鷹司政通とは江戸時代後期の公卿である。関白、内覧、太政大臣、摂政などを歴任した。
寛政元年(1789年)7月2日、関白・鷹司政熙の長男に生まれる。鷹司家は五摂家と呼ばれる公家の最高家格に列する。政通の祖父・輔平は東山天皇の孫で、輔平の甥である閑院宮師仁親王は皇位を継ぎ光格天皇(孝明天皇の祖父)となっている。この為政通は血筋の上では皇孫に当たり「(孝明天皇よりも)自分のほうが血筋が上」などと豪語したと言われる。
文化12年(1815年)、内大臣に就任。その後右大臣、左大臣を経て文政6年(1823年)、関白・内覧に就任。太政大臣、氏長者なども兼ね、弘化3年(1846年)、孝明天皇の践祚につき摂政に就任。朝廷の制度や故実に深い知識を持ち、弁舌も巧みな政通は30年以上に渡って関白の地位に留まり、朝廷内では天皇を凌ぐ影の実力者として君臨し、孝明天皇にとっては非常に煙たい義理の叔父でもあった。
嘉永6年(1853年)8月、孝明天皇から幕府へ適切に対処せよと勅を下すよう命じられる。政通は米国の要求を妥当なものと考え、「今の武士は怠惰かつ怯懦で戦っても勝ち目はない。それよりは交易で利益を上げたほうが上策である」とし、幕府の開国策を支持した。これは政通夫人が水戸藩の徳川斉昭の姉で、水戸藩を通じて海外の詳しい情勢について知ることが出来たためと言われる。
安政3年(1856年)、九条尚忠に関白の地位を譲った後も太閤となり内覧も引き続き継続。幕府の開国策に協力的だったが、孝明天皇が条約勅許に反対であることを表明すると内覧の辞任を願い出、自らも条約調印に反対であることを天皇に伝え、攘夷派から開国派に転じた九条と対立した。
その後将軍継嗣問題で一橋派を支持し、戊午の密勅にも関与していたため安政6年(1859年)4月に安政の大獄で幕府の追及を受け落飾・謹慎処分を被る。
文久2年(1862年)に復飾し参朝停止を解除されたが老齢を理由にそのまま引退した。
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最終更新:2024/12/23(月) 10:00
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