少数派の横暴 その2

前回の続き。

南部政策の限界

 バラク・オバマの大統領当選と再選は、共和党の南部戦略の限界を露呈する出来事だった。(略)

[80年レーガンは白人票の55%を獲得して勝利したが、32年後、ミット・ロムニーは白人票の59%を獲得しながら敗れた]

(略)

一九九四年の再選を狙っていた共和党現職ピート・ウィルソン知事は、世論調査において民主党の候補に自身が大きくリードされていることを知る。

 人気を取り戻すためにウィルソンは(略)大きく右に舵を切り、プロポジション一八七を支持することを決めた。その物議をかもした提案は、不法滞在移民の教育と医療へのアクセスを制限し、教師、医師、看護師に不法滞在の疑いがある人物の当局への報告を義務づけるもので(略)ウィルソンはさらに、合法的な移民の受け容れの一時停止とアメリカの生得市民権制度の廃止を訴えた。結果、白人票の六二パーセントという絶大な支持を得てウィルソンは再選を果たした。

(略)

 カリフォルニア州共和党による反移民戦略は当初は選挙の成功へと直結したものの、最終的には裏目に出た。カリフォルニアがますます多様化しただけでなく、すぐに移民一世と二世が投票するようになったからだ。二〇〇〇年にはカリフォルニア州の住民の非白人の割合が五〇パーセントを超え、二〇二一年までに有権者の約六〇パーセントが非白人になった。選挙での短期的な利益のためにこの新興多数派を敵にまわした共和党は、かつてない規模の政治的崩壊に見舞われることになる。共和党は一九九六年にカリフォルニア議会の選挙に敗れて下野し、その後は一度も与党に返り咲いていない。

(略)

 二一世紀はじめ、ワシントンDCの共和党本部の指導者たちはこれらのリスクをしっかりと把握していた。二〇一一年に共和党全国委員会(RNC)の委員長に就任したラインス・プリーバスのオフィスの壁には、ヒスパニック系人口の増加率を示すグラフがつねに貼ってあった。そこには、将来の大統領選挙で共和党候補が勝利するために必要な白人の支持率もあわせて示されていた。(略)

「結論はもはや避けがたいものに思われた。各選挙でいままで以上に多くの白人票を獲得するという作戦だけでは、共和党が生き残れるはずはなかった」。サウスカロライナ州選出のリンゼー・グラム共和党上院議員は二〇一二年、さらに単刀直入にこう言い放った。「怒れる白人男性をもっと増やさなければ、長期的に生き残ることはできない」

(略)

[オバマ再選後、プリーバスRNC委員長は]

白人有権者への共和党の傾倒を厳しく批判し(略)共和党が非白人有権者を「温かく歓迎し、受け容れる」ことを求めた。(略)党が「独りよがりをやめなければ、近い将来、共和党が大統領選挙でふたたび勝つことはますます困難になる」と報告書は断言した。そのおもな提言のひとつには、不法移民に市民権取得の道筋を与える移民制度改革への支持が含まれていた。

 二〇一三年のこの検死報告書は、民主主義国家において負けた党がするべきことの好例だった――有権者層の変化に適応する。(略)

[同じ頃]

RNC指導者の支援を受ける州レベルの共和党員たちは非白人有権者による投票のハードルを上げるべく画策していた。

(略)

ほとんどの政党は、選挙での敗北に対応するために戦略を変更する。ところが、多くの州の共和党組織が選んだのは、有権者を変更する――つまり、全体の有権者の規模を縮小するという作戦だった。

(略)

[2010年中間選挙で勝利]すると共和党は、投票機会を制限することを狙った数々の防御的な改革を断行した。(略)[「投票者ID法」は]投票所で有権者に政府発行の写真付き身分証明書の提示を求めるというものだった。(略)

それらの法律は、「なりすまし投票を撲滅する」という合理的にも思える理由にもとづいて採用された。ところが、ふたつ問題があった。第一に、アメリカでは選挙における詐欺はほぼ行なわれておらず、なりすまし投票に至っては皆無に近い。(略)

その目的が不正防止ではないことはほぼ明白(略)狙いは(略)黒人、ラテン系、貧困層による投票のハードルを上げることにあった。(略)

それこそが、投票者ID法のふたつ目の問題だ――これらの法律は公平ではない。(略)

アメリカ合衆国には全国統一の身分証明書の制度が存在しない。よって多くの市民は、投票者ⅠD法が提示を義務づける写真付き身分証明書をそもそも所持していないのだ。(略)

たとえばテキサス州が二〇一一年に投票者ID法を制定したとき、登録有権者のうち必要なIDを所持していない割合は、白人に比べて黒人は二倍、ラテン系は三倍にのぼった。

 そのような投票者への抑圧は、激戦州でとくに苛烈になった。たとえばフロリダ州では、共和党によって期日前投票の期間が二週間から八日間に短縮され、選挙日直前の最後の日曜日(多くのアフリカ系アメリカ人が伝統的に投票していた日)は投票できなくなった。この変更は、黒人有権者に不釣り合いに大きな打撃を与えた。なぜなら、フロリダの有権者のうちアフリカ系アメリカ人の割合は一三パーセントにすぎなかったものの、期日前投票者の三分の一以上を黒人が占めていたからだ。

(略)

二〇一一年にはリック・スコット知事が、廃止されたばかりだった重罪犯の選挙権剥奪法を復活させた。(略)

結果、フロリダ州のアフリカ系アメリカ人の二一パーセントもの人々から投票権が剥奪されることになった。

「ガラスの床」喪失がもたらした「憤怒の政治」

人種階層によって、白人アメリカ人には社会における最低限の地位が保障されていた。それは白人にとって「下を覗き込むことはできても、けっして落ちることのないガラスの床」だった。

(略)

 二一世紀になると、状況は劇的に変わった。アメリカはもはや圧倒的に白人のための国ではなくなり(略)

多くの白人は疎外感と喪失感にさいなまれた。(略)

社会に「反白人バイアス」が存在しているという認識が、一九六〇年代から白人のあいだで徐々に広まっていったという。二一世紀に入ると白人アメリカ人の半数以上が、白人に対する差別は少なくとも黒人差別と同じくらい大きな問題だと考えるようになった。

 このような感情をさらに刺激したのが、バラク・オバマの大統領就任だった。オバマ大統領は政治的には穏健派だった。しかし(略)

ホワイトハウスに黒人家族が住み、それが日々テレビ画面に映し出されるだけで(略)

多くの白人アメリカ人は、生まれ育った母国が自分たちから奪われるのではないかと恐れた。

(略)

「白人キリスト教徒」はいまや宗教集団というよりも、民族的および政治的な集団になった。(略)

彼らは「白人のキリスト教をふたたび文化の中心に据える」というひとつの願望によって団結した。

(略)

[オバマ再選後]

一般共和党員は自分たちの存在そのものを揺るがす損害を被っているかのように感じていた。右派メディアの人気コメンテーターたちが、この絶望をさらに煽った。(略)

ラッシュ・リンボーはリスナーにこう語った。「昨日の晩、われわれはついに数でも負けたのだと考えながら眠ったよ……国を失ってしまったんだ、とね」

 共和党の白人キリスト教徒支持層は、存在の危機に直面して急進化しただけではなかった。事実上、この支持層が党全体を掌握することになった。なぜ、そのような事態になったのだろう?

 二〇世紀のうちほとんどのあいだ(略)人種問題における保守派(略)は両方の党に存在した。(略)

[人種的憤りの高い]白人共和党支持者の割合は、一九八〇年代の四四パーセントからオバマ政権下では六四パーセントに増加した。(略)

 それが分岐点だった。急進化した共和党支持者たちは、予備選挙をとおして影響力を行使した。予備選挙では、(多くがティーパーティーの支援を受ける)過激派の挑戦者たちが主流派の共和党候補を打ち負かし、あるいは右派へと引き入れた。この急進化プロセスは、共和党指導部を骨抜きにすることによってさらに加速した。

(略)

[2013年]下院議長となるポール・ライアンは、不法移民に市民権獲得のチャンスを与える法案を受け容れてほしいと右派メディアの主要人物たちに訴えかけた。(略)

[だがラッシュ・リンボーはラジオで]こう告げた。「ポール、きみの考えていることはよくわかる。でも結局のところ、この番組のリスナーはそういうことを聞きたくはないんだ」。(略)

下院多数党院内総務のエリック・カンターが、反移民を掲げるティーパーティー活動家に予備選挙で敗れるという決定的な出来事が起きた。これを機に、下院の共和党議員たちは移民制度改革を断念したのだった。

 二〇一六年の大統領予備選挙はじつのところ、共和党がより包括的な道を進むための新たな機会となりえるものだった。初期の最有力候補だったジェブ・ブッシュ(略)は側近たちにこう伝えた。「わたしは不平不満を利用する候補者ではない。特定の不満だけに対応するような選挙活動はしない」

 一方、ライバル候補のドナルド・トランプは(略)ティーパーティーの「われわれの国を取り戻す」という人種差別的な呪文こそが勝利のカギなのだと気がついた。(略)

 ほかの共和党のライバル候補たちは、あからさまに人種差別、移民排斥、扇動につながる訴えを利用することには消極的だった。しかしトランプはその一線をためらうことなく越え(略)不満を抱く白人票の市場を独占することができた。

(略)

エズラ・クラインの名言のとおり、「トランプは共和党を乗っ取ったわけではなく、的確に理解した」のだ。(略)

トランプの当選をとおして、共和党の急進化がさらに加速した。彼の成功によって、白人のための「アイデンティティー政治」こそが共和党内における勝利の方程式であることが証明された。かくして、新旧を問わず多くの所属政治家たちがトランプのスタイルと立場を模倣するようになった。同時に、トランプという時流に乗ることを拒んだ共和党議員の多くは、そのまま引退を余儀なくされるか、あるいは予備選挙で敗退した。

(略)

トランプ大統領の誕生によって共和党は、白人による「憤怒の政治」にどっぷりと浸かることになった。(略)

[トランプが敗れた]二〇二一年の調査では、トランプに投票した有権者の八四パーセントが「これから数年のあいだに白人に対する差別が大幅に悪化することを懸念している」と答えた。多くのトランプ支持者はまた、「人種の置き換え理論」を信じた。これは、エリート集団が移民を利用してアメリカの「先住白人」の立場を置き換えようとしているという主張だ。

(略)

 右派メディアの有力者たちが彼らをけしかけた。(略)

「民主党は……あなたたちアメリカ人有権者を、新たに法的免除を受けた市民、つまり増えつづける連鎖移民たちと置き換えることを望んでいるのです」

(略)

トランプ大統領の任期が終わるころまでに、驚くほど多くの共和党支持者が恐怖と憤怒の波に乗って過激主義の海へと流されていった。

(略)

トランプに迎合した指導者たち

一月六日の襲撃に対するトランプの責任を追及[したチェイニー](略)

民主主義への忠誠によって、彼女の政治キャリアは頓挫してしまった。(略)

トランプの弾劾や有罪に賛成票を投じた一七人の共和党議員の大多数は、二〇二二年の選挙のまえに引退するか、予備選挙で敗退した。

(略)

大多数の共和党支持者がトランプに忠実な態度を貫いていることがわかると、共和党の指導者たちは宥和策に立ち戻った。

(略)

マッカーシーとマコーネルは(略)民主主義を護ることよりも自分のキャリア目標を優先させただけだった。両者とも、トランプの権威主義に反対するよりも、それを受け容れたほうが自身の政治的利益に結びつくと計算した。

(略)

[ジョナサン・カールは]こう尋ねた。「考えてもみてくださいよ。あなたが正しい行動をとったら、いつかここにあなたの銅像が建つかもしれませんよ」(略)

マッカーシーは笑いながら「じゃあ、ジェフ・フレークの銅像はどこです?」と応えた。(略)フレークは、トランプと対立したせいで早々の政界引退を余儀なくされた共和党員だった。こうしてマッカーシーは、準忠誠的な政治家(略)政治的な便宜のために民主主義を犠牲にすることをいとわない政治家――の長いリストに加わることになった。

(略)

 いざというとき政治家は立ち上がって民主主義を護ってくれる、私たちはほんとうにそう期待していいのだろうか?第1章で説明したとおり、アルゼンチンが民主主義の護り方の一例を示してくれる。(略)

