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隠れたる神を言語化する――『否定神学と〈形而上学の克服〉』 茂牧人

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うえしん
   否定神学と〈形而上学の克服〉 シェリングからハイデガーへ 茂牧人

   否定神学と〈形而上学の克服〉 シェリングからハイデガーへ 茂牧人



 ハイデガーをルターやベーメなどのドイツ神秘主義の流れに位置づけた前著『ハイデガーと神学』に感銘をうけたので、この書も読まなければならないと思っていたが、たぶん理解がとどこおるだろうなと思っていたが、だいたいは予想どおりだった。

 この書は前著のつづきとしてシェリングやハイデガーの深化がおこなわれている。前著でも読解がいっぱいいっぱいだったので、今回はそれ以上に増して理解の困難さに見舞われた。とくにシェリングがわからない。神の創造論と自由と悪が出てくるところあたりが理解に苦しむところだ。

 この本は中央図書館で借りたが、哲学者の中でもハイデガー研究の興隆を見ることができる。だがドイツ神秘主義の流れの中にハイデガーをおくという説はどれくらい受け入れられているのだろう。

 この本はむずかしすぎて、専門的すぎ、神学も出てきて、よういに人を寄せつけないのではないだろうか。そもそもハイデガーもそうだったが、神秘主義は非合理やオカルトの極みだと思われている。拒絶と無理解があるうえに、専門的すぎたら、もうだれも寄りつかないだろう。

 かんたんにいうと、ハイデガーがルターから掘り起こそうとした「隠れたる神」というのは、言葉や人間の感覚では神はとらえられないということである。神は言語化できない。ギリシャ哲学からの形而上学はその言葉のワナにハマってしまったから、言語化されない神の次元をよみがえらせようとしたというのが、著者の考えである。

 神は偶像崇拝が禁止されることが多いが、言語化においても誤ったすがたを思い描かれる失敗を重ねてしまうということである。禅では言葉を捨ててしまえば、もうその世界にとどまろうとする。しかしハイデガーはあくまでも哲学者の矜持として、言葉の構築にとどまろうとする。言葉を立ててしまえば迷妄に陥ると禁じるのが仏教の考えである。ハイデガーはそれでも言葉でなにがしかを語ろうとした。

 ハイデガーの難解で奇妙な言い回しのうえに、さらに専門的な澱がつみ重なって、もうよういに人が近づけない。専門性のうえに専門性をつみ重ね、さらには神秘主義の拒絶も重なって、だれもとりつかない。

 ハイデガーに神秘主義の理解をたのもうとするのではなくて、カウンターカルチャーの流れの中の神秘主義は一般者向けに語られたものであるから、一度こちらでの理解をへたうえでハイデガーの神秘主義傾向に挑まないと、なにをいっているかさっぱりわからないだろう。ふつうの言葉で語られた神秘主義を読むと、ハイデガーやシェリングの語ったことはなんて複雑で近寄りがたい壁を打ち立てたのかと思うことだろう。

 たんじゅんにいえば、言葉で語られたものはどこにも実在しないものであるということである。言葉の幻想を手放そうということである。言葉の壁を打ち立てるなといったのである。ハイデガーはそれを警戒しながらも、言葉で語ることは可能だと思ったのだろうか。言葉で描いたものが実在するという思い込みから、抜け出す道を言葉を使って語ることができるものだろうか。



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Posted byうえしん

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