ブルース・スプリングスティーン その4 別れ

前回の続き。

誇大広告はやめろ

 一九七八年春にレコードが完成すると、ブルースはレコーディングにもちこんだような強い権限をもって発売前の宣伝キャンペーンを仕切りだした。(略)

これまでの強烈な誇大広告に忸怩たるものを感じていたことから(略)

大々的な"ブルースが帰ってくる"キャンペーンはやらないようにと釘をさした。「おれが決めていいなら(略)店頭に並ぶまで、アルバムが出ることを誰にも知らせない」。結果、雑誌記事での売りこみも、インタビューも、戦略的に選んだラジオ局への見本盤の提供もなしになった。世間が知るべきことは、とブルースは宣言した。ブルース・スプリングスティーンが新しいアルバムを出すということだけだと。これはそのとおりになったようだ。

(略)

 ツアーは夏のあいだじゅうつづいた。(略)

ロードマネージャーのボブ・チャームサイドは振りかえる。「こっちが入っていくと、バンドメンバーのひとりがコカインのスプーンを別のメンバーの鼻まで持ち上げているところだった。(略)時間が凍りついたみたいだった」。(略)

[クレモンズ談]

「こう思ったよ、『うわっ、ヤバい!』って。それでそいつがようやく口にした言葉がこうだ、『ああ、やあ。ブルースもやるかい?』で、ブルースは『いや、いい』って」。(略)

バンドリーダーの頬はみるみる赤くなり、筋肉は怒りでこわばっていたそうだ。

「もし、おれが、今後、一度でも、こんなものを、見かけたらだ(略)誰だろうと関係ない。終わりだ。その場で。首にする」。(略)

控え室に着くと、チャームサイドは怒りのおさまらないバンドリーダーにしばらく落ち着く時間を与えた。「(略)『ボス、本気かい?その場で首にするって?』」

 ブルースは迷わなかった。「もちろんだ」とすぐに返した。「あいつらの誰だろうと二四時間以内に代わりを見つけられる」。それから少し考えた。「クラレンスは別だ。クラレンスの代わりを探すのはちょっと時間がかかる」

(略)

[『闇に吠える街』脚注]

「このアルバムはいろいろとタイトルが変更されたが、そのなかに(冗談半分の)『ビバ・ラスベガス』というのがあった。(略)古いエルヴィスの曲を即興で演奏したときに言い出されたアイデアで、ランダウはアルバムジャケットのイラストとして、古いインターナショナル・ホテルの入り口のひさしにブルースの名前が記され、ヴェガスの街がゴーストタウンと化しているというものを思い描いた。もっと真面目な候補に『バッドランド』があったのだが(略)ビリー・チノック(略)が、『バッドランド』というアルバムとシングルを発表したため却下された。チノックがギャリー・タレントと仲がいいのを知っていたブルースは(略)タイトル案を漏らしたと言ってベーシストを責めた。タレントはそんなことはしていないと断言する。「おれは言ってやった、『たぶんあいつもおまえと同じマーティン・シーンの映画[『地獄の逃避行(Badlands)』]を観たんだろうよ!』」。ブルースは当時はもちろん、いまでもその話を信じていないらしい。(略)

『ザ・リバー』

[「闇に吠える街」ツアー閉幕、休養に入り、見回せば、子供のいる妹夫婦や家庭のあるメンバー](略)

「二九や三〇にもなれば、そういう生活が視野に入ってくる」とブルースは言う。「そういうことを書いてみたいって興味が湧いてきた。それまでそういったことを歌ってはいなかったからね。自分が育った場所とよく知ってる人たちのルーツはそこにあるのに」

 だがどれだけ恋人のジョイス・ハイザーと一緒にいても、またどれだけシンプルに生きようとしても、ブルースは他人と距離を置くやり方を変えられずにいた。(略)

そこでペンを手に、自分にないものは何かを考え、書きとめていった。「『ザ・リバー』ではそういうことを考えたり、試しにやってみるようになった自分を表現してる(略)少しのあいだそういう自分になりきってみて、それを歌にするとどんな感じかやってみる。そうすると現実の生活で向かっている場所に近づけることがあるんだ」

(略)

 一九七九年三月(略)パワー・ステーションでセッションははじまった。板張りのスタジオは体育館ばりに広く、ロックバンドがステージで演奏しているような臨場感たっぷりの音をとらえることができた。(略)

[イアン・ハンターのアルバム録音に参加したワインバーグ、タレント、ビタンがライヴ感の出せるこのスタジオを気に入った]

「ルームマイクをやめて、スネアを盛大に効かせ、ロックンロールらしいノイズを出して、はじけるような音楽を録ろうと考えた」とブルースは振りかえる。

(略)

レコーディングは一九七九年の終わりをすぎて八〇年の冬に突入していた。(略)

録音ずみのテープを入れた箱は三〇〇を超えてもまだ増えつづけていた

(略)

レコーディングにかかった費用が一〇〇万ドルに達してもまだとどまる様子がないのを見て、CBSの社長、ウォルター・イェトニコフがスタジオに現れ、この経費は会社もちに見えるかもしれないが、そう見えるだけだぞとブルースに念を押した。結局はブルースの印税から払うことになるという意味だ。「するとブルースはこう言ってきた。『金を使うなら自分の音楽に使うのがいちばんいいに決まってるだろう?』(略)どう言いかえせばよかった?『いいや、ドラッグにつぎこむほうがいい!』とでも?」。『ザ・リバー』は二枚組アルバムでなくてはだめだと言ってきたときも、ブルースには確固とした信念があったという。(略)

一枚分のアルバムでは言いたいことが表現しきれないとブルースに言われ、イェトニコフは反論できなかった。「議論の余地はなかった。『わかった。きみの言うとおりにしよう』と言う以外になかったよ」。

(略)

 一九七九年にセッションをはじめたとき、ブルースはフォー・シーズンズが一九六四年に放ったヒット曲「悲しき朝やけ」のピアノのリフを骨格にした明るいポップチューン、「ハングリー・ハート」をもってきた。だが、バンドとともにわずか数回録っただけで興味を失っていた。ブルースが思い描いていた、人生の現実に向きあうようなアルバムに入れるには、軽すぎると考えからだ。

(略)

[ブルースはラモーンズに提供するつもりでいたが]

ランダウは入れたいと言って譲らなかった。ヴァン・ザントもそれについては強く賛成した。「とにかくグルーヴがあった(略)曲の空気にね。だから『それならとびきりのハーモニーを加えよう』って言ったんだ」。こうして(略)

[タートルズの初代メンバー]マーク・ヴォルマンとハワード・ケイランを招き、バックヴォーカルにビーチ・ボーイズのような雰囲気を加えることにった。

(略)

[ボブ・クリアマウンテンが磨きをかけても、ブルースは納得せず。ランダウとヴァン・ザントに「真のヒットを出していい時期」と再度説得され承諾]

CBSの広報担当、ポール・ラッパポート(略)

「ブルースに言ったんだ。『おい、ブルース。チャリーン!この曲はヒットするぞ!』」。ブルースは笑顔を見せた。「いいね!おれのコルベットに新しいタイヤが欲しいなと思ってたんだ」。それを聞いたラッパポートは笑った。「『たぶん騒ぎが収まるころにはコルベットの工場ごと買えるようになってるぞ』と言うと、ブルースは何を言ってるんだって顔をして去っていったよ」

(略)

『ザ・リバー』は(略)クリスマスまでに一五〇万枚以上を売った。(略)

ライヴでは、「ハングリー・ハート」のイントロがはじまると観客が沸き、ブルースの声をかき消すほどの大声で合唱をはじめたため、ブルースは出だしの部分を歌えないくらいだった。「ブルースは目を丸くしていた。『まったく、すげえな!』ってね」とラッパポートは振りかえる。「それからいつも出だしのところを観客に歌ってもらうようになったんだ。それにしてもすばらしい瞬間だったね。ブルースの驚いた顔、心からのうれしそうな顔。何ものにも代えがたい経験だった」

アメリカの歴史

[欧州ツアーで海外の若者から「おれの国にミサイルを持ち込むな」となじられ]

ヴァンザントは言う。「(略)そのうちわかった。国を出ればおれはアメリカ人なんだってことに。民主党なのか共和党なのか、タクシー運転手なのかロックンローラーなのかなんて関係ない。ただのアメリカ人なんだ。で、アメリカは民主主義国家だから、おれたちは母国のやってることに責任があるってわけさ」

(略)

[当選]翌日の夜、ブルースは早くも次期ロナルド・レーガン政権への恐れをステージで口にしていた。(略)

一二月の末にはウディ・ガスリーの「わが祖国」の鮮烈なカバーをライヴで演奏し、キャプファイアで口ずさむ歌だと思われがちなこのフォークチューンが、じつはアーヴィン・バーリンの「ゴッド・ブレス・アメリカ」のおめでたい勝利主義に異を唱えるものなのだと、はっきり示してみせた。

(略)

アメリカの歴史を記した本を読みあさり、巡礼者や愛国者、偉人、そして白人の西部開拓を正当化した標語"明白なる運命"にまつわる定評ある英雄物語に新しい視点をもたらすストーリーや分析を探した。ジョー・クラインの『ウディ・ガスリー――生涯』には、スタインベックの『怒りの葡萄』でジョード一家が訪れた道路、仕事場、キャンプ場が描かれ、ヘンリー・スティール・コメジャーとアラン・ネビンズの『アメリカ合衆国の歴史』には、大衆的観点から見た国家の発展が書かれ、下層労働者階級の子供としてのブルース自身の体験が映し出されていた。

(略)

「近所では政治の話を聞いたことがなかった」とブルースは言う。「学校で話になったのかな、ある日学校から帰ると、うちは共和党員と民主党員どっちなのかと母に尋ねたことがある。民主党員だよ、民主党は労働者のための党だから、と母は言っていた。子供のころにした政治の話なんて、その程度のものだった」

(略)

フリーホールドに暮らすスプリングスティーン家の一員でいることは、弱さと、自分のために闘う力のない人々に降りかかる灰の味を知りつくしていることを意味した。「ただ苦しみのために」働く生涯を強いられた男の炎であぶられたポートレート「アダムとケイン」でブルースが描いた自身の父親の物語と同じだった。ブルースはここにきてようやく、ダグラス・スプリングスティーンの苦しみを広い文脈で理解することができた。それはアメリカンドリームの裏側にかいま見えるもの。アメリカ式の成長を車のタイヤの下から眺める男のストーリーだ。

『ネブラスカ』

[81年9月「ザ・リバー」ツアー閉幕]

ブルースは、ツアー後の静けさを複雑な気持ちで受け止めていた。(略)

「人生の序盤が終わろうとしていたことは確かだ。(略)

考えごとが増えていた。あのとき何かが、三〇か三一歳のおれを子供のころに立ち返らせた。それが『ネブラスカ』に向かわせた。大きな意味があったよ。あの音楽を運んできたものの正体はわからないんだけどね」(略)

ブルースは夜な夜な車に乗りこんではフリーホールドの街を流し、かつて祖父母と暮らした家があったランドルフ・ストリートの空き地や、小学生のころ住んでいたインスティテュート・ストリートの家、十代をすごしたサウス・ストリートの家を訪れた。

(略)

ティーンエイジャーの大量殺人犯チャーリー・スタークウェザーとその一四歳の恋人キャリル・アン・フューゲートを題材にした、一九七三年のテレンス・マリック監督の映画『地獄の逃避行』を観て、主人公の目に浮かぶ孤立感、社会と意味のあるかかわりをもたないせいで世界がぼやけて見えてしまう人生観に、かつて暮らした家のひんやりした居間に引き戻された。「子供のころの家の雰囲気をとらえようとしていた(略)重苦しくて呪われた……すさまじい内面の混乱を」(略)

別れを告げる「ボビー・ジーン」

 一九八四年に入ると、アルバムは『ボーン・イン・ザ・USA』とタイトルが決まり、いよいよ完成したように見えた。(略)

[ランダウにシングルになる曲がないと言われ]

ブルースは、七〇曲も書いたのに、自分でもっといい曲を書けるというなら書いてみろ、と言い捨てた[が、怒りが鎮まるとホテルに戻り]

ギターを手に「ダンシン・イン・ザ・ダーク」を歌った。

(略)

[ボブ・クリアマウンテン談]

「ミキシングはほんの二、三時間でできた。(略)でも、できあがったのを聴いて思ったんだ。『うわっ、これはヒットソングになるぞ!(略)』

(略)

 コロムビア/CBSの社長たち、アル・テラーとウォルター・イェトニコフが踊る番になった

(略)

「スタジオの天井で頭を打ったみたいだった」とテラーは言う。横にいたイェトニコフも宙に浮かびそうな勢いだった。「ちびりそうになったくらい。もしかしたらちびったかもしれない。実際やったことがあるからね」とイェトニコフは言う。「ニュージャージーの女子中学生ファンみたいに熱狂したよ。(略)

あのときは、本当に興奮した。ブルースがこういうアーティストになったことに。(略)」

 テラーはランダウに向きなおり、きみとブルースはこれまでにないような事態を経験することになるぞと告げた。(略)

「(略)まちがいなくこのアルバムはスマッシュヒットになる。ナンバーワンになる。全米で何千万枚と売れるだろうし、少なくとも二年半は売れつづけるだろう。このアルバムで二回にわけてツアーに出ることになるだろうし、これは全米一位をとるシングルになる、とね」

(略)

「ボビー・ジーン」は昔からの友人に別れを告げる、せつない思いをこめたロックナンバーだ。(略)

