サイモン・ネピア=ベル自伝 その2

前回の続き。

すべてを変えたロバート・スティグウッド

彼は音楽業界のトップに登りつめ、マネージメント、出版、そしてレコーディングという三つの分野にまたがる帝国を築いた最初の人物だった。しかし、ビートルズの出現で音楽業界が最盛期を迎えた時に彼は破産し、やっと六〇年代の終わり頃になって再び浮上して、世界中で最もポップス界に影響を与えた人物となるわけだ。ロバート・スティグウッドはオーストラリア人で、五〇年代の終わり頃(略)大学を出たばかりで、イギリスへのヒッチハイクの旅に出ようとしていたのだ。(略)

イギリスに着いたロバートは、イースト・アングリアで知恵遅れのティーンエイジャーのための学校に職を見つけた。彼の仕事は、寄宿舎の内外を見まわる夜勤だったが、気乗りせず、イライラしていた。

 偶然彼は、ステファン・コムロジーという稀に見る美貌の若者が梯子に登って壁塗りをしているところに出くわした。二人はすぐに意気投合していっしょに商売をやることに決め、小さな劇場風の事務所に演劇関係の代理店を開いた。彼らの初期の大当りのひとつは、ジョン・レイトンという俳優を抱えたことで(略)

[主演]映画は成功し、彼はレコードを出すことになった。そのレコードがまた、どういうわけかチャートのトップになってしまったので、ロバートは必然的に音楽業界に近づいてゆくことになったわけだ。

(略)

[先達との違いは]彼がその仕事を横に広げていった点だった。(略)出版とコンサートのプロモーションにも手を出したのだ。(略)

 ジョー・ミークという男があるアイディアを持ってやって来た。

 歌手を見つけてレコード会社にいき、その歌手とレコーディング契約をしてくれるよう頼み込む代わりに、自分たちの資金でレコードを作り、それをレコード会社に持っていってレコードの定価の何パーセントかを支払って販売してもらうようにはできないだろうか?(略)

 ジョー・ミークは学究肌の人間だった。彼は自分の家の浴室でレコーディングができると考えていた――特殊な音響効果が得られると言うのだ。ジョーに必要なのは、百ポンドの機材だけだった。ロバートはその考えに賛成して彼に金を渡した。ジョーはレコードを作りあげるとロバートのところに来て、レコード会社に売りつけにいく度胸がないと思ったので、ロバートが代わりに行った。それが、ロバートにとってばかりでなく、イギリス音楽産業界全体にとっての、新たな時代の始まりであった。(略)レコード会社とこの型破りの企業家たちの間の新しい相互利益関係をとりもったのは、またもやあのラリー・パーンズのアイディアをとりまとめたEMIのジョセフ・ロックウッドであった――彼はのちにもう一度、今度はブライアン・エプスタインを相手に同じようなことをするハメになる。

 ジョー・ミークのレコードは爆発的なヒットになり、その後引き続きスティグウッドが自ら製作したレコードも同様だった。彼は音楽業界に新たなプロセスを確立し、数年後には独立プロのレコードがチャートの半分以上を占めるようになっていた。しかし、ロバートから見ると多少問題があった――計算してみたら、EMIと取り決めた分配率ではほとんど利益が上がらないことがわかったのだ。彼は先駆者ではあったかもしれないが、自分にとって都合の悪い取り引きをしてしまったわけだ。

 とはいえ、独立プロダクションという方法は音楽業界の企業家たちにまったく新しい自由を与えた。(略)「レコード会社との契約を取りつけてあげられると思う」と言う代わりに、完全な自信を持って、「明日、レコードを作ろう」と言えるわけだ。それに創造的な可能性も広がった。危険を冒さないレコード会社がやりそうにないものでも、ピンときた曲は皆、すぐにレコードにできるのだ。あっという間にそれはレコードのスタイルと方向を変えたが、中でもロバートにとって重要なものはカバー・バージョンだった。

 イギリスのアーティストたちはよくアメリカのヒット曲をコピーしていたが、そういうのはアメリカでのヒットが確固たるものになるまではたいていレコードにはならなかった。で、ロバートはアメリカに飛んで最新の曲を聴き、直ちにイギリスに戻って中でも彼がヒットしそうだと思うもののカバー・バージョンを作った。やがてアメリカでその曲がヒットし始める頃には、すぐにイギリス版を出せるというわけだ。ロバートは、いつも、のろのろしたイギリスのレコード会社の先を行っていた。

 彼は大成功を収めた。(略)

自分のところで出したレコードの一枚がトップ三〇に入らなかった時などロバートは腹立ちまぎれに大きな音楽業界の新聞のひとつを買い占めてしまったこともある。彼はあらゆる点で、最初のイギリス音楽業界の大立物であり(略)成功の模範となる先例を作っていたのだった。

(略)

[頻繁な海外旅行、酒、賭け事で仕事はなおざり]

気に入ったグループを連れてきて週三十ポンドで抱えたまま忘れてしまい、彼が気がつくまで何ヵ月もの間ただブラブラ遊ばせておいたようなことも一度や二度ではなかった。会社の資金は減る一方だった。それに、うまくいっていた時でさえ、レコード製作からはあまり利益が上がらなかったのだから、会社はマネージメントの手数料とアーティストの稼ぎで命をつないでいたのだ。ロバートはコンサートのプロモーションもやっていたので手っ取り早く現金が入り、景気の悪い時期でも帳簿は黒字だった。日曜に有名アーティストのコンサートをやって満席にすれば、とりあえず銀行の残高が増えるわけだ。(略)

最終的にロバートの会社を破産させたのも、このプロモーター稼業だった。

 経済状態を建て直そうと、ロバートはチャック・ベリーのツアーに賭けた。だがこのアメリカ人の歌手は劇場の半分くらいしか客が入らず、その上この男は毎晩演奏の前にギャラの半分を請求するのだった。

(略)

[第二のクリフ・リチャードを狙ったサイモン・スコットの収支も赤字。チャック・ベリーのツアー途中で資金が尽き]

破産管財人を呼び入れた。負債は四万ポンドだった。(略)

 EMIが負債の肩代わりをすることを申し出たが、彼は断った。以前にEMIと取り交わした不利な契約を解消して、もっとよい条件で再契約しようと考えていたのだ。再建にはだいぶ時間がかかりそうだったし、メンツは丸つぶれだった。

(略)

彼は、外面的には破産状態でありながらも、友人たちには、どこかに個人的な資産を隠し持っているようなことを匂わせるという微妙なゲームを演じなければならなかった。彼は運転手つきのリムジンで、破産手続きに現われた。

(略)

カムバックするためには、たとえ会社はつぶれても個人的な財産はしっかり確保しているしたたかなビジネスマンだという印象を与えなくてはならなかった。実際は文字通りの文なしだったのだが(略)

ほとんどの人間が彼の見せかけを受け入れ、彼が何か新しいことを起こそうと苦心している間、債権者たちに待つ心の余裕を与えた。

(略)

 彼は(略)ウェスト・エンドに小さなオフィスを置いた。そして以前に契約していた二つのグループから三人のベスト・ミュージシャンを選んで新しいグループを結成させた。それは二つの解散したグループの粋を集めたものだったのでそのままの名をつけた――「ザ・クリーム」(粋、精華という意味)。

(略)

 ロバートは新しいレコード製作会社をポリドールと契約した。EMIでの取り引き相手だったローランド・レニーという男がポリドールに移ったからであり、そうなるという予測が前からあったので、破産した時も、EMIの肩代わりするという申し出を断ったのだ。ポリドールとは、高いパーセンテージで、しかもレコードの製作費を援助してもらうという条件付きで契約を成立させた。それから彼は、ザ・フーのマネージャーに五百ポンド払って、グループのブッキング・エイジェントになり、彼らをデッカから引き離して自分の新しいレコード・レーベル、"リアクション"とポリドールを通してレコードを出すようにさせた。それでザ・フーの名曲「マイ・ジェネレイション」が、彼の新しいレーベルの最初のヒット曲になったのだ。業界の人々は再び彼を見直し始めた。「ロバート・スティグウッドの魔力が甦ったのかもしれないぞ!」

(略)

[クリームの面々は経験もあり、ロバートの思うままにはならず。ポリドールのオフィスにいたギブ兄弟を連れ去り契約]

ロバートはブライアン・エプスタインと知り合いになった。ブライアンはビートルズで儲けた金で作った"ネムズ"という自分の会社の経営に飽き飽きしていたところだった。

(略)

ロバートが自分の会社の資産をすべて"ネムズ"に与えて、代わりにネムズの株を分けてもらうという契約が成立し、ロバートには、給料と、優先的な立場と、好きな時に"ネムズ"の収入源を利用してよいという特典がついた――そしてついに、新車も。

 数週間後(略)高級な貸し家にぬくぬくと収まって新しい白いベントレーを持つロバートは、ビージーズの次の行動について考えをめぐらせていた。

 今ならレコーディングでもラジオ局を買収するのでも、TVのプロデューサーやディスク・ジョッキーと食事するのでも、気前よく金を使える、というわけで、結果はすぐに表われた。ビージーズの最初のヒット曲が出たのだ。

 しかし誰もがビージーズに恋をしたわけではない。リード・シンガーは出っ歯で高い震えるような声をしていたので、音楽業界では彼のことを"歌う山羊"と言っていた。テレビの時はグループの美しいアーティスティックなイメージを作りあげるために、ロバートの指示で、カメラはリード・シンガーの横顔をアップでとらえ、残りのメンバーたちは遠くの方に小さくライトを浴びて映っていた。彼らはちょうどシンガーの開いた口のあたりに収まり、まるでフランスのカフェにある陽よけのような具合で、シンガーの山羊みたいな歯が小さな人影の上に出っ張るわけだ……だがそれくらいの難点など、エプスタインの資力とロバートの野心の共同体の前ではものの数ではなかった。

ブライアン・エプスタイン

[エプスタインから誘われるも、アイルランド行きの予定があると断る。それでも諦めないブライアン]

 私は彼に"ノー"と言った。(略)人にはそれぞれセックス上の嗜好がある。その気にさせる人間もいれば、その気にさせない人間もいる。

「それじゃあ僕は、『させない』方なんだね」と彼は、悲し気に言った。

(略)

 彼は、突然不機嫌になった。「行けばよかったとあとで思うよ」

「多分ね」私は同意した。「アイルランドは、死ぬほどつまらないだろうな」

「それなら僕のところへ来ればいい!」

「別の機会にね」

「キミにはその機会がないかもしれない」

 私はにっこりと笑った。「ある、と確信しているよ。キミはそれほど簡単には諦めない」

 彼は口をとんがらせて、いら立ったように見えた。「キミはバカだよ。僕はキミにいっしょに来て欲しいしキミも本当はそうしたいんだ。僕は、キミに興味を持たせないかい?」

「ブライアン、考えてみたまえ、キミは偉大だ。(略)

キミがビートルズとともにしたことは、音楽業界にいる誰もが熱望するような夢なんだ。(略)

でも、だからといって僕がキミを全面的に気に入るわけではないし、僕をどこにでもいっしょに連れていけると思うのはキミの考え違いだよ。(略)」

 私は、物事が悪化する前に立ち去るべきだと思い、立ち上がってドアの方へ向かった。「もう行くよ」

 彼には私の言葉が聞こえていないようだった。彼は、憂鬱そうに落ち込んで、何も言わなかった。アームチェアーに沈み込んで真直ぐに壁を見つめ、私的な悲しみに彼の唇はややすぼまり、目は焦点を失っていた。

 私は言った。「上出来だよ、ブライアン。でもベティ・デイビスの映画にそういうシーンがなかったっけ?」

 一瞬、彼の口もとに微笑がきらめいたような気がしたが、それはすぐに消えてしまった。

 私はしばらくためらったが、歩み寄って彼の前に立った。

「OK、ブライアン、僕は行くよ。最高の夕食をありがとう」

 何の動きもなく、笑いも、返事も返ってこなかった。

(略)

 翌朝、私はアイルランドに行った。そこは、信じ難いほどつまらなかった。

(略)

 日曜日の午後、ロンドンにいる友人から電話を受けた。「ブライアン・エプスタインが死んだよ。薬のやりすぎだ」

(略)

 ロンドンに帰る途中、私は考えた。何てわがままな策略だ!ポイントを証明するだけのためにそんなことをするなんて!(略)

私はもっと彼といっしょに時を過ごしたかった。彼の頭の中には、ビートルズの物語のすべてがつまっていたのだ。彼は、そのすべてを奪ってしまった。

 ロンドンに戻ると、アンサーフォンにはたくさんのメッセージが残されていたが、ほとんどがブライアンからのものだった。それは金曜日の朝に始まり(「キミが本当に行ってしまうなんて信じられない」)、土曜日に至るまで続いていた。

 彼と私は、先週初めて会ったばかりだったし、彼が自分から気持を打ち明けたのではあるが、私は既に、彼の感情的な人間関係が移ろいやすいので有名なことを知っていた。(略)そして、北ウェールズでは、いつも笑っているインドのグルが、彼の人生で最も意味があった人物と彼との関係の最後のかけらさえをも奪おうとしていたのだった。その週末に出かけていってしまったのは、私だけではなかったのだ。

 ブライアン・エプスタインは、おそらく、その最後の外界に対する感情を私に向けたのだろう。しかし、彼が私のアンサーフォンに語った死の間際の言葉は、本当はまったく私に向けられたものではなく誰か他の人間に向かって語られたとも受け取れるものだった。

(略)

「キミが僕に会いに戻ってきているという予感がした。もし戻っているのならすぐに電話してくれ、お願いだ」

 しばらくして彼は、再びかけてきていた。

「キミは行くべきではなかったんだ」彼の声は、不明瞭だった。「僕は行かないでくれと頼んだのに。キミの気持を変えられるかもしれないと思ったんだ。キミとまた以前のように話がしたい」

 そのあとに、土曜日に残されたと思われるメッセージがあった。その一部は、まったく私あてのものとは思えなかったし、本当のところ、私としてはそうでなかったと考えたい。この最後のメッセージは特に混乱していたし、我々の短期間の関係とは、何のつながりもないことに触れているように思えた。

