渇望
渇望
ふつうのオバゃんが
魂の欲求に気づいた ? σ(◎◎;)
若い頃から、私は“切なさに似た孤独感”を抱えていた。
その感覚を最初に味わったのは、17歳の頃である。
経済的な事情から高校に進学できなかった私は、
定時制高校に通える名古屋の某会社に就職していた。
自転車で通う学校までの道筋に教会があって、
毎日のように屋根の十字架に見とれた。
近づくに連れて胸の奥がキューンと鳴き、
その場所を離れられなくなるのだ。
理由はわからなかった。
キリストや尼僧など、聖なる者に憧れる思春期の感傷に過ぎない…。
時折、そう自分にいい聞かせたものだ。
しかし、その後も十字架への奇妙な感情は高ぶる一方だった。
見つめているだけで懐かしく、
畏敬の念や、切なさが溢れて涙を流してしまう。
答えがそこにあるような気がして、
ある日、勇気をふるって教会の門を叩いた。
だが、ミサにおける儀礼や、寄付金の説明を優先する牧師の態度に幻滅した。
(やっぱり、年頃の感傷に過ぎないのかも……)
切なさに似た孤独感は、結婚生活の最中にも頻繁に現れていた。
もっとも、夫婦間の摩擦や、早くから保育所に預けた
息子への罪悪感に苛まれていたので、
原因は慢性的な欲求不満だと思い込んでいた。
それが人間関係や境遇にあるのではなく、
自らの内に潜む本質的な衝動だと解ったのは、離婚後のことだ。
トップセールスマンとしての名声と、豊かな暮らしを手に入れてもなお、
その渇望感だけは癒えることがなかった。
物質的な欲望はもとより、息子への愛情や、
男女の情愛に満たされていても、その全てが、ただ空しかった。
心の深い所で、本能的な衝動が何かを求めていた。
切なさに似た孤独感に曝されるわけが知りたかった。
人としての、存在の理由が知りたかった。
渇望による叫びは、いつの間にか祈りに変わっていった。
何に対して祈っているのかはわからなかった。
聖書を研究はしても、私は基本的には無心論者で、
あらゆる宗教を否定していた。
宗教はどれも良いことを唱えてはいたが、
必ずといってよいほど組織を持ち、
教会や神殿を建てて金を集め、
大儀名分のもとに、権力を奮って
統合と分裂を繰り返していたからだ。
気がつくと、『求めよ、さらば与えられん』という
聖書の言葉を頼りに祈っていた。
大いなるもの、あるいは神、宇宙の真理に問います。
この、切なさに似た孤独感はなんなのですか。
そのわけを示して下さい。
人間関係の無常については、
自らの観念が反映された結果として受け入れます。
ですが、胸の深いところでキューン、キューンと存在を示す……。
あたかも遺伝子に刻まれたような孤独感は、
一体、何によって埋められるのですか。
ある日、途方に暮れた精神を抱えて、
書店の前で山積みされた書籍を眺めていた。
すると『アウト・オン・ア・リム』という表題の本が目に入った。
まるで本の方から飛び込んできたかのようだった。
表題の意味はわからなかった。
ただ、シャーリー・マクレーンの物憂げな眼差しに惹かれ、
何気なく小見出しのページを開いてみた。
全身に鳥肌が立った。
そこに、探し求めていた答えがあったからだ。
幼い頃からの不可思議な出来事が、一晩で明白になった。
驚きと興奮、共感と確信が心を埋め尽くし、号泣していた。
その激しさで、ガタガタと机が揺れたが、
過去に流した多くの涙とは全く異質なものだった。
一切の罪や苦悩から解き放たれたような、
清らかさと懐かしさの入り混じった不思議な涙だった。
転生の記憶を持つ魂としての自分が、
肉体を通して喜びを伝えているような、奇妙な感覚を伴っていた。
翌日、仕事が終わるや否や、書店に直行した
シャーリー・マクレーンの本を全て買い求め、
彼女が10年の歳月をかけて書き上げた本を、
まるで乾いた砂漠に水が吸い込まれるようなスピードで読み続けた。
数日で世界が変わっていた。
『切なさに似た孤独感』が、跡形もなく消えていた。
その後、
シャーリー・マクレーンに似た神秘体験をする。
