誰がメンズファッションをつくったのか?その2 モッズ、スキンヘッド

前回の続き。

誰がメンズファッションをつくったのか? 英国男性服飾史

誰がメンズファッションをつくったのか? 英国男性服飾史

 

カーナビー・ストリート、ドラァグのはじまり

 最初のうち、ビル・グリーンは俳優の肖像写真を専門に撮るカメラマンだった。戦時中に重量挙げと関わりを持ち、復員後は男性専門誌のために、ボディビルダーやレスラーの裸体写真を撮りはじめた。(略)

「あの当時、男性ヌードの撮影は、とても危険な仕事だった。(略)

そこでわたしは妥協点を見いだした――モデルにブリーフをはかせたんだ。マークス&スペンサーの伸縮するガードルを短くカットした、特製のブリーフをね。するとこれがちっちゃいのにすごくはき心地がよくて、モデルや読者のあいだで大反響を呼んだんだよ。(略)

もしかしたら普通に売り出せるんじゃないかと考えはじめた。そこで1950年に『デイリー・メール』で広告を打ってね。(略)

 ブリーフの販売が急速にグリーンの生活の大部分を占めるようになり(略)1951年にマンチェスター・ストリートのスタジオを本拠地にして通信販売業を開始

(略)

賃料が安い上に、ニューバーグ・ストリートは、ボディビルダーや男娼たちがこぞってトレーニングを積むマーシャル・ストリート浴場のすぐ隣に位置していたのだ。浴場を出るなり彼らは、ヒップスター・パンツやピチピチの高価なセーター(約7ポンド)、そして鮮やかな赤、黄色、紫のブリーフやショーツに目を奪われることになった。

 これがドラァグのはじまりだった。といっても服装倒錯という意味ではない。メンズウェアの業界では、それがファッショナブルでファンシーな装いを意味する言葉として使われていた。(略)

「わたしはつねにつくりよりも、インパクトを重視していた」とグリーンは語る。「わたしはそれまで、使われたことのなかった素材を使った。ヴェルヴェットやシルクを多用し、マットレス用の綿布でズボンをつくった。色落ちさせたジーンズを最初に売ったのもわたしだ。そしてなんでもできるだけカラフルで、派手な仕上げにしていた。

 客も客で、インパクト満点だった。みんな、うちはチェルシーのホモセクシュアルだけを相手にしていると思っていたが、実際にはおおよそ25歳から40歳までの、非常に幅広い層がターゲットだった。ティーンエイジャーはいない。うちの値段じゃついてこれないからだ。だがアーティストや劇場関係者、それにボディビルダーやあらゆる種類の有名人が来店していた。

 具体的な名前を挙げるのは好みじゃないが、ピーター・セラーズやジョン・ギールグッドやライオネル・バートもうちのお得意だった。デンマーク王はわたしから海水パンツを買った。ピカソからはスエードのズボンのオーダーが入ったし、スノードン卿は婿入りの衣裳を大部分うちでそろえたんだ」

 グリーンの言葉に嘘はまったくない――彼の顧客は、ホモセクシュアルだけに限ぎられなかった。だがもし彼が戦前に商売をはじめていたら、まちがいなくそうなっていただろう。そしてそれこそがヴィンスの新しさであり、重要な点だった。そこで売られていたのは、以前ならホモ以外に着る者がいない、おそろしく過激な服だったのだ。それを今、異性愛者が買うようになっていたのである。

 その背景にあったのは、いうまでもなく、男性のアイデンティティの大々的な転換だった。「ぼくらの特徴のひとつは」とサイモン・ホジスンは、チェルシーについて語る。「性別をいっさい気にしなかったことだ。みんなに全部の気がちょっとずつあることを、全員が理解していた」

 いいかえるなら、男たちは自分たちの女性的な側面と折り合いをつけるようになったということだ。彼らは恐れることをやめはじめた。ナルシズムや浮気っぽさや意地の悪さ――こうしたもろもろが男性の構成要素として、ヴィクトリア朝時代であればおぞましいと見なされていても不思議はない形で受け入れられるようになったのだ。ピチピチのズボンは、そうした変化のあらわれだった。

(略)

最初の亀裂ができると、その先は広がっていくばかりとなり、数年のうちにそれと同じセックスの自由化が、カーナビー・ストリートとそのあらゆる成果の基盤を築いていくことになる。ティーンエイジャーも、郊外の先端族も、アイダホからやって来た中年の旅行客もドラァグを着用した。

