Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

ライフハックは自己研究である

セルフ・ライフ・スタディということ。

道元禅師を読む

これは変な本だなあ。 スリランカ生まれのスマナサーラさんが道元の「正法眼蔵」を解説しています。

テーラワーダという南方仏教のお坊さん。 大乗仏教や禅宗とは関係ないんですけどね。 道元さんを読んで「これは本当の仏教です」と太鼓判を押している。 「ああ、やっぱり」と思いつつ、本の構成が良くて「やっぱりって思っちゃダメだなあ」とも気づく。 いい本ですね。

道元さんはわかりにくい。 たぶん当時の権力者や主流派に目をつけられて、弾圧されたくなかったんでしょう。 住んでたお寺に火をつけられたこともあるし、結局京都を離れ、福井の山奥に避難しました。

北条時頼から鎌倉に呼び出されたりして、ちょうど「逃げ若」の時代。 そりゃあ、逃げなきゃ損々。 簡潔に書いているけど、簡潔すぎて「どういうこと?」となる文体を選んでいます。

スマナサーラさんは原文で読んでいるようですが、もちろん自国語に翻訳して解釈しているわけで、テーラワーダ仏教の文脈に道元を置き直しています。

だからか、すっきりした解釈が出てくる。 日本人の解説書よりわかりやすい。 ここから道元に入門するのが道を誤らないように思います。

自己を習う

要点は「自己を習う」です。 自分について研究する。 それが仏道だとする立場です。

お釈迦さんもそうだったし、道元さんもそうだし、スマナサーラさんもそう。 みんな「自分を研究する」ということに人生を賭けている。

「自己を習う」とはセルフ・スタディです。 「自分」を研究対象とすること。 それと「自分」で研究すること。 他の人に教えてもらうのではない。 自分のことは自分でしか知ることはできません。

そして「自分とは何か」といえば「ライフ」です。 「日々の生活」のことです。 自分がどう生きているかを研究する。 それがそのまま「自分の人生=命」でもある。 そう考えると、なかなか哲学じゃないですか。

「生活」が「自分」なのだから、それとは別の「自己」があるわけではない。 「たましい」のようなものを想定しなくていい。 「自我」みたいな概念は不要である。 「変わらない私」などいない。 そういうのは後知恵であって、実際には「生活」しかない。

とてもプラグマティックな立場だと思います。

宗教ではない

途中でスマナサーラさんが「仏教は宗教ではありません」と断言しているのが唐突で、重要ですね。

宗教には、絶対的に正しい「ご主人さま」がいて、そのご主人の下僕になることで安心を得ようという下心があります。 自分で考えることを放棄して、大きな力で庇護してもらう。 それ自体はあってもなくてもいいけど、仏道とは無関係です。

「自己を習う」ということは自分でなければできない。 神様から「あなたはこんな人です。こんな使命を帯びてます」と教えてもらっても「ほんとに?」となります。 自分で研究を重ねていくしかない。 そうなると「宗教」にはならない。

この段があることで、この本はいい本だなあと思いました。 つまり、スマナサーラさんがどんな人か僕は知らないわけです。 会ったこともないし、他の本を読んだわけでもない。 その人が「仏教とはこうですよ」と言っても「それがどうした?」です。 スリランカで有名かもしれないけど、そのことが「正しい」の根拠にはならない。

そう考えると、道元さんも同じです。 「道元さんが言ったから真理だ」と思ったなら、それは「宗教」です。 道元さんを「ご主人さま」にした立場に落ちてしまいます。 自分で考えていない。 「自分で生きる」という自由を手放し、他人の言葉に縛られた囚人になってしまいます。 呪われてますね。

これは「クレタ島人は嘘つきだとクレタ島人が言った」のパラドクスだな。 字面だけだと矛盾が起きる。 自分で自分を研究してみて「ああ、そうだなあ」と積み上げる。 その結果として「お釈迦さんの言う通りだった」であれば、それが仏道なのです。

ライフハックとして

これはライフハックについても同じです。 いろいろなノウハウが流通しているけど、それを丸呑みで信じたならただの「宗教」です。 「自分に関してどうか」と検証する。

道元さんでライフハックっぽいのは「前後際断」のところかな。 普通は「薪が燃えて灰になる」と因果関係で見ている。 物事の「前後」を判断し「薪には燃料としての価値があるけど、灰になってしまったら役に立たない」とか考えている。

「でもそれは、心の中のことでしょ?」と道元さんは言います。 ヒュームみたいなこと言ってる。 薪のときは薪としてのあり方があり、灰のときは灰のあり方がある。 それは繋がっていない。 過去を悔やむのも未来を思い煩うのも、いま目の前とは関係がない。 「薪」であれば薪を突き進むだけだし、「灰」であれば灰に徹すればいい。 そうした「前後」は断ち切られている、と。

いわゆる「マインドフルネス」だけど、マインドフルネスではありません。 マインドフルネスには「自我」という主体があり「役立つ」という行動原理に囚われている。

前後際断には、その「自我」がありません。 「ライフ」だけがある。 「薪と灰」は生死のメタファーだろうから「灰は、灰になってから考えればいい。生きてるときは生きてることに集中しろよ」と。

無茶なこと言ってくれるなあ。 年取ってくると「もし死んだら」とか考えちゃうものよ。 立つ鳥、後を濁さずとか。 生まれ変わるなら、また人間がいいとか。

まあ、班長さんなら「カイジくんはね、不安の持ち方が下手。 どうせ不安になるんだったら、 その不安をもっと楽しまなきゃ」って言いそうだけどね。

まとめ

薪の間にしか薪の「ライフ」はできない。 灰の「ライフ」は薪とは関係ない。 前後際断しています。 「そうした時間を生きてみてはどうか」というお誘いですね。

これが自分のライフハックになるかどうかは、自分で実践しないとわかりません。 道元さんは良かったかもしれないけど、それとこれも際断しています。

自分は自分でないとわからない。