さて。
はっきりと言いたいことが固まっているわけではないので、エントリを起草することはためらっていたのですが、
どうやら、
trickenさんは雲隠れしちゃったし、
inf.さんは突然現れて10分20分バババッと意見投下してすぐに去っていかれるし、
contractioさんはcontractioさんで、言いたいことをいきなりパッと言うのではなく、「私たちはふだん、何々ということがあります。確 かにそういうことはあります。」みたいな話を延々と語るに近いかたちでの話法を選択されていたり(私にもそういうところがないわけではないが、私とはまた 違った形で相手のリズムを狂わせる話法を氏はお持ちのようだ)、話す(お書きになる)調子が非常にゆっくりなのでなんか調子くるうし、
そんなこんなで、もうこちらとしては、
もうだれを相手として、どのような読者を想定してしゃべりはじめればいいのかワケわかめで、
「もう好きにやってくださいよ」というような気分だったときもあったのだが、
そう、だから、これまでは、というかここ数日は、あんまりひとりでべらべら演説会をおこなうのはやめて、ちょーっと思った事をひとことふたことつぶやく程 度にとどめていたのであるが、
やっぱりもうちょっとちゃんと言っといたほうがいいだろう、とは思うので、こうして起草することにしたのである。
そう、だから、以降の話は、整理されていないし、思ったことを単発でぶつけている部分が大きいので、人によっては冗長に感じるかもしれないけれど、そうい うのを読まされるのはいやだという人は、ここで読むのをやめて頂くのがベターかなと思います。
はい。
外延的定義・僥倖・外 挿:その3 - 呂律 / a mode distinction
我々が日々なんなく──あるいは「なんとか」──やってしまっていることを「わからないこと」扱いしているのに、 もっと激しく非自明な主張のほうは、二人には「わかって」いるらしい。
おかげで、二人の議論運びを追うのはたいへんに難しい。
これ、なんか、違う気がする。
もっと激しく非自明な主張のほうは、分かっているのではなくて、そこに意識が照準されてないだけでしょ。
彼ら2人がやろうとしていることは、普段の我々の営みを問うことだと思うんだけど、「普段の我々の営みを問う行為自体は普段の営みに含まれているのか」と いったことにまでは、彼らは関心を持っていないんだよね。
或いは持っているのかもしれないけれども、かりに、その問う行為自体が「我々の普段の営み」のなかに含まれるとしても、今後の議論の展開には、さしたる影 響を与えない、と、彼らは考えていた、ということだよね。
つまり、「もっと激しく非自明な主張」のほうは、「分かっている」のではなく、「分かっているのか分かっていないのか、そんなこと知らんよ」ということだ と思うのだ。無関心っていうのはそういうことでしょ。
inf.さんは、「人は理解し会えると思い込んでいる」ということはわかっているらしい。しかしそれをどのようにし て識ったのだろうか。
んー、それはだから直観じゃないの?
むろん、「人は理解しあえると思いこんでいる」という命題自体が間違いである可能性もあるよ。
「「人は理解しあえると思いこんでいる」と思いこんでいる」が正解かもしれない。
でもそんなこと言ってたら、そもそも話が始まらんよね。無限後退を引き起こすから。
だから、どこかを、客観的には無根拠と思えるような、或いは、一部の人たちにだけ分かり合えるような命題に対する合意をもって、そこを出発点にするしかな いと。
それは、私は「ふつうのこと」だと思いますけどね。
つまり、「「人は理解し会えると思い込んでいる」よね?」というinf.さんの付加疑問的な問いかけに「うん」って言えない人は、そこからさきにつづく inf.さんの話を、inf.さんが期待するような仕方で聞けるとはとうてい思えない
ということ自体は、私は自明だと思いますよ。
だから、なんなんだろうね。
これ自体は、わざわざ書く必要もないほどあたりまえのことである。しかし、目下の状況では記す価 値がある。