「もうどこにもひとりもいない/おまえみたいにわかってくれるやつは」。ブルースの声にこめられた愛情も、コーラスににじむ心の痛みも、同じように鮮やかに胸に迫る。「話してくれたらよかった/おまえと話ができたらよかった/さよならと言うだけでも、ボビー・ジーン」(略)

この「ボビー・ジーン」はある特定の人物に向けて、ある事柄を頭に置いて書かれていた。スティーヴ・ヴァン・ザントがEストリート・バンドを去ったのだ。一九七九年、『ザ・リバー』のレコーディング当初からバンドを抜ける話がヴァン・ザントの口から出ていたのを思えば、とくに驚くことではなかったのかもしれない。いまや制作チームの重要なメンバーなのだからというブルースの言葉に(略)とどまってきたものの、一九八二年の『ボーン・イン・ザ・USA』のセッションのあいだに、ふたたび不満が膨らんでいた。ヴァン・ザントは新たな自分のバンド、ディサイプルズ・オブ・ソウルを立ち上げ[アルバム二枚やツアー]

(略)

ブルースは認めようとしなかったが、ふたりの距離は明らかに広がっていった。

(略)

「急に、ブルースがおれの意見は聞いていないってわかったんだ。通じあっていないんだってね。そう感じたのは初めてで、いい気分じゃなかった」。二〇一一年にこれを聞いたブルースは当惑した顔を見せ、肩をすくめる。「スティーヴは自分の好きなことについてはとことんうるさいからな。それにときどき、自分はちゃんと評価されてない、と思うらしい」

 ふたりの関係は緊張感を増し、よそよそしくなったあと、とげとげしさを帯びていった、とヴァン・ザントは振りかえる。「ブルースとの関係がちょっと危機的になってきてると感じていた。友情をこわさないためには離れることだと思ったんだ。このまま一緒にいたら、それまで意見がぶつかりながらも理性的でいられたのが、理性を失う方向に行くだろうと感じていた」。

(略)

 一九八四年二月、MTVのニュースがヴァン・ザントとEストリート・バンドが決別したと伝えると、ブルースは嫌悪感を露わにした。「こんなのでたらめだ!」と週末に訪ねてきていたギタリスト仲間、ニルス・ロフグレンに向かって吐き捨てた。「驚いたよ」とロフグレンは言う。「ふだんブルースは自分のことを表に出さないからね。どれだけ苛立ちを抱えてたかはわからない。うわさだとかいろいろに囲まれてね」。

(略)

[84年契約を切られたニルスにブルースが週末遊びに来いよと声をかけた]

「『もしギターが必要ならオーディションを受けるよ』と言うと、ブルースはおれを見て『そうか?』って言った」。

(略)

ヴァン・ザントに最後の説得をしたとき、ブルースは『ボーン・イン・ザ・USA』を取り巻く動きがどれだけ大きいかを説明した。(略)

ヴァン・ザントは言う。「ブルースはおれもしかるべき代価を受け取るべきだと真の意味で思ってたんだと思う。おれもプロデュースに参加していたし、アルバム制作に深くかかわっていたから」。ふたりは数時間にわたって話しあい、ディサイプルズ・オブ・ソウルをツアーの前座として参加させ、ヴァン・ザントが両方でプレイすることも検討した。だがブルースはこれまで前座を置いたことがなく――しかもこのツアーで自分のステージの時間を削ることはやはり考えにくかった――この案は却下された。ヴァン・ザントはブルースが商業的にさらに大きな成功を狙っているのにも違和感を覚えていた。(略)

これ以上世界的なスーパースターになろうとするのはばかげていると思えたのだ。(略)

「けんか別れとはちがったけど、いろんな意味ですごく感慨深い瞬間だった」とヴァン・ザントは言う。「(略)一緒にやってきた仲間がそれぞれの理由で別の道を歩いていくための別れだった。感慨があったし、残念でもあった。でもけっして敵対していたわけじゃなかった」

『トンネル・オブ・ラヴ』

「『ボーン・イン・ザ・USA』ツアーの終わりが結束の終わりだと感じていた」とマックス・ワインバーグは振りかえる。「(略)ツアーの終わりの時点で解散を意識した。(略)」それはみんな感じていた。「スターになるなんて、おれにはどうでもいいことだった」とクラレンス・クレモンズは二〇一一年に言っている。「いちばん気になったのはブルースとの関係だった。ブルースとバンドのあいだがよそよそしくなっていて、ジョンはそれを望んでいる感じがした。物事は変化していた。ブルースは変化していた」

(略)

ビタンは言う。「ジュリは愛すべき人だったが、ブルースのほうはちがう人間になろうとしているようだった。(略)ブルースの考えにはジュリの入る余地はなかった」

(略)

ブルースは結婚生活のもつれた糸をたぐり(略)言葉と音楽に紡いでいった。

(略)

 一九八七年二月、ブルースはトビー・スコットを呼び出し、新しいガレージ上のスタジオでデモ録音を手伝ってもらった。新たに設置したシンセサイザー、カーツワイル250は管楽器弦楽器、さまざまな鍵盤楽器、それにドラムマシンやベースギターのサンプル音が出せた。ブルースはトラックをひとつずつ重ねていった。まずシンプルなビートからはじめ、ハイハットなどパーカッションでアクセントをつけ、二小節のループをつくり、曲の最後までくりかえす。パーカッションが決まると、ブルースはギターを手に取り、あるいはキーボードの前に座って基本的なコードを弾き、ベースギターを録音し、それからカーツワイルでほかの鍵盤楽器の音を加え、管楽器弦楽器をかぶせ、ギターやパーカッションもつけ足していく。こうして多重録音とエフェクトが完成の域に達するまで三週間かかった。最終的にできたものを聴いて、ブルースはエンジニアとふたりだけでつくったバンドサウンドの臨場感に興奮した。「おい、レコードが完成してる」と彼は言った。おまけに作業は簡単で、リラックスさえしていた。「いままでつくったなかでいちばん楽しいレコードだ(略)

これなら、六人のミュージシャンに意見を言われることもない。おれが望み、おれが感じるとおりにできる。しかもすごくいいサウンドだ。どうしてこれがマスターじゃいけない?これはマスターになるべきなんだ」(略)

[ランダウも同意]「このまま売り出そう!」。だが、一度もEストリート・バンドに入っていない者の口から言われると、ブルースは考えなおした。「待ってくれ」と彼は言った。「おれにはバンドがある」。『ネブラスカ』のデモをソロレコーディングとして出したのは、歌の特異性が誰の目にも明らかだったし、フルバンドでの試みがうまくいかなかったからだ。だが、今度の曲はバンドソングだった。それをバンドで演奏しない理由はどこにもない。

(略)

[だがバンドに機会を与えたことは、メンバーを傷つける結果に]

 その方式は「打倒デモ」と呼ばれた。ブルースはミュージシャンをひとりずつラムソンに呼び(略)

「それでいい演奏だったら、彼らのパートを使った」とスコットは言う。「演奏がよくなかったら、ブルースのオリジナルパートを使った。きつかったよ。だってブルースはいつもデモのほうが気に入ったから」(略)

[ギャリー・タレント談]

「(略)[急に呼び出され、曲を聴かされ]『よし、チャンスをやろう』って雰囲気だ。それでアルバムが出たら、使われたのは一曲だけとか?結局彼らはすでにつくってたデモが気に入ってたんだ。だから屈辱的だったよ」

(略)

昔からのアズベリー・パークの仲間(クレモンズ、フェデリーシ、タレント)は憤慨していた。七四年組(ビタンとワインバーグ)は控えめに受け取っていた(略)

ロフグレンはブルースとのレコーディングではいつも上機嫌だった。「ほかの連中がうろたえるのも無理はないと思ったけどね」

(略)

[『トンネル・オブ・ラヴ』発売]

ブルースはソロツアーという考えを捨てると、五人編成のマイアミ・ホーンズを加え、いつものバンドを拡大したラインアップを選択した。

(略)

精巧に描かれた舞台背景(色とりどりのエデンの園、漫画の恋人たち、赤色で妖しく演出された「トンネル・オブ・ラヴ」の文字)、カーニバルの切符売り場(略)を含むステージでのオープニング寸劇などがあり、高度に構成された演劇色の強いツアーに、ありとあらゆる警鐘がメンバーの耳に鳴り響いた。「ブロードウェイの舞台みたいだった」と語るのはタレントだ。(略)

[ワインバーグ談]「[以前は]ブルースわれの一員だった(略)いまは完全に別物だ」。

(略)

 メンバーたちはさらに、このツアーでの待遇には新たなカースト制があることにも気づいていた。ブルースと上層部にいるマネジメントの人間数名はバンドとは別のホテルに泊まり、そこでは豪華なパーティー――プロモーターやレコード会社のお偉方から振る舞われるシャンパンやキャビアの祝宴――がセットになっていたのだが、Eストリートのメンバーはもはや含まれていなかった。

(略)

目ざとい人ならブルースが結婚指輪を外しているのに気づいたかもしれない。(略)

ツアーがはじまったころにはいつもいたジュリアンの姿が[消え](略)

いよいよ顕著になったパティ・スキャルファとブルースが行なうデュエット(略)

外部の人間にとってショックだったとしても――ブルースは本当にバックアップシンガーと浮気していたのか?――「ボーン・イン・ザ・USA」ツアーを内側から見ていた人間にとっては意外なことではなかった。

(略)

 ブルースが結婚指輪を外してバックステージに現れるようになると、ブルースとパティは互いの愛情を他のツアーメンバーに隠すことをやめた。ふたりはバックステージで抱きあい(略)[機中でキス]タレントと彼のガールフレンドはショックを受けた。

(略)

 ブルースとEストリート・バンドにとって、アムネステ・インターナショナルのツアーは爽快な気分転換となった。

(略)

「あのツアーがいちばん好きだった」とクラレンス・クレモンズは私に語った。「アフリカに行ったときなんて、観衆すべてが黒人だったんだ。ブルースのコンサートで、黒人をふたり以上見たのはあれが初めてだった。あそこの人たちはみんな明るい黄色や赤い服を着ていて、ジャカランダの木々は紫色に輝いてるし、それでおれはこう思った、わお!紫の木々、それに白人がいないなんて!ここは天国にちがいない!」

(略)

ブルースはとりわけ[ソロとして成功していた]スティングと親しくなった。(略)

「ブルースはよくわれわれのバンドを見ていた――ブランフォード・マルサリスとすばらしいミュージシャンたちのグループだ――そしてブルースも同じようにやってみたいと思っているのは明らかだった。ちがうミュージシャンのグループと組んでね」

解散通告にクレモンズ激怒

 一九八九年一〇月一八日、ブルースは電話帳を手に座り、この一〇年のほとんどの期間、恐れながらも思い描いていたEストリート・バンドの解散という任務を果たそうとしていた。(略)

「メンバーに電話をかけて、できるだけうまく伝えた。バンドがもう用済みとか、駄目になったとか、終わったなんて思っていない。それでも電話でこう言った。『ほかのことをやってみようと思うから、しばらくいてくれなくていい』。メンバーとおれにとって、すごく難しい話だ」。(略)

あっさり受け入れたメンバーもいる(略)タレントはブルースがけっして「終わり」とは言っていないと気づいた。「バンドを解散するとはひとことも言ってなかった」(略)

[リンゴ・スターとのツアーで来日中のクレモンズは、招集と勘違いして、できるだけ早く帰国すると答え、ブルースが解散の話だと訂正]

もうそのときにはクレモンズは茫然自失状態で、ホテルの部屋をめちゃくちゃにしたい衝動に駆られ

(略)

『それだけなのか!おれは自分の人生を、このバンドと、この活動と、この男と、この男の信念に捧げてきた。それなのに、おれが街を離れているときに、あんな電話一本で済ませるのか』

(略)

[運命の電話から一月後、ブルースはビタンを夕食に誘い、ビタンの宅録機材の話になり、ビタンの曲を聴き、衝撃を受け、半日で歌詞をつけ、次のレコードを一緒に作ろう誘う](略)

「みんなにはその話をしなかった。(略)

正直に言えば、おれには生き残った者としての自責の念があった。(略)」

(略)

 エンジニアのトビー・スコットとビタンとの二人組バンドスタイルでのホームデモが始動した。

(略)

 一九九一年の冬にスタジオに戻ったが、みんなが思い描いていた春のリリースの締め切りはすぎていった。(略)山積みになった完成曲をふるいにかけてアルバム一枚ぶんの作品集にするには、夏のなかばまでかかる。ボブ・クリアマウンテンがやってきてミキシング術の儀式をおこない、ブルースがこのプロジェクトに『ヒューマン・タッチ』——愛を復活させたパティとのデュエットにちなむ――という仮の名をつけたところで、彼らは制作プロセスの中断を宣言した。「スタジオにいたアシスタントが『やった!ついに!』と口々に言った。開始から何年もたった気がしていたからね」とスコットが言う。「『完成じゃない。中断するだけで、完成したわけじゃない』と言ったよ」。一週間後、エンジニアの電話が鳴った。ブルースからだった。「ブルースは言ったよ、『ヘイ、トビー。どこかにレコーディング機材がなかったか?隣の家に設置できないかと思ってね』」(略)

ブルースは(略)気づくとアルバムをまるごと書きあげていた。(略)

