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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
誤読について。


> 誤読しないで欲しい
http://blog.goo.ne.jp/kkhrpen/e/463a9a953c2644e53286cfa38a2efc98

実は、誤読があっても不思議ではないな、と思っている。


というのは、

> 今日の内田先生ブログ
>
> >そんな暇があったら、その欠点だけらの人間にもどんな「いい点」があるかを考えた方がいい。
> >これは私が30年にわたって教壇に立って、学生たちを教えてきて骨身にしみて学んだ経験則である。
>
> >「集団の合意形成のために地道に努力すること」は「正しい目的地にたどりつくこと」よりも優先順位が高いと私は考えている。
>
>  やっぱりね。
>
>  人間の性向には、理科的な絶対的な態度を取る人と、社会科的な相対性、人間関係に軸足を置く人がいると思っているが(いっとき、よく記事にした。)、今日の内田先生ブログほど、この観点を如実に示したものはない。もちろん、内田先生は、後者である。この点、養老先生は、内田先生ほど軸足を社会科的な相対性に置いていない。
http://blog.goo.ne.jp/kkhrpen/e/6ada83cd284164c0d65a9b135cf27eac

内田先生のこの記事の該当箇所に対して、「やっぱりね」と反応するその気持ちが、私には分かっていないからである。

最近ようやく、ほり先生が長年主張されている「絶対性」とやらの意味が分かりかけて気がするのだが(養老先生の「無思想」のことを考えていたら、ほり先生の「絶対性」
の概念にとても近いと思った。それで、これらは本質的に同じなのかもしれない、と考えるようになった。「無の絶対性」ということなのだ。たぶん。確かにこう考えれば、それは、数学でいうところの原点や、或いはまたその原点に対する無限遠などを指すもの「ではない」ということが、わかる。)、内田先生の記事の例の箇所に対して、この絶対性・相対性の概念が適用できると考えられているあたり、まだまだ、私はそれを解るところまでは行っていないのかもしれない。



> これは、彼が大学の先生として、あくまでも、学生の一人一人を個人として指導してきたのだなと言うことを意味するだろう。それで、私のような高校教員の感想とだいぶ異なろう。
>  ついでにもう一つ言うと、それで、こっちの方が言いたいことだけれど、彼にしても、あるいは彼が所属する教育集団にしても、共に、たいした教育力を発揮しなかった、あるいは、内田先生が学生の変貌に気がつかなかった、かのいずれかである。

http://blog.goo.ne.jp/kkhrpen/e/6ada83cd284164c0d65a9b135cf27eac

ここも解らぬ。
「個人に対する指導は教育ではない、集団に対する指導だけが教育である」というふうに教育の定義をするのであればまだ解るが。
でも、ほり先生的には、そうでもないらしい。

だとすると、あと考えられる可能性というのは、教育効果を発揮しているかどうかによって、それが教育であるかどうかを決める、というものであるが、かりにそうだとすると、上の引用記事には論理の飛躍があるように思われる。

すなわち、「内田先生がやられているような、個人に対する指導は、教育効果を及ぼさない。一方、高校でほり先生がやられているような、集団に対する指導は、教育効果を持つ」ということが、なぜなのかの理路が、明示的に表現されていない。

集団に向き合えば、理科的な絶対性的扱いになり、個人に向き合えば、社会科的な相対性的扱いになる、ということなのだろうか。
なんか違う気がする。



>  公教育に従事し、「生徒集団」を対象とする身にとっては、そういう生徒個人の数は、なるべく少なくしたい。いくら「集団の合意形成」で人が幸せになろうと、公教育という観点でいうと、レミングの集団は、断崖から落っこちては困る、ということだ。
>
>  この観点で言うと、内田先生は教育者ではない。


ああ、ここが一番わかりやすいかな。
要するに、例えばここで、「オピニオンリーダー」と「内田的振る舞い」(集団の先頭に立つのではなく、なかにいて、合意形成のためにごちゃごちゃする振る舞い)を対立概念として捉えると、
「教育者というからにはオピニオンリーダーでなくてはダメで、それをしない内田先生は教育者ではない」という論理なのだな。知らないけど。
そうだとすると、まだ、わかるかな。
ほり先生的には、教育者は、「そっちに行ったらダメだ」と獅子吼する人(←内田先生の言うところの、オピニオンリーダー)でなければならないだろうから。

だとすると、教育者とは「正義を高飛車に振りかざす胸くそ悪い奴」とイコールである、ということになる。
まあ、さもありなんかな、そういう考え方もあるかな、とは思うけれど。
全面的賛同はしないけれど。

というのは、オピニオンリーダーがオピニオンリーダーとして活動できるのは、内田的振る舞いをする人が集団のなかに居るからでしょう?
一人の力でオピニオンリーダーができているわけじゃない。

教室の中に、教師の味方をする一種優等生的な子が何人かいて、しかも、その子のそういう側面は正しいと思っている子がまた、その優等生的な子それぞれにつきなんにんかいて、・・・という構造があるから、教師はオピニオンリーダーができるわけであって。

このあたり、たぶん、集団の取り方が、ほり先生の想定と少し違うのだろうな。
「教師集団は一丸となって意見を一致させていなければいけない、なぜなら生徒は多数決にしたがうから」という想定があるように思うから。

