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おんちゃん

2012年3月18日 (日)

4歳になりました。

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3月17日、みーちゃんは4歳になりました。
4年前の8月の終わりに初めて会ったとき、生後半年ぐらいかな?と
獣医さんにいわれたので、3月頃うまれたのかしら?と。
そして4年前の3月17日に、おんちゃん(叔父)が逝ってしまったので
きっと生まれ変わりなんじゃないかしらとか思ったりして・・・

それで、みーちゃんの誕生日は3月17日とEKKAが決めました。
みーちゃん(元服名は道之助)、3年半一緒にいてくれてありがとう。
これからもずっと一緒にいようね。

おんちゃん、空からちゃんと見ててね。

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4年前、家の中に初めて入った日。

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今月も間もなく始まります。
毎月20日〜月末まで開催のwebshop
「出来ることを少しずつ」
売上の一部を被災動物の救援団体さんに寄附しています。
EKKAの作った物も売っていますので、覗いてみてください。


2010年3月15日 (月)

おんちゃんの三回忌とみーちゃん

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今日は(3月14日)はおんちゃんの三回忌の法要があった。
(おんちゃんは母の弟で私の叔父)
本当の三回忌は3月17日なんだけど、親戚が集まりやすいので今日になったのだ。

数日前までみーちゃんが行方不明だったので
おそらくEKKAは行けないだろうということで
新幹線も会食もキャンセルしてしまっていた。
本当なら、大好きなおんちゃんの三回忌の法要には出たいのだけど
みーちゃんのことが心配で心配で・・・。

帰ってきたみーちゃんだけど、かなり怖い目にあったらしく
夢を見てうなされたり、誰かがそばにいないと不安になるらしい。
帰ってきた日には布団の中で、EKKAにしがみついて寝ていた。
それでも時々、不安そうにニャーニャー鳴くので
「大丈夫だよ、かーちゃんがそばにいるよ」と一晩中撫でていた。

みーちゃんはちょうどおんちゃんが逝った頃に生まれた猫だ。
私はおんちゃんがみーちゃんを寄越してくれたのだと思っている。
心臓も肺も肝臓も悪かったおんちゃんの分まで
みーちゃんには元気で猫生(人生)を楽しんでほしいと思っている。

だからというわけではないが、みーちゃんを放って仙台に行くわけにもいかなかった。
帰ってきても不安がるみーちゃんを一人で置いていくのは不安だった。
母もみーちゃんを一人にするのは可愛そうだから
あんたは残ってちょうだいと言った。

母にとってはみーちゃんはもう孫のようになっている。
行方不明から戻ってからは、以前にも増して甘やかしている。
みーちゃんもばーちゃんに、「戸を開けて」「おやつ」「ごはん」など
すぐにニャーニャーなんてねだっている。

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(帰ってきた翌朝のみーちゃん。300グラムほど痩せてました)


ぽちっとな。
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2009年3月18日 (水)

1周忌

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沈丁花の咲く季節になった。

おんちゃんが逝って1年になった。

1周忌の法要は3月8日の日曜日に既にすませた。

EKKAは仕事がたてこんでいて、無理して仙台まで行ったら
倒れてしまうよ。
それこそおんちゃんが悲しむよ。

そう母に言われてEKKAは欠席になった。

おんちゃんは母方の本家のお墓に入っている。

おんちゃんのことを心配しつづけた祖父母とは違う墓だ。
これは母の長兄が少し偏屈で
長男以外はこの墓には入れない、と宣言したためだ。
お墓の改修費はおんちゃんもみんな出したのにね。
長兄は既に亡くなってしまい、この遺言を叔母と従兄弟が守っているため
おんちゃんはこのお墓には入れなかった。

すったもんだあって、おんちゃんは本家のお墓にはいることになった。
おんちゃんからすると、祖父母や伯父、従兄弟たちと同じお墓に入ることになった。

去年のことを思い出していると
あら?去年のバタバタしていたときには
みーちゃんはどうしていたのかしら?
獣医さんのとこに預けたのだっけ?

