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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
--- お知らせ ---

最近はtwitterにいます。ブログを書くよりも手軽なので。たぶんそれが理由で、ブログの更新頻度が落ちています。
あと、コンタクトはtwitterが一番はやいと思います。従来通りメールフォームを通じてコンタクトくださる場合で、かつ返事が必要な場合は、返事用のメールフォームをご用意ください。メールアドレスでは返信いたしかねます。また、必ず返信できるとも限りません。なにとぞご了承ください。(以上、2009.6頃の記述)

まあ、臓器移植問題はなにも今に始まった問題じゃないのだけれど、
クローズアップ現代を久々に見て、「これからも議論を重ねていかなければいけない」等という微妙に平和的・予定調和的で微妙に無責任な締めだったので、「おいおいそれは違うだろ」って思ったのでさっそくうp。


注)理系じゃない人向けの話です。


そのうち突っ込まなきゃ、と思ってたんだけど、のびのびになってしまいました。

数学の原点と物理の原点

は、違うような気がする。
 物理の問題を解くときの原点は、常にその度に設定されるものだった気がする。物理学は「ものの見方」だからそうなるのだろうけど。私が物理が出来なかったのは、その度ごとの原点設定が出来なかったからのような気がする。一方、数学の原点は原点としてしか存在しない。これは絶対に間違いないと思う。問題によってその度ごとに設定されるものではない。原点は原点としか定義しえない。だから数学は抽象の世界だと思う。
 物理が得意な人にとっての原点は、数学の原点と同様に見た瞬間に設定され、あたかも数学の原点のように思われるのだろう。「この問題は、ここに原点を置くしか他に考えようがないじゃないか」だから。
ここで言う原点というのが何を意味しているのかよく知らないのだが(以前、このことでほりさんと一度もめたことがある。かなり遣り取りしたのだが、結局分からず終いだった)、でも、なんかこう直感的に、

この人はとんでもない思い違いをしているかもしれない

と思えるので突っ込ませていただく。

池田信夫氏は、とあるCSの番組において、非正規雇用者解雇の問題についてのよくある意見である「企業の内部留保を労働者に回せ」という意見に対して、「それをしちゃうと企業への出資者がいなくなってしまう。ただでさえいまの日本の企業は新興諸国に比べて利益率・配当率が低いのに・・」というような見解を示していた(参考:日本的福祉システムの終わり)。

ここで私は思ったのは、そもそも、

なぜ出資者に配当を配らねばならないのか

ということだ。

「それは株式会社だからだ」というのが教科書的な答えだが、すべての企業(組織)が株式会社というわけではない。
http://uta34n.net/blog1/2008/10/post_309.html
さて、どちらが正しいか。専門家ではない私にはよく分からないけど、どうもY氏の方が正しそうである。そのへんは同氏の著書を読めば詳細に論じられているのだろう。内田氏も「私がどこかで読み囓った情報が間違っていたようであるので、ここで謹んで訂正させていただく」と書いているように、ご自分の誤りを認めているようだ。

しかし、(Y氏の日記も含めて)このやりとりにおいて「恥をかいている」のはどちらかといえば、残念ながらY氏の方であるとしか思えない。
このような状況をもって、Y氏が恥を欠いていると言えるのかどうか私には分からないが(そもそも、この私信の公開がY氏の同意を得たものであったのかどうかという点が気になるが)、

「知っていたほう」が恥をかき、「知らなかったほう」が平然としている

ということがありそうだということは分かる。

どういうときにこういうことが起こるのだろうか。



前回の続き。


前回私は、「金のことなど気にしなければいい」というようなことを言ったが、一方で、「それでも資本主義の世の中で生きている限り、どうしても金は必要だ。それがないんだ。それがないから困っているんだ。」とおっしゃる方もおられよう。

そこで今回は、金がない研究者の卵はどのようにして金を調達したらいいかについて解説する。


注)引用部のハイライトは筆者注。

一、博士課程に関するよくあるイメージが誤解である2つの理由

http://anond.hatelabo.jp/20090117074753
博士課程に関するネガティブなブログはたくさんあるが、本人向けの内容が多く、親向けの内容は少ないように思う。「親のすねをかじるなんて」という意見もあるだろうが、現に、今の日本の博士課程は、親のすねをかじればかじるほど有利になるように出来ていることは否定しがたい事実だ。息子(娘)が博士課程に進むということは、極端にいえば、「xxという会社に将来性があると思うから、2000万円ぐらい投資します」といっているのと金銭的には同じようなものだ。要するに2000万円程度の成功率の低い投資行為なのだ。それが、親の財力と子供の数から考えて、高い投資か低い投資かは、家庭環境によるだろう。

もし、あなたに親として2000万円の投資に耐えられる財力がないのであれば、息子(娘)を説得して、博士課程進学を諦めさせてほしい。

ネットで日本の研究事情について調べていると、

(日本の)博士課程に進学することがいかに非合理的選択であるか

ということを記述した記事に頻繁に出会う。

だが、これは私の実感からすると少し違っているように見える。

私の友人・知人のなかに、博士課程に進学・在籍している/いた人間がそれなりに居るが、彼らの口から紡ぎ出される自らの社会的境遇についての不満や陰鬱感のようなものは、少なくとも私は聞くことがほとんどない。

だから私は、博士課程にまつわるネガティブなイメージについての言説は、「あ、ネタなんだな。ジョークなんだな。」というふうに理解することにしている。


神永正博『学力低下は錯覚である』
ゆとり教育のおかげで、若者の学力は低下し続けている。
PISAの順位は下がりっぱなしだし、大学生は分数の計算もできない!
つめこみ教育を復活しないと日本が滅びるぞ!

果たしてこれは本当なのだろうか?

科学的に検証してみよう。
確率論、正規分布のスケール変換を使って、
今と昔の大学入試の偏差値を換算してみると、
今の偏差値50は15年前の偏差値42に相当する。

偏差値42の学生が「ふつう」の大学生になっていることで、
学力低下しているように見える。
これは、少子化と進学率上昇が原因で起きる錯覚である。

その他、
「理工系離れでモノ作り日本が滅びるのか?」
「大学の定員割れはどう進むのか?」「大学のレベルと立地の関係とは?」
「フィンランド型ゆとり教育vs韓国型つめこみ教育はどっちが正解?」
など、教育現場で直面する様々な疑問を統計分析で見直してみると、
意外な事実が浮かび上がってくる!
やあ、こんな本出てたんだね。知らなかった~。

この読後感は錯覚じゃないよね? - 書評 - 学力低下は錯覚である
本書の「目玉」は、以下の二つのパラドックスに単純にして明快な解答を与えていることである。

大学生たちの学力は年々下がっている
高校卒業生たちの学力は下がっていない
これは、双方とも観測された事実である。前者ばかりが喧伝されているが、後者も事実であることは著者がきちんと示してくれている。
ふむ。
たしかに後者は前者ほどには聞かんわな。


斎藤孝による推薦Masahiro Kaminaga's Weblog
イメージで語られやすい学力低下問題を,客観的データに基づいて冷静に議論しようという科学的態度が素晴らしい.学力低下の実感が,そのまま学力低下の現実を意味しないことを,少子化などの論点を整理して明らかにしている.イメージや実感だけで学力問題を語ることの不毛さを実感させてくれる本だ.
というのは間違いではない、だが本書の価値は「客観的データに基づいて冷静に議論しようという科学的態度」ではなく、むしろ「主観的印象から、どうやって客観的データに基づいた冷静な議論にもっていくか」という「情から知へ」の転換であり、そしてそれをどう主観に反映させるかという「知から情へ」の再転換にこそあるのだ。
3点あります。

1点目。

まず、上の記述からは、客観的分析=冷静で理知的、主観的分析=感情的で非論理的、という印象を受けるが、それはたぶん瑕疵だということ。「冷静に」という修飾語は過剰な気がする。
これは大したことない。


次。2点目。

それって物理学とかでよくやってることでは?
客観で主観を修正する、という。

当然の前提(主観)から出発して、論理的にいろいろ調べていくと、主観的には納得しがたいが認めざるを得ないことが出てくる。
そういうことを通じて、私たちは、私たちの主観がいかにチンケなものであるかを知る。
そこに物理のおもしろさがあるのだ、と、とある大学の物理の先生(理論物理の先生)が言っていた。


最後。3点目。

でも、そもそもこういうことになるのは、教育学が文系に位置づけられていることに問題があるのではないか。

このことは、記事「教員志望者は物理嫌い?」でも一度触れたけれど、
教育学専攻の学生のなかで、計量的に教育問題を分析したいという学生が、果たして何割いるだろうか。
あんましいない気がする。
世の中の、こういうことに興味を持ちそうな人の割合からすると、もっといてもいいはずなのに、である。
理数系好きな学生が教育学的な問題に対峙する頻度が低く押さえられてしまうように、学部・学科・専攻の仕組みがなっているのである。
これはちょっと惜しい気がする。



