9月半ば、久しぶりにTVで映画を視聴。
しかも近頃めったに見ないSF映画、宇宙ものでカタストロフィ映画、軌道から外れた月が地球に接近、というストーリーだというので、小惑星の衝突のような、実際に可能性がないではない現象による「世界の終わり」的なものかと思っていた。
そして、実際この手のハリウッド映画にはお約束の、カタストロフィを前にしての家族愛とか、落ちこぼれが実力を発揮するとか、干されていた男が呼び戻されて使命感を目覚めさせられるとか、お約束のミニ感動ストーリーがちりばめられている。地上の大火災や巨大津波やカーチェイスやロケットの運命なども、大スクリーンで観たらどんなに迫力があるだろうとCG技術にもうならされる。
でも、この映画にはっとさせられたのはユニークな発想だ。
細かくみていけば無理があるとしても、この発想は、AIが独り立ち、暴走をするかもしれない、人間を超え、人間の手に負えなくなるかもしれない、シンギュラリティが超えられる日も近いなどという予測が現実味を帯びて語られるようになった2020年代以降だからこそ生まれたような気がする。
有機的な生物は文明を発達させても結局は滅び、それでも、残されたAIはまた有機生物が誕生するのを待っている。
主人公の一人が自分を犠牲にしてエイリアンの内部に突っ込んで地球を救うのだけれど、ラストシーンに彼が現れて、母親と再会する。彼の意識がスキャンされて再現したのだ。母の姿も彼の意識の中に組み込まれているものなのだろう。
有機的な肉体が朽ちても、意識が形をとって生き残るというイメージは、カトリックでいう諸聖人の通功(聖徒の交わり)にも通じるような気がする。この世を去った後の「聖人」たちは時空を超えて人と神との間のとりなしを続ける。他の文化でも「死者」が「霊」となって「生者」を守護するなどよくあるパターンだ。
それが一種の「意識がスキャンされたもの」なのだとしたら、私たちも遠い昔に絶滅した有機体の残した巨大なAIによって創られて守られている存在なのかもしれない。
普通のカタストロフィー映画や「スター・ウォーズ」のようなタイプの設定にはあまり興味がないのだけれど、この「ムーンフォール」は、私にとってなにか不思議な説得力を持つものだった。単に滅亡するかと思われた地球が救われたというようなものではなく、滅亡の果ての希望のような何かを感じさせてくれたからだ。