あ、去年はまだみーちゃんはいなかったのだった。
まだ母猫のお腹の中に他の兄弟達といたころだろう。

去年逝ったおんちゃん。
去年生まれたみーちゃん。

みーちゃんは、おんちゃんがEKKAのとこに
よこしてくれたのかもしれない。

ついついそんなふうに考えてしまう。

おんちゃん、そちらはどうですか?
そっちでは体の具合は良いでしょうか?
おじいちゃんとおばあちゃんに会えましたか?
EKKAはなんとかやってます。
あっちゃんは大学に受かりましたよ。
こちらのことは心配しないで大丈夫ですからね。

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2008年7月25日 (金)

おんちゃんの落ち着き先

おんちゃんの骨の住む所が決まりそうだ。

3月に亡くなった私の叔父のおんちゃんは
骨になって私の実家にいる。

祖父の作った墓は、私の一番上の叔父(おんちゃんの兄)が継いで、
おんちゃんとその叔父は、多少気まずい関係にあったので
叔父は、うちの墓には入れない!と言ったのだった。

叔父とおんちゃんは、叔父が死ぬ寸前に和解したのだが
叔父はそのとき既にご臨終に近い状態だったので
「墓にいれない」発言を撤回しないまま死んだのだった。

叔父の息子(私の従妹)とおんちゃんは
仲が良かったのだが、親の遺言を背くわけにもいかず、
叔父の妻は、親戚自体が嫌いなので
おんちゃんが墓に入ることに首を縦にふらない。

おんちゃんの落ち着く先を
どうするかねぇと困っていたのだった。
うちに居てもらってもいいのだが
母や私が死んだ後は、困るし・・・。

私がう〜むと言っている間に、
お年寄り連の協議の結果、おんちゃんの落ち着き先が決まった。

うちの母は、こどもの時に戸籍上では養女に出されるいる。
ただし姓はそのまま。
親戚に養女に行ったのだ。

養女に行った先のことを書く前に
祖父や祖母のことを書こう。

祖父も祖母も子どもの時に両親を亡くしている。
祖父の面倒を見たのは、祖父の兄。
祖母の面倒を見たのは祖母の姉。

この兄と姉が結婚したので
祖父と祖母は10代後半から同じ家で暮らしていた。
お兄さんは実業家で仙台で商いを成功させていたので裕福だった。
祖父と祖母は家庭内恋愛(?)みたいな感じで
そのまま結婚した。

お兄さん夫婦も子どもが何人かいたが、
仙台の空襲で一家は全滅してしまった。
家が途絶えさせない為に、親戚の協議で母が養女で入ることで
財産の散逸を逃れた。(戦時中は、お家断絶だと国に財産を取られたらしい)
(→後見人の親戚が使っちゃったけど)

で、母の義理の父の墓があるわけだ。
元々がそこが本家の墓。
先祖が沢山眠る墓。

そこにおんちゃんは入ることになった。
おんちゃんの伯父、叔母、従妹達、ご先祖がいるお墓。
お祖父ちゃんが建てたお墓とも同じ墓地内でご近所。

本当は、おんちゃんのことを心配していた
お祖父ちゃんとお祖母ちゃんと同じお墓に入れたかったけれど
仕方がない。

きっと天国ではとっくに再会しているだろうし、
先祖代々の墓だから良いだろうと。

納骨は、多分9月。

私も行く。

お墓が決まったのは良いことだけど、
まだしばらくはおんちゃんは実家にいると思っていたので
さびしい気持ちになっている。

家にいるのは骨だけとわかっているけれど
まぁ、いろいろと寂しかったりと複雑な気持ちである。

2008年4月 5日 (土)

ここ半月

前回のブログを書いてからすでに半月が過ぎようとしている。
つまりおんちゃんの通夜からそれだけ経ったということだ。

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おんちゃんのお通夜の日は前日までの寒さが一転して暖かい一日となった。
お通夜の日の喪主一家は忙しいのだと思っていたの思っていたが、
お通夜の始まる2時間前に斎場に行けば良いということで、
それまでは家族でぼんやりと過ごしていた。
おんちゃんの祭壇にお供えする御飯だけは、家で炊いて持って行くことになっていたので
御飯だけ炊いておいた。