P. 13
しかし、半年間講義をし、試験をしてみると唖然とする。たとえば、「nを入力して、1からnまで足すプログラムを書きなさい」という問題に解答できる学生は、せいぜい二割である。残りはめちゃくちゃな答えであるか、全く手をつけていない。アルゴリズム云々以前の問題である。
こういうことが過剰に喧伝されすぎるがゆえに、「学力低下」なる現象のイメージが感情論で先走ってしまいやすいのではないか。
この記述だけを見ると、あからさまに学生がバカすぎるだけのような気がしてくるが、それは、ちょっと実態とは違うような気がする。
同じ学生が、同じような問題に対峙するのであっても、あるときはバカすぎるように見えて、あるときはとても聡明に見える、ということはよくある。

なんというか、その、その問題に解答できる2割の学生は、決して、その全員のなかの上位20%に入っていることを意味しない、というか。
いつもいつも、全員が全力で走っているわけではない、というか。

もちろん、全力で走らないのが悪い、というのは一般論としてはあり得る。

でも、全力で走った結果バカなのか全力で走っていないからバカなのかは、非常に重要な区分けだ。

もし、教員が、「問題に解答できる学生はせいぜい2割で、残りはめちゃくちゃな答えであるか、全く手をつけていない」という事態を、学生一人一人が全力で走った結果としてそうである、というふうに受け止めているのならば、
たしかに、あからさまに学生がバカすぎるだけ、であろうが、そうではなく、「全力で走ってる奴が少ない結果、バカな奴が多いように見えている」のだとしたら、これは非常に注意が必要であると言わざるを得ない。

学生たちが手を抜いて走っているさまを見て、「最近の学生はドがつくほどのバカばかりだ」というのは尚早である気がする。
そして、学生がどの程度本気でやっているかを見抜くことができないと(或いは、「最近の学生はドがつくほどのバカばかりだ」という物語を信奉することから自己慰撫的なうまみを引き出している人ほど)、そういう尚早をおかしてしまいやすい。

ああ、書いてみると非常に当たり前のことを言ってるな、と事後的に気づく私(^^;
注)引用部のハイライトは筆者注。

「頭のよさ」をコンビニの現場から考える
ここで俺は、長年にわたって考え続けてきた「頭のよしあし」について書こうと思うのだけれど、この場合の「頭のよさ」とは、「トータルで見て仕事ができる」くらいの意味だと思ってほしい。学力だけでもダメ、人柄だけでもダメ、頭の回転だけでも無理。まあ人柄は除くとしても、仕事というのは(職種による部分は大きいが)トータルの「頭のよさ」を求められることが多い、というところまでは同意していただけるのではないかと思う。

--- 略 ---

俺自身、20年近くのコンビニ経験のなかで、何人かの発注の達人を見てきた。そしてそいつらは、ほぼ例外なく学力も高く、高くない場合でも、本人にあからさまに勉強をする気がなかったか、あるいは環境が彼、あるいは彼女に勉強する機会をまったく与えなかったかのどちらかだ。つまり、発注、売場管理ができる人間は、例外なく勉強もできると考えていいと俺は思った。

 ちなみに、こうした人間には「勉強ってどうやってやってる?」と質問することが多いのだが、回答は以下のようだ。

「授業だけ寝ないでがんばってれば、あとは一夜漬けでしょ。暗記しなきゃいけないところと、そうじゃないところがあるから、暗記するとこだけ一夜漬けでいいし」

「勉強? 家で? あんましたことないです……」

「ノートじゃないすかやっぱ。あー、ノート見てワケわかんなかったら自分でまとめなおします」

「高卒の資格さえとれればいいってわかってたから、赤点すれすれになるようにしか点数とってなかったよ」

 共通している要素は「最初から点数をとる方法を理解していて、それにあわせてしか勉強していない」ということ。つまり「勉強というシステム」のほうを先に理解しているわけだ。ちなみにこういうタイプは、どういうわけか国語全般と英語の長文問題がやたらに強い。ちなみに、このへんの話は、俺自身が偏差値50程度の高卒なので、あまり鵜呑みにしないほうがいいかも。観察の結果「俺はそう思った」っていうだけの話だから。

--- 略 ---

でもって、こういうことを長年、えんえんと現場で考え続けて、あるいは観察しつづけてみて、こと仕事においては、頭のよさというのは、つまり「システムを把握する能力」と断言してよいのではないか、と考えるようになった。システムとは、つまり因果関係であり、構造だ。対象が、目に見えない、手にも触れないものの場合は、そうしたものを頭のなかで展開させる能力でもある。

 そして、システムを万全に把握したうえで、新たに自分自身でシステムを作り出せる人間が、いちばん強い。

--- 略 ---

アホなバイトを使いこなすのに苦労している世の管理職とか店長の方へ。上述のようなことを考えて、俺がたどりついた「アホの使いかた」的なものを書いてみます。参考になれば幸いです。

 仕事を教える場合は、可能な限り、すべてを定型業務に還元すること。単純作業ってことですね。「こういう場合は、こう」というように定式化する。そして同時に「そのときに絶対やってはいけないこと」という禁止事項を徹底的に叩き込むこと。「やらなければならないこと」と「やってはいけないこと」の両面から行動を制約することによって、単一のシステムで動くようにその人間を縛るわけです。もちろん例外的な事態は日常的に起こるわけですけど、その場合「パターンから外れることはすべて、ほかの人に質問しろ」と言う。もちろん手がかかるわけですけど、そこはもう、仕事において能力のない人を使っているわけで、そこをコストと割り切るしかないです。また、禁止事項については「こんなことをすると、おまえは(あるいは周囲のだれかが)ひどい目にあう」というかたちにすると効果があります。利益とか損失とかだめです。それは抽象概念ですので。

ははははは。

どうも、アホでーす。よろしく(^^)

でも、アホであることを自覚しているアホ、がもし居たとしたら、どういうふうに使うのがいいんだろう。


冗談はこれくらいにして、なんというか、いくつも思ったことがあるんだけど・・・。

まず、

勉強できるくせにやってないだけ、という奴が明らかに一定数いる

ということ。

そして、自分の頭で考えて行動していさえすれば、学校の成績とは関係なく、トータルでの賢さ、つまり仕事力ですか、そういうものはあがっていく、ということ。

これは結構、すでにマジョリティ化してる意見かな、と思う。


次。

「最初から点数をとる方法を理解していて、それにあわせてしか勉強していない」奴を構造的に、組織的に生産し続けている学校というシステムのなかに不備はないかということ。

個人的な意見を言えば、

いいんじゃね、今のままでも

というところだが、

一方で、学校のテストというのは、上で言われているような、「こういうときは、こう」的なことしか問われていないんじゃないか、というか、

あれ、これって、アホでもいちおう点が取れるシステムじゃね?

と思うわけで、だからこそ、

学校のテストはできても、トータルでの賢さに欠けて仕事ができない

人たちというのが組織的に生産され続けるという構造もまたあるなと、思うわけです。

上で言われている「アホの使いかた」ということに関してだけ言えば、「学校のテストはできるが仕事はできない」人たちに対しては、このマニュアルは異常なほどの威力を発揮すると思います。

でも、「学校のテストもトータルでの賢さにも乏しい人たち」には、ちょっと通用しにくいかな、とも思う。

だって、記憶力が・・・・・・。

でも、じゃあ、「学校のテストもトータルでの賢さにも乏しい人たち」を使う、これ以上のやりかたがあるのかというと、よく分からない。

「ただ覚える」ということと、「トータルで物事を考える」ということと、どちらが高度な能力かと言われると、そりゃもちろん後者だが、だからといって、「どっちもでけへん奴はまず覚えることから始めろ」というのもまた、十把一絡げ過ぎる気がする。

それでうまくいく奴もおれば、うまくいかん奴もおると思うからである。


世の中には、「私は記憶力に乏しいんです」と意見表明する人たちがたくさんいて、そういう人たちは、「まず覚えることから始めろ」って言われると、「うっ」ってなると思う。

そういう人たちの多くはむしろ、「自分の記憶力の乏しさを補おうとして、トータルで物事を考えるほうにリソースを集中させる」という戦略を取るような気がする。

えっ? そういう奴は、上で言うところの「アホ」にはなってないって?