 事実、60年代の男性ファッションはすべて、ある程度までホモセクシュアル由来だった。その意味で、「オカマ」、「玉なし」などと罵声を浴びせたインド軍の退役将校やトラック運転手は、100パーセント正しい。彼らは自分たちの若かりしころ、そうした服装が同性愛者の印だったことを覚えていたのだ。

(略)

 その意味で、ビル・グリーンの影響は大きい。美的な観点から見ると、決してすばらしいデザイナーではなく、またすばらしい理論家でもなかった。そしておそらく当人にも、自分がなにを体現しているのかがわかっていなかった。にもかかわらず、彼が切り開いたのは非常に重要な突破口だった。

(略)

 ヴィンスは性的な曖昧さだけでなく、形式ばらないスタイルの推進者でもあった。レジャーウェアが史上はじめて、ハイ・ファッションとなったのだ。セーターとジーンズが、シックな装いになりはじめた。さすがにまだ、ビジネスで着用されることはなかったものの、夜の外出やパーティーに着ていくのは、まったく問題でなくなった。

モッズ

 モッズのスタートは1960年前後、かつてない、そして以後も類を見ない度合いで服装にとことんこだわり抜くティーンエイジャーが登場したときのことだ。

 その人数は決して多くなく、数十人が地方にぱらぱらいる程度だった。

(略)

[バーナード・クーツの場合]

「着るものは全部一点もので、シャツは一度しか着てはならない。

(略)

じょじょに反抗ではなく自己愛から着飾るという、新たなスタンスの支持者が増えはじめ、1962年になると改宗者の数は“モッズ”というセクトが出来上がるまでにふくれ上がっていた。

(略)

バーナード・クーツからすると、モッズはどう見ても粗悪品だった(略)

「ぼくの慣れ親しんだスタイルではありませんでした」とクーツ。

(略)

[のちのマーク・ボラン]早熟の天才、マーク・フェルドは12歳で入門した。

「スタンフォード・ヒルズには、初代のモッズと呼べる男が7人ぐらい住んでいた(略)二十歳くらいで、ほとんどがユダヤ人だったけど、全員、仕事はしていなかった。親のすねをかじりながら、ただブラブラしていたんだ。服のことにしか関心がなくて、いつもなにかしら新しいものを身に着けていた。

 ぼくはそんな彼らのことを最高だと思い、家に帰ると文字通り、モッズになれますようにとお祈りしていた。

(略)

 当時のモッズは服のことしか考えていなかった。音楽や踊りやスクーターや錠剤が出てくるのは、もっとあとになってからだ。

(略)

1962年、マーク・フェルドは美しくカットされた丈の長いコート、黒革のヴェスト、ポケットチーフにラウンド・カラーのシャツといういでたちで、「タウン」誌に登場した。(略)

 こうした派手な服装が可能になったのは、ひとえに60年代初頭のティーンエイジャーが、前例のないほど金銭的に恵まれていたおかげだった。モッズに戦争の記憶はなく、緊縮生活もわずかにその片鱗を覚えているだけ。また本物の貧困に脅かされたこともなかった。仕事をすると、彼らは裕福になった。仕事をしていないときも、失業保険を受け取り、こうした緩衝材に護られながら、モッズはうぬぼれと全能感、そしてデカダンな感覚を育んでいった。

(略)

 この動きは郊外からロンドン全域に広まり、シェパーズ・ブッシュが新たなメッカとなった。その後、今度は南海岸を席巻し、遠くノッティンガムにまで到達

(略)

リッチモンドから登場したローリング・ストーンズが初のモッズ・グループとなり(本人たちはモッズではなかったが、モッズは彼らを受け入れて支持した)、彼らが全国的な人気バンドになると、ヤードバーズがその後釜に座った。「レディ・ステディ・ゴー!」は基本的にモッズのTV番組だった。

(略)

バーナード・クーツが初代のモッズを認めなかったのと同様に、今度はマーク・フェルドが異を唱えた。「だんだん手に余りはじめた(略)モッズはクールじゃなくなっていたし、ぼくも話しかける気がしなかった。こっちはこの上なく真剣に考えていたのに、向こうはまがいものにしか見えなかった」

 たしかにシェパーズ・ブッシュのモッズは、なにかにつけて雑だった。独自のスタイルをつくり出す代わりに、彼らは群れをなしはじめ、よりけたたましく、より荒々しく、より暴力的になっていった(略)