軍事政権による残酷な独裁を経て、アルゼンチンは一九八三年に民主主義体制に戻った。(略)ペロン党は権力を失い、急進市民同盟の新大統領ラウル・アルフォンシンは急激なインフレと広がる雇用不安に直面した。(略)

一九八七年(略)反逆者集団カラピンタダス(略)が反乱を起こし(略)軍事基地カンポ・デ・マヨを占領した。(略)反乱者の多くは(略)フォークランド紛争で勇敢に国のために戦った元軍人だった。(略)

 野党のペロン党にとって、この反乱は新たなジレンマをもたらすものだった。カラピンタダスはペロン党の国家主義的イデオロギーを共有しており(略)

反乱者に同情的ではないペロン党員でさえ、アルフォンシン大統領の支持が急落している状況を踏まえ、現政権と距離を置くことを望んでいた。大統領の座を取り戻そうと願う彼らは、「なぜ(反乱を批判して)アルフォンシンを助けなければいけないのか?」と自問した。(略)

[しかし党首アントニオ・カフィエロ]は忠誠的な民主主義者であり、アルフォンシン大統領を「敵」ではなく「対戦者」とみなしていた。(略)

カフィエロは大統領官邸を訪れて政府への支持を公に示した。アルフォンシン大統領と野党の党首が官邸のバルコニーにいっしょに立つ映像には強烈なインパクトがあり(略)何百万もの国民がその様子を見守った。もしペロン党の指導者たちがクーデター未遂に沈黙や曖昧な態度で対応していたら、あるいは少しでもその試みを正当化や容認していたら、カラピンタダスはさらに勢いづき、もっと大胆な行動に出ていたかもしれない。代わりに彼らは孤立し、力を奪われた。それ以降アルゼンチンは、二度とクーデターに屈することはなかった。

(略)

[結果、カフィエロは予備選でライバルのカルロス・メネムに敗れ、政治的な代償を払う羽目になった]

ペロン党指導者ホセ・ルイス・マンサーノはこう強調した。「その見返りに得たのは、お金では買えない価値のあるものでした。わたしたちこそが民主主義を護ったのです」

妥協の産物としての憲法

民主主義的な観点から考えたとき、絶対的多数ルール――議会多数派が支持する一般的かつ合法的な法案を、少数派が延々と阻止することができる規則――は擁護しがたいものだ。アメリカ連邦議会上院のフィリバスターのような絶対的多数ルールはしばしば、少数派の権利のために不可欠な安全装置として、あるいは妥協と合意形成のためのメカニズムとして位置づけられる。ところが、そういったルールは少数派政党に強力な武器を与える拒否権だ。

(略)

絶対的多数ルールは理論的には少数派の権利を保護することにつながるが、実際にはより特権的な一部の少数派の利益を拡大する結果となることも多い。たとえばアメリカの反多数決主義的な制度は、ジム・クロウ時代の黒人や一九四〇年代の日系人といった脆弱な少数派を保護するよりも、むしろ南部の奴隷所有者、大規模農業の関係者、そのほかの裕福なエリートを保護することのほうがはるかに多かった。

(略)

[憲法では]ある世代の決定が将来にわたってべつの世代の多数派の手を縛ることになる。法理論学者はこれを「死者の手の問題」と呼んできた。(略)

 トーマス・ジェファーソンやトーマス・ペインのような一八世紀の急進派は、建国者世代が将来の世代を拘束する権利を持つことに懐疑的だった。(略)

[ジェファーソンは盟友ジェイムズ・マディソンに]こう尋ねた。「ある世代の人間たちに、ほかの世代を束縛する権利があるのか?」。彼自身の答えはノーであり、マディソンへの手紙に「死んだ者は生きている者を支配するべきではない」と綴った。ジェファーソンは憲法に「有効期限」を設けることまで提案し、一九年ごと、つまり一世代ごとに憲法を書き換えるべきだと主張した。

(略)

 一方でマディソン一派は、憲法を固定させることに価値があると認識していた。たしかに民主的な憲法の本質は、眼のまえにいる多数派のいっときの気まぐれに左右されない一連の権利を確立することにある。こと選挙権や表現の自由などの基本的な権利に関して言えば、私たちは過去の世代から制約を受けるべきなのだ。

(略)

ジェファーソン流の憲法有効期限モデルが機能的な民主主義へとつながった例は世界にひとつもない。

 だとしても、ジェファーソンの見方も無視できるものではない。憲法は並外れて反多数決主義的な制度であり、何世代にもわたって多数派に制約を課すことになる。ここで問題となるのは、憲法の起草者たちが誤りを犯しがちであるという点だ。

(略)

 連邦制はよく、国レベルの危険な多数派に対する防波堤とみなされる。しかしアメリカ史の大部分において連邦制は、州と地方自治体が市民権と民主主義の基本的権利を甚だしく侵害することを看過してきた。

(略)

少数政党に権限を与えるという点において、明らかに民主主義とは相容れない反多数決主義的な制度が存在する。そのひとつが選挙人団で、得票数の少ないほうの候補者が大統領に選ばれるという状況を作り出す原因になっている。(略)

さらに上院にはフィリバスターの制度が存在することで、多数派が支持する法案を少数派が延々と阻止することができる。

 アメリカという国は、つねに過剰なほど反多数決主義的でありつづけてきた。事実、その仕組みは憲法にしっかりと織り込まれている。なぜだろう?

(略)

建国者たちの(略)多くは、公然と民主主義を拒絶した。たとえばマサチューセッツ州のエルブリッジ・ゲリー代議員は、それを「あらゆる政治悪のなかで最悪のもの」と呼んだ。近代民主主義に不可欠なふたつの要素である選挙権と市民的自由は、アメリカ最初の憲法には盛り込まれていなかった。一般大衆の多数派をおおいに恐れていた建国者たちは、国民を抑制、制限するための制度をすぐに採り入れた。

(略)

多くのアメリカ人は(略)上院や選挙人団のような反多数決主義的な制度について、知慮に富んだ指導者たちによって慎重に調整された抑制と均衡のシステムの一部だとみなす。それは、神話でしかない。(略)

反多数決主義的な制度は、綿密に練られた基本計画の一部などではなかった。事実、アメリカを代表するふたりの起草者であるハミルトンとマディソンは、それらの制度の導入の多くに反対した。

(略)

アメリカの最初の憲法である一七八一年の「連合規約」はうまく機能せず、一七八七年のフィラデルフィア憲法制定会議に参加した代議員たちは、いまにも国が内戦へと突入するのではないかと恐れていた。

(略)

より恐れるべきは、イギリス、フランス、スペインの地政学的な野心と軍事介入に対して脆弱になるという展開だった。合意に達する必要性に強く迫られた五五人の憲法制定会議の代議員たちは(略)急場をしのぐために妥協した。

(略)

[憲法制定が頓挫寸前となった二つの問題]

ひとつ目の問題は、連邦における小さな州の役割(略)。ふたつ目は奴隷制だった。デラウェアなどの小さな州の代表者たちは(略)大きな州によって自分たちの利益が蔑ろにされるのではないかと心配した。独立戦争以来、州は半独立状態で存在していた。各州はほぼ国のような強いアイデンティティーと独自の利益を築き上げ、それらを用心深く護っていた。だからこそ代表者の多くは、新しい政治システムにおいて各州に平等な代表権が与えられることを求めた。つまり人口の多寡ではなく、州という地位が代表権の主たる基礎になるべきだと彼らは考えた。

 南部の五つの奴隷州の要求は、制度としての奴隷制の保護に集中していた。それは、南部にとっては交渉の余地のない問題だった。

(略)

[有権者数で劣る]南部奴隷州の代表者たちは(略)奴隷制を確実に存続させるべく、「できるかぎり鉄壁」の反多数決主義的な保護を求めた。

(略)

合意に達するため(略)彼らにはさまざまな特権が与えられた。新しい憲法は、奴隷制を認めただけではなかった。その制度を保護したどころか(略)「国政における奴隷所有者の権限を強化」した。(略)二〇年間の連邦議会による奴隷貿易廃止の禁止、逃亡奴隷の返還を義務づける条項、(暗に奴隷の反抗を含む)国内の反乱を鎮圧する権限を連邦政府に与える条項など(略)

最大の戦利品は悪名高き「五分の三条項」であり、これによって奴隷を各州の人口の一部として加えることが可能になった(五人の奴隷を三人の自由人として算入)。奴隷自身には投票権はなく、この措置は議席配分の調整を目的とするものだった。結果として奴隷州の下院での代表権が拡大し、選挙人団における影響力も増した。

(略)

ニューハンプシャーとサウスカロライナ州の自由民の数は同じだったが、サウスカロライナには一〇万人の奴隷がいたため、ニューハンプシャーよりも下院の議席が二席多く与えられた。全体として、五分の三条項によって下院における南部の議席は二五パーセント増えた。こうして(略)「南部の承認なしに奴隷制度に関する国レベルの法律を制定することはできなくなった」。

(略)

 五分の三条項は南北戦争後に実質的な価値を失って廃止されたものの、そのほかの反多数決主義的な妥協は長く続いた。その最たる例が、アメリカ連邦議会上院の構造だった。(略)

すべての州に平等な代表権(議席数)が与えられる(略)人口五万九○○○人のデラウェア州が、その五倍から七倍の人口を擁するマサチューセッツ、バージニア、ペンシルベニア州と同じ政治的代表権を持つということになる。

(略)

ある段階で、制定会議は決裂寸前まで追い込まれた。デラウェア(略)は、すべての州に平等な代表権が与えられなければ連邦を脱退すると脅し、こんな不気味な警告を発した。「その場合、小さな州はより誠実で信用できる外国の同盟国を見つけることになる。外国の仲間たちは嬉々としてわれわれと協力し、こちらを公平に評価してくれるはずだ」

(略)

[採用された妥協案は]下院では、多数決の原則にもとづいて(新たな五分の三条項によって算出された)州の人口に比例して議席が割り当てられる(略)上院では、州の規模に関係なく一州につき二議席が与えられた。この取り決めは、綿密に練られた計画の一部ではなかった。(略)深刻な対立を避けるための「次善の解決策」だった

(略)

同じように選挙人団も(略)すべての代替案が却下されたあとに、打算的に採用されたものだった。

(略)

当初の草案は、連邦議会が大統領を選ぶというもので(略)議会制民主主義モデルとよく似た仕組みだった。(略)多くの代議員たちは、大統領が過度に議会に束縛されることを恐れてこの制度を拒絶した。

 ジェイムズ・ウィルソンは、国民の直接選挙によって大統領を選出するべきだと主張した。(略)

当時、大統領制民主主義国家は世界にまだひとつも存在していなかった。くわえて、会議に参加したほとんどの代議員はいまだ「国民」を完全には信用しておらず、直接選挙という制度は受け容れがたいものだった。(略)

とくに南部の代議員たちは、大統領の直接選挙にこぞって反対した。(略)

代議員たちはこの問題について二一日間にわたって議論し、三〇回もの投票を行なった。[すべてが否決され](略)

最終的に〈未完成部分のための委員会〉に委ねられることになった。

 その委員会が提案したのは、神聖ローマ帝国において君主や皇帝を「選出」するために使われていたモデルだった。(略)

皇帝が死ぬと(略)選帝侯部会に各地の諸侯や大司教が集まり、新しい皇帝を選出する投票を行なった。これは、中世以降のローマ教皇の選出方法に似ている。(略)

この「中世の慣習」の変化形を非君主的な設定で利用し、それがのちに選挙人団として知られるようになった。

(略)

 選挙人団は、設計された意図のとおりに機能したことは一度もなかった。ハミルトンが期待したのは、州議会に選ばれたとりわけ有能な名士、あるいは著名なエリートが選挙人団を構成し、彼らがみな独立して行動するというものだった。それは幻想でしかなかった。選挙人団はすぐさま、政党同士の競争の場となった。早くも一七九六年には、選挙人は厳格な政党の代表者として行動していた。

憲法に明記されていない司法審査権とフィリバスター

 ほかのふたつの主要な反多数決主義的制度である司法審査権と上院のフィリバスターは、憲法には明記されていない。

(略)

