ビルマとの国境にて/20歳 ♪恋というものは不思議~なも~の~なんだぁ~
逢っ ているときは~ なんともないが~
さよならすると~ 涙がこぼれちゃう♪
布施明のヒット曲『恋』……。
恋心を的確に表現していて、憎らしいほど。
懐かしくもあり、切ない記憶ですよねぇ。
But……\(?。?")。
今にして思えば、恋はやっぱ、病かも?と思います。
恋心というものは、『知らぬが仏』状態で、
互いが、勝手に思い描く理想象に恋しているのかも、と。(^_^ ;)
46年前、オバちゃんも人並みに恋をしたのですが、
『異文化の壁』を前にして、白昼夢から覚めました。
その、オバカなエピソードを公開しましょう!
今日の話は長いです。(お忙しい方はスルーください)
著名でもない、ふつうのオバちゃんの恋物語なんて退屈ですよ。
ただ、これを読むことで皆さん自身の青春を思い出し、
人として成熟した今の自分を、褒めてあげられたら幸いです。20歳の私は、かつてのシャム王国(タイ)に向かいました。
目的は、国際結婚の下見旅行でした。
過去記事『悩むな!考えろ!』に書いた経緯を経て、
21日間の長期休暇をもらって旅立ったのでした。
恋人の名前はタノン・ブンジョス。
軍人の父を持つ長男で、30歳のエンジニアでした。
出会いは、家族で行った大阪万博のタイパビリオン内。
近畿大学工学部に留学中の彼が、
自国のパビリオンで通訳のバイトをしていたことに始まります。
当時、私は名古屋在住の勤労学生で、2年間は文通だけの付き合い。
その後、実家のある大阪で就職してデートを重ね、
互いが結婚を意識するようになっていきました。
国籍を取得して日本で就職するか否か、
タノンはかなり悩みましたが、私は帰国を勧めました。
当時の日本では、まだまだ黒人やアジア系の人々に対する偏見が強く、
彼にとっての就職は、自国の方が有利だろうと思ったわけです。
もっとも、私は、すぐに結婚したいとは思っていませんでした。
POPライター業は楽しく、専門職としての未来に希望を持っていましたし、
数年先なら結婚してもいいけど……くらいの温度差はありました。
ただ、相手の立場(30歳、長男)や、心境は理解していました。
留学過程が終了しているのに、好きな人がいるとかで、
一向に帰国しようとしない長男坊に、両親がやきもきしていたのです。
ある日、タノンが真剣な眼差しで言いました。
『結婚の予行練習してみない?
まずはタイを知って欲しい。
できれば僕と一緒に行って欲しいけど、
現地を見て、風子がそこで暮すと決心できれば、
僕、数年くらいなら待てるから……』
自分の気持ちと両親の間で葛藤していたタノンは、
私の気持ちの本気度チェックしたかったのです。
『うん、判った……。帰国に合わせて一緒には無理。
お金も貯めないと行けないし、長期休暇も簡単ではないからね。
けど、必ず行く……約束するわ。』
この会話から1年後、上司の配慮で実現した旅行だったわけです。
タノンの実家は、
バンコクの北方400㎞ほどのペチャブリー市にありました。
100坪ほどの敷地に木造二階建ての家屋と、小さな菜園。
日本の田舎によくある平均的な一軒家でしたが、
軍から派遣された2名の番兵が駐屯するという、
小屋の粗末さが妙に可笑しかったことを覚えています。
実家に到着した夜、親戚や友人、知人が集まって、
盛大な歓迎会が始まりました。
好奇に満ちた大勢の目に晒され、
婆さま方には手相や足相まで鑑定され、
なんとか『合格』が言い渡されました。
すると翌日から義母は早速、私を市場に同伴させたり、
日本ではありえない米の炊きかたや、
男女別に位置が決まっている洗濯物の干し方などを説明。
いくらなんでも早すぎない?
