基礎体力ということについて考えている。基礎体力がないと、ちょっと動いただけで疲れてしまう。基礎体力がなくても死にはしないが、あったほうが世界は広がる。
同じ事は基礎体力の比喩的な解釈についても言える。多彩な語学力があれば、海外で書かれた文献を読めるので、世界が広がる。しかし無くても死にはしない。数学的な物の見方も、できなくても死にはしないが、できたほうが世界が広がる。
こう考えてみると、なんでもかんでも基礎体力ということにしてしまえるような気がするが、そうではない。私の言う基礎体力がなにかということを考えてみるに、たぶんそれは、「日々の積み重ねのみがものを言う能力」全般を指しているのだと思う。
同じ事は基礎体力の比喩的な解釈についても言える。多彩な語学力があれば、海外で書かれた文献を読めるので、世界が広がる。しかし無くても死にはしない。数学的な物の見方も、できなくても死にはしないが、できたほうが世界が広がる。
こう考えてみると、なんでもかんでも基礎体力ということにしてしまえるような気がするが、そうではない。私の言う基礎体力がなにかということを考えてみるに、たぶんそれは、「日々の積み重ねのみがものを言う能力」全般を指しているのだと思う。
数学は積み重ねの学問であるとよく言われるが、体育だって同じ事である。普段から運動していない者がいきなり自転車で日本一周しろと言われてもできないだろう。体育は数学と同じで、積み重ねの体系なのである。
国語や語学も積み重ねである。園児が「私の名前は○○です。」と名乗ることを教わる前に、「杳として知れない」などという物言いができるようになるということは考えにくい。
しかし、積み重ねの体系であるということから、「早めに身につけておかないとあとで取り返しがつきにくい」ということが、ただちに演繹されるわけではない。論理的に言えば、いかに積み重ねの体系であったとしても、始めたいときに始めたいところから始めればそれでいいわけであるから。
体育や国語や語学や数学に代表されるような、「早めに身につけておかないとあとで取り返しがつきにくい」と言われる一連の事柄に共通することは、それが積み重ねの体系であるということ以外にも、もっと本質的な要素があるように思われる。それは何か?
なぜこれらの事柄は、年老いてからでは身に付きにくいのであろうか。これを年老いてから学ぶことにはどのような苦痛が伴うのであろうか。またその苦痛は、若かりし日々であったならばなぜそれほど苦痛ではないのだろうか。
サラの20歳とサラの50歳が、同時にアラビア語教室に入ったとして、同じ教室で同じように教わったときに、一方において、どういうことが、具体的に苦痛たりえてくるのであろうか。
単に「物覚えが悪い」とか、そういうことを超えた苦痛が存在するような気がするのだ。
人間の赤ん坊に対して、その赤ん坊の前では一切言葉を口にしないということを周りの大人たちがずっと5年間くらい敢行したら、でも表情などのノンバーバルコミュニケーションは欠かさないことにしたら、どういう人格の子どもができるのだろうか?
逆に言うと、なぜ国語や算数に比べると、理科や社会は、“まだ”年老いてからでも学習可能なのだろうか?
