システムによる盧武鉉殺し
『ハンギョレ21』[2009.05.29第762号]
[特別企画]盧武鉉前大統領逝去
キーワード②憎悪-当選時からつきまとう政治・司法・言論権力の無視、そして退任後の報復
逝去以降の無茶な対応は、憤怒を漸増させる
▣イ・テヒ/イ・スンヒョク
「とても腹立たしい。私の周囲でも盧武鉉を心底から嫌っていた何人かを除けば、みんな怒っている」ソウルのある総合病院の副課長で、大学の学籍番号が82番だった教授は、記者にこのように電話をかけてきた。彼の声は少し震えていた。「苦痛が余りにも大きい」という盧武鉉の遺書の内容が発表された頃だった。5月23日の昼2時頃だ。
「李明博はどうするのか、この両目をしっかり見開いて最後まで見てやる」同じ頃、学籍番号が90番だったある大企業の次長は、このように話した。その横にいた、現役教師でもある夫人は、「非主流の象徴が結局、主流に踏みにじられた。私たちはついに守りきれなかった」と話した。唇をぐっと噛みしめていた夫は、放送で(大統領退任後に)ボンハ村に戻った盧武鉉が「あ~、いい気持ちだ」と叫ぶ場面を見てついに涙を流した。
»憎悪と無視を基盤にした現実政治権力と司法権力、そして言論権力による「盧武鉉殺し」は結局、彼の死で帰結した。4月30日、検察に出頭する盧武鉉前大統領。写真/写真共同取材団
現政権の「烘雲托月」
地方出身。貧農の息子。高卒。人権弁護士。在野政治家。万年野党。その総合体が盧武鉉だ。大韓民国の主流派は、一度もそのような非主流が最高権力になったという事実を認めなかった。在任中はもちろん、退任後も、政権与党と保守メディアに象徴される主流派は彼を嘲弄した。パク・ヨンチャ元泰光実業会長事件で検察は保守メディアを動員し、彼の被疑事実を毎日生中継するかのように公表した。ある日はグォン・ヤンスク夫人をソウルではなく釜山地方検察庁に呼び出し、形式的に「礼遇」したとしたり、ある日は「再召還」すると脅した。前大統領も必要なら二度でも三度でも呼べる存在にした。
しかし彼らは盧武鉉大統領を当選させた1201万4277票の重みを忘れていた(2002年当時は投票権がなかった19歳未満の支持者を除いた数だ)。盧武鉉前大統領が無視されたとき、彼らは自分たちが無視されたと感じた。盧武鉉前大統領が侮辱されたとき、彼らに伝わった不快感も募っていった。彼の死を前にして、数多くの憤怒と数多くの涙が舞い散る理由だ。
韓国政治の「憎悪と報復」のシステムが盧武鉉前大統領を死へと追いやった。イム・ヒョクベク高麗大教授(政治外交学科)は、「民主化以降も政権交代と共に過去の政権を審判し、清算する過程が繰り返された」「その結果、前の大統領が自殺するという悲劇的な状況まで作り出した」と指摘した。現政権が前政権を清算する理由はなんなのか。チェ・ジェチョン法務法人漢江代表弁護士は、東洋画の「烘雲托月」の話をした。丸く余白を残しておき、雲を描いて月を表現する技法だ。雲を描いて月を際立たせるのだ。チェ弁護士は「前政権の不道徳性を露骨に際立たせることで、自分たちと差別化することがこれまでの政治過程で繰り返されてきた」「今回も李明博大統領をはじめとする主流派は、盧武鉉前大統領の不正を際立たせることで自分たちと差別化しようとした」と語った。文字通り「盧武鉉殺し」だった。