 任期制限や定年制を設けないというアメリカ憲法起草者たちの決定は、驚くべきものではなかった。彼らはたんに、裁判官の在任期間が長くなることを想定していなかった。建国当時の平均寿命は短かった。さらになんと言っても、最高裁判事という仕事には今日のような高いステイタスや魅力はなかった。最高裁専用の建物さえなく、共和制が始まった初期のあいだ判事たちはほとんどの時間を「巡回」のための移動に費やし、連日のように宿屋で寝泊まりしていた。そのため、判事がその地位に長くとどまるとは考えられていなかった。ジョン・ジェイ最高裁初代長官は五年半で職を辞し、その後にニューヨーク州知事に就任した。

(略)

 当初は最高裁判所の権限も曖昧なままだった。起草者たちが明らかに目指していたのは、州法よりも連邦法が優位であるという序列を確立することだった(略)

最高裁が連邦法に対して司法審査権を持つという考えは(略)憲法にも明確には組み込まれていなかった。当時、参考にできるような司法審査のモデルは世界のどこを探しても見当たらなかった。たとえば、イギリスの裁判官もそのような権限を持っていなかった。

(略)

 一七九〇年代から一九世紀初頭にかけて司法審査権は、計画的にではなく慣例的に徐々に形成されていった。

(略)

フィリバスター(略)によって上院の少数派(一九七五年以降は一〇〇人中四〇人)が法案の採決を阻止することができる(略)可決するためには六〇票の絶対的多数が必要になる。(略)

『ザ・フェデラリスト』のなかでマディソンは、議会での絶対的多数ルールを真っ向から拒絶した。「(略)支配するのはもはや多数者ではなく、権力は少数者に移行するだろう」

(略)

 当初の連邦議会上院には、フィリバスターの制度はなかった。その当時に採用されていたのはむしろ「先決問題の動議」のほうで、上院議員の単純過半数の票によって議論を打ち切って採決に移ることができた。ところが、このルールはほとんど使われることがなく(略)一八〇六年に上院は先決問題の動議を廃止した。

(略)

 数十年のあいだ、先決問題の動議の廃止は問題にならなかった。一八三〇年代(一説では一八四一年)まで、組織的なフィリバスターが実施されたことはなかった。(略)一八五〇年代まで名前さえつけられていなかった。ところが一八四〇年代から五〇年代にかけて、ジョン・C・カルフーン率いる南部の上院議員たちは、無制限の議論――事実上の少数派の拒否権――を憲法上の少数派の権利として位置づけはじめた。とは言うものの、上院議員たちはその利用をおおいに控えていた。一八〇六年から一九一七年のあいだにフィリバスターが成功したのはわずか二〇回のみ、つまり一〇年で二回以下だった。

(略)

第一次世界大戦の直前、ドイツ海軍のボート潜水艦による攻撃に備えてアメリカ民間商船に武装を許可する法案が提出されたものの、フィリバスターによって妨害された。そのときウッドロウ・ウィルソン大統領と上院の指導者たちは、議論を打ち切るなんらかのメカニズムが必要だと確信した。そこで一九一七年、上院は(略)三分の二の賛成で討論を終わらせ(略)、法案の採決を強行できる仕組みを作った。多くの上院議員は単純過半数によるクローチャー規則(略)を支持したものの、最終的には三分の二ルールが採用された。

(略)

 それでも二〇世紀のほとんどのあいだ、フィリバスターは比較的まれに使われる程度だった。理由のひとつは、それが重労働だったからだ。フィリバスターを維持するために上院議員たちは、ひたすら発言を続けて物理的に議場に立ちつづけなければいけなかった。ところが一九七〇年代に改革が行なわれ、たんに電話や(現在では)メールで党指導者にフィリバスターの意思を伝えるだけで絶対的多数ルールが適用されるようになった。フィリバスターの実行に労力がかからなくなると、かつてはまれだったことが日常的な習慣に変わった。フィリバスターの使用は二〇世紀末から二一世紀はじめにかけて急増し、今日では「重要な法案の可決にはつねに最低六〇票が必要だと広く受け容れられる」ようになった。

(略)

フィリバスターは偶然の産物であり(略)鉄壁の少数派拒否権は、最近の発明品でしかないのだ。

(略)

建国時の制度が一貫性のある普遍の抑制と均衡のシステムとして扱われるとき、人権の保護や平等な環境作りのためのルールと、選挙や議場において少数政党に特権と優位な立場を与えるルールが十把一絡げにされる。前者のルールは民主主義にとって不可欠だが、後者はその真逆に位置するものだ。

(略)

七五年前、ある著名な政治学者はこう喩えた――「アメリカの多数派は、ライオン用の鎖に永遠につながれた人懐っこい牧羊犬である」。今日の私たちを脅かすのは、拘束されていない多数派ではない。多数派が拘束されていることが問題なのだ。

農村州バイアスが政党バイアスに

[都市化が進み]小州バイアスだったものが、農村州バイアスに変わった。(略)

二〇世紀に入ると、アメリカの憲法システムは農村部の利益を優遇するようになった。しかし、はっきりとした政党バイアスはなかった。なぜなら(略)共和党と民主党はどちらも都市部と農村部の両方に支持基盤を持っていたからだ。(略)

 今日、共和党は主として人口の少ない地域のための政党になり、民主党は都市部のための政党になった。その結果、憲法上の小州バイアスは二〇世紀に農村州バイアスに変わり、さらにそれが二一世紀に政党バイアスに変わった。私たちはいま、アメリカ版「忍び寄る反多数決主義」を経験している。

(略)

得票数が少ない政党が政治権力の重要なレバーを握るという、異常かつ非民主的な状況だ。

(略)

 選挙人団の勝者総取りシステムは、共和党か民主党かを問わずどちらにも有利に働く可能性がある。実際に一九六〇年代には、保守派の共和党のほうがこのシステムを不公平だと考えていた。

(略)

 ところが、選挙人団制度の第二の歪みである小州バイアスは、明らかに共和党に有利に働く。

(略)

一九九二年から二〇二〇年のあいだ、二〇〇四年をのぞくすべての大統領選挙の一般投票で共和党は負けた。逆の見方をすれば、共和党が過半数の票を獲得したのは、三〇年近いスパンのあいだでたったの一度だけということになる。にもかかわらず、そのあいだに共和党の候補が三度大統領に選出され、二八年間のうち一二年にわたって共和党がホワイトハウスを牛耳った。

 少数派支配の二本目の柱は連邦議会の上院で(略)

人口の少ない州で優位に立つ共和党は、国政選挙の一般投票で過半数の票を獲得しなくても上院をコントロールすることができる。(略)

上院を完全に刷新するには、六年の周期で三回の選挙に勝つ必要がある(略)

民主党は一九九六=二〇〇二年以降すべての六年サイクルの合計において一般投票数で勝利してきた。にもかかわらず、そのほとんどの期間の上院を支配したのは共和党だった。

(略)

政党バイアスがあるせいで、民主党が上院を掌握するためには、約五ポイントの差をつけて全国的な一般投票を勝たなければいけないということになる。

全国規模のゲリマンダリング

 少数派支配の第四の柱は選挙制度だ。(略)

民主党は都市部の選挙区で大勝する一方で、非都市部の多くの地域で負けるため「死に票」が多くなる。(略)

 この問題の影響は、州議会でもっともわかりやすく顕在化する。(略)

激戦州として有名なペンシルベニアに注目してみよう。(略)

州議会下院第七〇選挙区(略)人口密度の高い選挙区で、有権者の四五パーセントを非白人が占めている。(略)[共和党候補の]七一一二票に対して、ブラッドフォードは一万六〇五五票を獲得して圧勝した。それと対照的なのが、近くに位置する第七一選挙区だ。より人口密度が低く、有権者の八四パーセントを白人が占めるこの選挙区では(略)[共和党候補]が接戦をかろうじて制し、一万一六一五対一万六六一票で民主党のライバル候補を破った。(略)

[第一四四選挙区]ほぼ全土が農村地域であるこの選挙区僅差で民主党候補に競り勝った。(略)

これら三つの選挙区のすべての票を合計した場合、四万一五八三対三万四一八四票という大差で民主党が勝利となる。しかし、共和党はこれらの三議席のうち二議席を手に入れた。二〇一八年の選挙においてペンシルベニア州全土で起きたこの事象は、現在アメリカの多くの州でも起きているものだ。

(略)

[10年毎の国勢調査を元に選挙区割りが変更されるが、州議会与党は自党に有利な境界線を引くことができる]

第一に、民主党支持者が都市部にさらに集中するようになったせいで、共和党によるゲリマンダリングがより容易になった。つまり地理的な区分けは事前に済んでおり、事実上、共和党は「有利なスタート」を切ることができる。第二に、とくに二〇〇八年のバラク・オバマの当選以降に激化した二極化と共和党の急進化によって、選挙区割り再編への注目度が高まった。そして、かつては地味で事務的な作業だったものが、潤沢な資金をもとに全国的に組織化され、さらにハイテク技術を駆使した禁じ手無しの一大事業へと変貌した。

 事実、二〇一〇年に共和党は多数派再編プロジェクト(REDMAP)と呼ばれる全国的なゲリマンダリング戦略を開始した。

(略)

一九六八年から二〇一六年のあいだにアメリカで行なわれた州議会選挙では、州全体での得票率が低かった政党が下院で過半数の議席を獲得した事例が一二一件あった。敗北したはずの政党が上院の主導権を握った事例は、一四六件に及んだ。かつては、両党ともに捏造された多数派から恩恵を受けることがあった。しかし都市部と農村部の分裂が激しくなった現在、恩恵を受けるのはほぼ共和党に限られるようになった。

クローチャー・ルール

 二〇世紀の民主主義国家の大多数はまた、議会内部の少数派による妨害を制限する措置も講じ、単純多数派によって審議を終わらせることのできる「討論終結[クローチャー ]」と呼ばれる仕組みを作った。「クローチャー」という言葉が誕生したのは、フランス第三共和政の初期のころだった。(略)

新しく生まれた共和政体の政府は、左派の革命的なパリ・コミューンのみならず、王政復古を目指す右派勢力に対抗しなければいけなかった。そのためにも新政府は、効率的に法律を制定する能力を示す必要があった。ところが、国民議会ではマラソンのような長時間の審議が日常化しており、喫緊の課題について何も対策を講じることができなかった。ティエールの後押しによって議会はクローチャー動議を採り入れ、議会の多数派の投票をとおして、延々と続く審議を抑制できる仕組みができあがった。

 イギリスも似たような改革を行なった。一八八一年、自由党のウィリアム・グラッドストン首相は「クローチャー・ルール」を設け、国会議員の過半数の賛成によって審議を打ち切って採決に移ることを可能にした。一九〇五年、オーストラリア連邦議会も似たようなクローチャー・ルールを採用した。

(略)

二〇世紀のあいだに多くの民主主義国家でより反多数決主義的な方向に動いた分野がひとつだけある。司法審査だ。(略)

一九四五年以降、ほとんどの民主主義国家がなんらかの形態の司法審査を採用するようになった。(略)

[前述の通り]司法審査はときに、世代間の反多数決主義の問題発生源となることがある。そのためアメリカ以外の民主主義国家は、終身在職権に代えて、高等裁判所に任期制限や定年制を採用することによってこの問題を抑制してきた。

(略)

 このように二〇世紀に(略)君主制や貴族制によって設計された、国民の多数派を抑制する制度的な足かせの多くが解体された。世界各地の民主主義国家は、極端に反多数決主義的な制度を廃止、あるいは骨抜きにした。

(略)

 かつて民主主義の先駆者の名を恣にし、他国の模範だったアメリカ合衆国はいまや、民主主義の落伍者に成り下がった。ほかの民主主義国家が前時代的な制度を解体していくのとは反対に、アメリカはそれを維持してきた。すると二一世紀の幕開けにおいてこの国は、世界的に例を見ない反多数決主義的な民主主義国家になった。

(略)

・世界の大統領制民主主義国家のうち(略)[間接選挙で]大統領が選出されるのはアメリカが唯一である。(略)

・アメリカは、強力な上院を持つ二院制をいまだに敷く数少ない民主主義国家のひとつである。(略)

・(略)単純小選挙区を採用している数少ない国のひとつである(略)

・(略)最高裁判事に終身在職権が与えられている世界で唯一の民主主義国家である。(略)