- 【S1a】
やりとりの中で我々には非常に多くのことが分かっており、また多くの手がかりをお互いに与 え合っている。- 【S1b】 だからこそ、
やりとりが失調したときには どのあたりに問題があるのかの当たりがつくのだし、- 【S1c】
すでに分かっているたくさんのことに基づいて問題に対処していくこともできる。
たしかにそうだ。私もそう思います。目下の状況では記す価値があるということをも含めてね。
というのは、私には お三方の主張がどれも、私たちの日々の社会生活の実情にまったく基づかない、まるで突飛なものに思われるからである。
そうそうそう、なんですよ。「社会生活の実情」というものになにを含めるかという話なんですよこれは。
「君たちはこれを都合よく定義しすぎてはいないかい?」というのが、contractioさんの主張の私なりの翻訳です。
少なくとも、trickenさんはここで、「相互理解は成立しない」「アーキテクチャのレベルでは事故を起こさな い」「人は対話 に失敗し続けている」といったことは「わかって」いるわけである。しかしそれをどのようにして「わかった」のだろうか。そしてまた、これだけのことは「わ かる」のに、「相互理解」だけは成り立たない、といえるのはなぜだろうか。
だからこれも直観だよね。
「相互理解は成立しない」「アーキテクチャのレベルでは事故を起こさない」「人は対話に失敗し続けている」という一発目の突飛な主張に、「あーそういえば そうかも」「うんうんそうだよね」って言える人だけが、それに続くやりとりを楽しむことができる。
ふつうは、その最初でコケた人は、そのやりとりに興味を持たないよね。だからこれまで問題になってこなかった、んだとは思う。少なくとも問題になりにく かったと。
でも、contactioさんは、そのやりとりに、一発目の突飛な主張に共感するのではない仕方で、興味をもたれたと。ここで起こっていることはいったい なんなんだ、ということに、興味をもたれたと。
それ自体はべつに、否定されることでもなんでもなくてね。
だから、その、また比喩を使うと分かんないって怒られるかもしれないけれど(笑)、2人(3人)はプールで水泳をしているんですよ。ね。
でも、contractioさんだけは、プールに飛び込まずに、「なぜこいつらはプールに飛び込んで水泳をしているのか」ということを、プールサイドに 立って、記述されているわけですね。少なくとも記述を試みられているわけですね。
おもしろそうなプールがあったらとりあえず飛び込んじゃう人と、なぜあの人はプールに飛び込んじゃうのかをプールに飛び込むことなく分析する人の意見が、 食い違うのは、ある意味当然だよね。
で、まあ、その段階は、もしかしたら少しは終了したのかもしれない。いや、もちろん、contractioさんからすれば、全然終了していないどころか、 終了し始める気配すらない、ということなのかもしれないけれど。
が、「命題」なるものがどこから出てきたかさっぱりわからないので、解説を乞う。
ほら(笑)。
もう、そういうふうに言うでしょう(笑)。だから言えないんですよねぇ。もうなんにも言うなって話じゃない(爆)。
いや、それは言い過ぎとしてもさ。
んー、私は、命題という言葉は、ふつうに辞書に載っている意味で使ったわけですけど何か?
contractioさんは、どうも、「僥倖」とか、そういう言葉を安易にばんばん使うな、ということを、暗に主張されている感じなんだけれども(そうで しょ?(笑))、ひとつまあ僕が思うのはね、
なぜあなたは、たとえば「僥倖」などという言葉をいきなり使い出す人の真意を、その人の言うことのなかに見出そうとするのではなく、杓子定規に国語辞典な どを引っ張り出してきて、重箱の隅をつつくかの如き芸当をするのがお好きなのですか
ということですよ。(笑)。
なぜあなたは、突然出てきた新しい言葉が、その人においてどういう意味で使われているかを読み取ろうとする努力を早々に放棄して、「その言葉の意味はなに か?」という、身も蓋もない言辞を、いきなり投げつけるのですか?