エッセイ・随筆ランキングへ
魂の欲求に気づいた ? σ(◎◎;)
若い頃から、私は“切なさに似た孤独感”を抱えていた。
その感覚を最初に味わったのは、17歳の頃である。
経済的な事情から高校に進学できなかった私は、
定時制高校に通える名古屋の某会社に就職していた。
自転車で通う学校までの道筋に教会があって、
毎日のように屋根の十字架に見とれた。
近づくに連れて胸の奥がキューンと鳴き、
その場所を離れられなくなるのだ。
理由はわからなかった。
キリストや尼僧など、聖なる者に憧れる思春期の感傷に過ぎない…。
時折、そう自分にいい聞かせたものだ。
しかし、その後も十字架への奇妙な感情は高ぶる一方だった。
見つめているだけで懐かしく、
畏敬の念や、切なさが溢れて涙を流してしまう。
答えがそこにあるような気がして、
ある日、勇気をふるって教会の門を叩いた。
だが、ミサにおける儀礼や、寄付金の説明を優先する牧師の態度に幻滅した。
(やっぱり、年頃の感傷に過ぎないのかも……)
切なさに似た孤独感は、結婚生活の最中にも頻繁に現れていた。
もっとも、夫婦間の摩擦や、早くから保育所に預けた
息子への罪悪感に苛まれていたので、
原因は慢性的な欲求不満だと思い込んでいた。
それが人間関係や境遇にあるのではなく、
自らの内に潜む本質的な衝動だと解ったのは、離婚後のことだ。
トップセールスマンとしての名声と、豊かな暮らしを手に入れてもなお、
その渇望感だけは癒えることがなかった。
物質的な欲望はもとより、息子への愛情や、
男女の情愛に満たされていても、その全てが、ただ空しかった。
心の深い所で、本能的な衝動が何かを求めていた。
切なさに似た孤独感に曝されるわけが知りたかった。
人としての、存在の理由が知りたかった。
渇望による叫びは、いつの間にか祈りに変わっていった。
何に対して祈っているのかはわからなかった。
聖書を研究はしても、私は基本的には無心論者で、
あらゆる宗教を否定していた。
宗教はどれも良いことを唱えてはいたが、
必ずといってよいほど組織を持ち、
教会や神殿を建てて金を集め、
大儀名分のもとに、権力を奮って
統合と分裂を繰り返していたからだ。
気がつくと、『求めよ、さらば与えられん』という
聖書の言葉を頼りに祈っていた。
大いなるもの、あるいは神、宇宙の真理に問います。
この、切なさに似た孤独感はなんなのですか。
そのわけを示して下さい。
人間関係の無常については、
自らの観念が反映された結果として受け入れます。
ですが、胸の深いところでキューン、キューンと存在を示す……。
あたかも遺伝子に刻まれたような孤独感は、
一体、何によって埋められるのですか。
ある日、途方に暮れた精神を抱えて、
書店の前で山積みされた書籍を眺めていた。
すると『アウト・オン・ア・リム』という表題の本が目に入った。
まるで本の方から飛び込んできたかのようだった。
表題の意味はわからなかった。
ただ、シャーリー・マクレーンの物憂げな眼差しに惹かれ、
何気なく小見出しのページを開いてみた。
全身に鳥肌が立った。
そこに、探し求めていた答えがあったからだ。
幼い頃からの不可思議な出来事が、一晩で明白になった。
驚きと興奮、共感と確信が心を埋め尽くし、号泣していた。
その激しさで、ガタガタと机が揺れたが、
過去に流した多くの涙とは全く異質なものだった。
一切の罪や苦悩から解き放たれたような、
清らかさと懐かしさの入り混じった不思議な涙だった。
転生の記憶を持つ魂としての自分が、
肉体を通して喜びを伝えているような、奇妙な感覚を伴っていた。
翌日、仕事が終わるや否や、書店に直行した
シャーリー・マクレーンの本を全て買い求め、
彼女が10年の歳月をかけて書き上げた本を、
まるで乾いた砂漠に水が吸い込まれるようなスピードで読み続けた。
数日で世界が変わっていた。
『切なさに似た孤独感』が、跡形もなく消えていた。
その後、
シャーリー・マクレーンに似た神秘体験をする。
エッセイ・随筆ランキングへ