 大半はとても背が低く、真面目くさった顔をしていて、年齢は17歳前後。スクーターを乗りまわし、集団で騒々しく移動した。どの地域にも着こなしのよしあしによって決められるるトップ・モッドがいて、地域全体が彼と同じ着こなしをしていた。

 その意味で、モッズのスタイルは場所によって変化した。とはいえそんななかにも、いくつか基本的な要素があった――小ぶりのモヘア・スーツに細身のズボン。ズボンは毎日プレスされ、ボウリング・バッグで運ばれて、パーティーの会場かダンス・ホールに入る直前にはき替えられる。白と青のストライプ入りで、長いサイドヴェンツがついた、コットンかシアサッカーのアイヴィー・リーグ・ジャケット。栗色か辛子色のスエード靴。襟にキツネの毛皮を縫いつけた“パーカ”と呼ばれる軍放出品のアノラック。ニットタイ。ジャケットの下につける、クリップ式のサスペンダー。

(略)

 彼らは奇妙なくらい自己完結型で、自分以外の人間には、女性もふくめて、あまり関心を示そうとしなかった。クラブではナルシスト的な夢に没入しながらひとりで踊り、鏡があると、そこには決まって列ができた。メーキャップ――アイライナーやマスカラ――も普通にしていたが、といって彼らが全員、ホモセクシュアルだったわけではない。それは単に、風変わりさのシンボルだった。

 いっぽうで彼らに同調する娘たちは、フェイクファーのロングコートにスエードの靴をはき、髪の毛を短く刈って、男の子のまわりをウロウロしたが、まるで無視されていた。彼女たちはこの上なくみじめに見えた。

 週末が来ると、モッズはイースト・エンドにくり出し、36時間ぶっつづけで起きていた。クラブやコーヒーバーやソーホーの街角にたむろし、くたびれるとクスリの錠剤|パープル・ハーツをひとつかみ飲んで、エネルギーを補給する。それをのぞくと、彼らはなにもしなかった。セックスとも感情とも縁がなく、なににつけても受け身でいるように見えた。彼らは幸福でも不幸でもなく、部外者の目には不気味に映った――生ける死人の群れ。

 モッズの全盛期は疑いなく1964年のなかば、火曜の夜のマーキー・クラブにレギュラー出演するようになったザ・フーの台頭とともにはじまった。(略)

衣服にも強いこだわりを持ち、週ごとにまったく新しい衣裳に着替え(略)ピート・タウンゼンドだけでも、週に最大で100ポンドを衣服に費やしていた。

ロッカーズ

 これはカミナリ族の別称で、モッズの登場前は、すっかり勢いが衰えていた。ロンドンのカミナリ族はほぼ絶滅した。地方でもバイクに乗ったゲリラたちは瀬戸際まで追いつめられ、あちこちに散らばった生き残りたちが、運転手向けの安食堂でくだを巻いていた。

 しかしモッズがブームになると、その流れに乗るのをよしとしないティーンエイジャーも数多くあらわれた。とりわけ北部と田舎には、モッズをやわで気味が悪いと考える少年が多く、そのまったく逆を行こうと、細身のズボンやラバーソールで武装した。カミナリ族の灰のなかから、不死鳥のようにロッカーズが飛び立ったのだ。

 ただし大半のロッカーズは、使命感が薄かった。内なる衝動に駆られてというより、モッズに対する反感から、このムーヴメントに加わっていたからだ。そのためモッズが下火になると、彼らも同じ運命をたどった。

 それでも、しばらくのあいだはルールを遵守し、髪の毛にグリースを塗りつけ、背中に虎の浮き彫りとスタッドを入れた黒の革ジャンパー姿で、ジェリー・リー・ルイスを崇め奉っていた。かくして闘いが勃発した――えせモッズとえせロッカーズのあいだで。

 1964年から1965年にかけて、彼らは国民の休日のたびに、南海岸沿いの町に群れ集まって、正面から衝突した。騒乱は48時間にわたってつづけられ、だがその時間がすぎると、全員がきびすを返して帰宅した。やっているあいだは刺激的に思え、マスコミも飛びついた。新聞の論説記者や政治屋や説教師にとっては格好の話題となり、おかげでだれもが満足していた。それは5年後に開かれるワイト島ポップ・フェスティヴァルと同様、誇大な表現にうってつけの機会となった――家族全員で楽しめる、20世紀のパントマイム。