ということですよ。
いや、これねー、分かれるんですよ。投げつける人と投げつけない人に。
で、投げつけない派の人の言うことを、投げつける派の人が聞いてもちんぷんかんぷんであるということは、私はよくある話だと思っています。
たとえば、「対話をする(~対話に成功する)」というのが、「コンセンサスをもってやりとりを終える」というような ことを意味す ることがある。そして「コンセンサス」のハードルを極端にあげれば──ex. 双方にとって微塵の妥協もないコンセンサス──、私たちはいつでも「対話に失敗する」ことができる。そのような仕方で、【T2】を「正しい」ものとする条 件を与えてやることはいくらでもできるが、その場合に問われるのはむしろ──目下の例であれば──「どうして そんな ありえないような目標を設定するのか。そんなことをして何がうれしいのか」といったことだろう。
んーとね、ハードルを極端に挙げる(という無理をする)ことによって、「対話に失敗する」ということを成立させているわけではない、と思われるのですよ。
「人は対話に失敗する」と言うにとっては、それは「無理をしている」というわけではない。そういうふうに言わない人にとっては、無理をしているように映る かもしれないけどね。
trickenさんおよびinf.さんの議論を再度見てみると、ふたりとも、実に奇妙な──言い換えると、自分の主 張に都合のよい──「わかること/わからないこと」の取捨選択をしていることがわかる。
それは、そういうふうに言い得るとは思うよ。でも、その取捨選択を奇妙だと思うか思わないかという点は、私は主観依存だと思うんですけれどね。
つまり、それを奇妙だと思う人もいれば思わない人もいる。それだけの話だと。
「ヘンな審級にいるから、本来奇妙であるはずのことに、奇妙だと気づかないのだ」というのが、contractioさんの主張ではないかと思うのですが、 その「本来」は、どうやって決まっているんだろう、ということなんですよね。
出発点のなかに、「分かること/分からないこと」に関する都合のよい取捨選択があるということは、当たり前のことのような気がするわけなんですけれども、 いかがでしょうかねぇ。
ある種の都合のよい取捨選択Aがあったとして、そのAに共感できる人だけが、そのAを出発点とした議論に興じればいいわけであって、「いや、俺はAなんて 認めんぞ」っていう人は、その議論に加わらなければいいだけの話なわけです。
むろん、「俺はAという仮定はナンセンスだと思う。だから、Aを出発点として展開される議論はもろともナンセンスだ」という主張をするのは、自由だと思い ますけれども。
だからねー、その、あれですよ。contractioさんは何を言いたいのか、ということですね。いや、もちろんそれはね、
やりとりの中で我々には非常に多くのことが分かっており、また多くの手がかりをお互いに与え合っている。
だからこそ、やりとりが失調したときには どのあたりに問題があるのかの当たりがつくのだし、
すでに分かっているたくさんのことに基づいて問題に対処していくこともできる。
ということと、「君たちが議論の前提としている命題はおかしい」ということの2点だとは思うんだけどさ(これ、これまでの経験からして、 contractioさんによって否定されそうw)、
その「おかしい」は、なにがどうだからおかしいのか、ということですよ。
contractioさんによれば、それは、一つには、「対話は失敗し続けている」という主張は、挨拶という反例によってしりぞけられる、ということだと 思いますけれども、
それだったらね、前にすでに一度言ったかもしれませんけれども、「挨拶のような事例を除いて対話を定義すればいいだけのこと」であって、なんら問題は生じ ないように、私は思うわけなんですね。
「いや、それではいかんのだ、挨拶のような事例を除いて対話を定義してはいけない」のだとすれば、それはなぜなのかのほうが私には不思議に思えますね。
もっと言うと、
「やりとりの中で我々には非常に多くのことが分かっており、また多くの手がかりをお互いに与え合っている。
だからこそ、やりとりが失調したときには どのあたりに問題があるのかの当たりがつくのだし、
すでに分かっているたくさんのことに基づいて問題に対処していくこともできる。」
ということをゆって、
「あーなるほど、疑問が氷解しました!」って、trickenさんとinf.さんが、なるかっつーと、ならない気がするんですよ(私も、ならない)。
たしかに、言ってることは正しい。でも、「で?」ってなる。「そのことは、私の疑問を解決へと導いてくれるのだろうか?」と。
たしかに、「コミュニケーションは誤解を資源としてすすんでいく」という視点を提供してくださったことは、私は新しいと思う(ここではね)。
だからそれは、問題意識を解決へと一歩進めるためのコマになっていると思う。
でもそれ以外のことについては、依然として、うん、あれである。
うん、そうですね。ところで、「Xはいかにして可能か」という問いは、
- ふつうは、Xの成立が不可能ではないが やや困難な場合であるだろう。
その場合に取り組まれているのは、「どんな取り組み・工夫をしたら、Xを実現できるだろうか」といったようなことである。
2.ところで、もうすこし知的に 洗練された議論においては、「Xが成立していること」が既知である際に、それがどのようにして成立しているか、を問うような場合もある。誰でもが知ってい るだろう著名で記念碑的な例をあげれば、『純粋理性批判』 がそうである。
んー、と、ちょっと待ってよ。
1.と2.はどう違うんだ?
