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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
--- お知らせ ---

最近はtwitterにいます。ブログを書くよりも手軽なので。たぶんそれが理由で、ブログの更新頻度が落ちています。
あと、コンタクトはtwitterが一番はやいと思います。従来通りメールフォームを通じてコンタクトくださる場合で、かつ返事が必要な場合は、返事用のメールフォームをご用意ください。メールアドレスでは返信いたしかねます。また、必ず返信できるとも限りません。なにとぞご了承ください。(以上、2009.6頃の記述)

レジの順番守れないおっさんたち - G.A.W.
んで、これは俺の主観なんで、ツッコミ満載かもしれないですが、いままで4つくらいの店で店長やってみて、立地って実にさまざまだったんですけど、ぱっと見あきらかに所得低いなーっていう人たちのコンビニでの消費行動って特徴あるんですよ。店の使い分けしないの。一箇所で買うんですね。コンビニみたいに生活に必要なものをひととおり揃ってる店があったりすると、そこに依存する。


これはなんでなのかというのが非常に気になるね。なんでやろ?

低所得者は自分で全部買い物しなくちゃいけないから、少しでも店へ足を運ぶ手間を抑えるために、できるだけ一箇所で買おうとする、とかなのかな?

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ただ、それ読んで「横柄なおっさんにも二種類いる」っていうことをふと思ったので、このエントリを書いてみました。「客と店員」っていうシステムに過剰なものを要求するタイプのおっさんと、「並ぶっていうシステム」を理解できないおっさんと。ただどっちにしろマナーの悪いのはおっさんなので、そのへんは不思議なところなんですけどね。あれはなんなんだろう。

 余談のようにくっつけておくと「最近の若いもんは」っていう論調は、この場合はかなり当てはまりません。最近の若い子は、システムってものに過剰なくらい従順ですから。


身なりのいいおっさんも、最近の若いもんも、どちらも、システムに過剰なくらいに従順すぎるんだと思う。
その点では、学のないおっさんのほうに軍配が上がる。

次の箇所がいい例である。

 ふつうに都会で生活してて、たとえばコンビニでレジが3人並んでたとしますよね。で、自分が4人目に並んだとして、欲しいのがタバコ1個だったとする。このときに「タバコ1個ですぐ終わるんだから、さっさと自分のほう片付けれ」って思う人って、わりと少数派だと思うんです。前の人間がジュース100本買うのだとしても、順番は順番じゃないですか。まあ、ほかの店員がレジまわりでのんびりと別の作業してたら「レジやれよおい!」って思うと思いますけど、それだって、基本的には「先に待ってた人からレジに行く」がまあ、基本ですよね。

 ところが、コンビニとかスーパーとかファーストフードだとか、いわゆる作業がマニュアル化されてるフランチャイズチェーン的なものですよね、こういうのが世に一般に流布するようになった80年代以前、これより前の時期に成人したと思われる人たちって「順番は順番」っていう考えかたがあんまりないみたいなのです。都会で暮らしてれば別ですが、田舎の人だと特に顕著ですね、この傾向。だから、レジが何人並んでいようとも、自分がタバコ一個だったりすると、レジではないところから顔を出して「おい、タバコ!」とかやる。それで「順番を守ってください」って言うと「なんだよ気がきかねえな」っていう反応をする。


そうなんです。「気が利かない」んです。システムは気が利かないんですよ。
いや、厳密にいえばこれは正しくない。
システムは気が利かないことがある、ということに気がついているかどうかなんです。

いやいや、これも、まだまだ正しくない。
システムは気が利かないことがあるんだけれども、それに対してどう対応するかの部分において、前者(身なりのいいおっさん&最近の若いもん)と後者(学のないおっさん)は違うんですね。

システムが「気が利かない」と思われる場合、そのシステムを使わない、もしくは無視する、という選択をするのが、後者で、
気が利かなくてもシステムにいつまでも服従し続けるというのが前者なわけ。

これ、生き物としてみたら、前者はひどく滑稽だよね。後者のほうが優秀。あくまで単一で稼動する生き物として見た場合ね。


80年代、かまたはその前後以降ですね、学校から、ヤンキーみたいなのがだんだんいなくなってきた、べつの言い方をすると、教師に真っ向から反抗する奴が減ってきた、その反動かどうかしらないけれども、「見かけ上は従順な奴」はそれに対応するかたちで増えてきた、ということがあると思うんですよ。
その流れのままずーっと、現在、2009年まで来ていると。

なんでこんなことになってるんだろう。
たぶん、システムに反抗してきた時期、というのがあるんだよね。便利なんだけれども融通の利かないシステムに対して、「こんなもんはいらん」と、「俺たちでやっていくんだ」と、そう主張し続けた時期があったと思うんです。

ところが、いつからかその気力が抜けてしまった。「ま、いっか。システム、まあまあ便利だし」と思うようになってしまっていた。或いはそう思う人たちが、マジョリティとなってしまっていた。

役所はその典型だと思いますよ。意味のないシステムを延々と稼動し続けることに意味を見出すというか、不毛な稼動を止めることに積極的でないというか。
そういうマンネリ化した役所的な精神の全国的蔓延というか普及が「完成」したのが、だいたい1980年ごろなのではないかと、こう思うわけです。

