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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
--- お知らせ ---

最近はtwitterにいます。ブログを書くよりも手軽なので。たぶんそれが理由で、ブログの更新頻度が落ちています。
あと、コンタクトはtwitterが一番はやいと思います。従来通りメールフォームを通じてコンタクトくださる場合で、かつ返事が必要な場合は、返事用のメールフォームをご用意ください。メールアドレスでは返信いたしかねます。また、必ず返信できるとも限りません。なにとぞご了承ください。(以上、2009.6頃の記述)



Twitterのぬるま湯につかりすぎると風邪をひく - 鍵壺のWeblog
このエントリの感想.および,私のTwitterでの振舞い.何か気になることがあれば,ブコメでもトラバでもreplyでも何でもよいので意見を下さい.よろしくお願いします.

それでは早速(笑)。


あの人からremoveされたのはなぜ?
Twitterでは,ゆるい繋がりを求める人たちが,気ままに,繋がったり,離れたりを繰り返す.
相手に興味があろうがなかろうが,何かの縁でfollowして,何かの拍子にremoveする.そんな距離感が当たり前の世界.
みんな自然体でつぶやく.それに魅かれて追いかける者もあれば,相性が合わないなあ,とremoveする者もいる.
だから,私は,誰かからremoveされても気にしない.
……だったけれど,こちらが好意を持っていた人に断ち切られて以来,removeを気にするようになってしまった.
よくreplyをくれた人,毎日のようにfavをつけてくれた人,ある日突然,removeされた.何がきっかけだったのだろう.
どれか特定のpostだろうか.一連の独り言が不快感を与えたのだろうか.それとも別の理由があるのだろうか.
どうして私をremoveしようと決めたのだろう.理由が知りたい..

気持ちは分からんでもないよ。
ただ、まず僕が思うのはね、「この手のゴタゴタは、気にし始めると一生終わらない」気がするということ。
少なくとも僕は、この手の話に自分の大切な時間を割いてしまうことのほうに、ある種のもったいなさを感じるかな。
だから、ちょっと考えて分からなかったら、とりあえずそれはそれで置いておいて、別のことをする。
もしかしたら別のことをしているときにまた気づくかもしれないし。

一つの疑問にずっとこだわり続けることは、有意義な場合もあるんだけれど、ことに特にその疑問の原因が「人間関係のゴタゴタ」にある場合は、ほかのことの一切を忘れてそのことにこだわり続けることに、さほど意味はないことが多いように私は思う。
だってそうじゃん。
こだわり続けた結果何が出てくるのよ? クヨクヨとか、自信喪失とか、そういうマイナスのたぐいがどんどん増幅されるだけでしょ? そんなものをわざわざ努力して増幅して嬉しいのかどうか。
私は少なくとも嬉しくない。


炎上が起こりにくいので,極端なことがpostできる.極端なことは多くの人の共感を得ることは難しいけれど,一部の人の心を鷲掴みにできれば,favの数は稼げる.だから,調子にのって,ついつい極端なことをpostしてしまうかもしれない.しかし,そこで生まれた反感は,removeやblockとなって表れる.が,これは気付きにくいのだ.f/fがそれぞれ三桁を越えたあたりになると,removeされたりblockされてもTwitter単体では気付くことはあまりなくなる.だから,こちらに興味を示してくれているなあ,というあの人から,いきなりremoveされてしまうのかもしれない.

だからね、それはね、あれでしょ、「mixiでマイミクを外されたときに知らせが飛ばないことをどう思うか問題」と同じでね、
思わせぶりな人がいきなりremoveを食らわせてきたことにショックを受けるのだとしたら、すでにしてそのことが、自分はtwitterをmixi的に使っていた、ということの証明にもなってしまうわけでね、
「twitterに何を求めているか」に関して、自分が自覚的に認識している基準と、真に自分が認識している基準とのずれがあるってことだよね。

で、まあ、それを知ったとして、「どうしたいのか」だ。それが次の問題として浮上してくると思うんだよね。
「ああ、自分はtwitterをmixi化してしまった張本人だ」ということを知ってしまったときに、どうしたいかということ。

まあこれは遅かれ早かれ、色々なところで、同時多発的に起こって然るべき事なのではないかあと思います。たぶんkey_さんがそう書いてるということは、twitterの利用者母数をぼくは知らないけれども、まあ、例えば10人くらいは同じように感じている人がいると考えてしくはないと思います。
IT系のスキルの乏しい層が大量にtwitterに乗り込んでくるのをまたずして、twitterのmixi化が生じる可能性のあることを示しているという点において、key_さんのご指摘は価値があると思います。