Xが成立していることが既知である際に、それがどのように成立しているかを問うこと(2.)と、どんな取り組みをしたらXを実現できるかを問うことの違い というのは、Xが成立していることが既知であるか否かである、ということでよろしいでしょうか。
「1.」においては、Xが成立していることは「既知」ではなくて、「不可能ではないがやや難しい」らしい。
さてところで、「既知」であることと、「不可能ではないがやや難しい」ということは、んー、どれくらい重要な(本質的な)違いなんでしょうか。
難しいと思うことができるような審級をわれわれは選択することができる、ということは、まあ、正しいと思う。いつでも選択できるわけではない気がするけれ ど。
このへんの微妙な違いを、contractioさんは、「微妙なんかではないはっきりとした違いだ」というふうに認識していて、それが、齟齬の原因の一つ になっている、という可能性はあるよね。
うん。これはこれで、興味深い問いだけれど、とりあえず措いとこう。
では、この議論ではどうだろうか。──と考えてみると、trickenさんの議論 も inf.さんの議論も、上記のどちらにも相当しないように思われる。
ほーう、これはおもしろい。「1.」にも「2.」にも相当しない議論であると申すか(笑)。
ふむ。
他方、
「「やりとりが誤解を資源として進んでいく」という当たり前のことに無自覚なまま」と いうのは私の述べたことではない。我々がやりとりにおいてあたりまえに資源とすることができるのは「誤解」だけではないから。ついでにいえば、我々はいつでも「誤解」を資源と出来るわけでもない。
そうですね。(>資源と出来るのは誤解だけじゃない、いつでも誤解を資源とできるわけでもない)
もしも「「外延の近接」はなぜ可能か」ということを問いたいのであれば、私としては、まずは「1817 のどこで「近接作業」と呼ばれうるような作業がなされているといえるのか」を、
私には それがよくわからないので、「近接作業」なるものをめぐるディスカッションには立ち入れないでいるのであるが、お三方に 明らかにしてほしいと思う。
うーんとですね、その、これを読む限り、contractioさんの言いたいことは、
「ある社会の実情が可能なのはなぜか」を問う者は、当然に、「ある社会の実情」のなかに、自分たちが問うている行為そのものもまた含まれているということ を前提にしなければいけない
のに、
この2人(3人)はそれを前提にしていない
というところに、あるように見える。あるような気がする。
で。(←contractioさん風。うつったw)
それに対する、私が思うことはね、「ある社会の実情」とやらを、どう定義するのかは、好きずきじゃないの?ってこと。
いや、むろん、そんなことは、contractioさんも了解されているとは思う。
だからたぶんポイントはそこじゃない。
ポイントは、んー、「社会の実情」というものが、そういうような言葉が、きちんと明示的に定義されるわけでもなく、さりとて、われわれが普段日常使うよう な用法を逸脱しない範囲で使うわけでもない態度そのもの
なんじゃないかな、と。
だからやっぱりこれも、「僥倖」って言葉をいきなり使う問題と、類似するところはあるよね。まったく同じではないけれど。
> 「1817 のどこで「近接作業」と呼ばれうるような作業がなされているといえるのか」
なぜ、近接作業と呼ばれうるような作業がなされている現場を、1817に限定しなければいけないのか?