たぶんだけど、〈基礎体力〉的なことをたたき込まれてるときというのは、Aを見たときにただちにBを連想してしまうようなとき、この「A→B」を、すでに社会の側に存在している既成の体系を再構成するような連想の在り方「A→B’」に書き換えるということが〈基礎体力〉の単位だと思うんですよ。
連想の在り方を書き換えるというのが、〈基礎体力〉の養成にとって本質的に重要なことです。そして、より俯瞰的な視点で見たときに、どういう連想の在り方が、より長く人間を楽しませてやまないようなものを導くかということが分かっていると、既存の体系に貢献することすらできるでしょう。
問題は、この連想の在り方が書き換わり得るかというところです。すでに自分の内部にある「A→B」という連想の接続が、「A→B’」という接続に切り替わり得るかということです。
先生にAを見せられて、Bです、と答えると、いいえ違います、B’です、と言われる。慌てて訂正して、そうだ、B’なのだとそのときは理解する。しかししばらく経ってからAをみると、またBを連想してしまっている。そういう経験はないだろうか。
幼児の場合、その経験の少なさゆえに、幼児の内部に構成されている連結体系の信頼性が低い。だから、連結体系の書き換えは容易。だが老人の場合、なまじ「俺はこれまでコレでやってこれた」という自信のようなものが構成されているために、書き換えに対して慎重になる。
A→Bだと思っていて、先生から、いや正解はA→B’だと言われたときに、幼児なら「ふーん」ですぐに連結体系が書き換わるが、中学生or高校生くらい以降は、なぜA→Bではダメなのか、が納得されていないと、書き換わることが少ない。
高校数学などで、公式だけ覚えてもすぐに忘れてしまうが、自分で公式を導いていると忘れにくいのは、一度公式を導くという体験が、その公式の生活上の有効性を強化してくれるからにほかならない。人間の無意識は意外と現金である。
連結体系の書き換えは、「何を自然と感じ、何を不自然と感じるか」の書き換えでもある。はじめはA→Bで納得していても、習熟度があがってA→B’を自然だと思えるようになると、「A→B’だろJK」と言っている自分がいて、「A→BだJK」と思っていた頃の自分を忘れている。
A→Bのときに「A→B’でなければならない必然性」に直観が及ぶということが本質的に重要で、これはアハ体験などとも関連する事項であるとも思える。ただ、アハ体験のように高度に自覚的である現象であるとは必ずしも限らない。
幼児は、「何が自然であり、何が自然でないか」の体系がころころ変わる。それに対して、老人はあまり変わらない。老人に対して、「これを自然と思いなさい」と指導したとして、老人がものすごく努力したとき、その老人はなにを見るであろうか。
何が自然で何が自然でないかの感覚を養うことが〈基礎体力〉の本質である。
では、どういうことを自然だと思えることが、「よい」のであろうか。たぶんそれは一つではないと思う。複数のことを自然だと思えるという可能性が残されている。A→B’を自然だと感じるようになってもなお、A→Bを自然だと思っていたときの感覚を忘却しないということも不可能ではない。
連想の体系の自然さというのは、価値観を構成する。「A→BだろJK」を価値観αとし、「A→B’だJK」を価値観βとすると、価値観αと価値観βは対立するし、αの人とβの人はそのままでは分かり合えない。
しかし、αの人も「もしβの連想接続を認めたとすると…」というふうに、仮定のもとでその自分にとっては未知&無価値の連想接続の有り様を体験するというのは、無意味なことではあるまい。そしてこのことだけが「心を豊かにする」というような気もまたする。
分からないけれど、私は、本に書いてあることが分からないと思ったときにはいつも、「これを書いた本人は分かっている、分かっている人間が少なくとも一人はいる、その人間の心情とはいったいどのようなものか」ということを考えることをほとんど信条にしてきたし、それは今のところ奏功している。
