
--- 略 ---
中二、中三になっても、彼女は定期試験の点を稼ぎ続けます。ですが、範囲の広い実力試験では、彼女の勉強法は通用しません。短期間で全て暗記するには範囲が広すぎるのです。そんな訳で、彼女は定期試験には強いが実力試験に弱いタイプと評価されるようになります。
やがて、高校入試です。先生も、この時期になれば彼女の実力を知っていますから、内申点の評価よりは少し下目の学校を勧められるのは仕方ありません。それでも、彼女の本来の実力からすると、可成りレベルの高い高校です。
高校時代、彼女は高一の初めから出来ない生徒のグループに居ます。それでも、提出物と定期試験で頑張って、評定値は何とか稼ごうと頑張ります。頑張りきれずに転落していく生徒も多いのですが、また一方で三年間、優秀な成績で押し通す子も沢山居ます。高校の勉強内容など、殆ど分かっていないにも関わらず、です。
こうして、偽りの優等生達は授業嫌い、勉強嫌いの大人に育っていきます。彼女達にとって、学校の授業は我慢大会に過ぎませんし、勉強は訳の分からないお経を延々と覚え続ける苦行のようなものです。勉強が何かの役に立つという実感もありません。実際、彼女の勉強方法では、何かに役立てる事の出来る知識など身に付けようもないのですから。
困るのは、こういう女性が母となって子どもの勉強を見たり、短大で教職免許を取って小学校の先生になったりする事です。
母親が教育熱心な家庭の男の子が成績不振になるケースで、母親が自分の勉強法を伝授しているケースがままあります。定期試験で悪い点を取って帰った息子に、自分がかつて点を稼いだやり方で良い点を取らせようとしたりするのです。ですが、一般的に男の子は女の子ほどの暗記能力はありませんから、成果は上がりません。論理的理解を拒絶している分、成績は逆に下がっていきます。
彼女達が小学校の教師になるのが困るというのは、学力の問題ではありません。何しろ、彼女達は自分が小学生だった頃は押しも押されもせぬ優等生だった訳ですから、今は四年制大学を出て威張っている男性連中も、小学生の頃は彼女達の足元にも及ばずに小さくなっていたりしたのです。その意味で、小学校での優等生が小学生の指導に当たる事に何の問題も無いように思えます。
問題は、彼女達の中に根付いてしまった勉強嫌いの感覚です。勉強は面白くないもの、我慢して努力してやるもの、そういう大前提で教壇に立つ先生が多い、と私には思えます。
そういう先生は、子どもが楽しそうに勉強したり、授業を受けたりしていると不安に思うようです。何か、大事な事を、子ども達が学んでいない、という気になるのです。そこで、授業中の私語を禁じたり、ごそごそ動く生徒に直立不動の姿勢を要求したり、少し難しめの問題で脅して、勉強は楽しいだけでは駄目なのだという事を分からせようとします。
やがて、生徒達はかつての活力を失っていきます。授業中、横の生徒と話す事も無くなり、黙って先生の話を聞きながら、後どれ位で休み時間になるのだろうと時計を気にし出したりして初めて、この先生は良いクラス作りが出来たと安心するのです。
ですが、この子ども達の姿はかつてクラスの優等生として活き活きしていた自分の姿ではありません。中・高を通じて、息を殺すようにして自分の気配を消していた、勉強嫌いの頃の自分の姿なのです。その事に、この先生は気が付いているでしょうか。
男の先生なら良くて女の先生は困ると言っている訳ではありません。男の先生でも困る先生は沢山居ます。今回は、話の流れで女の先生だけを問題にしました。次の事について、女の先生だけではなく、全ての先生について訴えたいと思います。勉強の嫌いな人が教師になってはいけません。自分の勉強嫌いを生徒に植え付けてはいけません。
べつに、「勉強が好きなら姿勢悪くてもいい、私語をしてもいい」「みんな好きなことだけしてればいい」ということが言いたいわけではありません。そこんとこ、取り違えないように用心くださいませ。
たいせつなことは、「勉強というのは本質的に苦役なものなんだ」というようなオーラを放っている人が先生になって、その余波が子どもに感染しちゃって、勉強の内容とは直接関係のないところで勉強嫌いが量産されてしまう、ということが起こっていて、このことがどれだけ社会的公益を奪っているかということをもっと直視してほしいということです。
関連事項:
このブログ内の他のentryとの関連で申しますと、これも、中途半端なプロが衆愚の空気を読むことによる弊害の一端なんですね。でありかつ、これを解決する方法の一つの処方箋が、勉強が好きでたまらない人たち、大学院でバリバリ研究しているような学生を部分的に動員するということなんです。
関連書籍の紹介:
馬鹿くさい論理もいくつか・・・
子供らしくないと言われた時にもの凄い違和感を感じた
変なの