ということなんですよ。たぶん。
私の指摘は、上記の問いにかかわるものではなく、ただ単に、次のことにかかわるものである。つまり、
- これらの議論において、「わかっている」とされているもの/「わからない」とされているもの が 不明確であったり恣意的 的であったりすること
──これである(© 渡邊二郎)。
そう、私もそう思います。あ、そう思いますってのは、contractioさんの指摘のポイントがここにあるということについて、「うん、私もそう思う」 ということです。
んー、ということはだ、うん。
「不明確であったり恣意的であったりすること」
が問題なわけだ。
じゃあさ、まあ少なくとも明確にはすればいいんじゃないの? それは、できなくはない気がする。恣意性排除のほうは、ちょっとまだ分からない。
だから、そう、「1817は社会の実情の対象外です」って、はっきり言っちゃえば、話ははやい。ただ、そういう宣言のあとに続く議論を、 contractioさんが、価値のある議論であるとお受け止めになるかはまた別の話。
要は、「わかっている」とされているもの、と、されていないもの、が、それぞれなんなのかを指示できればいいわけだ。
だからたとえば、次のような質問
> inf.さんは、「人は理解し会 えると思い込んでいる」ということはわかっているらしい。しかしそれをどのようにして識ったのだろうか。
に対しては、
いや、「人は理解し合えると思いこんでいる」こと自体は、いまは、「分かっているとされているもの」に分類することにするんですよ
の一言で足る。
その分類に同意できない人は、そこからさきの話を聞かなければいいだけの話なわけで。
もちろん、そのからさきの話が、その議論に参加しない人たちにとって有害であり得ると思われるのならば別ですけれど。
もちろんその場合は、「どう有害なのか」が示される必要はあるとは思います。
あ、ちなみに、「外挿」「制度」についての質問に対しては回答を保留しています。理由は、(おそらくはcontractioさんにも共有されている認識で あろうかとは存じますが)それ以前の問題、な気がするからです。
追記(2009.2.24 AM0:30時頃):
外延的定義・僥倖・外 挿:その3 - 呂律 / a mode distinction
- 【S1a】
やりとりの中で我々には非常に多くのことが分かっており、また多くの手がかりをお互いに与 え合っている。- 【S1b】 だからこそ、
やりとりが失調したときには どのあたりに問題があるのかの当たりがつくのだし、- 【S1c】
すでに分かっているたくさんのことに基づいて問題に対処していくこともできる。
目下の議論状況では、【S1a】を認めるかどうかで見 解がわかれるのだろう。
ん、そうなのか?
この齟齬の本質は「S1aを認めるかどうか」なのか。
私はなんか違うと思う。
だって、私は、S1aを認めているもの(trickenさん、inf.さんは知らないけれど)。
それはそれとしてしかし、【S1a】-と-【S1b】・【S1c】 との間に飛躍があるとは言われないだろう。
ん、そうでしょうか。私は引っかかりましたが。
「だからこそ」のところで、なにがだからこそなのか、ピンと来なかった。
S1cはまだ分かる。問題は、S1bだ。
「だからこそ、やりとりが失調したときには どのあたりに問題があるのかの当たりがつく」
とのことだが、
やりとりが失調したかどうかはどうして分かるのか。
それはS1aだからだ、というのがcontractioさんの答えらしいのだが、なぜS1aとS1bがつながるのかが分からない。
http://twitter.com/contractio/statuses/6964672497
@heis101 「いかにして可能か」のくだりについては、次の質問が奇妙であることについて考えてみてください。「どんな取り組み・工夫をしたらニュートン力学を実現で きるだろうか」
この問いが奇妙であるかどうかはさておき、Xは可能か、を問うときの「1.」と「2.」の違いについては、これで理解しました。
「時 速1000kmで走る自動車は可能か?」というような問いは、「1.」に分類されると思われる(あまり良い例ではない気もするが)。「時速1000kmで 走る自動車」が成立していることは、「既知」ではない。私たちが住んでいるこの世界の町並みを見渡してみたときに、時速1000kmで走る自動車がびゅん びゅん走りまくっているという状況では少なくともない。
(そういう自動車が将来開発されて、びゅんびゅん町中を走り周りまくっていることが当たり前になる時代がもしかしたら今後来るかもしれないけれども、少な くとも今はそんなことはないと。)