かもしれない。


はい、3つ目。再度引用するね。

共通している要素は「最初から点数をとる方法を理解していて、それにあわせてしか勉強していない」ということ。つまり「勉強というシステム」のほうを先に理解しているわけだ。ちなみにこういうタイプは、どういうわけか国語全般と英語の長文問題がやたらに強い。
実は、国語全般と英語の長文問題がやたらに強い、というところがものすごく気になった。

なんというか、「システム全体が理解できる」という最終目標は一緒なんだけど、そこに到達するまでの過程に違いがあるというか。

世の中には国語派と数学派がいる

と思うんだよね。

国語派は、分からない、知らない物事に出くわすと、

まず全体をいきなり理解しようとする


ずーっと見つめていると、だんだんと解像度が上がってきて、やがてシステム全体を理解できるようになる。
解像度の荒い写真を、だんだん精細にしていくイメージだ。

一方、数学派は、知らない物事に出くわすと、

まず部分を見る

全体は分からなくても、部分なら分かるだろう、という発想である。

全体を構成する部分のすべてが分かれば、全体が分かるはずだ、と思って、部分の一つ一つをきちんと理解しようと努める。

その結果、最終的に、システム全体を理解できるようになる。


だから、数学派の人間は英文法が好きなはずだ。
文を一つ一つ丹念に理解しようとするからね。


たとえば国語でも、小学生のうちから夏目漱石とか太宰治とかを読みまくる子がいるが、これらの作品には今はあまり使わない結構難しい字も使われている。

その字は、読む小学生にとって、はじめて見る熟語、単語、言い回しであることも多いはずだ。

にもかかわらず、読める奴と読めない奴が出てくる。

理由は、そやつがまず見ているものが「全体」か「部分」かの違いのうちにある。
注)引用部のハイライトは筆者注。


小売店に小物を買いに行くときに、目的とする品物のありかを、自分で探すか、それとも店員に訊くか、で迷うことがある。

「店員が店のことについてすべて熟知している」という仮定(この仮定は法的には当然に前提されるものかと)のもとでは、これは、「店員に訊く」という選択をしたほうが合理的だ。

しかし、実際にはこの仮定が成立しないことがある。

「○○というメーカーの、△△という型番のボールペンがほしいんですけど・・・」と、具体的な商品名を店員に対して入力して、「申し訳ありませんが、当店にはございません。」と言われたにもかかわらず、自分で店内を確認すると、あったりする。

私ははじめてこういう状況に遭遇したとき、キレそうになったのだが、あらためて考えてみると、前述の仮定が成立すると勝手に思いこんでいる私のほうにも責めがあるのではないかという気がしてきたのだ。

「頭のよさ」をコンビニの現場から考える
 もうひとつ、前提としてコンビニの商売を高レベルでやろうと思った場合、どういう資質が要求されるかについて書いておく。コンビニの仕事の特徴は、小売業界でも有数なほどに仕事がシステム化されており、ひとつひとつの仕事は平易だが、その平易な仕事がやたらにたくさんあると思っていただければいい。求められるのは、記憶力、そして覚えたことを即座に実行できる覚えのよさ、覚えたことを忘れないこと、そして最後に「それでも思い出せなかった場合、どうするか」だ。コンビニには年に1回も利用されないサービスがごろごろしており、それらのすべてを記憶しておくことは、オーナーの俺ですら無理。マニュアルを確認するなり業者に問い合わせるなりするのだが、そのときアルバイトにはもうひとつ、「自分の責任の所在はどこまでなのか」を把握する能力も要求される。集団における自分のポジションの自覚だ。もちろん、これについては採用時にいやっていうほど教え込むのだが、わからない人間は徹底してわからないのが、この責任感覚ってやつの不思議だ。

 で、ここまで書いたところの仕事が、不断に、客によって邪魔される、というのがコンビニのもうひとつの特色になる。つまり、店員ですら把握しきれず、使いこなせないさまざまなサービスを、客がまともに把握しているはずはない。そうでなくても、コンビニにはレジという一大業務がある。それを「こなしながら」店を、あるいは客を管理していくことが店員の仕事となる。
小売店(上の例はコンビニだが)の販売を成立させているシステムは、年々複雑化・高度化しているがゆえに、かつてなら「店の人が店のことを熟知している」というのは常識だったが、その常識が成り立たなくなってきている、というところがありそうだ。

なんというか、

使われている人間の不幸

な気がする。

別に私は、小売店のオーナーor店員という仕事だけが特別に「使われる仕事」だと言いたいのではない。

売買の基盤となるシステムが複雑化・高度化したにもかかわらず、人間のほうが変化しない場合、人間の側は、「使われている」という実感または客観視を受けやすくなる。

これを克服するには、人間の側が、高度化したシステムを把握できるくらいにまでレベルアップすることが求められる。

システムの高度化は主に機械化、コンピュータの高度化によってもたらされたものである。

システムの高度化を実現するような機械やコンピュータをつくっていた人間はかつてどのように考えていただろうか。

これさえ完成すれば俺たちゃラクできるぜ

と考えていたのではないだろうか。

しかし、現実は、システムが高度化しても、人間のほうも賢くならないと使いこなせないので、当初の「ラクできるぜ」なるもくろみは、成就しない。皮肉なことに。

つまり現代社会というのは、「人間たちよ、もっと賢くなれ!」「賢くなら/れないと仕事ができなくなるよ」という圧力(機械の側からの要請)が、これまでにない勢いで掛けられている状態であると言ってよい。

んなこと当たり前じゃんか、とおっしゃるかもしれないけれど、

「資本主義下で、競争原理にさらされるから、相対的に賢くならなければ仕事がなくなってしまう」ということと、

「いつの時代にも高度な機械や技術をつくりたがる連中がいて、それの恩恵は社会に還元されるのだが、その恩恵をちゃんと享受しようと思ったら、人間の側もレベルアップしないといけなくなる」

ということとは別である。

そして、連中が高度な技術をつくりたいときにつくることができる自由を認めるならば、当然、その結果完成した高度な技術の利用を拒否する自由も認められねばならないのだが(俺はレベルアップしたくないよ、なんで技術者のお遊びの尻ぬぐいを俺らがせんとあかんの? という主張も認められて然りなのだが)、実際にはなかなか拒否することが難しいような気がする。
困ったさんなお客様
私「身分証のご提示をお願いしてよろしいでしょうか?」

お客様「はいよ」(どこかの会員証)

私「お客様、おそれ入りますが、身分証明書は、公的機関が発行しているものに限らせていただいております。ちなみに他の身分証明書はお持ちでいらっしゃいますか?」

お客様「(プチッ)ふざけんな!なんでこれがダメなんだよ!名前書いてあるだろ!」

私「公的機関発行の、お名前と生年月日とご住所が確認できるものでないとダメなんです。」

お客様「そんなのしらねーよ!上司出せ!」

私「これは法律で定められているので、確認しないと申し込みができないんですよ。」

お客様「うるさい、上司出せ!」

(...なに言っても言葉をさえぎって上司出せが続くので、仕方なく上司を呼ぶ。)

上司(年配)「どうなさいましたか?」

お客様「こいつが舐めた口きくんだよ!この身分証じゃだめだって。」

上司「お客様、大変失礼をいたしました。おそれ入りますが、本人確認法に基づき、公的機関の発行している証明書が必要になるんです。」

お客様「そうなのかよ、最初からそう言えばいいのに。」

上司「大変申し訳ございません。スタッフにはよく言い聞かせておきますので。」

お客様「ちゃんと言っておけよ。ったく最近のやつは言葉遣いがなってねぇからな。」(と言いながら去る)

部下がなめた口をきいていることに腹を立てているのではなくて、
 「部下はつかえない、上司からこっぴどくしかられるものだ」という物語(※1)を「提案」したのに、それが受け入れられなかったことの不満、なのではないだろうか。

提案した「ノリ」に向こうが「ノッってこなかった」ことに対する不満、というか。

こういう客は、

法的契約をする際にも、漫才をすることを相手に要求するんだな

と、ちょっと思った。



人は、自分が提案した物語が受け入れられないとき、どういう行動に出るのだろうか?

この客の場合は、ごねる。
「ノッってよ~ ノッてよ~」となんども言い、ノッてくれないと、「もういいよ!」と捨てぜりふを吐いて退散する。

ノッてくれない人に対して、どう対応するか。
ノせようとするか、ノッてくれそうな物語に提案を変えるか…。

自分が提案した物語が受け入れられないとなぜ困る?

自分のアイデンティティが侵害されるから?

う~む…。


※1 内田樹的に言えば「物語」、宮台真司的に言えば「ネタ」、斉藤環的に言えば「関係性」。内田樹と斉藤環が似たようなことを言ってるということは、元ネタはラカンか? 斉藤環氏の言説に関する論評・感想はいずれ書くつもり。
注)この記事は、oikaさんによるコメント「http://heis.blog101.fc2.com/blog-entry-59.html#comment81」への返信を兼ねています。


「投票率が低い」という現象は、政治に関する関心が低いということを示す大切な指標なわけですから、投票率だけ上げようとしても根本の解決には全くならないですよね。
政治への関心が低いことの原因を考える良い機会として利用すべきだと思います。



たぶん、


●現在、若者と年配者で投票率に大きく差がある。

●一方、理想は、これに差がない状態である。

●差をなくすには若者がもっと投票に行けばよい。→若者よ、投票に行こう!


という思考なんではないかと思います。


●若者の投票率があがるのを妨げている原因があって、それを除去すれば投票率はあがる、じゃあその原因はなんだろう?


というふうにはなぜ考えないのか。



例えば、ふだんきちんとご飯を食べてる子どもが、ある日急に食べなくなったとして、


●現在、子どもがあまりご飯を食べていない。

●一方、理想は、きちんと食べている状態である。

●理想に近づくには子どもがもっとご飯を食べればよい。→子どもよ、ご飯を食べよう!


と思考しますかね? 普通。


普通は、

●子どもがご飯を食べなくなった原因があって、それを除去すれば、これまで通りご飯をきちんと食べるようになるだろう

というふうに考えるもんじゃあ ありませんか?


