セオリーがとても魅力的であった季節があって、それらを再読するということ
Peter Eisenman, Written into the Void: Selected Writings, Yale University Press, 2007.
Bernard Tschumi, Enrique Walker , Tschumi on Architecture: Conversations with Enrique Walker, Monacelli, 2006.
Reiser + Umemoto, Atlas of Novel Tectonics, Princeton Architectural Press, 2006.
Raoul Bunschoten, CHORA / Raoul Bunschoten: From Matter to Metaspace: Cave, Ground, Horizon, Wind, Springer, 2006.
──建築における自律の概念は、必然的に異議申し立てとならざるをえない。建築はその単独性ゆえに、他の言説では不可能なやり方で、自らの社会的機能に疑問を投げかけなければならないからである。
ピーター・アイゼンマン★1
ピーター・アイゼンマンやバーナード・チュミといった名前は、今どのように聞こえるのだろうか。20代の若い建築家や学生諸子には、ほとんど関心のもてない建築家かもしれないし、ひょっとしたらそもそも知らないのかもしれない。
アイゼンマンとチュミとでは少し世代が異なるが(アイゼンマンは1932年生まれ。チュミは1944年生まれ)、ともに20世紀最後の数十年の建築界における知的スターであって、刺激的な活動により大きな影響を及ぼしてきた。ふたりともいくつもの実作をものしているが、どちらかというとアンビルドのものを中心に、手がけたプロジェクトの論理的構えが独創性を持っており、またそれぞれIAUS(ザ・インスティチュート・フォー・アーキテクチュア・アンド・アーバン・スタディーズ)とコロンビア大学といった教育・研究機関で、中心的・指導的役割を果たし、議論の場を提供することで、多くの若い才能を導いてきた。
彼らは、日本においても、重要な理論家として、その活動の初期から熱い視線を浴びていた。アイゼンマンが広く認知されるようになったのは、70年代中ほどのホワイトとグレイの論争の時期であろうか★2。
一方、チュミが、日本ではじめてまとめて紹介されたのは『a+u』の88年の特集号である★3。日本において80年代とは、いわゆるニュー・アカのトレンドの時期であり、83年出版の浅田彰の『構造と力』が哲学書にもかかわらずベストセラーになったように、建築界においても、哲学一般や記号論への関心が非常に高まった時期であった。そうした知への強い関心状況というのは80年代、90年代と20年ばかり続いた。90年代には、磯崎新やアイゼンマンが中心となって、Any会議という催しを、毎年一回世界各地で行なう。その顔ぶれも、毎回そうそうたるものであって、磯崎、アイゼンマン、レム、チュミといった面々は常連、それに加えて、ジャック・デリダやフレデリック・ジェイムソンといった哲学系の論客も毎回参加していた。今から考えると、よくこれだけのメンバーが毎年集まったものだと感嘆を禁じえないが(それも建築サイドが中心となって企画をして)、しかし一方では、そう感じるあたりにすでに90年代の知的光景と現代とでは、大きな差が生まれてしまっていることをあらためて感じざるをえない★4。
前段が長くなったが、今回紹介するのは、アイゼンマンの著作集とチュミへのインタヴュー集であり、ともにこのふたりの思考の軌跡をまとめて読むのに適している。彼らの知的活動はどのようなものであったかを資料的に概観し、またそれが今日有効であるのか否か、再考するのにきっと役立つだろう。これらの本を読むことは、彼ら建築家の活動を知ることのみならず、今行なわれている建築運動のベースがどこにあるのかを確認する作業にもなるはずだ。言い換えれば、そうした確認作業を抜いてしまっては、いくら理論的にものごとを考えているようであっても、実際にはそれは厚みを欠いてしまうことだろう★5。
『Written into the Void; selected writings 1990-2004』は、アイゼンマンの後期のテキストを集めたもので、以前紹介した『Eisenman Inside Out; selected writings 1963-1988』の続編となっている。イントロダクションは、ジェフリー・キプニス。この本は、哲学者ジャック・デリダとの応答から始まっているが、この90年代初頭頃から日本ではアイゼンマンの姿がよく見えなくなった。それは、単に情報を供給するメディアの事情に左右されたものなのか、それともアイゼンマン流のアプローチが、日本では(それとも世界的に)飽きられたのか。90年代のアイゼンマンは、ドゥルーズの襞の概念に接近しつつも、それはブロッブやフォールディングの潮流に巻き込まれることにもなり、アイゼンマンはそうしたトレンドの始祖として崇められる一方、若くてもっと気の利いた造形を手がける連中が台頭すると、相対的にアイゼンマンの地位は下がったといえる。その上、当初はかなり理論的な活動であった新しい造形的試みも、理屈よりも新奇な(珍奇な)形を捏造したもの勝ちといった風潮に拍車がかかるにつれ、アイゼンマンとしては、やはり建築には内在的な理論が必要なのだと強調したくなる気分もわからなくはない。ただし、こうした傾向を準備したのはアイゼンマンやチュミであるのだから、彼らは自分たちが育ててしまった子供たちと戦っていかなければいけないのだろう。