 多分それは、私がアンサーフォンを持っていて、あのマハリシのホリデーキャンプにはそれがなかった、というだけのことだったのだろう。

アシッド革命により、シングルからアルバムへ

 ブライアン・エプスタインの死は、いろいろな意味で、ひとつの時代の終わりを告げていた。それは、音楽業界が世界最大の利益を上げる娯楽産業に成長した時代の終わりだった。レコード会社の力は弱まり、旧式の出版業者は、もはや、作曲家から金をむしり取ることができなくなった時代、新しい種類の企業家たち、つまり、ポップ・マネージャーたちの出現によって大きな変化のあった時代の終わり。どこか素人っぽく、道楽でやっているような場合も多いが、事を成すにあたってはいつも独自のやり方を見つけ出し、業界の慣習を受け入れようとはしなかった、そういう新しいマネージャーたちの中で最も有名なのが、ブライアン・エプスタインだった。(略)

ブライアンは、あらゆる点でアマチュアっぽく、彼がこの競争の激しいポップ・ミュージックの世界にひかれたのも、性的な理由からだった。そして、自分が大きな業界の中に巻き込まれてしまったことに気づいた時には、もう、絶望的な深みにはまり込んでしまっていたのだ。

 その音楽業界も変わった。六〇年代初期のグループは、年を取って賢くなり、自分たちの音楽やイメージばかりか、財政面までも自分でコントロールするようになっていた。そして、彼らは皆アシッドに走り、偉大な"自己破壊者"と化すことによって、レコード産業界の景気をかつてないほどに煽っていた。

 "コミューン"という思想(略)ティーンエイジャーたちは、その文化の"高僧"たちによって供給されるすべてのレコードを従順に買い求めたのだ。(略)

アシッド革命の裏にあった本当の力は、レコード会社だった――頭が混乱したサイケデリック少年少女たちをできるだけ早く動揺させ、その購買の主力をシングル盤からアルバムへ移行させようと目論んでいたのだ。(略)アシッド音楽はアルバム音楽であり、アルバムの価格はシングル盤の四倍もするのだ。

ピンチにキース・ムーン

 マーク・ボランの加入したジョンズ・チルドレンはザ・フーと共にドイツツアーへ向かった。

(略)

[バンドのためにブツを仕入れに行くキット・ランバートに帯同。ドアを開けると十代男娼二人が迎え入れる]

「ここはすばらしい。信じられないくらい退廃的だぜ。キミは男のコ、好きかい?」

(略)

「それほど好きじゃないよ。でもキミがよかったら、そうすれば」

「もちろん!」とキットは傲慢に言い放った。「実際のところ二人にしようかと思ってる」

(略)

ハンス・バンバーガーが彼にブツは三十分ほどで用意できると言っているのが聞こえた。

(略)

[十分後、隣室から叫び声]

廊下に出てみるとバンバーガーを乱暴に揺すっているところだった。すると二人の強そうな若者が階段を登ってきてキットを押さえた。(略)

バンバーガーが言った。「ホントにキット、あなたは時々非常に無作法ですね。怒鳴ることはないでしょう。少年たちのことで文句があるなら静かに私に話せばいいでしょう」

「あいつはムカつくような泥棒だ!」とキットは激しく叫んだ。「お前は知ってるくせに」

「でもキット(略)あのコはとてもいいコですよ。イギリスから来たポップス界のトップの皆さんはよくあのコを相手に選びますよ。とびきりのコだと思いますがね」

「奴は汚ねえ盗人だ。オレは金を払わないぞ!」(略)

「でもあのコは何も盗らなかったでしょ」(略)

「ああ、今はな(略)でも盗ったんだ、以前にな」(略)

[押し問答の最中に]キットの頼んだドラッグを持って別の少年が到着し(略)キットの手にその包みを押し込んだ。キットはバッと椅子から立ち上がると叫んだ。「来い、サイモン」

 彼は狂ったように階段を駆け降り、私は心もとなげにそのあとを追った。(略)さっきキットを押さえつけたタフな二人が待ちかまえていた(略)

 突如そこへキース・ムーンが到着した!?(略)

ドアのベルが鳴って、タフな二人の片方がドアを開けると、キースが私の知らない奴といっしょに立っていた。

 彼らはすぐに中に駆け込んできて、蹴飛ばし、叫び、手当たり次第に殴りつけながら私にキットとドアから逃げ出せと言った。次の瞬間には我々はメルセデスをすごいスピードで走らせていた。キットは狂ったように大笑いしていた。(略)

キットは、キースに感謝するどころか叱りつけた。「遅かったじゃないか!」

 キースはそれを無視して尋ねた。「金を盗った奴はどうした?見つかったのか?」

(略)

キットは愉快そうに叫んだ。「そいつとやったんだよ、俺は。終わるまでそいつだってことに気がつかなかったんだ」

「"ブツ"は持ってきたろうな」とキースは言って、キットの手の中の包みを心配そうに取った。

私はキットに尋ねた。「いったいどういうことなんだ?(略)なんで俺をこんな気違い沙汰に巻き込んだんだ?」

(略)

「キミには関係ないことさ。キミはただのサポート・バンドのマネージャーにすぎない。(略)」

 キースはもう少し愛想がよかった。「前にドラッグを買うために俺たちから金を盗んだ奴がいてね、それで、自分たちの金を取り返そうかと思ってね」(略)

「売春宿から人を救出するのは俺のお得意のひとつみたいだな」

 それは二人の間で通じるジョークだったようで、キットとキースはいっしょにゲラゲラと笑い出した。

レコード会社、契約のフェイク

 六七年に私はやはりあてにならないEMIの役員のひとりと昼食をとり、したたかに酔っ払った。シャンペンをたっぷり飲まされて、まるで強姦よろしくEMIのオフィスに連れていかれた。手にはペンが握らされ、契約書が眼の前でグルグルまわっていた。そのちょっとした失敗のせいで、私は向こう五年間、私の作るレコードすべてをEMIに託すことになってしまった。前渡金も他のどんな種類の報酬もなく、残ったのはシャンペンの抜けたあとのすごい二日酔いだけだった。

 その後、私は一枚のレコードも作らないという報復手段を取った(略)

そのうちに、またレコードを作りたくなったのだが、その契約のおかげでEMIはレコード製作の金を援助する義務はなく、私は作ったものをすべてEMIに渡さなくてはならないという状態だった。(略)

[弁護士とEMIに出向き解約を求めたが相手にされず]

ジョンズ・チルドレンがトラック・レコードに移ったことか、あるいは何年か前私がヤードバーズのために引き出した二万五千ポンドのことで未だに腹を立てているのかもしれなかった。(略)

 弁護士がすばらしいアイディアを思いついた。「あなた自身でレーベルをお作りなさい。レコードには、プロデューサーの名前は入れないで、レーベル名はS・N・Bとしなさい。そうすれば、業界の人々には誰が作ったかは一目瞭然でしょうし、EMIとの契約書上の名前は出していないんだからEMIには手が出せません」

(略)

[CBSと]話がまとまり、SNBと描かれたきれいなブルーのレーベル・マークが印刷され、私は数枚のレコードを作った。レコードはかなりの評判になった。(略)

EMIに彼らが私を失ったことをわからせ、もう一度戻ってほしいのならまた友好関係を築いて私をあの契約から解放するしかないということを知らせるための行動だった。

 EMIが折れたので私はCBSにお礼を言ってSNBレーベルをやめ、やっと自由を取り戻した。

(略)

 六〇年代初期、レコード会社の連中は、ピカピカ光るスーツを着てポップ・ナンバーを歌うソロ・シンガーがすたれつつあることに気づき始めた。グループが脚光を浴び始めていた。(略)最も重要なのは、彼らが自分たち自身で曲を作ったことだった。出版者は譜面を印刷してレコーディングしてくれる歌手を見つける必要がなくなった。(略)演奏権協会に登録するだけでよく、濡れ手に粟といったところだ。レコード会社は彼らをねたみ、自分たちも一枚加わりたいと考えた。

 ある大手のレコード会社がすごい策略を編み出した。野心に満ちた若いグループがその会社にぶらりと訪れたとする。(略)歓待され、おだてられ、驚くべきことにレコード契約まで与えられる。十分後、彼らは大喜びで自分たちの将来を約束する紙切れを手にオフィスを出る――レコード会社は向こう一年の間に三枚のシングルを出すと言ってる、俺たちもスターになれるぞ……。

 時が経ってもレコード会社からは何の音沙汰もない。(略)やっと誰かと話ができてもいつもレコーディングをもう少し延期するまことしやかな理由しか聞けない。

 半年ほど経ってとうとう彼らは怒り出す。(略)

[会社に出向き契約を解除する]グループはまた自由の身だ。

 だがしかしいつも小さな障害がつきまとうのだ。契約書の細かな文字の中に慎み深く隠れている第八十八条には、グループのメンバーが作った曲はすべて自動的にそのレコード会社が出版権を有すると書かれている。そして当然、解約の書類にもレコーディング契約は破棄するが、その条項は有効であることが言葉巧みに記されているのだ!このちょっとしたトリックで、そのレコード会社はロンドンの未来のロック・スターの大部分と長期にわたる出版権契約を取りつけ(略)彼らのうちかなりの者が最終的には成功を収め、そのレコード会社は五年間にわたってその出版権を確保した。(大儲け!)

 別の手を使う会社もあった。海外のレコード発売に関しては、海外の会社にレコードを賃貸して生じる利益をレコード会社とアーティストが分け合うという契約書の条項があり、これだけではまったく公平に思えるのだが、それは実のところレコード会社が自分の子会社にひどく安く貸し出すことを意味している。こういったレコード会社の横暴を最初に打ち壊したのは、それまで騙されてきたバンド自身と企業家的な新しいタイプのマネージャーの出現だった。(略)

ヒットせずに金を儲ける方法

 音楽業界で大金を儲ける最短コースとは(略)[ヒットの]次に手っ取り早い方法は、完全な失敗作を作ることなのだ。(略)

 まず、グループと契約するのだが、なるべくなら才能もなくほとんど何も知らないグループを選ぶ。(略)

グループとは七パーセントの印税率で契約するのだが、どっちみち実際に支払うことはないのだから何パーセントでもかまわない。

(略)

ポイントはレコードがヒットしないこと(略)

[会社からは]レコードが一枚売れる度に定価の三〇パーセントを受け取るとして、その分を前金で十万ドルもらうのだ。そして、レコードがヒットしない限り、その金はすべてあなたのものだ――グループには一枚売れる毎に七パーセント支払わなくてはならないが、そもそも売れないように作ったのだから十万ドルはほとんど減らないはずだ。それにレコードの製作費を差し引くとしても、自分が何をしようとしているのかわかってさえいれば、それも大した金額であるはずがない。

(略)

話を六九年に戻すと、私はそのトリックを改良した独自の方法を編み出していた。

(略)

レコード会社に前記の"特別"なレコードを売りつける代わりにまったくの"幻想"を売ることにした。

 世界中のA&Rマンは豪華なステレオ・セットのあるオフィスで救いの神であるナンバー・ワン・ヒットを携えたプロデューサーが現われるのをイライラして待っている。(略)

A&R部の"ヘッド"とは、駄作の中からヒットする可能性のある曲を選び、生意気なガキどもの中からロック・スターになりそうな者を見出し、いいかげんなレコードとヒット・レコードを区別できる人間のことだ。だが、それができる人間なら独立して年間五万から百万も稼げるのだから、年棒一万五千でレコード会社にとどまっているとすれば、そいつは気違いか仕事ができないかどちらかだ。

 つまり、A&R部の"ヘッド"とは、バカか見かけ倒しのどちらかということになる。

(略)

 このA&Rマンに、音楽業界始まって以来のすごいグループを見つけたと少々興奮気味に言ったとする。彼はその言葉を信じたいがあまり、本来の懐疑的な姿勢を忘れて(略)勝手にヒット・レコードを夢想し始める(略)

私は、こういった連中を相手にするには、彼らに実際の音楽を聴かせないようにするしかないと考えた。

 その考えを楽しく実行するために、私はレイ・シンガーというコメディアンとチームを組んだ。

(略)

[テープを聴かせろというABCの重役にレイは]

「テープには録ってないんです。あまりに興奮してしまった、そのまままっすぐにあなたに会いにきてしまったんです。(略)」

(略)

「で、そのグループは何というんだね?」と彼は尋ねた。

 一瞬の間があいた。バカげたことだが、私とレイは念入りに計画を練ったにもかかわらずグループの名前を何にするか決めていなかったのだ!(略)

私は言った、「ブラット」。レイが言った、「プラス」。(略)

私は説明をでっちあげた。「そのグループは『プラス』と言うんですがあまりいい名前だとは思えないので『ブラット』に変えようかとも思っているところなんです」

 "ずんぐり山"はお気に入りの葉巻をくちゃくちゃかんで言った。「プラスというのは非常にいい名だと思う。それは変えん方がイイ」

 それで取り引きが成立した。(略)

一度うまくいくことがわかると、レイは俄然ハッスルし出した。我々は再びRCAにアタックし、CBSとMCAも訪問し、ロスに飛んでキャピトルとトゥエンティス・センチュリーに出向いた上、デトロイトではモータウンにも寄った。それからロンドンに戻り、新しいロールス・ロイスを注文し、スタジオを三ヵ月予約し、山のような契約書のそれぞれにあてがう二流のグループを揃えるために、あらゆる"アマチュア・ロック・コンテスト"に出かけていった。

(略)

[グループは当然下手くそなのでセッション・ミュージシャンを使い]

ヴォーカリストがあまりにひどい場合は"セッション・シンガー"でカバーした。そうして、どうにかこうにか、なかなかの出来のレコードを取り揃えることができた。

(略)

インストルメンタル・グループの「サクシィ・レキシィ」、本当は相棒のレイがヴォーカルをやった「アントン」、もうひとつレイが声を変えてヴォーカルをやった「ヘヴィ・ジェリー」、「プラス」、「ブラット」、「フレッシュ」、「プディング」、etc、etc……。

 全部のレコーディングを終えると我々はすぐにアメリカに飛んで、レコード会社にそれぞれのテープを渡した。そして各社がその出来を絶讃しているうちにもうひとめぐり各社と新たな契約を取り結んだ。この金儲け方の鉄則のひとつは、最初のレコードが発売される前に次の取り引きを成立させよ、というものだった。第一陣がすべて失敗に終わった場合、次に契約するのは難しいが、常に送り込み続けていれば相手の気持をひきつけていられるわけだ。

