素顔のアドルフ・ロースを探して
Adolf Loos, Adolf Opel, Michael Mitchell,
Ornament and Crime: Selected Essays, Ariadne Press, 1997.
Benedetto Gravagnuolo, Aldo Rossi, Roberto Schezen,
Adolf Loos: Theory and Works, Distributed Art Pub Inc, 1995.
Panayotis Tournikiotis,
ADOLF LOOS, Princeton Architectural Press, 2003.
Leslie Van Duzer,
Villa Muller: A Work of Adolf Loos, Princeton Architectural Press, 1994.
『建築文化』2002年2月号「特集:アドルフ・ロース再読」(彰国社、2002)
伊藤哲夫『SD選書165 アドルフ・ロース』(鹿島出版会、1980)
川向正人『住まい学大系4 アドルフ・ロース』(住まいの図書館出版局、1987)
アドルフ・ロースが重要な建築家であるという認識は広く広まっていて、それには間違いがないように思われるが、ではなぜかと問うてみると、そこには微妙なものがある。教科書的な近代建築に関する書籍を紐解けば、装飾を否定し近代建築の先駆けになったとか、ラウムプランを主張し独自の空間構成を提示したといったことが書かれていて、それで彼のポジションを確認したつもりになるのは容易であろう。しかし、建築は都市に対してマスクを被っていると主張した建築家に相応しいというべきか、彼のイメージというのは紋切り型のものに当て嵌められていて、それが本当に彼自身の意図したものや主張したものであるかは検証が必要である。
なぜ、ロースに関して決まりきったイメージが流布しているかといえば、ひとつには彼にまつわるスキャンダラスな出来事が、彼を神話化したことも理由のひとつであろう。しかし、実際問題として彼についての検証を困難としているのは、彼に関する資料が圧倒的に不足しているという事実だ。ビアトリス・コロミーナが、すべてを保存しようとしたル・コルビュジェと対比的に描写しているように、ロースは彼に関する資料を積極的に処分してしまった★1。また、自身の設計する室内空間は写真に写らないとして、雑誌等のメディアでの発表を控えるようになり、そして彼の実現作の多くが住宅であったため、実見することもままならなかった。というわけで、今日ほどメディアが発展していなかった時代である以上に、彼に関する資料はとても少ないものとなっている(1980年代以降、ロースに関する大規模の展覧会や作品集が企画され、この長らく謎に包まれてきた建築家に関する研究は飛躍的に進化している)。
ロースは、建築家であると同時に、著述家としても有名であったが、多くのレクチャーや新聞で彼の考えを披露する機会は多かったものの、著作集としては生前にはわずか2冊発刊されたに過ぎないし、それらも長らく入手は困難であった。ここでは、『Ornament and Crime -Selected Essays』という英語版のペーパーバックを紹介しようと思うが、すでに『装飾と犯罪──建築・文化論集(伊藤哲夫訳、中央公論美術出版、2005)』は翻訳されているし、なぜわざわざと思われる方も多いかもしれない。しかし、この同じタイトルを持つ2冊の本は、まったく内容が異なる別物である。英語版の『Ornament and Crime』に集められたエッセイは37編で、日本版の『装飾と犯罪』は26編と大きく異なるし、当然タイトルとなっているもっとも有名なエッセイ「装飾と犯罪」は両方の本に納められているものの、両方のともに納められているエッセイはたったの6本である。つまり、『装飾と犯罪』という原著は存在しておらず、各国で編まれた著作集に、それぞれロースを象徴する「装飾と犯罪」というタイトルを関しているというわけだ。