斎場に着くと、祭壇はすでに出来上がっていて
おんちゃんが入っている棺がその前に置かれていた。
私たちが着いて間もなく、義兄(姉の夫)が運転する車で
叔母たちが斎場に到着した。
みなで、おんちゃんに会い話しかけていた。

叔母が持ってきたキューバのお守りの人形を棺に入れた。

そうこうしているうちに、お通夜に人が来始めたので私は受付の机についた。
友人が手伝いに来てくれたのでだいぶ楽をさせてもらった。

私たち 家族はおんちゃんの友人、知人がどれくらいいるのか把握していなかったので、
もしかしたら親戚と友人数人だけになっちゃうかもね、それはそれでいいかねぇ、などと
話していたのだが、通夜が始まると案外と人が来てくれた。

地域でのお友達、10年以上前に退職した職場の人、同じアパートの人、大家さん。
おんちゃんはアパートの回りでちゃんとコミュニティの一員として活躍していたのだ。

私は受付が落ちついてから、気持ちの方が落ちつかず
親族席に座っていることが出来ずにほとんどの時間を受付で過ごした。

親族がお焼香をしているからと葬儀屋さんに急かされてお焼香をした。

通夜が終わって、親戚達でもう一度おんちゃんの棺のまわりに集まっていた。
私は受付をしてくれた友人をおんちゃんに紹介した。
「おんちゃん、おんちゃんのお通夜と葬式の受付をしてくれるMちゃんだよ」
友人は、「はじめまして」と棺のおんちゃんに向かって挨拶してくれた。(なんていいやつだ)

そうこうしているうちに精進落としの席にいたお客さんたちが戻ってきた。
みんなおんちゃんに会いたいというのだ。
みなおんちゃんに話しかけたり、おんちゃんに「ありがとね」と言ってくれたり、
額を撫でてくれたりした。

おんちゃんのお友達は、喪主の私の母におんちゃんのことを話してくれた。
叔母たちもそれを聞いていた。私も姉も駆けつけた従兄弟も。

おんちゃんは、みんなに愛されていたんだ。

それが私たち家族の気持ちを楽にさせてくれた。
おんちゃんは1人じゃなかった、孤独じゃなかった。
同居しようという私の母の誘いを断り、アパートに1人住まいを続けたおんちゃん。
母は、弟にこんなにお友達がいてくださったと言って泣いていた。

翌日の葬儀は、朝早かったのにお通夜に来てくださった方達が集まってくれた。
仙台から、親戚も来てくれた。

おんちゃんの棺に花を入れる時、叔母達が
「おにいちゃん、花を入れるけど照れないでね」と言いながらいれていた 。
お友達も「Kさん、照れ屋だから〜」と言っていた。

花を入れ終わると、棺の蓋を閉めなければならないのだが
別れがつらくてなかなか閉められなかった。

私も別れたくなくて、おんちゃんに頬擦りをした。
おんちゃんは、昨日から冷蔵庫から出ていたのに
やっぱり冷たいままだった。それでもおんちゃんはおんちゃんで、愛おしかった。

こういうときに葬儀屋さんという第三者がいるのは、ありがたい。
そろそろお時間ですので・・・。
この言葉がなかったら、みな別れがたくて、いつまでも蓋が閉められないでいただろう。


お友達はおんちゃんの骨も一緒に拾ってくださった。
受付をしてくれたMちゃんも拾ってくれた。
Mちゃんは、初めて会ったのが棺の中にいるおんちゃんで、
次ぎに会ったのは、骨になったおんちゃんである。


葬儀が終わり、骨になったおんちゃんは私の両親の家にやってきた。
叔母達も帰るまでには時間があるというので、狭い我が家は人でぎっしりになった。

みなでお茶を飲み、おんちゃんの写真を見たり、こどものころの話をしていた。

お葬式の後だけど、なぜか笑っていた。
葬式っていうのは、案外とこんなものなのかもしれない。
悲しいけれど、みんないつかは死ぬのだ。
悲しいけれど、残された人は生きて行かなきゃならない。

