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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…

まあ、言い古されたことなのだけれど、改めて聞くと染み入る。
現代においては、このような内容のことは、食事や歯磨きのように、くりかえし宣言され続けなければならないのだろうな、と思った。


光の孤独 - M17星雲の光と影
し かし、すごいことばである、「光の孤独」ということばは。人間の知性が到達しうる極北の海に浮かぶ流氷を思わせる表現である。今 日は他のことを書くつも りでいたのだが、内田先生のブログでレヴィナス老師(先生の呼称に従う)のこのことばを目にした瞬間から他のことが考えられなくなってしまった。

詳しくは内田樹先生の本日付の日記をご覧いただきたいが(http://blog.tatsuru.com/archives/001527.php)、 稚拙な要約を行えば次のようになる。

自己の同一性を疑うことなく、人類の過去も未来も自らの理性によって掌握可能ととらえる傲慢な理性のあり方は、「未知なるもの」を構造的に排除する仕組み をもっている。過去も未来も人間の理性の強力な光で照らし出すことによって、その姿を、その意味を人間は把握することができる。そして、その光の魔術に よって自らの存在を救いようのない「孤独」な状態におくこと、それが「光の孤独」である。ここから先は正直、要約することがためらわれるが、自分の理解可 能な範囲内でリライトすると、次のようになる。

未知とは要するに暗闇の中に存在する「なにか」である。それは人間をおびやかし、不安に陥れる。その恐怖を克服するための唯一の方法はその「なにか」に光 を照射することだ。暗闇の中に息をひそめてうずくまる「もの」に、照度の高い光線を当てる。そうすることでそのものの姿は明らかになり、それに抱いていた 無用なおそれも消える。たとえその対象物がまったく未見のものであったとしても、それがひとたび「われわれの光」の照らしだす領域に入ってきさえすれば、 それは了解可能な光の世界に属するものとなり、われわれはそれを「既知のもの」として編入することができる。

このように世界を光で照らし出すことによってもたらされるもの、それが「光の孤独」である。

ここには啓蒙主義(enlightenment)に対するもっとも根底的な批判がある。啓蒙主義者に特有のあの節度に欠けたおしつけがましさが何に由来す るものかということを、これほど簡潔に、かつ残酷なまでに正確に示した評語に私ははじめて出会ったように思う。

しかし、光をネガティブな喩えに用いるという発想はいったいどこから来るのだろう。理性の傲岸さを光に喩え、光で照らし出された空間を近代人の「孤独」に 見立てる精神は、ほとんど詩人の想像力の領域に近づいている。

暗黒の中でスポットライトを浴びる一人の人間。その姿が示すものは、光の明るさ というよりも、むしろその背後にある漆黒の闇の深さである。あかあかと光に 照らし出されることによって、彼はそれまで手にしていた闇のもつ混沌の豊穣を見失い、黒い衣を剥ぎとられ、無惨な裸体を晒し出す。

よわよわし く体を震わせながらも、彼はなんとか自分を照らし出す光をたどり、その光源を探り当てる。そして、その光の発生原理を突きとめ、ついには自ら小 さな光を作り出すことに成功する。その小さなランプを手に持ち、彼はおずおずと自分の周囲を照らし出す。少し気分が落ち着いてくる。ランプに技術的改良を 重ねることにより徐々にその光は力強さを増していく。それはより遠くまで、より明瞭に世界を照らし出せるようになる。その光に目が慣れてくると、彼にとっ ては光そのものが日常であり、常態であると感じられるようになる。光に慣れた彼の眼にはグラデーションを失ったのっぺりとした闇の世界こそが非日常であ り、おぞましいものに映るのだ

かくして果てしのない「啓蒙主義(enlightenment)」の時代が始まる。彼の行く手は常に光に包まれ、理性の輝きに照らし出される。しかし、そ の光のとどまることを知らない拡張の結果、彼の手に入れた世界の拡大は、あくまでも彼の視点がとらえたものにすぎない。

視点を外部 に設定し、その視点を彼から遠ざけてみると、彼が依然としてすっぽりと闇に包まれているという事実には何の変わりもない。その 光に照射されている部分は、その背後にある圧倒的な闇の質量に比べると取るに足りないほどの微々たるものでしかないのだ。

その闇は外部にだけ存在しているのではない。彼の内面にも意識という光の届かない広大な闇が深々と広がっている。底なしの井戸の果てしない遠い暗がりのよ うに、一人ひとりの心の中にも闇の巨大な堆積がある。

外部に広がる闇と内部に潜む闇の間で、彼の「自己」はほとんど人間の表皮ほどの厚さしか確保することができない。薄っぺらな光の膜がそこに存在しているだ けである。

これを孤独といわずしてなんと呼ぼう。光に閉ざされて絶望的な孤独の中にある人間。しかし、彼はその孤独すら感じとることができない。光源は彼の手の中に ある。それは闇を光に変える魔法の装置なのだ。そして、彼は自分自身の顔にその光を当てる。しかし、そこに浮かび上がるのは理性に養分を吸い尽くされた亡 者の顔、亡霊の面である。そして、その向こうには果てしのない闇が浮かび上がる。