伊藤哲夫さんの解説によると、日本語版は著作集のおよそ111の文章から、代表的と思われるものを氏の判断で選んでいるようである(英語版の方は、特に選択についての言及はない)。日本語版では、「被覆の原則について」、「ポチョムキンの都市」、「建築について」といった、建築家ロースを知るには欠かせないと思われるテキストが入っている一方、英語版ではそれらのテキストが揃って抜けているのはかなり意外だ。それには、両国のロース読者の違いにも原因がありそうだ。日本ではロースの読者は、建築の専門家および少数の芸術・文化に関心を持つ人たちが中心なのだろう。一方、英語版はオーストリア文学、文化関連の書籍を多く出版している出版社によるものであり、広い読者層が想定されているようだ。確かに、ロースは一般の聴衆に向けてレクチャーを行ない、新聞に執筆をしたのであって、専門雑誌への寄稿はほとんどなかった。ロースは、都市から日常品にいたるまでの、観察者であり、建築の理論家という像からは、修正が必要な時期なのかもしれない。
ついでながら、ロースのスキャンダラスなイメージが流布しているもとでは、彼の文章のトーンから受ける印象というものも結構、われわれのロース観を形成しているのであろう。しかし、例えば数年前に村上春樹がサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の新訳を発表し、この小説が翻訳によってまったく異なることを証明したように、文章から受ける印象というものは翻訳によってかなり左右される。であるから日本語のヴァージョンを読んで、その印象とロースを結びつけるのには、幾分かのリスクがともなうはずである。もちろん、ロースが日常的に用いていたドイツ語で読むのがベストであろうが、まだ英語版の方が、日本版よりも翻訳によるトーンの差異は少ないであろう。
ほかにも、アドルフ・ロース関連の読書案内をしておこう。
まずは洋書から。ロース研究が進んでいるとはいうものの、相変わらずロース関連の書籍というのは多くない。Benedetto Gravagnuolo による『Adolf Loos』は、代表作のみならずかなりマイナーなプロジェクトまでを網羅しておりロースの足跡を概観するのに便利であり、またアルド・ロッシによる序文など、テキストも充実していて、まずは基本とすべき一冊。Panayotis Tournikiotis による『Adolf Loo』は、図版はモノクロなので作品をヴィジュアルに知ろうというには不足かもしれないが、ダイアグラムなども豊富で、ロースの分析的読解を促すものとして読み応えがあるだろう。『Villa Muller』は、ロースの住宅の到達点
と目されるミューラー邸についての一冊。ジョン・ヘイダックによる序文付。
和書としては、伊藤哲夫さんと川向正人さんがそれぞれ『アドルフ・ロース』という著作を物にしており、ともに入門書として活用できるであろう。建築文化の「特集:アドルフ・ロース再読」は、主要作品を多くの写真で紹介していることが貴重であり、また磯崎新さんへのインタヴュー★2、岡崎乾二郎さん★3、後藤武さん、鈴木了二さん★4、田中純さん★5による対談など、まさにロースを再発見する契機となるエキサイティングな論考の数々も見逃せない。
★1──ビアトリス・コロミーナ『マスメディアとしての近代建築』(松畑強訳、鹿島出版会、1996)の中のテキスト「アーカイブ」参照のこと。
★2──磯崎新さんは、現在『新潮(新潮社)』に連載中の「極薄の閾のうえを--漢字考」の中でも、アドルフ・ロースについて言及している(2006年3月号)。ロースは、アメリカでの経験からも、装飾がなくなるのは自然な流れと考えていたが、それをコルビュジェは戦略的に流用したのではないかとしている。
★3──岡崎乾二郎さんは、『未来 2006年3月号(未来社)』にて、『装飾と犯罪』の書評を寄稿している。
★4──鈴木了二さんによるロースに関するテキストとしては、「ロース・ゴダール・リベラ--松浦寿夫氏への回答」、「ジャーナリスト・ロースのハードボイルド・スタイル」(ともに『非建築的考察(筑摩書房)』所収)がある。
★5──田中純さんによるロースに関するテキストとしては、「着衣の技法--アドルフ・ロースのダンディズム」(『残像の中の建築 モダニズムの〈終わり〉に(未来社)』所収)がある。
[いまむら そうへい・建築家]