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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…

[気になる]博士課程進学の話の続き - b#
おそらく進路を悩む学生さんたちというのは「その間口の狭さについていろいろ噂は聞くけれど実態はどんなもんなんだろう?」と疑問に思っているんじゃないかと思い、書いてみました。博士卒で研究職を目指すことを前提にしているのはそのためです。

研究職(専業研究者)の歴史が100年そこそこで例外的であろうとも、今現在あるわけで、そちらに目がいくのは、まあそういうものなのではないでしょうか。


研究職を目指すのはなにも悪いことじゃないと思います。問題は、研究職に就けなかったら、じゃあどうするの?ってところですね。40になっても50になっても非常勤をずっと続けるようなやり方でやっていて、ほんとうにいいのか?というふうな悩まれ方をするのはごく自然な事じゃないかという問いかけかと思います。

結論から言いますとですね、一生研究職に就けなくてもなんら悔いはないという心理状態をいかにして達成するかというところにこの問題のキモはあるんではないかということです。


最近、「のだめカンタービレ」を読み直しているんですけれども、ご存じですかね、まあ、有名な話なんでまた読んで頂きたいと思うんですけれども、ここで出てくる千秋というオケ指揮者志望の学生がおりますね。千秋は、たまたま日本に来日した、世界的に有名な指揮者であるシュトレーゼマンの指揮するオケの副指揮者になるんですが、彼の、シュトレーゼマンの指揮代行ということをやるんですね。シュトレーゼマンが急に病欠して代わりに振るという。これ、重要だと思うんですよね。
だって、代行っていうのは、本指揮者がピンピンしている間は一切活躍できないんですよ。この、活躍できない間、千秋は何をしていたと思いますか? 本指揮者になれないと駄々をこねて日々を過ごしていたと思いますか? 本指揮者になれないのは日本に、或いは世界中に存在する本指揮者のポストの数が少なすぎることに原因があり、これがもっと増えれば、自分のようなみじめな立場に置かれる人間はもっと少なくなるのに・・・というふうに思考していたと思いますか?
違うんですね。彼は、副指揮者、つまり、本指揮者がピンピンしている間は一切活躍できない立場にありながらも、もし本指揮者に何かがあった場合は、ただちに本指揮者の代わりができる、或いはそれ以上の代わりができるように日々準備しているんです。だから、本番5分前に急遽副指揮者が指揮代行を努めなければいけないような事態になったときに、なんの躊躇もなくその役割を引き受けることができるんです。
ぼくはこれは非常にたいせつなことだと思いました。そして考えました。千秋は、もし、本指揮者がずっとピンピンしたままで、或いは一生、オケを実際に振れる機会が訪れなかったとしたら、彼はそのことを悔やむだろうか?と。
私は悔やまないんではないかと思います。それどころか、自分が代行しなくてもよいほどに本指揮者がピンピンしていることを心から喜ぶんではないかと思うんです。

こういう心的機制と言いますか、自分が社会の側から現に与えられている役割と、或いは近い将来与えられるかもしれない役割といったこの2つを常に念頭において行動できているかどうかと言いますか、或いはまたこの2つは、実質上あまり区別のないものとして自分のなかでは扱って特に差し支えないものであるというような心理状態でいることが最もその人とその人の周りの人々を幸福にすると言いますか、そういうことがね、こんにち、忘却されがちな傾向にあるということは、あるんではないかと、思うんですね。

本番5分前に急遽、事態が180度回転するようなことに見舞われても、なんら不思議に思うことなく、そのことを淡々と引き受けることのできるための能力の涵養ということが、こんにちの教育現場においてね、あるいはまた、家庭教育においてね、あるいはまた、新卒の子を受け容れる会社の側のその子に対する接し方のうちにおいてね、軽視されがちな側面があるんではないかというふうに思います。

世の中のというのは常に、不確定性に充ち満ちておりますよね。だから、よくこう言われる、「明日のことは分からない」と。だからぼくたちは、その分からない明日にいかにして対応するかということに、最も自分たちのリソースを費やすべきだろうと僕は思うんですね。で、そのために必要な、訓練と言いますか修業と言いますか、そういうものはね、結局なんなのかと言いますと、それは、有り得たであろう事態というものを、つねに念頭において行動する、ということではないかと思うんですね。この「念頭において」というのは、頭で考えるというのとはちょっと違って、えー、身体で考えられるようにならないといけない。不測の事態に対応するためにいちいち意識下の知能を働かせている余裕はないのでね。「危ないっ」と思ったら、そう思ったことに気づいたときにはもう身体が逃げる方向に動いてる、みたいな。そういうのが大事だと思うんですよね。

