北楯修哉
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北楯修哉 九段 | |
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名前 | 北楯修哉 |
生年月日 | 1912年11月15日 |
没年月日 | 1997年1月31日(84歳没) |
プロ入り年月日 | 1940年1月1日(27歳) |
引退年月日 | 1951年(38歳) |
棋士番号 | 24 |
出身地 | 山形県鶴岡市 |
所属 |
将棋大成会 →日本将棋連盟(関東) |
師匠 | 木村義雄十四世名人 |
段位 | 九段 |
棋士DB | 北楯修哉 |
戦績 | |
通算成績 | 35勝47敗(0.4268) |
順位戦最高クラス | A級(2期) |
2017年8月21日現在 |
北楯 修哉(きただて しゅうや、1912年11月15日 - 1997年1月31日)は、将棋棋士、九段。木村義雄十四世名人門下。棋士番号は24。山形県鶴岡市出身。
経歴
[編集]- 順位戦の黎明期、第1期から第5期まで参加。
- 第2期順位戦(1947年度)B級はA級昇級枠が4名であったが、北楯は9勝3敗・3位で昇級をする。同時昇級者は大山康晴、丸田祐三、松田辰雄であった。
- 第3期でA級に1期残留するも、第4期にB級へ降級。さらに第5期にC級への連続降級が決まった時点で引退した。まだ38歳でのことであった。
- 1992年、盤寿(数えの81歳)を迎える。1993年、九段に推される[1]。1997年1月31日、心筋梗塞のため[2]死去。享年84。
人物
[編集]昇段履歴
[編集]→昇段規定については「将棋の段級」を参照
- 1933年 :入門
- 1940年 1月 1日 四段 = プロ入り
- 1942年 : 五段
- 1944年 : 六段
- 1947年 5月10日 : 七段(順位戦B級在籍)
- 1948年 4月 1日 : 八段(順位戦A級昇級)
- 1951年 :引退
- 1993年11月17日将棋の日」表彰) 九段(贈九段 = 「
主な成績
[編集]在籍クラス
[編集]→竜王戦と順位戦のクラスについては「将棋棋士の在籍クラス」を参照
開始 年度 |
順位戦 出典[3]
|
竜王戦 出典[4]
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期 | 名人 | A級 | B級 | C級 | 期 | 竜王 | 1組 | 2組 | 3組 | 4組 | 5組 | 6組 | 決勝 T |
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1組 | 2組 | 1組 | 2組 | |||||||||||||||
1946 | 1 | B105 | 8-6 | |||||||||||||||
1947 | 2 | B112 | 9-3 | |||||||||||||||
1948 | 3 | A 08 | 4-5 | |||||||||||||||
1949 | 4 | A 06 | 2-6 | 第1期九段戦 本戦敗退 | ||||||||||||||
1950 | 5 | B1 | 2-10 | 第2期九段戦 本戦敗退 | ||||||||||||||
1951年引退 | 1951年引退 | |||||||||||||||||
順位戦、竜王戦の 枠表記 は挑戦者。右欄の数字は勝-敗(番勝負/PO含まず)。 順位戦の右数字はクラス内順位 ( x当期降級点 / *累積降級点 / +降級点消去 ) 順位戦の「F編」はフリークラス編入 /「F宣」は宣言によるフリークラス転出。 竜王戦の 太字 はランキング戦優勝、竜王戦の 組(添字) は棋士以外の枠での出場。 |
年度別成績
[編集]年度 | 対局数 | 勝数 | 負数 | 勝率 | (出典) |
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1945 | 2 | 1 | 1 | 0.5000 | [5] |
1946 | 22 | 12 | 10 | 0.5445 | [6] |
1947 | 13 | 9 | 4 | 0.6923 | [7] |
1948 | 10 | 4 | 6 | 0.4000 | [8] |
1949 | 13 | 3 | 10 | 0.2308 | [9] |
1950 | 22 | 6 | 16 | 0.2727 | [10] |
1945-1950 (小計) |
82 | 35 | 47 | 0.4268 | |
通算 | 82 | 35 | 47 | 0.4268 | |
1951年 |