この「若者よ、投票に行こう」的判断もそうですが、
官っぽい組織が下す判断の瑕疵には、一つの共通点があります。

それは、

・・・・・・

・・・是非考えてみてください(笑)。
テレビを見ていてふと思ったこと。




・・・環境に文句を言う人と、自分から動く人。

(fromdusktildawn氏経由の言葉で言えば、ウィンプとマッチョ、
内田樹氏経由の言葉で言えば、誰の仕事でもない仕事を自分の仕事として引き受けない人と引き受ける人)


・・・なぜ文句を言う人が多いのか?


・・・政治家(とか)がマスメディアで文句ばっかり言ってるからじゃね?

だから子どもがまねするんだよ。

「ああ、そうか。文句を言えばいいのか。」って。

マスメディアが無かった頃って、こんなにみんな文句ばっかり言ってたのかな?
名文より明快文 - 書評 - 非論理的な人のための論理的文章の書き方入門
かつての、少なくとも20年前までの「国語」において重視されていたのは、曖昧な文書から真意を読む、読解力だったように思う。娘たちの国語の教科書を斜め読みしても、この点においてはあまり変わっていない。「この著者が言いたいことは何なのか」?「そんなの著者にもわからねーよ」という「著者のつっこみ」はちょっとした風物詩にさえなっている。

あ、

学校の国語が、入試問題等において訊かれる「作者の言いたいことは何か」という問いに対する模範解答を作者が見てあきれかえったり、作者による「おれはそんなこと思ってないよ、そんなことを言いたかったのではないよ。模範解答おかしいね。」なる批判が出現してもなお、現行の学校における国語の在り方は、そのような批判に動じることなく粛々と今日も遂行され続けている理由が、
現行の学校の国語教育制度は強力な国家的伝統的バックボーンを擁しているからである、ということだけではない、
ということ

に、この文章を読んでハッと気づいた。

というか思い出した。


テクストは、原作者の意図を離れて解釈されることがあることを。

そしてそれは必ずしも「誤解」ではなく、人類社会に有益なる恩恵をもたらす何かであり得ることがあるといことを。

原作者が無意識のうちにテクスト中に忍び込ませていた何某かの内容ないし含意に、

原作者ですら気づかなかったような含意に、

原作者ではない読み手が、「ハタと気づく」ということが往々にしてあり得る。



書き手は、自分の書いた内容をすべて理解していると思ったら大間違いだ。

もちろん、「説明文」においては、

自分の書いた内容をすべて理解している

ということが前提されていることは、特に私たちが科学的態度を取り、科学的に物事を処理し、語り、聴こうとするときにおいては、非常に重要な条件である。

理系的なプレゼンの場において、「それなんなんですか? 説明してくださいよ。」と質問が来たときに、
さあ…、何なんでしょうねぇ。私にもよく分からないんですよ…。
なんて頼りのないことを言ったら、即座に退場勧告を受けるか、内心で「こいつアホとちゃうか」と思われるかのいずれかであろうことは想像に難くない。



だが、文学的なプレゼン(というのがあるのかどうか知らないが)の場においては、このよう応対は、必ずしもルール違反ではないように思われるのだ。

「そう、そう。そうだよね。自分がなにを言っているのか自分でもよく分からない、って、きわめて健全な、健康的な状態だよね。
 それをなんだ、誰だ、あたかも「自分がなにを言ってるか俺は100%分かっている」などとのたまうのは。無知の無知も良いところだ。人間に関する基本的理解が欠けているとしか言いようがないね。」

というふうに切り返されても「仕方がない」ように思う。


「自分の言ってることを自分は100%理解している」というのは、
原理的には「かなり無理のある」条件なのではないか、と思う。


ただ、この「無理」を無理矢理にでも仮定しなければ話がそこから先に進まない業界がある。

それが、科学的な業界であり、理系的な業界なのだろう。


ところで、あらゆる命題の論理学的な正しさは、その命題が演繹されるもとになっている仮定に不備がある場合、まったく無意味なものとなってしまうことが往々にしてあり得る。

だから、この、理系的な業界ではなかば常識化しているこの「自分の言ってることを100%理解している」という仮定も、もしこの仮定が間違っているということであったならば、
この上に展開されたあらゆる議論or結論は、無意味化してしまう可能性を帯びている。

だから、理系的な業界のなかで生きることがあるすべての人は、この仮定がどの程度、どの範囲で、どのような状況下で正当性を持ち得、また逆に、どのような状況下でなら正当性を持ち得ないのか、に関して、時には意識してみたほうが、
より豊かな知的生活が営めるのではないかと、素朴に思うわけである。



「作者に寄り添う」読み方にも2種類あるのではないか。
(作者に寄り添う場合とテクストに寄り添う場合の2種類)
(あ、寄り添うの定義は「相手の立場に立って物事を考えてみる」ね。実際にできる/たかどうかではなく、「やってみる」というところに本義がある。)


(1)文学的な文章

一つは、文学的な文章を読む際の、作者に寄り添う。
これはどちらかというと、作者に寄り添っているというよりかは、書かれたテクストに寄り添っているのである。

内田樹氏はレヴィナス氏に会った際に、大変歓迎されたそうだが、もし歓迎されなかったならば、内田氏はレヴィナス氏の書き物の価値を減じただろうか。

私はそうは思わない。

もし歓迎されなかったならば、「なぜこの人は歓迎しないのか」というふうな問いをあるいはただちに想起したのではないか、というふうに思われるのである。

いやな想像だが、もしかしたらレヴィナス氏は、内田氏が期待したほどの人物では、実際はないのかもしれない。

でも、「そうだ」と仮定していろいろ考えたりやったりしてみたら、ものすごく自分にとって学ぶところが大きかった、ということを事後的に知った、というところだろう。

そういう意味では、現行の学校教育における国語は、「作者の意図を読む」というよりも「なんかよう知らんけどこんなところにテクストが落ちていた。だれが書いたのかもいつ書かれたものなのかも知らねえけど、読み上げてみたらなんか楽しくなってこない? 書き写してみたらなんか楽しくなってこない?」
というような意気込みで、文章に対峙することを求めるものであると言えよう。
そういうような意気込みで、文章に対峙する態度を涵養することが、現行の学校教育における国語の「目的」であると推察することができよう。


ところでこの最初の「そうだ」なる仮定は、或る意味賭けである。

私たちは或るテキストに対しては「そうだ」と思い、また別のテクストに対しては「そうだ」とは思わない。

最初の判断はつねに直感的な判断である。

言うなればこれは、「ある問題が解けないうちから「これは解ける」と直感的に分かる」知性の構造と同型的である。



(2)理系的な文章

では、理系的な業界で生きることのある諸氏は、
かかる業界で生きる際に必須となるこの「自分の言ってることが何であるかは分かっている」とい大前提or仮定に対して、いかなる実感を得ているのだろうか。

この仮定に対して、
「この仮定は信じられる」という、いまだ立証されていない問題に対する答えを直感できているがゆえに彼らは、この仮定になんら疑義を抱くことなく、のうのうと今日も理系的ライフをエンジョイできている、ということなのだろうか。

この仮定に疑義を抱かない人だけが理系的ライフをエンジョイでき、
疑義を抱いちゃうほどに「無知の知」がきわまっている人は逆に理系的ライフをエンジョイできない。

そういうことなのだろうか。
そういうことでよろしいのだろうか。

わたしはあまりよろしくないように思う。

思うのだが、いまはこれ以上うまく説明できぬ。

筆を置くことをお許し頂きたい(to: 将来の、私を含むすべての読み手へ)。



追記1(UPは本文と同時期):

読み返してみて思ったのは、(1)と(2)が、

これって、

寄り添う相手が、生身の人間でなければならないか、

別に生身の人間であろうがなかろうがそんなことはどうでもよく、相手=寄り添い対象は、
寄り添おうとしている主体者の妄想上の人物、
寄り添おうとしている主体者の頭の中にしか存在しない空想上の架空の人物、
であっても全然問題ないか

の違いではないか思った。


なんというか、すごい人、自分が見習うべき人を勝手に頭のなかで妄想するということが、実に有益であるということを、知ってる人と知らない人がいるというか。


別の言い方をすると、(2)っていうのは、

「生身の人間の言ったことでなければ、価値がない」
「生身の人間の言ったことでなければ、理解しようとすることそれ自体がはなはだ無意味だ。」という命題を肯定してはじめて成立する。


これに対して(1)は、

「生身の人間の言ったことでなくても、それから自分がなにか学べそうであるならば、おおいに活用してやろうじゃないか」といった気概というか、厚かましさというか、貪欲さがその背後に感じられる。


人間というものを、「一生学び続ける者、あるいは、学び続けなければいけない者」として規定するとき、(2)よりも(1)のほうが、より優秀な見解であると断じてやまない。

この規定は、
「人間といえども生物の一員であり、いかなる生物もなにがしかの仕事をせずにはすぐに自らの命を潰えさせてしまうから、一時たりとも気を緩めることはできないのだ。私たちの全員が、命を抱え込んでいる存在である限り、学ぶことを放棄することはほとんどの場合、みずから死期を早める行為に同じである。」
という命題によって裏打ちされていて、
そして、この命題はどの私たちにとっても普遍的に妥当することであるから、

以上を鑑みる限り、(1)ではなく(2)を採択することはおかしいと言わざるを得ない。

とはいえ、
(2)を採択してみた結果、(2)を採択しなかった場合には判明しなかった様々な知見が、得られるようになった
という事実自体は、私たちは認めなければならないだろう。


なぜ、人間と生き物への観察に基づく思惟の結果が教えること((2)ではなく(1)を採択すべし)と反することが生起しているのか。

観察or思惟が甘いから。

なるほどそうかもしれぬ。

では「どういうふうに甘いのか」説明できるかね?