下見だ、っちゅうに、……とか思いながらも、
好奇心が勝って義母の後をついて回りました。
冷蔵庫以外の家電はなく、米は薪で、洗濯は洗濯板で、
食器と洗濯物の洗剤は、同じものを使用するようでした。
タイは常夏の国……日に何度も水浴びをするということで、
風呂は、ドラム缶に張った水を浴び、同じ場所にあるトイレは、
そのドラム缶の水を汲んで、手動で流すという具合でした。
その生活スタイルはどうってこともなかったのですが、
最大の壁は、激辛で香辛料ムンムンのタイ料理でした。
このタイ料理……バンコク滞在の数日は何とか持ち応えていました。
望めばホテルで洋食を摂り、喫茶店で涼をとることも可能でしたから。
しかし、実家にきてからというもの、地方色の濃いタイ料理が続きました。
それらは観光客に配慮したバンコク市内のものとは違い、
耐えがたいほどのニンニクと香草、激辛の香辛料が混入していました。
口元に運ぶだけで、反射的に吐き気をもよおすのですが、
母親やタノンの胸中を思えば、食べないわけにはいきません。
吐き気を堪えて無理やり飲み込むうちに、胃の方がストライキ。
日増しに食欲をなくしてから七日目の朝、
ひどい目眩に襲われ倒れてしまったのです。
実は私、持病を持っていました。
刺激の強い食事を摂ると、まずは胃がやられ、
しだいに膀胱炎症状に見舞われます。
それが夏場なら最悪で、大量の発汗によって体液の塩分濃度が上がり、
尿に血が混じって微熱が出る……腎盂腎炎の再発です。
放置すると炎症が腎臓まで広がり、
最悪の場合は人工透析の必要に迫られることから、
医師からは安静と水分補給を促されていたのです。
義母が、煎じた薬草を持ってきて枕元に置きました。
藁にもすがる思いで一気に飲み干すと、不思議なことが起きました。
腹部全体がクワ~と熱くなり、すぐに深い眠りに堕ちたようです。
目覚めると、なんと爽やかなこと。
胃の不快感は消え、元気が戻っていました。
そのときの薬草効果は、魔法に思えたほどです。
その日以来、
タノンは私を連れて観光地巡りをするようになりました。
実家での緊張や食事から開放しようという配慮でしたが、
タイ料理そのものが恐怖になった私は、
現地では豚の餌らしいのですが、
路上販売のスイカばかりで、空腹を満たしていました。
そんなとき、たまたまタイの要人から、アメリカとタイ空軍による
アクロバッ飛行トショーに誘われ、貴賓席で観覧することに。
というのも、大阪万博の折に……。
タイのVIP一行が京都、奈良観光をしたいということで、
タノンが通訳、私が神社仏閣の説明に同伴した縁でした。
(タノンは、漢字の多い建造物の歴史や説明が読めない)
ベンツ二台、貸し切りで二日連続。
夜は北新地で豪遊……未体験、別次元の世界でした。
その時のメンバーってのが……。
妻同伴の大臣、都知事、警視総監、タイパビリオン館長と、
その妻(元ミスユニバース)という顔ぶれで、
風子がタイに来てるなら会いたい、みたいな話になったわけです。
ココで注訳いきなりですが、タイ美人の基準に触れます。
とにかく、丸顔が好まれます。
目がぱっちり、口元が小さく、手足が小さい。
おこがましいですが、そのまんま、わたし。
壮年のVIP一行に、大層可愛がられた理由です。
そんないきさつで上流社会のお歴々と同席して、
身の置き所のない苦痛を味わったり、
リゾートビーチのコテージで、彼と2人だけの静かな夜を過ごしたり、
身分不相応でロマンチックな体験もさせてもらいました。
帰国が近づいたある日……。
タノンの弟と、その友人を同乗させてアユタヤ遺跡を巡り、
単身でビルマとの国境に駐屯する、タノンの叔父を訪ねました。
彼等は7年ぶりの再会ということで、話が弾みました。
ですが、言葉の壁というものも辛く歯がゆいものです。
タイ語の特訓を受けたわりには(3カ月ほどタノンから猛特訓された)
現地ではまったく役に立ちません。
バンコク市内なら英語も通じますが、田舎では身振り手振りばかり。
フラストレーションがたまります。
2時間ほどで耐えられなくなった私は、
