安重根(안중근、アンジュングン)は、朝鮮(いわゆる「李氏朝鮮」。安重根死亡時の国号は大韓帝国)の民族主義者、テロリスト、抗日ゲリラ。
日本では戦後まで安重根のことは詳細は伏せられ、貶めるためのニセ伝聞が広められたことからテロリスト、殺し屋、金目当てに殺しを請け負った無頼漢などと言われているが、韓国では義兵闘争を戦った元韓国義勇兵の生き残りで祖国を奪った伊藤博文を殺した義士として現在も尊敬されている。
身分の高い家系の裕福な家庭に生まれながら祖国に命を捧げる道を選んだ波乱万丈の生涯を歩んだ。最期は処刑と無惨なものであったが、生涯最後の日々の活動から何ら後悔は無かったものと見られている。
1879年9月2日、朝鮮の海州という街(2014年現在でいう朝鮮民主主義人民共和国の南西部にある)で、安泰勳と白川趙の夫婦の長男として生まれた。この家は両班という貴族階級であり、裕福な生まれだったとされている。また父である安泰勳は科挙に合格して進士の資格も得ている知識人でもあった。
恵まれた環境で育った安重根だが、成人後に教育関係、石炭関係など様々な事業を手がけるもいずれもうまくいかなかったようだ。
1907年7月、ハーグ密使事件に激怒した伊藤博文は統監府の日本軍を動員して大韓帝国政府がある漢城を占拠、大韓帝国皇帝の高宗に退位を迫り、拒否すれば大韓帝国に宣戦布告すると脅迫した。こうした日本の圧力を背景に高宗は息子に皇位を譲ることになり、武装した日本軍が周囲を取り囲む異常な雰囲気の中で皇帝の退位式が行われ、退位のサインが押された。
すると伊藤博文は7月中に再び日本軍を連れて漢城に乗り込み、第3次日韓協約の調印を要求した。第3次日韓協約は大韓帝国政府の行政官の人事権や立法権を統監府への委譲、さらに大韓帝国軍の解体が盛り込まれていた。既に第2次日韓協約で日本は韓国の外交権を奪っており、これで韓国政府の行政権も立法権も軍事力も奪うことで、大韓帝国政府は全ての権力を剥ぎ取られた名ばかりの帝国になる内容であった。これも韓国政府の宮殿であった漢城を日本軍で占拠したうえで強制的に調印させられている。
第3次日韓協約をもって大韓帝国軍は解散を命じられてしまった。しかし大韓帝国軍の兵士たちが納得するワケがなかった。第2次日韓協約から続いた伊藤博文の暴挙に激怒した大韓帝国の元軍人たちは、同じく日本に猛反発していた韓国人と意気投合し、韓国義兵軍を結成して日本と戦う覚悟を決めた。大韓帝国の民衆たちは幾度にわたって日本軍を連れて漢城宮殿に乗り込んで占拠する伊藤博文の姿を見ており、実際に何度も漢城周辺で日本軍と大韓帝国の民衆とで小競り合いが起きる騒ぎが起きており、伊藤博文と日本軍には激しい恨みを抱いていたのである。そしてこの韓国義兵軍のメンバーに安重根が居たのである。
韓国義兵軍による義兵闘争は日本軍と激戦になり3ヶ月で大規模闘争はいったん小康状態になったが、血みどろの激戦で韓国義勇兵たちが勇敢に戦いながら戦死したのを見た韓国人たちは再び立ち上がり、朝鮮半島各地で決起して義兵闘争は朝鮮半島全土に拡大。1909年の秋に業を煮やした日本軍は本土に増援を要請して大軍を送り込んで大討伐作戦を展開し、最終的に韓国人の死者1万7000人、負傷者3万6000人を出して1910年に鎮圧した。この義兵闘争中の1909年に韓国併合方針が明治政府で内定し、義兵闘争を鎮圧し次第、条約調印することが決定していた。
安重根は韓国義兵軍のメンバーとして主に朝鮮半島北部で日本軍と戦ったが敗れ、辛うじて生き残ってロシア国境まで逃亡し、妻や子を朝鮮に残してウラジオストクに潜伏。朝鮮半島の国境沿いには韓国義兵軍の生き残りが抗日ゲリラとなっていた。安重根はその後しばらくして「大韓義軍」という抗日活動を行う組織に所属。
安重根が自ら後の裁判で証言したところによると、この組織の中で「参謀中将」になっていたとのことである。だが当時まだ20歳代の若年という点から考えると、この「参謀中将」がどの程度の地位に当たるのかは不明である。
この組織は抗日活動としてゲリラ的な軍事行動を行ったが、彼の部隊は日本軍に壊滅させられる。