一方で、「コミュニケーションはいかにして可能か?」というような問いは、「2.」に分類されると思われる。なぜなら、「コミュニケーション」が成立して いることは既知だからだ(いま、コミュニケーションという言葉を、ふだん使う意味で使った)。
であれば、1817において問われていたことは、「2.」に分類される問いであると言えそうである。が、contractioさんによれば、そうは言えな いのだそうだ。
これらの主張は、【S1】とちょうど逆の形をしている。我々が日々なんなく──あるいは「なんとか」──やってし まっていることを「わからないこと」扱いしているのに、もっと激しく非自明な 主張のほうは、二人には「わかって」いるらしい。
ああ、こういうかたちの問いを立てることって、ありますね。
というか、そういうことって、好きかも(お前の好き嫌いは聞いてねーよ、と言われればそれまでですが)。
わ れわれが普段浸っている世界にある「自明/非自明の境界」とは異なる境界を持つ世界に、意識的に飛び込んで、その一見理解不能な世界を一所懸命泳ぐことを 通じて、新たなものの見方を獲得するというような経験は、私は誰しもしているものと思っておりましたが。それを自覚しているかどうかはともかくとして。ま た、それを好むかどうかもともかくとして。
http://twitter.com/contractio/statuses/6967455096
#mutual_us 「いまは、「分かっているとされているもの」に分類することにするんですよ」といわれたら、「なぜ(&どんな権利を以って)ですか?」と問うだけですよ。 http://ow.ly/OXtq
なぜ、「そういう分類をすることにする」ことについて、権利が必要なのでしょうか。権利がなければ私たちはなにもできない、或いはなにもしてはいけないの でしょうか。
してはいけないのだとすれば、それはなぜでしょうか。
「そ ういう分類をすることにする」ことによって、それをすることで初めて見えてくる(少なくともそれを問うた人自身にとっては)有益な視点というものが存在す るように直観されるとき、私たちは「そういう分類をすることにする」ものだと私は思うのですが、どうなんでしょうかね。
追記2(2009.12.24夕方頃):
外延的定義・僥倖・外挿:補遺1 - 呂律 / a mode distinction
このエントリ、社会科学系の大学院生に 対して
目下の主題が 当該分野にとって周縁的なものではないことを勘案すると、ひょっとしたら けっこう失礼なことを言ってしまっているのではないかという懸念があるので、ごく選択的にのみ応答させていただきますよ。(危険回避的なアレで。)
ん、「このエントリ」というのは、私が書いたエントリのことでしょうか。
だとすると、その「失礼かもしれない箇所」はどこでしょうか。
とはいうものの、私としても、いつでも・どこでも・誰に対しても こうした書き方をするわけてはないのでして。「わかってること/わかってないこと」の区別をちゃんとつけずに話をどんどん先に進めてしまう方々との やりとりでは、「ゆっくりと」──何を確認すればよいのかの確認や提案も含めて──書くことが必要になってしまう ということもご理解いただきたいところです。
それが唯一の方法ではないと思いますが、昨日もtwitterにて申しましたように、無難かつ確実性の高い方法であるとは思っています。
だから、contractioさんが取られる進め方に対して、まったく理解がないというわけではございません。すべて理解していると言ってしまえば嘘にな りますが。
「無関心」というのはどこから出てきたんでしょうか。何を受けて=指していますか?
「そこに意識が照準されているかどうか」=「そこに関心を持っているかどうか」というふうに捉えると、「無関心」という語句は、「そこに意識が照準されて いない」という意味であるというふうに読むことができるかと思います。
しかし、「無関心っていうのはそういうことでしょ。」の部分は、なくても意味は通じるように書いているつもりではあります。
この部分はいわば、口語的な語り口を取った際に、とっさに口を突いて出てきた補足の語であると理解しています。
もっとも、その補足が、contractioさんにおかれては補足として機能せず、どちらかというと蛇足として働いたのかもという危惧はありますが。
え、ならそんなこと言うなよって? …かもしれませんね。
なぜこの人たちは、
「そもそも人間が泳ぐことは不可能である」「それなのに、人はなぜ泳ごうとするのか」「その動機は?」「しかし浮き輪があれば大 丈夫だ」とかと、泳ぎながら言い合っているの だろう、
と不思議に思って──自分も泳ぎながら──尋ねてい る
泳ぎながら言い合うことが不思議か不思議でないかには、判断の余地があると思います。
contractioさんは不思議だと思っていて、ほかの3人は思っていないと。