プロトキンが言う。「『ヒューマン・タッチ』から離れてみたことで、詰まっていたものがほぐされて、なんと!たった数日でまったく新しいアルバムを手にしていたんだ」

 どの曲をとっても、ここ二年以上にわたってブルースが苦労してスタジオで生み出してきた洗練された楽曲群の仲間のようには聞こえなかった。生々しくて緊迫感があり、3コードか4コードの土台にハンマーで打ちつけたような構造だった。

(略)

『ヒューマン・タッチ』では数年にわたる苦闘を要したのに、いったいどう方向転換したら、アルバムもう一枚ぶんの曲をたった一か月でつくり、レコーディングし、完成させることができるのか?「『ヒューマン・タッチ』に費やした作業はすべて」とブルースは事もなげにデイヴ・ヘプワースに説明した。「『ラッキー・タウン』を三週間でつくりだせる場所にたどり着こうとするおれのもがきだった」

(略)

ふたつのアルバムをスティーヴ・ヴァン・ザントに聴かせると(略)『ヒューマン・タッチ』の収録曲を全部ゴミにして、レコーディングをEストリート・バンドでやりなおすようアドバイスした。「あいつの言うとおりだったかもしれない!」とブルースは言う。「ただ、あのときはそういう気分になれなかった。というより、それこそしたくないことだった。でも『ラッキー・タウン』を聴かせると、あいつは『いいね、こっちのほうがいい』と言ったんだ」。それでもヴァンザントは、『ヒューマン・タッチ』の完成品に感じた冷たさには我慢がならなかった。ブルースは言う。「あいつは自分本位な気持ちでそう言ったわけじゃなかった。もうバンドにはいなかったからね。なのに、しつこく言うんだ。『なあ、バンドとやったほうがよくなるって。あいつらのプレイのほうがしっくりくるだろ』って。たぶん適切なアドバイスだったと思う」。ランダウは同意しなかった。「『ヒューマン・タッチ』には途方もない時間を費やした(略)『ヒューマン・タッチ』には、すばらしい作品と、血と汗と涙がありあまるほど詰まっていると思う。だから私としては混乱するばかりだった。結局、ブルースはすぐに両方とも出すのがベストだと結論を下したよ」(略)

クレモンズ「おれは神を信じるみたいにブルースを信じてた」

 クレモンズはいろいろと話してくれた。彼とブルースが並び立ち(略)互いの輝きを浴び、増幅させた数々の場面を思い出していた。「昔はクレイジーな踊りをしてたな。ステージを滑るように横切ってね。すごく自然で、すごく神秘的だった。あいつがおれの腕のなかに滑りこんできてキスをしたときとかね。突然で、出し抜けだったし、それですごく盛り上がるようになった」。(略)

ブルースがインスピレーションを求めて別の方向を向くと、クレモンズは憤慨した。そうせざるをえない理由をわかったとしてもだ。「あれは結婚みたいなものだからな。すごく愛してるからこそ相手に期待を抱く。だけどああいうことが起こっても、相手はたぶん気がついてもいない。だからおれは、あの場で全力を尽くしたのに、ほとんど見かえりがないって思ったわけさ」。クレモンズはほぼ九〇年代を通じて、そんなふうに感じていた。そして一九九八年に電話が鳴り、すべてはあっというまに元どおりになる。「ブルースは自分の信じるものにすごく情熱的で、まわりにいたら、それを感じないわけにいかない。それがこっちの情熱の一部にもなるんだ」とクレモンズは言った。「おれは神を信じるみたいにブルースを信じてた。そういう気持ちだった。ブルースはいつも、信じているものにまっすぐで、ひたむきだったから、そばにいればそれだけで信者になる。人はあいつを見て思う、『こうあるべきだ、こうなるべきだ』って。きみは何かに人生をささげる。ブルースはそれを象徴してるんだ」

(略)

フルアルバム・ショー

 観衆の盛り上がりのなさを感じ、ブルースはめったに演奏しない曲を復活させることになったが、その多くは終了間際に観客が手書きのボードで「ニューヨーク・シティ・セレナーデ」や「アイム・オン・ファイア」などを求めたことに刺激されたものだった。(略)そうしたボードが最初に登場したのは九年前の再結成ツアーのときだ。(略)

 その当時、ブルースは名づけて「いまいましいボード」にひどく悩み、コンチネンタル・エアラインズ・アリーナでの一五日間の演奏の最後に一度だけ「ロザリータ」を演奏したのだが、それは観衆のなかに「ロザリータ」のボードを見なかったからだった。二〇〇八年の「マジック」ツアー中、ブルースはボードに対して一八〇度方向転換し、ステージにボードを渡すようにかならず呼びかけ、リクエスト曲をふるいにかけて自分が好きなものを選ぶようになった。彼はあまり知られていない曲や、Eストリート・バンドのレパートリーではないめずらしいオールディーズのリクエストをとりわけ好み、それが「バンドを困らせろ」と呼ぶ恒例のコーナーになった。(略)

ある夜は、ZZトップの「アイム・バッド、アイム・ネーションワイド」。次はクエスチョンマーク・アンド・ザ・ミステリアンズの「96つぶの涙」。あるいはトロッグスの「恋はワイルド・シング」、キンクスの「ユー・リアリー・ゴット・ミー」。(略)

 二〇〇九年秋にツアーが最終段階に入ると、ブルースはフルアルバム・ショーのシリーズをはじめた。バンドとともにとくに人気の高いアルバムのひとつを最初から最後まで再現するというものだ。まずはシカゴで『明日なき暴走』を全曲演奏し(略)つづいて同じ会場で『闇に吠える街』や『ボーン・イン・ザ・USA』をテーマとしたショーをおこなった。(略)

ニューヨークに戻ると、マディソン・スクエア・ガーデンのショーでは『青春の叫び』を一曲一曲再現し(略)、それから二枚組『ザ・リバー』を全曲演奏した。その後数回『明日なき暴走』ショーがつづいたが、ブルースはツアー最後のコンサート、バッファローでのアリーナショーにデビュー盤『アズベリー・パークからの挨拶』の全曲演奏をとっておいた。元マネージャーのマイク・アペルとともに飛行機で移動し、バックステージにアペルを連れてくると、ブルースは開演前のバンドの円陣にも引きこみ、輪のなかのひとりひとり――クレモンズ、タレント、アペル、ヴァン・ザント、そしてその場にはいないフェデリーシとヴィニ・ロペス――に、つまり最初のレコーディングを、そしてその後の活動をずっと支えてくれた面々に声をかけた。ステージ上でブルースはこのショーを元マネージャーにささげた。(略)

「このレコードがすべてをゼロのずうっと下から、そう、一のレベルまで引き上げてくれた(略)だから今夜はこのショーをドアのなかに入れてくれた男にささげたい。マイク・アペルが今夜ここに来ている。マイク、これはきみに贈る」。そこで軽快なギターリフから「光で目もくらみ」がスタート

(略)

音楽が静まってブルースがバンドの誕生にかかわる長話をする中盤のコーナーに入ると、彼は夢でも見ているような声で、それまで語ってきたバンドの物語の原型となる出だしの台詞をはじめた。

「そこにおれはいた……ニュージャージー州アズベリー・パークの嵐の、嵐の夜だった……」

 観客がどっと沸く。

「北東の風が吹きこんで、そこらじゅうの外灯の柱を揺さぶり、キングズリー・アヴェニューを洗い流していた。おれとスティーヴは町の南のはずれの小さなクラブにいた。いきなりドアが開け放たれ、通りを吹き飛んでいった。大きな男の影が入ってきた。おれは見た。キング・カーティスか?キング・カーティスがおれの夢から出て、ここにやってきたんだ!いやちがう!ジュニア・ウォーカーだ!そいつはステージに近づいてくると……」

 険しい目をした無表情のクレモンズがブルースのマイクに近寄り、独特の不吉なバリトンヴォイスで言った。

「あんたらと演りたい」

(略)

 クレモンズがブルーズスケールを駆け上がるうなりを響かせる。

「そのときおれは自然の力が湧き出るのを聞いた。そして夜の終わりに、おれたちはお互いを見つめて、……」

 ふたりの男は顔を見あわせ、互いの目を長いあいだ見つめると、まったく同時にゆっくりうなずいた。クレモンズは観客に向きなおり、口にサクソフォンをあて、腰にテレキャスターをかけたブルースにあわせて体勢を低くすると、アイコンとなった『明日なき暴走』のポーズで彼の肩によりかかった。

 「そこでおれたちは車に乗りこんだ。ものすごく長ーいキャデラックに。車で町はずれの森を通り抜けた。するとひどく眠くなってきた。おれたちは長い、長い、長い、長い夢に入った。そして目が覚めると……」

 ブルースは間を置いて、観客はつぎはどうなるのかと耳をそばだてた。

「おれたちはニューヨーク、バッファローにいた」

 雪崩のようなドラムとともに曲は最後のヴァースに突入し、宇宙への鍵をイグニションにぶら下げたまま駐めてあるあの古い車にブルースを押しこんだ。

(略)

一九六八年の暖かい夏の午後

一九六九年、ティンカー・ウェストはボードウォークにたむろする長髪の変人四人組に自分のサーフボード工場を開放し、サウンドシステムをつくり、東海岸一帯と全米をくまなく車で連れていくことに時間と資金を費やした。同じ感情がマイク・アペルとジミー・クレテコスを突き動かし、ふたりはすべてを投げ出して、ひょろっとしたニュージャージーの少年に人生を賭けた。それに感化されてコロムビアの幹部たちも上司の襟首をつかんで、レーベルにブルースを置いておくように主張した。そのことにより感情を揺さぶられたジョン・ランダウがタイプライターに向かい、自分の評判を賭けてほぼ無名の男をロックンロールの生きている未来と呼んだ。初期のブルースの支援者たちを表現するのに"一二使徒"という言葉を使うのを聞いて、ジョン・ランダウはにやりとする。「それなら私は何なのかわかるだろう?(略)パウロだよ」

(略)

 小さな活気ある工場の町。街路樹が並び、つつましいがよく手入れされた家がつづく地域。(略)一九六八年の暖かい夏の午後、サウス・ストリート68番地の裏にあるこの庭で、小さな女の子が年の離れた兄と芝生の上に座っていた。ふたりで蝶を見つめ、ときどき手から手へとボールを投げあう。パム・スプリングスティーンは六歳で、ブルースは一八歳(略)兄の黒い髪は重く肩にかかっていたが、妹はヒッピーとストレートのことは何も知らなかったし、世代間の戦いといったことも知らなかった。ブルースは妹が退屈すると物語を話し、おなかを空かせれば軽食をつくってやった。妹の靴ひもを結んで彼女を抱き上げ、ギターを弾いて歌を聴かせ、妹が外で遊びたがるとギターを置いた。しばらくすると、ブルースはボールを拾い上げ、空中に投げはじめた。キャッチしたら少し高く投げ、それからまたもう少し高く投げる。「そこで兄が言ったの、『このボールを空高くまで投げて、落ちてこないようにできるよ』」とパムは言う。「わたしは言ったわ。『やって!やって!』」

 ブルースは立ち上がって芝生の上で両足を踏ん張り、深呼吸をすると頭を傾け、青い空を流れていくふわふわした雲を見やった。もう一度深呼吸すると(略)全身の力をこめてボールを空に向かって投げた。「ボールはぐんぐん上がっていく(略)わたしはただじっと見ているの」。ボールは上昇をつづけていた。(略)白いボールはどんどん小さくなっていった。「ボールが上がっていくのを見ながら、ずっと、ずっと待っていた」。ブルースはしばらくのあいだ一緒に眺めてからキッチンに戻っていき、パムはひとりそのまま立ち尽くし、両目を見開いて透明な青い空の奥深くを探していた。

(略)

パムがたしかに知っているのは、自分が目にしたものだけ。(略)ボールは落ちてこなかった。

(略)

 

 

脚注★3――ギターを中心に人生がまわっている男にしては、ブルースはコレクター向きの楽器やエキゾティックな楽器にはほとんど関心がない。「ギター愛好家になったことはない(略)オーディオ機材にはあまり関心がなくてね。おれの目標はいたってシンプル、うまくいくものを演奏して、好きな音を聴くことだ」。一本の伝説的なテレキャスターとエクスワイヤの雑種は別として、彼のギターはどれも取り替え可能だ。彼のエレクトリックギターの大半は、一九五〇年代モデルのテレキャスターのリイシューのストックから提供されたもので(数本のムスタングなど、ほかのモデルも混ざっているが)、それをギター職人ケヴィン・ビュエルが解体して、配線やエレクトロニクスに神のみぞ知る何かを施し、ボディとネックに手を加えて見た目も感じもまるで愛用して摩耗した斧のようにつくり変えている。(略)

[関連記事]

kingfish.hatenablog.com

 

ブルース・スプリングスティーン その3 契約闘争

前回の続き。

『明日なき暴走』

[8月ボトムラインで五夜連続一〇回公演は完売]

ルー・リードを連れて現れたコロムビアの元社長クライヴ・デイヴィスは、一九七二年に出会ったシャイなフォークシンガーがここまで化けたことをにわかには信じられなかった。

(略)

[社長ランドヴォール命令で販促は25万ドルに]

「涙のサンダー・ロード」の錆びついたオルゴールのような出だし(略)若くクリアに聴こえるブルースの声が、夕暮れのそよ風のなかを歩く女の子を迎える。彼は社会のつまはじき者、彼女はアウトサイダーで、どちらもけっして訪れないチャンスを求めて祈るしかない。(略)