・・・ちょっと考える時間をください(^^;



追記2(UPは本文と同時期):


追記1の答えだけど、

(1)はさ、主体者が誰かとコミュニケーションすることが、必ずしも前提されていないわけ。(孤高でもよい、というか。)

(2)ではなく(1)を採択すべし、という一連の議論および結論は、例えば、
無人島で一人で、一切の他の人々との交流を絶って住んでいる人にも等しく適用可能な命題なわけね。

でも、よくよく考えてみると、そんな人は非常に少ないわけで。

ほとんどの人は、「誰かとコミュニケーションするであろう」という命題を肯定しておく必要がある。

そして、誰かとコミュニケーションするときに、お互いがお互いに、
「生身の人間としての相手に寄り添うのではなく、それぞれが発した言葉から想像された架空の人物に寄り添う」ということを以てコミュニケーションを開始したならば、どうであろう。

これはたぶん、ふつう我々がよく言う意味でのコミュニケーションにはならないんではないかと思う。


言うなればこれは、

お寺で複数人の禅僧が座っていて、あるとき、不意にある禅僧が
「ハッ、フッ、ヘッ、ぎゃぎゃぎゃ」
と大声で叫び(この叫んだ瞬間にその禅僧は何かを学んだor発見したor気づいたのだろう)、
また別のあるときに別の禅僧が、
「やややや、けけけけ、ららら、りりり、ねねね、わわ、をを、ららー」
と叫ぶ、
というような状況を、誰一人として不思議がらないような状況

であると言えよう。

(注:私は禅僧の実際について詳しくありません。禅僧の本来的な意味について詳しい方、私が非専門家が抱きがちなイメージだけで禅僧の概念を援用することによって、禅僧の本来的な意味を傷つけるようなことが、もしありましたら、是非、この概念についての「よりただしい理解」をご教示くださいませ。)


言うまでもなく、これは理系的なコミュニケーションの在り方ではない。

理系的なコミュニケーションの在り方はもっと明示的で明証的で、すべての命題は可視化可能で、
可視化されたすべてのテクストの意味については、
「原理的には、そのテクストをしたためた作者に聴けば100%了解されうる」
(もし了解されないとすればそれはおまえの読解力不足or書き手の表現力不足だ)
という前提で、全員が話している。コミュニケーションしている。


文学的なコミュニケーションにおける、例えばさきほどの例で言えば、「やややや、けけけけ」が何を意味しているのか、については、この言葉を発した生身の人間に訊いたところで、たぶん分からない。

そして、かかる生身の人間は、べつに頑張って教えなくてもいいことになっている。

これが理系的な場であったならばそうはいかない。

テクストの説明責任は必ず原作者に帰されるので、原作者が説明できないということが判明した瞬間から、そのテクストの価値はゼロに暴落する。



追記3(UPは本文と同時期):

気になるのは、

理系的遣り取りが人類史的に積み重ねの学問たり得るのはほとんど明らかだけれど、
なぜ文学的遣り取りもまた、ちゃんとした、積み重ねの学問たりえるのか、と言うところである。

きゃきゃきゃきゃ、がががが、と叫んでいるだけでは、理系的なメガネを掛けて見る限り、なにを言ってるのかさっぱり分からない。

また、この分からなさに対して、あくまでも理系的なメガネを掛け続けていることにこだわる限り、せいぜいこの先に待っている新たな意味は、

これは品詞で言うと何詞に分類されるのかとか(例:これは感嘆詞かな?)、
音韻学的にはどうかだとか、

そういう表面的な、目に見える、「客観的に観測可能なものそれ自体」が、そのような(時空間的)配置たりえている理由、何某かの制約を受けていそうであるのだがその制約の根拠、などなどについて分析するのがオチだ。

結局、「きゃきゃきゃきゃ」と発した人が、その発したときに感じていた心の変化を追体験してみるということは、叶わないままである。

これが、
物心付いたときにはすでに、どちらかというと文学的というよりかは理系的な物の見方に偏重していた人間(子ども)が、小学校的な国語の授業においてなした、理系的な物の見方に即して考出した回答が、国語の教師から「見当違いである」と一蹴される(のだがなぜ一蹴されるのかよく分からないままになってしまい、国語嫌いになる)
一つの根拠なのである。



追記4(UPは本文と同時期):

復習しましょう。

理系的なコミュニケーションにおいては、
あるテクストの文責を追求していった際に、それが最終的にきちんと生身の人間(いま生きている人間orかつて生きていた人間)に落ちるか、終着点が生身の人間であるか、
ということが厳格にチェックされます。

そして、この条件に合わないコミュニケーションは、「コミュニケーションに値しない」として排除されます。

一方、文学的なコミュニケーションにおいては、
あるテクストの文責が、かならずしも生身の人間に落ちる必要はありません。


比喩的に言えば、文学的なコミュニケーションにおいては、

俺がやったんとちゃうもん。俺の手がやってんもん。」という、小学生レベルの言い訳が、正論として、堂々と罷り通ってしまう業界である、

というふうに言うことができるでしょう。


ある言論・言説の行為に通常付随する有責性の宛先(の終着点)が「生身の人間」でなければならない、ということを大前提としている科学(自然科学)や法学(社会科学)とは、ぜんぜん違う業界である、
というふうに言うことができるでしょう。


ことほどさように、文学的な業界においては、ある言論・言説の行為に付随する有責性の宛先が「生身の人間」であることを必ずしも要求しません。

ある言論・言説の行為に付随する有責性の宛先が必ず生身の人間でなければならない、などという縛りは、人間たちの間にしばしば起こる紛争を、公平&公正&穏便に解決するための一時的な手段であり、方便にすぎません。

「こういう縛りを用意しておくと、文化や伝統や考え方がそもそも的に全然違う人たちの間でも、いちおう、それなりの、コミュニケーションが可能ですよ」
というくらいのものでしか無いのです。もともとは。

だから文学的遣り取りと理系的遣り取りと、どっちのほうが長い伝統があるのか、と言われれば、これは人類史的はあきらかに前者でしょう。

そもそも私たちの遠い祖先は、言葉などまだ話していなかった頃の先祖たちは、ぎゃぎゃぎゃぎゃ、とか、がががが、とかいう、言葉を言っていいのかどうかすら怪しいような音声を、まずは発していたはずなのです。


個々人が単に、ぎゃぎゃぎゃぎゃ、とか、がががが、とか叫んでいる状態、つまり、おのおのの妄想の間に相互作用が存在しない状態においては、まだ言語は誕生しません。

言語が誕生するためには、隣の人がなんか知らんけど発した「ぎゃぎゃぎゃぎゃ」という言葉の意味を、写経的に感得する必要があるのです。

少なくともそういう人が集団内に一人はいなければ、私たちの遠い祖先らの間に、言語というものは、誕生することができません。

だから写経的感得というのは極めて人間的な行為なのです。
人間と人間でないものを分け隔てる境界線であると断じてもさして過言ではないのです。
今日(2009.1.12)の朝日新聞の社説に、「若者よ、投票に行こう」的なことが書かれてあった。

こういう記述or呼びかけを見るのは初めてではない。

たしかに、政治家の顔が若者より年配者のほうに向きがちであるのは、若者の投票率が低いことが一因としてあるだろう。

だが、ただ投票にいけばいいのだろうか。

それは現在の法体系の理念に照らして適切な問いかけたり得ているのだろうか。

私はそうは思わない。


(1)だれに投票すればいいのか、

(2)投票する人をどのようにして選べばいいのか、

に関する追求がまったく等閑視されているからだ。


そもそも、自発的に投票にいかないような若者は、

私が上で示した(1)(2)で問われるポイントについて

どの程度自覚的であるだろうか。

私は、あまり自覚的ではないのではないかと思う。


投票とはいかなる行為であるかに関する基礎的知識の無い人間が、

投票行為をなすことは、

かかる人間が投票行為をなさない場合よりも

害が大きいのではないかというのが、私の素朴な感想である。


にもかかわらず、

「投票に行こう」ということばかりが選択的に喧伝され、

「だれに投票すればいいのか」

「有望な政治家を選ぶ際に私たち有権者が参照しなければいけない物差しは何なのか」

に関する言及が、ことマスメディアにおいてほとんど見られない

のはなぜなのか。


ひっじょーに気になるところである。
「先生はえらい」のさきにあるもの、について書くって書いておきながらまだ書いていないわけは、リアルの事情&書く気が失せた、ってのが大きいかな。
なんというか、この主題だけでゆうに10、20の記事は書けそうというか・・・・・・、
で、ある程度本気になって書こうとするとそれなりに時間もエネルギーも要るわけでして・・・・・・。

え? だったら軽い文体で書けって?