それが分かっているから、笑うんだろう。

夕方にはみな帰り、うちにはおんちゃんの骨と両親と私の4人になった。
おんちゃんには、トマトやキュウリを供えた。
まるでお盆だねと母は笑っていた。

夜、私はおんちゃんと同じ部屋で眠った。
おんちゃんにおやすみを言い、おはようを言った。

午前中に仕事のためにアパートに戻った。
それからは、ずっと稽古と本番を何回か繰り返して半月が過ぎてしまった。
母は葬儀の後、数日は気が抜けてしまったようだが、
だいぶ持ち直してきたようだ。(そうみせているだけかな?)

おんちゃんの残していった預金は、
最期の入院費と葬式代とアパート代やらいろんな支払をすると丁度なくなるくらいだった。
預金はすでに凍結されているので、いろんな支払はうちの父が立替ていう形で済ませた。
相続権は、おんちゃんの姉妹である母達と、すでに死んだ叔父の息子(私の従兄弟)にある。
遺言書など当然ないので、普通に相続して、葬儀代を折半することになった。
(それが一番面倒くさくないみたい)

おんちゃんはも自分の葬儀代など、さいごの支払はちゃんと自分でやっていったことになる。
さすが、おんちゃんである。
私もおんちゃんを見習って葬儀代ぐらいは貯金しておこうと思う。

でも、おんちゃんにはお墓がない。
私が宝くじを当てるまでは、うちにいてもらうしかないみたいだ。

というわけで、今の現場が終わったら私はまた実家に行くのだが、
そこにはおんちゃんがいるのだ。

子どもの時は一緒に住んでいたので、死んじゃってもあまり変わっていないような気もするのである。


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2008年3月22日 (土)

ここ数日

おんちゃんが逝った翌日もあたたかい春の陽気だった。
実家のお向かいさんとこの地面には、紫の色の小花が咲いた。
水仙もきれいに咲いていた。
海棠は花咲く準備に励んでいた。080318_120547

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その日は両親をおんちゃんの家まで車で送り、
私は電気屋に行きフラッシュメモリーを買って家にもどり、
パソコンから遺影写真の候補を選んでメモリーに写した。
夕方に車で両親をひろって、葬儀屋さんに行って遺影の相談。
納棺式のことも話した。

19日は一転して冬に逆戻りして冷え込んだ。私は仕事に行きアパートに戻った。

20日も仕事をして、おんちゃんのガス、水道、電気、銀行への連絡などをした。
夜にはいろんな支度をして実家に帰った。
この日も寒かったけれど、春になろうとする勢いは止められないようだ。
蛙も早々と目覚めてしまったのもいたが、こちらは寒そうで難儀しているようだった。

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その翌日の今朝は納棺式だった。
昨日よりも寒い朝だった。
おんちゃんは、いまは葬儀屋さんの保管室という名前の大きくてきれいな冷蔵庫の中に寝ている。
死んだ日から今朝までは、白いきれいなお布団に寝てそこにいた。

今朝は一度そこから出て、棺に入るのだった。
出てきたおんちゃんは、不思議とにこやかな顔をしていた。
触ると冷蔵庫にいたので冷たくなっていたけれど、
やはりおんちゃんは、おんちゃんだったので
母と私はおんちゃんをなでたりしていた。

棺に入れる前におんちゃんの身体を拭いた。
死んだ直後に看護士さんが拭いたりひげを剃ったりしてくれたけれど、
棺に入る前に家族でもう一度拭くのだそうだ。
おんちゃんの身体硬くなっていたけれど足の指の間も拭いてあげた。

おんちゃんの片方の耳から、液体が少し出て固まっていた。
おんちゃんは赤ん坊の時の中耳炎で片耳がまったく聞こえない。
悪い方の耳が、今回の高熱でまた中耳炎を起こしていたのかもしれない。
母がお湯で湿らせたガーゼで、何回も拭いてきれいにした。