「ほら、夜がぱっくり開き/この二車線がどこへでも連れていってくれる!」。バンドは盛大に音を響かせるが、ブルースは驚くほど豊かでパワフルな優しい声を、全体にかぶせていく。「あれはまちがいなく[オービソンの]レコードからきている」とブルースは当時の新しい唱法について言う。「あの大らかな、丸みのあるオペラ調のトーン。[オービソンの]声の響きが大好きだったから、試しにやってみた。『よし、やるぞ』ってね。あの域までは行けなかった。でも、まあまあのところにはたどり着いたよ」。実際、ステレオのスピーカーはロマンティックな衝動で吹きこぼれんばかりだ。

(略)

 ブルースの雑誌インタビューはカバーストーリーでなければお断り、という宣言(略)を発してから数か月後、アペルはニューズウィーク誌の編集者から電話を受けた。ブルースを表紙にすると約束してもいいという。

(略)

[しかし噂]によると、ニューズウィーク誌は、ダイナミックな新人アーティストというより、音楽業界がつくり出した最新のポップアイドルとしてブルースに焦点を当てるつもりらしい。

 タイム誌の文化欄のライターだったジェイ・コックスは、ニューズウィーク誌の進行中の企画を聞きつけると、競合誌が記事の対象をこきおろそうとしていると考えた。ブルースの最初の二枚のアルバムのファンであり、『明日なき暴走』をアメリカのロックンロールの目録に加えられた大事な作品とみなしていたコックスは、ニューズウィーク誌の企画に二重の憤りをおぼえた。同じ街のライバルにスプリングスティーンの記事を独占されてはたまらないし、何より、どう見ても悪意に満ちたパッケージで彼を包みこもうとしているのが気に入らない。

(略)

両誌の編集者たちにとって、記事の一騎打ちはチキンレースとなった。無名に近いポップスターを同じ週の表紙に起用するのはばかげているとわかっていても、引き下がることは考えられない。

(略)

ニューズウィーク誌のオースとのインタビュでは、こんなふうに名前が売れるのは迷惑だと述べている。「現象って何のことだい?(略)おれたちは車であちこちまわってるし、現象なんかじゃない。誇大広告は邪魔になるだけさ」。

(略)

ニューズウィーク誌のオースの記事(略)は、「ポップスターのつくり方」と表紙の見出しに謳われたが、内容はブルースのショーや音楽に対する好意的な記述に、ときおり辛辣な分析が挟まれるといったものだった。

(略)

一方、コックスとタイム誌は、「涙のサンダー・ロード」の「夜には魔法がある」というイメージに的をしぼっていた。

(略)

 周囲の人間が記事の内容に気をもんでいたのに対し、ブルースはこのふたつの記事が存在することで、自分の音楽、評判、魂がスポットライトに食い尽くされる結果になるのではないかと、それだけが心配だった。最初のうちは自分を責め、みすみすありきたりの有名人になったことに腹を立てていた。「ブルースは名声は悪だと気に病んでいたよ」とスティーヴン・アペルは言う。「名声で人生が狂った人たちを見ていたからさ。(略)」

(略)

[アペルらがプロモーションの勝利に酔いしれても]

ブルースはロサンゼルスのホテルの部屋で悶々としていた。「あれ以上のことは誰にも望めやしなかった」とスティーヴ・ヴァン・ザントは言う。「なのにあいつはいらいらしてさ!けど、おれは笑っていた。楽しいと思ったね」。

(略)

[売り上げは70万枚を超えたが]

週末の給料にはうれしい誤算もなかった。「レコードがヒットするのはいいものさ」とタレントは言う。「でもおれたちはこう思っていた、『レコードがヒットしてるって実感がないな。まだ極貧の気分だ』」

 全米がスプリングスティーン熱にのみこまれたといった感触もなかった。(略)アメリカ南部、中西部、西海岸の大半では無名のままだったからだ。

(略)

だが、会場がどこだろうと観客が何人だろうと関係なく、ブルースのショーは以前にもまして激しくなっていた。ニューアルバムが生み出した興奮のせいでもあるし、一発屋で終わるのではないかというブルースの底知れない恐怖のせいでもある。たいていの晩、ブルースは恐怖と不安をぐっとのみこみ、舞台から観客に向けて自分を解き放つのに欠かせないロケット燃料に変えた。

アペルとの契約闘争

アペルがブルースと交わした三つの契約はどれも五年縛りで、このとき五年めに差しかかっていた。(略)

[ブルースが売れたら]すぐに自分の取り分を減らすと約束していたが、そのときがやってきたのは明らかだった。ただし、そのまえにランダウがやってきていた。あるとき、ブルースがランダウに、自分も雇った弁護士もアペルの契約書を真剣に確認したことがないと言うと、ランダウはできるだけ早く確認するようけしかけた。言われたとおりにしたブルースは、その過程で驚きと混乱、怒りに引き裂かれる。重要なものはすべてアペルに権利を握られていたのだ。ブルースの金、楽曲、レコーディングキャリア、何もかもが。

(略)

アペルはさらに驚くべき事実を明らかにする。音楽出版者の立場からコロムビアCBSと交渉し、『明日なき暴走』の印税として前払金五〇万ドルを受け取ったというのだ。(略)すでにその全額がローレル・キャニオンの法人口座に入金されていた。

(略)

 ポップミュージックの世界ではよくあることだ。だが、ブルースとしては、あばらにきつい一蹴りを食らったに等しい。ブルースとアペルの関係は型どおりのビジネスなどではなかったからだ。一九七二年の冬に握手を交わした瞬間から、ふたりは聖戦の戦士、栄光へと行進する戦士だった。契約は書いてあるとおりのものでしかないが(略)ふたりが象徴とみなした握手と約束にはもっと大きな意味があった。少なくともブルースはそう信じていた。

(略)

ブルースはアニマルズの「イッツ・マイ・ライフ」の出だしを歌いはじめた。(略)

 父親や家族、子供のころの話、あらゆる過去の恐怖がいまや、アペルとの悪化しつつある関係とからみあい、強烈な不安ともつれあっていた。

(略)

 おれの人生だ、やりたいようにやる!

 

ギターをかき鳴らし、筋肉にぐっと力をこめ、張りつめた首筋に血管を浮かべて、ブルースは最後に吼えた。

 

 おれに……押しつけるな!

 

(略)

[ランダウの顧問弁護士マイク・メイヤー]は契約書にざっと目を通すとふるえあがった。現行の業界水準を考えると、ほぼすべての条項および下位条項が悪夢に思える、とメイヤーは言った。(略)

のちにブルースの法律業務を引き受ける(略)芸能専門の弁護士、デイヴィッド・ベンジャミンも(略)契約書を読んで絶句する。「[この契約書には]ありとあらゆるトリックが用いられていた」。じつに巧妙で、アペルがひとりで思いついたとは、あるいは思いつけたとは考えにくい、とベンジャミンは言う。

(略)

おそらく、実際に契約書を書いたのはアペルの弁護士ジュールズ・カーズだろう、とベンジャミンは推測する。「彼は大昔から業界にいる古株だった」。マネジメント、制作、出版の三層からなる契約。ブルースの楽曲の完全な所有権、出版による収入の格差、ブルースとコロムビアとの契約上の隔たり。「昔のトリックだらけだった」

(略)

[アペルの元アシスタント、ボブ・スピッツを訪ね苦境を訴えるブルース]

『頼むから、思い出せることを何でも、おれのためだと思って何でも話してくれ』

(略)

「ブルースの[印税の]小切手が手に入ると、僕らはよく五四番通りと六番街の角のアップル銀行に行って換金した(略)[マイクは]その金をリーヴァイスのジャケットのポケットに突っこんで、何もかもそこから払うわけさ(略)

マイクは言ってたよ、『全部取り戻すさ!』」(略)

この点については反論しにくいところがあった。アペルが自分の金もまったく同じように扱い、ローレル・キャニオンの口座残高が少なくなれば、自分の給料もぎりぎりまで減らすことをスピッツは知っていたからだ。(略)

世界を征服しようというときにきちんと帳簿をつける時間など、いったい誰にあるだろう?(略)

音楽がけがされず、ヴィジョンがずっと明確なら、あとは何とかなる。アペルもそう考えていることをブルースは知っていた。

(略)

アペルには古い契約を破棄して、より公平に調整された条件で働くことに同意してもらう[ということで話はつきかけたが、こんな有利な契約を破棄するのはばかげていると父親に言われたアペルは翻意、これにブルース激怒、民事裁判へ]

「ザ・プロミス」「おれに嘘をついた!信頼を裏切った!」

[ブルースの]代理人たちがCBSに対し、八月にランダウをプロデューサーブースに迎えて四枚目のアルバムのレコーディングを開始する予定だと伝え[ると、アペル側も書簡で反撃](略)

そのようなレコーディングはおこなわれないと全関係者に通告する。レーベルに対するブルースの立場は、CBSとの契約の実際の署名者であるローレル・キャニオンの下請業者としてのものであるため、契約上、ミュージシャンはアペルの指示に従って仕事をし、録音物を制作会社に渡さなければならない(略)ランダウのブルースのレコーディングへの参加を一切認めないことを表明(略)

[ブルース側がアペルを詐欺&背任で訴えると、アペルも契約不履行で訴訟返し。証言録取においてアペルの弁護士の動揺を誘う質問や]

ロックスターの放埒さを暴こうとする質問(「一九七五年のツアーで高級ホテルに泊まりましたか?」「あなたが通常スイートルームに泊まるというのは事実ですか?」)を何度も突きつけられ、ブルースはかっとなった。大声を出した。悪態をつき(略)

怒りのあまり会議テーブルの上に乗って飛び跳ねた。(略)

大失態としかいいようがなく、ブルースは判事に呼び出され、このままでは自分の証言が原因で訴訟が無効になりかねないと説明を受ける始末だった。(略)

[ブルースは代理人を変更し]法廷戦術はブルースの激しい言動の奥にある生の怒りを活かしたものに変化する。(略)ブルースとの関係が修復不可能だと納得できるまで、アペルが示談にすることはないと気づいたのだという。ふたたび証言録取がおこなわれ、ブルースは今度も熱く語ったが、発言の内容とそこで見せた憤りの裏には確かな戦略があった。「おれはマイク・アペルのことを見てなくて、気づいてみたら、自分の書いたものをこれっぽっちも所有していなかった……彼はおれが出版権の五〇パーセントを所有していると言ったが、それは嘘だった……だまされていた……[『明日なき暴走』」の一行一行がおれであって、あの[卑語につき伏字]歌は一行だって彼のものじゃない。それをおれは所有していない。紙に印刷したいと思ってもできない。だまされていた」。ブルースはコーラスのように同じフレーズをくりかえした。「彼はおれに嘘をついた!」「おれに対して誠実じゃなかった!」「信頼を裏切った!」

 ブルースがアペルをどう思っていたかは、当時ブルースが書いた「ザ・プロミス」という物憂げなバラードからもわかる。(略)歌詞はブルースの物語をストリートレーサーの言葉で語っていた。(略)

「一〇〇万ドルのサウンドを探す」がむしゃらなロックバンド、ハイウエイ9号線、そしてサンダー・ロード(略)「ザ・プロミス」では、そうした青年期の光景がことごとく盗まれ、打ちのめされ、死んだものとして道ばたに捨てられている。最後にレーサーは自分を幽霊とみなし、身も心も空っぽになって荒野をさまよう。「約束が破られても人生はつづく、魂の奥にあるものを盗まれても」

(略)

初期ヴァージョンの「ザ・プロミス」を(略)九か月にわたる通称「訴訟ツアー」を通じて少しずついじりながらプレイしていく。「ザ・プロミス」はたちまちファンに気に入られ(略)

パラディアムで見せたひときわ激しい演奏では(略)

ブルースはひとりスポットライトを浴びて立ち、歌うように静かに語りだした。

 

おれとおまえだぜ。おれとおまえだぜ。おまえが約束したあの夜をおぼえてる。おぼえてる、おぼえている、あの夜を。あの夜おまえは約束した……おれとおまえだと誓った、おれとおまえだと約束した。おれとおまえだと約束した。

(略)

子供たちが鐘を鳴らすとき……おれたちは誓った。誓った。誓った。これでいくと言ったんだ!

 

 そこでピアノと鐘の音が響きあって大きくなり、ブルースの声が激しく高ぶっていく。

 

おまえは言った……これでいくと!(略)

おまえは言った。約束した。約束した。そして嘘をついた。嘘をついた!嘘をついた!嘘をついた!嘘をついた!