七〇〇回に及ぶ選挙人団廃止の動き

[廃止への]動きが本格化したのは、一九六〇年代と七〇年代だった。この期間、一般投票の勝者が選挙人団の投票であと一歩で負けそうになるという「間一髪」の大統領選挙が三度あった(一九六〇、六八、七六年)。一九六〇年の選挙後(略)エステス・キーフォーバー民主党議員は、選挙人団の制度を続けることを「ロシアン・ルーレットのようだ」と喩え、廃止を訴えた。

(略)

一九六六年にバーチ・バイ上院議員は、選挙人団の制度を直接大統領選挙に置き換えるという憲法修正を提案した。

 アメリカ国民もそれに賛同した。一九六六年のギャラップ社の世論調査では、六三パーセントが選挙人団の廃止を支持した。同年、全米商工会議所が会員を対象に調査を行なうと、九割が改革に賛成だと答えた。一九六七年、かの誉れ高きアメリカ法曹協会も支持を表明し、選挙人団を「前時代的で、非民主的で、複雑で、曖昧で、間接的で、危険」と呼んだ。

(略)

[68年大統領選挙]では第三党の候補者ジョージ・ウォレスが予想外の大健闘をみせ(略)わずか七万八〇〇○票足りなければ、共和党候補のリチャード・ニクソンは選挙人団で過半数の票を確保することはできなかった。その場合、最終結果は民主党優位の下院に委ねられることになる。この選挙結果に両党の指導者たちが戦慄し、バイの改正案をともに支持するようになった。

 一九六九年になると、選挙人団廃止への動きはもはや「止まりそうもなかった」。新大統領リチャード・ニクソンも改正案を支持した。

(略)

 一九六九年九月、下院は賛成三三八、反対七〇票で選挙人団の廃止案を可決した。その票数は、憲法改正に必要な三分の二の賛成をはるかに上まわるものだった。(略)ギャラップ社の世論調査では、アメリカ国民の八一パーセントが改正を支持するという結果が出た。

(略)

[しかし]上院が改正の息の根を止めた。そして、過去の改正の取り組みの多くのケースと同様に、反対の声は南部から上がった。(略)

人種差別主義者のベテラン上院議員ストロム・サーモンドは、法案に対してフィリバスターを行使することを宣言した。同じく人種差別主義者である上院司法委員会のジェイムズ・イーストランド委員長は「司法委員会での審議を引き延ばし」、一年近く通過を遅らせた。一九七〇年九月一七日についにクローチャー投票が行なわれると、五四人の上院議員が審議を終わらせることに賛成した(多数派ではあったものの、フィリバスターを阻止するために必要な三分の二(六七票)には遠く及ばなかった)。

(略)

 バーチ・バイ上院議員はあきらめなかった。一九七一、七三、七五、七七年に彼は選挙人団改革法案を再提出した。「間一髪選挙」がふたたび起きたあとの一九七七年、バイの提案にまた一定の注目が集まった。ジミー・カーター大統領がこの動きを支持し、ギャラップ社の世論調査でも七五パーセントのアメリカ国民が賛成という結果が出た。しかし法案の審議は引き延ばされ、上院でふたたびフィリバスターされた。

(略)

選挙人団改革の支持者がオフレコでこう認めたと報じた。「一般投票で得票数が少なかった候補者が大統領に実際に当選するか、そのような結果に国が不穏なほど近づかないかぎり、この問題がふたたび日の目を見ることはおそらくないだろう」。やがて、彼らがどこまでも呑気で楽観的すぎたことが発覚する。二一世紀はじめ、一般投票の敗者が二度も大統領に当選した。にもかかわらず、選挙人団の制度はいまだ残ったままだ。(略)

悪用される「戦う民主主義」

ヒトラーによる権力掌握というトラウマを抱えた戦後西ドイツ[は](略)

反乱勢力や反憲法的な言論、団体、政党を禁止や制限できる憲法を制定した。

(略)

この排除戦略にも落とし穴がある。(略)

安易に悪用されやすいツールであるという点だ。アメリカの歴史には、そのような悪用の事例が山ほどある。一七九八年の外国人・治安諸法、社会党の指導者ユージン・デブスの逮捕、一九一九年から一九二〇年にかけて行なわれた左翼狩り「パーマー・レイド」、悪名高い下院非米活動委員会とジョセフ・マッカーシー上院議員による政治的な魔女狩り、アフリカ系アメリカ人指導者と活動家の監視、逮捕、さらには殺害……。戦う民主主義の概念はまた、冷戦中に南米の多くの国において、左翼政党の活動禁止を正当化するためにも使われた。

(略)

 ここで、ジェイムズ・マディソンらが打ち立てた基本原則を振り返ろう――過激な少数派に打ち勝つには、選挙をとおして闘うのが最善である。マディソンは、国民の多数派を勝ち取るという必要性こそが、とくに「邪悪な」政治的動きの抑制へとつながるはずだと考えた。しかし彼が編み出した方法論では、国民の多数派が選挙で実際に勝利する必要がある。それを実現するために、アメリカは選挙制度を改革しなくてはいけない。二〇世紀初頭にアメリカの改革論者ジェイン・アダムズが主張したとおり、「民主主義の病気の治療に必要なのは、さらなる民主主義である」。

(略)

それは、少数派が過度に保護される領域を解体し、政府のあらゆるレベルで多数派に力を授けることを意味する。

(略)

長年の懸案となっている憲法と選挙制度改革をとおして、アメリカの民主主義を民主化しなければいけないということだ。

(略)

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少数派の横暴 民主主義はいかにして奪われるか

はじめに

ヨーロッパと同じようにアメリカにおいても、極右的な有権者は少数派でしかない(これは重要なポイントだが見逃されがちだ)。(略)

しかしヨーロッパの極右政党とは異なり、トランプの共和党は政権のトップへと上り詰めた。

 ここから、さらなる不快な真実へとつながっていく。今日この国が直面する問題の一部は、私たち国民の多くが崇拝するもの――合衆国憲法――のなかに潜んでいる。(略)

成立から二世紀以上にわたって憲法は、度を越えて野心的な大統領の権力を抑え込むことに成功してきた。しかしいま、憲法の欠陥のせいでアメリカ民主主義は危険にさらされている。

 民主主義が確立する以前の時代に設計された合衆国憲法は、少数政党が多数政党を日常的に妨害し、さらには多数派を支配することさえ可能にしている。少数政党に大きな権限を与える制度は、ときに少数派による支配のためのツールとして利用される。(略)

 エドマンド・バークからジョン・アダムズ、ジョン・スチュアート・ミル、アレクシス・ド・トクビル(略)は、民主主義が「多数派による横暴」(数の暴力)になる危険性について不安視していた。(略)

私たちがいま直面している喫緊の脅威は、少数派による支配のほうなのだ。多数派による横暴という怪物から共和国を護ろうとするあまり、アメリカの建国者たちは、少数派の支配という怪物の攻撃に脆弱なシステムを作り出してしまった。(略)

負ける恐怖

 一九八三年一〇月三〇日、アルゼンチンでは一〇年ぶりとなる民主的な選挙の開票が行なわれるなか(略)ペロン党(正義党)支持者たちは衝撃を受けていた。「工業地帯の票はいつ加算されるんだ?」(略)しかし、それらの票はすでに加算されていた。こうして史上はじめて、ペロン党――アルゼンチンの労働者階級のための政党――が自由選挙で敗れたのだった。(略)

元軍人のフアン・ペロンが一九四六年に大統領に初当選して以来、ペロン党はアルゼンチンの第一党として君臨してきた。ペロンは有能なポピュリスト政治家で、アルゼンチンの社会保障制度を築き上げ、労働運動の規模を四倍に拡大し、労働者階級から絶対的な支持を得た。

 一九五五年のクーデターでペロンが失脚し、一八年にわたって国外追放されたあいだも、労働者の忠誠心が潰えることはなかった。その約二〇年の長い期間ペロン主義は禁止されたものの(略)参加が許されたすべての国政選挙で勝利した。一九七三年、年老いたペロンがついに母国への帰国を果たし[大統領当選](略)翌年に彼が亡くなると、アルゼンチンはまたもやクーデターの餌食となり、七年にわたって軍事独裁政権の手に落ちることになった。

 そのような紆余曲折があったにせよ、一九八三年に民主主義体制が復活したときにはほぼ誰もが、ペロン党の大統領候補イタロ・ルーデルが最終的な勝者になると予想していた。

 が、それまでにアルゼンチンは大きく変化していた。(略)産業の衰退によって数十万人分の肉体労働職が失われ、ペロン主義の基盤となる労働者階級は大打撃を受けた。同時に若年層や中流階級の有権者たちは、ペロン党系の保守的な労働組合幹部たちを忌み嫌った。(略)有権者の多くは、ペロン党のライバルである急進市民同盟の人権派候補ラウル・アルフォンシンのほうを好んだ。(略)

候補者は暴力的で現実離れした人物が多く、問題はさらに深刻化した。(略)

エルミニオ・イグレシアスは、物騒な一九七〇年代にペロン党内の対立派閥と撃ち合いになったことで有名な人物だった。開票二日前に行なわれたペロン党の最後の選挙集会において(略)急進市民同盟のロゴが描かれた段ボール製の棺桶を燃やした。国営放送で生中継されたその暴力的なパフォーマンスは、一〇年近く恐るべき弾圧に苦しんできたアルゼンチン人の多くを戦慄させるものだった。

(略)

アルフォンシン優勢の結果が伝えられると、ペロン党の指導者たちは何か裏があるはずだと必死でみずからに言い聞かせ、その状況をすぐには認めようとしなかった。「まだラ・マタンサ(支持基盤の労働者階級地区)の票が数えられていない」(略)

副大統領候補(略)は、労働者階級地区の開票を後まわしにしていると選挙当局を非難した。ところが日付が変わるころまでに、そのような隠れた票などたんに存在しないことが明らかになった。

(略)

 選挙後にペロン党内では、組織としての将来をめぐる大きな議論が巻き起こった。「レノバシオン」(刷新)と呼ばれる新派閥は、アルゼンチン社会の変化に適応しなければペロン主義がふたたび勝利を収めることはないと主張し、既存の党指導部の解任を求めた。(略)党内からは「ジャケットとネクタイをまとったペロニスタ」と批判を受けた刷新派だったが、派閥の指導者たちは徐々に、ペロン党の気性の荒い保守派を脇へと追いやった。そして前時代的な考えの多くを取りのぞき、中流階級層のあいだで党のイメージを向上させることに成功した。結果、その後の二度の大統領選ではペロン党が快勝した。

 これこそ、民主主義のあるべき姿だ。政治学者アダム・プシェボルスキの有名な言葉のとおり、「民主主義とは政党が選挙で負けるシステム」である。

アメリカ初の権力移譲

 敗北を受け容れ、平和的に権力を放棄するという規範は、近代の民主主義の基盤となるものだ。一八〇一年三月四日にアメリカ合衆国は、ひとつの政党からべつの政党への選挙による権力移譲を経験した世界初の共和国となった。

(略)

連邦党の現職大統領ジョン・アダムズ(略)を破ったライバルの民主共和党トーマス・ジェファーソン

(略)

一八〇〇年当時、敗北を受け容れ、対立相手に権力を譲るという規範はまだ定着していなかった。(略)

それまで権力の移譲が行なわれたことはなかったため、将来の選挙で対立相手が同じように移譲を繰り返してくれると断定はできなかった。権力の移譲はまさに、「未知への突入」だった。(略)

彼らはいわば「創設者のジレンマ」に苦しめられていた。新しい政治体制を定着させるためには、その創設者は、自分たちが制度を永遠に支配することはできないという事実を受け容れなくてはいけない。

(略)

 アメリカの最初の野党である民主共和党の出現によって、誕生したばかりの国家の安定性が早くも脅かされることになった。

(略)

連邦党員の多くは、民主共和党をほかならぬ反逆者と見ていた。とくに、彼らがフランスの革命政府に同情的なことに懸念を抱いていた。(略)

連邦党が恐れていたのは、民主共和党員たちが(略)フランスの侵攻を手助けするというシナリオだった。これらの懸念は、南部で相次いだ奴隷の暴動によってさらに強まっていった。

(略)

 連邦党はまず、対立相手を殲滅しようとした。一七九八年、連邦議会は外国人・治安諸法を可決した。連邦党はそれを利用し、政府を批判した民主共和党系の政治家や新聞記者を逮捕した。この法律によって、国の二極化はさらに進んだ。(略)