 それで、アメリカのレコード会社が我々の作ったレコードに宣伝費を注ぎ込んでいる時、我々は再び、実際には存在しないアーティストたちとの契約書を山のように抱えてイギリスに舞い戻った。かなりの成功を収めたグループに、「フレッシュ」というのがあった。そのグループのレコーディングはレイが昼食の間中不平を言い続けるほど大変だった。「まったく何てひどい奴らなんだ。ブタ箱にでもぶち込んでおくべきだぜ」そいつはまったくいい考えだったので、我々はそのグループのアルバム・タイトルを『フレッシュ・アウトオブ・ボースタル(ム所から出たてのホヤホヤ)』とした。連中を、独学のミュージシャン――芸術的はけ口を求めてもがいている若き犯罪者たち―として売り出せば、彼らの音楽性の欠如の言いわけにもなるだろう。我々は何らかの形で必ず、"閉じ込められた"というニュアンスが入っている曲ばかりを集め、次に、アレクサンドラ・パレスの鉄の門のところにグループを立たせて刑務所風の写真を撮った。アルバム・ジャケットの裏側にはでっちあげた強盗シーンの写真を使ったし、演劇学校の学生を連れてきて、刑務所に入るようになったいきさつを即興で語らせたりした。

 結果はまさに芸術作品で、誰もがそれに惚れ込んだ。アメリカではそれをイギリス刑務所の作った正真正銘の傑作と謳い上げ(略)俳優のサル・ミネオは一万枚も買った上にクリスマス・カードとして皆に送りつけた。

詐欺師マイク・ジェフリーズ

 ある日我々がRCAにいるとマイク・ジェフリーズが現れた。彼はアニマルズのマネージャーをやり、次にジミ・ヘンドリックスを手がけた男だ。彼はRCAの社長に胸が痛むような話をして聞かせた……。(略)

[ジミの死で]ショックのあまり六ヵ月にわたって姿を隠した。 (略)ジミは親しい個人的な友人だったのだ。悲劇だ。深い悲しみ。だが遂に彼は気を取り直し、自分に言い聞かせた、「マイク、生きなきゃいけないぞ」。そして表に出て行った、次のヘンドリックスを見つけようと。

 彼はオーディションを行ない、アメリカとイギリスを隈なく捜し、聞きまくり、求め続けた。そして遂に発見した……。

 ここで彼はテープを取り出して社長に渡した。(略)マイクが今後の人生を捧げようとしている人物の作品だった。それは七〇年代最大の出来事となるだろう……感動的な瞬間だった……社長はあふれ出る涙を拭うのに忙しく、そのテープは聴かれもしなかった。

 マイクのその取り引きは何十万ドルというものだったが、彼は他にバーミンガムにあるデモテープ用のスタジオでまとめて録ったテープを二十本くらい持っていて、そこら中で同じような取り引きをしたのだった。例の物語で社長の涙を誘い、その結果、会計係の涙を誘う……。我々は数段上をゆく詐欺師を前にしているということを認めざるを得なかった。だが不運なことに彼は、たったひとつ間違いをしでかした。取り引きを終えた彼の乗った飛行機が事故を起こし、命と儲けを失うハメになってしまったのだ。

ピンチにアイツが……

 突然レコード会社との取り引きがまったくおもしろくなくなった。(略)

[以前から言っていた通り30歳で引退することに。モロッコから戻り、ビッグ・ヒットで最後を飾れたら良かったのにと思いつつ]

最後の利益をかき集めにRCAの経理部に行った。(略)

[デスクにプレスリーの「この胸のときめきを」を発見]

「これは何だ!?(略)いったいいつ発売されたんだ!?」

「何カ月も前だよ(略)どこにいたんだい?(略)

トップ・テンに入ってるよ。怪物だね。まだ上がり続けてる」

(略)

[というわけで、めでたく引退]

 一九七二年、私はモンバサにいた。

[ロリータという中国娘に誘われ部屋に行くと、家賃に五十シリング要る、ウェディング・ドレスを着てほしいなら五十シリング、キスするなら五十シリング……と料金を上乗せされ、ようやく脱がせると]

 パンティーの下には皮のサポーターがあり、そこにはあるべきでない大きなふくらみをおおっていた。(略)

私はほほえんで言った。「ブロー・ジョブに戻った方がいいようだね」

彼女(彼)は驚いて言った。「アナタ、気にしないか?」

私は肩をすくめた。「ここまで来たんだから今やめる手はなかろう?」

「でもワタシ気にしない男好きじゃナイ。本物の男とても気にするべきヨ。本物の男バカにした言って、ワタシぶつ。ワタシ、本物の男の方が好き」

私はもうイイかげんうんざりしたので(略)彼女をベッドに突き飛ばすと右側の尻をピシャッと叩いた。

彼女はくるりと振り向くとすぐに身体を起こした。「ワタシをぶちたいのネ。五十シリング追加ヨ」(略)

[なんだかんだでお約束の展開]

ナイフを持った狂暴な顔つきの殺し屋が出現(略)

「ミスター、俺の女に三百シリング払ってもらおうか」

(略)

 するとその時、廊下を隔てた向いの部屋からすさまじい物音が聞こえたと思うと、突然そのドアが開いた。実にドラマチックな登場!満場の拍手喝采!――ズボンをたくし上げながら飛び出してきたのは、キース・ムーンだった!?キースは、ナイフを手にした男の前で、死んだように立ちすくんでいる私を見た。

「何と!サイモン・ネイピア=ボロックスじゃないの!こんなところで何やってんだ?」

(略)

[キースはまとわりつく娘を払いのけ]アラブ人の殺し屋めがけて飛びかかった。(略)ボサッと突っ立っていたその男の喉にキースの空手が命中した!

 我々は飛ぶように階段を駆け降りて外へ飛び出した。そして熱帯の夜の闇にまぎれて、キースと私は、もと来た道を目指し、それぞれ反対の方向に向かって一目散に走り去った。

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この胸のときめきを サイモン・ネピア=ベル自伝

「この胸のときめきを」を作詞

[映像制作会社経営にも飽きがきていた65年頃『レディ・ステディ・ゴー』出演者手配をしているヴィッキー・ウィッカムと友達になり音楽業界仕事を薦められる]

 数日後、彼女が電話してきて言った。「チャンスよ。ダスティー・スプリングフィールドが歌詞を欲しがっているわ」

 本当の話、私はそれまで歌詞を書いたことはなかったのだが、かなり簡単なことのように思えた。(略)メロディーはもう決まっているのでそれに合うものでなければならないとのことだった。

(略)

我々は[夕食の]デザートを終えてからヴィッキーのアパートに戻り、傷のある古いアセテート盤から流れてくるイタリア語の唄に耳を傾けた。

 私は言った。「これはイタリアの曲だ。言葉はロマンチックでなきゃならない。"I Love You"で始まるべきだね」

 ヴィッキーはちょっと考えると、「"I Don't Love You"ではどう?」と言ったが、私にはちょっとキツすぎるように思えた。

「いや、それじゃあんまりだ。"You Don't Love Me"じゃどう?」この方が、ドラマチックだしイタリア的だったが、やや非難がましかったので少々和らげた結果、"You Don't Have To Love Me"となった。

 しかしそれではメロディーにぴったりしなかったので二つの言葉を付け加えた。"You Don't Have To Say You Love Me"(「この胸のときめきを」)グレート!これだ。

(略)

私はヴィッキーに言った。「やっぱり作詞家業は嫌だな、夜の予定が混乱するからね」「それならグループのマネージメントをやったら?」

(略)

[ダイアンとニッキーの写真を定形外の大きさに引き伸ばし]

二百枚の封筒を秘書に発送させた。もちろんレコードもいっしょに。翌朝七時、すべてのTV、ラジオ局のプロデューサーたちは郵便配達に叩き起こされるハメとなった。「すみませんね、郵便受けに入らないもんで」(略)

「あのレコード、聴いていただけました?すごいでしょう?いつそちらのショーで流してもらえますか?」

 彼らは躊躇する。「ええと……その……今のところ本当にたくさんレコードがあって……」

 私が口をはさむ。「ちょっと待ってください、あなたは偏見を抱いているんじゃないんですか?(略)彼女が黒人で彼が白人だということが問題なんでしょう?もしあのレコードをかけないというのなら、サンデー・タイムズかオブザーバーに電話してすべてをぶちまけますからね。あなたは汚い人種差別主義者だって」

 これはまったくひどいやり方だったが成功した。(略)七つのTV局のうちの六つの局がOKを出し、ラジオ局は総ナメだった。

 もちろんそのレコードは駄作だったのだが、にもかかわらず二ヵ月後にはダイアンとニッキーは有名になっていた――そしてこの私も。

ヤードバーズ

 ある日ザ・ヤードバーズが電話してきた。「サイモン・ネイピア=ベル?ダイアンとニッキーのすばらしいプロモーションをした人?僕たちのマネージングをやってもらえます?」(略)

 その頃、世界中のグループの中でどこから見ても押しも押されもしないグループが四つあり、ザ・ヤードバーズはそのうちのひとつだった。

(略)

 新しい仕事はえらく簡単なもののように思えた。(略)プロモーターから問い合わせを受ける。エイジェントはそのグループのスケジュールに従ってイエスかノーを出し、次いで料金を提示する。(その頃トップ・グループで一晩五百ポンドだった。)それからロード・マネージャーがいて、グループを会場まで運ぶ輸送機関の手配や彼らの機材がちゃんとセットされ動く状態にあるかどうかを確認する。マネージャーには契約者にサインするほかはほとんどすることがないわけだ。

 私の取り分は二〇パーセントだ。だから、一晩四百ポンドのコンサート契約にサインすると八十ポンド入ってくる計算になる。平均して週六回コンサートがあったから、週給五百ポンド余りになる。(略)

 しかしやがてよくない面も見え始めた。グループの連中がやって来てこう言うのだ――「俺たち家がいるんだ(略)住むところがないんだ。前のマネージャーは一ペンスもくれなかったんだ。で俺たちひとりずつに住むところをあてがってほしいんだ」

 それは要求というよりは嘆願に近かった。

(略)

私はEMIレコードに出向き(略)前金二万五千ポンドでなら、再契約を考えてもよいと言った。(略)当時のイギリスではそれまでにレコード会社がアーティストに払った契約金の最高額であり、そもそもそれまでは前渡金などなかったのだ。しかしどっちみち、ヤードバーズが世界中で売ったレコードの数を考えてみれば、EMIが一年足らずでもとを取るのは明らかだった。(略)

[EMI]には選択の余地がなかった。ヤードバーズは売れてるバンドだったのだ。

(略)

[家を手に入れたメンバーたち]がやって来た。

「シングル盤を作る時期なんだけど、どうしよう?」(略)

 私はロック・ミュージックのことなど何も知らなかったので、彼らの三枚のヒットレコードを買ってきた。(略)新しいレコードはこの三枚に含まれている要素のすべてを少しずつ混ぜ合わせたものがいいだろうという、分別ある結論に達した。彼らもこのアドバイスめかしいものに賛成したので私はスタジオを予約した。

(略)

グループは楽器の用意をし、適当なリズムを創り出そうとしばらくゴタゴタやっていた。(略)

[エンジニアは]時々私にどう思うかと尋ねた。私は彼の御機嫌をとっておきたかったのでかなりいいと答えていたが、彼があまり気をゆるめすぎないように、もうひとつピンとこないという答えも混ぜるようにした。(略)

グループがちょこっと演奏すると、ベースプレイヤーのポール・サミュエル・スミスがすごいバッキング・トラックができたと言った。彼と私は共同プロデューサーだったので、私は彼の意見を信じて次に進むことにした。

 次はヴォーカルだということだったがあいにく誰もどうするか考えていなかった。(略)[ポップスなんて]必死に頭を悩ませるほどのことはない(略)まったく意味のないフレーズを唄ったらどうかと勧めた――上にいって、下にいって、横にいって、後方、前方、四角に丸……てな具合に。そして私は紅茶を飲みにいった。

 戻ってくると彼らは私が言ったようにやり終えていて、とても楽しいものに仕上がっていた。しかし何となく私は自分があまり製作に携わったような気がしなかったので、曲の始めに一、二回"ヘイ"と叫んでみたらおもしろいんじゃないかと提案してみた。私の意見はかなり尊重されていたらしく、彼らはヴォーカル・ブースに入って曲のいたるところで"ヘイ"と叫び、とうとうそのまま録音された。

(略)

[完成した]テープを聴いていると、ヴィッキーが電話してきた。「『この胸のときめきを』がトップ・テンに入ったわ!」そして、私はヤリ手の作詞家でもあるという評判を得た。(略)

ヤードバーズと作ったシングルがチャート入りし、「この胸のときめきを」が第一位になると、あらゆる種類の人々からインタビューの申し込みが殺到した。私はシーンの新しい陰の立役者であり、音楽業界に殴り込んできた男であった。

(略)

初め私は本当のことを話そうとした。(略)

「まさか。そんなはずはない。そんなに謙遜しないでくださいよ。どうやってこのハードな業界でトップに躍り出たのか、本当のところを聞かせてくださいよ」

 彼らがあんまりしつこく聞きたがるので私はでっちあげの話を聞かせてやった――いかにして流行の音楽の傾向を分析し、いかにして適切なアーティストを選択し、いかにしてイメージを作りあげて交渉を成功させるか――これすべて嘘八百。

 彼らは言った。「『この胸のときめきを』ですけど、遠まわしな言い方であなたが言いたかったのは、今日ではロマンスなどというものは古くさいもので、そういった古い見せかけなど抜きでもセックスはOKだということですか?」

 私はそんな風に考えたことはまったくなかったが、なかなかよさそうに思えたので、言った。「まったくその通り!バカげたことはすべて捨てて楽しくやりなさい、ということさ」

 彼らは言った。「オオ!あなたっていう人はまったく、六〇年代を先取りしたような人だ!」

(略)

 私はロック・グループのことも音楽業界のこともほとんど何も知らなかった。私はただラッキーで、おしゃべりがうまかっただけだ。(略)

"口達者のサイモン"は最高に愉快な時を過ごしてたってわけだ。

ザ・スコッチ・オブ・セント・ジェイムズ、映画『欲望』

 "スウィング"のその夏の震源地は、ザ・スコッチ・オブ・セント・ジェイムズという飲んで踊れるディスコで、アドリブにとって代わってナンバー・ワンにのし上がった。第二位のクロムウェリアンよりいくぶんシックな店だった。(略)

[すぐ近くに]バッキンガム宮殿があった。ドアをノックすると誰かが覗き穴からチェックする。その人間が数少ない選ばれた者たちのひとりなら、素早く中に入れられてきらびやかな世界のゴシップ欄を飾る一員となるのだ。