 しかしどれもあまり変わり映えのしない騒ぎが6、7回もつづくと、次第にマジックが薄れはじめた。マスコミは興味を失いつつあり、参加者、とりわけモッズも同様だった。騒ぎそのものはともかくとして、それにまつわるもろもろ、たとえばスクーターで町を流したり、錠剤をポンポン口に放りこんだり、さらにはモッズと名乗ったりすること自体が、使い古された感じになってきたのだ。

 新しいスタイルが台頭していた。そこで勧められていたのは錠剤ではなくマリファナ、短髪ではなく長髪、無抵抗ではなく反逆だった。ヒッピーのために場所が空けられ、1966年になると、モッズは実質的に終わっていた。スタンフォード・ヒルから海辺での最後の乱闘までの期間は5年足らず。

 そしてマーク・フェルドは今や、18歳になっていた。「ふり返ってみると」と彼はいう。「ときどき、すごく疲れてくるんだ」

長髪とミック・ジャガー

 今世紀の前半部を通じてずっと、長髪はホモセクシュアリティを意味していた。

(略)

 しかしながら50年代の後半に登場したビート族はちがった。彼らは髪の毛と髭を伸ばしたが、それは性的な嗜好ではなく(略)画一的で凡庸なエスタブリッシュメントに対する反抗心のあらわれだった。

(略)

英国のビート族自体はアメリカで生まれたオリジナルの貧弱なイミテーションにすぎず、つねにどことなく滑稽味を感じさせた。しかし彼らのスタンスやルックスは、水で薄めた形で美術学生たちにも採り上げられた。長髪がはじめて一般層に広まったのも、美術学校を通じてだった。

(略)

 最初に長髪を一般大衆に広めたのは――薄められた形でとはいえ――ビートルズだった。

(略)

 今、初期のビートルズの写真を見返してみると、なんともおとなしい印象を受けるし、髪の毛もかなり短い。それでも坊主に近い髪型が当たり前の当時は衝撃的だった。プレスリーのリーゼントともみあげ、それにダックテイルはテッズとともに姿を消し、それ以降は頭の側面を短く刈り上げた髪型のひとり舞台だったのだ。もしも大胆さをアピールしたければ、選べる道はふたつだけ。けば立った髪型になるイタリア風のレザーカットと、前髪をひとふさ眉毛まで垂らす、ビリー・フューリー・スタイルしかなかった。

 そんなあとに登場したビートルズは、とてもワイルドに見えた。それ以前のポップ・グループにはなかった率直さがあり、ざっくばらんで、髪型もそれをあらわしていた。だがそれ以上に重要なのは、彼らが道を切り開く存在だったことだ。

(略)

 ストーンズはビート/美術学校の伝統を直に受け継ぎ、さらに押し進めた。まっとうな社会をとことん軽蔑していたばかりか、できるだけわざと不快に、暴力的かつ卑猥でかつ原始人的になろうとし、「過激になれ。醜くなるのも、厄介者になるのも、阿呆になるのも勝手だが、絶対に生ぬるくなるな」という、現在ももてはやされている異議申し立てのスタイルを打ち立てたのだ――彼らのあるアルバムに入っていた、「このレコードは“大音量で”かけるべし」というただし書きのように。

 彼らはあらゆる規則をないがしろにした。ストーンズ以前のポップ・グループ、そしてティーンエイジャーの大規模なムーヴメントにはすべて、ユニフォームが欠かせなかった。彼らはその流れに終止符を打ち、いったん地位を確立すると、好き勝手な格好をしてステージに立つようになった――ある時はキャンプで突拍子もなく、ある時は高価な装い、またある時はただのジーンズとTシャツといった具合に。

 彼らがいわんとしていたのは、“オレたちはオレたちのやりたいようにできる、守んなきゃならないルールなんてないし、オレたちにはなにも当てはまらない”ということだ。それによってストーンズは、紳士、そしてボー・ブランメル以降形づくられてきた服装のコンセプトを完全に破壊した。

 こうした動きを主導していたのが、傍若無人を地で行くマネージャーのアンドルー・ルーグ・オールダムだ。ハイヒールのブーツにズボンをはき、パフスリーヴのビンクシャツと色つきの眼鏡、それに宝石を身にまとい、メーキャップをしていた彼は、信じられないほどキャンプで、よこしまで、露出狂的な男だった。そしてストーンズも、そんな彼のあとを追った。

(略)

[ミックの服装の]ポイントは無数のスタイルや生地や雰囲気をないまぜにし、だが決してレッテルづけする暇を与えず、「そう、あれがジャガー・ルックだ」といわせないことだった。

