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今回のオリンピックは日本選手の活躍もあって、国内的にはかなり盛り上がった大会になった。特に陸上の男子400メートルリレーは、例えばアメリカの選手たちと比べると、一人一人の100メートルのタイムでは平均して0.2秒も劣るのに、バトンの受け渡しで勝った。0.2秒といえば、おそらく2.5メートルほどの差がつくはずであるが、それを力を合わせ、息を合わせて、チームワークで勝利したというのは、なんだか日本らしくて素晴らしい。私は見ていないが、見た人はこみ上げるものがあったのではないかと思う。 オリンピック全体で見れば、いくつか問題点もあったらしく、ブラジルではオリンピックに反対する人たちが、記者の乗ったバスに石を投げたり(市内は大渋滞で、市民生活など顧みられないのに、優先レーンをスイスイ行く姿に反発したのだという)、アメリカの選手が狂言窃盗をやってしまったりと、残念な話もいくつかあった。 だがまあ、準備が間に合うのか、とか治安は大丈夫か、最近テロが増えているのではないか、と心配された割には、ブラジル初のオリンピックとして成功したように思う。 スポーツとナショナリズムは微妙 ただ一つ、少し残念なことは、閉会式に安倍がマリオのかっこうをして出てきたことだろうか。オリンピックは国家ではなく、都市が開催するものである。国というものが前面に出ないように、オリンピック委員会側も、開催都市もそれなりの工夫をしている。例えば、過去のオリンピックのロゴマークを見ても、国旗をモチーフにしたロゴはない。ロゴマークに日の丸をぶち込んでくるような心得違いは、1964年の東京と2020年の東京だけである(20年の方はケチがついてボツになった。だが、盗作だとかセンスが悪いという前に、そもそもオリンピックのロゴとしてふさわしくない)。 実際、スポーツとナショナリズムの関係が微妙であることは、以前からも問題になっており、表彰などでも国というものを出すのをやめる、という改革案は、1970年あたりにIOCで議題になり、委員の大多数は、やめようという意見だったらしい。つまり、純粋なスポーツの祭典にしたい、というのが委員たちの切なる願いであった。 だが、当時の社会主義国を中心に反対があり、またスポンサーを考えると、やはり純粋なスポーツの祭典という理想は実現しなかったという。高い放映権料を出した放送局もまた商売なので、あまりオリンピック精神がどうこう、ときれいごとをいうのも、無理なのだろう。見る側も、どうしても色々な思い入れで見てしまうし、その方が楽しいかもしれない。 だが、政治家、特に国家元首となると話はかなり違ってくる。オリンピックの本来の精神とは何か、ということを考えるだけの良識をもつことが期待される政治家が、むしろ国家を前面に出す、というのは、日本人としては残念な事態だとおもう。それは安倍だけではない。東京オリンピックと騒ぎ出したのは石原だったが、彼は「ニッポンここにあり!」を世界に示すためにオリンピックをやる、と言っていた。むしろ、国威発揚を前面に出す人で、ヒトラーや旧社会主義国と同じ発想の人だ。そのくせ、北京オリンピックは国威発揚のヒトラーオリンピックのようなものだからボイコットせよとまでいう。ボイコットを主張するような人間が、国威発揚でオリンピックを引っ張ってこようとするのだから、石原の時に誘致に成功していなくてよかった。 安倍は、自分は国家を前面に出したのではない、元首としてではなく、日本を表すものとして一番ふさわしいから出たのだ、というかもしれない。たしかに、メルケルやオバマ、プーチンや金正恩なら出てきた瞬間に次の開催地がどの国かわかるだろう。だが、残念ながら、安倍が出てきても次がどこかなど分からない。誰あの人? そして、メルケル、オバマ、プーチンはそんなことをするほど愚かではない。金正恩なら安倍とだいたい同類だろうが、彼についてはやるかどうかは未知数なので、少なくとも実際に愚かさを証明した安倍と同類にされたくないかもしれない。 冗談にならないチャイナシンドローム 福島原発の事故が制御できていない今、チャイナシンドロームが現実のものとなりつつある。チャイナシンドロームとは、原発事故の燃料が溶け落ちて地球の裏側に達するという意味だが、実際には、アメリカの真裏は中国ではないし、そもそも重力の関係から、裏側には出ない。だから、ブラックジョークといえばその通りである。 しかし、そんな現状を制御できていないくせに、土管を通って宴会芸の親父が現れると、そんな冗談をやって浮かれる神経には呆れてしまう。 だれがよかったか というわけで、国家元首が出てくること自体、特に、勘違いが多い日本の場合、絶対にやってはならないことだし、その上安倍では人にわからない上、こんな冗談のような宴会芸が受け入れられるほど、原発事故の収束について楽観視などできない。 では誰がやればよかったのか。 北京ではベッカムが登場し、ああ、次はイギリスか、と皆思ったことだろう。ロンドンでは、サッカーのペレが登場し、いやおうなしに皆ブラジルを思い浮かべたに違いない。今回の場合、やはりイチローか。ただ、大リーガーだから次はアメリカと思わせるかもしれない。そうなると、北野武でもいいかもしれないし、「おしん」などもいいかもしれない。 いや、世襲以外になんの取り柄もない、良識も知性もない宴会芸おじさんが避けられるなら誰でもいい。