ごもっともです(笑)。


えっとね、フィンランドの五年生がまとめた議論のルールってのがあって、それがこれね。

1. 他人の発言をさえぎらない
2. 話すときは、だらだらとしゃべらない
3. 話すときに、怒ったり泣いたりしない
4. わからないことがあったら、すぐに質問する
5. 話を聞くときは、話している人の目を見る
6. 話を聞くときは、他のことをしない
7. 最後まで、きちんと話を聞く
8. 議論が台無しになるようなことを言わない
9. どのような意見であっても、間違いと決めつけない
10. 議論が終わったら、議論の内容の話はしない
まあこれは、言ってしまえば当たり前のことなんだけど、
時として人はこれを守れないor守らないときがあるんだよね。

ぼくがこのブログとの関連で真っ先に思い当たる例というのがまさにこれでして、

議論の抽象と具体
しかし彼女自身は頑なにそれを認めようとせず
やり取りを一方的に拒否されてしまった。
彼女からコメント欄で私を批判したにも関わらず。
これをひとりよがりで感情的な態度と言わずになんと言おう。
ひとりよがりや感情的な態度では
議論の是非を語る資格はない。
ここで、この議論がいかなる議論であったのかを繰り返すor約言することは避けるが、
少なくとも、そこでなされたであろうPsyche氏とほり氏の議論において、後者は、
フィンランド5年生ルールの7.と8.には違反していると思うし、
2.や9.にだって違反している疑いがある。

つまりこれは、フィンランド5年生ルールに従う限りにおいて、
そもそも議論としての体(てい)をなしていない。

これに対して、そもそもこれは議論ではないという逃げ論を行使することは有りだが、
それではあまりにも幼稚すぎる。
「議論じゃないなら、じゃあなんなの?」って話だし、
「議論じゃなくて、じゃあ何? 会話?」って話で、仮にあったとしても、
相手は議論だと思って話していたわけで、
そこを酌めなかった責任っていうのは問われてしかるべきだよなって、思うわけね。

つまり以上を一言で約言すると、「ほり氏のやっていることは非常識きわまりない」ということになる。


ところで、僕自身が、
ほんとうにほり氏のやっていることを100%非常識きわまりないと思っているかというと、
実はそうでもなかったりする。

というのはどういうことかというと、つまり、今回の一部始終、とくにその最後のほう当たりにおける
含意というのは、ほり氏にとって、とっても危険だったのではないかって、思うんだ。

内田樹氏もよく指摘するように、人間は、生物だから、危険から遠ざかろうとするし、
エサや快適なものがありそうなところには近づこうとする。

だから、めっちゃ危険そうなにおいを感じたら一目散に退散するのが、生物的には「正解」なわけで、
その際に、「ルール違反だ!」というようなそしりは、あくまで優先順位としては下のほうに成り下がっちゃうわけ。


たとえばさ、戦争中に夜中に卓上ゲームにいそしんでいて、
空襲警報がなったときに、「やばいぞ! さあ逃げなくちゃ」って一人が言ったときに、

「へへっ、勝ち逃げされるのが悔しいもんだからあんなこと言ってらあ」とか、

「途中で逃げないって約束だろ? おまえは約束を破るのか!」って言われたときに、

どう答えるかって話と、まさに相似形をなしているわけでして。


だから、ほり氏は、たぶん、いかに非常識だとののしられようとも、
より守らなければならない何かを守りきったとも言えるわけ。

ほり氏にしてみれば、フィンランドの議論ルールがなんだ、ゲームのルールがなんだ、くそ食らえ、ってなわけ。

それどころじゃない! なんと言われようが私は自分の命のほうが大事だから逃げる。

ってなもんだろう。

だとすればそれは正解だ。だれもほり氏の退散を止めることはできない。


この構図は、実は、小中高なんかでありがちな不登校の話にも関連があって、例えば、
正当な事由なく不登校なる行為をなすことは、学校内的ルールや社会ルールから見れば確かに違反していると思うし、
非常識な行動だとは思う。

でも、生命の危機生存の危機当人の実存が脅かされるという危機が迫っていると、当人が生物的本能に照らして察知した結果、
不登校のような、社会や学校の常識からすると非常識に映るこの行為をなすのであれば、
私たちは彼or彼女を責められるだろうか? 
否!

命が一番大事です」という命題が大前提として横たわっている限り、
私たちはかかる行為を、学校や社会の常識に照らして断罪することは妥当でない。


ほり氏がそこまでして守らなければならないものは何なのか、それは私にはまだ分かっていない。

でも、それを知ろうと努力することが、私がほり氏を取り巻く言説に興味を持ってそれをなぞり理解しようとすることを欲するとき、まずやらなければいけないことなんではないか、という風に、思うわけだ。

Aさんとっては全然大事でないことが、Bさんにとっては死活問題にかかわるほど大事なことである、ということがあり得る。

このことについての自覚が欠けていると、「あいつは議論の基本的なルールすらも守れない奴だ。小学生からやり直してこい!」というような、見当違いの批判をぶつけて、またぶつけられて、お互いにとって不幸だ。
また、社会にとって(価値創造の)機会損失だ。


まだ言わないといけないことはたくさんあります。
それについてはまた次回ということで。
前に「違和感表明のためには斟酌が必要」と書いたが、それにとらわれていると、なにも発言できなくなってしまう。
それはそれで、とても悲しい。
結局はトレードオフなのかな、とも思う。
というわけでさっそく書く。

バカだと言われようがとりあえず書いてみる(誹謗中傷系違和感の表明には、十分な斟酌が必要かなと思うけれど、斟酌不十分の違和感表明した結果のデメリットが、自分がバカ扱いされるだけであるならば、まあ別にいいか、という気にもなってくる。)。
「自分がこれまであまり関わってこなかった事柄について、人々よりも無知である」ということは、変えられないわけだし、変えられるのは、少しでも学んで成長することだろうから。

だいたい、「高校生でも分かること」だとか言って一蹴する態度そのものが、半分詭弁なんだよね(前にも書いたけど、高校生の多くは、高校での履修内容についてちゃんと分かっていないわけだし…。)。
だって、高校って基本選択制だから、理系を選べば文系的科目のどれからはやらない、あるいはおろそかになるわけだし、現に現在の高校における地学の履修率とか、かなりやばいらしいし・・・。

あ、そっか。
整理して書いたやつと、走り書きしたやつをカテゴリーで分けておけば、リーダーフレンドリーだな。
あ、でもそれするのめんどくさい。

どうしようか。

ま、読む人が増えたらまた考えようか。なーんて。


日本は法治国家なのか
派遣労働者の置かれている状況が、日本経済の悲惨な現状を集約していることは確かだが、その怒りが役所に住居の斡旋を求める陳情になるのでは、現状を打破できない。彼らの敵は、生産性を大きく上回る賃金をもらって終身雇用を保障されているノンワーキング・リッチなのだ。
う~ん・・・なんか言ってることが赤木智宏氏(「希望は、戦争」の話だったかな)と似ている気が・・・
割を食った人と食わなかった人がいて、その格差を国が能動的に是正すべきだという議論は、しばしば被害者利権の温床となり、どっちが被害者か分からなくなるといういたちごっこの様相を生産する。

「池田氏の議論」と「赤木氏およびそれ系の議論」との違いは、ひとえに、
割を食っている人たちが、国に文句を言うことで問題を解決しようとしているか、それとも現在の既得権益者に直接文句を言うことで問題を解決しようとしているか、の違いだと思う。

あ、これって、障碍者サポートの話とも似てるよね。
公民館の入り口に段差があるのを、段差を移動するたびに人を呼びつけないといけない状況と、スロープがあれば自力で公民館に入れる状況の違いというか。

そういえば、先日、渋谷の自警団?の話を見聞きしたけど、
あれって、
(A)セカンドオピニオン&裁判員制度&教師・警官の不祥事報道&以下略の流れをくむ(←以前記事に書いた)、専門家と非専門家の境目の曖昧化の亜種なのかな
って一瞬思ったけど、
(つまりは専門家が信用できないから非専門家が立ち上がるという構図。強盗がきたらこれまでは警察を呼んでたけど、警察が信用できないからこれからは銃を携帯して自分で自分の身を守ろう、的な方向性というか。あれ、これって国家転覆の第一段階じゃないの?(笑))
そうではなくて、
(B)「手触りと手応えのある地域感覚の復権」であるとも考えられるよね。

