fc2ブログ
分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
--- お知らせ ---

最近はtwitterにいます。ブログを書くよりも手軽なので。たぶんそれが理由で、ブログの更新頻度が落ちています。
あと、コンタクトはtwitterが一番はやいと思います。従来通りメールフォームを通じてコンタクトくださる場合で、かつ返事が必要な場合は、返事用のメールフォームをご用意ください。メールアドレスでは返信いたしかねます。また、必ず返信できるとも限りません。なにとぞご了承ください。(以上、2009.6頃の記述)


http://twitter.com/oika/status/2452464341
> 中学生の生徒が学校で校則変更の署名活動をしてるらしいが、学校側がそれを厳しく咎めて止めさせようとしてるってのを聞いてめちゃくちゃびっくりした。中学生のうちから自主的に署名活動起こすなんて、めっちゃ素晴らしいじゃん。

クーラー格差? - 考えるのが好きだった
> この暑さで、教室にクーラーを設置するところが増えている。私が耳にした範囲だけだが、いわゆる困難校でクーラーが設置されたという話はない。
そのうち、ブログの大半がSNS化するという見立てがあるけど、どうだろう。現在、リアルの人間がITを駆使して相互にやりとりするに当たって、最も効率的で効果的で、一番よく使われていると思われる手段は、SNSでもブログでもtwitterでもない。それはメーリングリストである。

平和→不幸→人情、みたいなストーリー展開は、読者にあからさまな理不尽感を抱かせる。最初に平和を持ってくるのは、「それを基準に物事を判断しろ」という作り手からの指令だ。で、実際、それを判断にその後の展開を判断すると、「わー不幸!理不尽!」ってなる。

多くの人々は理不尽に対して潜在的に怒りを覚えている。平和→不幸→人情、みたいなストーリー展開は、その怒りを宥めてくれる。「理不尽なのは何も私だけじゃない」と。もちろん意地悪く解釈すれば「俺より不幸な奴がいて良かった」なわけだが。

司法の判断に誤りがない、ということにすることは、現状ではできていないし、今後も、それができるようになることはないだろう。つまり、今後も、犯罪を犯したくせに捕まらない人間、犯罪を犯していないのに捕まる人間が、依然として存在し続けるということである。

このような誤りは、努力によって、完全になくなるように努めるべきものであるが、果たして、どこまで、そう努めるべきであるのか、というところが、今回の論点である。
基礎体力ということについて考えている。基礎体力がないと、ちょっと動いただけで疲れてしまう。基礎体力がなくても死にはしないが、あったほうが世界は広がる。

同じ事は基礎体力の比喩的な解釈についても言える。多彩な語学力があれば、海外で書かれた文献を読めるので、世界が広がる。しかし無くても死にはしない。数学的な物の見方も、できなくても死にはしないが、できたほうが世界が広がる。

こう考えてみると、なんでもかんでも基礎体力ということにしてしまえるような気がするが、そうではない。私の言う基礎体力がなにかということを考えてみるに、たぶんそれは、「日々の積み重ねのみがものを言う能力」全般を指しているのだと思う。

願いが叶うのは16年後?「涼宮ハルヒの憂鬱」公式サイトで七夕イベント開催
> ちなみに、作中でハルヒが説明していましたが、地球からアルタイルまでは16光年、ベガまでは25光年離れているので、それぞれ16年・25年先に叶えて欲しい願い事を書くために2つあるそうです。

織り姫と彦星が出会うのは16年後、という、現代科学からの類推があるが、なぜそういう解釈になるのかが分からない。なぜ「織り姫と彦星が出会う際の乗り物を支配している法則は、僕たちが知っているものとは違うものだろう」というふうな類推ではないのだろうか。どちらも等価値のはずだが。
> 大学と大学進学率を減らすことで、労働力を増やすと同時に、高等教育の負担感を(結果として)なくすことを主張しているのが三浦展氏で、少子化対策兼、労働力対策として意外に有効な可能性がある。

> 競争力や生産性の向上に「教育が重要である」ことは総論として誰も否定しないが、どんな教育が有意義か、ということであり、産業界と連携し、若年層の雇用を促進する職業訓練中心に転換する、ということになる
http://www5.big.or.jp/~seraph/mt/000387.html
http://anond.hatelabo.jp/20090703175507
> 比較的冷静に対処出来たのはケンカになったら勝てると思った肉体的(精神的?)優位性があってのことだと思う。負けそう、もしくは同等と思っていたら怒りと恐怖からこちらも暴力を振るい返したかもしれない

これは考えさせられる。「どんな理由があろうと、手を出したほうが悪い」は正論だが、一方で、「弱い犬ほどよく吠える、吠えざるを得ない」という、精神安定上の行動原理がある。