孝明天皇 単語

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孝明天皇とは第121代天皇である。実名は統仁(おさひと)。

概要

保2年(1831年)6月14日、第120代仁孝天皇の第四皇子として生まれた。生正親町子。6月20日に煕宮(ひろのみや)、次いで同年9月に立王宣下を受け、統仁と称した。

化3年(1846年)2月13日、仁孝天皇崩御に伴い、数え年16歳で践祚。翌化4年(1847年)9月23日、即位の礼が執り行われた。折しもが頻繁に出現する時期で、孝明天皇は践祚の同年に幕府に勅書を下し、「神州の瑕」にならぬよう防強化に務める事と海外の情勢を報告するよう命じた。自身も石清水八幡宮の臨時祭を行い、下泰と夷狄調を祈った。嘉永3年(1850年)4月8日には伊勢神宮仁和寺など七社七寺に万民安楽を祈るよう命じた。

黒船来航

嘉永6年(1853年)6月3日米国インド艦隊がに現れ、幕府に対し交を要した。幕府は回答期限を設けた上で一旦艦隊を引き下がらせる事に決め、全朝廷米国書を示し、今後の方針を諮問した。

この頃朝廷を取り仕切っていたのは関白鷹司政通である。政通は文政6年(1823年)以来30年以上に渡り関白職を勤めた老練な人物で、水戸徳川斉昭の義でもあった。その伝手で斉昭から外に関する詳細な情報を得ていた政通は、「戦争しても今の軟弱な武士では勝ちはない」「鎖国自体徳将軍の統治下で始まったものであり、外との和自体は問題ないので、オランダと同様長崎出島で交易させれば良かろう」と希望した。一方武家伝奏三条実万は政通の方針に表向きは従ったものの内心では反対していた事が手記にられている。朝廷の見解としては米国艦隊が再来した場合どのような対策を取るのかを聞き、幕府の返答を待つに留まった。そんな中孝明天皇はひたすら神に祈りをげ、社寺に対しての安寧を祈らせる日々が続いていた。

翌嘉永7年(1854年)、幕府は米国との間に和条約を締結した。朝廷もやむを得ない事としてこれを容認したが、廷臣達の不満はくすぶり続け、やがて孝明天皇自身も強硬な攘夷論を唱えるに至る。

通商条約の可否

安政年間に入ると、米国を始め各との通商条約の締結の是非が浮上した。朝廷では関白を辞した太鷹司政通が幕府との協調路線を取る一方、関白を継いだ九条尚忠は政通の針に不満を持っており、安政4年(1857年)7月上旬から出仕しなくなった。翌年に入ってもこの状態は変わらず、政通が関白時代から引き続き朝廷の政務を取り仕切る形になった。

丁度その頃関東では米国総領事タウンゼント・ハリス江戸行きが認められた。これに大名諸侯からしい反発が起こり、朝廷にもハリスに関する種々の悪評・評が届いた。傲慢外国人に脅されての尊厳を損ねてまで条約を結ぼうとする弱と受け取る者は朝廷の廷臣のみに留まらず、全各地でを荒げ始めていた。

安政4年(1857年)末、幕府は朝廷に対し、条約を締結し開に至る経緯と事情を説明するため、復斎(大学頭)、津田正路を京都に遣わした。らは武家伝奏の広成と東坊城聡長に対し、際情勢の急速な変化により鎖国を維持することが不可能な事、ハリス江戸行きは、慶長の頃にポルトガル人が江戸城将軍に謁見していた事をハリスから摘されて反論のしようがなかったため認めた事、外国人の居留は京都周辺は避け、みだりに雑居させない事等を事細かに説明した。東坊城らはこれを受け、鷹司にその内容を伝え、更に鷹司から孝明天皇に伝えられた。

安政5年1月17日、孝明天皇は九条関白に対し、自身の心を次のように書き送った。

私の代よりかようの儀に相成りては、後々までの恥の恥に半や、其に付ては伊勢始の処は恐縮少なからず、先代の御方々に対する不孝、私一身置く処き至り間、に心配仕り

(『孝明天皇記』)