或いは、単に苛めの口実として頭の良さが使われることがあるだけで、
それは頭が悪かったり足が速かったりなどの理由でも同程度に起こりうることではないかと。
引用の例だって、教科書読みなんぞに限らず、一年時分に六年生を駆け足でぶっちぎれば似たような因縁をつけられる可能性もあるでしょう。
才能のある後輩が先輩にいびられるなんて話は体育会系ではザラにあります。
嫉妬という感情がある限り人が集まりゃいつだってどこの国だってそうしたことは起こりうるのです。
そこにあるのは単に人付き合いや運というスキルの優劣であって、殊更勉学スキルだけが蔑視されているというわけではないのでは。
もちろんそうした状況自体が不健全であり改善すべき事なのは確かですが、
それは勉強が素晴らしいものだという布教が為されても解決されない問題であるように思います。
なんというか言葉は悪いですが、引用の例は自分は頭が良いという強いプライドを持っていながらコミュニティになじめなかった人の僻みが強く出ているように感じられてしまいます。
果たして「勉強が出来る子」と「運動が出来る子」を差別しているのは誰なのか。
単に子供の頃から「集団内の順列」を争う本能が働いて、その部分で 力>知 になっているのでは?
んでもって幼い頃は身体能力の優位性が高いんだけど、人間の特徴である知識を積み重ねるうちに力関係が逆転すると。
世代ごとにリセットされる身体能力と、世代間の積み重ねが出来る知識との違いですかね。
学生時代を振り返ってみると、授業を「授業として割り切っている」教師というのは、例外なく人気がなかったと今は思える。
勉強も遊びの一つ。
主張にもあったようにそう考える教師に教壇に立ってもらいたいと私も思う。
俺は音楽が得意だったが、本気で歌うと声量が大きすぎて引かれることが多々あったよ。
スポーツが上手に出来すぎて手を抜く人だっているし、絵が上手だけどわざと小学生らしい絵を描く人もいる。この間深夜番組で20世紀少年の作者の浦沢直樹がそんなこと話してたね。回りを見てそれっぽく書いてたって。
出る杭を叩くのは日本の集団の特徴かもしれないけど、そこで堂々としてられるか、自分の特性を隠して周りと合わせようとするかは、突出した能力が何であるかよりは、本人の問題なんじゃないかなあ。
最近の子供たちを見ていればわかると思うけど、「子供らしくない」子供たちは頭が特別良いわけではなく、単に屁理屈であったり、少し勉強できることを鼻にかけていたりする。
そして、
「勉強の嫌いな人が教師になってはいけない」ってのも少し違うと思う。
勉強が嫌いだからこそ勉強の大切さを知っているし、それを乗り越える方法も知っている。
逆に、「勉強が好きだった人」は他の人がなぜ勉強嫌いになるのか理解できない。
> 2009/02/12(木) 00:52 | URL | noname
お役に立てて光栄でございます。
>コメントないしブクマ等を頂戴しました皆様
皆様、ご訪問&コメント等をありがとうございます。
えー、コメントを頂きました皆さんにおかれましても、ブクマを頂戴しました皆さんにおかれましても、実に皆さん多彩な感性をお持ちのようで、まだまだ、日本も、私たちも、捨てたもんじゃないなあと感心させられる次第であります。
もちろん、これは、はてなーをはじめとする皆さんのリテラシーが、その他のコミュニティスフィア、に比べてお高いことに依存している側面もありましょうが、こういった、感性がですね、やがて飛び立って大きく飛翔していく勇姿を想像するとき、私はとても、落ち着いた、安心した気持ちになれるのです。
なにぶん私自身にも時間的・技量的制約というものがありますから、このようにたくさんの方々にご来訪いただく状況になって参りますと、すべての疑問点にお答えすることは難しくなってきてはいるのですが(※)、それでもですね、「これは優先的に回答申し上げるべきだろう」と、私自身がその独断と偏見により判断いたしましたものについては、これまで通りくらいのスピードで、応答して参りたいと考えている所存であります。
以上、よろしくお願いを申し上げたい次第であります。
※ コメント欄を半2ch的に使うという文化を受け容れる限り、全てのコメントにお答えすることはほぼ不可能です。もちろん、私がはてなに絡む以前から採用しておりました方式であります、「落ち着いた丁寧なやりとり、同定性の高いHNを用い、ブログやHPを運営なさっている場合はそのURLを惜しみなく晒す…」と、こういった、2ch的な文化とは対極にある仕方での遣り取りを所望される方に対しては、これまで通り、リアル圏において常識的とされるような感じで、コメントを返して参りたいと思います。もちろん、そういうコメントにすら答えている時間も労力もないというほどに、このブログが流行ってしまった場合や、私自身の時間的身体的制約が大きく変化してブログ運営が継続できなくなってきた場合はこの限りではありませんが。でもまあ、いましばらくはたぶんそういうことはないでしょう。