[外国人・治安諸法を無効とした](略)バージニア州の行動をフランス援護のための「陰謀」の一部だと見たハミルトンは、「バージニアに向かわせるための堅固な軍事力」を築くようアダムズ政権に求めた。それに呼応するように、バージニア州議会は独自の民兵を配備して武装しはじめた。

 暴力、さらには内戦の恐怖という暗雲が、一八〇〇年の大統領選挙直前のこの若い共和国を覆っていた。

(略)

ジョン・アダムズの敗北は明らかだった。しかし、民主共和党のふたりの候補(略)[トーマス・ジェファーソンとアーロン・バー]がそれぞれ七三票を獲得し、手ちがいによって同点となってしまった(略)

[アダムズは渋々ながらも敗北を受け容れたが]

多くの連邦党員はこの選挙の混乱を逆手にとり、強硬手段を繰り出して権力を維持するための好機だと考えた。なかには、選挙をやり直すというアイデアを提案する者もいた。ほかにも、将来の政権で連邦党がなんらかの役割を得るのと引き換えに、あえてバーを大統領に選出するべきだと訴える者もいた。(略)

さらに物議をかもすアイデアが連邦党内で浮上した。それは、一八〇一年三月四日の就任期限まで議論を引き延ばすという作戦だった。(略)そうすれば「政権は連邦党の上院議長代行の手に委ねられる」ことになる。ジェファーソンが「憲法の拡大解釈」と呼んだその種の動きは、ほぼまちがいなく憲法の危機を招くものだった。

(略)

苦々しい六日間、三五回にわたって投票が繰り返されたものの、結果は変わらなかった。八州がジェファーソン、六州がバーに票を投じた。(略)

この行き詰まりを打開するには、少なくとも連邦党議員のひとりがジェファーソンに投票する必要があった。ついに六日目[ジェイムズ・バヤードがバー支持撤回](略)

最終的にジェファーソンは過半数に達する一〇票を確保(略)大統領に就任した。

(略)

バヤードは友人宛ての手紙のなかで投票先を変えた理由について触れ、ジェファーソン以外の選択肢は憲法の崩壊、さらには内戦につながりかねないと恐れたからだと説明した。

(略)

 いったん政党が負けることを学ぶと、民主主義は根づきやすくなる。そして民主主義が根づくと、権力の交代が当りまえのものになり、人々は政権交代を当然の流れとして考えるようになる。

(略)

二極化した選挙運動の末に多くの連邦党員は民主共和党について、自分たちの存亡にかかわる脅威だと考えるようになった。ジェファーソンが勝利すれば(略)連邦党の支持者は貧困に陥り、社会から追放される。(略)

 ところが最終的にハミルトンをはじめとする建国者たちは、ジェファーソンが既存の制度の埒内で活動する現実主義者であると判断した。(略)

どうやら水面下の交渉をとおして連邦党の有力者たちは、ジェファーソン政権のもとでも党の最優先事項が保護されると確信したようだ。その優先事項のなかには、海軍、合衆国銀行、国債などが含まれていた。おまけに退陣する連邦党政権は、一六もの連邦裁判官の地位を新設し、それらの席を身内で固めて裁判所を牛耳ることに成功した。このようにして連邦党員たちは、ジェファーソン政権が破滅的な結果を招くことはないと信じ、権力の中枢から去った。

エリート層を震撼させたタクシン

[タイでは]一九三〇年代以降に軍事クーデターが一〇回以上も発生した。ところが一九九〇年代に入ると、民主主義体制が強化されていった(ように見えた)。一般市民の抗議活動によって軍事政権による支配が終わりを告げ、中流階級を基盤とするタイ民主党――長きにわたって軍と対立してきた政党――が一九九二年の選挙で勝利した。新憲法の制定、一〇年にわたる経済の二桁成長、規模の拡大とともに自信を深める中流階級、それらすべてがタイの民主主義の未来を明るく照らした。

(略)

 しかし、二一世紀はじめに事態は一変した。立てつづけに起きた軍事クーデターによって、生まれたばかりのタイの民主主義は破壊され、軍部が支配的な地位を取り戻した。そして驚くべきことに、一九九〇年代に民主主義のための闘いを先導した民主党が、これらのクーデターを容認してしまった。いったい何が起きたのだろう?

(略)

[2014年の投票日]高学歴の中流階級層を主とした抗議者たちが、街の通りを封鎖(略)

バンコク中心地の広場、ショッピングモール、主要な交差点でお祭り騒ぎにも似た集会を開催した。(略)

 俳優、ポップ歌手、タイ有数の大富豪一家の御曹司がその会場にいた。(略)

抗議者たちは、当時の首相インラック・チナワットを腐敗の象徴として批判し、辞任を求めた。(略)

彼らが訴えるスローガンのひとつに、抗議活動に参加した不動産王スリワラ・イサラが提唱したものがあった「民主主義よりも道徳的な正義を優先せよ!」。

 デモ隊は二〇一四年二月の総選挙を妨害することに成功し、憲法裁判所も最終的にその選挙を無効と判断した。五月、インラック首相は些細な理由によって失職させられた。二週間後、軍が国王の承認を得たと主張して戒厳令を発令し、憲法を破棄した。そして国家平和秩序維持評議会(NCPO)による軍事政権が樹立され、タイの民主主義に終止符が打たれた。(略)

 タイ民主党は古くから、民主主義の擁護者を標榜してきた。そのような中流階級の主流政党が、選挙を拒絶し、クーデターを受け容れるようになったのはなぜだろう?

(略)

アジア通貨危機によって(略)主流政党への国民の支持が低下(略)二〇〇一年の総選挙では、政界のアウトサイダーである大物実業家タクシン・チナワット(略)が大勝利(略)

戦略的な政治家でもあるタクシンは、北部の貧しい農村地域を対象とした政策が選挙に有利に働くことを理解していた。二〇〇一年の選挙でタクシンは、新しい「社会契約」を公約に掲げて活動した。そのなかには、三年間の農民の債務繰り延べ、稲作に偏重した農村経済の多角化のための助成金、野心的な国民皆保険制度などが含まれていた。そして彼は公約を護り、タクシン政権は貧困層向けの公共政策のために数十億ドルもの予算を割り当てた。こうしてタイは、世界ではじめて国民皆保険制度を導入した中所得国のひとつになった。貧困率はとくに農村部で劇的に改善し、数十年ぶりに貧富格差も縮小した。(略)

[2006年の選挙では60%の得票率で圧勝]民主党の三倍近い数字だった。突如として、民主党は競争力を失ってしまった。

(略)

王室との親密な関係やタイのエスタブリッシュメント層からの支持があるにもかかわらず、民主党は二〇〇一年から二〇一一年にかけて総選挙で五連敗を喫した。

 しかし、二〇一三年と二〇一四年に高学歴の会社員を中心とした中流階級の民主党支持者を街頭デモへと駆り立てたのは、党が選挙で勝てないから[でも政権の汚職等でもなく](略)

もっと根深いものだった。バンコクのエリートたちは、タイ社会の権力、富、地位のバランスが変わりつつあることに憤りを募らせていた。彼らは長いあいだ、政治的、経済的、文化的な階層の頂点に君臨してきた。

(略)

エリート層をなにより震撼させたのは、自分たちの反対側の世界で誰が勝利を収めているのかということだった。(略)

[シンハービールの令嬢は]エリートたちが抱くこの感情について代弁した。「タイ人のあいだでは、民主主義に対する真の理解が欠けています。とくに農村部ではその傾向が強くなります」。(略)

[エナジードリンク企業CEO]は、記者にこう話した。「わたしは民主主義に全面的に賛成しているわけではありません……タイ人は、そのための準備がまだできていないと思います。この国には、中国やシンガポールのような強い政府が必要です。独裁国家のようなものかもしれませんが、それこそが国の利益になるのです」。

(略)

 地位が高いタイ人の多くがこのように民主主義に抵抗しようとした背景には、社会から追放されることへの恐怖があった。作家のマーク・サクサーはこう説明する。

 

 都市部の中流階級層は、かつてはタイにおける民主主義的な規範の庇護者だった。しかし二一世紀の最初の一〇年のあいだに彼らは、自分たちが少数派になったことに気づいた。現在、選挙のたびに首尾よく勝利するのは、巧みな政治的企業家に動員された社会の末端の人々のほうだ。都市部の中流階級者たちは、農村部の中流階級者が台頭し、社会と政治への全面的な参加を求めていることにどこまでも無知だった。そんな彼らは、平等な権利や公共財に対する農村部の要求について「貧困層が強欲になっている」と解釈した。

 

(略)彼らの第一目標は「タクシン以前の想像上の理想的な時代」に戻ることだった。「その時代には支配者層と支持者たちが悠然と采配を振るい、地方の有権者は社会の隅へと追いやられていた」(略)

デモ参加者とタイ民主党支持者がなによりも恐れていたのは、自由で公正な選挙だった。(略)かつてはクーデターと絶対王政に猛然と反対していた民主党が、二〇一四年のクーデターをひそかに支持し、のちに軍事政権に加わった理由だった。

(略)

 恐怖はときに、独裁主義への移行を後押しする。政治的な権力を失う恐怖はもちろん、社会におけ自分の支配的地位を失うという恐怖がもたらす影響力はとくに大きい。そして恐怖はときに、主流政党が民主主義に背を向ける要因となる。(略)

タイでは、民主主義への攻撃者を特定するのは簡単だった(略)しかしより確立された民主主義国家では、多くの場合、民主主義を蝕む流れはより見えにくく、より止めるのがむずかしい。

保守本流が右翼暴動を容認したことで…

(略)

フランス社会は混乱の渦に呑み込まれていった。世界恐慌、一連の大きな汚職スキャンダル、治安の悪化、そして不安定な政治状況(略)

 一九三四年二月六日の午後、数万人の怒れる若者たち――多くは退役軍人協会、または愛国青年同盟、アクシオン・フランセーズ、火の十字団などの右翼の民兵組織(略)[がコンコルド広場に集結]

すべての集団が議会制民主主義への敵意によって結ばれていた。なかには、ムッソリーニの黒シャツ隊を模倣した似非ファシストもいた。(略)

国会議事堂内で行なわれる投票の公式集計を妨害することであり、誰もが右派政権の樹立を望んでいた。どの集団も自分たちを愛国者とみなし、「フランス人のためのフランス」といったスローガンを掲げ、リベラル派や社会主義者のライバルを負け犬、さらには裏切り者と位置づけた。

(略)

バスが燃やされた。数万の暴徒たちが椅子、鉄格子、石を投げた。

(略)

議員たちは隠れる場所を探して慌てふためいた。建物内にいたジャーナリストたちは報道記者席に避難し、扉の外に手書きの看板を掲げた――「デモ隊に告ぐ。ここに代議士はいません!」。

(略)

ダラディエ首相はすぐさま辞任。後任には右派のガストン・ドゥメルグが就任したが、それは右翼リーグに配慮した人選だった。こうして、一部の反乱者の目標は達成された

(略)

穏健保守派のアルベール・ルブラン大統領は、暴動を「共和制への攻撃」と非難した。(略)

二月六日の共和制反対デモに参加した一部の極左の共産主義者でさえ、いまや社会主義者やリベラル派と結束を固めるようになった。

(略)

 一方で、フランスの主要な保守政党である共和連盟は(略)驚くほど寛容な態度をとった。(略)

長いあいだエリート政党と位置づけられてきた共和連盟は、積極行動主義と活力の源として愛国青年同盟やほかの右翼リーグに依存するようになった。(略)

少なくとも、三五人の共和連盟の国会議員が愛国青年同盟に属していた。

(略)

フィリップ・アンリオは、愛国青年同盟を自党の「突撃隊」と表現した(のちにアンリオは、ナチス傘下のビシー政権でプロパガンダ担当国務長官を務めた)。

(略)

保守本流派が反民主的な過激派に同情したこと、それが二月六日の危機を引き起こした主たる要因だった。

(略)

反乱者たちは、腐敗、共産主義、政治的機能不全から共和国を救おうとした英雄的な愛国者であり、非難されるべきは警察による残虐行為のほうだと彼らは説明した。

(略)

二月六日の出来事に対する説明責任が果たされることはなく(略)六年のうちに民主主義は死んでしまった。

(略)

襲撃のあいだにケガをした右翼デモ参加者の一部がのちに、〈二月六日の犠牲者の会〉[を結成](略) 