それからおんちゃんを棺に移した。
なんだか窮屈そうなので、ついおんちゃんに大丈夫?と聞いてしまう。
いや、大丈夫じゃねぇから、ここにいるんだよ、そう言っているような感じがした。

それから旅装束をしつらえた。
枕元には折りたたんだ笠、手には白い手っ甲、足には足袋、脚絆、足元に草履。
そして、おんちゃんの身体の上に白いかたびらと帯をかけた。
紙に印刷してある六文銭を入れた袋、杖。これが旅支度の全部。

そしてその上から、おんちゃんの普段のジャンバー、ズボン、般若心経を入れた。

なんだ、そのままおんちゃんといたかったけれど、
葬儀屋さんも忙しいようだから、帰ってきた。

父は障害者年金関係のことで市役所に行った。
なんだか、あちらこちらの部署を巡らされたらしい。

私は夕方から仕事で都内へ出た。
そして深夜また実家へ。
電車の中ではひたすら眠った。

明日はお通夜。
受付には私の友人を頼んだ。通夜も告別式もやってくれる。
ありがたいことだ。

明日は寒いだろうか?
山形からやってくる叔母夫婦はどちらも癌なので心配だ。
おだやかな天気になってほしい。

明日のためにホカロン30個入りを買った。
明日は仕事のタイムテーブルを書いたり、劇場に電話をしたりしないと。
なんだかせわしないここ数日だ。

2008年3月18日 (火)

トマト

今日は白いコブシの花が咲きました。
黄色いれんぎょうの花も咲きました。

穏やかな風が吹いていました。

ちょうどお昼頃、おんちゃんは逝きました。

けして苦しまないで逝けたわけではありませんが
姉や妹、姪二人にかこまれてでした。

昨晩病院に泊まり込んだ母の話ですと
明け方五時頃、おんちゃんは目を覚まし話しだしたそうです。

  今回はハッピーエンドってわけには、いかねえな。今は苦しいばっかりだよ。

そう話し苦しい息でお経を唱えだしたそうです。

母は驚いて
   お経はあとからたくさん唱えてあげるから大丈夫だから。あんたはお父さんとお母さんの分まで長生きして、こんな親孝行なことはない。お父さんもお母さんも喜んでいるはずだ。あんたが頑張って生きて来たのをみてくれてたはずだ。

  そおか、大丈夫か、と、おんちゃんは言ったそうです。

  今日は えっかは来るのか? いつくるんだ?

昨日私が行ったのを覚えていてくれていて、母から朝7時に早く来いと呼ばれました。
ふしぎなことに、朝弱い私が5時から目を覚ましていたのでした。

昨日のおんちゃんはなぜか、トマト、トマトと言ったので
今朝は家からトマトを持っていきました。

トマトを握らせ、おんちゃん、トマトだよ。
おんちゃんは、うーうーとわかったようでした。

ここ三日ばかり息がたいそうに辛そうでしたが、
さいごの数時間はいよいよ苦しそうでした。

12時10分 おんちゃんはやっと楽になれました。

みなで、 もう苦しくないね、よくがんばったね、
そんなことを言いながら、おんちゃんをなでたりさすったりしていました。

あっというまに、葬儀屋さんが段取りをしてくれて、
お通夜やらお葬式のことを決めて、親戚に電話をして、あっというまに夜になりました。

実家まで両親と叔母を車に乗せて帰ってきました。
ご飯を作って食べて、みんな疲れて眠りました。

一人でパソコンに向かって、かきだしたら
なみだがぼたぼたおちてきます。
おんちゃんが楽になってほっとしているのに勝手にぼたぼたおちてきます。
悲しいとか寂しいとかではないのに、よくわかりません。

あしたはお葬式の写真を選んだり、おんちゃんに家に行ったりしなきゃなりません。
あしたは、あしたの風がふくだろう。

2008年3月13日 (木)

重湯

先日書いた叔父(おんちゃん)の件だが、
今週の月曜日から入院している。

熱が高いのは、耐性菌感染によるもの。
なぜ感染したのかは不明だが、ともかく内臓がもうボロボロだから
弱っているらしい。

医者から母に、もしもの時は延命治療はしますか?の質問があったそうだ。
しないということにしたらしい。
もう肝臓も腎臓も心臓も弱っているのだから
延命治療しても、無理矢理という感じになるのだから
母の答えは仕方がないと思う。