「A→B」の時に「A→B’」を身につけなければならない生活上の理由があった際には、単に「A→B’」のメリットを考えるのではなく、「A→B’JK」だと思っている人間が少なくとも1人はいるということを考えたほうが、身に付く確率は結果的に上がるといことを経験的に知っているからだ。
たぶんこれは、そういう人間の存在を空想した瞬間から、そういう人間とどないしたら共生・共存できるかというところに思いが至り、そのためには相手の価値観を理解しておかねばならないという必要性がただちに私の無意識において推論されるからであろうと踏んでいるが事実のほどは分からない。
これまで書いてきたことを敷衍すれば、つまり、未知なる他者、自分がこれまで遭遇したことのない価値観を持ち合わせている他者のこころを類推する能力は、年齢とともに確実に衰えていく、ということを、意味する。
若い頃から色んな価値観に触れていると、年老いても、「未知なる他者の数」が減っているために「感情移入可能な他者の数」を或る程度大きいまま維持できるというメリットがある。
ここで色んな価値観に触れるというのは、単に外国人と喋るとか、そういうことだけを指すのではなく、古典に触れることも、数学に触れることも、音楽や美術などの芸術に触れることも、ぜんぶ含めてである。
「これまでに実在した他者」「これまでに実在したことはないけれど、実在することが伝統的に観念されてきた他者」のこころの内側を類推し、その内面を旅するという経路を通じることはすべて、「いろんな価値観に触れる」に含まれる。
〈基礎体力〉が衰えるというのは、なんのことはない、未知なる他人の気持ちになってみる能力が衰えるということを意味しているのだ。
理科や社会が、国語や算数に比べて、“まだ”〈基礎体力〉性が少ないのは、それが学ぶ者の既存の連結体系を書き換えることを要求するものではないというか、その要求性が国語や算数に比べて格段に少ないことに起因する。
既存の連結体系が書き換わることは、ときとして、自分のアイデンティティが脅かされているような感じがして、若い者であっても、明確な拒否反応を示すことが少なくない。だが、まさにその体験の苦痛性こそが、〈基礎体力〉が身に付くことを困難ならしめている最大の原因でもあるのである。
国語や語学も積み重ねである。園児が「私の名前は○○です。」と名乗ることを教わる前に、「杳として知れない」などという物言いができるようになるということは考えにくい。
しかし、積み重ねの体系であるということから、「早めに身につけておかないとあとで取り返しがつきにくい」ということが、ただちに演繹されるわけではない。論理的に言えば、いかに積み重ねの体系であったとしても、始めたいときに始めたいところから始めればそれでいいわけであるから。
体育や国語や語学や数学に代表されるような、「早めに身につけておかないとあとで取り返しがつきにくい」と言われる一連の事柄に共通することは、それが積み重ねの体系であるということ以外にも、もっと本質的な要素があるように思われる。それは何か?
なぜこれらの事柄は、年老いてからでは身に付きにくいのであろうか。これを年老いてから学ぶことにはどのような苦痛が伴うのであろうか。またその苦痛は、若かりし日々であったならばなぜそれほど苦痛ではないのだろうか。
サラの20歳とサラの50歳が、同時にアラビア語教室に入ったとして、同じ教室で同じように教わったときに、一方において、どういうことが、具体的に苦痛たりえてくるのであろうか。
単に「物覚えが悪い」とか、そういうことを超えた苦痛が存在するような気がするのだ。
人間の赤ん坊に対して、その赤ん坊の前では一切言葉を口にしないということを周りの大人たちがずっと5年間くらい敢行したら、でも表情などのノンバーバルコミュニケーションは欠かさないことにしたら、どういう人格の子どもができるのだろうか?
逆に言うと、なぜ国語や算数に比べると、理科や社会は、“まだ”年老いてからでも学習可能なのだろうか?