先日、面白い宿の話が話題になってましたけれど、私がああいう宿がもっと増えるべきといったのも、
こういう全国的な潮流に現在もなお対立姿勢を取りつづけていられるのはある意味すごいし、
いまこそ私たちはそういうのを見習っていかないといけない、
そういうのをヒントにして、この「システムが過剰に蔓延する社会」「システムに過剰なほどまでに従順であることを強要される社会」からの転換を、図っていかなければならないのではないか、
ということを、指し示したかったからなんですね。

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もう一度引用しますね。

「客と店員」っていうシステムに過剰なものを要求するタイプのおっさんと、「並ぶっていうシステム」を理解できないおっさんと。


並ぶっていうシステムを理解できない、というよりも、並ぶというシステムになぜ服従しなければいけないのかが分からない、といったほうが適切ではないか。

並ぶというシステムがどのようにありがたいのか、また、それを一人が拒否するとどのようなかたちで他の人たちを困らしめるのか。

この問いに対する回答は、二つに分かれると思います。
コンビニの経営なんかやってる人だったら、いや、コンビニの経営だけやないね、広い意味で、コンビニ方式で経営や客商売をやってる人だったら、もう確実に「システムはありがたい」って言うと思うし、「一人が離反するとみんなが困る、だからシステムに従わなくちゃいけない」って言うと思うんですが、

だって、そういうふうに教育されてきているからね、それは学校でもそうだし、子どものうちからコンビニなどで習慣的に買い物することによって徐々に培われていったという側面もあるし、もちろん自分で商売をやる側に立ってから上司などに教わって、そういうことを知ったという場合もあると思うんですが、

これとは逆に、「システムはありがたくない」「システムなんかなくても誰も困らん」ということをはっきり言ってくれる人たちの存在が、私たちの周り、とくに都会においては、現代文化の中心とあらせられる空間においては、そういうことを言ってくれる人たちは、きわめて少ない。
ほぼいないと言っていいでしょうね。

だから都会で育った子どもはみんなシステムに従順になる。
「とりあえずシステムにしたがっておけば問題ない」という発想を生む。
なんのためにそれをやっているのかを考えろ、と言ったって、いきなりは無理ですよ。だってそういうふうに教育されてないんだもん。

そういう点では、都会的な文化からはかけ離れたところにいる、学のないおっちゃんおばちゃんのほうが、よっぽど優秀だと思いますよ。
「システムとはあくまで道具にすぎず、盲目的に従順すべき対象ではありえない」ということを心のそこから理解しているわけですからね彼らは。
だから「おい、タバコ!」というような“すばらしい芸当”が、なんのためらいもなくできる。

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大学でさ、「最近の子は、みんな授業をサボらずに出席してくる」なんて話があるじゃないですか。
でも、出席率が高いだけでね、みんなちゃんと、頭の中まで授業を受ける体勢になっているのかっていったら、たぶんそうはなっていないと思う。
「来るだけ来て寝てる」みたいな大学生は、ここ十数年で少しずつだけれども確実に増えているのではないかと思います。

でもそれは、たぶん、「そういうふうに教えたから」なんですよね。
「座っているだけでいい」と、「見かけ上、勉強しているように見えたらいい」と、そう、教えたからなんですよね。
いまよりも一つ前の時代の教師たち大人たちが。

結果、かれらは限りなく静かになった。従順になった、寡黙になった。その代わりなにかを訊いてもなんにも返してこない。反応がない。


ではかれらの魂はフヌケになってしまったのかというと、それもまた違うと思うんですね。
たぶんね、みんな「別世界で活動する術」を覚えたのです。

テレビゲーム、漫画、ネットはその典型ですよね。古い時代では「本の虫」も、その類かもしれない。
「自分の世界に引きこもる」という、ね。或いは「自分たちだけが分かる世界で暮らす」という、ね。

なにも珍しいことではありません。幼児たちは常日頃からやっていることです。
幼児たちが日々つむぎだす物語に対して、大人たちはいちいき介入していきませんが、そこでは「子どもたちの間だけで通じ合える世界」というのが存在しています。
大人たちは知らないか、もしくは忘れてしまっているだけです。

でね、私はこのモデルが、幼児たちの間で繰り広げられる世界の存在と、その世界の存在に気づいていない大人たちという関係の構図が、
現在の「最近の若いもん」に見られる行動の傾向を説明するのに、非常にふさわしいのではないかと、勝手に思っているわけですね。

「自分たちだけが分かる世界で暮らす」ということの意味は、それです。

でもそれは、学校の先生とか、社会の人から見ると、「単に従順であるか若しくはフヌケであるか、そうでなければ押しても跳ね返らない、反応のないつまらん奴」という、評価になってしまうわけですね。「ああ、最近の若者はどうなってしまったんだろう?」と。

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現代人は「システムへの過剰適応」を強いられた結果、「別世界で活動する」という術を覚えたのだと思うんです。

でもこれは、ある程度若いときに、過剰適応を強いられるという経験をしないと、身につかない術だと思うんですね。
だから、そういうのを強いられた経験を持たない「学のないおっちゃんおばさんたち」は、システムからの要求要請に対して非常に自由なわけ。

私たちはこの財産、「システムからの要求に対して自由な人々」の存在を、どのようなしかたでならありがたく受け止めることができるだろうかと。

そこが、課題なんだと思います。