ところで、「これを不思議だと思うことができるか」と問われれば、なるほど、不思議だと思うことは可能だと、私は思います。
ただ、不思議だと思わないこともまた同時に可能であるように私は思います。
どうも、この部分に、食い違いの根幹が潜んでいるように思いますが、いかがでしょうか。
いや、そうじゃなくて、なぜこれが私のポストへの返信の中に登場したかがわからない、と言っているだけです。
了解しました。
「証拠」は「あかし」とのつながりで出てきたものですが、では「命題」は? というのが私の尋ねたかったことです。
なるほど。
ところで、「相手のくりだす説明文のなかに、意味の分からない語句が登場した際に、その語句の意味はなんですか、と聞くことによって対話を進めようとする 方法」は、この場合において妥当なのでしょうか。
というのが私の根幹にある問題意識の一つですが、contractioさんに言わせれば「そんなもん妥当に決まっているじゃないか!」と、言われてしまい そうですね。
ふむ。
どうやら、「私が一番しゃべりやすいモード」で私が語ろうとするとき、それは、contractioさんからの「その語句の意味はなんですか?」という質 問を矢継ぎ早に食らうことによって、阻止されてしまうであろうことが、少し分かりました。
したがって、contractioさんが、「いまこの議論において取っていらっしゃる方法」を変更なさらないことを仮定すれば、
私自身が「私が一番しゃべりやすいモード」を禁欲するよりほかはありますまい。
それすらも、「そんなの、当たり前じゃないか」と、或いはおっしゃるかもしれません。
し かし、私自身は、おのおのが、自分が最もしゃべりやすいと思っているモードで語る「半ば意味不明な言葉」の節々に相互に聞き入ろうとするとき、そこに神秘 的ななにかが双方の内側においてときめき出でて、それが、コミュニケーションをその後も継続したいと思う動機の根幹をかたちづくっていると思っていますの で(この仮説に賛同いただく必要はないです)、私としては、「ふ~む、、そんなものですかね。。」と思うくらいでありましょう。
言い換えますと、論理の飛躍は必ずしも語っている本人にとって飛躍ではない、と言うこともまた、できるかもしれません。
しかしまあ、そんな話は、水掛け論になってしまうので、いまはどうでもいいのです(いまこの、1817に端を発した議論を検討しようとする際において は)。
いま重要なことは、あかし→証拠→命題…、と、泥沼に積極的にはまっていくことではなく、
http://togetter.com/li/2024
> 仮に「言い過ぎるか言い足りない かのどちらかである」ことがもしできているのだとするならば、それは「やりとりができている」からこそですよね?
という質問に対して私が言ったことを、私自身がまた別の言葉で言い換えようと試みることのほうだと思われるのです。
もともと、この部分(いまうえで引用した部分)が焦点なのに、だんだんと、あかしとか、証拠とか、そういう枝葉末節を杓子定規に問いただす営みを通じて、 徐々に徐々に本筋ではないところに追いやられてきていた感があるわけです。
本 筋から外れることが「いいこと」である場合ももちろんありますが、少なくとも今回に限っては、それはないでしょう。べつの全然知らない第三者から見れば、 或いは、「この人たちは言葉遊びをしている」というふうに、映るかもしれませんし、私は、「ああ、そうかもしれないな」と、全く思わないこともありませ ん。
ところで、話が前後しますが、いま私がこうして話している「モード」は、さきほど言ったところの意味での「私が一番話しやすいモード」ではありません。
そういう意味では、これは、私においてなにがしかのある種の、モードの選択に関する禁欲が働いていると捉えることができますが、一方で、禁欲によって得ら れることもまた少なくはないようにも思います。
ところで、あらかじめ牽制しておきますが、「モード」ってなに? 「禁欲」ってなに? というような質問は、少なくとも今は、しないで頂きたいというのが 願いです。
それを言い出すとまた、さきほどの泥沼と同型的なものを引き寄せてしまうことになりかねませんので。
この種の泥沼はもう一回で散々です。とはいうものの、人とやりとりをしていると、こういう泥沼にはまりそうになることはしばしばあるものだとは思います が。
もともと私はお三方の主張や設問にはコミットしていないわけですから──したがって、当該諸問題に解答を与えようと していないわけですから──、私の主張によって疑問が氷解することがなくてもおかしなことではありません。
ごもっともだと思います。
私が関心を持っているのは──すでに記したとおり──、「これらの主張がどのような仕組みで成立しているのか」とい うことのほうです。