たぶんだけど、〈基礎体力〉的なことをたたき込まれてるときというのは、Aを見たときにただちにBを連想してしまうようなとき、この「A→B」を、すでに社会の側に存在している既成の体系を再構成するような連想の在り方「A→B’」に書き換えるということが〈基礎体力〉の単位だと思うんですよ。
連想の在り方を書き換えるというのが、〈基礎体力〉の養成にとって本質的に重要なことです。そして、より俯瞰的な視点で見たときに、どういう連想の在り方が、より長く人間を楽しませてやまないようなものを導くかということが分かっていると、既存の体系に貢献することすらできるでしょう。
問題は、この連想の在り方が書き換わり得るかというところです。すでに自分の内部にある「A→B」という連想の接続が、「A→B’」という接続に切り替わり得るかということです。
先生にAを見せられて、Bです、と答えると、いいえ違います、B’です、と言われる。慌てて訂正して、そうだ、B’なのだとそのときは理解する。しかししばらく経ってからAをみると、またBを連想してしまっている。そういう経験はないだろうか。
幼児の場合、その経験の少なさゆえに、幼児の内部に構成されている連結体系の信頼性が低い。だから、連結体系の書き換えは容易。だが老人の場合、なまじ「俺はこれまでコレでやってこれた」という自信のようなものが構成されているために、書き換えに対して慎重になる。
A→Bだと思っていて、先生から、いや正解はA→B’だと言われたときに、幼児なら「ふーん」ですぐに連結体系が書き換わるが、中学生or高校生くらい以降は、なぜA→Bではダメなのか、が納得されていないと、書き換わることが少ない。
高校数学などで、公式だけ覚えてもすぐに忘れてしまうが、自分で公式を導いていると忘れにくいのは、一度公式を導くという体験が、その公式の生活上の有効性を強化してくれるからにほかならない。人間の無意識は意外と現金である。
連結体系の書き換えは、「何を自然と感じ、何を不自然と感じるか」の書き換えでもある。はじめはA→Bで納得していても、習熟度があがってA→B’を自然だと思えるようになると、「A→B’だろJK」と言っている自分がいて、「A→BだJK」と思っていた頃の自分を忘れている。
A→Bのときに「A→B’でなければならない必然性」に直観が及ぶということが本質的に重要で、これはアハ体験などとも関連する事項であるとも思える。ただ、アハ体験のように高度に自覚的である現象であるとは必ずしも限らない。
幼児は、「何が自然であり、何が自然でないか」の体系がころころ変わる。それに対して、老人はあまり変わらない。老人に対して、「これを自然と思いなさい」と指導したとして、老人がものすごく努力したとき、その老人はなにを見るであろうか。
何が自然で何が自然でないかの感覚を養うことが〈基礎体力〉の本質である。
では、どういうことを自然だと思えることが、「よい」のであろうか。たぶんそれは一つではないと思う。複数のことを自然だと思えるという可能性が残されている。A→B’を自然だと感じるようになってもなお、A→Bを自然だと思っていたときの感覚を忘却しないということも不可能ではない。
連想の体系の自然さというのは、価値観を構成する。「A→BだろJK」を価値観αとし、「A→B’だJK」を価値観βとすると、価値観αと価値観βは対立するし、αの人とβの人はそのままでは分かり合えない。
しかし、αの人も「もしβの連想接続を認めたとすると…」というふうに、仮定のもとでその自分にとっては未知&無価値の連想接続の有り様を体験するというのは、無意味なことではあるまい。そしてこのことだけが「心を豊かにする」というような気もまたする。
分からないけれど、私は、本に書いてあることが分からないと思ったときにはいつも、「これを書いた本人は分かっている、分かっている人間が少なくとも一人はいる、その人間の心情とはいったいどのようなものか」ということを考えることをほとんど信条にしてきたし、それは今のところ奏功している。
「A→B」の時に「A→B’」を身につけなければならない生活上の理由があった際には、単に「A→B’」のメリットを考えるのではなく、「A→B’JK」だと思っている人間が少なくとも1人はいるということを考えたほうが、身に付く確率は結果的に上がるといことを経験的に知っているからだ。
たぶんこれは、そういう人間の存在を空想した瞬間から、そういう人間とどないしたら共生・共存できるかというところに思いが至り、そのためには相手の価値観を理解しておかねばならないという必要性がただちに私の無意識において推論されるからであろうと踏んでいるが事実のほどは分からない。
これまで書いてきたことを敷衍すれば、つまり、未知なる他者、自分がこれまで遭遇したことのない価値観を持ち合わせている他者のこころを類推する能力は、年齢とともに確実に衰えていく、ということを、意味する。
若い頃から色んな価値観に触れていると、年老いても、「未知なる他者の数」が減っているために「感情移入可能な他者の数」を或る程度大きいまま維持できるというメリットがある。
ここで色んな価値観に触れるというのは、単に外国人と喋るとか、そういうことだけを指すのではなく、古典に触れることも、数学に触れることも、音楽や美術などの芸術に触れることも、ぜんぶ含めてである。