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by luxemburg
| 2016-08-23 13:54
発端は、NHKで放送されたという、子供の貧困の問題に関する番組。出演した、高校生の少女が中学生の頃、パソコンも買えないでキーボードだけでタイピングの練習をしたという話であったが、ネット右翼が賢明に「捜査」したところ、その少女のツイッターから、少女が2万円するペンセットを持っていたり、1000円以上のランチに行ったなどの事実が判明したという。 ネット右翼の尻馬に乗るおばさんそういう話が出てくると、血の匂いに反応するサメのように現れる片山さつきさん、ネット右翼の代表よろしく、早速NHKに説明を求め、皆さんに結果をフィードバックする、という。 まず第一に、そういう問題というのは、個々の放送局が視聴者からの指摘を受けて自主的に調査をすべきものである。さらに、もし放送局に自浄能力がなかったとしても、何らかの問題点を指摘するとすれば、総務省が行うべきものだ。ネットの書き込みの尻馬に乗って、いち国会議員が放送局に説明をもとめるようなことは、メディアの中立性、独立性から考えて絶対にあってはならないことである。 第二に、国会議員たるものが、弱い者いじめを趣味としている問題点である。生活保護不正受給事件(売れっ子お笑い芸人の親が生活保護を受けていた問題)でも、生活保護というのは生きるか死ぬかの問題なのに、そうではないものが受給してはならない、という、勝手に生活保護制度の捻じ曲げている人間性の歪みに問題があるということだろう。 憲法が読めないのか憲法25条は「健康で文化的な最低限度の生活」を送る権利がある、と定めているのである。例えば、病気になって医療が受けられないということがあってはならないし、人間は文化的でない生活レベルにまでおとされてはならない、ということである。決して、死にかけて初めて生活保護が受けられるというものではない。日本語が読めないレベルの人間を国会議員にすべきではないし、読めないだけならまだしも、弱い者いじめの側に曲解しようとする人間性、さらにそういうことを囃し立てたい歪んだ人間たちの尻馬に乗る薄っぺらい人間性。 正直なところ、わたしはこの片山さつきをどうこうとは思わない。ご近所にも会社にも、ときどきおよそろくでもない人間性の持ち主はいる。人間もいろいろいていい、とすら思っている。だが、そんな人間が国会議員をして、権力を振るい、税金を無駄遣いし、国の方向を歪めてしまう、そんな放置されていることが問題である。薄ら寒いばかりの日本人の心性に貧困を感じてしまう。 #
by luxemburg
| 2016-08-21 22:13
『鳥越氏「女子大生淫行」疑惑は、本当に「取るに足らない」ニュースなのか 主要メディアはそろってスルー』 現代ビジネスで牧野洋という人が書いておられる(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49295)。 一言でいうと、こういうことだろう。鳥越俊太郎さんの14年前の不倫があったかもしれない疑惑は、大手メディアがスルーしているが、アメリカでかつてこういう問題が起こって、有力な大統領候補が立候補を取り下げる事件があった。重要でないと主要メディアが考えているのであれば見当違いである。 ということらしい。そして、アメリカのメディアの変化についてこのように言われる。 「米国の政治ジャーナリズムは「ハート前」と「ハート後」で別物になったとまでいわれている。それをノンフィクションで浮き彫りにしたのが2014年出版の『真実はこれだ:政治がタブロイド化した1週間』(邦訳なし)だ。著者のマット・バイ氏は「政策論議を深めるのではなくスキャンダルを暴く――これが『ハート後』の政治ジャーナリズムの基本スタンスになった」と嘆いている。堀江氏(注:「女性問題で叩くのもういい加減止めにしない?」とツイートしている)と同じ問題意識を持っているわけだ。」 だが、これは悪い変化ではないのだ、と著者は考えるらしい。 「ゲーリー・ハートは数週間にわたって公の場で不倫疑惑を全面否定していた。