 照明は暗く、雰囲気はもっともらしく、音楽はウィルソン・ピケットかオーティス・レディングだった。ミック・ジャガーとキース・リチャードが、似通った細身の金髪女性たちに囲まれていつも隅の方に陣取っていた。至るところに顔を出すジョナサン・キングも常連で、バーのカウンターにもたれて賢い年寄りのフクロウみたいに眼鏡の奥で瞬きしている。(略)彼は恐ろしいほどの禁酒主義だった。そしてたいていエリック・バードンが側にいて、これがまた耐え難いほどのおしゃべりで、酒のグラスを手離したことがなかった。

(略)

いちばん大きなテーブルにはライオネル・バートが、常時少なくとも五人くらいの若い男のコを従えて、まるで皇帝のように坐っていた。(略)

レノンとマッカートニーはクラブに住みついているようだったし、ストーンズのマネージャーのアンドリュー・オールダムも同様だった。そして、トム・ジョーンズ、キンクス、ゲリーとペースメイカーズ、ザ・クーバズ、クリーム、ムーディー・ブルース、ホリーズ、ジョン・ボルドリーと、彼のことをいつも「お母さん」と呼んでいたロッド・スチュアート、ザ・サーチャーズ、スウィンギング・ブルー・ジーンズ、といった英国音楽業界のありとあらゆる有名人たちと、映画界の有名人たちが集まってきていた。

(略)

夜中の十一時から朝の三時までの音楽産業界の溜り場だった。そこではゴシップが産み出され、もっともらしい顔をした客たちの間に危険を含んでばらまかれるのだった。(略)

 毎晩たいてい二時頃には、私は階下のディスコ・フロアーにいた。(略)

たいていはトム・ジョーンズがダンス・フロアーのスターだったが、実物はメディアを通して受ける印象より三インチほど背が低く見えた。彼は風車みたいに腕を振りまわしてその点を補ってはいたが、ほとんどいつも、彼の頭を優しく見おろすくらいの背丈の女のコといっしょだった。

 ある夜、アメリカからもうひとりのダンサーが到着した。"The Eve Of Destruction"の大ヒットを出したばかりのバリー・マクガイアーだった。彼は、太腿まであるブーツをはいて、狂ったナチのようにダンス・フロアーに踊り出た。同じ晩、上の階ではハンブルグからホルスト・シュマルツィーがやって来ており、ドイツ音楽産業界の進出が始まろうとしていた。彼はポリドールの経営を引き継ぐためにロンドンに滞在していたが、ロバート・スティグウッドと同席して、ザ・フーの「マイ・ジェネレイション」をリリースしてリアクションという新しいレーベルを発足する話をしていた。それは共同経営の始まりであったが、のちにドイツ人に音楽業界を牛耳られる結果を生む発端でもあった。

 またある夜、場違いなスーツを着た、灰色っぽい不健康な顔色のむっつりした中年の紳士が、踊り狂う集団をまっすぐに見つめながら何時間もつっ立っていた。(略)

「あれがアントニオーニよ、映画監督のね。彼は"スウィングするロンドン"を映画にするために来ているのよ」

 数日後私はサヴォイ・ホテルで彼に会うハメになり、映画「ブロー・アップ」にヤードバーズが出演することになったのだった。それは初めザ・フーがやるはずで、"スウィングする"状況に対するアントニオーニのニヒリスティックな見方を、楽器をぶっ壊すことで表現しようとしたものだった。

(略)

テーブルの脚の間をもがきながら私の方に這ってくる男がいた。ジョン・レノンだった。(略)

「何をしてるんだ、ジョン?」

 彼は長い間真剣な眼差しで私を見つめていたが、「僕の精神を捜しているんだ」と言うと、くるりと振り返って再び這っていった。

ヤードバーズ、『欲望』きっかけで

 ザ・ヤードバーズはみじめったらしいバカみたいな奴らだった。本当にそうだった。(略)

[家もヒット曲もやったのに]

彼らの不平不満はやまなかった。彼らはツアーもTVの仕事も嫌がった。

 いちばんやっかいだったのはベースのポール・サミュエル=スミスだった。ギグの時はいつでも酔っ払っていて、会場のことや観客やサウンドのことや、グループのメンバーのことまでぶつくさ言った。彼のようなのが平均的なロック・スターなのだと知るようになったのは、もう少しあとのことだったので、その頃はまったくとんでもない代物を抱え込んでしまったと思ったものだ。

(略)

[グループとの契約を]読み返してみた。それは私の弁護士が代行したものだったので私の側に有利なものだろうと思っていた。が、実際はだいぶ違っていて、契約書には、私がグループを所有しているのでもなければ雇っているのでもないことが明確に記されていた。グループが私を任命して、私が彼らのために働いているのであって、彼らが私のために働いているのではないということが強調されていたのだ。

(略)

ヤードバーズの連中を集めて告げた。「キミたちに大儲けさせてやろうじゃないか。ワールド・ツアーに行くんだ」

「でもそれは俺たちがしたいことじゃないよ」と彼らはいっせいに言った。「レコーディングに集中したいんだ。もっと曲を作る時間をとってアーティストとしての充足感を得たいんだ」(略)

 グループには、公演、レコード製作、作詞作曲という三つの主な収入源があった。公演に関しては私次第で金額をつり上げることはできたが、向こう一ヵ月間は彼らが休みに入っているからこの件から金は生まれない。レコードを作ることでレコード会社から支払われるアーティスト印税については(略)EMIから二万五千ポンド引き出しているので少なくともあと一年は問題外だ。で、唯一臨時収入がありそうな(略)作詞作曲印税に目をつけ、音楽出版業界の調査を始めた。

 作曲家は、普通、出版社に印税の五〇パーセントを支払っていることがわかった。これは、一九二〇年か三〇年代頃、まだヒット曲を出すのにかなりの時間と手間のかかった時に決められたものがそのまま続いているだけだった(略)

しかし今日、自分で曲を作るスター相手では、出版社のすることといえばPRS(演奏権協会)にその曲を登録するだけなのだ。(略)作曲家兼歌手にとって自分独自の出版社を作った方がいいのは明らかだった。その運営は、もっと少ないパーセンテージで本物の出版社に任せればいい。それで私はヤードバーズのために出版社を作った。これで少しはホッとできるかと思ったのも束の間、まだやることがあった――アルバムを作る時期だった。

 アルバム作りは苦労ばかりであまり楽しいことではなかった。まず、彼らはスタジオに入るまでに曲を作ってくるということをしない。ただ楽器を持ってやって来て、コードとリズムとリフをいじくりまわすうちに少しずつ曲になってゆくのだった。(略)

[他もそうだと]知らなかった私は、ずいぶん素人っぽくて要領を得ないやり方だと思った。

 それから、ジェフ・ベックと他のメンバーとの間のもめごとがあった。ジェフはグループの中でも際立った才能の持ち主で、本当にいいギタリストだったが、他の連中が彼にその才能を発揮できるだけの自由を与えなかったので、ジェフは始終いら立っていた。後に私は、ロック・ミュージックが持つ炎のような質と攻撃性はグループ内部の緊張関係からくるものであり、それ故に、グループ内部のあつれきを解決しようとすることは必ずしも賢明なことではないということを学んだ。

(略)

 あるブルース・ナンバーでジェフがソロのパートを与えられた。他のメンバーはそのことについて、まるでそれが彼らからの気前のよいプレゼントであり、ジェフにチャンスを与えてやったかのような話し方をしていた。その寛大な処置に対してジェフは、ソロの間中、たったひとつの長い音を出し続けていた。

 メンバーは皆嘲笑った。「ワオ、お前にせっかくソロを弾かしてやったのに台なしにしやがって。ちょっとしたリフもやれないのかよ」

 ジェフは不機嫌にドサッと腰を下ろし、その件はそれで終わった。しかし結局そのいわく言い難い一音のソロはアルバムのハイライトのひとつになってしまった。そして、それはそのもととなった不機嫌な感じなしにはできないことだったのだ。

(略)

[「ブロー・アップ」出演]

 トラブルはそれから起きた。ジェフは楽器を壊すことを非常に楽しんだ揚句にやみつきになってしまい、ギグのたんびに、ギターやアンプをぶち壊し始めたのだ。

 次に、ポール・サミュエル=スミスがやめていった。(略)「もし何かをすることが世界中の何よりも嫌になったら、あんたはどうする?」と彼は言った。

「そうすることをやめるね。何かい?そんな嫌なことがあるのかい?」

「ヤードバーズにいること」

(略)

彼は四週間後にやめると通告し、その間ずっとロック・ビジネスを嫌うありとあらゆる理由をしゃべり続けて、他のメンバーを落ち込ませた。そして彼は去り、そこで彼といっしょに憂鬱や怨恨も去ったので、彼はいい奴になった。残りのメンバーは相も変わらず不平不満の虫だった。

(略)

ジミー・ペイジが加わった。彼は動作も話し方も穏やかな人間だったが、グループに加わってからは、ポールがそうであったように緊張と不安に巻き込まれていった。

ロック・グループのイメージ戦略、激怒アンドリュー・オールダム

 今日までに私はロック・グループに関してもう二、三のことを学んだ。一つは、音楽を売るのではなくてイメージを売るのだということ。若者たちは感情移入するための、手っとり早いパッケージングされた生活様式を求めている。それは自分たちの感じ方、生き方を表わしてくれる簡単な象徴であり、すがることのできる何かである――それは手の届くものでなければならない。

(略)

彼ら自身の望みを代行しているイメージを持ったグループを選べばよい。(略)ローリング・ストーンズ→暴力的で退廃的。ザ・フー→反逆的で攻撃的。ヤードバーズ→内攻的で気難しい……。

(略)

ファンをひきつける第一の要素はそのイメージであることをグループは学ぶべきである。しかしたとえそのイメージが暴虐的で尋常ではないものでも、やる音楽は聴きやすく覚えやすい流行のものにしなくてはならない。有名になるためには、時流に合ったスタイルで近づきやすい音楽を作りあげ、そこに普通ではない、という外見上のイメージをほんの少し付け加えるというやり方がベストであるからだ。音楽業界ではあるひとつのグループに目をつけたならまずそのグループのイメージを決定する。セクシーで売ろうと思ったら、寛大なる大衆を憤慨させるくらいセクシーに作りあげるのだ。ズボンにバナナを描いてもいいし、ステージで胸をはだけてみせてもいい。暴力的にしようと思ったら、同様にサッカーの会場で暴力沙汰を起こさせたり街なかで年配のレディを蹴っ飛ばさせたりすればよい。そうするうちに大衆はそういった噂を聞きつけてそのアーティストの最初のレコードを心待ちにするようになるのだ。彼らはそれが危険でスキャンダラスであることを期待し、発売と同時に耳を傾ける。しかしその音楽自体は暴力的であろうがなかろうが、時流に合ったありふれたものでない限りヒットはしないのだ。

 ヤードバーズのよかったところは、そういう聞きやすくて覚えやすい曲をシングル・ヒットさせることの重要性を理解していた上に、ミュージシャンとして優れているという評判を維持したことにある。それは主にジェフ・ベックの優れたギターの才能によるものだったが、今ジミー・ペイジが加わって彼らは二人の優秀なギタリストを得ることになった。その上、ジミーは他のメンバー以上にグループのイメージの重要性を理解していた。

 ヤードバーズはストーンズといっしょにイギリス・ツアーをした。まったくセンセーショナルだった。ジェフ・ベックとジミー・ペイジがステージの両端に陣取って、レコードで有名なジェフのソロ・プレイのすべてをステレオ版で演奏したのだ。

(略)ギグのあと、レポーターがジェフに訊いた。「ストーンズには観客が押し寄せたのに、あなたたちには誰も寄っていかなかったという事実をどう思いますか?」

 ジェフは、多分ジミーがそばにいたからだろうが、いささか尊大で神経過敏になっていたので愚かしくもこう答えた。「押し寄せた?ストーンズのマネージャーが金をやってステージに駆け上がらせたあの三人の女のコたちのことを言ってんの?」

(略)

アンドリュー・オールダムはアタマにきた。(略)「我々はキミたちを名誉毀損で訴えるぞ」

 私は冗談だろうと思ったのでこう言った。「それはいいや、いい宣伝になるよ。さっそく会ってプランを練ろう、費用は半々でどうだい?"ストーンズ、ヤードバーズを告訴"なんてきっとすごい注目を浴びるよ」

 アンドリューは怒って電話を切ってしまった。(略)共通の友人が電話してきて、「アンドリューがキミを痛い目にあわせようと恐いのを送ったらしいぜ」と教えてくれた。(略)

秘書にその"恐いの"が来たらお茶を出して丁重に扱うよう指示した。「"ネイピア=ベルはすぐに戻るはずです"と言ってくれ。(略)」

 私が出たあと、恐いお兄さんたちが予定通り現われた。彼らはお茶を出されて秘書とおしゃべりした。彼女はそいつらのカリフラワーみたいな耳や、つぶれた鼻に気づかないふりをしていた(略)彼らは日当で雇われていたので私が事務所に戻らなくてもあまり気にせず、中止命令が出されるまで十日間も居坐り続けた。まったくおかしなことに、その後アンドリューに会った時彼はとてもにこやかだった。自分のしたことなど、すっかり忘れてしまったらしい。

(略)

[アメリカ・ツアー]

ニューヨークの空港に着いたとたん、ハーマンズ・ハーミッツが専用ジェットで到着するところを目撃。(略)

 さて、我がヤードバーズはどうすると思う?そう、もちろん、「俺たちも」と言い出す。そして、ひとりしかいないステュワーデスをメンバーのひとりが独占したらどうなると思う?……

 というわけで、我がヤードバーズは専用ジェットで移動することになった。ひとりにひとりずつ専用ステュワーデス付きで。

(略)

 次のささいな問題。

「アントニオーニ、あなたに感謝します」……ジェフは完璧にアンプ壊し中毒になっていた。(略)

 一週間経ち、アンプは底をつき、ジェフは「ノー」と言った。従ってグループは四人でやっていくことになり、私はやっとアンプの手配から解放されてカリフォルニアに休息を取りにいった。

(略)

マーク・ボラン

 私は事務所の方にテープを送るように言ったが、彼はちょうど私の家の近くにいるから持って行ってもいいかと尋ねた。十分後にドアのベルが鳴り、首からギターを下げた彼が入ってきた。

「本当のことを言うとテープは持ってないんだ。でも今ここで歌ってみせるよ」

 そういうやり方は私の好みではなかった。(略)

とはいえ私は彼に歌わせるしかなかった。なぜなら彼を一目見た瞬間、私はピンときたのだ。

(略)

 五フィート二インチ、黒髪をもじゃもじゃのカーリー・ヘアにして、ディッケンズ時代のわんぱく小僧といった服装のマーク・ボランは自分が小柄であることをむしろ喜んでいた。(略)自分を小さな妖精のようなロック・スターだと見なしていた。