1つは普通にまともな学者を育てるという目的
もう1つは社会人として真面目に会社で仕事ができるように躾けるという目的です。
義務教育という部分で言うと、特に言った事を言われた通りにちゃんとこなすという工員的部分を躾ける部分が大きいです。
(自分で新しい事を考えてそれをスケジューリング化して実践するという指導者、開拓者的部分は四年制大学で学びます)
#そもそも学校が生まれて子供を学校へ押し込める事になった目的が、(子供からの労働の解放もあるけど)子供のうちに工員としての基礎教育を行っておくという、産業革命以降の国策に寄る所が大きい訳で
で、その後者の部分というのを表だって説明していない、というのが面倒なんですね。まぁ学生に向けて「お前達が工場で文句言わず働けるように今から躾けてるんだ」みたいな事は言えませんわな
なので、大学に行けるだけの意志と学力と資産がある学生を集めるなら、そういう工員向けの苦役を強いる形の学習はそんなに必要無いんでしょうけどね
あー、でもそういうエリート校が出来たらムカつくでしょうね。自分は行けないでしょうから
他人のつまらない嫉妬や価値観に潰される子供達は本当に勿体無いですよね……。
とはいえ、それで潰れて困るのは他ならぬ子供自身ですからね。
馬鹿の相手をする奴も馬鹿なんですよ。
一番にあこがれます。一番になりがたります。
しかし、実際に一番をとったら、恥ずかしいらしいのです。
私が中学の時、絵の超うまい(運動会やコンテストで実績あり)人に、
絵がうまいことを褒めると、あまり触れて欲しくなさそうな感じでした。
絵をうまく書く方法を聞いてみると、ノリノリで語ってくれました。
私が高校の時、勉強のできる人に、勉強ができることを褒めると、
「うん、まぁ…」て感じでした。
私がズタボロだった数Ⅱについて質問したら、ノリノリで教えてくれました。
周りの嫉妬も確かにあるのかもしれません。
ですが、「一番になっちゃって、目立つし恥ずかしい!」という
羞恥心を、子供は持っているのだと思います。
僕もよく大人連中から「こわくさい」といわれて育ちました。
このエントリーはなんというか、僕の思いを言語化してくれているような気がしました。
別に学校の利益になるからというのではなく、本当に素直に評価します。
知的な子を素直に評価しないタイプの教師というのは、概して公立小中学校に多いと思います。
たとえばその子に、スポーツができない、友達が少ない、積極性が足りない等の弱点がある場合、それを改善するようにと(みんなの前で)ことさらに要求する教師も少なくない。
最難関大学に合格するような、タイプ的にはやや内向的でしかし知的な雰囲気を漂わせた子たち、彼らには公立小中学校での対教師体験がトラウマになっている子も少なくない。
「学校は勉強が大事」のはずなのに、自分はそれを学校の先生に認めてもらえなかった・・これは心の傷になるでしょう。
原因を探るならば、当の公立小中学校の教師たちの学生時代にさかのぼるのが妥当でしょう。
彼らは概して、成績上位者ではあるがトップランクではなかった。
1学年100人の公立中学であれば5~10位といったところか。
性格は比較的真面目かつ明るく外向的、協調性があり、リーダーシップもまずまず。学校行事への貢献も積極的。
授業中は一生懸命ノートを取り、発言も積極的、教師が笑いを取れば人一倍反応してくれる。
まさに教師受けのよいタイプで、かつクラスメートの信頼も厚い。
生徒会役員や学級委員の割合も高い。
同窓会をやれば幹事というのも多い。
彼らには教室に目の上のタンコブがいた。
親の期待に、教師の期待に、クラスメートの期待に応えようとどう勉強しても、いっこうにかないそうにない知的優秀者がどうしても1人はいる。
少し物静かで、あるいは明るいけれど癖があって周りの空気をあまり読めない、しかし話をすれば頭のよいことはすぐにわかる。本が好きで、「なんでこんなこと知ってるの」というようなことを普通に知っている。
テストはサラサラと解いていつも1番2番。
地方であれば彼ら2層は同じ県下のトップ校に進む。
「知的な子」はそこでも相変わらず上位をキープ。
旧帝大や早慶、医学部に合格。
「教師の卵」は、地域公立中学の上澄みを集めた高校では能力の限界、中位をキープするのがやっと。
地元国公立の教育学部に合格。
そして数年後教壇に帰ったとき、教師の卵は、デジャブを見るのです。
ああ、俺の王国にまた”あいつ”がいる・・
コンプレックスを刺激され、到底冷静ではいられない。
さて、私立一貫校やトップ公立高校の教師にこういうコンプレックスが希薄なのはなぜか?