外に出て手のひらサイズの猿と遊んで時間を潰しました。
人見知りしない小さな猿が、低木の間に沢山いたのです。
叔父と別れ、ビルマとの国境沿いに差しかかると、
ヤシの木の間から集落が見えました。
秘境探訪ドキュメントにでも出てくるような、
高床式、藁屋根、板張りの簡素な住居が見え隠れしていて、
俄然、好奇心が躍動。
彼等の暮らしぶりが見たいと、タノンにせがみました。
集落の手前で車を降りて歩き始めると、
広場にいた人々の目が、一斉に私たちに向けられました。
そりゃあ、そうです。
腰巻だけで半裸の男たちと、全裸の子供たち。
女性は胸下をボロ布で覆っただけの格好の中、
私は冒頭の写真のような格好でしたし、
タノンや高校生の弟、友人共に、ホワイトカラーでしたから。
石積みの釜戸や、洗濯場のある広場で、
縄を編んだり、矢じりを研いだりしていた男たちに近づき、
タノンが丁寧に挨拶をして回りました。
『ちょっと見学させてください』
『あんたたち、どこから来たの?』
そんな意味合いだったと思います。
私は、芋の皮をむく女性の傍らで独特な道具に見入ったり、
遊びまわる裸の子供たちを眺めたり、
高床式の住居の下で飼われている豚や、鶏に気をとられていました。
住居の床板は隙間だらけで、階下に残飯を落とすにはもってこい。
山岳民族の暮らしぶりに感心したりしていたわけです。
30分ほど経ったでしょうか。
タノンが血相を変えて近づいてきて、耳元で囁きました。
『車に乗って!急いで!』
驚いて振り向くと、男たちはもとより、
そこにいたはずの、女子供の姿もありません。
弟たちはすでに待っていたようで、
私が乗り込むと車が急発進しました。
『どうしたの?』
『ゲリラ!……車に積んでた父の勲章付きの帽子見た。
追いかけられるかも……』
猛スピードで集落から逃れる車の後方で、
けたたましい銃声がしました。(◎ー◎;)……((((;゚;Д;゚;))))カタカタ
『頭、下げて!』
伏せ気味に運転しながら、タノンが叫びました。
反射的に身をかがめ、耳を疑いました。
(゚◇゚;) 嘘!……この時代に銃で狙撃って……夢?
横を見ると、ハンドルを持つタノンの手が震え、
弟たちも身をかがめて固まっています。
えぇ~っ、ここで死ぬの?
死骸は野犬かなんかの餌になって?
母さん、ゴメン……(×_×;)
日本人女性、タイで行方不明とか、新聞に載る?
そんなはずは……これは夢なんじゃ?
30分ほど激走して、湖のほとりの広い道路に出たとき、
タノンが車を止めて言いました。
『危なかったねぇ……途中、男が僕の車、見に行った。
戻ったら他の男を誘って家の中に入って、一人ずついなくなった。
それで僕、思い出した。
後部座席の見えやすい所に、陸軍の帽子、置いてた。
たぶん、殺されるか、身代金要求されたかも……』
『(。・?_?・。)ムゥ…(o´_`o)ハァ・・・』
この危機一髪話……。
身内はもとより、親友にも話したことはありません。
『南方の土人と結婚するなら親子の縁を切る』
そう言い切った母にすれば、
『だから言わんこっちゃない!』ですから‥‥。
この事件の発端となった勲章付きの軍帽について、
補足です。
タイにきてからというもの、
軍人に対する優遇措置には驚かされたものです。
市内のレストランで駐車場が満車だったとき、
タノンは平然と駐禁ステッカーの横に車を停めました。
案の定、いかにも苦々しい顔をした警察官が近づきはしましたが、
後部座席に置いた父親の軍帽を見るなり、
敬礼して立ち去ってしまったのです。
それが高僧の袈裟だとしたら、
警察官は合掌して平伏すというから驚きです。
タイの軍人は特権階級に属しています。
父が陸軍大尉のタノンなどは申請だけで普通車免許がもらえるし、
医療費が全額免除されるということでした。
タイという国には、未だ歴然とした身分制度があります。
王様でさえも仏教徒の一人ということで、最高位は僧侶(たてまえ)。
その次が軍人で、人口の40%ほどしかいない
純粋なシャム人たちで構成されています。
残り60%は華僑(中国系の商売人たち)で、