保守メディアは在任当時、盧武鉉大統領を常に「無能力と憎悪の化身」として描写した。カン・ジュンマン全北大教授の『盧武鉉殺し』(蓋馬高原発行)は、盧前大統領在任初期の状況がうまくまとめられている。本に引用された『文化日報』2003年6月20日付のコラムだ。「大統領選挙の結果、大韓民国は下降平準化された。ワールドカップ4強は、誰でも優勝できる、誰でも大統領になれるという妄想を育てた。自分に近い水準の大統領を選ぶことで、自分も大統領になれるという自慰心を満たすために選挙があるのではない」と書き、盧前大統領と彼に投票した者たちを「基準に到達していない者たち」として同時に卑下した。『朝鮮日報』2003年6月23日の時事評論にはこう書かれていた。「猜疑心とは自分の利得を減少させない他人の幸福や、彼らが所有している社会的善を敵対的に見る心理状態だ。これは憎悪を母として現れる。問題は大統領選挙という大規模な闘争で勝利することで、このように明白な悪行である猜疑心を“道徳的な義憤”で包むということにある」これを準拠とすれば、盧前大統領は主流に対する憎悪を基盤にした猜疑心にあふれた存在だ。保守メディアは盧前大統領が「江南-三星-ソウル大」に象徴される韓国の主流に対する憎悪を現実政治に利用するというフレームを作ろうとした。カン・ジュンマン教授は「これらの主張にあふれる猜疑と復讐の修辞学は、この地の守旧既得権勢力が盧武鉉に対して持っている反感の強度と深度がどの程度なのかを示している」と語った。
»昨年退任した盧武鉉前大統領が、自転車に取り付けた車に孫を乗せて村の周辺を走っている。彼は庶民的な姿で国民の前に出ることを楽しんだ。写真/盧武鉉前大統領ホームページ『人が暮らす世の中』提供
大検察庁の中枢部を強盛ラインに変え
これは在任期間中ずっと続いた。シン・ビョンリュル慶星大教授(新聞放送学)は、「『朝鮮日報』の朝鮮漫評が盧武鉉前大統領に対して作ってきたフレームを一言に圧縮するなら、それはおそらく“無資格”だろう」「能力や性格など、あらゆる部分をひっくるめて無能なイメージで一貫している」と主張した。シン教授は『朝鮮日報』の「朝鮮漫評」が、盧前大統領の在任期間中(2003年2月25日~2008年2月24日)に彼をどのような素材と方法で風刺したのか調査し、5月16日に「2009年韓国言論情報学会春季定期学術大会」で発表した。
盧武鉉前大統領に対する「猛烈な」捜査も「憎悪から始まる」と説明するものが多かった。検察は今年の3月、パク・ヨンチャ前会長を捜査していた大検察庁中央捜査部を強盛ラインに変えた。新たに入ったイ・インギュ中枢部長とウ・ビョンウ中枢1課長は、「強盛」と「非道」なイメージで有名だった。彼らはパク前会長を強く圧迫し、思い通りの結果を次々と手に入れた。パク・ジョンギュ前青瓦台民政主席やチョン・サンムン前総務秘書官、イ・グァンジェ議員など、参与政府の主要人物を次々に拘束させた。イ・ジョンチャン前青瓦台民政主席やチュ・ブギル前広報企画秘書官、そしてチョン・シンイル・セジュンナモ会長などの均衡錐を合わせる現政権の実勢たちの嫌疑も確保した。この過程でメディアを通じて盧前大統領はもちろん、夫人や息子、娘まで「不正の温床」として描写された。盧武鉉は最期の遺書で「私のせいで多くの人が受けた苦痛は、あまりにも大きい。これから受けるであろう苦痛も計り知れない」と書いた。「健康状態が良くないので何もできない」という絶望と、「本を読むことも、字を書くこともできない」という苦痛に身もだえしていた心境を明かした。彼は死によってその茨の道を閉ざそうとした。
盧武鉉前大統領は政治生活を送っている間中、検察との緊張関係を維持してきた。彼は弁護士でありながら、1987年に労働争議調停法の「第三者介入禁止」条項に違反したという容疑で拘束された。彼の目に検察は「権力者の一言で態度を180度変えうる存在」と映った。彼は大統領に当選すると、判事出身のカン・グムシル法務長官カードを出し、検察改革を注文した。検察が組織的に反発すると、盧武鉉は有名な「検事との対話」を開いた。正面突破だった。「この程度ならすぐ行こうということでしょう」という言葉を残した。キム・カクヨン検察総長(当時)は、辞表を提出した。盧前大統領は高位公職者の不正操作先の新設と、検・警察の捜査権調停論議などを通じて検察権制限を試みた。身の危険を感じた大検察中枢部は、2003年の大統領選挙の資金捜査過程で、盧前大統領に向かって刀を振り回した。