光の孤独の 中に幽閉されながら、自らを闇からの解放者だと信じ込み、高らかに勝利を宣言する人間。彼はまばゆい光の中で、闇の中に存在する他者を見失い、他者を見失 うことによって自らの他者性を見失い、その結果、他者によって規定される自己存在さえ見失う

しかし、その光を吹き消し、再び原始の暗黒の中に自らを閉ざすことはもはやできない。光を失った闇は、もう闇ですらないからだ。もしも人間にできることが あるとすれば、それはやはり手許にあるささやかな光で世界を照らし出すことでしかない。でも、その光には自ずからなる限界がある。人間にできることはその 限界を慎重に見極めること、そしてその光と闇の境界に真実の存在を認めようとすること、光と闇は互いにもう一方の存在を補完し合う相互関係を形成している ことを認識すること。わずかにそれだけだ。

しかし、事態はけっして絶望的ではない。「光の孤独」というような霊感に満ちた詩的考想を作り出す力が、われわれの(残念ながら私のではないが)理性には たしかに宿っているのだから。



「すみません」の現象学 - 内田樹の研究室
「私」 というのは「変わらないものである」という考想をかつてレヴィナス老師は「同一者(le Même)と術語化さ れた。
同一者の世界には「未知のもの」が存在しない。
すべては「想定内」の出来事である。
「こんなことは織り込み済みです」という言い方は「私は無時間的に同一者である」と宣言しているに等しいのである。
未来はあらかじめ把持され、過去は完全に理解されている。
そのような人間には「前代未聞のこと」は何も起こらない。
このことばを好んで口にした人物の運命は周知のとおりである。
老師はこの 「未知なるもの」を構造的に排除する知のありかたを「光の孤独」と名づけた
「光はこうして内部による外部の包摂を可能たらしめる。それがコギトと意味の構造そのものなのである。思考はつねに明るみであるか、あるいは明るみの予兆 である。光という奇跡がその本質をなしている。光によって、対象は、外部から到 来してくるものであるにもかかわらず、対象の出現に先行する地平を通じて私 たちにすでに所有されている。対象はすでに知解された『外部』から到来し、あたかもわれわれに起源を有するもの、われわれが自 由意志によって統御しうるも のであるかのような形姿をまとうのである。」(『実存から実存者へ』、Emmanuel Lévinas, De l’existence à l’existant, Vrin, 1978, p.76)
「光の孤独」というのは、すべての出来事が「想定内」「織り込み済み」のものとして出現するような知の絶対的孤独のことである。
そのような知にとっては未知も、異邦的なものも、外部も、他者も存在しない。
だが、その孤独の徹底性は「他者がいない」ということにあるのではない。
実のところ私たちは外在的な他者なんかいなくても、けっこうやっていけるからである。
ひとりでいても、まるでオッケーなのである。
だからこそ現に「あなたの世界には他者がいない」とか「あなたは他者からの呼びかけに耳をふさいでいる」というような批評の文言が成立するわけである。
「他者がいなくてもぜんぜんオッケー」だからこそ、「他者のいない世界」が繁昌する。
「他者がいなくては困る」というのが本当なら、みんな必死になって他者との出会いを求めるに決まっている。
みなさんが「他者抜き生活」を過ごされていても、特段の不自由を感じられているようには見えないということは、私たちがそれなしではすまされない「本質的 他者」、「絶対的他者」というのは通俗的に了解されているような意味での「他者」ではないということを意味している。
私たちがそ れなしではすまされない「絶対的他者」とは(驚くなかれ)「私」のことである
「私ではないんだけど、私」であるような「私」のことである。
私たちは一秒ごとに変化している。
人間の全身の細胞は三日で全部入れ替わるといわれているから、三日経つと生理学的には100%「別人」である。
爪を切っても、ご飯を食べても、お酒を飲んでも、映画を見ても、セックスをしても、そのつど、私たちは「それをする前とは別人」になっている。
にもかかわらず、私たちは「同じ人間である」と思っている。
これについて養老孟司先生がいきなり本質的なご指摘をされている。
「目が覚める、つまり意識が戻ると、たちまち『同じ自分』が戻ってくる。一生のあいだ何回目を覚ますか、面倒だから計算はしない。しかしだれでも数万回目 を覚ますはずである。ところがそのつど、
『私は誰でしょう』
と思うことはいささかもないはずである。つまりそのつど『同じ自分』が戻ってくる。それなら『同じ自分』なんて面倒な表現をせず、『自分』でいいというこ とになり、いつの間にか『自分』という概念に『同じ=変わらない』が忍び込んでしまう。」(養老孟司、『無思想の発見』、ちくま新書、2005年、39 頁)
「面倒な表現をせずに」、「そ のつど自己同定された自分」と「永遠不変の自分」をまとめて同一名称で「自分」と呼んでしまう人間の「怠惰」のことをレヴィナス老師は「同一者」と呼ん だ。
