川路聖謨とは江戸時代後期の武士であり、厳格な身分社会において異例の大出世を遂げた幕臣である。
享和元年(1801年)4月25日、九州豊後国(現在の大分県)の代官所の下級役人・内藤歳由の次男として生まれる。幼名は八十吉、後に弥吉。
内藤家の先祖は元々甲斐武田氏に仕えた武士で、父である歳由の代に諸国を放浪して九州で職を得たものの、幕臣になる夢を諦め切れない歳由が単身江戸に向かい、文化元年(1804年)に歳由に呼び寄せられ、江戸に移り住んだ。
文化3年(1806年)に念願の幕臣(江戸城西丸御徒)に取り立てられた歳由は、通りすがった身分の高い武士を見ながら弥吉に対しこう言った。
「汝も昇進の道開けたり。
おとなしく出精すれば、あれ、あの徒つれ馬引かせてゆく人を見よ。
あれまではなれる也」
数え歳7歳の弥吉は父に対し「予かならず成るべし、おとなしく出精すべし」と返し、父を喜ばせたという。
父・歳由が幕臣になれたとはいえ、生活は極貧と言っていいほど貧しかった。しかし父母の弥吉に対する期待は非常に大きく、生活を切り詰めてでも良い教育を受けさせようとし、近所の学習塾へ通わせ、更に父自ら学問の手ほどきをした。
文化9年(1812年)、自らの出世に見切りを付けた父・歳由は、知人の御家人・川路光房の提案を受け、川路家へ弥吉を養子に出す。
翌年文化10年(1813年)、元服を済ませた弥吉は、諱を歳福(かずとみ)としたが、後に聖謨(せいぼ)と改めた。
なお、聖謨を「としあきら」と読むのは、更に後年幕府に仕えるようになってから、「聖→敏という意味がある」「謨→謀→明らかという意味がある」という連想から得た当て字である。
川路家を正式に継いだ後、文化16年(1816年)、16歳の頃から就職活動を始めた。
当時幕府への就職活動として、要人の屋敷に赴き面接を乞う「逢対」と呼ばれる方法が取られており、川路もこの方法に則り活動する傍ら、幕府が主催する試験を受け、勘定所の登用試験に合格。幕臣への根回しも功を奏し、文政元年(1818年)、就職活動3年目にして支配勘定出役に採用される。
「早くて5、6年」と言われた幕府への出仕の道を3年で実現し、家族を喜ばせた。
勘定所の下役に任じられた川路は4年ほど勤め上げた後、文政4年(1821年)に下役から正式に支配勘定に任命を受け、次いで文政6年(1823年)には勘定・評定所留役に昇進。更に将軍への謁見を許される御目見以上の資格も得ることが出来た。
これに先立つ事4ヶ月ほど前、父・歳由が病により急逝しており、川路は
「わずか四ヶ月ばかり世を早くなし給いし故に、わが御目見以上仰せ付けられ候事さえに、行道院様(歳由)はご存じはなし、いたくかなしきこと也」
その後、彦根・宮津両藩の境界線にまつわる紛議の解決、詐欺陰陽家に対する裁判、出石藩の家老による主家乗っ取り未遂事件、いわゆる「仙石騒動」の解決に貢献するなど、役人としての実績を着々と積んでいく。
天保6年(1835年)、仙石騒動にまで至るこれまでの実績が評価され、勘定奉行に次ぐ重職である勘定吟味役に抜擢される。これは異例の大出世と言われ、当時幕臣達の間でも噂になるほどだったとされる。
この時期になると川路の評判も世に知られるようになり、様々な人士と交流している。その中には間宮林蔵、藤田東湖、佐久間象山、江川太郎左衛門(英龍)、渡辺崋山など歴史上著名な人物も多数含まれている。
江川や渡辺とは蘭学や海防に関する興味から特に親しくなり、盛んに交流を行っているが、この人脈が後日川路をして「われらも既に危うきめに遭いき」と言わしめることになる。
天保9年(1838年)、米国艦モリソン号への砲撃事件を発端とする蘭学者への弾圧事件「蛮社の獄」が起こった。
目付・鳥居耀蔵と韮山代官・江川太郎左衛門の対立も絡むこの問題は、事件の首謀者である鳥居の標的となった江川や、渡辺崋山と親交のあった川路も連座しかけたが、当時の幕閣が厳罰に消極的だった事や、シンパによる救済運動によって逮捕者たちの極刑は免れ、川路も事なきを得た。
川路はこの事件で懲りたのか、以降外国に関する話題は「外国の事などは第一の禁物として、人に対して露いわねど」と自戒するようになり、再び国外に目を向けるのはしばらく後の事になる。
天保11年(1840年)、天保の大飢饉により全国規模で一揆が頻発する中、佐渡において大規模な一揆が発生し奉行所や豪農の屋敷が襲撃を受ける事態に発展していた。
この事態を収拾すべく老中首座・水野忠邦は川路を佐渡奉行に抜擢。佐渡に赴任した川路は自ら率先して倹約、綱紀粛正、人材登用を実施し、1年の任期の間一定の成果を上げて帰還。
帰還後すぐに小普請奉行に任ぜられ、同時に従5位下左衛門尉の官位を叙爵される。時まさに水野による天保の改革が行われようとしていた矢先で、川路も水野の賛同者として改革の一翼を担うことになった。