ブルースの日常

 ツアーと訴訟手続きの合間に自由な時間ができると、ブルースは新しいガールフレンドと一緒にすごした。(略)

ジョイ・ハナンにとって、ブルースとの思い出はどれもタミー・ワイネットの「スタンド・バイ・ユア・マン」のサウンドとともに呼び覚まされるのだという。(略)一時期、ブルースはこのワイネットのカントリーの傑作をまる一か月間かけつづけた。「ブルースはカントリーミュージックが、あの鼻声が大好きだった。巧みなフレーズを褒めちぎってもいたわ」。ブルースは気に入った曲がかかると、ラジオにあわせて大声で歌った。猛吹雪の日にハナンの住むアズベリー・パーク界隈を運転しているとき、地元のラジオ局からフランク・シナトラのバラードが流れてくれば、車を道路脇に寄せ、ガールフレンドの手を取って通りにそっと連れ出すと、街灯を浴びて雪が降りそそぐなか、ハナンの耳もとで歌いながらワルツを踊った。

 ブルースは仲間とともにすごすのも好きだった。映画を観たり、クラブに行ってビールを引っかけたり、バンドを偵察して、お呼びがかかればステージに上がって何曲かジャムをしたりした。(略)

スターが、一ブロックもつづく行列の最後尾に立ち、ポケットをほじくりかえして三ドルの席料を探しているのをストーン・ポニーのオーナー、ジャック・ロイグが見かけ[中に入れたことから](略)

ブルースはストーン・ポニーを自宅の居間の延長と考えるようになる。定期的に通ってカクテルを飲み、店がてんてこ舞いになれば、カウンターの向こう側に移ってバーテンダーの仕事を無償で手伝った。(略)

勘定を計算して正確な釣りを渡すことに興味などない。(略)

「あのころ、私はブルースのせいで毎晩ひと財産をふいにしていたはずだ」とロイグは言う。「でもそれでずいぶん楽しませてもらったから、そんなことは気にしていられなかったね」

(略)

スーパートラックを運転中、路肩に停車させられたブルースは、運転免許証も車両登録証も提示できなかった。自分はブルース・スプリングスティーンだと伝えようとしても、警官たちは目を丸くしただけで、手錠を取り出し、ブルースを留置場に連行した。「おれが誰なのか信じてくれない」とブルースはかほそい声でセグーソに言った。「そのへんに『明日なき暴走』のアルバムが転がってないか?」。ロードマネージャーはアルバム何枚かをつかみ、ブルースの運転免許証と車両登録証をもって、ボスを迎えにいった。警官たちは数枚のサイン入りアルバムを手にすると、ブルースの背中を軽く叩き、これからはもっと安全運転を心がけるようにという親切なアドバイスとともにブルースを家に帰した。

財政難でバンド崩壊の危機

現金がいまだにアペルに管理され、アペルの弁護士が、法律上のいざこざが解決するまで、ブルースのコンサート収益をすべて差し押さえる作戦に出たからだ。結果として、ブルース、バンド、そしてクルーが苦境に立たされた。ツアーの活動資金が不足したのだが、そもそもロードに出なければ、現金収入を得て、バンド、クルー、ローディといった従業員に給料を支払い、仕事をつづけさせることができない。

「おれたちはまえからすかんぴんだったが、いよいよすっからかんになった」とギャリー・タレントは言う。「すごいレコードをつくったのに、やった甲斐がなかった。何ひとつ。極貧状態だった」。

(略)

財政難を前にブルースも多少譲歩し(略)バスケットボールアリーナで公演することにした。ただし、特注の黒いカーテンで音響を改善し、親密な雰囲気を保つ目的から視界が最悪のブロックを閉鎖することは譲らなかった。「ブルースは断固反対だった」とセグーソは言う。「でもアリーナでやらないと、みんなに見あった給料を払えないし、ロードでショーをつづけることもできなかった」

 地元に戻ると、バンドのメンバーはさらに厄介な問題に直面した。もはや安定した収入は保証されない――莫大な金額が法律のブラックホールに吸いこまれ、何週間も借金を抱えるはめになり、日々の生活が苦しくなった。「明日なき暴走」の成果として期待していたボーナスや昇給が幻となっただけになおさらだ。

(略)

 全員、ブルースと共倒れするしかないのだろうか?(略)

ビタンとワインバーグのふたりは、オファーを受けてミートローフの『地獄のロック・ライダー』のセッションで演奏していた。ブルースはいい顔をしなかったが、ふたりのメンバーが困難を乗り切ろうと失業手当に申しこんだときにはさらに渋い顔をした。(略)

ある日、ブルースがリハーサルから先に帰ると、残ったミュージシャンたちは、荷物をまとめて、それぞれの道を進むことにするかどうか話しあいをはじめた。(略)

「正真正銘の危機だった」とヴァンザントは言う。「(略)『まずいぞ、このままじゃおしまいだ!どうにかしてバンドをつなぎとめないと』」。

[ヴァンザントに泣きつかれたはスティーヴ・ポポヴィッチは]

おあつらえ向きの話をもちかけた(略)ロニー・スペクターと契約したのだが、すでにビリー・ジョエルが彼女の復帰アルバムの第一弾シングルとなるロネッツスタイルの曲「さよならハリウッド」を書いている。あとは録音に協力してくれる偉大なロックンロールバンドが必要だ。(略)

[最低賃金の倍額]「五〇〇ドル、六〇〇ドルといった話だった。全員の給料の三週間分さ」。ロニー・スペクターのファンであり、バンドの財政難を痛感していたブルースはこの副業を認めたばかりか、みずから参加してギターを弾いた。全員が小切手を家に持ち帰り、かくして嵐はおさまった。「解散の話は二度と出なくなった」とヴァンザントは言う。

(略)

ツアーの資金は依然として必要だった(略)

プレミア・タレントの代表フランク・バーサローナが(略)一〇万ドルの融資を申し出た。(略)ブルースの心をすっかり魅了する「誠意と握手」の取引でもあった。

(略)ブルースはプレミア・タレントと契約を交わした。

(略)

 そのころ、マイク・タンネンはイェトニコフを相手につぎのような合意を取りつけていた。アペルとの問題が解決され次第、ブルースを直接CBSと契約させる――そして今回は、アルバム一枚の売り上げにつき一ドルというスーパースター級の印税とすると。

(略)

ブルースとアペルの弁護団は春のあいだじゅう協議を重ね、一九七七年五月に合意に達した。アペルは現金八〇万ドルを受け取り、ブルースがローレル・キャニオンから出版した二七曲の出版権の五〇パーセントを保有し、それ以外はすべて、今後の楽曲の権利も含めてブルースのものになった。

 アペルが脅威ではなくなると、ブルースの目に映ってい悪魔のようなイメージは薄れ、かつての姿が現れてきた。(略)

いまなら彼からもっと剥ぎ取れる――丸裸にもできるかもしれない――と弁護士から知らされても、ブルースは首を振った。「あの男を傷つけたくはない(略)離れたいとは思う。ただマイクは必要なときにそばにいてくれた。何を手に入れるにしろ、その権利はあるのさ」

『怒りの葡萄』、「おれは近くにいると危険な人間だった」

 ブルースはダークなユーモアをまじえて家族を描いたアメリカ南部の作家、フラナリー・オコナーの作品に引かれていたが、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』『殺人保険』をはじめ、ジェームズ・M・ケインの犯罪小説に出てくる鬱屈した登場人物にも、自分に近いものを感じていた。(略)

暗黒小説の破滅的な空気は、カトリックとしてのブルースの精神的アイデンティティに共鳴するところがあった。(略)

すべてを見通す神の目に裁かれる一方で、神の考えははかりかねる。そんな嵐のような神に監視されて生きるほど暗黒なことがあるだろうか?

 映画にこめられたメッセージを読みとろうとするランダウにならい、ブルースも好きな西部劇やB級映画を映画の歴史やテクニックの観点で見るようになった。

(略)

また、ハンク・ウィリアムズをはじめ、カントリー音楽の重要なソングライターの曲を聞いたブルースは、無駄をそぎ落とした曲を書くようになる。少ないコード、ストレートなメロディ、率直な、会話のような詞。(略)

「(略)すべてをそぎ落として、飾らず、まっすぐなものをつくろうとしたんだ」

 ブルースにきわめて大きな影響をもたらした転機は(略)[深夜のテレビ]

恐慌時代、生活に窮した農民がどうにか生き抜こうとする姿を描いた古い映画だった。ヘンリー・フォンダがオクラホマから流れてきた貧しい農民、トム・ジョードを演じていた。(略)

[途中から観たので作品名はわからず、翌日、ブルースから話を聞いたランドウはすぐに『怒りの葡萄』と気付いた]

「あの映画が、ストーリーを明確に示してくれたというのかな。あの映画には自分の曲のほとんどと響きあうものがあった」

(略)

「一発当てたのはたしかだ」とブルースはジムニーに言っている。「でもおれは……莫大な借金を背負ってアズベリー・パークに戻ったんだ」(略)

東海岸を中心とする一部の熱狂的なファンのほかに、自分を忘れずに待っていてくれる人がいるのだろうか(略)

いまやロックンロールの最先端はクラッシュやセックス・ピストルズ、ラモーンズといったむき出しの攻撃的なサウンドが特徴になっていた。

(略)

「これが最後のレコードになるかもしれない。そう思ってた」とジムニーに語っている。「持ってるものすべてをいま、このレコードに賭けなきゃいけない。もうあしたは来ないかもしれない――いましかないんだ、と」

(略)

有名になったことでブルースはすでに地獄に落ちた気分だった。そして新しいアルバムが失敗に終わっても、世の中から忘れられて地獄に落ちる。いずれにしても地獄なのだ。(略)

暗い影が切実に何かを求める気持ちをかき乱し、それに火をつける。ちょうどカリフォルニアの家の暗いキッチンで燃えつづけていた父親の苦悶にさらに火をつけたように。「[あの当時書いた]曲は、そのとき頭から離れなかった罪についての考えを歌ったものが多い(略)逃れることはできない。どうやって罪を背負って生きていくのか?」(略)

「自分のなかの強迫的なところが[みんなを]振り回していた(略)おれは近くにいると危険な人間だった」

ファン第一号オビー・ジージック

[ツアーとスコセッシ監督『ニューヨーク・ニューヨーク』へのクレモンズ出演日程をバッティングさせたセグーソ。友人デ・ニーロから苦情を受けたブルースは激怒、ほどなく解雇。後任はボブ・チャームサイド]

 普段の一日はだいたい午前一一時か正午ごろにはじまった。ブルースは足をひきずるようにして寝室から出てきて、朝食にシリアルのチェリオスを食べる。(略)ほこりをかぶった白いピックアップトラックに乗り、ハンク・ウィリアムズのテープをかけて、新しい本を探しに図書館へ行くか、ロング・ブランチのアンティーク店をのぞくか、海辺や遊歩道を歩く。(略)

チャームサイドは家に残って皿を洗い、ブルースのジーンズやTシャツやスウェットを入れた洗濯機を回し、スーパーへ何日分の食料を買い出しにいった。午後になってしばらくするとブルースが帰ってきて、サンドイッチをつまんだあと、ピアノの前に座るかアコースティックギターをもって寝室へ向かう。毎日数時間、新しい曲に取り組んだ。コード進行を考え、それに乗せてメロディを口ずさむ。つづいて詞の断片ができていく。いつも手元に置いているノートから詞が生まれることもあった。

(略)

家のなかでいちばん目立つ場所にファンから贈られたものを飾っていた。好きな曲やアルバムへの思いを表現した、絵や箱入りのジオラマなどだ。「砂利道にホットロッドが停めてあって、"サンダー・ロード"の標識が立ってる、ってジオラマをおさめた箱がファンから贈られてきて、ブルースは暖炉の上に飾ってたよ(略)勝手にさわったりするのは許されなかった。怒られるんだ、『さわるな!』って。大事にしてたね」

 ファンを大切にするプルースの強い思いを象徴するようになった人物がいる。一九六九年、チャイルド/スティール・ミル時代からライヴの常連として最前列で聴いていたオビー・ジージックだ。(略)

[差し入れを]バンドの調整卓の横に置いていったりしながらも、最初の一年は憧れのブルースとはあくまでも距離を置いていた。ウェストからその話を聞いたブルースはライヴのたびにステージ近くに彼女の姿を探し、ほぼ毎回、その顔を見かけるようになる。ジージックは何をおいてもブルースのショーに駆けつけていた。(略)

[スティール・ミル最後のギグではステージから打ち上げに招待した]

スチューデント・プリンスで公演があるときは彼女に車を出してもらうようになった。以来、自分のショーでは欠かさず彼女の名前をゲストリストに載せている。やがて名が売れ、大きなホールやアリーナで歌うようになると、最前列の真ん中のチケットを二枚用意し、ジージックの名前でチケット売り場にとっておくようコンサートの契約書に記した。どの夜もだ。どの都市でもどの国でも関係ない。「患者第一号みたいなものさ」とブルースは言う。「ファンの元祖だね。『ほら、おれたちにもファンができたぞ!何度も見にきてくれてる!彼女はまさにファンじゃないか!」といった感じ(略)いまもそうだ」

[ジージックは77年までヴァンザントのアシスタントをやった]ところで、ブルースから自分のアシスタントをしてくれと求められた(「スティーヴはどうなるの?」。彼女が尋ねると、「あいつのことは心配しなくていい」とブルースは手を振って言ったという)。こうしてジージックはブルースにとって欠かせないスタッフとなり、日常の買い物をし、ブルースの家の用事をこなし、掃除をし、着るものを管理した。(略)

偏った食生活を変え(略)ブルースに野菜と、スパゲッティにかけるトマトベース以外のソースを食べさせることに成功した

エルヴィスの死、写真集『アメリカンズ』、『闇に吠える街』

 すべてをかけた四枚目のアルバムのレコーディングセッションが(略)アトランティック・スタジオではじまった。訴訟に決着がつき、アペルとの決別が決まった一週間後のことだ。

(略)

全部で七〇曲ほどを録音したが、そのうち八割は結果的に不採用になるか、ほかのアーティストに提供することになった。「トーク・トゥ・ミー」と「ハーツ・オブ・ストーン」はサウスサイド・ジョニー&ジ・アズベリー・ジュークスが歌うことになり、ヴァンザントもそれがいいと納得した。だがエルヴィス・プレスリーにインスパイアされた五〇年代風ロックンロール「ファイア」と情熱的なラブソング「ビコーズ・ザ・ナイト」をブルースが外すと、ヴァンザントは不満を口にせずにいられなかった。「ブルースはいつもいちばんいい曲を人にやったり、自分じゃ出さなかったりする。いつもそうだ」