保守界隈で英雄として持て囃された。

 犠牲者の会の代表(略)反ユダヤ主義者ルイ・ダルキエ・ド・ペルポワ(略)

襲撃の日の暴力のスリルと自身が負ったケガが彼に新たな使命を与え、ダルキエは「宝くじの当籤券」を手にしたかのように感じたという。一九四〇年のナチスドイツによる侵攻後、ダルキエや仲間の「犠牲者」の多くが嬉々としてビシー政権の運営に加わった。ダルキエはユダヤ人問題担当のフランス側の責任者となり、強制収容所へのユダヤ人の移送を取り仕切った。(略)

[他のメンバーはパリ市議会議長や]ビシー政権のプロパガンダ担当国務長官になった。(略)

 準忠誠的な行動は、反民主主義的な過激派を保護するだけでなく、彼らの考えを正当化する。健全な民主主義では、反民主主義的な過激派は社会ののけ者として扱われ、マスコミに敬遠される。(略)エスタブリッシュメント側のメンバーは、自身の評判が傷つくことを恐れて過激派との接触を避ける。しかし、著名な政治家からの暗黙の支持があると状況は一変し、過激派とそのイデオロギーがより正常なものとして扱われることもある。主要メディアは、ほかの政治家と同じように過激派について取り上げ、インタビューや討論会に招きはじめる。実業界のリーダーの一部は、過激派の活動に資金を提供しようと考える。(略)

公の場で支援することをためらっていた多くの政治家や活動家が、いまとなっては支援しても問題ないと判断するようになる。

(略)

一九三四年時点の愛国青年同盟の政策の核にあったのは、それまで何十年ものあいだ政界の既成勢力の多くから忌み嫌われてきた考えだった――議会の解体、さらにはフランス第三共和政の民主主義の解体。ますます多くの保守派が、フランスの民主主義は腐敗し、機能不全に陥り、共産主義者とユダヤ人に侵食されていると考えるようになった。すると、権威主義的な「憲法改正論」が右派の主流の考え方になった。急進的な右翼勢力は、ユダヤ人社会主義者レオン・ブルム率いる一九三六年成立の改革派〈人民戦線〉政権について、破滅的なスターリン主義だと批判した。右派のあいだでは、「ブルムよりヒトラーのほうがマシ」というスローガンが流行した。(略)

[保守派は]ドイツを嫌悪していた。しかし一九四〇年までに、共産主義、ソ連の侵入、国内の社会変動に対する恐怖に突き動かされ、保守派は渋々ながらもナチスを黙認するようになった。

(略)

主要政党が反民主主義的な過激派を容認、あるいは陰で支持すると、「反民主的な行動にともなうリスクが小さくなった」という強力なメッセージを送ることになる。

(略)

合法的に破壊される民主主義

インディラ・ガンディーと側近たちはなんとしてでも権力を奪い返そうと数カ月にわたって思案しつづけたものの、確実な方法が見つからなかった。一九七五年六月二四日の夜、首相官邸に呼び出された最側近のシッダールタ・シャンカー・レイは国会図書館からインド憲法を一冊取り寄せ、「解釈学的な厳密さをもって熟読」した。レイが最終的に着目したのは第三五二条だった――インドが「戦争、または外部の侵略、または国内の騒乱」の脅威にさらされた場合、政府は緊急事態を宣言し、憲法が保障する基本的な権利を停止することができる。植民地支配の遺産であるこの条項は、独立以来ずっと「休眠状態」にあった。

(略)

警察が野党指導者たち(略)を含む六七六人の政治家の身柄が拘束された。それまで密輸業者に適用されていた国内治安維持法などの法律を引っぱり出し(略)一一万人以上の敵対者を逮捕した。くわえて、厳しいメディア検閲も行なわれた。たったひとつの署名をとおしてガンディー首相は、三〇年近く続いた民主主義の息の根を止め、「憲法という名の衣をまとった」独裁政治を確立した。

(略)

 政府は法律を回避するだけでなく、法律を適用してライバルを罰することもできる。(略)

ライバルに照準を定めて選択的に法を執行することもできる。その種の政府の行動はいたって合法的なものだ(略)

ペルー大統領を務めた独裁者オスカル・ベナビデスの口癖は、「友人にはすべてを与え、敵には法律を与えるのがいい」というものだった。

(略)

民主主義の後退は、合理的に見える一連の措置によって少しずつ進んでいく。たとえば、表向きは選挙の正常化、汚職の撲滅、司法制度の効率化などを進めるために設計された新しい法律が作られることがある。または裁判所が、現行法に新たな解釈を与える判決を出すこともある。あるいは、長いあいだ使われていなかった法律が都合よく再発見される例もある。そのような措置は合法性のベールをまとっているため、実際には何も変わっていないかのように見える。

 流血騒ぎなどなく、誰も逮捕されず、亡命もしていない。国会も通常どおり開催される。そのため政府の施策に対する批判は、「過剰反応」や「野党の言いがかり」などと片づけられてしまう。しかし徐々に、ときにほとんど気づかないうちに競技場は傾いていく。一見すると無害なこれらの措置の累積効果によって、政権の対立相手による競争がより困難になり、よって現在の権力者たちの立場が強固になっていく。

(略)

オルバーン・ビクトル(略)は、はじめは「リベラル派」として、一九九〇年代のポスト共産主義の激動の時代にはキリスト教民主主義者として活動した。第一次政権のあいだ、オルバーンは民主的に国を統治した。(略)

二〇〇二年の選挙の敗北後にフィデス党は激しく保守化し、民族主義的な路線に舵を切った。(略)

二〇一〇年にフィデス党が政権に復活したとき、オルバーンがハンガリーの民主主義を蝕むことになるとはほぼ誰も予想していなかった。

(略)

フィデス党の得票率は五三パーセントだったが、[「小選挙区制」により]国会の三分の二以上の議席を独占した。(略)直後に憲法改正が行なわれた。

(略)

 オルバーンは国会での党の圧倒的多数を利用し、反対勢力に対する不当なまでの優位を確立した。その最初の動きのひとつが、不都合な判事を取りのぞいて裁判所を抱き込むことだった。(略)

[憲法改正により憲法裁判所判事をフィデス党支持者に入れ替え、裁判官定年を引き下げ]二七四人の裁判官が地位を追われた。(略)

二〇一三年までに司法は骨抜きにされ、「政府の操り人形」に成り代わった。元最高裁判所判事が言ったとおり、「オルバーンは合憲的な手段を用い、合憲性というマントで身を覆いつつ憲法違反のクーデターを成功させた」。

(略)

オルバーン政権下では、公共テレビ放送局は政府のプロパガンダ部門に変わった。

(略)

[親オルバーン経済人がメディアを買収、検閲強化。残った数少ない独立系メディアも新法により認可剥奪。最後に選挙管理委員会が抱え込まれ、選挙区区割りを恣意的に改定]

 これらの試みのすべてが実を結んだ。二〇一四年の総選挙では、フィデス党は二〇一〇年より六〇万も票を減らし、得票率は五三パーセントから四四・五パーセントに下がった。ところが二〇一〇年の選挙と同じ数の議席を獲得し、過半数の票を得ることができなかったにもかかわらず、国会の三分の二の支配を維持した。フィデス党は二〇一八年にもこのトリックを繰り返し、五〇パーセント以下の得票で国会の議席の三分の二を勝ち取った。二〇二二年の選挙でも与党が野党の大連合を破り、オルバーンが「"通常"の状況下で敗北することはない」というハンガリーの新たな社会通念がさらに強まることになった。

 こうしてオルバーン・ビクトルは、途方もない偉業を成し遂げた。彼は成熟した民主主義を破壊しただけでなく、ほぼ完全に合法的な手段でそれを達成した。流血騒ぎも大量逮捕もなく、政治犯や亡命者が出ることもなかった。しかしバイナイ元首相が語ったとおり、「ハンガリー民主主義の背骨は一種ずつ組織的に壊されていった」。

(略)

ウィルミントンのクーデター

 一八九〇年代後半、ノースカロライナ州ウィルミントンは好況に沸いていた。一八世紀の奴隷経済で栄えた沿岸部に築かれたこの港町は、南北戦争後に綿花生産の革新的な工業化システムの拠点となった。新しい鉄道路線が敷かれ、内陸部の生産地域からウィルミントンのレンガ倉庫へと綿花が運搬された。そこに新たに設置された近代的な圧縮機を使えば、かつてないほど効率的に綿俵を生産することができるようになった。街随一の雇用主であるアレクサンダー・スプラント&サンは、アメリカ最大の綿花輸出業者に成長した。その倉庫、波止場、慌ただしい材木置き場では、白人と黒人の労働者が互いに協力し合いながら積み込み、運搬、荷下ろしなどの作業に勤しんでいた。

 ノースカロライナ州最大の都市であるウィルミントンの住民は、黒人が過半数を占めていた。南北戦争後の経済発展にともない、黒人経営の店舗が数多く誕生した。理髪店、食料品店、レストラン、精肉店が軒を連ね、やがて診療所や法律事務所もできた。ウィルミントンの黒人は裕福になり、文学会、公共図書館、野球リーグ、黒人所有の新聞社が設立されるなど、活気あふれる市民生活が営まれた。

(略)

 連邦政府が主導する南北戦争後のリコンストラクション(再建)計画は、一八七〇年代後半までに衰退していった。白人至上主義の擁護者を自認する民主党は、暴力と選挙不正を利用し、南部のほとんどの州政府と地方自治体の支配を奪い返した。それでも多くの黒人たちは、勇敢に投票を続けた。

(略)

人民党が支持を訴えかけたのは、貧しい白人の借地小作農民や分益小作人だった。(略)

一八九三年にノースカロライナの人民党は、アフリカ系アメリカ人から強い支持を受ける共和党とタッグを組んだ。「フュージョン」(融合)と呼ばれたこの連合は、野心的な人種間提携をとおして黒人と農村部の貧しい白人有権者を結びつけた。彼らが目指したのは、学校教育の拡大、影響力の強い事業独占の規制、リコンストラクション終焉後に蝕まれていた投票権の強化だった。

 このありえない提携は(略)民主党のエスタブリッシュメントを恐怖で震え上がらせた。フュージョン派の候補者は、一八九四年のノースカロライナ州議会選挙で圧倒的多数の議席を獲得し、一八九六年には知事選で勝利した。(略)

フュージョン派が多数派を占める州議会は、地域の役人の直接選挙を復活させ、「リコンストラクション後の南部でもっとも公正で民主的な選挙法」と評された法律を制定した。その結果、州全体で黒人の共和党員と白人の人民党員がつぎつぎと公職を勝ち取った。(略)

 まさに、ウィルミントンに多民族民主主義の萌芽が垣間見えた瞬間だった。(略)黒人市民は選挙で大切な一票を投じ、政治家たちは選挙で勝つために黒人を必要としていた。(略)

[しかし]多民族政治の広がりは、激しい反発を引き起こした。(略)

民主党の政治家たちは、「ニグロ支配」に対する白人たちの恐怖を煽った。(略)

「この国に最初に定住した白人たちのみが統治を担うべきである」(略)

「われわれは数でニグロを上まわることはできない。だとすれば、不正や水増しをしてでも相手を打ち負かさなくてはいけない」(略)

白人たちは「赤シャツ隊」と呼ばれる民兵組織を結成し、ウィンチェスター銃を持って街をパトロールし、地元の黒人に殴る蹴るの暴行をくわえて脅し、投票しないよう警告した。(略)

民主党の政治家の扇動によって、白人たちは暴力的な熱狂の渦に巻き込まれていった。

(略)

投票当日、白人政府連合は各地の投票所に「選挙立会人」を配置し、地元紙は黒人に投票しないよう呼びかけ、赤シャツ隊は馬に乗って通りをパトロールした。危険を冒してまで投票に行こうとする黒人はほとんどいなかった。行こうとしても、その多くが銃で脅されて追い返された。圧倒的に黒人が多い選挙区では、投票が締め切られたあとに民主党の暴漢たちが投票所に入り、係員を脅し、投票箱に不正票を入れた。当然ながら民主党は圧勝し、州議会の一一八のうち九八議席を奪取した。(略)

[市の役人を選ぶ次回の選挙は翌年]黒人がまだ要職に就いたままだった。(略)