1909年10月26日、当時の大日本帝国の韓国統監であった伊藤博文がロシア帝国の重臣との会談のために満州ハルビン駅に到着した際、安重根が伊藤博文ら一行に対して拳銃(ジョン・ブローニングが開発したFN ブローニングM1900だったとされる)を7発射撃した。
そのうち3発が伊藤博文に命中し、一行の他の人物も怪我を負った。伊藤博文はその後しばらくは会話を交わすほどの意識があったが、致命傷を負っており、程なくして息を引き取った。享年68。
その直後、安重根はロシア兵に逮捕された。彼は逃げようとはせず『コリア!ウラー!コリア!ウラー!』(ロシア語で『韓国バンザイ!』という意味)と叫んだと伝えられている。当時の南満州鉄道沿線にはたくさんのロシア人が住んでおり、ハルビン駅がある現在の中国ハルビン市は当時は貿易都市としてたくさんの外国人がいたことから、多くの外国人に抗日を訴えるために逃げることなくロシア語で叫んだのである。
その後、三名の共謀者も逮捕された。つまりこの暗殺は時にイメージで語られるような安重根単独による突発的行動ではなく、団体による組織的・計画的なものであったと思われる。
安重根はいったんロシア帝国側に2日間身柄を確保された(当時のハルビンは清朝の領土だが、ロシア帝国が鉄道を引くにあたって範囲限定ながら自治権を得ていた)のち、日本側に引き渡された。そして関東州の旅順に移送され、そこにある関東都督府で裁判を受けることになった。当時の明治政府の裁判制度は大日本帝国憲法の天皇主権に基づいたもので、主権者である天皇の直属であった元老が全権を握る権力構造で、その権力は司法官の任命権にまで及んでいたため当然ながら政府の圧力が加わり、当時は日本国外で裁判が行われたにもかかわらず日本の法律で裁判が行われた。
6回の審理ののち、安は1910年2月14日に死刑を宣告され同年3月26日に絞首刑に処せられた。享年30。死刑執行は午前10時。26日の午前10時は伊藤博文が射殺された日時であり、安重根への当てつけである。他の共謀者も有罪にはなったが、実行犯ではなかったこともあり死刑にはなっていない。
安は先に述べたように抗日活動を行う軍事的組織「大韓義軍」に所属していたことを理由に、「暗殺者」ではなく「捕虜」として扱われることや、死刑が決まった後には銃殺での処刑を希望しているが、いずれも却下されている。
勾留・拘置期間中には新年の馳走が振る舞われたり、弟二名との面会が許された記録もあるとのことで、権利は尊重されていたようだ。酒や煙草まで与えられたとされている。日本人看守と交流して彼らから共感を得たとも言われており、直筆の書を安から贈られた者も居る。
これらの扱いに対して安は、「朝鮮にいる日本人は朝鮮人に対して辛く当たるのに、旅順にいる日本人は素晴らしい。同じ日本人であるのになぜこうも異なるのか」といった意味の文を書き残している。自叙伝によれば、抗日活動に身を投じる以前、朝鮮にいる時期に日本人とトラブルになったり、商売を日本人に邪魔されたりしたという。こういった個人的恨みも反日感情を形成する一助になっていたと思われ、獄中でこれまでのイメージと異なる日本人と触れて驚いたようだ。
またこの期間に自叙伝「安応七歴史」を記している(下記「関連商品」欄にある「安重根と朝鮮独立運動の源流」に収録されている)。また、自叙伝を書き終えたのちには「東洋平和論」という思想書を書き始めたが、既に処刑日時が迫っていたために未完に終わっている。
伊藤暗殺の動機については、逮捕後、裁判の場などで安重根本人が数々の理由を語っている。それらは概ね「朝鮮国が伊藤博文によって様々な被害を被った」として、伊藤を糾弾したものが多い。大日本帝国による朝鮮の保護国化から後の大韓帝国併合へと向かう一連の流れについて反感を募らせていたものと思われる。
ただし語った動機の中には、現在の視点から見ると伊藤個人の責任に帰すには疑問符がつくものや、根拠が曖昧で噂話レベルに基づくと取れるような内容も含まれている。
また興味深い点として、「伊藤博文が孝明天皇を暗殺した」とも糾弾し、動機の一つに数えている。この「孝明天皇暗殺説」は