「これまでに実在した他者」「これまでに実在したことはないけれど、実在することが伝統的に観念されてきた他者」のこころの内側を類推し、その内面を旅するという経路を通じることはすべて、「いろんな価値観に触れる」に含まれる。
〈基礎体力〉が衰えるというのは、なんのことはない、未知なる他人の気持ちになってみる能力が衰えるということを意味しているのだ。
理科や社会が、国語や算数に比べて、“まだ”〈基礎体力〉性が少ないのは、それが学ぶ者の既存の連結体系を書き換えることを要求するものではないというか、その要求性が国語や算数に比べて格段に少ないことに起因する。
既存の連結体系が書き換わることは、ときとして、自分のアイデンティティが脅かされているような感じがして、若い者であっても、明確な拒否反応を示すことが少なくない。だが、まさにその体験の苦痛性こそが、〈基礎体力〉が身に付くことを困難ならしめている最大の原因でもあるのである。
この記事へのコメント
お久しぶりです
何が自然で何が自然でないかの感覚を「養う」というのが曖昧で僕にはわかりにくいです
世の中のものを自然、不自然と判断できる基準を強固にするというのではなく、自然と思える感応性を広げていくといったような意味にとれたのですが・・合っているのでしょうか
「既存の連結体系が書き換わることは、ときとして、自分のアイデンティティが脅かされてい」て、苦痛だからこそ、A→BではなくA→B’だと言われた時に、何故ですか?と(僕は周りの人間に対して)根拠を問うわけですね
痛いのはいやだから、できれば変えなくとも済むように
だから人を殺してはいけない、みたいな論理的だと感じられる根拠を示せないように思われる道徳は、まだアイデンティティが確立されておらず、したがってAが存在しない、書き換えられる苦痛を感じない時でないと納得されないことになるんでしょうか
直感的に自然である様に思われるといえば、論理的であるってのも道徳と同様に例としてあげられる気がします。
う~ん、寝不足なので、考えがうまくまとまりません。思考の基底にあるかなり本質的なところを考察しているみたいなので、面白そうなんですけどね
あと、
「〈基礎体力〉的なことをたたき込まれてるときというのは、Aを見たときにただちにBを連想してしまうようなとき、この「A→B」を、すでに社会の側に存在している既成の体系を再構成するような連想の在り方「A→B’」に書き換えるということが〈基礎体力〉の単位だと思うんですよ。」
という文章が、うまくつながっていないように思われるのですが・・・
何が自然で何が自然でないかの感覚を「養う」というのが曖昧で僕にはわかりにくいです
世の中のものを自然、不自然と判断できる基準を強固にするというのではなく、自然と思える感応性を広げていくといったような意味にとれたのですが・・合っているのでしょうか
「既存の連結体系が書き換わることは、ときとして、自分のアイデンティティが脅かされてい」て、苦痛だからこそ、A→BではなくA→B’だと言われた時に、何故ですか?と(僕は周りの人間に対して)根拠を問うわけですね
痛いのはいやだから、できれば変えなくとも済むように
だから人を殺してはいけない、みたいな論理的だと感じられる根拠を示せないように思われる道徳は、まだアイデンティティが確立されておらず、したがってAが存在しない、書き換えられる苦痛を感じない時でないと納得されないことになるんでしょうか
直感的に自然である様に思われるといえば、論理的であるってのも道徳と同様に例としてあげられる気がします。
う~ん、寝不足なので、考えがうまくまとまりません。思考の基底にあるかなり本質的なところを考察しているみたいなので、面白そうなんですけどね
あと、
「〈基礎体力〉的なことをたたき込まれてるときというのは、Aを見たときにただちにBを連想してしまうようなとき、この「A→B」を、すでに社会の側に存在している既成の体系を再構成するような連想の在り方「A→B’」に書き換えるということが〈基礎体力〉の単位だと思うんですよ。」
という文章が、うまくつながっていないように思われるのですが・・・
2009/08/17(月) 15:10 | URL | 悠崎 #wjF23NZ2[ 編集]
お久しぶりです。
> 世の中のものを自然、不自然と判断できる基準を強固にするというのではなく、自然と思える感応性を広げていくといったような意味にとれたのですが・・合っているのでしょうか
たぶん違うと思います。
確かに、老成円熟すればするほど、世の中の物事に対して、自然と思える部分が増えていく、というようなことは、あると思いますし、なぜそのようなことが起こるのかということは、一つの壮大なテーマで有り得ますが、私がこのentryで言っているのは、そういうこととは少し違うのですね。もうちょっと「ちゃちな」話をしています。
> だから人を殺してはいけない、みたいな論理的だと感じられる根拠を示せないように思われる道徳は、まだアイデンティティが確立されておらず、したがってAが存在しない、書き換えられる苦痛を感じない時でないと納得されないことになるんでしょうか
>
?
