フェミニスト(英:feminist)とは、女性の権利拡張や、男女平等を主張する人のことを指す。かつては、女性を大切にする男性、女性をちやほやする男性を意味する言葉として使われていた。
フェミニズムは伝統的な女性概念、社会通念からの解放と権利の見直しを求める考え方であるが、現状に対する解釈の違い、方法論の違い、目指すゴールの違いなど多様であり一本の思想と考えることはできない。「性別に左右されない個人の尊重」をめざし女性の地位の向上や社会参加の推進をする考え(リベラル・フェミニズム)や「女性差別の撤廃」をめざし、女性にとって差別的と判断した文化や慣習を否定する考え(ラディカル・フェミニズム)などさまざまである。
フェミニズムの基本的な考えに対する反論としては、男尊女卑思想とは別に「性差」に対する考え方の違いによるものがある。たとえば、「男性と女性では異なるのが当たり前であり、差別ではなく区別されるのは当たり前だ」という主張である。しかしながら、何を以て差別、区別とするのかは個人の主観や地域ごとに最適化された慣習によって異なるため、単純な定義づけが困難であり問題は複雑である。
様々な考え方が含まれるため、一般的な社会通念から批判の対象となる主張もありフェミニスト同士でも論争の種となることがある。
リベラル・フェミニストの系統では「平等を重視するあまり男女間の生理的/医学的差異をも無視する同一化に至った主張」がしばしば批判される。
ラディカル・フェミニズムの系統では、「一方的かつ独善的な差別認定をする主張」「女性の利益を重視するあまり逆差別となっている主張」が批判される。
日本国内においては「自由」や「平等」の歴史が浅いことや一方的な社会批判の枕詞としてよく使用された経緯などから平等の利益面(利益/権利の平等etc)に比べて負債面(負担/義務の平等etc)に関する意識が薄く、「平等」とは双方を含むものであるという社会的合意が普及しているとは言い難い。
そのためフェミニズムに限らず平等を要求する運動が一方的な利権獲得運動の色彩を帯びていると批判されることが多い。一見、リベラル・フェミニストに近い主張でも負の平等に言及することは少なく、ラディカル・フェミニズムに近い主張においては事実上の男性差別となっているものすら見かけられる(もちろん、正負ともに平等を主張する人もいる。)
近年の先鋭化するフェミニストに対して、元2ch管理人のひろゆきは2020年2月に『BLOGOS』にて「他者に敬意を払わない集団とフェミニストの先鋭化」というタイトルで非難する記事を書いている。この記事の中ではひろゆきは先鋭化するフェミニストを「ネトウヨと言われるヘイトスピーチやら差別発言をする集団」に比している。
フェミニズムはリベラル・フェミニズム、マルクス主義・フェミニズム、ラディカル・フェミニズムなど、多くの派に分かれているが、前述したように、同じ派の中でも考え方に差がある場合が多い。女性性について考えることを通して、男性性や子どもや障害者弱者の権利擁護につなげるという者もいれば、男性蔑視に徹している者もいる。大学等で学ぶフェミニズムとネット上で話題になるようなフェミニズムには、解離が見られ、フェミニズムをよく学んでいないままフェミニストを自称している例がないとは言い切れない。
実際、ツイフェミと呼ばれるようなツイッターでフェミニストを自称する者は、表現の自由を侵害するような意見を発信することでたびたび話題になるが、フェミニストと自称することは誰にでもでき、彼らの発言がフェミニズムに基づいたものであるかは信憑性に乏しい。最近では、ネットだけでなく現実でも、表現規制を求めるフェミニストの声が上がることがあるが、いずれも論文や文献に基づく主張はされていない。このような動きは、フェミニスト全体の信頼性を失うことにつながり(それを狙ってフェミニストを装ってそのような言動を繰り返している者もいるとの指摘もある)、他のフェミニストから批判の声が上がることもしばしばである。
繰り返しになるがフェミニズムの思想は百家争鳴状態で定説が存在しない。「ラディカル・フェミニストなら必ずこう考える」という話もなく、以下の区分の境目自体も曖昧なものである。あくまで参考程度に。
フェミニズムの源流が生まれたのは18世紀のヨーロッパである。フランス大革命をはじめとする市民革命によって市民は自由と権利と平等を得た。しかしそれは男の自由と男の権利と男間での平等にすぎなかった。女性達は社会から人間扱いされず、夫の所有物とされてしまった。そこで女性の自由と女性の権利と男女平等を獲得するために立ち上がったのがリベラル・フェミニズム(第一波フェミニズム)である。彼女達は近代社会の構造自体はそのままに、法律などにおける公的男女平等を目指した[1]。彼女たちの働きによって女性の参政権や財産権の獲得、女性の高等教育への参入と女性たちは大きな進歩を遂げた。
