先週末、銀座の歩行者天国を、私はいつもより少し早い足どりで歩いていた。
と言いたいところだが、実際には“歩かされていた”というほかない。
ひとの体温が、ちょうどぬるめの風呂のように肌にまとわりつく。
私は自分の足なのに、どこに向けて運ばれているのかわからなくなってきて、ふと「これは私の散歩なのか?」と疑いたくなった。
私は、まるで自分の神経がむき出しになったような顔つきで、これを眺めていた。
実を言うと、こういうことを書くと、いまではあちこちから叱られる。
しかし、ここでは思い切って白状すると、私は最近、中国人観光客と同じ空間にいるだけで、ちょっとイライラするようになってしまった。
疲れか、年齢か、単なるわがままか。
さて、そこで私は考えた。
——そもそも私は、何に怒っているのだ?
あまり気の利いた答えは出なかったが、どうやら相手の行動そのものよりも、
文字も教わり、思想も手ほどきを受け、食べものから建物のつくりまで、大なり小なり影響を受けている。
その事実を忘れたことはないつもりだが、銀座で人いきれに押されていると、そんな立派な話はどこかに飛んでしまう。
それで私は、観光客のざわめきの中で、
「ああ、私は今たいへん小さい人間になっている」と気づいたわけである。
この気づきは、銀座のどの高級店に入るよりも、よほど身にこたえた。
列を守り、空気を読み、声をひそめる。
それが美徳とされてきた。
ただし、これは日本語で書かれた“暗黙のマニュアル”なので、外国の人が読めるはずがない。
それでも私は、心のどこかで「少しは気を使ってほしい」などと思っている。
私だって、海外へ行ったときにどれほど現地の人を困らせているかわかったものではない。
そこで、一つ大事なことに気がついた。
——私は、観光客に怒っているのではなく、“自分の文化が特別扱いされない状況”に、なんとなく戸惑っているのだ。
なんとも情けない話だが、そう考えると肩の力が抜けた。
文化というのは、所有物でも家宝でもなく、ただそこにあるだけのものだ。
それに褒め札をつけてもらえないからといって、いじけるのはどうかしている。
ひとの流れが緩んだ瞬間、私は歩調を少し落とした。
胸のあたりの熱がすっと引いていく。
観光客の声は相変わらず大きかったが、なぜかさっきほど気にならなかった。
ひとの文化は違うし、違って当たり前だ。
それを文化の“摩擦”と呼ぶなら、その摩擦音に少しくらい耳を傾けるのも悪くない。
むしろ、こちらのほうが正しい街の歩き方かもしれないとすら思えてきた。
さて、思う。
——私はいったい、誰に怒っていたのだろう?
相手か。
それとも、説明なしには伝わらない日本の文化を、どこか“偉そうに”抱え込んでいた自分自身か。
おそらく後者だろう。
そして、まあ、それならそれで仕方がない。