彼らは概して高学歴者です。それもトップ私学になればなるほど。
そして教育学部出身は少ない。
英語国語社会であれば文学部、数学理科であれば理学部の出身が多い。
もともとある程度好きでその専門をやっていた人が多い。
その道の研究者になりたかったが大学院で教授と衝突して挫折した人も少なくない。
公立小中学校の平均的な教師とは出身がかなり異なるのです。
この教師層が嫌うとすれば、むしろ勉強が好きでもないのに勉強する子供のほうじゃないでしょうか。
こういうのは、立証は難しいですが(※1)、小説などのかたちで流布すれば波瀾を呼ぶでしょうね。
それが一種の風刺であると信じられる人が多ければ多いほど、その物語は一種の真実として人々に消費されていく。
私立一貫校の教師が、一部のトップクラスの成績の子に対して穏やかでいられるのは、人間的に優れているからではなく、単に彼らと相性がいいからに過ぎないのだと思います。
> この教師層が嫌うとすれば、むしろ勉強が好きでもないのに勉強する子供のほうじゃないでしょうか。
これはその通りで、だからこそ、丸暗記を嫌う教師は公立私立を問わず多いのです。「理解することが大事」と。
> 公立小中学校の平均的な教師とは出身がかなり異なるのです。
私立一貫校では、採用の際に、履歴書に、自分の専門分野の解説や研究業績を詳しく書くことを求めることが少なくない気がします。
一方、公立では、そういうのはほとんど求められない。むしろ、「教歴」などといううさんくさいものや(※2)、泥にまみれながら一緒にはしゃげるか、「現場力」があるか、といった点が重視されている気がします。
採用時点で、それぞれが重視する項目が異なっているのですから、公立小中学校と私立中高一貫校で、平均的な教師の顔ぶれが変わってくるのも当然と言えます。
※1…たとえば、各教師に最終学歴を与えた学校の偏差値の平均値を、全学校に対して計算すれば、たぶん分布に差が出ると思いますが、そういうデータを出すための情報収集に協力的な教師は少ないでしょう。
協力的でない教師がいけないという意味ではありません。
少なくとも、このことだけを立証するためにエネルギーを費やすことにはあまり意味がないような気がします。
※2…最近は、応募可能年齢の上限を引き上げるところも出てきているようです。40代を超えてから公立の教師に採用された事例もあります。教員採用試験では、大卒後現役で受かる人が1割という話も聞きます。
これらのことは、「大卒後すぐに教師になるのではなく、社会経験を積んでから教師になるような人がもっといてもいい」という人々の内なる主張の反映なのではないかと思います。
これまでは、「教師の世界でどれだけ長年やっているか」が重要な指標でしたが、今後は必ずしもそうではなくなっていくことの徴候であるように考えられます。
そしてまた、こういった傾向は、なにも公教育の労働市場に限らず、様々な労働市場に関して同時多発的に生じている、一種の今日的な現象なのだと思います。それが、一般には、雇用流動化であるとか、終身雇用の崩壊であるとかいったキーワードによって特徴づけられるのだと思います。
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