> 直感的に自然である様に思われるといえば、論理的であるってのも道徳と同様に例としてあげられる気がします。
例として挙げることは、「或る既存の知識体系」に相当するものであればたぶんなんでも大丈夫です。
(それが「道徳で言われていること」であろうが、「論理的である、という言葉とともに語られがちなこと」であろうが)
> 「既存の連結体系が書き換わることは、ときとして、自分のアイデンティティが脅かされてい」て、苦痛だからこそ、A→BではなくA→B’だと言われた時に、何故ですか?と(僕は周りの人間に対して)根拠を問うわけですね
> 痛いのはいやだから、できれば変えなくとも済むように
物事に対して疑問を持つ理由がそういう理由であることは往々にしてあります。
がしかし、全ての疑問がそういう理由に端を発したものであるかというと、そうではないと思っています。
「自然と思える」ということは、その人自身に「安心」を供給しまます。そういう意味では、A→B'だと言われたときにとっさに「なんで?」と発するのは、「不安の回避」を目的とした行動であるというふうに理解することもできます。
「信頼」の反対は「不信」ではなく「不安」だというような話があります。
その文脈で言えば、「人に対する安心」を私たちは「信頼」と呼び習わし、もっと広い対象に対する安心を私たちは、ただ「安心」と呼び習わすのかもしれません。
(「信頼」は「安心」の真部分集合だということ)
> 思考の基底にあるかなり本質的なところを考察しているみたいなので、面白そうなんですけどね
私としてはそのつもりです。思考の基底のみならず、広く感受性の基底を問うようなことをしている感があります。
> 「〈基礎体力〉的なことをたたき込まれてるときというのは、Aを見たときにただちにBを連想してしまうようなとき、この「A→B」を、すでに社会の側に存在している既成の体系を再構成するような連想の在り方「A→B’」に書き換えるということが〈基礎体力〉の単位だと思うんですよ。」
> という文章が、うまくつながっていないように思われるのですが・・・
「再構成」と言うより「再現」と言ったほうがいいかもしれません。
要するに、一からそれを作り上げられるか、ということです。
それも、丸暗記したものを再現するのではなく、論理的な演繹と帰納と連想の過程を通じて再現できるか、ということです。
それができるようになったとき、技術なり知識なり知恵なり術なりを修得した、体得した、と言うのだろうと思います。
> 世の中のものを自然、不自然と判断できる基準を強固にするというのではなく、自然と思える感応性を広げていくといったような意味にとれたのですが・・合っているのでしょうか
たぶん違うと思います。
確かに、老成円熟すればするほど、世の中の物事に対して、自然と思える部分が増えていく、というようなことは、あると思いますし、なぜそのようなことが起こるのかということは、一つの壮大なテーマで有り得ますが、私がこのentryで言っているのは、そういうこととは少し違うのですね。もうちょっと「ちゃちな」話をしています。
> だから人を殺してはいけない、みたいな論理的だと感じられる根拠を示せないように思われる道徳は、まだアイデンティティが確立されておらず、したがってAが存在しない、書き換えられる苦痛を感じない時でないと納得されないことになるんでしょうか
>
?