な るほど。しかしところで、「これらの主張がどのような仕組みで成立しているのか」ということについて、私は、contractioさんほど強い関心を寄せ ていないと思われます。にもかかわらず、この問いに興味を持つことをなかば強制されているような感じもあるわけですが、これについてはいかが思われますで しょうか。
「それに関心を持っている人だけが、それに興じればよい。それに関心を持っていない人は、好きにすればよい」とはならなさそうなのは、なぜなんでしょう。
もしかしたら、とてもつまらないことを聞いている可能性もありますが、そうでない可能性もあると思ったので、一応お訊きします。
失礼。これは撤回します。
この問いの定式は heis101さんが行ったもので、trickenさんやinf.さん自身のものではありませんでした。そこに気軽に乗ってしまうのはよくありません。
そして、私が言えばよかったのは、「「わかること/わからないこと」がはっきりしていないので、二人の主張はよくわからない」とい うことまででした。
「どちらにも相当しない」とかいう必要はなかった。
了解しました。
ところで、「2.」に相当する議論として、contractioさんが納得するものの例を、なにか挙げては頂けないでしょうか。
「こういうふうに問うのなら、それは「2.」に相当するが、君たちは、そうふうに問うていない。」というような仕方で、言って頂けると、非常に意思疎通が 進む気がするのですが。
な にを言うのには権利が必要で、なにを言うときには必要ないのか、私にはその区別がついておりません。contractioさんはついていらっしゃるようで す。なぜなら、これまでの全やりとりのなかで、contractioさんは、たびたび、「権利」という言葉を使われているからです。
「それはいったいどのような権利によってそう主張されるのか」というような意味の疑問文がどこかにあったように思います。
無駄に一般化しすぎです。そんな強い主張はしていないので、よく読んでください。
私は、 contractioさんがお書きになったエントリのすべての部分を理解しているわけではありません。「ここは分からないな」と思ったところは、「あとで また分かるようになるかもしれない」と思って、contractioさんにその箇所が分からないという旨のお伝えをしていない場合があります。
むろんこのことは、contractioさんにおいても或る程度は同じでしょう。
さ てところで、よく読んでくださいということですが、具体的にどこを読めばよろしいでしょう。「全部」というのが答えかもしれませんが、「全部」をとりあえ ず読んだ結果、私は「無駄な一般化」をしてしまったようですので、もうちょっと箇所を絞って頂けると、この箇所(無駄に一般化しすぎという箇所)について の意思疎通はより促進するものと思われます。
この記事へのコメント
えーと、ごくたまーにしか読んでない気まぐれ者です。が、なんとなく樹になったので少し。
多分、貴方が書いた人達がしたいのはディベート(討論)じゃなくて、自分に都合の良い答を期待してたんだと思う。
でもそれは本質的には自分のHPなりブログなりで展開すべき論説であって、よしんば、他人のブログなりにコメントとして描く分にはそれ相応の立場があるのではないかなと。
自分のスタンスはあくまで「コメントってのは最終的にどれだけ芸があるかだろ?」と思ってます。それがボケであれ、ツッコミであれ。
多分、貴方が書いた人達がしたいのはディベート(討論)じゃなくて、自分に都合の良い答を期待してたんだと思う。
でもそれは本質的には自分のHPなりブログなりで展開すべき論説であって、よしんば、他人のブログなりにコメントとして描く分にはそれ相応の立場があるのではないかなと。
自分のスタンスはあくまで「コメントってのは最終的にどれだけ芸があるかだろ?」と思ってます。それがボケであれ、ツッコミであれ。
コメント&愛読ありがとうございます。
そうですね。そういう形で、「人様のコメント欄」と「自分のところのブログやHP」を使い分けるのは理に適っていると思います。
そうですね。そういう形で、「人様のコメント欄」と「自分のところのブログやHP」を使い分けるのは理に適っていると思います。
2009/12/31(木) 05:48 | URL | heis101(管理人) #QyEQ/AbM[ 編集]
お仕事は何をされているんですか?
2009/12/31(木) 12:12 | URL | int #-[ 編集]
公開してございません。
悪しからずご了承ください。
悪しからずご了承ください。
2010/01/02(土) 10:01 | URL | heis101(管理人) #QyEQ/AbM[ 編集]
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