Twitterは、1つ1つのpostがそもそも読まれているかすらわからないので、replyやReTweetやfavがつかないことが、つまらないことの表現にならない。

いや、そうとは限らないと思うんですよね。twitterはさまざまな利用可能性に開かれているので、「postしている人に知られずに読みたい」ということも、しようと思えばできるわけですよね。
そういう意味では、ぼくは新聞に近いのかなと思っています。誰が読んでるか分からない、意外な人が読んでる、などなど。もちろん読み手の母数は桁が全然違うわけなんだけれど、書き手と読み手との距離感みたいなものの構造が、なんとなく似てる気がするんだよね。


楽しいは正義.
だけど,痛みを感じない身体ってうらやましい?
身体が傷付いてしまっても気がつかない.血が流れていることにも気がつかない.
そのままにしておいたら,気付かぬまま意識を失ってしまうよ.

んー、結論から言うと、あなたは傷つきたいんですか、それとも傷つきたくないんですか、ということだよね。

で、それに対するたぶん一般人の代表的な意見は、「結果的に良かったと思えるような傷だけ選択的に受難したい」ではないかと思うんですが、果たしてtwitterはこれを実現するに足るインフラになっているかどうか。
或いは、そういうものを、IT技術を洗練することによってだけで実現可能なのかどうか。
結局人間の側が何らかの意味で変化(成長)しなければ、そういうのは絶対に無理なのかどうか。
そこはたぶんまだ分からなくて、だから今の時点でこの問題に結論を出せている人はいないんじゃないかなと思うんですけれども(いたら教えてー)、どうでしょうかね…。


Twitterは楽しい.ポジティブな感想に溢れていて気持ちがいい.気持ちがいいのはいいことだけど,あくまで短期的に気分を高揚させてくれるもの.Twitterに長くつかってたらポジティブな感想でも,得られる喜びは薄まってゆく.

長期的な視点で見ると,自分の悪いところを改善するチャンスとなるような,ネガティブな意見をもらったほうがためになる..
みんなやさしーから忠告してくれないんだよね。だけど、表面的には傷付くかもしれないんだけど、もっとびしっと言って欲しいんだ。そのほうが後の為になるから。逆に相手のためと思ってびしって言うことが多いんだけど、それを嫌う人もいるんだよね。なんか難しいよね、そういうの。

だからそれはtwitterに限った問題じゃないよね。リアルでもまったく同じ事が言える。人間関係に共通の普遍的な問題なので。
もちろん、その問題が、twitterをうまく利用することによって解消ないし緩和される可能性はある。現にtwitterではポジティブポストが表面化しやすいという特性があるという事実は、緩和の一つの在り方なんだと思うし。


注1)以下の<本文>の内容は、ブログheis.blog101.fc2.comになされた次のコメントへの返信を兼ねています。
http://heis.blog101.fc2.com/blog-entry-54.html#comment78

注2)以下の<本文>とほぼ同じ内容のものを、次の二カ所のURL内に記載します。
http://heis.blog101.fc2.com/blog-entry-55.html
http://blog.goo.ne.jp/kkhrpen/e/d8064c0453cb0b75fcc9a591c51cefe4
同じ内容を、管理人がそれぞれ異なる場所に掲載することは、内容の公然性を保証する上で重要であると考えます。



<<<本文>>>

ほりさん、あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

新年早々、コメントを頂け光栄にございます。


私は、私自身の解釈には、特段大きな誤解はないと存じております。

私が記事中で示した見解は、確かに「ほりさんが力説せんとされたところ」からは若干ずれている可能性はありますが、私はそれを「誤解」などとは呼びたくありません。

こういうのは、「誤解」ではなく、「相手の意図するところを読み解こうする試みから、図らずも、全然別の、新しい問題を発見し、それを解決していた」と言うのです。

新しい問題が日の目を見、それが解決されることは、これは人類の遺産(財産)に一つの、小さいけれども確実な、方便の一つを付け加えることですから、これは決して、無意味なことではありません。

(え? 無意味でなくても有害かもしれないって? ふむ、確かに否定はできませんね。しかし、有害かもしれないものを野放しにしておくことの公益は、計り知れないものがあると思いますよ。「推定有罪」がいかに無益であるかは、ほりさんご自身が実感なさっていることではないかとお察しします。)