そんな状況下でわれわれは不倫現場を目撃した。つまり彼は明らかにウソをついていたのだ。これがニュースでないとしたら何がニュースになるのか?ハート氏は「女たらし」というよりは「偽善者」であり、人格の面で問題を抱えているから、このことについては有権者に伝えるべき (中略) いずれにせよ日本の政治ジャーナリズムはまだ「ハート前」の世界にあるようだ。」 結局、この著者は、アメリカはイエロー・ジャーナリズム化したというより、ウソをついた不誠実、偽善を問題にしているのであり、候補者の人格を問題にすることは、ジャーナリズムの進歩・進化であると考えているらしい。 ゴシップ記者は、自分の提示した問題をただのゴシップとは言われたくない、さも重要で価値のある問題と主張したいだろうから、「私はゴシップを追い掛け回している三流記者とは違い、アメリカ大統領になる人間の人格を問題にしているんだ」と言うだろう。それをまた生真面目に鵜呑みにするというのはどうなのだろうか。受け手の判断次第だが、ゴシップ記者は、飯の種として下半身スキャンダルを追う、下品だと言われたら、いやいや自分が問題にしているのは人格だとでも反論しよう、というのが正直なところではないかと私は思う。 この著者の決定的な間違いは、鳥越氏がウソを言っていることが確定していないということである。ゲイリー・ハートの場合、現場を押さえられ、ウソであることは確定した。だから嘘つきというのも考えられなくもない。だが、鳥越氏の場合、不明なことが今の段階では多すぎるのだ。実際、文春は相手の女性への取材すらしていないようで、その記事を前提に鳥越氏がウソをついている、というのは無理だろう。逆に、この選挙期間にそんなでたらめな報道をする方を問題にしたほうがいい。 その後、はっきりと鳥越氏がウソを付いていることがわかったら、その時点で「人格」を問題にすべきだろう。 いや、まだ事実がはっきりしない段階でも、それをはっきりさせるのがメディアの仕事だろう、という反論もあるかもしれない。もしそうなら、きちんとした取材で、鳥越氏がどういうウソを言っているのか、さすが大手新聞の取材力は違うな、というところを見せればいいだけのことだろう。おそらく、それはやっているのではないか。ただ、伝聞や推測記事を書く週刊誌とはちがい、やはりちゃんと裏が取れないのであろう。だから報道しない。この著者はそういう推測が出来なかったのだろうか。 で、鳥越氏がウソをついていると明らかになったとしよう。だが正直なところ、不倫問題でウソをつきました、ということが、政治家の「人格」の問題になるのかは疑問である。それは結局、妻との間における誠実、不誠実の問題で、選挙民がその家庭、夫婦関係に立ち入って、あんたの人格は・・・、と問題にするようなものではない。 実際、そういう場合ほとんどの妻は、嘘でもいいから否定してほしい、という気持ちを持っているという。つまり、やりました、というのが誠実で男らしいとは思っていないのだ。どんなに疑わしくても完全否定し続けてほしい、というのが本音である。これは、実際そういう家庭問題が起こった女性何人からも聞いた話だ。そんなこと知ったことか、と思うかもしれないが、逆に言えばそう言う妻の気持ちの世界にズカズカ上がり込んできて、人格だの何だのという方がどうかしている。 著者は、ドラッカーの経営書を挙げて、経営者、リーダーたるものは人格だ、という。 では聞くが、従業員が社長に、「社長、浮気したことありますか」と聞いたとする。 たいてい「いや。私は妻一筋だよ」と答えるだろう。 それで、実はその社長、若い頃やんちゃしていたことがわかったとして、従業員はその社長にはついていけないと思うだろうか。 むしろ、従業員がついていけないと考える社長は、そう聞かれて、武勇伝をペラペラ話すような社長ではないのか。 つまり、社長に求められる人格とは何か、という話を、「人格」という一般論でマネー・ロンダリングしてしまう(ウソ→人格に問題→経営者失格。字面だけを見ると正しいように見えるが実は話が途中で変わっていることに気が付かない)から、こういう著者の文章に騙されるのだ。 現代ビジネスというサイトは、医療の問題など、極めて貴重な提言をなさって素晴らしいサイトなのに、こんながっかりな文章も掲載されることがあるのかと思うと残念だ。
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by luxemburg
| 2016-07-30 09:31
「我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。」
