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灘蓮照

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 灘 蓮照 九段
名前 灘 蓮照
生年月日 (1927-03-16) 1927年3月16日
没年月日 (1984-04-26) 1984年4月26日(57歳没)
プロ入り年月日 1947年
棋士番号 44
出身地 徳島県日和佐町
所属 日本将棋連盟(関西)
師匠 神田辰之助九段
弟子 神田鎮雄神崎健二
段位 九段
棋士DB 灘 蓮照
戦績
一般棋戦優勝回数 6回
順位戦最高クラス A級(17期)
2022年2月12日現在
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灘 蓮照(なだ れんしょう、1927年3月16日 - 1984年4月26日)は、将棋棋士。プロデビュー当初(改名する前)の氏名は、灘照一

棋戦優勝6回を数える強豪。棋士番号44。神田辰之助九段門下。徳島県日和佐町出身。

経歴

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1955年(昭和30年)の第10期順位戦A級での灘蓮照・高島一岐代の対局において無勝負が発生した。対局途中で局面を崩して別の将棋を並べ、元の局面に戻した時に先手の灘が駒の配置を誤り、6九に居たはずの金将を7八に上げてしまった(二手指しの反則に該当)[1]。そのまま誤った局面から対局を再開し、灘の勝ちとなったが、局後の感想戦で棋譜の不備が判明した。「理事会預り」で無勝負となった[1][2][3]

1982年、森信雄門下での村山聖の奨励会への入会に待ったをかけた[4]。これは村山側からの相談を受けた元奨励会員が灘にも話を通したうえで、灘も村山を弟子として申請を進めていたためであり、これにより混乱をきたすということが理由である。

1984年、現役のまま(休場中)脳梗塞で死去。57歳であった。

人物

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  • 関西本部所属。
  • 1957年ごろは和歌山在住だったが、[5]のち、京都伏見に移り住んだ[6]。京都伏見で将棋道場を開いており、段級が厳しいことで有名だった[7]
  • 豪胆な棋風と独特の戦法を用い、また日蓮宗の僧侶として得度していたことなどから(これに関連し蓮照と改名している)、「荒法師」の異名を取る。
  • 現代の矢倉の主流戦法である矢倉3七銀戦法は、森下卓によれば、昭和40年代に灘蓮照が編み出した「灘流矢倉」を源流とするという(森下『初段に勝つ矢倉戦法』創元社、2003年など)。
  • 対振り飛車では、玉頭位取りを得意とした[8]。中段玉の力戦も得意としていた[9]
  • 早指し将棋を得意とした[10]。NHK杯で1955年度の第5回から3年連続準優勝、そして1958年度の第8回で優勝した。参加棋士数が少なかったとはいえ、4年連続決勝進出は、2011年度に羽生善治が4連覇で並ぶまで長くNHK杯史上唯一の快記録であった。
  • 駒落ち将棋の達人で「アマ初段相手に八枚落ちで勝つ自信がある」「アマ四段を相手に四枚落ちで三面指しを行って全勝した」などの逸話があり、棋界では花村元司と並んで有名であった。
    • かつて、将棋マガジンの中で「灘に四枚落ちで勝てば二段免状を進呈」という企画が行われ、読者を相手に四枚落ちを12局指して11勝1敗という驚異的な成績を残している。
    • 八枚落ちの灘流の上手の指し方は、先崎学『最強の駒落ち』 (講談社現代新書)/『駒落ちのはなし』(マイナビ)で紹介されている。
    • 四枚落ちの灘流の上手の指し方は、湯川博士『定跡なんかフッとばせ―駒落ち必勝法』 (MYCOM将棋文庫) で紹介されている。また、先崎学『最強の駒落ち』 (講談社現代新書)/『駒落ちのはなし』(マイナビ)でも、「灘流」とは書かれていないが、灘が得意とした指し方が紹介されている。

弟子

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棋士

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名前 四段昇段日 段位、主な活躍
神田鎮雄 1950年4月1日 七段、一般棋戦優勝1回
神崎健二 1986年11月5日 八段
  • 神田鎮雄は師匠・神田辰之助九段の次男。