などを材料として当時広く流布されていた陰謀論であり、前述した「噂話に基づくような内容」の一つ。大日本帝国の国民でない安がこれを動機として挙げる理由が理解しづらいところではある。だがこれについては、「安は大日本帝国による保護国化には反感を持っていたものの、明治天皇には心服していたためであろう」と説明されることが多い。安が挙げた別の動機「伊藤は明治天皇に対して韓国の窮状を隠している」という糾弾(こちらも「噂話レベル」であり根拠がない)からも、その点が汲み取れる。
なお余談だが、孝明天皇の名がここで「噂話に基づく暗殺理由」として登場したことについて歴史の皮肉と取る者も居る。と言うのも、伊藤博文は幕末の尊王攘夷志士であったころに「孝明天皇を廃位しようとしている」という噂話を信じて、塙忠宝という国学者を暗殺したと言われているため。
また、安が処刑の直前まで書いていたという思想書「東洋平和論」においては、日露戦争で日本が勝利したことを賞賛した上で「白人の侵略に対抗するためには「東洋人」(文脈から、特に大日本帝国・大韓帝国・清を指していると思われる)が団結しなければならない。しかし日本が隣国を虐めている現状は団結できない。よって現状を打破するために伊藤博文を殺害した」といった論調が記載されている。
これらの記述はいわゆる「汎アジア主義」、即ち「アジアの連帯によって欧米列強の脅威を排撃しよう」という思想と呼応するものとも言える。この点から、安について「汎アジア主義者」であると見なす場合もある。
その後、1910年8月に大韓帝国は大日本帝国に併合されることとなる。
当時の二国では、併合をなすべきかどうかについてそれぞれの国内でも意見は大きく割れていた。日本政府内では陸軍出身で日清戦争や日露戦争を主導した山県有朋、桂太郎、寺内正毅ら武闘派政治家らは韓国の併合を強く主張して武断政治を敷くべきだと主張していた。その中で伊藤博文は「併合をせずとも保護国で十分であろう」という、どちらかと言えば併合慎重派であったとされる。また暗殺事件が起きたことを恐縮に思い動揺した大韓帝国側が、併合関連の交渉で大日本帝国に対してさらに遠慮がちにならざるを得なくなったとも言われる。これらの点から、安が伊藤を暗殺したことで、逆に併合への道が加速したと見なされることがある。
もっとも第3次日韓協約が調印された時点で大韓帝国は立法権、行政権、裁判権、軍隊など全ての主権を日本に奪われており、唯一残ったのは皇帝の地位だけで大韓帝国は実質的に抜け殻も同然という状態であり、併合しようがするまいが何も変わらない状態であり、伊藤博文が併合反対したのは欧米列強に対する侵略イメージを避けたいメンツに過ぎなかったのが実情である。
伊藤博文は初期は確かに併合反対派であったようだが、1909年当時には既に韓国併合論者側の主張に対して積極的反論をする事はなくなり、併合もやむなしとの立場に移っていたとも言われる。また、そもそも暗殺以前に既に併合方針は決定されていた。それらを踏まえて、「暗殺は併合に対して、正負どちらの意味でも大きな影響をおよぼさなかった」との意見もある。
安重根については、評価者の国、時代、思想などで大きく評価が分かれる。
日本では好意的な評価は受けない事が多い。安重根に思想的背景があった点は多くの者が認めるところではあるが、それでも「犯罪者、テロリストであった」と評価される場合が多い。こういう評価をされるのは明治政府が韓国併合のイメージを良くするために第2次、第3次日韓協約をはじめとする大韓帝国政府への武力制圧を用いた押し込み強盗のような手法で強制的に調印したことを隠し、大韓帝国の賛同のもとで平和的に調印したと虚偽の報道を当時の新聞に書かせたためで、当時の東京日日新聞、現在の毎日新聞をはじめとする多くの新聞各社は明治政府のプロパガンダをそのまま掲載し、大韓帝国が腐敗と内乱でメチャクチャになっており、明治天皇が救いの手を差し伸べたというような内容の記事を書き、日本が韓国を併合する根拠に日本人と韓国人がルーツは同じ民族だとする日韓同祖論を挙げているほどである。
こうした報道を併合前から行って来たために朝鮮半島で起きた国家規模の義兵闘争なども内容を矮小化して報道され、日本の救いの手に反攻する愚かな不逞鮮人を懲らしめたとして伝わったために、安重根を愚かな荒くれ者として報道された。もっとも当時は天皇や政府に反発する思想はテロリスト扱いであり安重根のような何らかの思想を持つことと、犯罪者・テロリストであることは互いに矛盾しない。