「自分の代からの制度が変わってしまう事は伊勢神宮を始めとする神々に申し訳なく、歴代の天皇に対しても不孝である」と訴え、勅許の可否については地位の高い卿に留まらず、その他の廷臣達にも諮問すべきであるとした。この沙汰がきっかけとなり、身分の低い廷臣達による政治活動が本格的に始まった。

勅許拒否

2月、老中首座の堀田正睦と幕臣の岩瀬忠震川路聖謨が上し、朝廷への説得工作を開始した。堀田らの説明に太鷹司武家伝奏東坊城聡長らは理解を示したものの、議奏・徳大寺公純、内大臣・三条実万らは納得せず、朝廷内は通商条約の可否を巡って二に分かれた。

すったもんだの末一旦幕府への一任が決まりかけたが、3月12日に勅許反対の中下級廷臣88人が突然御所に集合し、関白に対して幕府委任の文言を削除するよう要した、これを受けて孝明天皇は16日九条関白に対し、日条約の内容まで戻る事を希望し、相手が戦争を仕掛けてきたなら受けて立つべしと回答するよう命じた。

20 日、御所に招かれた堀田らは、「通商条約の趣旨では威が立たないため御三家以下諸侯の意見を再度聞いた上でに言上するように」との沙汰書を下され た。更に23日には、言上のうえなお慮定まらなければ伊勢神宮の神慮、つまりおみくじで和戦を決めるとの文を加えた。この内容は堀田以下幕閣に強い困惑と動揺をもたらし、朝廷が通商条約を拒んでいる事を内に知らしめ、開鎖国攘夷かの対立が深刻化していく契機となった。

戊午の密勅

事実上の拒否回答を申し渡された堀田らが江戸に戻ると、彦根井伊直弼が大老に就任していた。堀田に代わり幕政を取り仕切る事になった井もまた朝廷から勅許を得ようと働きかけていたが、清国との戦争勝利した英両国日本にも軍艦派遣して不利な条約を強要するのではとの情報を受け、勅許を得ないまま6月19日米国との通商条約に調印した。

27日、飛脚で京都にこの知らせが届くと孝明天皇は激怒し、翌日譲位すると宣言し、慌てた廷臣達が諌める一幕があった。米国以外の諸外とも次々と条約を結んでいく幕府に対し焦りを感じた孝明天皇は譲位を水戸や諸大名に幕府批判の文書を送付することを廷臣に要し、8月8日に『午の密勅』と呼ばれる勅諚が水戸に送付された。幕府にも同様の文書が届いたが、幕府の頭越しに水戸に下った事を重く見た井大老は、老中・間部詮勝と京都代・酒井忠義を京都派遣した。

9月3日に上した酒井朝廷に対し、「関東の返答を待たずに勅許宣下の沙汰あらば武の為にならない」と警告した。そして17日に間部が上すると、朝廷に働きかけていた諸士や在野の人士を一斉に検挙し始め、孝明天皇に動揺を与えた。結局、幕府から武備増強後鎖国体制に戻すという説明を受けて疑問が氷解したと回答し、それに勢いを得た幕府は密勅降下に加担した廷臣の処分をも要し始めた。孝明天皇は曖昧な回答を出していたが、安政6年(1859年)4月には鷹司子や三条実万、近衛忠煕らを落飾させることに同意した。その一方で幕府への攘夷実行の要は相変わらず繰り返し、間部ら幕閣を苛立たせた。

和宮降嫁

安政7年(1860年)3月3日、大老・井伊直弼水戸浪士らによって暗殺された。井のあとを継いだ安藤信正、久世広周は、幕府と朝廷の関係を良好に保つべく、仁孝天皇皇女で孝明天皇のである和宮内王を将軍徳川家茂の正室に迎えたいと奏聞した。当時和宮は皇族の有栖川宮熾仁親王と既に婚約していた事もあり、孝明天皇は難色を示したが、同年7月安藤らが「7年8年後、ないしは10年後までには鎖国に戻す」と答えたため、和宮降に同意。文久2年(1862年)2月21日、和宮と茂の婚儀が執り行われた。