経済は実質、華僑に支えられているのですが、
僧侶や軍人からは、卑しい身分という偏見がありました。
★21日間のタイ旅行全容について興味があれば、
過去記事の『離脱』『賢者のささやき』『悩むな!考えろ!』などを参照ください。
悩むな!考えろ! 離脱 賢者のささやき帰国の前夜、タノンから聞かれました。
『どお?‥‥タイで暮らせそう?』
ドキドキしました。
『う~ん……努力はするつもり。
そうそう、お母さんは、私のことどう思ってる?』
思わず話の焦点をずらしてしまいました。
『お母さんね、風子がこのままタイに残るなら結婚できるけど、
帰ったら、たぶん、無理だろう、って言ってる。』
内心、ドキッとしました。
『えぇ~っ!……いくらなんでも、このままってわけにはいかないよ。
上司を裏切るわけにいかないし、家族にも、それではあんまりだわぁ』
そういうと、タノンは寂しそうに微笑みました。
別れの朝、タノンはバンコクの親戚や友人宅に寄り道して世間話。
途中の渋滞などを予想すると、間に合わなくなりそうで、
なんども急かして険悪なムードに……。
案の定、空港に着くと、搭乗手続きは終了し、
トランシーバーを持った係り員たちが走り回っていました。
!(・。・) 私を捜していたのです。
冷汗を拭いながら、タノンが係員に言い訳し、
それが終わらないうちに、
係員が私の手をとって走り出しました。
『行って!…早く行って!』
振り返る私に、タノンの声だけが聞こえました。
係員に急き立てられて、
関係者以外立ち入り禁止という通路の階段を降りていたのです。
外に出ると、ジープと軍人が待機していて、
すでに滑走体制に入っていた飛行機に運ばれました。
『たまにいるのよね、こんな人……』
そんな目をしたスチュワーデスが、笑顔で迎えてくれました。
もちろん、乗客の何人かに睨まれました。
私のために、飛行機は離陸を5分も待っていたのですから。
『もう、あんなに急かしたのに。言わんこっちゃない……』
そう思いながら窓の外に目をやると、
送迎デッキで手を振るタノンの姿が見えました。
愛しさが押し寄せ、嗚咽しました。
このドタバタ劇は、私を日本に返したくないタノンが、
意図的に仕組んだと、やっと理解したのです。
帰国の日が近づくにつれ、どんなに葛藤したことか。
最後の夜は二人だけで過ごしたかったのに、
親戚の家に泊まって、妙にテンション高く雑談に耽ったタノン。
その真意を量りかねていた自分の愚かさに腹を立て、
同時に、真意には沿えない悲しさに苦悶しました。
帰国して数か月というもの、
冒頭、布施明の歌詞そのものの心境でした。
愛しさに胸かきむしられる反面、
冷静な自分に諭されるわけです。
無理、ムリ、ムリ……。
何か月も、その理由を自らに言い聞かせました。
・激辛で臭いタイ料理
・歴然とした身分制度への抵抗(物乞いする子供たちの多さ)
・2度も体験した“幽体離脱”よる世界観の好奇と混乱。
こうして、わたしの恋は終結。
今も思うのは、タイに移住していたら、
精神世界の探求や、神秘体験はなかったはず。
ましてブログを書くなんて、まず、なかっただろうと……。
ですが、一方では、
タイ人に嫁いだ自分の人生を想像します。
【人生はすでに完成しているDVDのようなもの】
意識の海にはパラレルワードがあって、
幾つもの人生脚本が、同時進行で展開していると
知っているからです。
(*′☉.̫☉)えっ? タノンとも離婚しただろう! って?
(´・_・`)…… ワ~オ!……あるいはそうかも、です。
この世には、男女の情愛より楽しいことが多すぎて……。(^_^ ;)
いずれにしても、人生は無常です。
変わらないものは、なにひとつ、ないんですよね。
歳を重ね、ブラックジョークのひとつにでも共感できれば、
あなたも『人生の哲人&鉄人』って、ことじゃないでしょうか、ネ!
結婚するとき、
私は女房を食べてしまいたいほど可愛いと思った。
今考えると、あのとき食べておけばよかった。
アーサー・ゴッドフリー(米国のブロードキャスター)ポチが、励みになります!…(*´~`*)。o○エッセイ・随筆ランキングへ