小普請奉行は、江戸城や徳川家の菩提寺の修繕を司る役職で、職業柄商工業者との癒着や不正が発生し易かった為、水野の肝煎りで川路への任命となった。
業務遂行に当たり、川路は部下への丸投げをせず自ら現場に赴いて不正や手抜き工事が無いか監督し、出費を出来るだけ抑えることで成果を上げ、水野も将軍・徳川家慶への報告の中で次のように評価した。
小普請方では、川路三左衛門が一人格別な努力を払っているので、不日奏功するものと期待が持たれる
だが、その他の改革策は思うように進まず、水野の専断が強まるにつれ川路も内心不安になったのか水野を嗜めていたが、天保14年(1843年)、上知令を実行に移そうとしたことで幕閣、旗本、諸大名から一斉に反発を受け、水野が老中辞任に追い込まれると同時に改革も頓挫した。
水野に代わって新たに老中首座に任命されたのは、当時寺社奉行を務めていた阿部正弘である。人材登用に熱心な阿部は、水野と共に処罰されるのではと取りざたされていた川路の実績を買い、処罰することなく小普請奉行から普請奉行に転任させた。
普請奉行に就任した際はあまり忙しくなかったらしく、本人曰く「ひとわたりの勤め向き」をほどほどに勤めた。
2年3ヶ月ほど普請奉行を務めた後、弘化3年(1846年)、今度は奈良奉行に任じられた。これは川路自身も左遷と思っていたらしく、「奈良に貶された」などと称している。この人事は、天保の改革への反動や、奈良奉行所の汚職への対応を考慮した阿部正弘の思惑があったと言われる。
奈良奉行に着任した川路は、領内で問題となっていた賭博や少年犯罪を取り締まる一方で、再犯を犯さないよう熱心に説諭したり、取調べ中の拷問をなるべく行わないようにするなど硬軟織り交ぜた方策で対処に当たった。また、役人が点数稼ぎに入牢者を多くしたりすることを改めさせ、裁判の迅速化を行った結果、奉行所の事務処理能力が大幅に向上した。
その他、貧民の救済のための基金設立、地場産業の育成、植林の振興、学問普及の為の褒賞などの施策を実行に移し、約6年間の任期で目覚しい実績を上げた。
嘉永4年(1851年)5月、江戸から呼び出された川路は大勢の住民に見送られながら奈良を発ち、6月23日に江戸に到着。将軍と幕閣への謁見を済ませた後、大阪町奉行転任の内示を受け、10月に大阪に着任。奈良奉行時代の経験を生かし、賭博や犯罪の取り締まりに力を入れるべく準備していたが、翌嘉永5年8月に江戸から呼び出しを受けて帰府することになったため、大阪町奉行としてはあまりなすところが無かったと後年本人が述懐している。
9月、江戸に戻った川路は、幕府三奉行の一つ、勘定奉行に任ぜられ、次いで海防掛に任命された。「今年中、もしくは来年に米国の艦隊が通商を求めてくる」というオランダからの情報を得た阿部正弘による人事で、この後川路は否応無く対外交渉の場に着くことになる。
嘉永6年(1853年)6月、米国艦隊の来航に伴い、その対応を巡って迷走する幕府に追い討ちをかけるかのように、ロシア海軍中将のエフィム・プチャーチン率いる艦隊3隻が7月長崎に現れ、通商に加えて北方領土の国境策定について交渉を要求し、応じなければ江戸に赴くことを告げて一旦上海に戻った。
応接掛に任命された川路は、国内情勢の多難なことを説明して諦めさせる、いわゆるブラカシ策で応対する事になり、12月に長崎に到着。14日、再来日したプチャーチン一行と最初の顔合わせを行った。
プチャーチンに同行していた秘書官で作家のゴンチャロフは川路の容貌について
年の頃45歳くらいの、大きな褐色の目をした聡明機敏な面構えの男
と評している。次いで20日から翌年1月4日まで計6回に渡り交渉が行われた。
ロシア側が老中の公文書を引用して日本に通商の意思ありと指摘すると川路は即座に反論し、逆にゴローニンの著書を引用して見せ、択捉島が日本の領土であることを主張。ロシア側の要求を巧みにかわしていき、最終的には将来日本が他国と条約を締結した際はロシアにも同様の条件を与えることのみ約束して引き揚げさせることに成功し、ブラカシ策の方針を守り抜いた。
ゴンチャロフは交渉における川路の知的な対応に対し、以下のような賞賛を送っている。
彼は私たち自身を反駁する巧妙な弁論を持って知性を閃かせたものの、なおこの人物を尊敬しないわけには行かなかった。彼の一言一句、一瞥、それに物腰までが、全て良識と、機知と、炯眼と、練達を顕していた。
無事に役割を終えて江戸に帰府すると、下田表取締江戸掛に任命され、日米和親条約の締結に伴い、ロシアとの間にも同様の条約を結ぶ必要が生じ、引き続きロシアとの交渉の担い手となった。