レヴィナス老師が私たちに求めたのは、いわば、目が覚めるたびに「私は誰でしょう?」と問いかけるような「知性の次数」の繰り上げである。
目覚めるご とに「私は誰でしょう?」という自問を行う人は、「そう問いかけている人」と「そう問われている人」のあいだの「ずれ」に引き裂かれる。
その「引き 裂かれてある」という事況そのものを「主体性」と呼びませんか、というのが老師からのご提言だったのである。
「私は私である」という自己同一性を担保しているのは、私の内部が光で満たされており、私が所有するすべてのものがすみずみまで熟知されているということ ではない。
そうではなくて、「自分が何を考えているんだかよくわかんない」にもかかわらず、平気で「私が思うにはさ・・・」と発語を起動させてしまえるというこの 「いい加減さ」である。
言い換えれば、「私のうちには、私に統御されず、私に従属せず、私に理解できない〈他者〉が棲まっている」ということをとりあえず受け容れ、それでは、と いうのでそのような〈他者〉との共生の方途について具体的な工夫を凝らすことが人間の課題なのである。
「私である」というのは、私がすでに他者をその中に含んだ複素的な構造体であるということを意味している。
「単体の 私」というものは存在しない。
私はそのつ どすでに他者によって浸食され、他者によって棲まわれている。
そういうか たちでしか私というのは成立しないのである。
私の自己同一性を基礎づけるのは、「私は私が誰であるかを熟知している(あるいは、いずれ熟知するはずである)」ということではなく、「私は自分が誰だか よくわからない(これからもきっとよくわからないままであろう)」にもかかわらず、そのようなあやふやなものを「私として引き受けることができる」という 原事実なのである。
私の過去と未来には宏大な「未知」が拡がっている。
私たちの未来は「一寸先は闇」ですこしも見通せないし、過去は一瞬ごとに記憶から消えてゆき、残った記憶も絶えず書き換えられてゆく。
そのただ中に「私は誰でしょう?」という自問を発する主体がいる。
その問いが抽象的なものにとどまらず、具体的なものとなるため必要なのは、朝目覚めるごとに「私は誰でしょう?」と問いながらも、「いつまで寝てんの!朝 ご飯よ!」と呼ばれると「はい」と返事をして食卓につき、「あなた、ゆうべ寝言うるさかったわよ」と言われたら「すみません」と謝ることのできる「能力」 なのである。
人間の人間性を基礎づけているのは、この「私が犯したのではない行為について、その有責性を引き受ける能力」である。
老師が「倫理」と呼んだのは、そのことである。
それは別にとなりの山田くんがガラスを割ったのに、「ぼくがやりました」と嘘をつけということではない。
自分がやったことであるにもかかわらず、その行為の動機についても、目的についても、その理路についても、うまく思い出せないようなことはいくらでもある (というか、それによって私たちの人生は満たされている)。
それについて涼しく「すみません」と宣言すること。
それは過去の私の犯した罪について、現在の私がそれを「私の罪ではないが、私の罪である」というしかたで引き受けることである。
それが倫理ということばの意味である。
老師はそのことのたいせつさを教えられたのである。
「絶対的他者」とは、「私がその人のために/その人に代わって『すみません』と言う当の人」のことなのである。
「光の孤独」のうちに幽閉されている同一者はそのような意味での他者を持たない。
だから、彼らは「すみません」ということばを決して口にしない。

神秘は〈他者〉のなかにある。
でもそれにかこつけて秘教的になることには、デメリットがないわけではない。それこそ別の意味で啓蒙主義を呼び寄せることになる(啓蒙主義2.0?)。
おそらくtenkyoinさんはそのことを憂えていらっしゃるのだと思う。


〈他者〉を信じるという行為にはリスクが伴う。〈他者〉はこちらの想定通りに動かないからだ。
このときおそらくは2つの選択肢があって、それは、「そういう〈他者〉は存在しないんだ」と思いこむことにするという道と、「でもその〈他者〉とつきあっ ていくしかないんだ」と諦観する道である。
「信じるしかないから信じる」というのは論理的にはおかしい。いま言ったように、「そういう〈他者〉は存在しない」と判断する道もあるからである。だか ら、「信じるしかないから信じる」というのは後づけの理屈に過ぎない。

〈他者〉を信じるということは、〈他者〉を引き受ける、ということにも似ている。それはちょうど、5歳くらいのきかん坊がなした悪さなどの責任を自分のこ ととして引き受ける母親の姿にも似ている。

カルト論法に釣られるということと、リスクを承知で〈他者〉を 信じる/引き受ける ということは、似ているようだけどたぶん違う。

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