ほりさんは、ご自身のブログにて

> 「学ぶ力」はいかなる環境をも選ばずに挑んでいける力だからである。

とお書きになっています。

私はこの「いかなる環境をも選ばずに」という部分が、とても大切なのではないかと思いました。

これはすなわち、「どんな先生に当たろうとも、文句一つ言わずにちゃんと生きていける力」のことです。

このことからは、

「先生にいいも悪いもない」
「いい先生も悪い先生もない」

ということが、言えそうな気がします。

実際、内田樹著『先生はえらい』は、そのことについて何百ページも割いて叙述されているのだと思いますし、内田氏やほりさんが何度も言及されている「大石先生」についても、事の本質は同根であるとお察し致します。

また私自身、この『先生はえらい』なる書物を、なんども首肯しながら読みましたし、自分のこれまでの行ないや考えてきたことに照らして不整合がないことを何度も確認しながら、実感しながら読みました。

また、かつその叙述がほりさんのおっしゃることと不整合がないこともまた、何度も確認しながら、実感しながら読みました。

はい。




さて、ここからが問題です。

私は、 そ の う え で 、「さて、ではいい先生とは何でしょうか?」と問うてみているのですね。

分かります?

いや、たぶんお分かりにならないのではないかと思います。

人によってはこれを、

「おい、いや、ちょっと待て、いま、良い先生も悪い先生もないって言ったばかりじゃねーか。」

とか

「おい、いや、ちょっと待て、それって、『先生はえらい?』の内容について、おまえ、全然理解してねーんじゃねーの?」

という風に切り返す御仁もさぞかしたくさんおられることでしょう。

それは承知しています。

承知していますよ。

承知しています。

しかし、それでもなお、やはり、私は、なんとなく、「そのうえで、では、いい先生とは何でしょうか?」と問いかけなければならない気がするのです。

気がするのだから仕方がない。

私のこの「気がする」に、ほりさんが共感されるかされないかは、私の知ったことではないです。

また、「おまえがそのような『気がする』のは、それはおまえが『分かってない』からだ。」と英断なさるのは自由です。

ただ、私自身は、「そのような判断からは、なにも生まれないのではないか」と案じております。




話を元に戻します。

「教えるつもりで学ぶ者==>本当に学ぶ者」というのは、確かに、ほりさんの記事に対する解釈としては誤りなのかもしれませんが、
ほりさんの記事に私自身が勝手に触発されて、「教えるつもりで学ぶ者==>本当に学ぶ者」なる考えを発想したのだとすれば、これは誤解でもなんでもありません。

私は現に、「教えようとして学ぶ者はほんとうに学ぶことができる。」ということを、ほりさんの記事を読むことで、思いつく乃至は思い出すことができました。

また、私はその考えに着想を得て、

「子ども」に焦点を当て、「子どもの学び」について追求していった結果としての「先生はえらい」説



「先生」に焦点を当て、「先生自身の学びと成長」につい追求していった結果としての、「先生はえらい」説への懐疑

が、これは単に「扱っている主題の違いゆえの背馳」ということではなく、
もっときちんとした仕方で止揚可能であるのではないかということに思い至り、

「良い教師とはなんじゃらほい?」

という、この単純なしかしながら傍証の豊富さにおいては盤石の強さを誇るこの「先生はえらい」説への挑戦

を試みるに至ったのです。

(でありますからして、こういう背景をたどることなくなされる、私の「『先生はえらい』説への挑戦」の試みへの批判は、すべて無効であると考えております。)



確かに、ほりさんのおっしゃる通り、「先生はえらい」説、つまり、「良い先生かどうかということは、子どもの学びとはなんの関係もないことだ」とする説は、「教えるのが上手な先生、下手な先生」というような物言い自体を禁止します。

ほりさんがこの観点から、すなわち、「先生はえらい」説に立脚した視点から、

> 「「教えるのが上手」という言葉の意味を、「子ども自らが、誰かに教えるということを念頭に置いて学ぶようにし向ける教師は教えるのが上手」という風に理解するならOK。」ではありません。

という風におっしゃるのは理にかなっています。

がしかし、「私の言いたかったこと」「私が気づいたこと」はそこではなかったということを、どうかご理解いただければと思います。


さしあたっては言葉を尽くしたつもりでございますが、不足ないしは不明な点、お気づきの点があればいつでもご指摘くださいませ。



追伸:

唐突すぎて理解されないかもしれないけれど、実を言うと、
「Psyche氏のとある意見」と「madographos氏とほりさんのとある意見」の対立に対する止揚を私が書きしぶったことのツケが、ここに来ているのですね。

思いついておきながらそれを書いてみたりすることをせず放置するのは、これは怠惰と呼ばれるものでしょう。

やっぱり、思いついたことはすぐに書くべきであるなあとひしひしと感じます。

私の怠惰が、今回のような「小さな波乱」を呼び起こしてしまいましたことをどうかお許しくださいませ。




あ、これ、消さないでね。

消したら ○ンデレ認定くだします(笑



2009.1.4 22:05追記:



教えることと学ぶこと(補足したら長くなった)のコメント欄より



「先生はえらい」への挑戦は、陥りやすい落とし穴なんです (ほり(管理人))

2009-01-04 18:55:44

あくまでも「先生はえらい」のです。



heisanさん、ごめんね。

やっぱりコメント、控えて下さい。






予想通り(と言っちゃうと失礼なんだけど)のお返事でしたww



なんというか、突っ込みどころが多すぎてどこから突っ込んでいいのか分からないんですが・・・
(笑



つくづく、人間というのは、見たいものしか見えないんだなって思うよ・・。



そしてまた、見たいものしか見えていない人間に、こっちが見させたいものを見せるのがどれだけ大変か



ということがよく分かるよまったく・・・・・・。



こういうのはやっぱり、僕みたいな「界隈の者」がいくら騒いでもダメなわけで。



やっぱり、ほり氏の私淑する養老先生にガツンと言っていただくより他はないのかなぁ・・・・・・。なーん
て。



ま、ほり氏が私の言わんとするところを理解しないor理解したがらないことそれ自体からくる実害もしくは公害というのは、基本的には無いわけなので、まあ無視してもいいっちゃいいわけなんだが・・・・・・。





ま、いいですよ。そのうち書いていきますから。



「先生はえらい」のさきにあるものがなんであるのか、ということをね。





「先生はえらい」のさきにあるものがある、と思うこと自体がピットフォールである、と主張するのならば(←実はこの主張自体が、ユダヤ差別問題を取り巻く構造と同型をなしていそうなのだが)、



論拠を示しつつ理知的に分析的にスパッと(orふにゃふにゃ)語るか、論拠を示さずにふにゃふにゃと語るか、このどちらかであってもらいたいものである。



論拠を示さずにスパッと語られるのが一番タチがわるい



それどこの言論統制国家? それどこの洗脳国家?



論拠を示さずにスパッと語っていいのは、古典だけだと思う。



なんでかって?



それはね、古典は、「長年の風雪に耐えてきた」という実績があるから。






















ふにゃ スパッ
論拠 示す

(丁寧or慎重な説明)


(よくある説明)
示さない

(@常識の手柄)
△※

(古典or思いつき)



※思いつきなら思いつきで、ふにゃふにゃしておれば良いのに、思いつきを根拠に相手に「黙れ」と怒鳴りつけるなどルール違反もいいところ。




当ブログのコメント欄 より
あなたの文章を拝読するたび、彼女と波長が合うのだと思わされます。
それは人間が矛盾しあう2つの感情が持っているように
それらを整理することなくそのまま出力するとでもいいましょうか。
ただ、私ははその後、自分の中で考えを整理することが
議論においては大切であると考えているのですけれど。
そこが議論と雑談の違いですね。

私は教員であろうと塾講師であろうと
根源に流れるものは共通であると考えております。
そういう意味では同じ教壇に立つ者同士
今後も率直に意見をいただけると嬉しく思います。
反論したからといって抵抗勢力などと見なすことなどありませんし
何より率直に意見を言い合えない友人など寂しすぎるではありませんか。
もちろん、私も今後も引き続き率直に意見させていただきます。
あなたに対する賛同も批判も全て含めて。
2008-11-18 : Psyche URL : edit


コメントをありがとうございます。

世の中には、「議論」というと、とかく自分の意見を絶対に曲げず、相手を弁論でねじ伏せる、という風に、いわば「ディベート」と同じ意味に解釈される方がおりますが、私はそれはちょっと違うと思うのですね。
このブログではだから「議論」というややこしい言葉を避けて「対話」と言い直しているのは、その手の誤解を回避するためです。