 彼はダンディではない。むしろその対極に位置し、ダンディズムが奉じる教義の数々――こだわり、繊細さ、完璧主義――が、まさしく彼の攻撃対象となった。彼は無頓着でぶしつけだった。キッチュに走ったり、ポルノまがいの真似をしたりと、しばしば趣味の悪さを意図的に用い、シルクとデニム、ヴェルヴェットとサテンを衝突させた。色彩を乱舞させ、かと思うとプライアン・ジョーンズが亡くなった直後のハイド・パーク・コンサートでは、白のミニドレスを着用していた。

スキンヘッド

 海辺での暴動がひと段落すると、モッズは全国的なムーヴメントではなくなってしまう。だがおもに南部でぽつりぽつりと生き残り、ダンス・ホールではそれなりの勢力を維持していた。ザ・フーのポップ・アート的な奇抜さの代わりに、彼らはソウル・バンド、とりわけジーノ・ワシントン&ヒズ・ラム・ジャム・バンドを支持するようになり、ライヴでは毎回のように、大挙して騒ぎを引き起こした。時にはひたすら飛び跳ねながら叫び声を上げ、時には会場を壊しまくる。いずれにせよ彼らは、ほとんど先祖返りを起こしたかのごとく、テッズ並みに単純で暴力的な存在となり、意図的に下品さをよそおって、気取りや上品さをことごとく忌み嫌った。

 こうしたすべては、当時の中流階級が信奉していたフラワー・パワーと対比させて考える必要がある。そうすればモッズがひとつの反動――労働者階級には理解されず、いかがわしいものと見なされていた“優しさ”に対する、しっぺ返しだったことがわかるだろう。ヒッピーを前にすると、彼らは本能的に、馬鹿にされているような気分になった。

 この時期のモッズはほとんどが17歳から18歳で、髪の毛は短く、機能的な服を着ていたが、決して極端に走るようなことはなかった。しかし1968年になると、3、4歳は若い新世代が登場し、基本的なスタンスは同一ながら、それをフェティシズム的な方向に強化しはじめた。

 スキンヘッドという名称が、最初から使われていたわけではない。当初は単なるモッズの若年版と見なされ、未分類のままだった。ただし荒っぽさでは上を行き、とくにノース・フィンチリー地区には、血の気の多いメンバーが集まっていた。丸刈りにした髪型や重いブーツが最初に流行ったのも、ぼくの知る限りではここだった。

 年長のモッズが漠然とした敵意を振りまいていたのに対し、新参者たちはひとつのモットーを打ち立てた“見せびらかすんじゃねえ”という、いたって簡潔なモットーを。

 なにもいわずにぶちのめす――それよりも複雑な行為は、ほぼすべて“見せびらかし”と見なされた。ヒッピーはもちろん見せびらかし屋で、インテリや成功者もそうだった。弁の立つ男は見せびらかし屋だった。かわいいガールフレンドであれ、車であれ、派手な服であれ、ステータス・シンボルと呼べるものはすべて見せびらかしだった。肉体的な美しさ、変人ぶり、趣味のよさへのこだわり――イメージ全般がそうだった。

 では見せびらかしではないものは? 土曜の午後のサッカー、暴力、レゲエ、そして“ファック”という言葉――それでほぼすべてだった。それ以外は異端とされ、ブーツで罰を与えられた。

 じょじょにクルーカットや厚手の重いブーツ、そして足首丈のズボンやズボン吊りや開襟シャツなどからなるユニフォームができはじめた。そもそもの出所はアメリカのキャンパス・ルック――ズック靴、デニム、チェックのシャツ――だが、裏通りでいきなり剃りあげた頭とにきび、そしてダッジェム・カーのようなブーツに行き当たると、そこから受ける印象はかなり異なっていた。すさんだ雰囲気が漂い、とくに向こうから近づいてくるのがまだ13歳か4歳の子どもでしかないことがわかると、ひどく怖ろしくなってきた。

 美という観点で見ると、これはすばらしいファッションだった。「シンプルさの極みだ」とトム・ギルビーは語る。「非の打ちどころがない、古典的なファッション。余計な飾りはいっさい抜きで、ただただインパクトに特化している」しかし当のスキンヘッドは、そうした言葉にいっさい耳を貸さなかった。彼らからすると、それはおしゃれに対する異議――意図的に華美さを排したがさつなスタイルで、「知ったこっちゃない。オレたちは見せびらかし屋じゃないんだ、飼い慣らされてたまるか」という宣言にほかならなかったのだ。