この間世間では「幕府は皇女を人質にとって論んでいる」という噂が飛び交い、これに反応した孝明天皇はまたも譲位を表明した。和宮に付き添った岩倉具視と千種有文はこの件について幕閣を問い詰め、噂は事実根であって叛意はいという茂と老中らの請書を取る事に成功した。

このように、江戸時代を通じて幕府に事実上従属していた朝廷は、孝明天皇の思想とは裏に幕府に優越する政治権力を持ち始めていた。

攘夷強行派との齟齬

文久2年(1862年)に入ると、薩摩島津久光の卒兵上京江戸出府に伴う幕政改革や、長州の開路線から破約攘夷路線への転換など、雄の活動によって政局が慌ただしく動き出した。京都ではこれら雄の有志による朝廷への工作活動が活発に行われ、三条実美や姉小路公知ら攘夷卿が朝廷を動かし始めた。

同年5月、孝明天皇は幕府に政治改革をめるに当り、「幕府に対する異心はく、皇一和、万民一同一心で攘夷に決する存念である。幕府と一致して蛮夷を拒絶するので、廷臣も協力するように。もし幕府が法な振る舞いをすれば関東とは隔絶する」と表明した。孝明天皇自身は合体による攘夷を願いつつ、幕府への大政委任は変更する意思はく、この後崩御までこの姿勢は一貫して続く。

同じ頃、京都では長州や土佐の攘夷強行士が廷臣と結びつき、和宮降に協力した岩倉具視らへの処罰がめられたり、中では暗殺事件が続発するなど物情騒然とした情勢であった。事態を憂慮した孝明天皇は宸翰(天皇の書状)の中で「浪徒の権威盛んにては朝廷の威降り一等心配」と心情をった。孝明天皇の心配をよそに朝廷では審議機関として事御用掛、事参政、事寄人などの役職が新たに創設され、攘夷強行の廷臣がこれら役職に就任する事で朝廷りだした。更に文久3年(1863年)2月20日には朝廷と関わりのない莽の人士でも学習院出仕という形で朝廷への出入りが認められるようになった。

3月将軍徳川家茂が上すると攘夷強行は勢いを増し、孝明天皇を社寺に行幸させるついでに将軍を供奉させ、そこで攘夷実行を約束させようと画策した。朝廷内外の圧力に押された茂は攘夷実行期限を5月10日と回答し、それに合わせて長州5月10日に下関近にいた米国船舶撃した。この間三条ら攘夷強行の廷臣は孝明天皇に対し、大和へ行幸して攘夷征を決行するよう上奏した。孝明天皇は拒否しようとしたものの、承認しなければ理にでも連れて行くと凄まれたため、渋々認めざるを得なかった。

こうした情勢の中、孝明天皇は三条らとその背後にいた長州などの暴論を退けるべく、朝彦親王と相談の上、会津薩摩を中心とする政変を企図した。

八月十八日の政変

文久3年(1863年)8月18日会津力とする諸兵が御所の門を封鎖し、議において大和行幸の中止を宣言。そして三条実美ら7人の暴論廷臣の参内が禁止された。前日まで御門の警備を担当していた長州は任を解かれ、京都から兵を退去させるよう命じられた。翌日三条らは長州兵と共に京都を逃れ長州に向かった。(七卿落ち)

政変後の孝明天皇の宸翰には、三条らを暴論としていかに疎んじていたか、また18日以前の勅書は偽不明のものであり、これ以後は自らの存意を反映した勅であると宣言した。

三条初め暴の所置深く痛心の次第、いささかも朕の了簡採用せず、その上言上もなく浪士輩と申し合わせ、勝手次第の所置多端、表には威を会いたてなど申しえども、真実朕の趣意相立たず、儘下より出る慮のみ、朕の存意貫せず、実に取り退けたき段、かねがね各々へ申し聞けおりところ、(中略)三条初め取り退け、実に国家のため幸福、朕の趣意相立ちことと深く悦びいりこと」