五〇〇人の白人至上主義者からなる暴徒が(略)[行進し、歩行者を射殺、黒人教会を襲撃、黒人所有の新聞社を焼き払い](略)

市庁舎に突入し(略)市政府の全員を銃で脅して辞任に追い込んだ。(略)

有力な黒人住民の多くが、銃を突きつけられて街から追放され、二度と戻ってくることはなかった。その後、クーデターの主導者であるワデルが新市長に就任した。

(略)

民主党はすぐに州憲法を改正し、投票税(人頭税)、識字能力の試験、資産条件などを含む一連の投票制限を導入した。(略)一八九六年の州知事選挙の黒人の投票率は八七パーセントにのぼったが、一九〇四年にはほぼゼロになった。(略)

一九七二年まで七〇年以上のあいだアフリカ系アメリカ人が市議会議員に当選することはなかった。(略)

合法的に黒人の投票権を奪う

一八七〇年代に民主党を権力の座へと戻した恐怖と不正の戦術は、恒久的な解決策とはなりえなかった。民主党の指導者たちはさらに、目に余る暴力行為がこれ以上続けば、国民からの批判にさらされ、連邦による監視と取り締まりの強化にまたつながりかねないと懸念していた。そこで一八八〇年代後半(略)合法的な手段を通じて民主主義を攻撃しはじめた。

 一八八八年から一九〇八年にかけて彼らは州憲法と投票法を書き換え、アフリカ系アメリカ人の選挙権を剥奪した。憲法修正第一四条と一五条の廃止は無理だとしても(略)「それを法令集のなかで死文化させる」ことを狙った。(略)

まさに憲法違反ぎりぎりの強硬手段だった。(略)

投票税、識字能力の試験、資産条件、居住証明など、憲法では明確には禁止されていない新しい制限を設けたのだ。(略)

[導入された秘密投票は]投票ブース内でひとりで記入しなければならず、(識字能力のある)友人に手伝ってもらうことはできなかった。(略)補助なしでは投票用紙を理解できない黒人有権者をターゲットにした作戦だった。

(略)

[しかし識字テストには]読み書きができない貧しい白人有権者も引っかかってしまった(略)この問題を回避するため(略)識字テストを実施する地域の登記官には、ほぼ例外なく民主党支持者の白人が任命され、白人よりも黒人を厳しく評価した。(略)

「祖父条項」を採用し、識字能力や財産のない(白人)有権者でも、一八六七年以前に投票した経験がある場合、または一八六七年以前の有権者の子孫である場合、有権者登録することができるようになった。(略)

 一九〇八年までに、旧南部連合のすべての州が投票税を導入し、七州が識字テストを採用した。(略)新しい法律は「人種問題に実用的、合憲的、そして幸福な解決策」を与えてくれた。(略)南部民主党は、始まったばかりの多民族民主主義への移行を見事に頓挫させた。

 この「合法的な」選挙権剥奪のプロセスに対する、最後の抑止力がひとつ残されていた。連邦司法制度だ。(略)

 一八九〇年代になると各地の公民権運動団体が州や郡政府を相手に訴訟を起こしはじめ(略)

最大のカギとなったのが一九〇三年の〈ジャイルズ対ハリス〉裁判(略)

判決の多数派意見を書いたのは、オリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニア判事だった。マサチューセッツ州の奴隷制反対派の家に生まれ、南北戦争では北軍兵士として三度負傷(略)戦時中の恐怖体験によってホームズは、変革的な考えに冷笑的かつ懐疑的な見方をする現実主義者になった。(略)

彼は、一八八三年の一連の公民権訴訟を含めて保守的な判決が増えつつある司法の流れにしたがうことにした。一八八三年のこれらの判決では、ホテル、劇場、電車などの公共空間における差別から黒人市民を保護する憲法上の権限を連邦議会は有していないと判断された。

(略)

かくして裁判所は、アラバマ州の人種差別的な投票制限を無効にすることを拒み、選挙権剥奪の動きがさらに広がっていくのをただ傍観する道を選んだ。

 一九〇三年の〈ジャイルズ対ハリス〉裁判の判決は、多民族民主主義の実現に向けたアメリカの最初の実験に致命的な打撃を与えた。民主党は一八九二年の大統領選挙と連邦議会の上下両院の選挙で勝利を収め、普遍的な選挙権を保障するリコンストラクション期の施行法の主要部分を廃止した。偉大な奴隷制度廃止論者で公民権運動家だったフレデリック・ダグラスは、自身の死期が近づくなかこう嘆いた。「しっかりと恒久的に定着したと誰もが考えていた原則が……大胆にも攻撃され、根こそぎにされてしまった」

(略)

一八八〇年代後半の短い政治変革の期間、実際にはべつの道筋も示されていた。その道を選べば、この国は異なる方向に進んでいたかもしれない。

 一八八八年、ベンジャミン・ハリソンが大統領に選ばれた。(略)より強固な選挙権保護を声高に支持してきた人物だった。さらに同年に共和党は、連邦議会の上下両院の主導権を取り戻した。(略)

ジョージ・フリスビー・ホアー上院議員とヘンリー・カボット・ロッジ下院議員は、投票権を保護するための国家計画に取りかかった。(略)

[二人には]故郷の州に根づく「奴隷制廃止論者と急進論者の感覚」が体に染みついていた。(略)

法案の骨子は、(裁判所が任命した)独立した連邦監督官に対して、選挙プロセスのすべての段階を精査する権限を与えるというものだった。さらに一般市民の要請によって、国内のどの地区でも連邦による選挙の監督が可能になるよう設計されていた。それは一九六五年の投票権法さえをも地理的に凌駕する、米国史上もっとも野心的な投票法案であり、アメリカの選挙の実施方法を根本から変えようとするものだった。

(略)

[下院で可決されたところで]事態が変わりはじめた。

 銀山を所有する資産家でもあるネバダ州選出のウィリアム・スチュワート共和党上院議員が、南部の民主党議員[らと法案通過妨害を画策。採決は中間選挙後に延期](略)

中間選挙で共和党が大敗を喫し、民主党が下院の主導権を握る(略)

それでもホアー議員は、根気強くふたたびロッジ法案を上院に提出した。(略)

[民主党は]フィリバスターを発動した。彼らは夜遅くまで演説を続け、ありえない修正案を提出し、議論を長引かせ、定足数(略)割れを維持するために本会議場の外を歩きまわった。(略)共和党の指導者たちは、上院規則の変更を提案し、単純過半数票によってフィリバスターを終わらせることができる仕組みを作ろうとした。(略)しかしこの緊急措置も、通貨法案に賛成した民主党議員と西部の「銀族」共和党議員の連携によって阻止されてしまった。かくして、アメリカ全土で公正な選挙を維持するために提案されたロッジ法案は、フィリバスターによって死んだ。

 連邦政府による投票権の保護がなくなると、見せかけだけの南部の民主主義はすぐさま雲散霧消した。一八八〇年には六一パーセントだった黒人の投票率は、一九一二年にはまさかの二パーセント以下にまで減った。ルイジアナ、ミシシッピ、サウスカロライナ州では人口の半分以上をアフリカ系アメリカ人が占めているにもかかわらず、黒人住民のうちわずか一~二パーセントしか投票することができなくなった。

(略)

黒人の選挙権剥奪は政治競争を弱体化させ(略)民主党が七〇年以上にわたって絶大な権力を維持しつづけた。

勝つために白人党へシフトした共和党

[63年]リンドン・ジョンソン率いる民主党――いまや南部の保守派よりもリベラル派が優勢となった政党――が、アメリカにおける公民権の擁護者になろうとしていた。南北戦争後のリコンストラクションがアメリカの「第二の建国」だとすれば(略)

[公民権法と投票権法は「第三の建国」であり]多民族民主主義のためのより強固な法的基盤を築くものだった。今回の改革は、民主党と共和党の両党の過半数の支持によって成し遂げられた。

(略)

世界恐慌とニューディール政策がアメリカ政治を作り変えることになった。(略)

[都市部労働者]が――黒人と白人の別なく――共和党を拒み(略)

流れに乗った民主党は、一九三二年から一九四八年まで大統領選で五連勝を果たす。その陰で共和党は、「万年野党」になる危機に陥っていた。

(略)

第二次世界大戦が終わると、共和党の指導者たちは南部に眼を向けはじめた。(略)

[そこにはつけ入る隙があった、公民権政策は]南部の白人に受け容れられるものではなかった。

(略)

民主党はやがて、公民権の拡大政策と南部白人の支持の両方を維持することができなくなった。

(略)

最終的に勝利を収めたのは保守派のほうだった。(略)

一九六〇年代はじめまでに多くの共和党右派の指導者たちが「白人党へと変わることによって、人種の危機のなかで相当量の政治的な金を採掘できると想定するようになった」。これこそが、「長い南部戦略」の軸となる論理だった。(略)

一九六四年大統領選挙の共和党候補バリー・ゴールドウォーター(略)

「カモのいるところで狩りをする」と自身が名づけた戦略にしたがい(略)南部の白人票の獲得のために積極的に動いた。(略)

大統領選挙で(略)大敗を喫したものの、ディープサウスでは勝利した。(略)

公民権革命は、アメリカの政党制度を大きく揺るがした。一九六四年以降、民主党は公民権擁護の党としての地歩を固め、黒人有権者の大多数の支持を得ることになった。対照的に共和党は、伝統的な人種階層の解体に抵抗しようとする有権者に訴えかけ、人種的保守主義の政党としてみずからを再構築していった。

(略)

共和党は、一九六四年以降のすべての大統領選挙で白人票の最大シェアを獲得した。人種的保守主義は選挙で見返りをもたらした。一九六〇年代、アメリカの人口の九〇パーセント近くが白人だった。(略)

世論調査では、南北両方において白人が公民権の拡大について大きな不安を抱いていることがわかった。公式の人種隔離政策に対する支持は低下していたものの、支持政党を問わず多くの白人は、強制バス通学(略)や少数派の雇用や教育を優遇するアファーマティブ・アクションなどの人種隔離撤廃を目指す政府の政策には反対していた。白人の反発は、一九六五年から一九六八年にかけて起きた都市暴動によってさらに強まっていった。世論調査によれば、一九六六年までに有権者の最大の懸念は公民権から「社会秩序」に変わった。一九六六年末のある調査では、八五パーセントの白人が「人種の平等に向けた黒人政策の動きが速すぎる」と答えた。公民権をめぐる白人の憤りが募っていくと、政治批評家のケビン・フィリップスはこう論じた。「人種をめぐって分断し、さらに白人がいまだ圧倒的多数を占める社会においては、民主党を"黒人の党"と位置づけ、さらに共和党が南部の人種的伝統の擁護者としての地位を確立すれば、共和党は多数派の立場を取り戻すことができる」。(略)民主党と長年の結びつきがあるにもかかわらず、南部の白人は「民主党が黒人党になった瞬間にいっせいに党を見捨てる」とフィリップスは考えた。

 当時の社会では、公然と人種差別的な訴えをすることはもはや不適切だとみなされていた。ところが共和党の政治家たちは、「法と秩序」を強調する黙示的あるいは遠まわしな言葉を巧みに使い、さらに強制バス通学などの人種差別撤廃措置への反対活動をとおして、人種問題について保守的な白人を惹きつけることができた。それこそがリチャード・ニクソンの南部戦略の本質であり、実際にうまく機能した。(略)

 一九八一年に就任したロナルド・レーガン大統領も南部戦略を継続し(略)

新たな柱をつけくわえた――白人キリスト教徒戦略だ。

(略)

[80年以前]白人福音派キリスト教徒のあいだでは支持政党は固定されていなかった。

(略)

[カーター民主党政権が(略)人種隔離を続ける学校から非課税措置の優遇を取り払おうとした。(略)保守派宗教組織モラル・マジョリティーは共和党支持を打ち出し(略)見返りとしてレーガンは福音派の主張を擁護し、その多くを共和党の綱領に組み込んだ。(略)一九八四年の大統領選では、南部白人票の七二パーセント、白人福音派票の八〇パーセントを得てレーガンは再選を果たした。

 この「偉大なる白人への切り替え」が、フィリップスが提唱した「出現しつつある多数派としての共和党」の実現を後押しすることになった。

(略)

それは同時に怪物も生み出した。二〇世紀終わりごろになると、政治学者が「人種的憤り」と呼ぶ指標において白人の共和党支持者の大多数が高いスコアを記録していることがわかった。(略)