任期中盤でも「対決」は行われた。カン・ジョンク元東国大教授事件で、後任のキム・ジョンビン検察総長が辞任した。検察内部では「検事のプライドを傷つけた」、「検察組織を揺さぶろうとした」という拒否感や反感が組織的に大きくなっていった。検事出身の一部のハンナラ党議員は、盧前大統領に対する強度の高い捜査の原因をこのような「怨恨」のせいだとした。
»2004年の第16代国会が盧武鉉大統領(当時)の弾劾案を可決すると、キム・グンテ議員(写真左側)とチョン・ドンヨン議員(共に当時)などが抱き合い悲しみの涙を流している。写真『ハンギョレ21』ユン・ウンシク記者
「後爆風」の主な対象は検察と保守メディア
ならば李明博政府はなぜ検察に盧前大統領を捜査するようにしたのか?政界には「ロウソク政局」がさらなる直接的な原因だったと解釈する者が多い。民主党のある元議員は、「李明博大統領は去年のロウソク政局で米韓牛肉交渉に対する盧武鉉前大統領の態度に強い背信感を抱いたようだ」と語った。牛肉交渉について青瓦台は「盧武鉉政府がしなかったことを、洗った」のだと表現したことがある。ハンナラ党の主要党役員は、「ロウソク政局を主導した勢力を検討する過程で、いわゆる「親盧勢力」の一角を成しているという結論を下した」とし、「青瓦台としては砂の城や変化のない民主党よりも、一握りにしかならなくても石のように結集した親盧勢力がまず整理が必要な対象だった」と分析した。この党役員は「来年にある地方選挙で、盧前大統領を中心にした政治勢力が嶺南に登場することを阻止するという意味もあった」だろうっと話した。
憎悪と無視を基盤にした現実政治権力と司法権力、そして言論権力による「盧武鉉殺し」は、結局、彼の死で帰結した。今残っているのは、その結果だ。後爆風だ。政治コンサルティング会社ナウリソチのイ・ジェギョン代表は、「これからの“後爆風”は、ブラックホールレベルになる可能性がある」「主な対象は盧武鉉前大統領を直接捜査した検察と、彼を不道徳の極致に追いやった保守メディアがなるだろう」と語った。李明博大統領もやはり、自由ではいられないと言った。
死は韓国政治の巨大な突発変数だった。カン・ジュンマン教授は新作『現代政治の表と裏』で、韓国民主主義の特徴を「心情民主主義」だと語った。カン教授の分析だ。
「韓国民主主義の動力は、心情が爆発したデモだった。4・19革命から6月抗争に至るまで、韓国民主主義の成果はすべてデモの結果だった。韓国人に落ち着いた対話と討論の場は与えられず、そのような経験もなかった。キム・ジュヨル、パク・ジョンチョル、イ・ハンヨルという(烈士の)名前が語っているように、決定的契機となったのはすべて個人の死だった。これぞまさに「心情民主主義」の不可思議なシーンだ。
その心情を爆発させるのが「逆上」する感情だ。カン教授はこれを「逆上民主主義」だと定義した。
「我々は4・19革命が3・15不正選挙の当然の帰結だと考えるが、実情は決してそうではない。馬山(慶尚南道の都市)で「不正選挙をやりなおせ」、「発表警官を処罰しろ」という声が上がったときも、ソウルは3・15以降、34日間も耳を塞いだかのように静かだったという点に注目する必要がある。もし4月11日に馬山の海でキム・ジュヨル烈士の遺体が浮かんでこなかったら、「逆上」した大規模デモは起こらなかった可能性が高い。パク・ジョンチョルとイ・ハンヨル烈士がいない6月抗争を考えることは難しいのと同じようなものだ」
前任大統領の「安全な帰家」を保障しなければ