「これはかれこれ偽不文明の儀これ有りえども、去る十八日以後申し出で儀は、真実の朕の存意にあいだ、この辺諸一同心得違いこれなき様の事」

(『孝明天皇記』)

この政変によって暴論とされた攘夷強行一気に退潮し、代わって合体幕府朝彦親王二条斉敬などが朝廷を占めた。また、偽勅か勅かを巡る孝明天皇の宣言は、この事件以降に出された勅書の信頼性を損ねる要因となった。

参預会議前後

文久3年(1863年)10月3日薩摩島津久光が約1700人の兵を引き連れて上京した。15日、久朝彦親王を通じて孝明天皇へ、朝廷の旧弊体質を批判し改める事を願う建言書を提出した。これに対し孝明天皇は返書で、暴論を唱える廷臣への不信感や、謀な対外戦争を避けつつ攘夷を実現できる方策を建してほしい旨などを伝え、久に協力を要請した。

12月5日、久から有力諸侯を議に参加させるようにとの奏聞があり、前伊達宗城、前福井松平春嶽、前土佐山内容堂京都守護職・松平容保将軍後見職・徳川慶喜、そして久自身が議に参加する事になった。参預会議と呼ばれるこの会議で、慶喜と久嶽・宗との対立が表面化し、三人は間もなく辞表を提出、帰してしまった。久ら有力諸侯の議離脱後は徳川慶喜松平容保松平定敬ら一会桑勢力が京都政局をるようになり、孝明天皇も朝彦親王二条斉敬ら幕府の姿勢をとる卿に全面的に依存する形になった。

禁門の変

元治元年(1864年)6月下旬、京都周辺に押し寄せた長州軍は、朝廷に対して、先年の政変以後に出た勅は偽勅であり、朝廷を政変以前の状態に復して京都守護職・松平容保を退去させるよう要したが、孝明天皇はこれを拒否し、6月27日に、政変は自身の判断で行ったものである事、大和征行幸は行うつもりがなかった事、松平容保を信任する事、長州人の入拒否する事を宣言した。29日には京都御守衛総督・徳川慶喜に「諸事御任せ」として全権を委任した。朝廷では長州に加担していた廷臣達が長州の陳情を受け入れるよう活動していたが、孝明天皇は朝彦親王二条斉敬らと共に反対し、長州軍が動き出した7月18日間に征伐の勅命を下した。長州軍敗退後、23日に長州追討の命を慶喜に下し、27日には長州に加担した有栖川宮熾仁親王鷹司熙らの参内禁止を命じた。

長州問題と開港問題

慶応元年(1865年)5月22日将軍徳川家茂は御所に参内した。幕府首は前年の長州に対する処分は甘すぎるとして、将軍自ら大軍を率いて進発し、長州を降させようとするつもりであった。

孝明天皇以下朝廷では当初長州征討に消極的だったが、京都御守衛総督・徳川慶喜は聞き入れられないのならば松平容保・定敬らと一緒に職務を辞任するとしており、更に同16日には英の外艦隊が兵庫に集結し、兵庫の開港を要していた。21日、茂が参内し、長州征討の勅許は得られたが、兵庫開港についてはなお紛糾した。10月4日から5日の議では慶喜と関白二条斉敬、朝彦親王との間で長時間押し問答が繰り広げられたが、議を聞いていた孝明天皇は、「容易ならざる状況につき、いつまでも議論している場合ではなく、一に任せる他はい」として、条約勅許を認める旨を二条関白朝彦親王に伝えた。

攘夷鎖国に最もこだわった孝明天皇もついに破約攘夷論を曲げ、通商条約を容認するに至った。条約勅許以降、孝明天皇の発言は極端に少なくなる。

幕長戦争

慶応2年(1866年)8月、幕府と長州戦争は幕府の敗北で終結しつつあった。前7月20日には将軍徳川家茂大阪城で病死し、28日には徳川慶喜が徳相続と出の勅許を奏請し、翌日勅許が下された。