次回に続く。

 

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T・レックス マーク・ボランの伝説

逆回転でも美しい アキマツネオ

――どの時代のマーク・ボランがおすすめでしょう。

 順番をつける気はないけど、俺はティラノザウルス・レックスのほうが好きな部分が多いんですよ。結局T・レックスってバンド形態はロックンロールのカテゴリーにはめられたマーク・ボランの世界なんですよ。ティラノザウルスはそういう枠がまったくないからマーク・ボランの純度がもっと全然高いんです。だからそういった意味ではティラノザウルスのほうがものすごくマーク・ボランを感じられて、音楽性もめちゃくちゃに高い。あの二人だけであれだけのサウンドをやってるのはすごいと思う。

――ミッキー・フィンはどういう存在でしょう。

 (略)スティーヴ・トゥック(略)はすごくパーカッションが上手だったですね。それに比べるとミッキー・フィンはやっぱり劣る。コーラスもほとんどできない。ただ、たとえば漫才師ってやっぱり二人であることが大事でしょ。片方はただ頷いているだけでも、でもそれがいないと漫才にはならない。それと同じです。ミッキーはステージングだけの相方ではなくて、たとえば新しい曲ができたりするとマーク・ボランはミッキー・フィンにテープを渡していたらしんですよ。マーク・ボランがそれを忘れてしまった頃にミッキー・フィンがそのなかで気に入った曲を口ずさむと、マーク・ボランがそれを思い出して、それでその曲を実際にやるということもあったらしいです。T・レックスではマーク・ボランのエゴがすごすぎて、それでミッキー・フインが中和役としていつでも存在していたと思います。彼がいたからバンドとして成り立っていたところもあるんじゃないかな。ミッキー・フィンは直接会ったことがありますが、本当にいい人でした。彼は最終的にはT・レックスを首にされているんです。だから嫌な思いをしているところがあるかもしれないけど、マーク・ボランの悪口は一切言わなかったですね。「T・レックスの音楽はほぼ俺の影響がない。マーク・ボランが全部作っていた」と言ってました。「あるとすればビーバップという音楽スタイルがあって、そういうのを教えてあげたことはあったけどね」と。

(略)

 俺は本当にT・レックスしか聴かないから(略)あらゆる聴き方をしているんですよ。逆回転でも聴いているんですよ。

――逆回転だとどう聴こえるんですか。

 他のミュージシャンの曲は逆回転だと聴けた代物じゃない。でもT・レックスは聴ける。特に「テレグラム・サム」のサビはこの世のものとは思えないくらい美しいメロディなんです。(略)

逆回転でレコーディングしているのもあるんですよ。ティラノザウルスの二枚目に入っている、日本語でいったら「デボラ/ラボデ」というタイトルの曲です。(略)

タイトルどおりに、真ん中まで来たら逆回転で折り返すんです。鏡のようになっている曲です。パーカッションから何からすべてが逆回転になっているんだけれども、ただそれは曲として成立しているんですよ。逆回転になることによって、そこから新しいメロディが出てくるんです。Cメロみたいな感じね。途中までギターだったのがアコーデオンみたいな音になったと思ったら、それは単純に真ん中から逆回転で折り返しているものだった。そこでマーク・ボランの曲は逆回転で聴いても良いかもしれないというのがあって、逆回転で聴くようになった。そしたら案の定、格好良かったんです。(略)

T・レックス入門 立川芳雄

[来日公演の評価は散々だった]

ライヴ映像なんかも見ているうちに、悪評の原因がわかったような気がしてきました。ひとことで言うと、当時のファンの抱いていたイメージと、あまりにもかけ離れていたからでしょう。(略)

[ミッキー・フィンが]コンガやタンバリンを叩いたりするんですけど、その音がまったく聞こえない(笑)。まあPAの調子が悪かったのかもしれないんですが、個人的には、演奏よりも、わけのわからない踊りを踊ったり、楽器の上に乗ったりしている彼の姿のほうが、印象に残ってます(笑)。バンドは四人編成で、他の二人(略)のプレイはとにかくシンプルなんですね。そうなると必然的に、マーク・ボランの弾き語りみたいになってくる。これが自己完結型ということなんです。

 しかも彼のギターが独特なんですよ。バッキングの部分とソロの部分が渾然一体としているというか……。(略)

しかもボランは、ギターを弾くのがすごく好きらしい。曲と曲の間に、わけのわからないギター・ソロみたいなものを延々と弾いたりするんです。これ、当時の女性ファンや、ギターに興味のない人にとっては、つまらなかったでしょうね。

(略)

そんなわけでステージはマーク・ボランの一人舞台だったんですが、でも、いわゆるワン・マン・バンドというのとはちょっと違う。上手く言えないんですが、ロック・コンサート特有の「熱さ」みたいなものがあまりなくって、妙に醒めたような感じというか……。いま振り返ると、すごく不思議なライヴだったような気がします。当時、会場に行ったファンの多くは(略)派手な「グラム・ロック」のコンサートを期待していたと思うんですが、ボランのほうには、そうした期待に応えようという気持ちはあまりなかったのかもしれませんね。

 それから、ミュージシャンとしてのマーク・ボランという観点でもう一つ指摘しておくと、彼って、音楽批評家的な面をもった人なんですよ。ボランの伝記本やインタヴューはかなりたくさんあるんですが、それを読むと、彼は他人の音楽作品について積極的に語っている。ミュージシャンって、同業者の話はあまりしない人も多いんですけど、マーク・ボランはけっこう積極的に批評をしています。グラム・ロック系のミュージシャンにはアート・スクール出身だったりして美術系から流れてきた人が多いんですけど、マーク・ボランは

(略)

オーソドックスな音楽好き、楽器好きだったんでしょう。でも、にもかかわらず出す音はかなり変わっているという、不思議な個性のある人ですよね。彼のことをギタリストとして見る人は少ないんですが、もっと評価されていいと思います。映像作品を見るとわかるんですが、ギターの弾き方は典型的な我流ですけれど、左手の使い方が上手い。すごく独特であまりたくさんの指を使わない感じで、ちょっと雑にコードを押さえているよう奏者に見えるんですけど、すごくいい音を出すんですよね。

(略)

[「ライド・ア・ホワイト・スワン」]

とてもいい曲です。リズムはブギで、そこにトニー・ヴィスコンティのアレンジした暗い感じのストリングスが絡む。この曲で、ブギのリズムとイギリスっぽい陰翳のある音を合わせるという独特のスタイルが確立されていますね。

 ヴィスコンティは、自分のストリングス・アレンジは自己流だと話していました。ちゃんとしたオーケストレーションの理論はわかっていないんだけども、少人数のストリングスをロックのバンド・サウンドに付け足して、ちょっとダークな感じにするのが大好きなんだそうです。そういうヴィスコンティの好みと、マーク・ボランの音楽性とが、このアルバムあたりからぴったり噛み合ってきた。

(略)

[『電気の武者』]

 もう一点、このアルバムで注目したいのは、前作から参加している男性バッキング・コーラス、ハワード・ケイランとマーク・ヴォルマンの二人です。(略)

タートルズのなかでも妙な指向性をもっていたのがこの二人で、フランク・ザッパのマザーズにも参加していたし、フロ&エディという名前でかなりユニークなアルバムも発表しています。『電気の武者』ではこの二人のコーラスが冴えまくっています。ひとことで言うと男だか女だかわからないような声なんですね。すごく不思議な感じの中性的なコーラスで、これがマーク・ボランのヴォーカルを追いかけ回すようにしながら、曲をじわじわと盛り上げていく。かなりアブノーマルな感じのコーラスと、ボラン独特のヴィブラートのかかったヴォーカルの組み合わせが絶妙です。

(略)

[76年『銀河系よりの使者』]

ボランがソウル・ミュージックに自己流でアプローチしているんです。(略)

[ボウイの]二作がやっぱりアメリカのソウルに接近している感じなんですね。時期を同じくして、かつてのグラム・ロックの二大スターが自己流ソウル・ミュージックをやり始めたというのが面白い。(略)

ただデヴィッド・ボウイは優秀なスタッフを集めて完成度の高い音を作るんですけど、マーク・ボランは先に言ったとおり基本が弾き語りですから、なんでも自分でやってしまおうとする。そこがうまくいかない原因にもなるんでしょうね。

 この『銀河系よりの使者』が個人的に嫌いになれない理由は、独特のサウンドにもあります。安っぽくてゴージャスなんですよ。ストリングスを入れているんだけど、ヴィスコンティのアレンジしたものと違ってものすごく派手なんですね。ペナペナで安っぽい。でも、案外それがいい。そういうキッチュな豪華さって、マーク・ボランみたいな人じゃないと似合わないじゃないですか。ディスコ風のリズムもあったりして、胡散臭い魅力があるんですよ。(略)

T・レックスという体験 萩原健太

あつく燃え上がった60年代ははるか記憶の彼方へ。(略)ロック系の音楽が生気を失い(略)内省的な手触りを持つ(略)シンガー・ソングライターの音楽が静かなブームを呼び始めた。(略)

ごく私的な体験や内面の揺らめき、そして"私"と"あなた"のパーソナルな関係などを、ナチュラルなアコースティック・サウンドに乗せて歌って人気を博した。

 このような内省的な動きは黒人の間にも広まった。マーヴィン・ゲイ、スティーヴィー・ワンダー、ダニー・ハザウェイ、カーティス・メイフィールド、ロバータ・フラックといった黒人アーティストたちが、白人、黒人の壁を乗り越え、より人間の内省へと分け入った歌詞を作り始めた。サウンド的にも(略)ジャズやクラシック、ロックなどの要素も大胆に取り入れた洗練された音作りを指向するようになった。と同時に、"ブラック・イズ・ビューティフル"(略)の流れの中でファンク・ミュージックが完成。立役者は、もちろんスライ・ストーンだ。スライは先達ジェームス・ブラウンが60年代後半に提唱したブラック・パワーを正当に引き継ぎ、70年代中盤に花開くPファンク軍団の爆発をうながす橋渡しとなった。

 この黒人音楽の動きは、ある意味でルーツの再検討でもあったわけだが(略)ルーツを見直したのは黒人ばかりではない。60年代を通じて、ビートルズに先導される形でロックの可能性を模索しながらやみくもに拡散を進めていた白人ミュージシャンたちもここに至って再度ルーツ帰り。南部のロックンロールやブルースの伝統を掘り起こし始めた。クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァル、ザ・バンド、レオン・ラッセル、デラニー&ボニー、オールマン・ブラザース・バンドなど、さらにはそこにエリック・クラプトンやデイヴ・メイソンら英国勢も加わり、その種のルーツ音楽再評価の気運に火を点けた。

 もちろん、英国でも事情は同じだ。ビートルズの解散以降、米シンガー・ソングライター・ブームに呼応する形でキャット・スティーヴンス、アル・スチュワート、ギルバート・オサリヴァンら内省的なシンガー・ソングライターが台頭。エルトン・ジョンも最初はこのフィールドから登場した。(略)

ジャズやクラシック、現代音楽へのプローチから生まれたプログレッシヴ・ロックも、ロックンロール自体が持っていたはずの直截的な"熱"を疑問視するところから生まれた新時代の音楽形態だった。とともに、キッチュでグラマラスな外見を全面に押し立てたデヴィッド・ボウイ、ロキシー・ミュージックら、いわゆるグラム・ロックのアーティストも、結局は何かを諦めるところから"退廃の美学"を構築していった。(略)70年代のロック/ポップ・シーンの色合いを決定付けたのは(略)60年代末への反動ともいうべき"諦観"であり、"達観"であり、当時の流行り言葉でいえば"シラケ"だった。

(略)

ルーツ音楽再訪の気運と、退廃的なグラム・ロックの盛り上がりとを当時もっとも印象的に体現してみせていたのが、我らがT・レックスだった。ぼくはそう位置づけている。「ゲット・イット・オン」はまさにそんな彼らの心意気が託された象徴的なビッグ・ヒットだった

ティラノサウルス・レックス登場

ジャケットのアートワークを担当したジョージ・アンダーウッドは、「コズミックになったウィリアム・ブレイク、って感じの絵を描いて」とマークに依頼されたことを覚えている。(略)「幻視者」ブレイクは、マークによれば「イギリス」そのものなのだった。

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