有り得たであろう事態のセットのうちに満足することのできる人は、つまり、あり得なかった事態のセットをも含めて自分の世界だというふうに捉えることのできる人は、決して、実際に生起した事態のみに拘泥してしまうがゆえに行く先を見失ってしまう、ということがないと思うんですね。

有り得たであろう事態のうちのどれか起こるかはね、それはランダムですから、神様がルーレットを回して決めはるんですから、我々のタッチできることではないわけです。本番直前にシュトレーゼマンが倒れるか倒れないか、それは、自分には分からないわけですね。もし、予想に反して倒れて、急遽自分が振らないといけないことになることが本番5分前に確定してしまった場合にね、どうやったら、「あ、いつもはの目やけど今日はの目がでたな。ははは。神様も粋なことしよんなあ。よっこらしょっと」というくらいの気持ちでいけるか、というところなんです。


前々回のエントリーで、小説家や数学者はいいけど、実験研究者はどうするんだ?という意見がありまして、それに対してまだ全面的に回答できてなかったように思いますので、この場を借りまして併せて回答申し上げたいと思いますが、これも同じですね。例えば、ある国家的な規模のプロジェクトがありまして、そのプロジェクトの一員になれると100億円の研究機器が自由に使えると。そしたら何、プロジェクトの一員になれるかどうかで自分の実験研究者としての人生は決まってしまう? 狂わされてしまう? ちゃうちゃう。プロジェクトの一員になれなかったら、もし空きができたときにはいつでも対応できまっせというだけの能力の涵養に励んでいればいいだけのことではないんですか? それでね、もし、いつまで待ってもスカウトがこなかったら、こう思ってやればいんじゃないですか。
「世の中の人たちは、この私の能力を十分に生かし切ることができないなんて、なんて哀れな人たちだろう。こんなにも不憫な人たちを、ぼくは見捨てておくわけにはいかないよ。どうすれば、彼らの不憫さを少しでも取り払ってあげられるだろうか。」
あるいは
「世の中の人たちは、この私の手をわずらわせることすらなく問題を解決することができるほどに成熟している。私はそのことに素直に敬意を表したい。感謝したい。ありがたくうけとめたい。」

少々脱線:こういうふうに思考できる人が本国に少ないのは、本国の子どもたちの自尊心が、他国の子どもたちのそれに比べて著しく低いことが原因の一つとしてあるのではないかというふうに思いますね。えー注意してほしいのは、この際だから言いますけれども、自尊心とプライドは違うということですね。プライドってのは、俺はすごいけどお前らはすごくないっていう心の構えのことであり、自尊心っていうのは、俺もすごいけどお前らもすごいよっていう心の構えのことなんだよね。自分を大切にすることのできない人が、他人を大切にすることができますか? 自分をすごいって思えない人が、他人をすごいって思うことができますか? すごいっていうのは、ついこの間も内田先生がおっしゃってましたけれども、「あれれ、どうして俺にこんなこと分かっちゃうんだろ。俺って天才?」みたいな現象に遭遇して、そのことに感動することを指すわけですね。分からないことの数だけ分かることの数もある、といいますか。分かることが増えてくると分からないことも増えてくる、の別表現ですね。私たちが意識的に捉えることのできる世界というのは、きわめて限られた、限定された世界です。その窓を通してのぞき見ることのできる、自分や、自分の周りの人たち、というのもまた、部分に過ぎない可能性が大いにあるわけです。虚構にすぎない可能性が大いにあるわけですね。それでその人の全体を捉えたことにはならない。それだけでその人の価値を査定してしまうにはあまりに忍びない。私たち人間には、もっと、私たちの知らない、さまざまな能力が、やどっている、ひそんでいる、というふうに考えたほうが、お互い精神的に、結果的にラクになるんじゃありませんか?
でも、なかなか難しいんだよね。日本では、ちょっとでも俺すごいっていうと叩かれまくるから。「滅私奉公」ですから。「滅私」ですから。日本人の自尊心というのはこのようにして、長い歳月を掛けて削り取られ続けてきたのかしら? 思うんだけど、滅私ってさ、要は、父権制において、父以外の人間が我を張ることのないように、父以外の人間の我を殺すためのシステムだったんじゃないかな。会社でもそうね。社長以外の人間が我を張ることのないように、社長以外の人間の我を殺すためのシステムが「滅私」。
平たく言えばね、誤解を恐れずに言えばね、いまは、或いは近い将来は、一億総社長時代ですよ。一億総父時代ですよ。でもね、こういっちゃうと、例えば、フェミニズムに関連する問題であるとか、つまり、あれですね、この話の一等最初に、「女性研究者に向けた、何々」というふうにありましたけれども、女性と男性の役割分担というのをどのように捉えるのが望ましいか、という問題ですね。ぼくがいままでしてきた話というのは、この役割分担をとりあえずはしなくていい、意識しなくていいという前提で話してるんです。だからその点においては無理がある。実際には役割分担は「必」「要」だからね。だからそのことを、私がしている話の適用範囲に関する限界を認知した上で、聴いていただければなあと思います。