昇段履歴

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  • 1941年 入門
  • 1947年 四段 = プロ入り
  • 1948年4月1日 六段
  • 1951年4月1日 七段(当時の順位戦B級への昇級)
  • 1953年4月1日 八段(順位戦A級昇級)
  • 1976年11月17日 贈九段(将棋の日
  • 1984年4月26日 現役のまま死去

主な成績

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  • 順位戦A級在籍通算17期

棋戦優勝

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タイトル戦登場

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在籍クラス

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順位戦・竜王戦の在籍クラスの年別一覧
開始
年度
(出典)順位戦
出典[12]
(出典)竜王戦
出典[13]
名人 A級 B級 C級 0 竜王 1組 2組 3組 4組 5組 6組 決勝
T
1組 2組 1組 2組
1947 2 C級張出33位
1948 3 C級
1949 4 C級
1950 5 C級1組
1951 6 B級24位
1952 7 B103
1953 8 A 08
1954 9 A 05
1955 10 A 06
1956 11 A 04
1957 12 A 05
1958 13 A 07
1959 14 A 07
1960 15 A 03
1961 16 A 04
1962 17 A 04
1963 18 A 08
1964 19 B102
1965 20 B105
1966 21 A 09
1967 22 B101
1968 23 B103
1969 24  A10 
1970 25 A 01
1971 26 A 08
1972 27 A 12
1973 28 A 09
1974 29 B103
1975 30 B111
1976 主催者移行問題により中止
1977 36 B203
1978 37 B218
1979 38 C101
1980 39 C103
1981 40 C115
1982 41 C115
1983 42 C116
順位戦、竜王戦の 枠表記 は挑戦者。右欄の数字は勝-敗(番勝負/PO含まず)。
順位戦の右数字はクラス内順位 ( x当期降級点 / *累積降級点 / +降級点消去 )
順位戦の「F編」はフリークラス編入 /「F宣」は宣言によるフリークラス転出。
竜王戦の 太字 はランキング戦優勝、竜王戦の 組(添字) は棋士以外の枠での出場。

著書

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  • 灘流矢倉戦法 日本将棋連盟 昭和49年刊行

脚注

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  1. ^ a b 仏法僧(永沢勝雄)「時評 高島・灘事件と王将戦打切りの問題」『近代将棋』第7巻第4号、1956年4月、110-111頁、NDLJP:6046786/59 
  2. ^ 佐瀬勇次「こぼれ話 前代未聞の預り」『近代将棋』第7巻第4号、1956年4月、97頁、NDLJP:6046786/52 
  3. ^ 将棋ペンクラブログ20151213にて引用(将棋世界1995年6月号、将棋普及指導員の大泉紘一のエッセイ「将棋の話あれこれ」
  4. ^ 当初、村山の父は広島在住の元奨励会員にプロ入りを持ちかけたが「まだ早い」と止められたため、他の筋を当たって森信雄を師匠とした。しかし最初に相談を受けた元奨励会員が、親交のあった灘に村山の弟子入りを申し込んで許可されていたため、灘は村山は自分の弟子に当たると主張した(『聖の青春』より)。
  5. ^ 将棋ペンクラブブログ20180508にて引用(将棋マガジン1984年7月号)清水孝晏「思い出の棋士たち・荒法師・灘蓮照九段逝く」より
  6. ^ 将棋ペンクラブブログ20160813にて引用(将棋世界1984年7月号)神崎健二二段(当時)の「灘先生を偲んで」より
  7. ^ 将棋ペンクラブブログ20190107にて引用(近代将棋1983年7月号)読者の投稿欄「読者会議」より
  8. ^ 将棋ペンクラブログ20181129にて引用(「近代将棋」1982年7月号・小林勝「棋界パトロール 振り飛車をめぐる戦法の変遷」
  9. ^ 鈴木宏彦編著『イメージと読みの将棋観ファイナル』(日本将棋連盟)P.158
  10. ^ 加藤治郎原田泰夫田辺忠幸『証言・将棋昭和史』(毎日コミュニケーションズ)巻末「将棋昭和史年表」(加藤久弥、越智信義)P.245
  11. ^ 1982年(第30回)まではタイトル戦ではなく一般棋戦。
  12. ^ 名人戦・順位戦」『日本将棋連盟』。
  13. ^ 竜王戦」『日本将棋連盟』。

関連項目

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外部リンク

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