まあ個人的には、「それどこの託児所? それどこの少年院? それどこの刑務所?」とも思うわけだが。
@shinji_kono さんは「みんな一緒は小学校までいい」とおっしゃっていたが、さながら、ほり先生は、「いわゆるそういう小学校的な、刑務所的な環境のみが、真に教育効果を発揮しうるのであり、その職務に従事する人のみが、真に教育者と呼ばれるにふさわしいのである」という考えをお持ちのように見える。
まあ、ここ以降につづく話は、これまでに何度も繰り返し言及していることなので、詳細は割愛するけど。

ちょっと新しめの話を書いておくと、
小学校までに、刑務所的教育が完了していないから、中学校、高校に至ってもなお、ずるずると、刑務所的教育を継続しなければ成り立たない、ということに、なっているんじゃないかしら。

「刑務所的教育だけが真に教育と呼べるのであって(なぜならそれだけが人間を根本から変えるから)、生徒のアドバイザーみたいな、ぬるい、或いは、生徒の自主性を少しでも認めるような環境であっては、生徒の「根本的なところ」はちっとも変化しないままではないか」
という主張であると考えるならば、まあ、解らなくはない。



あ、最後に。
この記事の内容に影響を受けた反論ないし反論に準ずるものがもし見られたら、そのときは私も、「誤読しないでほしい」「最近、この手の誤読が多い」って言ってみようかな(笑)。言わないけど。だって、そういう風に言うのは簡単だから。

個人的には、「誤読しないでほしい」という願いの意思表示よりも、「最近、この手の誤読が多い」という言葉の奥にある、正義の身勝手な措定を無自覚に普及させようとする態度そのものに、自らの神経を逆撫でさせられるものを感じるわけだが(まあ一言で言うと「その高飛車ぶりが鼻につく」ということであるが)。「落とし穴」という表現も同様である。
「なぜ貴様は、それが「落とし穴」であると解っているのか、その根拠はなにか」と、直ちに問いただしたいところだが、相手に表現力がないなら、そういう求めも徒労に終わるだろうし、或いは、もしかしたらその主観的な答えはほんとうに「なんとなく」とかであったりするのかもしれない。
それはそれでいいと思っている。「根拠のないことは言うな」という言説に手放しで賛同はしないほどには少なくとも私はなんちゃらの重要性を認識しているつもりである。
ただ、その場合の意思表示には、一種の作法が必要だろうともまた、思うのである。

まあ、作法とか言うと、「それは人間関係です」とかいう突っ込みがすかざず飛んでくるのだろうけれど(笑)。(もうその手の突っ込みに自らの神経が逆撫でさせられる経験にも飽きたなあ(笑))
もしそういう突っ込みが本当にかえってきたら「だからなに?」って返そうかな。
「あなたは、「それは人間関係です」と言うことによってなにが言いたいのか」というか。
「私を人間関係の側に分類することそのものに快楽を覚えるから」が真実なのであればそれでもいい。
それが真実なら、御託を経由せず、それを正直に言ってもらえるほうが、こちらとしては、余計な詮索をせずに済むので、ありがたいと言えばありがたい。
こちらも、「そういうふうに分類されることそのものに、本質的な不快感を覚える」と、ありのままをお伝えするだけの話である。
もっともそれは、「意見の未来永劫的な断絶の継続」が予期されることを「必ずしも」意味しない、ということだけ、とりかえず書いておきますかな。





追加:

自己突っ込みだが。

> だとすると、教育者とは「正義を高飛車に振りかざす胸くそ悪い奴」とイコールである、ということになる。
> まあ、さもありなんかな、そういう考え方もあるかな、とは思うけれど。
全面的賛同はしないけれど。

なんというか、教育内容や或いは教育方針といったものは、あくまでも、その時点で、国や自治体が良かれと考えていたことという、「暫定的な」方針・内容に過ぎないのであって、それは「暫定的」であるからして、それ自身が「絶対性」を帯びることなどは有り得ないと思うのである。
「暫定的な絶対性」という定立自体が矛盾を孕んでいる、と言い換えてもよい。

で、まあ、中学生以降はね、この、「今受けている教育内容や教育方針は、暫定的なものに過ぎない」という認識が、あってもいいんじゃないか、と、思うわけです。

それは、ほり先生の言葉で言うと、「中学生や高校生を大学生扱い(≒大人扱い)する」ということなのかもしれない。そして、それにほり先生は賛同なさらないと。
その理由は、「小学校レベルの水準を満たしていない奴を、大人扱いするなんて無理無理、無意味、百害あって一利なし」ということだと思うんですよ。
「考えてもみたまえ。5歳児を大人と同じ扱いをしたら、その5歳児は健全な大人へと育つと思うかえ? 思わないであろう? それと同じだ。いまの高校生は幼児化しているので、5歳児と同じ教育方法がとても有効なのである。“大人扱い”の教育は、大学生以降に、或いは、社会人になって以降に、いくらでもしてもらえる。刑務所的子ども扱いをしてもらえるのは、いまだけなのである。だからこそ、相手が高校生であっても、そういう扱いをするのである」ということだと思うんですよ。

「2番手校」というのが、どの程度のものなのか、もしかしたらそこに、認識や実感の錯誤があるのかもしれないですけれど。
ほり先生の言う「2番手校」が、私の実感でいう「5番手校」に相当している可能性も、ないわけではないので(こういう言い方は、あれだから嫌なんだけど)。
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