(略)

「もし『ファイア』をアルバムに入れれば、ヒットはしたかもしれない。でもそれが[アルバム全体の]印象を決定づけてしまうのをブルースは恐れたんだと思う」とランダウは説明する。「『ファイア』をアルバムに入れたら、シングルにはしないでくれとはレコード会社に言えない。自分の手では管理できなくなっただろう」。ブルースはそれを見越して、表に出さないことにしたのだ。

(略)

エルヴィスのまっすぐな輝きは白人カルチャーとブラックミュージックを融合させた。(略)

[暴露本『エルヴィス――何が起こったか』を読んではいたが]

それでも、ブルースにとってエルヴィスの存在はやはり大きく[訃報に衝撃を受け]

(略)

 二日後、ブルースはヴァンザントと写真家のエリック・メオラとともにソルトレイクシティへ向かった。一九六五年式の赤いフォード・ギャラクシー500XLコンバーティブルの後部に荷物を放りこみ、陽炎の立つ砂漠へと走る。台地のあいだを縫うように通り、農場やインディアン居留地と、都市や腕を高く伸ばすサボテンの地とを結ぶ、砂の舞う一車線の道路を進んだ。二〇世紀の開拓の名残を示す土地を写真に収めようとメオラが周囲を眺めるかたわら、ブルースとヴァンザントは晩年のエルヴィスを偲び(略)[取り巻きの「メンフィスマフィア」]が尊大な彼を最後まで甘やかしたことに思いをはせた。(略)

「あいつらみんな、友達だと言ってたやつもみんな、エルヴィスを見捨てたのさ」とヴァンザントは言った。金を手に入れると、彼らは去っていき、キングは薬と沈黙、読みかけのキリストにまつわる本におぼれることになった。

 三人は三〇時間ぶっつづけで車を走らせた。(略)

ブルースと車、ブルースと辺境。ブルースと急速に流れていく雲、合間から差す日の光。砂漠にたたずむ小さな町をさまよい、ロバート・フランクが写真集『アメリカンズ』でとらえたあの哀愁を引き出せないだろうか、とメオラは思っていた。『アメリカンズ』は五〇年代から六〇年代にかけて、荒廃した町の見捨てられた通りに生きる貧しい人々の姿を浮き彫りにした、写真史に残る作品だ。(略)

『怒りの葡萄』と同じく、『アメリカンズ』はまさにブルースが目を閉じたときに思い浮かぶ世界を映し出していたのだ。

(略)

ある暑い日の午後(略)雷鳴がとどろき、稲妻が光り、風が砂埃を巻き上げて雲とひとつになった。「聖書に出てくる嵐みたいだった。それまで見たこともなかったような」とメオラは言う。

(略)

 メオラが砂漠で撮ったポートレートのなかには、ブルースが車の横に立ち、背後に見える岩山の上空に嵐が迫っている写真が何枚か入っている。ブルースはブルースで、この乾いた南西部への旅を自分なりに心に刻みつけていた。砂漠の厳しい自然の美しさと亡きエルヴィスの影、灼熱に眩惑された野犬、稲妻が走る嵐があわさって、荒野で見出した魂の証しに思えた。「つむじ風が何もかも吹き倒す。地に立つ力のないものを」とブルースは「プロミスト・ランド」の最後のヴァースに書いている。そこで描かれる激しい嵐は、厳しい辺境の地で生きていく足かせとなる甘い夢と愚かさを吹き飛ばす。「いいかい、おれは子供じゃない、大人なんだ(略)そして約束の地を信じている」

(略)

[『闇に吠える街』の]曲の背景はアズべりー・パークからダコタ、五〇年代のフリーホールド、南西部、工場地帯からハイウェイに至るまで、曲ごとに違っている。だが本当の舞台は(略)ロバート・フランクがとらえた、あの忘れられたアメリカだ。

(略)

「親父は一生働いて苦しみだけを手にした」と、曲の終わりで彼は叫ぶ。「おまえはその罪を受け継ぐ、その炎を受け継ぐ」

(略)

「お前は何ももたずに生まれる。そのほうがいいんだと(略)何かを手に入れるとすぐ、誰かが奪いに来る」

(略)

[インタビューでブルースは]想い描く情景が暗さを増していることを認めている。「歌のなかの人物はいままでよりちょっと孤立している。登場する人物も少ない」

次回に続く。

ブルース・スプリングスティーン その2

前回の続き。

『アズベリー・パークからの挨拶』

ジョン・ハモンドはオーディションで見せたスタイルでブルースが演奏することに固執し、アペルももちろん、同じ考えだった。だが、七月初旬のレコーディングが近づいてくると、ブルースは新曲がバンドで演奏されるのを想像しないではいられなくなった。

(略)

ハモンドは自分の発掘した最新の才能をエピックと契約させるつもりだったとアペルは記憶している。アペルはそのアイデアに乗り気ではなく、有望なタレントを自社レーベルから失う立場にあるデイヴィスも、即座にはねつけた。ブルースはコロムビアにとどまった。

 デイヴィスがバンドサウンドを支持したことを受け、ブルースは電話を手に取り(略)メンバーたちに招集をかけた。ギャリー・タレントにとって、その知らせは輝かしい未来の先触れにはほど遠いものだったようだ。

(略)

バンドメンバーは、ブルースの新たなマネージャーとレーベル幹部のチームから、ブルースのキャリアのつぎの段階に関して重要とは思われていないことを痛感した。「おれたちはニュージャージーからやってきた渡り労働者の集団みたいだった」とタレント

(略)

[さらに盟友のスティーヴ・ヴァン・ザントが外される]

「おれはあいつの親友だったし、生まれたときから相談役みたいなものだった(略)でも近すぎたんだ。あいつに直接ものを言ったり、あいつをコントロールするにはおれが邪魔になる。少なくとも向こうはそう思っていた。だからマイク・アペルはおれはいらないと判断したんだ」

(略)

「最初のセッションにはスティーヴもいた」とタレントは言う。「でも、あいつには[どういう音にすべきかについて]意見があって、マイク・アペルはほかの意見なんか求めてなかった」。これに対してアペルは、ヴァンザントの速やかな追放に自分はかかわっていないと言う。「彼は必要ないと判断したのはブルースだよ。単にあの時点でギタリストをもうひとり入れるのは音楽の構成上正しくないと判断したんだろう。だいたい、ブルースのギターの腕もかなりのものだからね」

(略)

 ブルースにすれば、これにはプロとしての生き残りがかかっていた。「忘れないでほしい、ひとりの男が最初のレコードをつくろうとしていたんだ。で、まわりはバンドなんか求めてなかったのさ!」(略)

どうにかアペルとハモンドを説得し、一部の曲にリズムセクションを使えることになったとはいえ、ギターを重ねただけで(略)彼らはすでにげんなりしていた。「スパイになった気分だった」とブルースは言う。

(略)

 ヴァンザントはニュージャージーへ戻り、ギターをしまうと、本人によれば、その後二年近く手に取らなかったという。これを聞いてブルースは眉をひそめる。「本当に?どうかな、大げさに言ってるんじゃないか、いや、ちがうかな」。ヴァンザントの言い分はこうだ――「建設現場で削岩機を使う仕事をしてたし、週末はフットボールをしていた」。するとブルースは当時のエピソードを思い出して笑いだす。「ああ、そうだった!まともな仕事に就いてたんだ!どういう風の吹きまわしか」。

(略)

ブルースはヴァンザントを欠いたメンバーを率いて、「おまえのために」「都会で聖者になるのはたいへんだ」「洪水に流されて」「82番通りにこのバスは停まるかい?」を録音した。(略)

仕事が終わると、彼らは(略)あやふやな別れを告げた。ともに演奏するのはこれが最後になってもおかしくない、と誰もが承知していた。(略)

「おれたちの知るかぎり」とタレントは言う。「これでおしまいだった」

 ブルース、アペル、クレテコスの三人はさらに一週間ほどかけてフルバンドのトラックを完成させると、つづいてブルースがひとりで演奏するアコースティックな曲に取りかかった。

(略)

[ラジオでかかるような曲をデイヴィスに所望されても怒ることなくブルースは]

「ビーチへ行って、『光で目もくらみ』と『夜の精』を書いた。だから、あれはいい判断だった。その二曲があのレコードのベストソングになったわけだから」

(略)

[新しい曲の]カギとなる音楽の要素を実現できる人物はひとり(略)クラレンス・クレモンズしかいない。(略)サックス吹きは、喜んでレコーディングにやってきてくれた。そしてブルースのにらんだとおり、ジュニア・ウォーカーばりのリフで、曲にふさわしいリズム&ブルーズのフィーリングをもたらした。

(略)

ある日ブルースが「アズベリー・パークからの挨拶」と書かれた昔風のポストカード[をジャケットに使いたいと持ってきた。しかし](略)

コロムビアには新人アーティストに関して確固たる掟があった。デビューアルバムのジャケットには、かならず当該アーティスト(たち)の大きな写真を載せなければならない。(略)

[チーフアートデザイナー、ジョン・バーグに駄目元で提案してみると]

バーグはアズベリー・パークのポストカードをしげしげと眺め、感慨深そうにうなずいた。そして引き出しを開け、同じような年代物のポストカードの分厚い束を取り出した。「じつは、ポストカードが大好きでね」(略)

バーグはあらためてアズベリー・パークのポストカードをじっくり眺めた。「絶対これで行くべきだ」とバーグは言った。「すばらしい。完璧だ」。アペルは言葉を失った。(略)

バッキンググループとして再結成

ブルースは五人編成のブルース・スプリングスティーン・バンドをバッキンググループとして再結成するためにメンバーたちに声をかけてまわった。ロペスとタレントは喜んで加わってくれたが、サンシャスが自身のデビューアルバムの仕上げを理由に(またブルースにベースプレイヤーを横取りされたのをすねて)辞退すると、ブルースはダニー・フェデリーシにキーボード奏者としての復帰を打診した。さらにクレモンズにも電話をかけて参加を求めた。クレモンズはためらわなかった。

(略)

クレモンズはブルースの結束の固いグループにすんなり(略)解けこんだ。(略)

「あいつはもともとダンエレクトロの工場でみんなと知りあいになってたんだ」とタレントは言う。「あのクラレンスのことだからね、こっちもすぐに打ち解けた」。

(略)

ブルースは(略)週三五ドルの固定給を約束し、たくさんのショーを大きな会場でやるようになったら昇給させると請けあった。みんなでやっていこう、昔みたいに、とブルースは言ったが(略)

「バンドに入ることに興味はなかった」とブルースは言う。「(略)スティール・ミル時代に小さいユニットの民主主義は終わりだと学んだんだ」

 ミュージシャンたちはアペルからも同じことを聞かされた。アペルは自分が本当に関心があるのは唯一無二のクライアント、ブルース・スプリングスティーンの面倒を見ることだけだとはっきり伝えた。「もうスティール・ミルとは別物、昔の兄弟みたいなバンドとは別物だった」とロペスは言う。「おれたちはただの雇われ人だった。ずっと頭の片隅で、消耗品だってわかってたよ」。

 (略)

[恋人ダイアン・ロジート談]

「いつもそばにいたわ。しょっちゅうハグしたり抱きあったりして。(略)完璧だった。わたしは五フィート五インチで彼は五フィート九インチ、お互いにぴったりだったの。(略)」(略)

だがそんなロジートでも、ブルースのギターと創作ノートを蹴散らすことまではできなかった。ブルースはまたピアノが弾きたくなり、おんぼろの小型ピアノを買ってアパートのガラス張りのサンポーチに置くと、ビーチに向かう人々に思いをめぐらせながら何時間もすごすようになった。サンポーチから見えないものでも、海辺の遊歩道をぶらつけば見つかる。曲乗りに熱中するバイカー、パーティで酔って叫ぶティーンエイジャー、遊歩道のウェイトレスたち――ブルースが五年間すごしてきたホットロッドとピンボールの世界。ただし、いまそれは新たにロマンスと悔恨に彩られ、ネオンの陰の冷気やウェイトレスの疲れた笑顔につきまとう悲しみが感じられた。ブルースの想像のなかでは、そこを舞台にカウボーイや無法者、天使と悪魔といった、現実と架空のアメリカ史を映し出す本や映画、歌に出てくる者たちの物語が展開されていた。そしてそのすべてが織りこまれた空想から生み出される歌は、ディテールが豊かで情感にあふれ、家庭内の不和さえ引きおこす力があった。「ブルースが『サンディ』(7月4日のアズベリー・パーク)を書いたとき、ダイアンはかんかんになった」とテローンは言う。「浮気されてると思ったのさ。『ボードウォークのウェイトレスのことなんか書いてる!』って。ブルースが書いたのは彼女のことなのに、本人はわかってなかったんだ」

(略)

[ラジオに出たブルースは]これはまさに人生で初めてのラジオインタビューだからママに挨拶しなきゃと言い、それを実行してスタジオ内の爆笑を誘った。

(略)

[アコースティック編成で曲を披露し]

「これがニューシングルだ、キッズのみんな!(略)店に買いにいってくれたら、レーベルにサインするよ!」。

(略)

[アズベリー・パーク・プレス紙のインタビュー]

「大企業のために働くなんて変なものさ(略)サインするまで向こうは歯を抜くみたいに苦労した」(略)

音が気に入らなくてバンドを途中で解散してばかりいたとうそぶいて、さらに伝説をつむぎ出した。「世界はもう四人組のロックバンドを求めてないし、マーケットだってこれ以上ゴミがあふれるのはごめんだろう」(略)

