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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
平和→不幸→人情、みたいなストーリー展開は、読者にあからさまな理不尽感を抱かせる。最初に平和を持ってくるのは、「それを基準に物事を判断しろ」という作り手からの指令だ。で、実際、それを判断にその後の展開を判断すると、「わー不幸!理不尽!」ってなる。

多くの人々は理不尽に対して潜在的に怒りを覚えている。平和→不幸→人情、みたいなストーリー展開は、その怒りを宥めてくれる。「理不尽なのは何も私だけじゃない」と。もちろん意地悪く解釈すれば「俺より不幸な奴がいて良かった」なわけだが。

ハリウッド映画の構造は、最初人物紹介で、その次に事件が起こって、っていう流れになってるっていう話だけど、人物紹介=平和、事件=不幸と考えれば自然な気がする。不幸でないものはふつう事件とはあまり言わない。

人物紹介をすっ飛ばしていきなり事件だと、視聴者はなにが起こってるのかを把握できない。最初に絶対「平和な日々」が必要。「ある日突然○○するアニメまとめ」なるentryがあった気がするがそれも同じ。

はじまりは「昔々あるところに爺婆が住んでいました」でなければならない。「昔々あるところに爺婆が死んでいました」では、ちゃんちゃん、で終わってしまう。説話造型の基本的な骨格は、最低限「視聴者が分かる」ということに動機づけられて規定されている。

説話造型の原型は「昔々あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました」でなければならない。これは実はサラッと読めるが、実は物凄いことを言っている、ここに物凄くたくさんの情報が詰め込まれている、というふうに思う。

順番に説明する。まず、「昔々」である。「いま」や「将来」ではない。「過去」である。しかし、ただ過去であればいいというわけではない。昨日のことや一昨日のことではダメだ。「私たちが生まれるずーっとずーっと昔」でなければならないのである。そういう意味では神話的である。

「昔々」が、「私たちが生まれるずーっとずーっと昔」であることは、その後につづられる物語の「論証不可能性」を主張している。「こういう話がありますよ。信じるか信じないかはあなたの自由ですがね…」という含みがある。その含みを「昔々」という僅か二文字に込めているのである。

「昔々」という語り口は、「その後につづられる物語の正しさの判断権を、客観的な証拠に転送することを禁じている」という点において、本質的に、読み手に自由を供給する存在である。読み手は「昔々」という語りを聴くことで、自分に判断の自由があることを確認することができるのだ。

そこには宗教性がある。確証のない事柄を、信じるか信じないかしなければいけないという点において。もちろん、信じなければ宗教性は立ち上がらないわけだが、あらゆる「昔々」的説話を信じずに生き続けた人間というのもまたほとんどいない気がする。

確証のない事柄を信じる、もしくは信じることができるというのは、とても不思議なことだ。少なくとも論理的に考える限りではそうである。

つぎに、「あるところに」である。どこなのかが特定されていない。そのあとに「人間が居住している事実」がつづられるわけであるから、少なくとも、この「あるところ」は、人が住めるところであることは確かだろうが、それ以上の情報がない。

もし、どこに住んでいようが、その後につづられるお話とは無関係なのであれば、この「あるところに」というくだりは蛇足であるので、削られるべきである。削られずに現在に至っているということは、このくだりに存在意義があるということなのではないか。

たぶんだが、このくだりの存在意義は、その後の「住む」という動詞の補語として要請されているものではないかと思う。「住む」という動詞が使用される限り、「どこに」が記載されていないと不安になるわけである。しかし語り手は不安を与えることを目的としていない。

続いて、この「住む」である。べつに「いる」でも「存在している」でも「生存している」でも「生活している」でもいいわけだが、いちばん平たい言葉として「住む」は悪くない。

最後はもしかしたら難問かもしれない。「お爺さんとお婆さん」のくだりである。なぜ「お父さんとお母さん」ではダメなのか? なぜ、お爺さんとお婆さんだけが暮らしているのか? このお爺さんとお婆さん、友だちはいないだろうか?

だいたい、死亡率の高い古代において、重病にかかることもなく、夫婦がともに健在で、お爺さんお婆さんの年齢までやってこれているということ自体、凄いことであるが、それ以上に気になるのが、この「お爺さんお婆さん」は当時どういう社会的扱いを受けていた人たちなのかということである。

このことを考えるとき、私たちが参照するべき知見は、ここでいうお爺さんお婆さんは、あくまで「観念上の生物」であるということではないかと思う。ここでいうお爺さんお婆さんが、実在の人物であるという確証はないし、たぶん事実もそれとは異なるだろう。

村人の一人が、「ちょっと考えてみたまえ、こんな話があってだな…」と切り出すときに、その話の登場人物が、村人たちの誰よりも高齢であることは、その話の信憑性を向上させる。確証のない話なので論理的には破綻しているが、信念上は、その信憑はなぜか向上するのだ。

そういう意味では、ここで言う「お爺さんお婆さん」というのは、神話でいうところの神様に近い存在である。村人たちが、「神の住まう世界」での出来事を聴くときの姿勢と、「お爺さんお婆さんの話」を聴くときの姿勢は体勢的に共通なのではないかと思う。

古代の村人に焦点を当てたときに、「どういう話をすればみんなは信じるか」ということを徹底的に考えると、たぶん、「昔々あるところにお爺さんとお婆さんが住んでいました」が導出されてくるのだと思う。

自分たちに「選択の自由」と「生活の知恵」を供給してくれる、親分的な存在を仮構することは、意識という自由に呪縛されている存在にとって重要なことである。ここでいう「生活の知恵」というのは、「現実に遭遇する出来事に対する評価基準」のことである。
コメント
この記事へのコメント
こんにちは。亀レスになります。
古代において「子守」は老人の仕事でした。
故に昔話の登場人物は「お爺さんとお婆さんと子供」ばかりなのです。
また、古代では15、16で子供を産むのも普通です。
なにしろ「年増」はもともと20過ぎの女性を指す言葉です。
もちろん、40でヨボヨボになっていたとは思えません。
また、なぜお父さんとお母さんでダメなのかといえば、日中家にいないからです。
語り手と聞き手が感情移入しやすい話は、お爺さんお婆さんと孫の出てくる物語というわけです。
そのへんを念頭に読むと、いささか結論を先走りすぎの箇所が多いように感じました。
恐らく、「当時と現在の違い」に対する考察が不足しているように思います。
非常におもしろい発想をおもちのご様子。
もう少し資料を当たって「なぜ」を追究されると
より説得力のあるユニークな論文になるのではと感じました。
2009/12/05(土) 00:33 | URL | とおりすがり #la7vMiLw[ 編集]
「おとぎ話が成立してくる時代(古代)において、おとぎ話を子どもに読み聞かせたのは、お父さんお母さんではなく、お爺さんお婆さんだったから」というのも一つの考察材料(仮説)になりそうですね。

興味深いお話ありがとうございます。
2009/12/06(日) 11:31 | URL | heis101(管理人) #QyEQ/AbM[ 編集]
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