 自分をいっそう小さく見せようとするかのように、彼はいちばん大きな肘掛け椅子に足を組んで坐った。そしてギターにカポタストをつけながら言った。「ギターはあまりうまくないんだけど、曲はとてもいいよ。きっと気に入ると思う」

(略)

 一曲終える毎に、彼は私に、「どお?」と訊いたが、私は五十分余りも聴き続けてやっと彼にストップを出し、電話を取ってスタジオを予約した。我々はすぐにスタジオに出かけ、また最初から曲をやり始めた。夜の八時だった。

 彼は独特なゆらめくような声を発明しており、それと巧みな言葉遣いが産み出す世界とがいっしょになって、どの曲にも彼の小妖精のようなイメージと完全にマッチした奇妙な雰囲気があった。……彼は本当に、自分のことをよく理解していた。

(略)

 デザートを食べている時、彼が訊いた。「セックスに関しては?あなたはどういうタイプ?」

「私のセックス・ライフは完全に独立したものとして存在しているよ」と私は言い、なぜこんな質問にも怒らずにいるのかと自問した。

(略)

 彼は私に言った。「たいていの人々は肉体的な問題としてセックスを話題にするけれど、僕はセックスとは完全に精神的なものだと思うんだ。例えば僕が誰かにキスする場合、それは肉体的行為ではない。僕はその誰かの精神にひかれているんだ。その誰かの頭の中にあるものを、僕は手に入れようとしているわけだ」

「神よ!彼は獲物の知性を食って生きる小さなバンパイヤだ。だからこんなに頭がいいんだ」と私は胸の中で思った。

 彼は言った。「またやって来て、あなたと一晩過ごしたいと思うんだけど」

 次第に居心地が悪くなってきた。私は言った。「それはあまりいいアイディアじゃないと思うよ。きみは私の脳ミソを盗むかもしれない」

「でも、ひと目見たら必ず返しますよ」

「キミの脳ミソの二〇パーセントを付け加えてね」と私は彼に言った。「マネージャーが欲しいなら必要なものは払わなくては、ネ」

(略)

 彼は主張した。「でも、僕たちはポスターを発表するだけでいいんじゃない。皆、僕の写真を見ればすぐに騒ぎ出すよ。大衆は僕みたいなのを求めているんだ」

(略)

 私は彼に、まず一般的なやり方に従わなくてはならないということを説明した――最初にシングルを作って、そしてヒットを出す。

 最後には彼も承知して、シングル用の曲をひとつ選ぶことになった。それが「ヒッピー・ガンボ」で、ナルシシズムあふれる自己承認の歌だ。

――男に会った。いい奴だった。その名をパラダイスといった。その時は気づかなかった、彼の顔と精神は僕のそれだったとは(略)

ヒッピー・ガンボ、彼は最悪。焚き木にしてしまえ。

(略)

 次の仕事は、彼にその曲にはアコースティック・ギターの他に何らかの楽器が必要だということを納得させることだった。(略)彼のギターのフレーズに合ったスタッカート・コードをストリングスで控えめに入れる。ベースもドラムもなし。

 いったんそのアイディアがマークの気持をとらえると、それは彼独自のものとなった。

「本当にいいものになるよ。このストリングス・パートは木々を意味しているんだ。そして僕はその森の中で迷い子になった子供みたいなものだ。人々にはそう聞こえるよ。彼らはこんな美しいレコードを作ってあげたことで僕に感謝するだろうな」

(略)

 我々はシンプルなストリングスが欲しいと言ったのに、アレンジャーはまったく耳を貸さず(略)"メシア"とベートーベンの"第九"が混ざったようなヤツを披露した

(略)

[レコード会社全部を回ったが低評価]

「なあ、キミはアーティストだ。(略)

レコード会社の連中はごく普通の一般的な道理に添った人間だ。(略)

彼らがキミの芸術性やビジョンに興味があるかないかなどと考えてもしょうがない。彼らはそのプラスチック盤を売るための売りやすい音楽が欲しいのさ。そしてキミは彼らにそれを与えようとはしていないというわけだ」

 マークはすっかりしゅんとしてしまった。彼は、世界中で愛されるという確信があったのだ。私が話しているうちに、彼の顔は蒼白になり身体が震え出した。(略)

「OK、どうしたらいい?彼らが望むことは何でもするよ、あなたが言うことは何でもその通りにする」

(略)

「バカなこと言うなよ。あいつらは腐った奴らなんだ。自分のしていることを信じろよ。あいつらの言うことになど耳を貸すな」

「違う、僕たちはあの人たちの言う通りにやらなきゃならないんだ。あなたにも芸術うんぬんですべてをぶち壊してほしくない。僕はスターになりたいんだ!」

 唇を固く結んだマークは恐ろしいほど真剣で、"スター"という言葉を言う時には握りこぶしでテーブルを叩いた。それから彼はトイレに駆け込んだ。吐いているのがわかった。

 彼は二十分ほどもトイレにいた。戻ってきた(略)

 彼は言った。「あなたが正しいよ。僕は何も変えないよ。奴らはただの無知なアホウどもだ」

(略)

マークは、ジェイムズ・ディーンのイメージとその死後に育った伝説をこよなく愛していたので、私はジョンズ・チルドレンに入ることを説得するのにそれを使おうと思った。私は言った。「グループに加わると、スターダムへの道がひらけるんだよ。ジェイムズ・ディーンのようになってポルシェを手に入れたかったら、早いとこ金持ちにならなきゃならないだろう」

「違う、違う」とマークは言った。「ポルシェは僕には向いてないよ、僕は小柄だからミニがぴったりだと思ってるんだ。僕が自動車事故で死ぬのならミニに限るね。そんな気がするんだ。そしたらすごいだろうなあ」と彼は言ったのだ。

キット・ランバート

ザ・フーはコンスタントにヒットを出すようになっていたが、キットは金が入ってもすぐに、途方もないプロモーションを思いついてそれに使ってしまうので、相変わらずいつも破産寸前だった。

 ある朝、キットがレコード・プレイヤーを抱えて出かけようとしているところにぶつかったことがある。初め彼はプレイヤーを修理に出しに行くのだと言っていたが、すぐに質に入れにいくところだと認めた。グループに一週間分の金を払うために。そうしないと、彼が"グループの代表者"と呼んでいるベーシスト、ジョン・エントウィッスルの母親のコワい訪問を受けるハメになるのだった。

(略)

 キットの父親はコンスタント・ランバートという作曲家だった。彼はアルコールのとりすぎから、四十三歳でその輝かしい経歴半ばにしてこの世を去ったが、キットはこのことを、一種華々しい死去と受け取っており、自分自身の人生にも似たような出来事を起こして、人々にインパクトを与えたいという野心を抱いていた。単に成功するだけではつまらない、と彼は言っていた――成功したいのは、破滅させるための実体が欲しいからであり、とてつもない不幸を創造することが最終的な勝利だ、と。

(略)

[ザ・フーの楽器破壊を批評家は]アナーキーだとか暴力を煽動しているとか見なしたが、本当はそういうものではなかった。彼らの攻撃は外部に向かったものではなかった。彼らの壊した機材は彼ら自身の延長であり、象徴的な自殺行為だったのだ――楽器を破壊することによって、自分たちと聴衆とのコミュニケイションの手段を破壊するわけだ。事実それは、キット・ランバートの父親の酔いつぶれた自己破壊のさまをグラマラスにステージ化したものだ。

 それでもまだキットは満足せず、その父親の自己破壊行為を、自分自身にも適用した。ただし酒ではなく、ドラッグを使って。

 彼は一日を晴れやかにするためにコカインをたっぷりひと息吸い込んで目覚める。そしてタクシーの中でブランデーを四分の一壜ほどあけて、朝十一時にオフィスに到着し(略)ジョイントに火をつける。次に、引き出しからピルの入った皿を二つ取り出し(略)それぞれの皿には、気分をハイにさせるのとダウンにさせるのが入っている。

(略)

 彼の秘書がブザーを鳴らす。「デレク・ジェイムズがドイツからかけてきています」

 キットはパニックに襲われる。「大変だ(略)今はとても彼とは話せそうもない、ハイになりすぎてる」

 彼は鎮静剤(ダウン)の方のピルをひとつかみ取り、ブランデーで飲み下して言う。「ちょっと待ってもらってくれ。(略)」

そして数分後には、ボンヤリと静かになっている。(略)

[OKを出すと]秘書が言う。「キット、ごめんなさい、彼、待っててくれなかったの。切ってしまったわ。でも今また別の電話が入ったの。ボビー・スタインよ。(略)」

(略)

「ボビー・スタインを相手にするにはハイな時じゃないとダメなんだ。かけ直してもらってくれ」(略)

皿からアンフェタミンをつかみ取って無理矢理喉に押し込む。(略)

 再び秘書の声が言う。「ごめんなさい、キット、彼、今すぐにあなたと話さなきゃならないと言うのよ」(略)

あと一分待ってもらうよう頼み、乱暴に机の引き出しを開けてコカインを取り出すと、残っている分を全部やってしまう。(略)

 用意ができると、ボビー・スタインの電話を受ける。すると再びデレク・ジェイムズがかけ直してきて、また鎮静剤を飲み下すハメになる、というわけだ……

(略)

私の車の助手席に沈み込んだキットは、もう限界だと言い始めた――金は出ていくばかりで満足に入ってこない、支払わねばならない給料と買わねばならない楽器。ザ・フーの連中には彼の経済的問題などわかろうはずもなかったし、銀行も同じだった。彼はみじめだった。(略)

 彼がハンカチを取り出すと、紙切れが私の足もとに落ちた。拾いあげてみると、オーストラリア・ドルで七千ドルの小切手だった。(略)

「アー!何てことだ!去年のオーストラリア・ツアー以来ずっとそこに入ってたんだ。もうずいぶん長いことこの服を着てなかった!」

 彼はくすくす笑い始めた。(略)

「すごいや、まったくすごい。こいつは祝杯ものだ。行こうぜ、クレイジー・エレファントに連れていくよ」

 だが私は彼といっしょにいて疲れ果ててしまって、もうたくさんだった。

 彼は私がその誘いを断ったので傷ついた。「じゃ、いいや。オレひとりで行くよ。でも、少し金を貸してくれないか?今夜はこのチェックを現金にできないだろ?」

(略)

私は彼に三十ポンドやって家に帰り、彼は車を降りてタクシーを拾った。

 一時間後、私は玄関のベルで起こされた。キットだった。夜中の一時半だ。

 彼の顔は蒼白で、うっすらと汗をかき、震えていた。

(略)

「オレは宗教的な体験をした。(略)

魔法の顔だ。(略)若さと美と知性がひとつになった(略)

生まれて初めてオレは完璧な人間を見たんだ。天使だ。(略)」

[キットとクラブに戻ったがそんな美少年はどこにも見つからない]

だしぬけに言った。「でも彼らはみんなとってもかわいいじゃないか。どれがそうだったのかはとても決められないよ」そして彼の喉の奥のどこからか、例のレーシング・カーの笑いがこみあげてきた。(略)

次回に続く。

 

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レッド・ツェッペリン オーラル・ヒストリー その4

前回の続き。

長過ぎるソロ、崩壊する人間関係

サム・アイザー 彼らがステージに立つべきじゃなかった状況も何度かあった。ジミー・ペイジがトイレで眠ってしまった時は、それはもう大変だった。

ベンジー・レフェブル ジミーにカフェインを注入して、なんとか彼をまともに動けるようにするためにあれこれ手を尽くして、もう何時間遅れかも分からないほど時間が経過してからステージに立ったこともあった。それでジミーの合図に合わせてスポットライトが後ろから彼を照らすと、彼はダブルネック・ギターで〈永遠の詩〉を弾き始めるんだ。でも時々彼は12弦の方でコードを押さえつつ、6弦の方をじゃかじゃかかき鳴らすこともあってね。そういう時のロバートはとにかくうんざりした顔をしていたよ。

 ある晩のこと、ジミーが例の30分にも及ぶエゴ丸出しの自意識過剰のくだらないソロをやっていた時――(略)ボンゾのソロもやはり同じような代物になっていた――ロバートが言ったんだよ。「レディース・アンド・ジェントルメン、ミスター・ジミー・ペイジです」と。そしてそのままそこに突っ立って彼を見ていた。いつものロバートならステージから降りて、ブロー・ジョブをしてもらうのにさ。

ロバート・プラント 何をやっていたのかはさておき、あれはとにかく私にとってはちょっと長過ぎた。それほど良いものじゃなかったと言っているわけじゃないよ。ただあれが始まると私は自分がやるべきことを考え始めなくちゃならなかったんだ。というのも、(ソロに合わせて頭を振るなどのアクションをしていても)しばらくすると、何かのインドの商人みたいに自分の頭をぐらぐら揺らしているただの間抜けみたいに見えてくるからさ。

ロス・ハルフィン 一度、〈幻惑されて〉の途中でロバートがステージ横にやって来て言ったんだ。「あれを見てみなよ。ありゃ単なる長いギター・ソロだ。で、オレに何をしろって言うんだろな?」と。でもその時ピーターが彼に言ったみたいなんだ。「このバンドが誰のものなのかちょっと思い出してみろ。クソッタレのお前のもんじゃないだろ」とね。

(略)

ゲイリー・カーンズ ステージ上の4人全員がまともな時の彼らは無敵だった。でも、4人全員がまともというのはかなり珍しいことだった。プラントが次の曲を紹介しても、ベイジが間違った曲を始めるということも時々あったしね。シカゴでのショーでペイジが冒頭の数曲を終えた途端に座り込んでそのまま気を失ったことがあった(略)あの日のショーはそれで終わりだった。

ヤーン・ユヘルスズキ シカゴのショーを打ち切らなければならなかったのは、ジミーが腹痛に襲われたからだった。でもちょっとしたイライラは至る所にあったわ。人間関係にひびが入りつつあるのが目に見えるようだった。それと、ロバートとジミーの間の緊張関係がだんだん酷くなっていくのもよく分かった。

ベンジー・レフェブル ステージの前の方でアコースティック・セットをやった時、後ろでボンゾがタンバリンを叩きながら(ドラッグの影響で)意識がもうろうとしていたことがあった。彼とジミーは、個人的にもの凄く大きなフラストレーションを感じていたと思う。彼らはなぜ自分たちが以前のようにちゃんと演奏できないのか、理解できていなかったからね。