しかし公的平等を手に入れても女性達は男と同等の自由と権利を得ることはできなかった。彼女達の前にはまだまだ目に見えない数々の障壁が立ち塞がっていたのである。そこでリベラル・フェミニズムは微温いという批判から誕生したのがウーマン・リブ運動であり、それを萌芽としたラディカル・フェミニズム(第二波フェミニズム。ラディカルとは「根本的」の意)である。公的男女平等を目指すリベラル・フェミニズムに対し、ラディカル・フェミニズムは家庭など私的空間においても男女平等を目指す、より女性中心的傾向が強い思想であった。
「個人的なことは政治的なことである」というスローガンは第二波フェミニズムの思想を端的に表現している。それまで家庭やセックスの場は私的空間であり政治が口を出すことではないと考えられていた。しかしラディカル・フェミニスト達はむしろ家庭や性愛の場にこそ構造的で政治的な男女格差が隠されていると考えた。人間の性愛に関わるものの総称をセクシュアリティと呼ぶが、フェミニストたちは女性が男性に束縛されず自由にセクシュアリティを行使できる性的解放を模索した。例えばセクシャルハラスメントという語を造語し、それが許されないことだと社会に周知させたのはラディカル・フェミニストの功績の一つに挙げられる。
またラディカル・フェミニズムは女性の抑圧の原因は家父長制にあるとし、第一波フェミニズムから一歩進んで近代社会そのものを批判した。フェミニズムにおける家父長制とは男性が女性を支配するための社会、経済システムを意味する。ラディカル・フェミニスト達は意識改革(コンシャスネス・レイジング)を掲げ、これまで女性にとって「当然のこと」とされてきた性的役割(ジェンダーロール)、家族観、恋愛観など(いわゆる女性らしさ)を問題化し、家父長制からの解放を求めた。
女性の権利向上のために広がったフェミニズムであるが、やがて「女性中心主義は男性中心主義を単に転倒させたものではないか」という自己矛盾に行き着く。また一口に「女性」と言ってもその状況は一枚岩ではない。白人女性は黒人女性を抑圧しているし、先進国の女性は途上国の女性を搾取している。それまで一つの「あるべき女性」の姿を描いていたフェミニスト達は、そこから外れた女性を疎外あるいは無視してしまうという本末転倒な理論的限界にぶち当たった。こうしたところから生まれてきたのが第三波フェミニズムである。
第三波のフェミニスト達は、単に女性を抑圧から解放するだけでなく、社会に存在する権力-抑圧体制そのものを打倒する必要性を自覚し始める。こうして彼女/彼らは伝統的フェミニズムの考える「加害者の男vs被害者の女の対決」という男女二元論を乗り越え、以前は既得権益者とみなされてきた男性達もまた男性中心主義社会に苦しめられている犠牲者であると考えるようになった。フェミニズムは女性だけでなく男性をも解放しなければならないのである。
このフェミニズムでは性別を超えた個人の主体性が強調され、それまでのフェミニズムが提示してきた「あるべき女性」からの解放が行われた。例えばミニスカート[2]は「男に媚びたファッション」として第二波フェミニスト達から忌避されてきたが「私が着たいからこれを着るの」という女性の主体性が尊重されるようになった。男性からの抑圧だけでなく女性からも解放された女性の自立した生き方のことをガール・パワーと呼ぶ。
また第三波フェミニズムではダイバーシティ(多様性)とインターセクショナリティという概念が注目された。インターセクショナリティとは「差別や抑圧は人種、経済格差、性的志向など様々な要素が交差している」という考えである。ダイバーシティとインターセクショナリティを組み入れたことによりフェミニズム運動はこれまでの男vs女という画一的な対立構造の地平を広げ、人種差別問題やLGBT差別問題と合流していくこととなった。
以上の説明からもわかるように第三波フェミニズムは既存のフェミニズムを批判するところから生まれたためポスト・フェミニズムとも呼称される。この背景には第二波ラディカル・フェミニズムの過激化がある。左派運動とも結びつきフェミニズムが先鋭化する中で「自分はフェミニストではないが男女同権主義者で女性の性的搾取に反対する」という声が強くなった[3]。このような潮流自体が新しいフェミニズムとして結実していったのが第三波フェミニズムとも言えよう。
その反面、フェミニズムに批判的なフェミニズムが針小棒大に報道され「既に男女平等社会は成し遂げられている」としてフェミニズム終焉論が当時広く唱えられた。どの先進国でも経済力や社会進出で男女格差が残り、セクハラ・DVが社会問題になっているにもかかわらず「フェミニズムは歴史的役割を終えた」と誤った主張をする人々への批判もまた第三派フェミニズムが担った仕事の一つである。
2010年代以降、ダイバーシティとインターセクショナリティ思想を元に「女性」という枠組みを超えたより広い分野でのマイノリティ/社会的弱者の連帯がSNSやポピュラー文化を通じて広まった。「私たちは99%だ!」と叫びながらウォール街を占領したオキュパイ運動。BLM(ブラック・ライブズ・マター)運動。LGBT解放運動など、一見すると女性解放とは無関係そうな運動とのフェミニストの連帯を第四波フェミニズムと呼ぶ。