要するに、自分の直観を信じてそれを言葉に練り直す過程、そして、相手から繰り出される言葉から刺激を受けて自分の直観が変容していく過程、この2つを内包するものを私は議論ないし対話と呼びたい。


ところで、私はたぶん教壇に立つ者ではありませんよ。
教師のブログによくコメントしているのでそう思われるのも無理はありませんが、私はたぶん教壇に立つ者ではありません。

でも、私がそのことをカミングアウトすることは少しもPsycheさんと議論をする土俵を崩すものではないと考えています。
私は昔から塾や学校で教えてきましたし、教育に関する私見をマスメディアに掲載していただいたこともありましたし、教育学が専門の方と本格的に議論したこともたびたびありましたし、井の中の蛙の可能性もありますが、教育に関してずっと考えてきた者です。

私が最近考えていることは、誰が教育する資格があるのか、ということです。
例えば、偉そうに教育に関する論議の上にふんぞり返っている我が身を思うとき、果たして私は、人のことを心配するよりも前に自分のことを心配するべきではないのかと言う念に駆られる時があります。

それはちょうど、中年を通り越して老境に至ろうとしている、人生を一応はある程度は経験したぞという自信を得た者が、いままで教育についてほとんど考えたことが無かったくせに、いきなり「日本の教育はこうあるべきだ」なんていう言辞を垂れるさまをあわれむ私の心と、重なるものがあります。

要は、「最近の若者はなっとらん」という意味のことを、「日本の教育はこうあるべきだ」という形式で弄しているに過ぎないわけですね。
こういうことを、社会的影響力のある大人がなすことの功罪については、ここでは控えますが、重要なことは、「では、お前はどれほど『なっている』のか」ということですね。

この世の中に、「私には教育する権利がある」と言い張れるほど完全な人間はいないと思いますし、何が完全かを示すことができると言い張れるほどに何が完全であるかを熟知している人間もまたほとんどいないような気がします。

それでも、人は教育し、教育され、それは一応の効果を上げているように思われるのはなんでなのか。
これからもいろいろ考えていきたいと思います。
忘却の破片 より
2008/11/10(月) 00:38:23
heisanさん

ほりさんは自分の考えに共感しない人に対して
「自分より頭が悪いから理解できない」と解釈をされる方です。
しかしそれでは考え方が独りよがりになってしまい
合理化することにより自己防衛しているものと思います

そういった意味では仲間内で馴れ合うのではなく
率直に意見を述べることができるあなたの姿勢に大変共感しております。
それこそが真の友人と言えましょう。
壁にぶつかってこそ人は成長するものですから。
彼女にとって、あなたが真の友人であることに気付いていただけるとよいですね。

悲痛の極み
>悲痛の極み
率直に意見を言い合える者同士こそ真の友人。
これは現代に限らずいつの時代も同じことです。
心配しながらも自分の意見を伝えようとしたあなたの姿勢に
私は深い敬意を払います。


psycheさん、労いの言葉をありがとうございます。

実は最初、少しためらったのですよ。
私は、そういう励ましの言葉を頂けることを期待して、psycheさんのブログにコメントするんじゃないかと。
或いはまた、そういうコメントをすることによって、ほりさんの側から「抵抗勢力」と一まとめにされてしまうかもしれないことに関する懸念もありました。
私のコメントが削除される理由と、ほりさんがpsycheさんにコメントするなと言う理由は、必ずしも同じでないと思うからです。

或いはまた、それは、久々に味わったこの種の孤独を自分一人で噛みしめるだけの、私の度胸のなさを表しているのかもしれません。


今回のほりさんとの遣り取りの結末は、事実上のコメント禁止という、ある意味ありふれたものなのですが、そこに至るに至った過程については、珍しいものがあると私は感じています。

ほりさんは、これまで、私のほとんどどのようなコメントに対しても、お返事をくださる方でありました。
私は、それはほりさんがとても誠実だからだと思っていました。
しかし、実際のところは少し違っていたようです。

ほりさんは、詮ずるところ、コメントのお返事を返さないということができない人でありました。
このほりさんの(ある意味誠実すぎる、ある意味子ども過ぎる)性格が、現在の、私とほりさんとの確執をもたらしめているように思います。
普通は、仕事などで忙しくてコメントする時間がなければ、コメントしないものです。
また、ある種のコメントには返信しないという姿勢を貫くことによって、ブログ運営の手間を低減させているところもたくさんあると思います。
コメントがなければ、相手も「ああ、忙しいんだな」とか、「返信しないタイプのコメントに相当したのかな」と察するでしょう。
或いは、「いま忙しいので返事できない。時間があるときにまた書こうと思う」とか、「あなたがされるコメントは私にとって理解することが難しいので、理解するための時間がほしい」という一言コメントがあれば、なお誠実でしょう。