なお、この年の3月に、吉田松陰が密航を企てたかどで、また佐久間象山が吉田を唆した疑惑で逮捕される事件が起こっており、江戸町奉行所では死罪も検討されていたが、佐久間と親交のあった川路が阿部正弘に軽い処分で済むように直訴した為、阿部の横槍が入り結果的に二人とも死罪を免れている。
安政元年(1854年)10月、プチャーチンが再交渉を求めて下田に来航すると、再び川路が応対役に任じられて下田に向かった。
11月に入り再度交渉が始まった矢先の4日、紀伊半島南端を震源地とする「安政の大地震」が発生しロシア軍監が津波の直撃を受けて大破、修理地に曳航中沈没してしまったため、プチャーチン一行は帰国する方法がなくなってしまったが、川路の取り計らいによって保護され、船大工を集めてロシア人協力の元新しい軍艦を建造させることにした。これは当然単なる親切心だけでなく、この際洋式船の建築技術を学んでおこうという意図があったものと思われる。
その間も交渉は継続された。条約内容については議論の末日米和親条約に概ね近い内容で合意したが、北方領土交渉については川路とプチャーチンとの間で激論が戦わされた。はじめプチャーチンは、「択捉島までは日本領で以北の諸島はロシア領。樺太は全てロシア領である」と主張したが、川路が日本側の樺太調査の歴史を紹介して反論し、結果的には択捉島までが日本領で、樺太については国境を画定しないことで合意。12月21日、日露和親条約の調印式が行われた。
その後も領事館駐在の撤廃や、キリスト教の布教を禁止する為の交渉を行ったものの合意が得られず、プチャーチンが帰国した為、交渉は中断となった。
江戸に戻った川路は、蕃書調所やお玉ヶ池種痘所の創設に携わり、また禁裏の造営掛として京都に出張するなど精力的に働いていた。そんな折、安政5年(1858年)、米国との通商条約締結に向けて朝廷から承認を得るための使節として、老中首座・堀田正睦、目付・岩瀬忠震と共に川路が京都に赴くことになった。
当初日本を取り巻く国際情勢について良く説明すれば理解を得られるものと楽観的に思っていた一行だったが、在野の尊王攘夷志士らによる朝廷工作や、孝明天皇の外国に対する拒否感が予想以上に強く、勅許を得られずに江戸に戻った。
帰府した直後の4月23日、井伊直弼が突如大老に就任し、幕政を取り仕切り始めた。5月3日、川路は将軍継嗣問題に関して堀田正睦に対し、暗に徳川慶喜を推薦する建言書を出したところ、堀田が将軍・徳川家定に見せ、更に家定が井伊に見せてしまったため、紀州藩の徳川慶福を擁立していた井伊は越権行為と見做し、川路の役職を勘定奉行から西の丸留守居という閑職に降格させてしまった。いわゆる「安政の大獄」の始まりである。
更に翌安政6年(1859年)8月には隠居・差控えを命じられ、自宅での謹慎生活を送ることになる。
安政7年(1860年)3月の桜田門外の変を経て国内情勢が激変していく中、川路は悠々自適の生活を送っていたが、文久3年(1863年)5月、生麦事件や攘夷派のテロによって外国との折衝が紛糾し、これに対処する役として再び川路が抜擢され、隠居の身から外国奉行に就任。しかし、健康状態が思わしくなく、10月に辞任。隠居生活に舞い戻った。
再度の隠居後、三度中風の発作を起こして半身不随となり、死を意識し始める。江戸市中で薩摩藩主導の騒乱が起こる中、慶応4年(1868年)1月に以下の日記を残している。
「万々一江戸大騒動、致し方無き節は、一死を以って報じ奉るのみ」
「我が半身不随にて、立派に切腹のことむつかしく、これは臆病者の如く残念也。
されども、死は快く遂げ候積り也」
(川路聖謨『東洋金鴻』)
3月14日、勝海舟と西郷隆盛の会談により江戸城総攻撃は中止となり、新政府と旧幕府の全面衝突が回避された。翌15日、川路は儀礼的に切腹した後に拳銃自殺。滅びゆく幕府に従い殉死した。享年数え年で68歳。
「我が背の君、死去ましましぬ。兼ねてのお覚悟、勇猛にてよく御心お納めたまい、いとも静かなるご臨終なり。
誠に凡人におわさずと今からかしこう思えば、いともったいなし」
「只もろ共にと幾度か思いながら、いかにせむ、今爰(ここ)に至りて、我が身くず折れ死に至らば、太郎(聖謨の孫)は英国に有りて、かくとは夢にだに知らじ。世の乱れ、祖父の成り行き給う様も後にたれかは伝え聞かせむ」 「心を鬼にして、空蝉の御からとりまかない奉るもかなし」
(川路聖謨妻・さと『上総日記』)
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最終更新:2025/01/09(木) 08:00
最終更新:2025/01/09(木) 07:00
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