松平定敬 単語

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松平定敬18461908)とは、幕末に活躍した大名である。

概要

桑名会津松平容保で、兄弟である尾・徳慶勝、御三卿・一茂栄、松平容保、松平定敬の四人は合わせて高須兄弟とも呼ばれる。一慶喜(後の徳川慶喜)、松平容保とともに幕末京都で活動した幕府側の「一会桑」の中心人物の一人。通称は鎮之助。号は山。

美濃高須義建の子として生まれ、安政6年(1859年)に桑名猷(定猷)が亡くなるとその・初婿養子として桑名となる。文久3年(1863年)、元治元年(1864年)に二度の将軍に随従した後、京都代に就任。この役職は本来譜代大名が務める役職だったが、溜間の門大名のまま任じられ、京都守護職の松平容保と共に諸事協議することを命じられた。

その後臣団の中に用人・周旋方を設置し、朝廷・幕府・諸間の交渉・情報収集に従事させる。こうして禁裏守衛総督・一慶喜、京都守護職・松平容保とともに、「一会桑」勢力の一として、朝廷上位・諸侯排除の合体を推進。慶応3年(1867年)には営中に限り、老中同様に御用向を取り扱うことが命じられた。

明治元年(1868年)の鳥羽伏見の戦いでの敗戦後徳川慶喜に松平定敬、松平容保は随行させられる。この間桑名不在となり、松平定敬の養子・定教が立てられて新政府に恭順開江戸にいた松平定敬は立見鑑三郎立見尚文)ら士に頭を下げて謝ったとも。その後、佐幕の中心人物として北陸羽方面を転戦、最後は五稜郭にわたり、戦争にも関わったが、家老の説得によって開以前に夷地を脱出し、東京で降に永領となった。

明治5年(1872年)に赦免される。この後海外遊学願を提出するなど西洋に対する関心を示す一方、明治10年(1877年)の西南戦争では旧桑名士の志願兵徴募に積極的であったとも。明治27年(1894年)には松平容保の後を継いで、日光東照宮八代宮に就任。神職の俸給改正や東照宮修繕に取り組んでいった。

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