8月4日、慶喜は議に出席し、臨席した孝明天皇に出を内奏した。孝明天皇も長州征討は継続すべきと考えており、御簾を上げて自ら慶喜に命じるという異例の態度で臨んだ。ところが小倉敗北を聞いた慶喜は出を取りやめ、13日に休戦を朝廷に奏聞した。二条関白朝彦親王が孝明天皇にこれを伝えたところ殊の外機嫌を損ね、4日に命じた通り出するように重ねて命じたが、16日の議に出席した慶喜は、休戦のやむを得ないことを説明した。慶喜の変節に対して批判が浴びせられたが、軍事を担う側から休止を宣言された以上拒否することもできず、21日に休戦の沙汰が下された。

この状況に不満を募らせた大原重徳や中御門経之ら反幕府の廷臣22人が8月30日に御所に集まり、天皇二条関白臨席の元で、これまで処分を受けた廷臣の赦免や朝廷改革を言上した。これを受けて朝彦親王二条関白は辞任を申し出、参内を中止した。信頼していた2人を辞任に追い込んだ事に憤した孝明天皇は、言上した大原中御門らに閉門を命じた。

崩御

11月28日、孝明天皇は徳川慶喜に対し、征夷大将軍に就任するよう伝えた。12月5日将軍宣下の儀式を受け、慶喜は徳幕府第十五代将軍に就任した。

11日、孝明天皇は長時間に渡って厳寒の中で神事を執り行っていた。翌12日、高熱を発し、16日には下痢・嘔吐などしい症状が見られ、17日には痘瘡(天然痘)であると診断された。18日から24日にかけては回復傾向が見られたが、その日の深夜から容態が急変し、25日には「御九より御脱血、実以恐入御容体の由」という状態で、治療の甲斐なく崩御した。享年36。

暗殺説に関して

孝明天皇の崩御についてはこれまで様々な立場から暗殺説がされている。昭和15年(1940年)、医学者の佐伯理一郎は「痘瘡に患した隙に、岩倉具視堀川紀子が殺したのではないか」とする説を発表した。

第二次大戦後の昭和29年(1954年)、歴史学者のねずまさしは孝明天皇の死の原因を物による中死とし、更に昭和50年(1975年)、孝明天皇の医の子孫である良子順が当時の日記開し、病死とするには不自然な症状であるとした。これらの田中石井孝などの歴史学者も支持する説として有力視されるに至ったが、平成元年(1989年)から2年にかけて歴史学者の原口清が発表した一連の論説により、暗殺説を巡る議論に変化が生じた。それによると、孝明天皇が患ったのは悪性の班性痘瘡、もしくは出血性膿疱性痘瘡であり、『孝明天皇記』『中山忠能日記』に記録された斑点、吐血、脱血の症状はそれらの病状を示すものであるとした。[1]これについて石井孝と原口清の間で論争になり決着はつかなかったものの、一定の説得力を持つ原口説が現在では有力視されている。

なお、崩御から43年後にこの暗殺説は思わぬところで登場する。1909年に伊藤博文安重根に暗殺された際、安は殺の動機に関して様々な理由を挙げているが、その中の一つに「伊藤博文が孝明天皇を暗殺したのだ」という訴えがあった。安重根は、日露戦争日本ロシア帝国勝利したことおよびそれを導いた明治天皇に心酔しており、「偉大な明治天皇の御君である孝明天皇を殺したのは憎き伊藤博文だ」と信じ込んでいたようである。

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関連項目

120 121代 122
仁孝天皇(にんこうてんのう)
1735~1747
孝明天皇(こうめいてんのう)
1747~1867
明治天皇めいじてんのう)
1867~1912

脚注

  1. *原口清『王政復古への 原口清著作集2』P187-199
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