「我々は、自由・・・を重んじ」と書いているのも主客転倒している。国民の自由を重んじ、権利を侵害しないようにするのは国家であって国民ではない。国民は他人の自由を尊重しなくていいのか、という話ではない。それ自体は大事なことだが、憲法に書くようなことではない。刑法に脅迫罪や強要罪が規定されていればそれですむだけのことである。また、民事的な損害賠償を認められることもあるだろう。憲法は、国民に配布される「夏休みの過ごし方のルール」ではない。憲法に何を書くべきであるか、ということ自体が未だに理解できない人たちの作った草案ということになるだろう。 自民党草案では、国が、国民同士が自由を重んじあっているか、という点に関与する、戦前の町内会や隣組の世界となっている。 また「規律を重んじ」、などという必要はない。なぜなら、自由というものはもともと制約が伴っている。いったん、無制限に自由を拡げておいてあとから成約する、という考え方はしないのが日本国憲法の考え方である。例えば3人でクイズ番組に出場し、賞金を30万円もらったら、最初から一人10万円、と誰でも思うだろう。まず、30万円とる「権利」があって、それが他のメンバーのために制約される、という考え方ではないのだ。 どこが違うのか、どうせ10万円ではないか、と思うかもしれないが、実は違う。最初30万にしておき、「何でも自分の思い通りになると思ったら大間違いだ」という名目で10万どころか、事務所の取り分などがいつの間にか紛れ込んで5万や1万になる可能性だってある。昔から、物を知った風の大人が「何でも無制限に自由になるわけじゃない」といって、本来必要もない制限を肯定することが多いが、そういう危険というものがわかった人が憲法を作らなければならない。 それに続く言葉は、「教育や科学技術を振興し」であるから、その相互監視は、結局国家の目的のためにある、ということである。その国家の究極の目的は何か、「活力ある経済活動を通じて国を成長させる」。これはもう少し昔の言葉を使えば、「国と郷土を誇りをもって自ら守り」と合わせて、「富国強兵」ということである。
結局、基本的人権を否定し、さらに国民は国の目的のためにあり(近代立憲主義の否定)、そして、国民は富国強兵のために存在する、これが自民党草案の目指す世界であることを第四文は表している。 つまり、憲法改正とは、「国民があって、そのために国がある」という、人間が実在し、国家をその手段とする機能的な国家観から、「国があって、そのために国民がいる」という、国家が実在し(それが「国体」なのか神の実在なのかは不明)、国民をその手段とする機能的な国民観への見事な転換と言える。コペルニクス的転回というべき事態であるということになる。 女王蜂一匹のために、ほとんどの鉢は働き、文字通り虫けらのように死ぬ。だが、この集団の本体、すなわち受け継ぐべき遺伝情報を持っているのは、女王蜂だけなのだから、女王蜂あっての集団である。その一本の遺伝の糸をつないでいくための手段として他の虫けらたちは存在する、それはそれで合理的な生き残りの方法である。ただし、それは国民の生き残りのための合理性ではなく、国家それ自体の生き残りのための合理性ということだ。 国民のための憲法ではなく、国家のための憲法、国体のための憲法。だから自民党草案の前文は国から始まる。そして国民はその国のための手段。 それでも国家のほうが大事だという考え方もあるかもしれない。だが、いつの時代も、どこの国でもそうだが、国というものはみんなに利益をもたらすのではない。国を守れと言われてそのために駆り出される人間と、国に守られている人間がいる。国は、おおやけではなく、彼らの私物である。国は特に日本や北朝鮮のように、国家権力が世襲できている国は、その私物化の度合いは極めて高いだろう。会社のために、と思う前に、会社が栄えたときに誰の給料が上がるのか、自分もそれに一体感を感じることになるのか、使い捨てられるのか、よく見極めてから愛社精神をもったほうがよい。 #
by luxemburg
| 2016-07-26 20:47
第三文
日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。 やっとここで、国民が出てくる。 国民とくれば基本的人権が保障される話だろう、と誰もが思う。本当なら、それが第一文に出てくるべきなのだが・・・。 なんと、初めて出てきた国民は、「国と郷土を誇りと気概をもって自ら守り・・・」。 国、国ときた後で、国民は、その国を守るべき存在なのである。国があっての国民、という考え方であり、日本国憲法、というより、西欧近代文明が作り上げてきた憲法と真逆の憲法である。日本国憲法は、国民があっての国とする。草案は基本的人権尊重主義と正反対の原理に立つことを示しているということだ。 いやいや、西欧とは異なる独自の憲法があっていいではないか。日本は固有の文化を持つ国なのだから、という反論も考えられる。 