これまでは、特定の分野における自分の判断能力をゼロと査定し、それに関する自分の全権を専門家にゆだね、「お願いしますだにぃ」と言わんばかりに専門家にベッタリくっついてそれに100%したがう、的なだったけれど、
やっぱりそういうやり方をずっと続けていたのでは、民度が一定以上にあがることは期待できなくて、じゃあ何が必要かっていうと、
100%権限委譲するのではなくて、「専門家かどうかを判断する能力」は、非専門家でも持っていなくてはいけない、っていう方向に、世の中が舵を切っている、という感じはするよね。

でもここで問題となるのは、例えばセカンドオピニオン的な流れにおいても、「専門医認定制度」とか行政主導でつくってさ(本当に行政主導かどうかは知らないけれど)、「さあ国民よ、われわれ官が『だれが専門家か』を教えてあげるから、これさえ見てれば安全だわよ」って言うから本末転倒なわけで。

そういう意味ではネットリテラシーってのはどれくらい危険なアングラ系サイトを踏んできたか、ITリテラシーってのは、どれくらい多くのパソコンを起動不能にしてきたか、で計量されると言っても過言ではなかろう(笑)。

でも、あくまでも表向きとしては、「アングラ系を踏め。さすればあなたがたのリテラシーは上がるであろう」なんて口が裂けても言えないから、お茶を濁したような表現でごまかすという、行政のための行政指導に終始するという愚が発生するわけで・・・。

(A)と(B)、どっちが正解なのかなぁ~。


人権という迷信のコメント欄
辻広氏もいうように、基本的には雇用ルールは労使で契約ベースで決めればよく、行政はその契約が社会的的に有害かどうかをチェックすればいいだけ。
それを厚労省がいろいろ煩雑な規制を強化するから、結果的には非正規社員の境遇が悪化し、失業率が増えるのです。
こんなことは自明の理で、今さら論じるまでもない。ところが八代尚宏氏などがそういう意見をのべると、すごい政治的な反発があるので、恐くて誰もいえない。当ブログでいうしかないのでしょう。
あ、そうか、なるほd。

その契約が社会的に有害かどうか、ね。ふむふむ。

自分が割を食っていることを自覚した人たちがまずすべきことは、「いーもん。ママに言うもん。」と叫ぶことでも無ければ実際にママ(国とか)に言いつけてみることでもない。

それではいつまで経っても、「自分たちで物事を解決する」という前提が育たない

法とか社会とかが判定すべき事は何か(この場合で言うと、それはあくまで、「ある契約が社会的に有害かどうか」だけであって、それ以上国とかが当事者間の契約に口を挟むことはしてはいけない、ということ。)、に関する基本的認識の錯誤が、経済学者とかと一般人の間であって、で、一般人の認識という衆愚の空気を読む奴らが騒いで数の論理で何事かをなそうとする構図がある、という風に考えれば、あるいは・・・。
注1)以下の<本文>の内容は、ブログheis.blog101.fc2.comになされた次のコメントへの返信を兼ねています。
http://heis.blog101.fc2.com/blog-entry-54.html#comment78

注2)以下の<本文>とほぼ同じ内容のものを、次の二カ所のURL内に記載します。
http://heis.blog101.fc2.com/blog-entry-55.html
http://blog.goo.ne.jp/kkhrpen/e/d8064c0453cb0b75fcc9a591c51cefe4
同じ内容を、管理人がそれぞれ異なる場所に掲載することは、内容の公然性を保証する上で重要であると考えます。



<<<本文>>>

ほりさん、あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

新年早々、コメントを頂け光栄にございます。


私は、私自身の解釈には、特段大きな誤解はないと存じております。

私が記事中で示した見解は、確かに「ほりさんが力説せんとされたところ」からは若干ずれている可能性はありますが、私はそれを「誤解」などとは呼びたくありません。

こういうのは、「誤解」ではなく、「相手の意図するところを読み解こうする試みから、図らずも、全然別の、新しい問題を発見し、それを解決していた」と言うのです。

新しい問題が日の目を見、それが解決されることは、これは人類の遺産(財産)に一つの、小さいけれども確実な、方便の一つを付け加えることですから、これは決して、無意味なことではありません。

(え? 無意味でなくても有害かもしれないって? ふむ、確かに否定はできませんね。しかし、有害かもしれないものを野放しにしておくことの公益は、計り知れないものがあると思いますよ。「推定有罪」がいかに無益であるかは、ほりさんご自身が実感なさっていることではないかとお察しします。)




ほりさんは、ご自身のブログにて

> 「学ぶ力」はいかなる環境をも選ばずに挑んでいける力だからである。

とお書きになっています。

私はこの「いかなる環境をも選ばずに」という部分が、とても大切なのではないかと思いました。

これはすなわち、「どんな先生に当たろうとも、文句一つ言わずにちゃんと生きていける力」のことです。

このことからは、

「先生にいいも悪いもない」
「いい先生も悪い先生もない」

ということが、言えそうな気がします。

実際、内田樹著『先生はえらい』は、そのことについて何百ページも割いて叙述されているのだと思いますし、内田氏やほりさんが何度も言及されている「大石先生」についても、事の本質は同根であるとお察し致します。

また私自身、この『先生はえらい』なる書物を、なんども首肯しながら読みましたし、自分のこれまでの行ないや考えてきたことに照らして不整合がないことを何度も確認しながら、実感しながら読みました。

また、かつその叙述がほりさんのおっしゃることと不整合がないこともまた、何度も確認しながら、実感しながら読みました。

はい。




さて、ここからが問題です。

私は、 そ の う え で 、「さて、ではいい先生とは何でしょうか?」と問うてみているのですね。

分かります?

いや、たぶんお分かりにならないのではないかと思います。

人によってはこれを、

「おい、いや、ちょっと待て、いま、良い先生も悪い先生もないって言ったばかりじゃねーか。」

とか

「おい、いや、ちょっと待て、それって、『先生はえらい?』の内容について、おまえ、全然理解してねーんじゃねーの?」

という風に切り返す御仁もさぞかしたくさんおられることでしょう。

それは承知しています。

承知していますよ。

承知しています。

しかし、それでもなお、やはり、私は、なんとなく、「そのうえで、では、いい先生とは何でしょうか?」と問いかけなければならない気がするのです。

気がするのだから仕方がない。

私のこの「気がする」に、ほりさんが共感されるかされないかは、私の知ったことではないです。

また、「おまえがそのような『気がする』のは、それはおまえが『分かってない』からだ。」と英断なさるのは自由です。

ただ、私自身は、「そのような判断からは、なにも生まれないのではないか」と案じております。




話を元に戻します。

「教えるつもりで学ぶ者==>本当に学ぶ者」というのは、確かに、ほりさんの記事に対する解釈としては誤りなのかもしれませんが、
ほりさんの記事に私自身が勝手に触発されて、「教えるつもりで学ぶ者==>本当に学ぶ者」なる考えを発想したのだとすれば、これは誤解でもなんでもありません。

私は現に、「教えようとして学ぶ者はほんとうに学ぶことができる。」ということを、ほりさんの記事を読むことで、思いつく乃至は思い出すことができました。

また、私はその考えに着想を得て、

「子ども」に焦点を当て、「子どもの学び」について追求していった結果としての「先生はえらい」説



「先生」に焦点を当て、「先生自身の学びと成長」につい追求していった結果としての、「先生はえらい」説への懐疑

が、これは単に「扱っている主題の違いゆえの背馳」ということではなく、
もっときちんとした仕方で止揚可能であるのではないかということに思い至り、

「良い教師とはなんじゃらほい?」

という、この単純なしかしながら傍証の豊富さにおいては盤石の強さを誇るこの「先生はえらい」説への挑戦

を試みるに至ったのです。

(でありますからして、こういう背景をたどることなくなされる、私の「『先生はえらい』説への挑戦」の試みへの批判は、すべて無効であると考えております。)



確かに、ほりさんのおっしゃる通り、「先生はえらい」説、つまり、「良い先生かどうかということは、子どもの学びとはなんの関係もないことだ」とする説は、「教えるのが上手な先生、下手な先生」というような物言い自体を禁止します。

ほりさんがこの観点から、すなわち、「先生はえらい」説に立脚した視点から、

> 「「教えるのが上手」という言葉の意味を、「子ども自らが、誰かに教えるということを念頭に置いて学ぶようにし向ける教師は教えるのが上手」という風に理解するならOK。」ではありません。

という風におっしゃるのは理にかなっています。

がしかし、「私の言いたかったこと」「私が気づいたこと」はそこではなかったということを、どうかご理解いただければと思います。


さしあたっては言葉を尽くしたつもりでございますが、不足ないしは不明な点、お気づきの点があればいつでもご指摘くださいませ。



追伸:

唐突すぎて理解されないかもしれないけれど、実を言うと、
「Psyche氏のとある意見」と「madographos氏とほりさんのとある意見」の対立に対する止揚を私が書きしぶったことのツケが、ここに来ているのですね。

思いついておきながらそれを書いてみたりすることをせず放置するのは、これは怠惰と呼ばれるものでしょう。

やっぱり、思いついたことはすぐに書くべきであるなあとひしひしと感じます。

私の怠惰が、今回のような「小さな波乱」を呼び起こしてしまいましたことをどうかお許しくださいませ。




あ、これ、消さないでね。

消したら ○ンデレ認定くだします(笑



2009.1.4 22:05追記:



教えることと学ぶこと(補足したら長くなった)のコメント欄より



「先生はえらい」への挑戦は、陥りやすい落とし穴なんです (ほり(管理人))

2009-01-04 18:55:44

あくまでも「先生はえらい」のです。



heisanさん、ごめんね。

やっぱりコメント、控えて下さい。






予想通り(と言っちゃうと失礼なんだけど)のお返事でしたww



なんというか、突っ込みどころが多すぎてどこから突っ込んでいいのか分からないんですが・・・
(笑



つくづく、人間というのは、見たいものしか見えないんだなって思うよ・・。



そしてまた、見たいものしか見えていない人間に、こっちが見させたいものを見せるのがどれだけ大変か



ということがよく分かるよまったく・・・・・・。



こういうのはやっぱり、僕みたいな「界隈の者」がいくら騒いでもダメなわけで。



やっぱり、ほり氏の私淑する養老先生にガツンと言っていただくより他はないのかなぁ・・・・・・。なーん
て。



ま、ほり氏が私の言わんとするところを理解しないor理解したがらないことそれ自体からくる実害もしくは公害というのは、基本的には無いわけなので、まあ無視してもいいっちゃいいわけなんだが・・・・・・。





ま、いいですよ。そのうち書いていきますから。



「先生はえらい」のさきにあるものがなんであるのか、ということをね。





「先生はえらい」のさきにあるものがある、と思うこと自体がピットフォールである、と主張するのならば(←実はこの主張自体が、ユダヤ差別問題を取り巻く構造と同型をなしていそうなのだが)、



論拠を示しつつ理知的に分析的にスパッと(orふにゃふにゃ)語るか、論拠を示さずにふにゃふにゃと語るか、このどちらかであってもらいたいものである。



論拠を示さずにスパッと語られるのが一番タチがわるい



それどこの言論統制国家? それどこの洗脳国家?



論拠を示さずにスパッと語っていいのは、古典だけだと思う。



なんでかって?



それはね、古典は、「長年の風雪に耐えてきた」という実績があるから。






















ふにゃ スパッ
論拠 示す

(丁寧or慎重な説明)


(よくある説明)
示さない

(@常識の手柄)
△※

(古典or思いつき)



※思いつきなら思いつきで、ふにゃふにゃしておれば良いのに、思いつきを根拠に相手に「黙れ」と怒鳴りつけるなどルール違反もいいところ。




教えることと学ぶこと
教えることと学ぶことは、一般に、表裏一体、あるいは対であると考えられているだろう。教えれば学ぶということである。基盤にある考え方は、「教える」ことによって「教えられる」という能動と受動の関係が成り立つというものだろう。しかるに、人にものを教えた経験のある人なら誰でも思い当たるのが、人は教えられても必ずしも学ばぶわけでないという事実である。教員なら、ほら、授業であんなに一生懸命に教えたのに、試験をしたら全然できていなかった、である。教員なら、ほら、授業であんなに一生懸命に教えたのに、試験をしたら全然できていなかった、である。ここでは「教える」と「教えられる」という態は、実質的に対となって機能していない。これは、教えることと学ぶことが全く異質の別物であるということを示すと考えられる。また、「一を聞いて十を知る」という言葉がある。聞いた内容は、きっと何らかの教えであろう。それで、ある言葉が存在するという事実そのものは、この言葉が示す内容が滅多にないからか、逆によくあることかのどちらかゆえだと思うが、この場合はおそらく前者であろう。私が言いたいのは、教えることと学ぶことは、同じ座標軸に存在しないという事実である。両者は異次元の営みであるということで、「教えれば学ぶ」という一般的な考え方は、真実から外れていると言うことである。

 昨今、教えることばかりが問題視されている。教員に対する研修などもそれである。この文脈で読み誤られると困るから書くが、この研修の目的が、教員に良い教授法やなんのかんのを学ばせることそのものが主眼であろうはずがない。(当たり前だけど。)上記の一般論を鑑み、教員がうまく教えられるようになれば生徒はよく学ぶようになると目論んだ手段として「研修」が位置づけられる。(教員は研修を受けても学ばない、といいたいのではないからね、念のため。まあ、そういうことがあるかもしれないけど、私が言いたいのは、教員に学ぶ能力がないなら、教員に学ぶ力をつけさせることそのものが目的だというのではないからね。ことの本質を誤解しないでね。)子供が学ばないのは、教え方が悪いせいである、先生が良い先生であるならば、子供はもっとよく学ぶはずである、ゆえに、教員に十分な研修をさせ、教えるのが上手な、とにかく、先生として良い先生を作れば、子供はよりよく学ぶだろう、という考えが根底にあっての研修である。目的は、あくまでも、子供をよく教えれば、子供はよく学ぶ、という考え方から、教員に目を向け、質の高い教員の養成を求めるのである。

ここまで書けば、もうおわかりいただけようが、良い教員を作れば子供はよく学ぶ、という考え方に全く欠けている概念がある。そう、「子供」という主体的存在である。子供が主体として、どのような存在であるのか、あるいはあるべきか、という見方がすっかり抜け落ちて、教員にのみ目が行っているのである。よく教えれば学ぶ、つまり、よく教えられる、という能動と受動の考え方は、言い換えると、子供とは全く主体性のない受動的な存在であるという認識が「教員の質を高めれば子供はよく学ぶ」という教育観の根底にあるのだ。

これって、ひどくない? だって、子供という存在の主体性を丸っきり無視してるのですよ。
端的に言って、子供を信用していないのである。ぱっと見には、それこそ子供を大切にした考え方に間違われそうだが---だって、子供の周りに「教えるのが上手な良い先生」を置こうとしているのだから---、一皮めくれば、子供の学ぶ力、学び取る力を信用してないからできることなのである。

(略)

生徒に必要なのは、良い先生ではないのである。必要なのは、生徒自身が学ぼうとする力なのだ。生徒には「学ぶ力」をつけさせるべきなのだ。先生に教える力をつけるよりも、生徒そのものに目を向けて「学ぶ力の育成」を図った方が、どれほど効果的な学習が出来るか分からない。(で、ついでに言うと、学ぶ力がある生徒集団を教えるには、教える力が必然的に要求され、独りでに、先生の方もちゃんとやるようになるものである。研修よりずっと効果的であろう。)それが、子供の人生にどれだけ役に立つ真の力になるかわからない。なぜなら、「学ぶ力」はいかなる環境をも選ばずに挑んでいける力だからである。人生は誰に対しても眼前に開かれている。出来るのは、そこにいかにして能動的に対処するか、つまり、自分で自分の人生を引き受けることができるかである。子供の人生は全くの未知である。未知に対処するのは、こういった能動的な力である。口を開けて人が何かを入れてくれるのを待っていたのでは、「何をやってもつまらない。もっとおもしろいことがあるのではないか。もっと自分に合ったものがあるのではないか」と、積極的に見えながら、実態的には「待ちの姿勢」でしかいられなくなるということになる。(「自分探し」も同じである。)
 子供の「学ぶ力」をバカにするのは、もう、止めたらどうだ? 「イマドキの子はこうしてやらないと、しないから」と言って、懇切丁寧にやればやるほど、彼らは何も出来ない人間に育つだろう。
   部は、重要な部分。
   部は、「よくある誤解」な部分(多分)。
   部は、読み取りに注意が必要な部分。

●「教える」ことによって「教えられる」
 → 教えようとして学ぶ者はほんとうに学ぶことができる。

●人は教えられても必ずしも学ぶわけではない。
 → 教師が企図するのと別の学習をしている可能性。先日のapj氏の言葉を借りれば、勉強中に邪魔するとどうなるか親に分からせようとして意地でも勉強しない子どもと、規則的に勉強する習慣を付けさせたい親の関係。こうなると互いに不幸。

●教えるのが上手な、とにかく、先生として良い先生を作れば、子供はよりよく学ぶだろう
 → 「教えるのが上手」という言葉の意味を、「子ども自らが、誰かに教えるということを念頭に置いて学ぶようにし向ける教師は教えるのが上手」という風に理解するならOK。一方、「うまいもんを口に放り込んでくれるのが教えるのが上手な先生」という風に理解するとまずい。

■「教えてもらう」は受動的、「教える」は能動的。そして、「教えるつもりで学ぶ」は能動的。

■ほり先生の言う「教える」っていうのは、子どもを受動的な存在(主体性のない存在)にとどめおく、ということを指しているようだ。
それは、教える側と教えられる側の立場の厳然たる違いを子どもの側に悟らせようとする営みであって(※)、こういうことをしていると子どもはいつまで経っても自立できないし、教える側に回ることができない。「ゆくゆくは自らも教える側に回るのだ」ということを想像しながら学んでいる子どもは成長するだろう。逆に、そうでない子どもは(以下略

※誤解があるといけないから言っておくと、これは別に、子どもと教師の立場の境目が曖昧化することを良しとするものではない。
 教師=はなから教える側の立場、子ども=教えるつもりで学ぶことによって、教える側に回ろうとする立場、なわけだし。