しかし、ほりさんは、それができない方でありました。
自分のブログの記事にコメントが付くと、どんなに仕事が忙しくても、コメントへの返信のほうを優先してしまうくらい、過度に誠実なお方でありました。
別の言い方をすれば、私は、「どの程度までならほりさんが憤慨するほどの負担にならないか」を正確に推し量ることができるほど「大人」ではありませんでした。

コメントを見ると返事してしまう。
そのコメントする行為自体は結構おもしろいものだ。
しかし結果として、仕事の時間が奪われてしまう。

こういうループを何度も繰り返した結果、ほりさんは、仕事の時間を確保するために、「(特にコメントへの返信に時間がかかる)私に対する返信行為を拒否する」という、ほりさんなりの断行をされたのだと思います。

もっとも、私にコメントする行為自体に、おもしろさを感じなくなってしまった、ということもあるかもしれません。
自慢になってしまって恐縮ですが、これでもは、初期の頃はかなりおもしろがってもらえていたのですよ。
(※私の書く内容が経年劣化しているのかも(笑)。初期の頃というのは、あまり信頼関係が構築されていませんから、1つコメントする場合のハードルが高いのですね。よっぽどの自信がないとコメントするという行為に至らない。ところが信頼関係が構築されてくると、だんだんと、どうでもよいことまでコメントするようになってくる。こういった傾向が、ほりさんの負担を高めた可能性は否めません。)
「結局、ほりさんにとって、私はお笑い芸人であり、ほりさんを面白がらせることができなくなればその場で切り捨てご免」という対応だったということ風に考えることもできます。邪推ですが。


また、結果として私は、ほりさんにメッセージを交換する手段のみならず、ほりさんのブログに定期的に来訪する方々と気軽にコミュニケーションする手段をも奪われているという側面もあります。
これはこれでつらいことです。


私は最初、コメントを削除されたとき、今後どう対応したら良いかに悩みました。
すなわち、削除されることが分かっていてもコメントを続けるべきかどうかです。

ほりさんの、私のコメントを削除するときの気分が、「荒らし」や「巡回ロボットによるコメント」を削除するときの気分と同等のものであるのならば、私はコメントを続けるべきかなと思いました。
しかしながら、そうではなく、ほりさん自身が罪悪感を全身で感じながら、断腸の思いで削除されているのだとしたら、私がコメントを続けるということは、残酷以外のなにものでもないわけです。

このどちらであるのかを正確に判定する能力を私は持ちません。
だから私は、ほりさんが気づいてくれることを期待することによるプラスよりも、ほりさん自身に罪悪感を与え続けるということのマイナスを回避するという選択を、刻下のところ、しているのです。

私は現在、ある意味、ほりさんから「特別扱い」を受けています。
ただ、これが「優遇」なのか「冷遇」なのかは、解釈の余地があると私は考えたい。

私はこれが「優遇」であると信じて、すなわち、「ほりさん自身、私のコメントを削除する際には、断腸の思いで削除されているのだ」ということを信じて、さしあたってはお待ち申し上げるよりほか、いまのところ私に有効な選択肢はないように思えます。

psycheさん、あなたのおかげで私は自分の気持ちを整理することができました。
このような私のたわごとに付き合って頂き、改めて謝意を表したいと思います。
ありがとうございます。





おまけ:

拝啓 この手紙 読んでいるあなたは
どこで 何をして いるのだろう~

(中略)

拝啓 この手紙 読んでいるあなたが
幸せなことを 願います~

(アンジェラアキ作詞作曲「手紙」より)







追記:
「このどちらであるのかを正確に判定(断定)する能力を私は持ちません。」と書きましたが、ほりさんは私のコメントは削除なさるが、私が送ったトラックバックまでは削除なさらないようです。ありがたいことに。
このことは、ほりさんが、私のトラックバックを、明らかな荒らしや巡回ロボットが送信するトラックバックとは区別されていることをあらわしているでしょう。
したがたって、後者の可能性のほうが、また一つ高いことになります。
私の最終的な判断は、それほど間違っていなかったということでしょうか。
いずれにせよ、「嬉しい発見」です。