だが、こと憲法や人権に関しては、それは無理というしかない。日本が特別な宗教でももち、その宗教の法が憲法より上、と考えている国民は、いないだろう。トルコなどアジアの国も揺れ動いているが、日本の場合、東アジアの文化ですか、それとも西欧民主主義の仲間入りしますか、と言った場合、ほぼ答えは決まっている。もちろん、固有の文化を尊重するにしても、憲法より上位の価値とは思っていない。 草案は徴兵制の根拠となりうる国土防衛義務を国民がもつ、しかも「誇りと気概」をもつことを意味するこの文は、国民の第一の義務がそれだというのだから、間違いなく徴兵制に繋がる。前文は、抽象的な理念を述べるものが多いとしても、その中で明確な内容を持つものは、法規範性を有する、と考えられている。法規範性とは「前文に国土防衛義務が書かれてるんだから、国民はこうしなさい、ということだ」と主張できる根拠になるということだ。 自民党草案は基本的人権を保障しない次に、基本的人権を尊重する、といかにも基本的人権尊重主義に立脚するかに見えるのだが、これは近代において理解されてきた基本的人権とは逆の発想に基づくものだ。 憲法ができた時代、信教の自由をみとめろ、所有権や経済活動の自由を認めよ、という主張は国家に対してなされた。その人権のカタログ(権利の章典)をつきつけて、国家にその遵守を要求する、それが基本的人権である。つまり、基本的人権とは、国に守らせるものであって、国民同士が守りましょう、というものとは違う。 よく、地方都市の役所では、「基本的人権を守りましょう」「人権習慣」などと書かれているが、おそらく公務員試験に憲法がないために、こういう誤解が生じたのだろう。 国民同士が守るとか守らないというのは、譲り合いだとか寛容とかいう、いわば社会生活上のルールの話であって、基本的人権ではない。実際の順序としては、憲法で定め、国に守らせる、その結果、国全体の価値基準として、個人の尊重や男女平等が浸透する、そして、我々の社会生活にも活かされるべきだ、という意識が浸透する、ということになる。その出発点の基本的人権を憲法の、しかも冒頭に書く場合に、主客転倒した書き方では、国会議員の選挙は憲法の試験ではない以上、やむを得ないのかもしれないが、基本的人権の本来的な姿ではない。 草案は、もはや近代憲法の体すらなさない「(日本国民は)和を尊び、家族や社会全体が互いに助けあって国家を形成する」 これは、国民に道徳を垂れているのだろうか。憲法では国民が国に対して、ああしろこうしろということはあっても、逆はない。現行憲法では、子供に教育を受けさせる義務、勤労の義務、納税の義務しかないが、いずれも国民の権利実現のためである。憲法というのは、国民がそれを国に守らせる規範であるが、国民同士がどう過ごせ、ということは書いていない、というより、そんなことを書くスペースなどない。特に前文において、大切なことを一切書かず、国民が互いをどう思いあえ、と規定するとなれば、これはもはや憲法ではない、というより、憲法とは何か、そのものを理解していない、不思議な人たちがこの草案を作ったということなのだろう。 「和を尊び」 「和をもって貴しとなす」とかいう、聖徳太子の一七条の憲法を、日本最古の憲法として、それにちなんだのかもしれない。だから、近代立憲主義の憲法を理解しないのだろう。 「家族や社会全体が互いに助けあって国家を形成する」 これは、家族的国家観ということだろうか(国家観については前に書いた)。近代の西欧では、自分たちの権利を侵害する王政を倒し、新たにいわば用心棒として国家を雇った、国家というのはそういう成り立ちを持つものと考えられている。それは武器も軍隊も持つ存在だから、絶対に暴走することのないように常にコントロールされなければならない。つまり、国民のために、一定の機能をもった国家を創設する、こういう機能的な国家観が近代立憲主義を支えている。その考え方によると、そもそも国家というものができた ところが、自民党草案は、家族、社会、国家と自然的な形で形成されてきた、と考えるのだろうが、この国家観そのものが極めて特殊な、日本は他の国とは異なるという独特の、よく言えば、自尊心をもった、悪くいえば思い込みに囚われたものになっている。ただ、憲法において、自分の国は他とは違うのだ、と規定することが安全保障にとって極めて危険であり、自民党草案もそれを理解した上で戦争を予定し、更に国民に国防の義務を課すのであろう。そうしてまで守りたいほど自分たちの国家観が大事であり、憲法はその国家に従属するものであり、さらに国民はその憲法に従属するものである、という考えに立脚している。 #
by luxemburg
| 2016-07-21 18:01
| 憲法
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