長年ずっと心配していた弟のことだから、
母がその答えを出したのは尊重しようと思う。

当の叔父だが、今日は少し熱が下がったとのこと。
昨日から医者から、重湯でも食べてみる?と聞かれて
大喜びだったそうだ。
今日、母が見舞ったときは「重湯まであと3時間」と言って楽しみにしていたらしい。
やはり口から食べるということは、人間にとって喜びなのだ。

わたしも見舞いに行きたいのだけれど、
明日は叔母が行くので(母とおんちゃんの妹)、
毎日親戚が見舞いに行ったら「おれは、そろそろ危ないのか?」と思ってしまうので
少し日を置けと母から命令が出た。

うむむ、そう言われてしまうとなんとも言えぬ。
せっかく重湯を食べて喜んでいる叔父を気落ちさせてしまうわけにもいかない。

しかし、医者からはもう先は短いと言われているので
おんちゃんの顔をみたいのだが、それは私のワガママなのだろう。

こどもの頃におんちゃんがいなかったら、
私は今よりもヒネた大人になっていただろうと思うので
おんちゃんには本当に感謝しているのだ。

おんちゃん、せっかく去年の暮れに杖をあげたので、
もう少し杖で散歩を楽しんで欲しい。


今日やったこと
口琴で遊ぶ
ホーメイの練習
確定申告の経費の計算(少し)
洗濯 (沢山)
掃除(少し)
睡眠(沢山)

飲んだお茶
スーパー凍頂烏龍茶(by 翡翠館)

明日は真面目にお仕事。(予定)

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2008年3月 9日 (日)

おわりのはじまり

今日、母と電話で話をした。

電話で話すことは珍しいことではない。
15分くらい雑談をして切るというのがいつもの感じ。

今日の母、あまり喋らない。ノリが悪いというか、何かが変。
電話をそろそろ切るかという頃になって
母が話し出した。
「おんちゃんの調子がここ2,3日悪いの」

おんちゃん(通称)というのは母の弟で、私には叔父に当たる。
おんちゃんは、生まれつきの心臓病で人生の半分を病院のベッドで過ごした人だ。
医学の進むのをずっと待ち続け36歳で、いちかばちかの大手術を受け
ようやく病院を出られた人だ。

その後は仕事も出来るようになり、(40歳を前にして初めて社会に出た)、
ホンダのカブに乗ったり、子どもの頃の私を映画に連れ出したりと
少年期に出来なかったことを精力的にやっていた。

おんちゃんは既に定年退職し、私の実家の近くに住んでいる。
けれど、数年前から時々調子を崩して入退院を繰り返している。
おんちゃんの心臓は、今はペースメーカーを入れながらもなんとか動いてくれている。
でも、手術の時の大量の輸血で肝臓は肝硬変になり、腎臓も悪くしている。
肺と心臓のバランスが悪いらしく、肺の血管がたびたび破けて吐血する。

母の話によると、吐血したわけではないのだが、
肝臓に水が溜まり始めていて、腹水もあって苦しいらしい。
そこへ風邪を引いて熱を出し、一気に食欲がなくなってしまったらしい。

 もう良くなることはないんだろう。おわりのはじまりだよ。

そう呟いて母は黙り込んだ。

こういうときに、なにを言うべきなのかなんてわからない。

 熱がさがって、利尿剤が効いてくれば御飯を食べられるようになるよ、たぶん

こんな希望的な言葉しかいえなかった。


わたしもおんちゃんが、元気とまで行かなくても
もうすこし自由にいられる時間を与えてほしいと思う。
だって人生の半分は病院のベッドの上にいたんだ。
おんちゃんは今は1人で好きな時間に御飯を作って食べて、本を読んで、散歩して
近所の知り合いとおしゃべりしたりする生活が楽しいと話す。
私に会って別れるときはいつでも、手をにぎり「またな」と言う。

まだ、おわりにははやい