『Tschumi on Architecture』は、エンリック・ウオーカーによる長年のチュミへのインタビューを一冊にまとめたもので、チュミの学生時代から、コロンビアのディーンを辞した最近までの活動を、年代順に披露している。チュミの初期の作品、例えば「マンハッタン・トランスクリプト」は、今では神話的な存在となってはいるものの、その内容はよくわかっていないし、またそれが生み出された背景も不明であったのが、このインタヴュー集では、各時期におけるチュミの思考の背景をトレースすることができるだろう。例えば、チュミとシチュアショニストとの関係はよく指摘されているが、チュミはアンリ・ルフェーブルへの関心が高く、AAスクールの時代には、ルフェーブルの著作の書評をてがけ、またAAスクールやICAでのルフェーブルのレクチャーを企画したという。
80年代、90年代は、アイゼンマン、リベスキンドといった知的スターの弟子たちともいえる若手の台頭も折りに触れ紹介されていたが、今日本では若手の実験的な建築家を紹介するメディアがすっかりなくなってしまったので、そのあたりの状況というものが、まったく伝わってこなくなっている★6。
『Atlas of Novel Tectonics』は、ライザー+ウメモトによる、現代建築における新しい技術の(建築)用語集である。幾何学、ダイアグラム、類似性、一致性、選択などといった67の用語が、それぞれテキストと図範によって解説されている。彼らの哲学に触れられると同時に、新しい幾何学に基づく造形に対して、理論的背景を準備するものとして、参照できるだろう。
『Chora/ Raoul Bunschoten: From Matter to Metaspace』は、2005年にハンブルグで開催された同名の展覧会のカタログとして編まれた。この本は、フレッシュ・アーキテクチュアというシリーズのなかの一冊で、ほかにもベルナール・カッシュも含まれているが、正直このシリーズの他の建築家の名前は聞いたことがないものの、理論的なアプローチをしている建築家を集めているようである。カタログという性格もあってか、各プロジェクトの解説が短めであって、内容を吟味できないのがもどかしいが、それもまたラウールの持つ神秘性をサポートしており、説明抜きで図版や模型写真から、その内容を読み取ろうとする経験もまた、ラウールとの付き合い方なのだろう。
★1──ピーター・アイゼンマン「切断を生み出すこと」(『Anything』(NTT出版、2007)所収)。
★2──『a+u』1975年4月号(特集=「現代アメリカの建築家11人──WHITE AND GRAY」)。また、同じ頃まとめられた磯崎新『建築の解体』の中においても、アイゼンマンは重要な扱いを受けている。
★3──『a+u』1988年9月号(特集=「バーナード・チュミの作品4題」)。ちなみに、この時期の『a+u』の充実振りには驚くべきものがあり、このチュミの特集の前後にも ジャン・ヌーベル(7月号)、ダニエル・リベスキンド(8月号)、レム・コールハース(10月号)の特集が組まれており、今をときめくスター建築家が、それぞれはじめて日本に本格的に紹介された号となっている。これは、新しい世代の台頭を示すとともに、建築が大きく変わる予兆を示唆することとなり、当時若い世代を中心に世界中で熱狂的に受け入れられた。
★4──Any会議の最終回をまとめた翻訳書が、時間はかかったものの先日発刊となった(『Anything』[NTT出版、2007])。すでに7年ばかりも経っており、こうした会議の新鮮さが失われていると見る向きもあるかもしれないが、一方では当時の議論を冷静に眺めることも可能だ。レムの、「現代のグローバルな経済の下では、¥€$の波に戯れるしかないという」という有名な説はここで披露されているし、一方アイゼンマンは、頑なにもやはり「建築には建築固有の理論しかないのだ」という長年の自論を再確認している。ちなみにこの会議の中心的存在である磯崎新は、最近の建築界のポストクリティカルの状況にあると、発言している。知的な行為、批評的な行為が、このところ機能していないということだ。
★5──最近発刊された『10+1』No.47の連載において、難波和彦氏は、クリストファー・アレグザンダーの再検討を行なっている。氏自身が認めているように、一度はかなりコミットしたアレグザンダーの理論もここしばらくは遠ざかってきたが、最近になって読み返す必要性を強く感じているようである。また、『住宅特集』2007年8月号では、中谷礼仁氏が、自分の学生たちがアルド・ロッシを建築家として知らなかったことに驚き、ヘルツォーク・アンド・ド・ムロンの師であったことなどを解説すると同時に、現在の建築状況の背景を欠くことが、「明らかに創作の水準を貧困にする」ことを指摘している。
★6──かつては、『a+u』、『SD』、『建築文化』といった雑誌が、ときどき若手アバンギャルドの動向を伝えていたが、今そうしたことに誌面を使える雑誌は皆無となってしまった。これも、ポストクリティカルの状況なのか、それとも単に日本の建築界が保守化しているのか。バブルの頃から、海外にでる日本人の若者の数が飛躍的に増えたから、必ずしもメディアに頼らなくとも、直接的に海外のリアルタイムの動向に接することが容易になったと、状況が変わったことも指摘できるだろう。などと考えていたら、このところのユーロ高、言い換えれば円の価値の下落により、海外に出かける(旅行にせよ、留学にせよ)ことは、だんだんと困難になってきている。この傾向はしばらく続きそうであって、高度成長期を経て海外への渡航が容易となり、特に建築家にとって現地で実物を見るという大きな経験は実現しやすくなったが、それがこれからは難しくなる可能性が大である。それは、日本の建築界に深刻なダメージを与えるのではないかと、懸念している。
[いまむら そうへい・建築家]