 さまざまな名前が生まれては消え――スミシーズ、スカルズ、ピーナッツ――1969年にようやく、スキンヘッドが定着した。このころになると、このムーヴメントは全国的な広がりを見せ、騒動の数々――サッカー場での暴動、パキスタン人に対する暴行、バンク・ホリデーの海辺でくり広げられる馬鹿騒ぎがマスコミ沙汰になっていた。

 いっぽうでそれに反発するかのように、テッズ/カミナリ族/ロッカーズの復活が起こる。彼らは取り急ぎバイクを改造し、ヘアオイルをはぎ取り、屋根裏部屋から黒の革ジャンを引っぱり出してきて、新世代にうやうやしく手渡した――グリーザーズである。

 グリーザーズはロッカーズよりもさらに凝った服装をしていた。花飾りのようにチェーンをぶら下げ、革ジャンには華々しく鋲が打たれている。カリフォルニアのグループをそのまま真似て、ナイト・ホークス、ヘルズ・エンジェルズ、あるいはミッドナイト・マローダーズなどと名乗っていたが、そうした飾りを取り去ると、中身は昔ながらのテッズだった。彼らはジェリー・リー・ルイス、トラック運転手ご用達のカフェ、チップス、おっぱい、そして殴り合いを好んだ。スキンヘッドとの衝突は、まさしく5年前のモッズとロッカーズの再現だった。

 スキンヘッドは変わらなかった。いったんスタイルができあがると、古いワークシャツがチェックのシャツに代わり、ブーツがさらに大きくなったぐらいで、それ以外はずっと元のままだった。時がたつにつれて、彼らはいくぶん新奇さと強面なイメージを失いはじめる。1970年の末ともなると、すっかりなじみのある気軽な存在となり、ファッション化の機はじゅうぶん熟していた。

 かくして軟弱化のプロセスが、またしてもスタートする。なんにでも一番乗りするクリストファー・ギヴズがまず、1969年のクリスマスに髪を短く切り、ジョン・レノンほかの男女が彼のあとを追った。

 じきに衣服のデザイナーたちも、この路線に乗ってきた。靴屋はつま先の丸い、かさばる靴を売りはじめた。ジム・オコナーはキャンパスのスタイルを採り入れ、その仕上がりはホームでサッカーの試合がある、土曜日のシェッドやストレトフォード・エンドを多分に思わせるものになった(略)

トム・ギルビーは、“けんかルック”という新しいスタイルを提唱した。

 それらはいずれも正統的なスキンヘッドのファッションではなかったものの、影響ははっきり感じさせ、むしろ本物に近すぎたせいで、ムーヴメント本体の勢いは衰えはじめた。先達たちと同じように、スキンヘッドはやる気を失い、歳を取るにつれて脱落していった。夕刊紙を開くとファッションのページで戯画化され、チェルシーのヤワな連中が自分たちのスローガンをパクっている。だがそれを見ても彼らはただ、「ちくしょう」と歯噛みすることしかできなかった。

 1970年の秋になると、スキンヘッドのピークはすでに過ぎ去っていた。彼らはサッカー場から姿を消し、ブーツやズボン吊りを捨てて、髪を伸ばしはじめた。この時点で10代のなかばになっていた彼らは、スエード(スエードヘッド)あるいはヘアリーズと呼称された。スーツにネクタイ姿の彼らは、ずっとこざっぱりとしていて威嚇的でもなかったが、社会に対する態度は依然として反動的だった。一見すると彼らは1965年ごろ、シェパーズ・ブッシュにたむろしていたモッズがよみがえったかのように見えた。

 しかしたとえスキンヘッド本体が消え去っても、そのムードが消え去ることはないんじゃないかとぼくは思う。彼らは労働者階級全般に広まりつつある反動的な動き、パウエリズム[60年代末の英国でおこった反移民キャンペーン]を生んだ右翼的な盛り上がりの一断面にすぎない。それをティーンエイジャーが示して見せたのが、スキンヘッドだったのだ。この動きはどうやら70年代を通じてつづき、さらに激化しそうな勢いだが、その場合には3、4年ごとに、スキンヘッド的なカルトが復活することになるだろう。名前は変わるかもしれないし、ブーツとズボン吊りも新しい小道具に取って代わられるかもしれない。だがその本質はつねに同一だ――徒党、制服、厄介者。

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