彼の新しい曲を(略)魅力的にしているのは何なのかと訊かれると、ブルースはプライドを隠しきれなかった。「それはまあ、おれだね」

 

 ブルースのライヴショーは、しだいにバンドとの演奏を前面に押し出すようになっていた。まずはソロでアコースティックな曲を演るか、チューバを抱えたタレントとサックス担当のクレモンズとともに登場し、調子っぱずれな蒸気オルガン風のサウンドで「サーカス・ソング」(略)を奏でる。そのあとバンドのほかのメンバーを呼び(略)フェンダーに持ち替え、カウントから「82番通りにこのバスは停るかい?」の新しいイントロに入る。『アズベリー・パークからの挨拶』で聴ける静かなセピア調の詩人ミュージシャンが突如、エレクトリックな色彩を帯びるのはこのときだった。ヴァン・モリソンのR&B曲(たとえば「ドミノ」)風に練り直され、より速く、よりざらついた感じに生まれ変わった「82番通りにこのバスは停るかい?」はのっけからパワー全開で、どんどん盛り上がっていく。最後には落ちてくるバラをキャッチする闘牛士のイメージをきっかけに、サックスの燃えるようなフレーズとともにバンドは熱さを増し、ご機嫌なサウンドを響かせる。早くも最高潮のパーティへの招待状だ。ブルースとバンドはスウィングし、スワンプなファンク「夜の精」、そして高速ヴァージョンの「都会で聖者になるのはたいへんだ」に移ると、ギターは土臭く響き、ベースラインが脈打って、ドラムがフロアを揺るがす。

ブルース流『ウエスト・サイド物語』

[宣伝や好意的レビューにもかかわらず、七万四千枚出荷されたアルバムは殆ど売れず返品された。年に一度のCBSのコンベンション、エドガー・ウィンター・グループの派手な演奏の後に無理矢理引っ張り出されたブルースはへそを曲げ、15分予定のところを無気力にだらだらと30分やり、「何をやっているのだ?」とジョン・ハモンドに切れられる。1973年シカゴの前座に。メンバーはいい人たちだったが、90分のセットを45分に縮められ、三日目からはクルーによってボリュームを制限され、観客の受けも悪く]

「ツアーのあいだに頭がおかしくなった」とブルースは語っている。(略)

アペルをつかまえ、スーパースターのツアーの添え物としてプレイするのは二度とごめんだと告げた。

(略)

フィルビンは言う。「まだ人気のない新人がツアーを放棄したら――そうだね、レーベルはいい顔をしない。ブルースはそういう事件をいくつも起こしていた」

 それだけならまだしも、彼は会社でもっとも重要な支持者を失ったばかりだった。(略)クライヴ・デイヴィスが(略)内部闘争の末、一九七三年五月の終わりに解雇されたのだ。(略)

トップの後ろ盾を失い、コロムビアでの立場が崩れはじめていた。

(略)

 つぎのギグに向けて長距離ドライヴをする場合、ブルースは(略)機材を積んだバンに乗るのが好きだった。助手席に座ってノートを開くスペースを確保し、ウィンドシールドを一瞬ですぎていく世界に想像をめぐらせた。(略)

店先、通りの標識、歩道を歩く人、街角でおしゃべりする人、小さな町のウールワースで買った子供用のビニールプールを運ぶ人。道路沿いのストリップクラブの横を通ったとき、売れっ子ダンサーが戻ってくるという看板を見かけたブルースは、「キティズ・バック」とノートに記し、売人や策士、薄情で愛くるしい女たちが登場する都会のノワールへの扉を築いた。

 何マイルものあいだ目を見開き、ブルースは永遠の通りすがりから見た現代のアメリカの生活の姿をなぞっていった。そのどれもが自分の人生を思い出させた。

(略)

 ブルースはあまり本を読まなかったから、映画を手引きに物語の書き方や劇的な展開のペース、キャラクターの声と関係性の大切さを学んだ。監督の視覚的なイメージにも関心を向け、よく撮れたシーンなら、対話ではとうてい表せないアイデアやテーマを伝えられることを理解した。そしてブルースは一九五九年のオーディ・マーフィ主演の西部劇映画に豊かなコンセプトの鉱脈を見つける。辺境に住むふたりの若者が初めて大都市に旅立ち、危うく堕落しそうになるという話だった。ふたりのストーリーに自分の姿を見たブルースは、映画のタイトルをノートに書きこんだ。『ザ・ワイルド・アンド・ジ・イノセント』。町から町へ、ともに移動するミュージシャンたちの顔にも同じストーリーが映し出されているのを見たとき、この映画はいっそう鮮やかに息づきはじめた。

(略)

「(略)で、おれの人生って何だろう?」。ブルースはすでにその問いの答えを知っていた。「そう、ニュージャージーだ。ニュージャージーはおもしろい。地元の町はおもしろかったし、町の人たちもおもしろい人たちだと思った。それで、みんながかかわっているのがEストリート・シャッフル、生きるためだけに毎日踊るダンスだ。それはかなり興味深いダンスだと思う。じゃあ、それについてどう書くのか?(略)」

 セカンドアルバムのレコーディングセッションは五月なかば、914サウンド・スタジオではじまった。

(略)

午前零時すぎのレコーディングは(略)[スタジオのオーナーが]寝ているすきにただで録音しようと目論んだ計略の一部だった。(略)

ブルースは[デイヴィッド・サンシャスを]ピアノ担当としてもう一度バンドに誘い、フェデリーシを(略)サブのキーボードに格下げした。(略)

 ブルースは大量の曲のストックを抱えてスタジオ入り(略)ところが、アルバムのトーンが固まってくると、ショーの目玉となる自信作の何曲かがどうしてもうまくおさまらない。観客に人気の「サンダークラック」は早い段階で候補からはずされた。(略)全員がキラーシングルになりそうだと感じた曲、ブルースの感情を押し殺したようなR&Bバラード、「ザ・フィーヴァー」もだ。(略)

ブルースが脚本を書いて監督している架空の映画にあわなかったのだ。その舞台は、ブルースが見出した――そしてブルース流『ウエスト・サイド物語』の背景として新たに想像した――ジャージー・ショアやニューヨークシティであり、アルバムは解放をめぐる一連のストーリーとなった。

(略)

古参ミュージシャンでアズベリー・パークのギターヒーロー、サニー・ケンは(略)記憶にある溌剌としたロッカーがまったく別のものに変わっていたことに驚いたという。「あいつは自分なりにクールに振る舞ってたよ。楽屋の隅で立ち上がりながら[息が漏れるヒップスターの声色で]言うんだ、『ヘーイ、マーン』なんてね――まるっきりトム・ウェイツさ。変だと思ったよ。おれの知ってる男とはちがったから(略)けどやっぱり『青春の叫び』はあいつの最高傑作のひとつだと思う。すごく実験的だし、何もかもつまってる。もしあそこでやめたとしても、キャリアとしては十分だったな」

 ところが『青春の叫び』はコロムビアで熱狂的に受け入れられたわけではなかった。『アズベリー・パークからの挨拶』が商業的に失敗したことに加え、このニューアルバムのサウンドと構成が分類不可能なものだったためだ。ハモンドでさえ、リードナンバー「Eストリート・シャッフル」がトップ4番組の時間を四分二六秒も奪う――ポップ専門局でかかるほとんどの曲より一分は長い――と知ったときには、気色ばんだ。クライヴ・デイヴィスが重役室からいなくなったことで、ブルースの運勢の星は新たに契約したビリー・ジョエルの陰に隠れていた。(略)

ジョエルをコロムビアに連れてきたのはA&Rチーフに昇進したばかりのチャールズ・コッペルマンで、コッペルマンはジョエルを成功させると誓っていたのだ。

[脚注:社内の噂やレコード店オーナーたちの報告によると、コロムビア/CBSの権力構造の上部にいたある人物が営業担当者に命じて、販売店にあった『アズベリー・パークからの挨拶』と『青春の叫び』をビリー・ジョエルのコロムビア移籍第一弾アルバム『ピアノ・マン』に強引に交換させたという。『ピアノ・マン』はブルースのセカンドLPと同じ週にリリースされた。]

(略)

[セカンドの売り上げも会社の期待には沿わず、ブルースを切るという噂も]

[ブルース支持派から突き上げをくらったCBS新社長ウォルター・イェトニコフは]

コロムビア/CBSが前金としてブルースとアペルにシングル一枚ぶんのみの制作費を渡すという妥協策を承認した。「いいレコードをつくるという任務を与えた」とクライヴ・デイヴィスの後任、ブルース・ランドヴォールは言う。「いいものができたら、アルバムの残りの制作費を出す。でもよくなかったら、またやり直しだ」

(略)

一九七四年を迎えたブルースの将来は(略)最後のワンプレイにかかっていた。運命のシングルが彼を先へ進めるか、道の果てを告げることとなる。

暴走することがおれたちの仕事だった

 一九七三年一二月一五日、水漏れのする崩れかけた吸音タイルの天井の下、ナッソー・コミュニティ・カレッジの学生会館のステージに上がると、ブルースはまばらな拍手にうなずき、スツールに腰かけた。(略)

「七三年のあの運命的な夏に戻ろう。女の子たちはボードウォークを行ったり来たりして、キッズはピンボールマシンで遊んでる」。ここでささやき声になる。「もうすぐ七月四日……」。そして「7月4日のアズベリー・パーク(サンディ)」の静かなデュエットのあと、バンドのメンバーが登場し、楽器の用意をしてデイヴィッド・サンシャスに注意を向けると、サンシャスの指がピアノの鍵盤を駆けめぐり、ほとんど即興のイントロから「ニューヨーク・シティ・セレナーデ」がはじまった。彼らの前に座っていた学生は五〇人か六〇人くらいだろう。(略)

バンドはたがが外れたような「夜の精」から、緻密にアレンジされたルーファス・トーマスの「ウォーキング・ザ・ドッグ」に移った。この曲では急に演奏をストップし、その静寂が口笛やクレモンズの「どうだ!」というかけ声で破られると、それを合図に一斉に演奏を再開する。このゲームを何度もくりかえしながら勢いを増し、やがて口笛も何の音もないままストップすると、ブルースはただぼんやりと観客を見つめた。静止したまま一〇秒、一五秒……二〇秒がすぎると、フクロウのように頭をぐるりとまわし、緊張を高めながら観客に目を凝らす。そして小さく肩をすくめ、ハッ!と軽く叫ぶと、すぐさまバンドがつぎのヴァースに突入し、観客の喝采を浴びるのだ。最後の曲、バンドの総力を結集した「サンダークラック」では、メンバー全員に代わるがわるスポットライトが当たり、ブルースのギターソロでクライマックスを迎える。そのソロはスローな、ほとんど音がなくなるパートでブルースがチャップリンのようにおどけ、顔をゆがめて苦しそうにチョーキングしたり低音をうならせたりするパフォーマンスでよく知られていた。そしてクレモンズが調子っぱずれな音を出すと、ブルースは曲を止め、顔をしかめてコミカルに怒ってみせた。「なんでおれはこの連中に週五〇ドルも払ってるんだ?こんなことのためか?」

(略)

「後ろですり減っていくだけのバンドを抱えるのはどうかと思う」と一九七四年にブルースはあるインタビュアーに語っている。「彼らに力を発揮してもらいたいんだ……すごいプレイをする連中がいるんだから、表に出てもらう。プレイしてもらう。とにかく、やってくれ、終わったら教えてくれればいい、そしたら全員でやるからって」

(略)

「暴走することが」と何年もあとになってブルースは語っている。「おれたちの仕事だった」

 マイク・アペルも熱に浮かされたような勢いで自分の仕事を推し進めていた。

(略)

そしてその結果、アペルは自分の追い求めるものを単なるロックンロールやショービジネスとしては語れなくなった。「ブルース・スプリングスティーンはロックンロールアーティストじゃない」とアペルは友人や同僚、とくにプロデューサーやブッキングエージェント、番組ディレクター、そして聞く耳をもつ者すべてに断言した。「宗教なんだ」

 真の使徒の例にもれず、アペルもブルースを頂上へと押し上げるためならどんな犠牲もいとわなかった。節約という名目で創立時からの従業員ボブ・スピッツの給料を半分にし、さらに、高校を卒業した弟スティーヴン・アペルを無償で働かせるという理由でそのポストをなくせるのなら、ボブ・スピッツとはおさらばする。つづいて共同プロデューサー兼共同マネージャーのジミー・クレテコスもいなくなった。ブルースの財政上の未来に光明を見出せなくなったから、あるいはもっときな臭い内部抗争の結果としてだが、これについては誰も詳細を語ろうとしない。(略)

アペルもその冬は信仰の危機に耐えていたのだった。二年にわたる苦労や返せずにいる借金、欲求不満でまいりかけ、気づくとブルースとの契約を破棄したほうがいいのではないかと考えていた。ほかのマネージャーにまかせよう、自分には無理でも、その男ならブルースをふさわしい場所に押し上げてくれるのではないかと。

(略)

[家のベッドでギターをつまびくうち]

三つの単語が彼の舌におりてきた―― born to run。

 うろおぼえのB級映画のタイトルだろうか?(略)六四年式シェヴィの横っ腹に、エアブラシで派手にペイントされていた言葉だろうか?ブルースには思い当たるふしがなかった。だがどのみち、それはどうでもよかった。「その言葉が気に入ったのは、そこに暗示される映画的なドラマが、頭のなかで聴こえている音楽にうまくあいそうだったからだ」