ジョン・ポール・ジョーンズ テンポがあまりに遅くて、なんとか力づくでそれを速めなければならない夜もあった。それから時々ジミーが変な曲の始め方をすることもあった。

ジミー・ペイジ (ドラッグについては)まったく何も後悔していない。なぜなら本当に集中しなければならない時の私はちゃんと集中していたからね。

(略)

ベンジー・レフェブル はっきりと二つの集団に分かれていた。ボンゾとジミー、そしてジョンジーとロバート(略)

荒れ狂うボンゾ

ジャニーン・セイファー 私がスワン・ソングを辞めた時、彼らはかなり不服そうだったわ。(略)あれはマフィアみたいだった。私はロックパイルやエルヴィス・コステロやスティッフ・レコーズのために仕事がしたかったの。なぜって、あの時はそれがクールだったからよ。私がジェイク・リヴィエラにー――その後にニック・ロウに会ったのは、エドモンズが紹介してくれたからだった。ジェイクは、私の人生で出会った人の中で誰よりも優秀な人間の一人だった。マーケティングの天才で、ヴィジュアルに関してはとてつもない才能に恵まれていた。でもあっという間に、彼の大きく見開いた目のような純真さが、恐ろしくて気持ちの悪い何かに変わるのを目にすることになってね。彼はいつも信じられないくらい攻撃的だった――皮肉にもコールやビンドンのように。私が思うに、エルヴィスが彼をクビにしたはずで、そしてその理由は――これも推測だけれど――彼が耐え難い存在になったからだろうなと思う。

(略)

パメラ・デ・バレス ボンゾはやさしくて、愛くるしくて、間抜けな男だった。ただしそれは酔っぱらうまでの話で、その後は彼を避けるに越したことはなかった。私は彼が私の友人のミシェル・マイヤーのアゴをげんこつで殴るのを見たもの。

(略)

エイブ・ホック ボンゾは人でなしだと、私は思ったよ。(略)彼の内面奥深くに潜んでいる獣が、とにかく反社会的行動を引き起こすんだ。(略)私の父はアル中だったが、アル中患者の近くにいると、何か怖い感じがするんだよね。

スティーヴン・ローゼン(『ギター・プレイヤー』の記者) 最近ボーナムに関して書かれたものはどれも(彼に対し)好意的だよね。でも、実際の彼は醜いろくでなしだったんだ。ゼップと一緒にいた時の私は、彼がいる方向を向くのすら怖かった。みんなはそうした部分はほとんど話さないけどね。

サイモン・カーク 驚いたことに、彼はそれでもちゃんと演奏していたんだ。メンバー間ではそれだけ高いプライドが共有されていたんだ。つまりショーの間に演奏不能になることは、とにかく御法度だった。

(略)

ただし、ギグが終わってからのジョンはすべてにおいて無責任な男になった。(略)ただ大騒ぎするのが好きだったんだ。

(略)

オーブリー・パウエル 最後のアメリカ・ツアーの際、私は何かのアートワークについて検討しようと思って、プラザのボンゾの部屋のドアをノックしたんだ。するとミック・ヒントンが出てきて、「ええとね、今日はそんなに調子が良くないから、気をつけろよ」と言った。実際、ボンゾは人を疑うような目つきで、支離滅裂で、完全に自制心を失っていた。彼がコカインをやっていたのは明らかだった。意識が飛んだかと思うと、また戻って来る、という感じでね。これは真っ昼間の話だったけれど、とにかくまともな会話が成立しなかった。基本的に彼は退屈していたんだね。だから時間をやり過ごすために、彼はヘロインやアルコールに頼ったんだ。

デニス・シーハン ショーとショーの合間の日々にボンゾはもう耐えられなくなっていた。もし彼の手に家に帰るためのジェット機があったらなら、彼はそうしていただろうな。

(略)

グレン・ヒューズ 私とジョンの関係は酷い形で終わりになった。『狂熱のライヴ』のプレミア上映がLAで行われた時(略)私たちは一杯飲んで、ちょっとコカインを吸った。楽しく過ごしていたんだ。ある意味でね。それで私たちはビバリー・ヒルトンに戻り、ジミーと一緒にちょっとコカインを吸った。

(略)

[プレミア上映の]パーティー会場に赴くと、子どもだったジェイソンがドラムを叩いていた。それで私はバーに行ったんだけれど、その時、視界の片隅に5~6メートル先に紛れもなく"ボンゾ・モード"になったボンゾがいたんだ。そしてあろうことか、彼はクマのように飛びかかってきて、私のアゴに一撃を食らわせた。それはかなり酷いケガで、下の歯が1本、大きく欠けてしまった。(略)

外にはロールス・ロイスが6台並んでいてね。ボンゾはそのうちの1台が私用だと思ったみたいで、そのフロントガラスにレンガを投げて粉々にした。私が彼を目にしたのはそれが最後だった。あれについては今でも悲しく思っている。私は彼のことをとにかく愛していたから、酷く胸が痛んだよ。

オークランド事件

[グラントの7歳の息子ウォレンがトレーラーの正面についている標識が欲しいと駄々をこね、ビル・グレアムのセキュリティ・スタッフがそれを取り上げ、ウォレンが倒れ、それを目撃したボンゾが股間にキック]

ジム・マットゾルキス ピーター・グラントはずっと、「(お前は)私の息子にそういう口の利き方はできないはずだぞ」と言い続けていた。

(略)

グラントはとにかく私を殴りまくった。

(略)

ジャック・カームズ 私はあのドアの外側にいたんだ。文字通り、袋だたきになっているかわいそうな彼から1・5メートルくらいのところにね。あの一件が示しているのは、あの時点の私たちがどれほど現実離れした世界に生きていたかということだね。(略)

ミッチェル・フォックス (略)あれはビル・グレアムとバンド(略)との巨人同士の激突だった。要するにすべては、あの時誰が誰の縄張りに足を踏み入れていたのか、という話だったんだ。

サイモン・カーク もちろんあれの根底にはドラッグがあった。Gはいつもはみんなを説得して落ち着かせる役目だったんだけれど、ただし、彼もみんなと同じくらいコカインをやっていたから、平常心を常に保てていたわけじゃなかった。

ジャニーン・セイファー ビンドンがいなくてもオークランド事件は起きていたかって?絶対にそれはないわ。(略)あの一件の責任はすべてビンドンにあると思う。その火を煽ったのがリチャード・コールで、それにピーター・グラントの妄想が拍車をかけたのよ。(略)

ビンドンはケンカがしたくてうずうずしていたし、リチャードもそれは同じだった。(略)ピーターに、「これを受け入れるつもりか?」と言って彼を挑発して、それでドラッグが招いた狂気と妄想にかられた彼は、ほんの1分半の間に、「お前ら、奴をつかまえろ!」となったのよ。

(略)

ピーター・バルソッティ(ビル・グレアムのスタッフ) あそこにいた人間の中で、唯一まともなのはプラントだけのように見えたな。ただし、あの状況には無実の奴なんて一人もいなかった。一人もね。

ロバート・プラント 私は、部下の愚連隊が酷い態度でうろついているという事実にヒヤヒヤしながら、〈天国への階段〉を歌わなければならなかった。あれは二つの暗黒勢力がぶつかって生じた出来事だった。(略)

ジミー・ペイジ 私は現場にいなかった。だから何が起こったのかは知らないんだ。そのことを聞いたのはあの会場を離れてからだった。だから私は知らないんだ。これについては特に話したくもない……。

(略)

ユニティ・マクリーン (略)本来彼らは、「ウォレン、二度とそんなことはするな。(略)」と言うべきだった。でもピーターはウォレンにそうは言わなかった。そしてビンドンとコールが喜ばせたいと思っていたのはピーターだった――ロバートとジミーじゃなくてね。

(略)

ヘレン・グラント あのオークランドの一件のせいで、父とバンドの間にはかなりの悪感情が芽生えてしまったと思う。特にロバートとの間にね。

ジャニーン・セイファー (略)ホテルにはビンドンとコール、それにグラントとボーナムに対する逮捕令状が届いていたの。それで私たちは真夜中にそこから逃げ出したんだけれど、確か誰も訴追はされなかったと思う。スティーヴ・ウェイスが"何か"をやって、それで話が収まったのよ。でもビル・グレアムは絶対に彼らを許さなかった。

プラントに悲劇

[オークランドからニューオリンズに飛び、プラントは息子の死を知る]

ロバート・プラント (略)ある瞬間にニューオリンズにいて、新しい世界の人気者になって、そして何の予告もなく突然一本の電話を受け取ってみればいい。息子が死んでしまった、っていうね。歌う意志をすべて失ってしまわなかったことが、私にとっての幸運だった。(略)

ジャニーン・セイファー (略)ニューオリンズからニューヨークまでの移動には私も(ロバートに)同行した(略)

ジミーとジョン・ポールとピーターがお葬式に行かなかったのは信じ難かった。

リチャード・コール ジョン・ポールとは連絡が取れなかったんだ。(略)ジミーの居場所は誰も知らなかった。

(略)

ニック・ケント ペイジとジョーンズとグラントが葬式に来なかったことにプラントが苛立っていたと聞いたよ。それは、レッド・ツェッペリンはもはや家族ではない、ということを意味していた。

ベンジー・レフェブル ロバートがジミーとGに葬式に来てもらいたいと思っていたとは私は思わない。彼は人生にだまされたように感じていたと私は思うね。(略)

彼は自分たちの頭がおかしくなっている時にツアーに出掛けたことについて、自分自身に腹が立っていた。

マイケル・デ・バレス ジミーとピーターがカラックの葬儀に参列しなかった理由を今になって推測したところで、どこを向いてもヤク中患者だらけだったあの状況を誤解してしまうだけさ。あれは別に愛情や敬意が欠けているとか、そういうこととは何も関係がなかった。

(略)

サイモン・カーク カラックが亡くなった時、私はボンゾの口から奇妙な言葉を聞いた。「クソッタレのジミーとあの魔術のクソめ」とね。まるでジミーがオカルトに手を出していたことが、あの子の死に何か関係があるかのようだった。たぶんあれはボンゾの反射的な反応だったんだろうけれど、でも、悪い宿命の黒い雲が、彼らを覆っているように思えたんだ。(略)

ロバートはあのことから今でも完全には立ち直っていないと私は思う。

(略)

クリス・ウェルチ オークランドやカラックの死といった話題には誰もが近寄り難かった。それについて質問することが怖かったしね。でも私は一度だけ、ジミーに"悪しき宿命"について質問したことがある。そうしたら彼はとにかく神経をピリピリさせながらこう言った。「オレたちは音楽を作る単なるミュージシャンだ」と。

『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』

ロバート・プラント レッド・ツェッペリンには2~3度、大きな転換期があった。1970年のあの素晴らしく快活なノリは、すべて神経症みたいな感じに変わってしまっていた。(略)

1977年のツアーが終わったのは私が子どもを亡くしたからだったが、しかし、実際のところ、あのツアーは終わりになる前から終わっていたんだ。とにかくすべてが滅茶苦茶だった。あの時、あらゆる物事の中心になる軸はどこにあったというんだ?(略)

みんながみんなから断絶していて、自分の欲望の世界を広げようとしていた。

(略)

家族のところに戻った時には、ボンゾがいろいろな面で支えてくれた。けれどもメディアがあの件に大挙して群がってきて状況を更に悪化させたために、苦しい思いを強いられてね。(略)

サセックスのフォレスト・ロウにある教員養成大学のルドフル・スタイナー・センターでの仕事に応募したんだ。あの状況から抜け出したくてね。

(略)

その後ボンゾがジンを手にしてやって来て、私をなだめてくれた。何かかなり笑えることをやったりしてね。(略)あれにはとても助けられたよ。そして彼が言ったんだ。「さあやろう。オレたちみんなでクリアウェル・キャッスルに行って、何か書いてみようじゃないか」と。

(略)

ジョン・ポール・ジョーンズ クリアウェルに再び集まった時はちょっと変な感じだったな。私としてはあまり居心地が良くなかった。自分から、「なぜオレたちはこれをやるんだ?」と言ったのを覚えている。私たちは精神的な面でも体調の面でも良い状態じゃなかった。

(略)

ジミー・ペイジ (略)アバがポーラーという名称のスタジオを所有していて、そこをぜひ国際的な知名度のあるバンドに使ってもらいたがっていると聞いたんだ。おまけに彼らは3週間分のスタジオ使用料を無料にすると言ってね。それで私たちはそこ(ストックホルム)に行ったんだけれど、雪が降っていてとんでもなく寒かった。

(略)

ジョン・ポール・ジョーンズ ロバートと私の関係は以前よりも少しだけ近くなっていた。(略)いつもどこかでビールを飲みながら、「オレたちは何をやるんだ?」と話し合っていた。そしてそれが『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』へと発展していったんだ。基本的にあのアルバムの曲を書いたのは"私たち"だった――つまり、彼と私の二人だけだったんだ。それから私の手元には真新しい機材もあった――"ドリーム・マシーン"と呼んでいたヤマハGX1がね。あれが私のインスピレーションを刺激してくれたんだ。(略)ボンゾが現れ、そしてジミーが姿を見せた頃にはほぼすべての曲作りを終えていた。

ジミー・ペイジ 『プレゼンス』の時、ジョンジーは実質的に何も(曲や曲のヒントを)思いつけなかった。だから彼に対しては"何か提供してくれよ"という気持ちがあってね。それであの"ドリーム・マシーン"がとにかく彼には刺激となり、そしてそれが幾つかの曲に繋がっていったんだ。

(略)

ロバート・プラント ジョンジーと私はそれまで一度もお互いに引き寄せられたことがなかったのに(略)なぜか気が合い始めていたんだ。ちょっと不思議な感じだったけれど、でもそのお陰ですべての物事がそれまでとは違う感触のものになった。それが〈オール・マイ・ラヴ〉と〈アイム・ゴナ・クロール〉だった。私たちは〈コミュニケイション・ブレイクダウン〉の焼き直しを作るつもりはなかったけれど、でも〈イン・ジ・イヴニング〉はかなり良い出来だと思ったね。

(略)

サム・アイザー もしも彼らが〈オール・マイ・ラヴ〉をシングル発売していたら、ナンバー・ワンを獲得できたはずだった。あの時のラジオでどれよりも頻繁にかかっていたのがあれだったからね。

ロス・ハルフィン 私としては、ジミーは『イン・スルージ・アウト・ドア』を恥ずかしく思っていると思うんだ。彼は〈オール・マイ・ラヴ〉を毛嫌いしていた。でもあれはカラックのことを歌った歌だったから、彼も批判はできなくてね。