そのように思考した結果としての行動が、たとえば、プロジェクトとは全然関係のない仕事への従事だったとしても、それはそれでいいんじゃないんですか。だって、その行動は、「彼らから不憫さが払拭された暁にはともすれば自分はプロジェクトの一員になれるかもしれない」という嬉しい未来に向かうための第一歩としての行動なのですから。

え? 研究職に従事しているというキャリアを積んでるか積んでないかが査定で大きく響くって? その間研究できなくて論文数が稼げないって? だーかーらー、なんでそうミーハーなんですか。研究者のくせに。ちっとは自分で考えてください 研究者なんだったら!(苦笑)

(ここまで言ったら考えてくれるかなー どうかなぁー ・・・。というか、あなたがたが考えてくれないと、研究者は考えてない、研究者はバカだってことが知られてしまうじゃん(笑)。
いや、それでいいという人もいるかもしれないんだけどさ、一応、ほら、「大学」じゃん。「けんきゅーきかん」じゃん。そういう、「社会の側から付与された役割に関する意識をもっとちゃんと持たないと」と思う人がいなくなってしまうと、なし崩し的にほかの組織にも影響が波及しちゃって、将棋倒し的にいまの私たちの住んでるところの全体がアナーキー化してしまうおそれがあるわけでして、ぼくとしてはそういうのはヤだなあと思うわけでして。)


えーなんだったっけ、あ、そうか、研究職志望の学生へのアドバイスね。ええと、だから、こういうことをちゃんと考えてる研究者と考えてない研究者がいるわけですね。考えてる研究者は、たとえ研究職に就けなかったとしても、たぶん全然たじろがない。それによって自分の研究者としてのマインドが揺るがされることはない。さて、あなたはどうしますか? 仮に研究者になったとして、こういうことをちゃんと考える研究者になりたいか? それとも、考えない研究者になりたいですか?


あえてこのことを書いたのは、まれに、博士=高学歴=就職に有利、と勘違いしている学部生がいるからです。

それはすごいですね(笑)。
博士=世捨て人=そもそも就職する気がない、とばかり思っていましたが、最近は博士卒でも実業界でバリバリ活躍する人も多いから、必ずしも、博士=世捨て人、ではなくなってきてるのかなぁと思う今日この頃。こういう時代(博士=世捨て人ではない時代)における博士課程の在り方、大学院の在り方、ってのも考えないといけないのかもしれません。博士課程という砦すら世俗の人々によって浸潤されてきているというのなら、世捨て人はいったいどこにいけばいいのかと(^^;


「せっかく博士まで行って中高教職(塾講師)なんて」的な言い方を見聞きすることがありますが、この「せっかく」って何なんでしょうね。この、大学教員になれると偉くて中高教職や塾講師は妥協みたいな物言いには、抵抗があります。

激しく同意します。

でも、大学や大学院について知らない人たち、そういうところとは全然縁がない人たちにとっては、ごく自然な言い方である気もまたします。大学関係者には、にわかには信じられないことかもしれませんが、例えば、ほら、大学生、大学生に出資しているのは大学生の親ですから、親に成績表を送りますね。じゃあ成績表を送っていればそれで安心かというと違うんですね。この成績表の、正しい読み方を知らない親がいるんです。ずるがしこい学生はこれを逆手にとってですね、単位を取ってないのに単位を取っているかのように振る舞うことが、可能になってしまっているんですね。

いいですか、大学を知らない、人たちの、感覚というのは、そーゆーもんなんですね。そーゆーところから、遠く大学という存在について、大学教師という存在について、大学院生という存在について、想像を巡らしたときに、どういう価値観が醸成されうるだろうか、ということを、まずは考える必要があるように思うんですね。

この2つの、全然違う世界に、両方とも足を突っ込んじゃってる人たち(というのは、具体的には、大学入学と同時に地方から出てきてそのまま大学生になり大学院生になり研究者になってる人たちだと思いますが)は、その、実家的な文化といいますか、地域社会というものがいまだにちゃんと機能している世界といいますか、そういう世界の人たちにどう説明するかという問題に、ゆく手を阻まれるわけです。

そーゆー人たちの気持ちや考え方を斟酌することなしに、一種の鳥瞰的な視点と言いますか、そういう立場からの判断だけでね、物事をかたづけてしまうのは、またこれも違うだろうと、思うわけです。


地域社会に広く浸透している土着的な価値観を根底からくつがえすようなことは、たぶん、一朝一夕にはできません。また、仮に、じゃあ、十年掛ければできるとした場合に、それをすることが果たしていいのかどうか、というような問題もあります。