> 直感的に自然である様に思われるといえば、論理的であるってのも道徳と同様に例としてあげられる気がします。
例として挙げることは、「或る既存の知識体系」に相当するものであればたぶんなんでも大丈夫です。
(それが「道徳で言われていること」であろうが、「論理的である、という言葉とともに語られがちなこと」であろうが)
> 「既存の連結体系が書き換わることは、ときとして、自分のアイデンティティが脅かされてい」て、苦痛だからこそ、A→BではなくA→B’だと言われた時に、何故ですか?と(僕は周りの人間に対して)根拠を問うわけですね
> 痛いのはいやだから、できれば変えなくとも済むように
物事に対して疑問を持つ理由がそういう理由であることは往々にしてあります。
がしかし、全ての疑問がそういう理由に端を発したものであるかというと、そうではないと思っています。
「自然と思える」ということは、その人自身に「安心」を供給しまます。そういう意味では、A→B'だと言われたときにとっさに「なんで?」と発するのは、「不安の回避」を目的とした行動であるというふうに理解することもできます。
「信頼」の反対は「不信」ではなく「不安」だというような話があります。
その文脈で言えば、「人に対する安心」を私たちは「信頼」と呼び習わし、もっと広い対象に対する安心を私たちは、ただ「安心」と呼び習わすのかもしれません。
(「信頼」は「安心」の真部分集合だということ)
> 思考の基底にあるかなり本質的なところを考察しているみたいなので、面白そうなんですけどね
私としてはそのつもりです。思考の基底のみならず、広く感受性の基底を問うようなことをしている感があります。
> 「〈基礎体力〉的なことをたたき込まれてるときというのは、Aを見たときにただちにBを連想してしまうようなとき、この「A→B」を、すでに社会の側に存在している既成の体系を再構成するような連想の在り方「A→B’」に書き換えるということが〈基礎体力〉の単位だと思うんですよ。」
> という文章が、うまくつながっていないように思われるのですが・・・
「再構成」と言うより「再現」と言ったほうがいいかもしれません。
要するに、一からそれを作り上げられるか、ということです。
それも、丸暗記したものを再現するのではなく、論理的な演繹と帰納と連想の過程を通じて再現できるか、ということです。
それができるようになったとき、技術なり知識なり知恵なり術なりを修得した、体得した、と言うのだろうと思います。
う~ん・・・
面白い文章を読んでいると、勝手に連想が広がっていって、素直に読めませんね。
なんかheisさんの文章を読んでいるようでいて、実のところ自分の考えを読んでいました。
未だにうまく思考を整理しきれないのですが、
多分コメントを書いていたときには、
論理的な~というのは、直観的に自然だと思われる「連想」のつながりにすぎないのではないか?
帰納や演繹に対して感じる「正しさ」も単に昔、直観的に(無批判に)受け入れられた「自然さ」以上の根拠などもたないのではないか?
みたいなことを更に発散させて考えていたと思います。
考えが発散していると文章を組み立てるのが難しいですね。
精進したいと思います。
面白い文章を読んでいると、勝手に連想が広がっていって、素直に読めませんね。
なんかheisさんの文章を読んでいるようでいて、実のところ自分の考えを読んでいました。
未だにうまく思考を整理しきれないのですが、
多分コメントを書いていたときには、
論理的な~というのは、直観的に自然だと思われる「連想」のつながりにすぎないのではないか?
帰納や演繹に対して感じる「正しさ」も単に昔、直観的に(無批判に)受け入れられた「自然さ」以上の根拠などもたないのではないか?
みたいなことを更に発散させて考えていたと思います。
考えが発散していると文章を組み立てるのが難しいですね。
精進したいと思います。
2009/08/19(水) 20:14 | URL | 悠崎 #wjF23NZ2[ 編集]
お返事ありがとうございます。
頑張ってください。
また、なにか面白いことを思いついたら是非。
頑張ってください。
また、なにか面白いことを思いついたら是非。
2009/08/20(木) 01:16 | URL | heis101(管理人) #QyEQ/AbM[ 編集]
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