ジミー・ペイジ 自分が80年代に今正に足を踏み入れていくような感じがして(『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』を聞くと)ちょっとゾッとするんだよね。(略)あれはとにかく身の毛がよだつ時代だった。

(略)

ロバート・プラント ペイジと一緒に書いた〈ウェアリング・アンド・ティアリング〉は大好きだった。私たちはとにかくパンクの連中が言う、「ああした金持ちのクソ野郎たちに何が分かるんだ?」という発言にむかついていたんだ。(略)

私たちはサイコビリーとヘイゼル・アドキンスの精神病的な面については彼らよりもよく知っていた。

ネブワース

デイヴ・ルイス ピーターから言われたんだ。「いいか、もしオレたちがカムバックするんだったら、とにかく何よりもどでかい形でやらなくちゃいけない。もしそれがネブワースだっていうなら、オレたちはネブワースでやるぞ」と。あの年、確かフーがハマースミス・オデオンとレインボーでやったんだ。

(略)

ジョン・ポール・ジョーンズ ロバートはネブワースをやりたがっていなかった。その理由も私には理解できた。でも私たちは本気であれをやりたいと思っていたし、彼も実際にやれば楽しんでくれるだろうと思ったんだ。とにかく私たちが彼をまたライブの場に引き戻すことができれば、とね。

ゲイリー・カーンズ (略)

 彼らはデンマークでやる(ウォームアップ・ギグの)ショーをブッキングした際に変名を使ったんだ。ジミー&ザ・ブラックヘッズみたいなとっぴょうしもない名前でね。それで私たちは現地に行って、誰も聞いたことがないバンドのために、大量の機材を会場に運び込んだ。そうしたらいろいろな人が私に近寄ってきて、「このバンドは誰なんだ?」と訊くんだよ。でもスタッフは誰も口を割らなかった。ピーター・グラントの怒りの鉄槌を頭に食らいたくなんかなかったからね。

 バンドの面々はナーバスになってちょっとビビってもいた。なぜって、彼らはもうずいぶんと長い間、人前で演奏していなかったからさ。ショーの初日、会場には60~80人くらいしか客がいなかったけれど、全員がとにかく熱狂していた。次の晩のコペンハーゲンでは、もう制御不能だった。

ロバート・プラント ネブワースに向けた準備期間中、私たちはとにかく神経質になっていた。でもまた自分たちが一つに戻れたのは素晴らしかった。

(略)

ベンジー・レフェブル サウンドチェックの際、ボンゾはジェイソンを自分のドラム・キットの後ろに座らせて、それで自分はその音の調子を確かめるためにミキサーがあるタワーにやって来たんだ。彼は私に言ったね。「なんだよこいつは、おい。こんなのは今まで聞いたことがないぞ。素晴らしい音だ」と。それはほとんどのミュージシャンに共通する問題だった。つまり、彼らは自分たちの音をまともに聞いたことがないんだよ。

ロバート・プラント ネブワースの会場が近づいてきた時、初日のショーのためにチケットを買った22万人の人波が目に入ったんだけれど、あれには度肝を抜かされたね。

(略)

ジミー・ペイジ 私には嬉しい気持ちなんてまったくなかった。2回目の週末の時は調子が良くなかったしね。(略)

でも実際のあのイベントは素晴らしかった。ヘリコプターに乗って会場入りする際、あの巨大な人間の波が見えたんだ。息を呑むような光景だったよ。

終焉

フィル・カーソン リチャードは本当に気だての良い奴だった。でも彼はピーターのせいである時点で完全におかしくなってしまったんだ。

リチャード・コール 最終的にピーターを動かして私を追放したのはロバートだ。(略)ペイジーやボンゾを追放するよりは私を追放するほうが簡単だったからね。

(略)

ロバート・プラント リチャード・コールは何年にもわたって――まったくなんの権限も持たせてもらえない立場に置かれていることに、激しいフラストレーションを感じていた。彼はツアー・マネージャーではあったが、問題を抱えていてね。(略)

どんどん頼りなくなっていって、そして悲しいかな、グループの首にぶらさがる重荷になってしまったんだ。

(略)

ベンジー・レフェブル ロバートは無理矢理連れ戻されたんだ。それで彼はバンド活動への参加に同意するための諸々の条件みたいなものを用意してきた。それはたとえば、「とにかく自分たちの曲だけをやろう。オレたちには本当にあの30分のギターソロが必要か?」といった感じのものだった。あれは時代の移り変わりを自覚しよう、という試みだった。それと、"それまでとはちょっと違うやり方でスタートを切る必要がある"、ということをね。あのヨーロッパ・ツアー全体が、果たしてアメリカで上手くいくのかどうかを確認するための一種のテストだったんだ。お互いがお互いに耐えられるのかを試すためのね。

(略)

サム・アイザー 最後のあのツアーは、彼らにとっての転換点だった。彼らは本当に素晴らしいショーをやれるようになっていてね。彼らはギターソロを省き、ドラム・ソロもお払い箱にしていた。演奏時間は2時間で、しかも内容は素晴らしかった。シェリーから聞いたんだけれど、「ピーターがあれは素晴らしかったと言っていた」、らしいよ。

(略)

デニス・シーハン ボンゾは時々ちょっと好戦的になることがあって、そういう時は彼を落ち着かせる必要があった。(略)

ルームサービスはもう終わっていて(略)外に行って、ハンバーガーやフライドポテトを買ってきたんだ。私がそれを手渡すと彼は包み紙がされたままのそれにかぶりついてさ。「ボンゾ、包み紙がそのままだよ!」と私が言うと彼は、「それでもやっぱり上手いぞこれは!」と言ってね。

デイヴ・ルイス 1980年のツアーは時代に無視されたツアーだった。彼らは14日間のショーをやったのにイギリスのメディアにはレビューが1度しか載らなかったんだ。今それを思うと信じられないけどね。あれは20万人が目にしたネブワースの後のツアーだったのにさ。ジミーにはどうすべきか分からなかったし、ピーターもそれは同じで、とにかく彼らはやり続けなければならなかった。自分たちのオーディエンスがそこにいるはずだと、彼らはそう願うしかなかったんだ。

 かなりの量のドラッグが行き渡っていたのは私も知っている。でも彼らが下した決断の幾つかが良くなかったんだ。あのヨーロッパ・ツアーはイングランドを避けていた。その理由は、彼らがメディアに対し不安を感じていたからだった。でも彼らならハマースミス・オデオンで5回はやれたはずだし、そうすればオーディエンスを呼び戻すことができていたんだ。

 あれは滑り出しが良くて、その後ちょっと落ち込むというおかしなツアーだった。ボーナムはニュルンベルグで倒れたんだけれど、でもその後は少し持ち直したし、彼らの音楽も良かった。あれだったら彼らはアメリカにも行けていたと私は思う。

(略)

ジミー・ペイジ ボーナムと私は次のアルバムをどんな風にするのかを話し合っていた――力強い激しいものにしよう、とね。1980年のツアーではいろいろなことがかなり興味深いことになっていたが、骨の折れるものでもあった。たぶん(あそこで)バンドは解散していたのかもしれない。分からないけれどね。でも分かっていたこともある。それはボーナムと私は絶対にあれ(次回作)をやりたいと話し合っていた、ということだ。

ジョン・ポール・ジョーンズ あれは単にまた一回りしてきたようなものだった。もう一度再生するみたいな感覚があってね。全員がまたあのバンドをちゃんとしたレールの上に戻そうと、懸命にがんばっていた。最低の時期を経験して、その後でまた浮上しつつあったんだ。

(略)

トニー・アイオミ つねに何らかの事故が今か今かと待ち構えているような状態だったんだ。吐いた後にまたコカインを吸って飲み始めるジョンを私は何度か見ていたからね。

(略)

グレン・ヒューズ 最後の頃の彼は本当に酷い飲み方をしていた。彼をとことんまでむしばむ何かがあったんだ。アルコール中毒が彼を破壊したんだね。そのせいで彼は孤独になり、偏った行動へと導かれ、そしてダメになったんだ。彼は不幸だった。どれほどの金を持っていようと、クルマを何台持っていようと関係ないのさ。アル中はその人間を破壊するんだ。あれは酷かった。

フィル・カーロ ツェッペリンは十字路に差し掛かっていたんだと思う。(たとえ続けていても)もう長続きしなかったと思うね。ジミーとボンゾはヘロインをやっていたんだ。(略)ロバートはすでにドラッグを断っていて、そうしていない自分以外の面々に苛立っていた。

(略)

ロバート・プラント 私たちがクルマでリハーサルに向かっている時、(ジョンは)それほど嬉しそうじゃなかった。彼は、「もうドラムを叩くのはうんざりだ。みんなオレよりも上手いんだからさ」と言ってね。(略)

サンバイザーを引きちぎって、それを窓から放り投げたんだ。そして言った。「よし、こうしよう。リハーサルに到着したら、お前がドラムをやる。それでオレが歌う」とね。

(略)

ベンジー・レフェブル ロバートとジョンジーと私はロンドンにあるブレイクス・インに泊まっていた。それで翌朝、ブレイにクルマで向かう道すがら私が、「ジミーの家に寄って、みんな起きているか確認してみるかい?」と言ったんだ。(略)(到着したら)ジミーがうろうろしていてね。「ボンゾは起きてる?」、「いや」、「彼はどこで寝ているんだい?」、「らせん階段の上の部屋だ」と言うので私は、「了解。オレが彼をベッドから引っ張り出してくるよ」と言ったんだ。ジョンジーは私の5~6歩後ろにいた。私たちはその階段を上がっていった。すると、そこに死んでいるボンゾがいた。

(略)

ヤーン・ユヘルスズキ ボンゾの遺体がジミーの邸宅で発見されたことを認めたこと自体、私には驚きだったわ。彼らならそんなことはひた隠しにすると思っていたから。

(略)

ハーヴェイ・リスバーグ ピーターはボーナムの死に本当に心がずたずたになっていた。あの時点での彼が、他のメンバーよりもボーナムに近い存在だったのかどうかは私には分からない。でも彼は絶望的なまでに落ち込んでいたから、(彼は)他のメンバーとは違った関係をボンゾとの間に築いていたんじゃないかと私は思うんだ。

ピーター・グラント たぶん(ボンゾは)私の人生における最高の友だったと思う。そう、確かに私は彼がホテルを破壊するのを目撃したことがある――私もそれを手伝ったんだからね!しかし彼は常にバンドのためを思ってくれていた。そして彼自身の家族のためをね。

(略)

ピーター・グラント 迷う気持ちなんてまったくなかった。これっぽっちもね。グループの面々はジャージー島に行って、そこで決断した。(略)私は、「やれるはずがない」と言ったんだ。(略)"バン!"となってそれで終わりだった。

ロバート・プラント 通りの角に立って、ボンゾと過ごした12~16年間の自分の人生を束にして、その思いを胸に抱きつつ息が詰まるような思いをしながら目には涙を浮かべて、それなのに自分がどっちの道に進むべきなのか分からない、という状況は、とにかくありえないほど奇妙な体験だった。ただし、ほかの諸々のことはさておき、ツェッペリンと共にあった夢のすべてが終わったのだと、それは分かっていた――何の前触れもなくね。

不遇の80年代前半

デジリー・カーク ジミーとピーターは『愛の嵐』を何度も何度も見ていたわ。あの二人はあの映画に出演しているシャーロット・ランプリングに取り憑かれていたの。

(略)

クリス・ウェルチ ジミーが瀬戸際で踏みとどまって戻ってきてくれたことは嬉しかった。ファームはセラピーみたいなものだった―――ただし自分だったなら自分のセラピーの一部としてポール・ロジャースを選んだかどうか、分からないけどね。最大の問題はチケットの売れ行きだった。フィル・カーソンは思ったよりチケットが売れないことに本当にイラついていた。

(略)

コニー・ハムジー (略)

彼が"ロバートと上手くいっていない"と言うので私がその理由を尋ねると、彼は、「ロバートはジョン・ボーナムの死を私のせいにしているからね」と言った。「どうして?」と訊いたら彼は、「なぜなら彼が私の家で死んだからだ」と話していた。ジミーはヘロインはまったくやっていなかった。彼はもうやらないと言っていたわ。彼は既にヘロインで地獄を見ていたのよ。それで私が彼のスイートのベッドに横になったまま単刀直入に、「どうしてあのドラッグに手を出すようになったの?」と訊いたの。彼ははっきりと、キース・リチャーズが彼をそれに向かわせたと言っていたわ。

フィル・カーロ 最初のツアーが半分くらい終わった時点でジミーはヘロインをやめていた。でも彼には飲むべきクスリが他に101種類くらいあった。彼は別のものをやっていたんだ。言うまでもないが24時間彼につきっきりでいると、こっちの頭がおかしくなってくる。

(略)

デイヴ・ルイス ファームの仕事はしんどかった。あの頃は、"ジミーは彼自身の潜在能力に匹敵するプレイができていない"と気付いていただけにね。

(略)

トニー・フランクリン ジミーはファームのセカンド・アルバムが前作より受けが良いわけじゃなかったことに落胆していた私たちみんながそうだった。でもショーのチケットは売り切れていたし、ツアーは順調だったから、それはそれほど私たちに影響はしていなかった。

ジミー・ペイジ あれはとにかく私が"こういう風に続けていきたい"と思っていた形じゃなかったんだ。ポール・ロジャースは近寄り難い男だった。どのバンドよりもここは居心地が良いぞ、というんじゃなかったんだ。特に最後の方はね。

(略)

ジョン・ポール・ジョーンズ 最初のうちは自分が仕事にありつけないなんて思ってもいなかった。レッド・ツェッペリ以前の私はテレビ、ラジオ、映画のすべてに関する仕事をしていたんだからね。だから"まともな仕事を手にしなければならない"といった不安はまったく感じていなかったんだけれど、でも80年代にはそれがなかなか難しかった。

 最初に私が"何か仕事をもらってこよう"と決心した時には、誰も私を真剣に受け取ってくれなかった。私は、「いやちょっと待ってくれよ。オレはプロのミュージシャンでありアレンジャーでありプロデューサーだぞ。あんたが想像する以上に多くの人たちとオレは仕事してきたんだ」と思ったね。一度ミッションの仕事をやってからは状況がましになったけれど、でもそれでも当時は厳しかった。ジョン・ハイアットのアルバムをプロデュースしたいと思った時には、レコード会社の人間から、「私たちにはあなたとジョン・ハイアットの関連がまったく想像できません」と言われたのを覚えている。