2004年3月12日、大統領弾劾とその直後の第17代国会議員選挙での開かれたウリ党の圧勝も、「逆上」する気質の暴発が招いたものだ。盧武鉉前大統領の死に接した彼らの口からは、自ずから「こんなことでは民乱になる」という言葉が出てきた。自ら爆発寸前の民心を自覚しているのだ。
ハンナラ党内部でも、李明博政府がすべての負担を背負うことになったという分析が出ている。ハンナラ党のある一年生議員は、「MB(李明博大統領)は今回の6月国会でメディア関連法の処理を執権後半期を準備する、一種の“画竜点睛”だと思っていたが、今の状況ではこれを強攻することは“火薬を抱えて火の中に飛び込むような事態”になった」、「執権後半期の戦略を事実上、再び組まなければならない状況に至るかもしれない」と憂慮した。ハンナラ党のある役員も、「李明博大統領は“調査ドライブ”によって去年のロウソク政局で失った国政掌握力を回復してきたのだが。今は調査ドライブを事実上、中断しなければならない状況に置かれた」「大統領が検察と税務権力を現実政治に動員したことがこれからの国政運営に長らく負担として残っていくだろう」と憂慮した。青瓦台に対する批判も起きた。ハンナラ党の他の役員も「盧武鉉前大統領を死にまで追いやったのは、青瓦台の民政と政務機能が無能力だということを白日にさらしたことではないのかという人が多い」「李明博大統領はこの際、青瓦台と権力周辺を点検する必要がある」と指摘した。
与野では「検察改革」の話しが出る可能性が高いと見られている。ハンナラ党のある主要役員は、「党の内外からは、金泳三政府の初期に試みた“中枢部解体論”を再び提起しなければならないのではないかという話が出ている」「当時、金泳三大統領は大検察にも(直接捜査を担当する)中枢部がある理由がないので、これを解体しようとしたが、全斗煥・盧泰愚元大統領の処罰のために中枢部を動員しなければならないため、存置させた」と話した。
このような被撃の悪循環を防ぐためには、「憎悪の政治」を中断させなければならない。イム・ヒョクベク教授は「民主主義の完成のためには前任大統領の“安全な帰家”を保障しなければならない」「韓国がアフリカでもないのに“死の民主主義”パターンに陥ってはならない」と指摘した。イム教授は「安全な帰家が保障されてこそ、権力を簡単に手放すことができ、平和的な政権交代がよりスムーズに行われるようになる」「李明博大統領からその土台を作るべきだ」と話した。
もちろん、後爆風の大きさが大きくはないだろうという意見もある。民主党のある役員は、「過去の民主化運動の過程における烈士の死は、独裁政権の構造的な抑圧の結果であったため、これを解決せよという政治的スローガンが出やすかった」「盧武鉉前大統領の死に対して、政治的スローガンを提示することは簡単ではない」と話した。
後爆風が吹くのか、その程度がどれほどなのかを予想することは容易ではない。しかし、盧武鉉前大統領の死まで嘲笑する一部の保守勢力の態度と、“ロウソクを防ぐべし”と焼香所設置や焼香まで阻む政府の無茶な対応が、憤怒を漸増させている状況であることは明らかだ。
墓にもつばを吐く
自ら大韓民国の主流を自任する保守論客の趙甲済(チョ・ガプチェ)氏は、逝去当日の『趙甲済ドットコム』に「大統領のような至高の地位にいた人がただ死んだだけでも逝去と言う」「しかし、現職から退いた者が検察に出頭し、贈賄授受容疑で庁舎を受けて告発される直前に自殺したことから、“逝去”というのは話しにならない」と書いた。趙甲済式表現によると、彼らは盧武鉉の「墓につばを吐いた」のだ。依然として彼らの目には、盧武鉉大統領とその死に憤怒する“非主流”が見えなかったのだ。その非主流たちの相当数は韓国社会の中核を担っているという事実も、彼らは忘れている。彼らが無視し、無知であるほど非主流の憎悪は募っている。その憎悪を再び世襲するのか。
イ・テヒ記者/イ・スンヒョク記者