オリヴィエ・メスレー『ターナー――色と光の錬金術師』

創元社の知の再発見双書って、読んでそうで読んでなかったレーベル
フルカラーなのがいい
画家ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーについて

第1章 古典的な教育

1775年、理髪師の息子として生まれる
建築画や風景画を志し絵を学び始める
ターナーが若くして成功したのは水彩画を選択したから→絵の具の準備が簡単で、時間的制約からときはなたれて絵が描ける
当時の水彩画の巨匠:ウィリアム・ギルピン→『ピクチャレスク(絵画のような)・ツアー』という絵入りの旅行記で成功。アレグザンダー・カズンズ→絵の具のしみの独創力を提唱し、絵画教育に取り入れる
水彩画で成功したのち、油彩画へと取り組む段階になって、ターナーが手本にしたのは、クロード・ロラン。フランスの画家で風景画の第一人者。
オランダのファン・デ・フェルデ父子の海景画にも影響を受け、対になるような作品を描いている(フェルデ父子『突風』、ターナー『嵐のなかのオランダ船』)。
26歳の時、史上最年少のロイヤル・アカデミー会員となる

第2章 成功で得た自由

ロイヤル・アカデミー会員となり金銭的にかなり余裕ができるも、地味な生活を続ける
エグルモント卿、ブリッジウォーター公、ヤーボロー男爵、国会議員で大地主のフォークスらがターナーの作品を好み、コレクターとなり、また交友もあった。
ロイヤル・アカデミー展では、「最後の手直しの日(ヴァニッシング・デイ)」でパフォーマンスっぽく手を入れることがあった。
20代で自作のためのギャラリーを作った。
自分の作品に詩の引用を添えることが多かった。絵と詩を結びつけるのは姉妹芸術というイギリスの伝統。

第3章 旅する画家

生涯をかけて、あちこちに旅行した。旅行する際には非常に入念な準備をするのだが、旅行者としては不注意で、荷物を半分くらいなくして帰ってきたりしたらしい。スケッチブックを持ち歩いたが、簡単な輪郭をスケッチするくらいで、色をつけるのは帰ってからやっていた。色彩について抜群の記憶力を持っていた。
当初は、ナポレオン戦争の影響もあって、イギリス国内を旅行していた。そうした旅行を版画にして出版した(ただし、中にはターナーが細かく指示を出しすぎたせいで出版側が破産してぽしゃった企画もあったとか)。
ラスキンは13歳の時に、そうしたターナーの版画を見て一気に惚れ込んだ。
初めてのヨーロッパ大陸への旅行はアルプスで、その後もよく訪れている。
イタリアにも非常に憧れていて旅行をしているが、ローマに関しては憧れの中で膨らんだイメージが強すぎて、現実のローマはあまり好きになれなかったらしい。むしろ、ヴェネツィアに魅了されたらしい。水、光、歴史など。
フランスでは、セーヌ川によく行っている。

第4章 燃え上がる風景

ターナーは、黄色を愛好していて時に嘲笑の的になった
1830年代と40年代、ターナーにとってもっとも創造的であり、もっとも論争の的になった時代。手法を突き詰め、形が溶解したような作品を描くようになる。
国会議事堂の火災を写生した話
最後の手直しの日のパフォーマンス
『死者と瀕死の人間を船外に投げ捨てる奴隷商人たち』
コントラストの錬金術」「形のカオス」とでもいうべき視覚に強く訴える作品であり、かつ政治的なメッセージもこめられている。ラスキンも絶賛してる
『戦艦テメレール』
過去への痛切な思い。この絵を元につくられた作品も多い
『平和、水葬』
同時代の人気画家ウィルキーを追悼する作品
『雨、蒸気、速度』
当時、既に鉄道は珍しくなかったが、芸術家は注目していなかった。ターナーは、崇高を自然現象だけでなく機械のなかにも見ていた。
円熟期の作品では、渦巻くような構図が注目される。

第5章 後世に残された作品

ターナーは、1851年に76歳で亡くなる。死後になって、ソフィーという女性との関係が亡くなるまで続いていたということが分かる。また、ソフィー以前にサラという女性とのあいだに2人の娘をもうけていたことも、ターナーの死後まで公にはされていなかった。
遺言で、自分のためのギャラリーを作ることなどを指示していた。
ターナー作品の多くはテート・ギャラリーのターナー専用ギャラリーに集められている。また、彼の遺言に従い、ナショナル・ギャラリーのクロード・ロランの作品の向いに展示されている作品もある。
ラスキンによるコレクションは、オックスフォードろケンブリッジミュージアムに寄贈されている。
他の芸術家への影響は、コンスタブルなどと比較すると遅い。1870年代、印象派の画家らがロンドンを訪れてその作品が知られるようになる。
モネやホイッスラーがその影響を受けているが、そのことを認めていない、という。
イギリスのジョン・マーティンやアメリカのハドソン・リヴァー派にも影響を与えている。


1830年代ころから、ターナーは形や輪郭をはっきり描かない作風になりそれは亡くなるまで続いた。
のちに、こうしたターナーの作品を抽象絵画だと主張する論もあったが、ターナーは決して抽象絵画を描いたわけではなく、あくまでも風景画を描いていた。色彩、光、雨や霧や蒸気といった現象だけを描こうとした。光、輪郭、色を別々のものとしてとらえていた。


ターナー―色と光の錬金術 (「知の再発見」双書)

ターナー―色と光の錬金術 (「知の再発見」双書)