2026-03-07

朝起きたら妻がヤギになっていた

朝起きたら妻がヤギになっていた。

最初夢の続きかと思った。枕元で、白いものがもそもそ動いている。寝ぼけた頭で手を伸ばすと、ふわりとした毛並みの感触がした。温かい。柔らかい。けれど、いつもの妻の頬ではない。もっと乾いた草の匂いがして、鼻先がひくひく動いていた。

「……え?」

白いヤギが、私の顔をのぞきこんでいた。

さな角。琥珀色の目。横に細長い瞳孔。まちがいなく、ヤギだった。

私は飛び起き、ベッドから転げ落ちた。毛布がずるりと引きずられ、その拍子にヤギが「メエ」と鳴いた。妙に不機嫌そうな声だった。

「ちょ、ちょっと待ってくれ」

ヤギはもう一度「メエ」と鳴き、それから器用に前脚で布団を掻いた。そこには、昨日まで妻が着ていた薄い水色のパジャマが、きれいに脱ぎ捨てられていた。いや、“脱ぎ捨てられていた”という表現は正確ではない。中身だけが、すうっと消えたみたいに、衣服けが平らに残っていた。

私は恐る恐る言った。

「……真由?」

ヤギの耳がぴくりと動いた。

「メエ」

その鳴き方は、どこか妻に似ていた。朝、私が寝坊したときに「ねえ、起きてる?」と二度目に声をかけるときの、少しあきれたような響き。十五年も一緒にいれば、ヤギの声にだって性格がにじむらしい。

私はしばらく呆然としていたが、とりあえず眼鏡をかけ、カーテンを開け、顔を洗った。鏡の中の自分はいつもどおりの冴えない四十七歳で、頬に寝癖の線がついていた。世界は変わっていない。変わったのは、どうやら妻だけだった。

洗面所から戻ると、ヤギになった妻――もうそう呼ぶしかない――は、リビング観葉植物を食べようとしていた。

「だめだ!」

私が叫ぶと、妻はぴたりと動きを止め、振り返ってじっと見た。その目に、あの“冷蔵庫プリンが一個しかないのに勝手に食べたでしょう”というときの光が宿っていたので、私は思わず背筋を伸ばした。

「……すみません

なぜ謝ったのかわからない。だが結婚生活とは、理屈より反射で成り立つものだ。

朝食をどうするかが最初問題だった。私はトーストを焼き、コーヒーを淹れ、妻の前にはレタスキャベツ、それに念のため食パンも置いた。妻はレタスを数枚食べ、食パン一口かじり、あからさまに嫌そうな顔をした。ヤギなのに、嫌そうな顔がちゃんと妻だった。

そのときテーブルの上のスマートフォンが震えた。義母からだった。

『今夜、そっちに旬のたけのこ持っていこうか?』

私は妻を見た。妻は口をもぐもぐさせたまま、すうっと視線をそらした。たけのこご飯が好きなのは妻だ。つまり断る理由がない。だが、義母に「娘さんが今朝からヤギです」と説明して信じてもらえる自信もなかった。

私は返信を打った。

ありがとう今日は少し体調悪いから、また今度でもいい?』

送信すると、妻が「メエ」と短く鳴いた。たぶん、「気を遣わせてごめん」だった。あるいは「たけのこは惜しい」かもしれない。

その日、私は会社を休んだ。「家庭の事情です」とだけ伝えた。まさか嘘ではない。

午前中は、インターネットで「妻 ヤギ 変身」「人間 ヤギ 戻る方法」「ヤギ 話通じる」などと検索した。まともな情報は一つも出てこなかった。「呪いかもしれません」という怪しい相談サイトや、やけに陽気な牧場ホームページばかりが並んだ。

昼ごろになると、妻は窓辺で丸くなって眠り始めた。春先のやわらかい光が毛並みに落ちて、思ったよりきれいだった。私はソファに座って、その寝顔を見ていた。

妻とは、若いころ職場で知り合った。彼女経理で、私は営業だった。真由は何でもはっきり言う人だった。私がプレゼンで失敗して落ち込んでいたときも、「でもあなた、そういうとこ誠実だから憎めないのよね」と言って、紙コップのコーヒーをくれた。

結婚してからも、彼女は変わらなかった。洗濯物のたたみ方が雑だと叱り、食べ終わった食器をすぐ下げないと叱り、熱を出せば夜中でもお粥を作った。私はしばしば、妻に世話をされて生きている気がしていた。いや、実際そうだったのだと思う。

夕方、妻が目を覚ますと、のそのそと本棚の前まで歩いていった。そして下から二段目に鼻先を突っ込み、一冊の文庫本を押し倒した。

それは、私たちがまだ付き合っていたころ、初めて一緒に行った旅行先で買った詩集だった。妻はその中の一編が好きで、何度も読み返していた。紙の端には小さな付箋がついている。

私は本を拾い、開いた。付箋のあるページには、こんな一節があった。

――ことばにならない日にも、となりにいるものを愛せ。

私はしばらくその行を見つめた。妻は足元で静かに座り、何も言わなかった。言えなかった、のかもしれない。

その夜、私は風呂場の前に毛布を敷き、妻の寝床を作った。妻はそれを見て少し考えるような顔をしたあと、当然のように寝室へ向かい、ベッドの妻の側に飛び乗った。

「そこで寝るのか」

「メエ」

「……そうだよな」

私は苦笑して、自分も反対側にもぐりこんだ。ベッドは少し狭かった。ヤギの体温は人間より少し高い気がした。妻はくるりと向きを変え、私の腕に背中をくっつけて目を閉じた。

その温かさに、急に涙が出そうになった。

朝になったら元に戻っているかもしれない。戻っていないかもしれない。そんなことは本当は、どうでもよかったのかもしれない。目の前にいるのが真由であることに変わりはなくて、言葉がなくても、不機嫌な鳴き声でも、植物を食べようとしても、私が一緒に歳をとりたいと思った相手なのだ

暗い部屋の中で、私はそっと妻の背に触れた。

明日も、ちゃんと世話するから

妻は目を閉じたまま、小さく「メエ」と鳴いた。

その声はたしかに、笑っていた。

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