地域社会の人たちというのは、彼らは彼らで素朴に幸せなんです。
古典的な勧善懲悪型の物語に見られるような、ドラクエに出てくる村人において見られるような、悪魔がこの世界を覆い尽くすと聞いたならばおびえ、勇者の到来を待ち望み、勇者がきてくれれば拍手喝采してくれる純粋な人たちなんです。いい人たちなんです。ほんとうですよ。
朝ドラとか、渡る世間は鬼ばかりとかいった物語に登場するキャラクターに特徴的な行動傾向は、これはかなり記号化されたものではありますけれども(記号化されたというのは、いまから10年前の、20年前の人たちが取っていた行動の類型であるという意味。社会的に記号化が成立するまでには時間がかかりますから)、その記号の範囲を広く取ればね、そういうのを選択的に見たがる人たちもまた、そういう類型に該当してしまう人たちなんではないだろうかと思うんですね。そして、実際にそういう番組or物語が視聴率を稼げている事実を見るに付け、私は、こういう人たちがたくさん日本にはいるということへの確信をまた一段と強めるわけですね。

そういう、完成された幸福の類型に対して、少なくとも彼らよりは大学or研究機関界隈を知っている私たちが、頭ごなしに自分たちの価値観を押しつけることによって、「完成されている、すでに回っている幸福の類型」を破壊してまわること。これはやっぱり、よくないんじゃないかと思います。


*3:中高で非常勤をしている友人から、本職の先生から「あなたは大学教員を目指しているんでしょ、私たちとは違うわね」のような皮肉を言われたと聞きました。とても真面目な人間で、中高教職を腰掛け程度とおざなりに勤めていたわけではないと思います。見通しが明るい(これから先に希望がある)人に対するコンプレックス?この辺りは難しい問題がありそうです。それにしても……大学教員の社会的地位って高い?

これは、まさにいま話してたことと同じ問題が背景にありますね。地域社会的な価値観を本態とする人からすると、大学教員は「向こうの人」というイメージになっちゃうという問題。
なんといいますか、官尊民卑という考え方がもとになって、「大学教員はしょせん向こう側の人だがや」なるイメージが成立している気がします。本国で「市民」を中心とした革命が起こらないのも、たぶんこのへんに理由があるんでしょうねぇ。「大学教員も含めて、こちら側の人」というふうにとらえる習慣がないというか。「地域社会を抜け出していった人たちが新奇な価値観を持ち帰ってくることを良しとしない」というか。そういう意味では、いまもなお鎖国マインドがずっと続いているのかもしれません。新奇なものを見つけたときに、「なになにこれ? おもしろそうじゃん!」と反応するのではなく、「邪魔や。かたづけろ。殺せ。」と反応する人たちというか。鎖国マインドに対して寛容的な社会が、既得権益層に優遇的な社会になるのはある意味必然とも思えます。
官尊民卑信仰をやめることがスタートラインになるのかなぁ。。


大学教員の社会的地位が高いことに由来しているのでしょうか*3。

たぶんそうだと思います。
大学教員が、「大学教員にしかなれないほどに能がない人」というイメージから、「大学教員になれるほど有能な人」というイメージに変わってしまったことに原因があるように思います。


教育業に行く人には確かな知識を持っていてほしい。私もそう思います。ただ、教材研究をしっかりする学部卒の教師と、教材研究を適当にする博士卒の教師では、おそらく前者の方がいい授業をするでしょうから、その辺は難しいところで。ちゃんとやる気を持って教職に就かなければ、せっかくの知識も役立たず。

--- 略 ---

仕方なく塾講師や教職にっていうのではダメなんだろうなと思います。ブクマに「教育と研究は違う」といったコメントがいくつもありました。それはそのとおりだと思いますが、現実ではほぼ一体のものだと思うのです。少なくとも文系については。

「文系については現実ではほぼ一体」という側面は分かります。
ぼくはこれについては、なんで(四分法じゃなくて)二分法なんですか?というふうに逆に訊きたいです。
研究には向いているが教育には向いてない人というのも確かにいます。
でも、研究にも教育にも向いている人というのもいて、で、研究者らが自覚している以上に、その側に属する人というのは実際は多いのではないかと思うんです。これを阻害しているのが、どっちにも向いているのにどっちかを選択しなければいけない、こんにちの高度分業体制の負の側面なんですね。
高度分業体制になればなるほど、忘れてはいけないことがあります。高度分業体制になればなるほど、忘れがちになることがあります。それはなにか? 上のほうで申し上げました、それは、もし急遽、となりの分野について研究or教えなくちゃいけなくなったときに、ただちにそれができるだけの構えをあらかじめ構築しておくことが、いかに大切なことであるかということです。

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