 私はアレンジの仕事が好きなんだけれど、それは(略)短時間でやるもので、しかもそれが本当に楽しく思えるからなんだ。アーティスト側からもらう指示は、大半が私が『オートマチック・フォー・ザ・ピープル』のアレンジを手がけた時のような感じでね。あの時マイケル・スタイプは手書きのちょっとしたメッセージを私にくれたんだけれど、そこには、「私たちはあなたがやっていることを気に入っています。もしも〈エヴリバディ・ハーツ〉の真ん中くらいから入ってくるストリングスをあなたにお願いできたら、素晴らしいのですが」とあった。

デイヴ・ルイス 80年代初期がどんな感じだったのかを話す時は信じられない気分になるね。なぜならライヴ・エイドまではツェッペリンは消えた存在だったんだからさ。彼らのカタログはカーペットの下にしまわれてしまっていた。みんなはデフ・レパードやカルトを追っかけていたんだ。その状況をライヴ・エイドが少しだけ変えてくれて、それでロバートがツェッペリンの曲をやり始めるようになったんだ。80年代中盤になってみると、いつの間にかビースティ・ボーイズが彼らをサンプリングしていて、それでまたそこから人気が戻ってきたんだ。その後、1990年にリマスター盤が発売になった。

ライヴ・エイド

ジョン・ポール・ジョーンズ ライヴ・エイドの時はね、会場入りした時は最高の気分だったんだ。でも私は無理矢理自分にあれをやらせたんだ、実際はね。ああいうことをやる時に私に声がかからなくなったのは、あの時以降だと思う。

ベンジー・レフェブル 私たちはロバートのツアーの真っ最中でね。あれはとにかくすべてがちょっとトチ狂っていた。ジミーは脳みそが混乱していて、そのせいで彼は自分の指に対して出すべき指示を送れなかったんだ。(ジミーは)信じられないくらいナーバスになっていたけれど、でも彼は自分の力を証明したがっていた。

フィル・カーロ (略)

リハーサルの休憩時間の時、ロバートが、「〈天国への階段〉はやりたくない」と宣言したんだ。ジミーは私に言った。「こうなるだろうって、オレには分かっていた。オレたちは今日の午後は最後までこのゲームに付き合わなければいけなんだ。明日の朝になって奴が"やっぱりやる"と言うまでずっとね。これは単なるくだらないゲームなのさ。で、奴はクソッタレの老いほれの尻軽女というわけだ」と。それでライヴ・エイドのクイーンのテレビ中継をロバートの隣に座って見ていたら、彼は、「クソッタレめ!オレたちはあれを上回ってやるぜ」と言ったんだ。

フィル・コリンズ 私は控え室で彼らに合流したんだけれど、まるで自分が新人のような変な気分だった。トニー(・トンプソン)は素晴らしいドラマーだが、ただし、複数のドラマーと一緒に演奏する時にはちょっと自分の態度を考えておかなければならない。一歩引き下がって、自分のエゴをあまり出さないようにしないといけないんだ。

(略)

フィル・カーロ あれは最悪だった。フィルが演奏に参加したんだけれど、でも〈天国への階段〉の時には彼のマイクを全部オフにしなければならなかった。なぜって、彼はあの曲を演奏できなかったんだ。事前に彼にはテープを渡してあって、私たちが何をするのか伝えてあったのにさ。彼は、「謝るよ。君たちの曲がどれほど複雑なのか分かっていなかった」と言った。

ロバート・プラント あまりに自分たちの音が酷くて、そのせいですべてを文字通りぶち壊してしまったんだ。私の声はしわがれていてまともに歌えなかったし、ペイジのギターはチューニングが狂っていて、しかも自分のギターの音が聞こえなかったんだ。でもその一方であれは驚愕の状況でもあった。というのも、またしてもかすかな望みがありがたくない方向に行ってしまったわけでね――数多くのレッド・ツェッペリンのギグとまるで同じようだったんだ。ジョンジーはまるで死んでるみたいにその場に静かに佇むだけだったし、二人のドラマーはそれ(再結成なんて無理なんだということ)を証明していた……、まあ、つまりはさ、だからこそレッド・ツェッペリンを続けなかったんだ。あの規模の観客から感じる興奮がどんな感じなのか、私は完全に忘れていたしね。

フィル・カーソン ライヴ・エイドの後、ミードウランズでロバート・プラントのショーをやったんだ――チケットは完売だった。それでそのショーに私がジミー・ペイジとポール・シェイファーとブライアン・セッツァーを招待してね。ジミーがステージに登場した時には、会場の天井が落っこちるかと思うほどのもの凄い歓声だった。ホテルへ戻る際のロバートはちょっと不機嫌だった。彼は、「ジミーがステージに上がるといつもああなのか?」と言った。それで私は、「いや、ああなるのは彼が君と一緒にステージに立つ時だけだよ」と答えた。

(略)

ジミー・ペイジ [1988年のアトランティック創立40周年記念]パーティーでは、あまり触れられたくないことがたくさんあったな。ジョンジーと私はジェイソンと一緒にリハーサルしたんだけれど、それ自体はかなり良い感じだったんだ。私たちは演奏曲目についても同意していたのに、最後の瞬間になって……、ロパートが〈天国への階段〉をやらないと決め込んでしまってね。それで文字通り最後の瞬間まで混乱が続いて、辛らつな言葉の応酬が続いてしまって、それが私をかなり動揺させた。本当にね。

ピーター・グラント (ライヴ・エイドは)かなり酷い出来だった(略)とはいえ、アトランティックの記念ライヴに比べれば、全然ましだった。

再編劇、『ノー・クォーター』から排除されたジョンジー

ジミー・ペイジ レッド・ツェッペリン用の曲を書いていた時は、どんな手法を使うべきか、正確に分かっていたし、頭の中にあるロバートの声を前提にして書いていた。『アウトライダー」が少々不安定だったのはそういう部分だったのかもな、と思う。

ジョン・カロドナー (略)ジミーは本気でツェッペリンを再結成したかったんだ。でもそれが実現できなかった時、彼は自分の中にツェッペリンの曲をアメリカのキッズのために演奏するツアーをしたいという衝動があることに気づいたんだ。(ジミーとカヴァーデイルは)3月末にニューヨークで会い、すぐに意気投合できたので、そのままレノに行って曲を書き始めた。

(略)

 まず言えるのは、デヴィッド・カヴァーデイルはロバート・プラントを更に良くしたシンガーだということだ。レッド・ツェッペリンの曲を歌うデヴィッドを一度聞けば、もう議論は無用だろう。

(略)

ガイ・プラット (略)

カヴァーデイルは機会があればいつでもプランティを口撃していた。(略)

彼とジミーはかなり波長が合っていた。私たちがホワイトスネイクの曲を覚えなくちゃいけない時も、ジミーの音を拾う能力は素晴らしかったよ。もちろん私は、彼がかつて究極のセッションマンだったことを忘れていたわけだけど。そういうスキルはすべて血肉となって彼に完全に同化していたんだ。

デヴィッド・ベイツ ジミーはファームとカヴァーデイルと『アウトライダー』(略)を試したわけだけれど、何一つ上手くいかなかった。彼には、シンガーが必要なんだとはっきりと分かっていた。しかもブルース・ロックを歌える声を持っているシンガーがね。でも、ロバートの後に一体誰を持ってこれると思う?

(略)

 ビル・カービシュリーが言ったんだ。「ロバートとジミーをもう一度組ませるというアイディアをどう思う?」と。

(略)

 ジョン・ポールの名前は挙がったかって?ビルと私の考え方としては、「一度につき一つずつ取り組んでいこう」という感じだったと思う。単にロバートからジミーに話してもらうことだけでも、大きな障害だったしね。

(略)

ロバート・プラント 自分がジミーを恋しく思っていることに気付いたんだ。彼の演奏をね。でも私はなんらかの形で"どんな形であれレッド・ツェッペリン再結成には何もかかわらない"という自分自身のこだわりに言い訳を見つけなければならなかった。そのこだわりは実際のところかなり偽善的でもあったけどね。なぜなら私は自分のバンドでツェッペリンの曲をやっていたんだからさ。

(略)

 避けるべきは、自分たちが間違った人間の手に落ちて好き勝手に扱われて、結局は、なんというか、やけに生き生きとしたピンク・フロイドみたいになってしまうことだった。(略)

何かを回顧する目的のための単なるお遊びなんてご免だったんだ。

グリン・ジョンズ 90年代のペイジとプラントによるジョン・ポールの扱い方は恥ずべきものだったし、気分が悪くなった。股間を蹴り上げられるのは、いつだって一番良い奴なんだよな。それでも彼は十分に幸せだとは思うけどさ。

ジョン・ポール・ジョーンズ なぜ彼らがあれをやったのか、私には今でもよく分からないんだ。ある時どこかのジャーナリストから、「『ノー・クォーター』をどう思いますか?」(略)と質問されたのを覚えている。それで私は、「あれは私が書いた曲の中で最高の出来映えの一つだと、ずっと思っていたんだけど」と答えた。

ベンジー・レフェブル "アンレデッド"のプロジェクトにジョンジーが参加しなかった件は、たぶんロバートには何も関係がなかったと思う。あれはすべてをコントロールしたがるジミーによるものだったはずだ。

バネッサ・ギルバート あの一連の出来事の後、私がジミーやロバートに会うと必ず最初に彼らの口から、「ジョン・ポールから何か聞いてるか?」という言葉が出てきた。私も、なぜ二人は彼を除け者にしたんだろうと思ったわ。あれは単なる"エゴ"と"恐れ"だったんでしょうね。彼を相手にしないほうが話が簡単だ、っていう。

(略)

ジョン・ポール・ジョーンズ(ロックンロールの殿堂の殿堂入り記念式典にて) 自分一人でサウンドチェックをやったのを覚えている。そこには他のメンバーの影すらなかった。だからそういう部分については、たいして何も変わっていなかった。ジェイソンがドラムを叩くことに関しては、またしても一部からちょっとばかりうるさい声が聞こえていた。すべてはピーター・グラントのせいだと私は思っている。

温和になったピーター・グラント

エド・ビックネル みんなからよく、「どうやったらピーター・グラントと友人でいられるんだい?」と訊かれるんだけどね、私はいつも、「ああ、私が知っている彼は、私が何かで読んだ彼じゃないんだよ」と答えるんだ。

(略)

彼はボ・ディドリーやリトル・リチャード絡みのとびきりの話をしてくれた。恐らくそれは、彼らの方が実際のところレッド・ツェッペリンの面々よりも人間として大きかったからだろうな。

 ピーターは近所では"温和な人"として認識されるようになっていた。

(略)

毎日イーストボーンの海岸沿いを散歩していた。「60歳の誕生日までに~キロまで落とすんだ」と言ってね。彼は孫たちの存在をとても喜んでいた。

(略)

アーメット・アーティガン 彼が私のホテルの部屋に会いに来たんだ。その姿を目にした時は、それが"あの彼"だとは信じられなかった。110キロ以上は落としていたはずだ。仕立ての良いスーツにカッコいいネクタイをしていて……、まるで銀行マンのようだったよ。彼は完全な別人になっていたけれど、ただし、あのキラキラする目ととても温かみのある笑顔は相変わらずだった。

エド・ビックネル 彼は、ロード・ジョン・グールドという男と一緒に結婚式用のクルマを手配する仕事をしていたんだ。帽子と制服で身を包んだ彼が(略)教会まで新婚カップルを連れて行って、その後またイーストボーンにあるグランドホテルに彼らを送り届けるんだ。

ロード・ジョン・グールド (略)カップルが結婚式をあげている間、私たちはサンドイッチをぱくつきながら外で座って待っていて、その後彼らをクルマで送ったんだ。それぞれが現金で30ポンドもらった。その時ピーターが彼独特の言い回しでこう言ったのを覚えている。「ああ、クソったれめ、ジョン、数年ぶりに手にした現金だよ……いいもんだな!」とね。

エド・ビックネル ある晩、彼が、「イーストボーンの桟橋で行われる芸能コンテストの審査員をやってくれと頼まれたんだけれど、お前も一緒にやらないか」と言ってきたんだ。それでその2週間後、(元)レッド・ツェッペリンとダイアー・ストレイツのマネージャーが、桟橋の端っこでどうしようもない酷いバンド連中の審査員を務めたってわけだ。

(略)

サイモン・カーク 彼に最後に会ったのは1994年のバッド・カンパニーのショーでだった。(略)[ホテルに戻って]クラブ・ソーダをちびちびやりながらお互いと昔話をしたんだ。私は(最後に)涙目になりながら彼を抱擁し、そして大好きだったと伝えて、上の階に上がっていった。それっきり、彼と再び会うことはなかった。彼は私が一緒に仕事をした中で最高のマネージャーだった。

ロバート・プラント 最後にピーターと会ったのは1995年、ロンドンのウェンブリー・アリーナのバックステージでだったな。彼は優しくて温かくて弱々しい男になっていたけれど、とにかく素晴らしい思い出を幾つも甦らせてくれた。70年代の終わり頃に私が目にしていた男とは別人だったね。彼はクリーンだったし、思考も明晰だった。彼は自分の手で大きな山を幾つも動かしたことを知っていた。アーティストたちのために、自分の手で世界を変えたことをね。

スティーヴ・アルビニ

ジミー・ペイジ オーガニックな演奏をするバンドにとって最大の問題はそれを録音する人間を見つけてくることなんだ。私たちにはスティーヴ・アルビニがいて幸運だった。というのも、彼はマイクを使う際のEQの方法を本当によく理解していたからね。録音のための古いテクニックをさ。それと、アビイ・ロードのあの素晴らしいスタジオで仕事をするのは最高だったな。

スティーヴ・アルビニ 『ウォーキング・イントゥ・クラークスデイル』でのジミーとロバートは、恐らくレッド・ツェッペリン時代以上にお互いと協力し合っていたと思う。ツェッペリンはジミーのバンドだったし、彼がロバートをシンガーとして雇った形だった。でもその後、ここまで来る間にロバートはソロとしてかなりの成功を収めてきたわけでね。ジミーはその実績を尊重していたんだと私は思う。そして今度は仲間として、同僚としてのロバートと彼は仕事をしていたんだ。唯一の作者として、あのレコードの責任を一人で負うんじゃなくてね。

 二人とも無益なツェッペリンの亡霊を呼び覚まさないよう、かなり意識していたね。でもあれは彼らがかなり自然な形で導き出した共同体験だったんだ。それにしても、ジミーの趣味の幅がとてつもなく広くてね。彼はいつもプロディジーの溢れ出すような攻撃性とアドレナリンがどれほど気に入っているのかを話していた。

 

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