(略)

 ブルースの意識では、ストリートでのレースの世界は、権利を奪われた者や若者、はみ出し者たちが本来の姿になることを阻む社会的、経済的制約に公然と反抗するものだった。(略)

「脱出することがもともとのアイデアだった」とブルース(略)それはチャック・ベリーの「スクール・デイズ」からディランの「メンフィス・ブルース・アゲイン」にいたるすべてをつなぐものだった。「この曲は解放なんだ。つまり、退屈さ、日常の生活から脱け出すことを表現している」

(略)

昼は逃げていくアメリカンドリームの街で汗にまみれ/夜は暑さのなか立ち止まって身震いする/夢のなかの殺しに……

 

 ここからすべてがあふれ出した。波間で震えるサーファー。ハイウェイ9号線を海岸沿いにある代わり映えしない町へ向かう車、アズベリー・パークのサーキットをゆっくりめぐるメタルフレーク塗装のホットロッド。「黒い、暗い檻を歩く獣のように感覚は張りつめ(略)この夜を無意味な戦いで終わらせる/そして世界が爆発するのを見物するのさ」

(略)

それは死の罠!自殺の誘惑!若いうちに脱け出せ/おれたちみたいなはぐれ者は、ベイビー……

 

 そして、すべてがあの三つの単語に(略)帰り着く。

 

……走るために生まれたんだ

 

 このあと歌詞を完成させるまで数か月かかり、すでに耳のなかで鳴っていたきらめくサウンドをとらえるにはさらに時間を要する。

(略)

 一九七四年一月八日、ブルースとバンド、そしてアペルは(略)

二日にわたってまだ粗削りな「明日なき暴走」と「ジャングルランド」の手直しをつづけた。

(略)

ジョン・ランダウ登場

二回目のショーのまえにブルースが(略)壁に貼られたボストンのリアル・ペーパー紙の『青春の叫び』のレビューを読んでいると、いつのまにか隣に立っていた身だしなみのいい若い男の声がした。

「どう思う?」(略)

「なかなかいいね」とブルースは答えた。(略)

男は手を差し出して自己紹介した。名前はジョン・ランダウ、そう、この記事に署名されているのは彼の名前だった。

(略)

 ショーがはじまると、ランダウは呆然(略)

アンコールのあいだ(略)獣のように吼えていた。

(略)

[「私はロックンロールの未来を見た」というランダウのコラムは]

音楽業界に衝撃を与え、とりわけコロムビア/CBSのオフィスを稲妻のような威力で揺るがした。

(略)

この記事は単独の力で、見捨てられたも同然だったアーティストへの会社の関心を甦らせたのだ。(略)

[あの文句を引用したポスターによる『明日なき暴走』の大々的販促キャンペーンが展開。当のブルースはせっかく世間がディランの後継者というでたらめを忘れてくれそうだったのに]

今度はあの『私は見た』だ。やめてくれ!ありえない!」

(略)

[ブルースのライヴショーの勢いはとどまるところを知らず。しかしデイヴィッド・サンシャスがエピックからソロ契約オファーを受け、ブーム・カーターを連れ、バンドを辞めることに。アペルはヴィレッジ・ヴォイス紙に求人広告]

ドラマー(「ジンジャー・ベイカーズ[原文ママ]二世お断り」、ピアニスト(「クラシックからジェリー・リー・ルイスまで」)、さらにトランペット奏者(「ジャズ、R&B、ラテン」)とバイオリン弾きを求めた。

(略)

[マックス・ワインバーグとロイ・ビタンがオーディションに合格]

前任のドラマーが小さなスカイラインさながらの、ちらちら光るシンバルときらめくタムを並べていたのに対し、ワインバーグの三点セットは、本人が言うとおり、「まさにミニマリスト宣言」だった。彼らは三時間にわたり、さまざまなロックのリズム、シカゴやニューオーリンズのシャッフルを試しながら演奏をつづけた。

 だが本当の試験がおこなわれたのは、ブルースが不意に身体の向きを変え、両腕を振ったときだった。何の前ぶれもなく、説明もなかったが、それでもワインバーグは完璧に正しい判断をし、ぴたりと演奏を止めた。ブルースはにこりとして、曲を再開した。それからさらに三〇分たったころ、今度は曲の途中で振りかえることなく、右手を宙にあげる。これが決め手となった。「リムショットを打ったのはおまえだけだった」と何年もあとになってブルースはワインバーグに言った。「あの瞬間、おれのドラマーを見つけたって思ったんだ」

(略)

[「明日なき暴走」最終ミックスを聴いたコロムビア社長ランドヴォールはブルースに「ヒットレコードをつくったな」と言うも、ブルースは信じず。何度も歌詞をつくり、5ヴァージョン超え]

レコードをつくるのはこれが最後(略)そう思いこみ、妥協を許さなかった。

(略)

「明日なき暴走」の作業に取りかかり、「ジャングルランド」の骨格となるヴァージョンに手をつけてから一年、完成したのはわずか一曲のみ。

(略)

顔を上げると、音程が狂ってばかりのピアノをスタジオ内で必死に調整する調律師の姿がガラス越しに見えた。調律師から構造的な問題があって、三〇分くらいしかチューニングがもたないと言われ、アペルはうなずいたが、時給一〇ドルでひと晩じゅう待機してもいいという男の申し出は振り切った。それを支払うだけの現金は手元になかった。

(略)

[もう一度やりなおし]完璧な出来だと誰もが思った――が、ブルースは額にしわを寄せ(略)

「あの中盤のコードはあっているのかな?」

(略)

録音の合間にビタンは困惑した様子でピアノの前に座り、もっと曲にあった新しいコードの転回を探していた。それにしても、どうして急におかしな響きになったのか?コントロールルームで、浮かない顔のアペルが明白な事実を口にした。「またピアノの音程が狂ってるんだ。ブルースに言ったほうがいいかな?」。

(略)

[ブルースに誘われ様子を見に来たランダウ]

現在のレコーディングスタジオの流儀に慣れ親しんでいたランダウはあきれかえった。それまで仕事をしたり訪ねたりしたプロ仕様のスタジオはどこも、専任のピアノ調律師、電気技師、オーディオの専門家がセッション中つねに待機していた。(略)

「このときのセッション見て思ったのは、中断ばかりしているせいでブルースがまったく勢いをつけられないということだった」とランダウ

(略)

[ランダウ経歴]

ナッシュヴィルでプロのミュージシャンとデモをつくる機会を提供されたが、ランダウはパフォーマーとしてのキャリアをあきらめることを選択した。「怖かった(略)前面に出たくなかった。向いてなかったんだ」

 そのころ、ランダウはポール・ウィリアムズのクロウダディ誌にレコード評を書きはじめてもいた。(略)

[ローリング・ストーン誌と]批評家兼コラムニストとして契約すると、やがてランダウの評判と影響力はこの雑誌とともに高まっていった。(略)

ジェリー・ウェクスラーがあいさつに訪れた際、ランダウはすかさずこの大物に会い、音楽業界の内部事情とレコード制作の複雑なプロセスをできるかぎり学んだ。

(略)

エレクトラがMC5を解雇すると、ランダウはこのバンドをウェクスラーに推薦した。するとウェクスラーはランダウがつぎのアルバムをプロデュースすると約束するなら、このグループをアトランティックに迎えようと言った。

 この仕事を引き受けると、ランダウとバンドとのパートナー関係は思いのほかうまくいった。「ジョンはしっかり準備していたし、レコードについて知り尽くしていたから、信用できると思った」と語るのはMC5のギタリスト、ウェイン・クレイマーだ。ランダウは混沌としたバンドに明確な音楽的ヴィジョンをもたせ、運営面(それまではマネージャー、ジョン・シンクレアのコミューンに仕切られていた)をどう組織化し、バンド内のコミュニケーションをどう改善すべきか、クレイマーにアドバイスした。「ジョンはおれたちに率直に話をさせた。セラピーみたいにね」

(略)

クレイマーは、ランダウと仕事をした数か月間をMC5にとってじつにハッピーで生産的な時期だったと考えていた。「マネージャーになってくれと強く頼んだんだが(略)マネージャーにはなりたくない、ただレコードをプロデュースしたいんだの一点張りだった」。ランダウはつづけて(略)リヴィングストン・テイラーのアルバムを二枚プロデュースし、さらにウェクスラーとアトランティック・レコードにみずから引きあわせた(略)J・ガイルズ・バンドのアルバムのプロデュースに挑んだ。だが、J・ガイルズ・バンドのアルバムはものにならず、クローン病が進行したこともあって、ランダウは静かに批評を書く生活にふたたび専念する。

(略)

 『明日なき暴走』に対してランダウが最初に果たした貢献は、一年以上まえからの考えを実行に移すことだった。その考えとは、914サウンド・スタジオから抜け出すことだ。「これをどうにかしなきゃいけない!(略)きみは世界クラスのアーティストだ。世界クラスのスタジオがふさわしい!」。やがてブルースは納得し、アペルに新しいスタジオを見つけるようかけあった。(略)

[スタジオはレコード・プラントに移り、ランダウは三人目の共同プロデューサーに]

緊張関係をブルースは気に入っていた。(略)

ランダウとアペルが彼の注目をめぐって争っているあいだ、ブルースとしてはパートナーふたりの強みを大いに利用すればいい。ランダウに曲の構造や物語についてのアドバイスを求め、アペルの細部にいたる知識を頼りに、確実にすべての音が正しく響くようにする。「われわれはうまくいっていた」とランダウはアペルについて語る。「多くの面で私がリードしていたが、マイクの忍耐力はすさまじくてね。本当に細かい点となると私は根気をなくしてしまうが、マイクはねばり強かった」。

(略)

「ジョンには裏表が一切なかったよ」とアペルは言う。「ただ、おたがいをよく知るようにはならなかったけどね(略)

[ランダウが]やったいちばん大事なことはアルバムに弾みをつけて、ブルースの尻をひっぱたいたことだ」(略)

ランダウの新鮮な耳のおかげでブルースは削るべき箇所や修正点をはっきり見つけられるようになった。

ヴァンザント再登場

ブルースはこのアルバムを音楽による小説として考えはじめていた。個々の曲がより大きな、ひとつのストーリーにはめこまれるものだ。(略)

各曲がつながり、対照をなし、結果としてたがいを高めなくてはならない。とすると、たとえば「涙のサンダー・ロード」はフルバンドのアレンジで申し分ないように思えたとしても、まったく別の文脈に置き、まったく別のサウンドとメッセージにしたほうがこのアルバムには適しているかもしれない。ブルースは完成していたこの曲を土台部分まで解体し、物憂げなアコースティックギターの作品につくり変えたりもした。まったく新しいメロディと、必要最低限のコード進行、別の歌詞をつけ、クライマックスとなる一節「おれは勝つためにここを出ていく」を敗北のため息のように吐き出した。

 このプロセスは遅々として進まず、厳しく、曲がりくねっているように感じられた。ある晩、セッションを見にきたタレントの妻は、八時間ずっとブルースがバンドにある曲の八小節のインストゥルメンタルのパートを教えこむのを見るはめになった。

(略)

「おれたちにできたのは踏ん張ることだけだった。たくさん大麻を吸って冷静さを保つことだけ」と言っていたクレモンズは、一六時間も「ジャングルランド」のソロをくりかえし通しで演奏しては聴きかえした。音の違いをコウモリ並みの耳で聴き分けるブルースを満足させるために。

(略)

[消耗したブルースは様子を見に来ていた、ヴァンザントに「どう思う?」と尋ねた]

「おれか?最悪だな」。ブルースは一瞬ひるんだが、ふんと鼻を鳴らした。「だったら、直してくれ!」と言い放つと、椅子にどかりと座りこんだ。

「まるでつくり話みたいだけど、これは本当に実話なんだ」といまもヴァンザントは言う。(略)

「オーケー、みんな!(略)もうそんな譜面は捨てていいぞ」。ヴァンザントは立ったまま、ホーン奏者ひとりひとりを順に指差し、新しいパートを歌って聴かせた。ざっとホーンだけの通し練習をしてから、エンジニアにテープをまわすよう合図した。ふたたび流れだしたトラックには、ブルースたちがひと晩じゅう追い求めていた軽快なスタックス風のグルーヴが完璧に織りあわされていた。ここでブルースはアペルに向き直った。「こいつを雇おう」。

(略)

 五日後、バンドが滞在する(略)ホテルにアペルが『明日なき暴走』のマスターのアセテート盤をもって現れた。(略)

「ジャングルランド」の最後の音がフェードアウトすると、バンドの面々は歓声をあげて拍手し、おたがいの手のひらを叩きあった。

(略)

ブルースだけは座ったまま顔をしかめ、カーペットを見つめていた。「どうかな」と暗い声で言った。「もっとちがうやり方でやれたのに」。あごひげを逆立て、立ちあがってアセテート盤をターンテーブルからむしり取ると、ホテルの中庭にすたすた出ていき、スイミングプールへと放り投げた。

 何がいけないのか?何もかもだ。(略)

あんなに時間をかけて、あんなに苦労して、こんなものしかできなかったのか?

(略)

[アペルはランダウに電話しブルースを説得させた。一枚のレコードにすべてのクリエイティブな衝動をつぎこむことはできない]

「つぎのレコードはかならずある、信じてくれ」

[それでも納得できないブルースだったが、街へ戻る高速道路で急に御機嫌に]

「やっぱり(略)このまま賭けてみよう」

 『明日なき暴走』はちょうど一か月後にリリースされる。

次回に続く。