大韓民国では抗日の英雄とされる。同国では朝鮮の保護国化や韓国併合について、大日本帝国による侵略行為であると見なしている。よって、安の暗殺はそれに対抗するための行動であったとみなされ、高い評価を受けている。中国のハルビン市には安重根義士記念館があるほどで、2014年に韓国の朴槿恵大統領と中国の習近平国家主席が共同で建設している。(ちなみに朴槿恵大統領はセヌリ党所属でセヌリ党は元ハンナラ党、2020年現在の自由韓国党で韓国ではガチの保守政党である)
出身地でもある朝鮮民主主義人民共和国では、愛国の義士ではあるが手段は評価できないといったところで、同情・評価しつつも全面的な肯定はしない、という微妙な立場をとっている。
戦後に安重根の本当の生涯が明らかになっても、日本では相変わらず頭のおかしいテロリストのように扱うのは未だに日本政府が韓国併合の真実や安重根の裏側を認めていないことにある。現在の日本の歴史教科書はアイヌの同化政策における侵略や、琉球王朝を滅ぼして沖縄に併合した琉球処分など明治時代の侵略においては事実をほとんど割愛して小さく扱っており、いずれも問題なく行われたかのように書かれている。
そのため多くの日本人は明治時代の日本による侵略や武力による帝国主義政策などを知らない人が多く、日本の保守論壇は知らないのをいいことに歴史修正主義を刷り込もうとしているのである。特に大ベストセラーになった小林よしのり著作の戦争論は新しい歴史教科書を作る会のメンバーが大きく関わって韓国併合の歴史修正を行っており、その内容は李氏朝鮮時代の不平等条約から第3次日韓協約までの日本が韓国の主権を侵害して奪っていく行程を全て切り取り、時代遅れの封建主義に固執した弱小国を日本が清とロシアから助けてやったにもかかわらず朝鮮人は愚かにも反発し、安重根は韓国併合反対派の伊藤博文を殺したという明治政府のプロパガンダをそのまま張り付けた捏造同然の内容であった。
実態は戦争論の内容からは程遠い国家間の押し込み強盗のような極めて暴力的な手法で韓国併合が行われており、これには当時の韓国統監府に勤めていた人や当時の軍人の記録、海外メディアの記録などで多角的に証拠が揃っており現在の近代史研究においては間違いない史実となっているが、その史実を切り貼り捏造した歴史修正主義が未だに日本の保守論壇でまかり通っている現実がある。現に小林よしのりの戦争論はアメリカではニューヨーク・タイムス誌をはじめとする大手のメディアでは歴史修正主義を指摘して強く批判しており、国際的にはインチキ本と見なされている。
それをイメージしやすく分かりやすい漫画にしたために多くの日本人から大反響を呼んで、当時は中学生や高校生が戦争論の内容を真に受けて学校での歴史教育で教師に反論するようになって、そのことが新聞で問題視されるなど小さな社会問題にまでなったほどである。こんな背景があることから安重根はならず者のテロリストという評価が簡単に刷り込まれるのは当然であり、日本と韓国では真逆の評価になっているのである。
掲示板
144 ななしのよっしん
2024/05/03(金) 14:01:54 ID: CzUQ37c/70
まあこういうタイプの人間は中身じゃなくて象徵であること自体に意味があるからな
そもそも暗殺が成功したところで大して意味がないが
145 ななしのよっしん
2024/10/20(日) 16:36:08 ID: FS7HK0RVp8
併合政策については迎合する人もいれば反発する人もいる
その望まない人もいるという象徴の一つとされたんでしょうな
146 ななしのよっしん
2024/10/20(日) 16:40:07 ID: sd0NdaPKnz
伊藤は韓国併合にどちらかといえば消極派だったから山上と比べて事態を悪化させただけだったな
急上昇ワード改
最終更新:2024/12/23(月) 10:00
最終更新:2024/12/23(月) 10:00
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