これらの運動の背景には、第一~二波期のフェミニスト達が女性の多様性を認めず、女性解放を叫ぶ同じ口で人種差別、障がい者差別、性的少数派差別に加担してきた負の歴史への反省があった。エリート白人女性が感じる抑圧と貧困女性、黒人女性、障がい者女性、トランスジェンダー女性が感じる抑圧はそれぞれ異なるという当たり前の事実を認めることによって、フェミニズムは女性解放の殻を破った、より包括的な解放運動に至ったのである。
TwitterやFacebookなどのSNSの利用もこの潮流の特徴である。SNSの拡散力はこれまでの書籍や講演、デモなどを通じた啓蒙活動とは比較にならないほど大きく、フェミニズム運動は大きな成果をおさめた。セクシャルハラスメントや性的搾取に関する被害をSNSで#Me too(私も被害者だ)とハッシュタグをつけて訴えるMe too運動は記憶に新しいところだろう。日本でも、職場で女性にだけ強制されるハイヒールやパンプスからの解放を訴えたKu too運動が広まった。
一方でSNSの利用は同時に強い反発も生み出していく。衆目を集めるためのフェミニストの過激な発言と炎上はもはや世界的に日常茶飯事と言って良い。この掲示板にもよく見られるアンチフェミニズム的書き込みも、SNSを通じてフェミニズムに失望した人によるものが多いのではなかろうか。SNSを利用して第四波といいつつ、内容が第二波のラディカル・フェミニズムと変わっていない論者も多い。第三波で乗り越えたはずの画一的な男女対立、女性への「あるべき女性」価値観の強制など、時代が逆行している論説が第四波フェミニズムの名を借りてSNSで横行しているのもまた否定できないところである。
レズビアン・フェミニズムはラディカル・フェミニズムから派生した、男性の女性への性的快楽の搾取を分析する一派である。フェミニストはレイプを男の性欲の突発的暴走ではなく、ミソジニー(女性嫌悪)に基づく暴力的支配欲に基づくものと考えていた。「英雄色を好む」と諺にもあるが、既存の社会では公認された性的強者であることが「男らしさ」であるとされてきた。この制度化された性的不平等において女性が男性と結ばれたいと思うとき、彼女はその男根主義を甘受するしかない。
従来の性愛パラダイムでは女性が男性を愛するのは自然なことであって、女性が女性を愛するのは異常なこととみなされてきた。しかし社会の性愛にある男根主義が明らかになるにつれて、女性が異性愛を選ぶのは自然的志向でなく、社会から強制されていることが原因であると判明する。レズビアン・フェミニストは「異性愛こそ権力的に捏造された人為的な制度である」とこれを弾劾する。
ソーシャル・フェミニズムは19世紀の社会主義者サン=シモンやマルクス、エンゲルスの思想を出発点にして始まった社会主義的女権運動である。他のフェミニズムが啓蒙活動を通じて人々の意識を改革することで男女平等を目指すのに対して、ソーシャル・フェミニズムは女性の抑圧の原因を資本主義制家父長制に根差す経済的不平等にあると考え、意識でなく資本主義社会の経済構造の変革を見据えた。上述したラディカル・フェミニズムと思想的に重複する部分も多い。
ソーシャル・フェミニストは共産革命による社会変動で男女平等は成し遂げられると考えていたが、その願いは儚くも裏切られた。革命によって自由を得たのは男達だけで、女性達は抑圧されたままであった。そこで男性中心的な主流派マルクス主義を批判する形で派生したのがマルクス主義フェミニズムである。→(マルクス主義フェミニズム)。マルクス主義が資本家(ブルジョワ)と労働者(プロレタリア)の階級闘争を分析したモデルを流用し、マルクス主義フェミニストは男と女の対立を階級闘争と捉えた。
アナキスト・フェミニズム(無政府主義フェミニズム)とは女性の抑圧を、国家による性および家族システムの支配と捉え、国家の解体こそが男の支配(家父長制)の解体に繋がると考える思想である。アナキズム(無政府主義)は19世紀に体系化された、あらゆる形態の支配の廃絶と、個人と公的生活の一致を目指す思想であるが、アナキスト・フェミニズムはその実現はフェミニズムによって為されると見なした。
アナキスト・フェミニズムは「リベラル・フェミニズムは女性の公的解放を達成したがそれで救われたのはエリート女性のみである」と彼女/彼らの能力主義(メリトクラシー)を批判し、逆にラディカル・フェミニズムの反権威性、反階級性を評価した。彼女/彼らは近代社会における女性の管理システムを分析し、女性のみならずあらゆる社会的弱者が無能力的存在として「女性化」させられている現行社会の官僚化支配への抵抗を図った。
人間と自然の相互関係から女性性を捉え直すのがエコロジカル・フェミニズムである。自然環境と人類という遠大なテーマのため、その思想の射程は非常に広い。例えばラディカル・フェミニストは家父長制支配は男性原理による自然支配と同じものであると考え、女性の解放と、人と自然の調和の回復は同一の問題であると考えた。あるエコ・フェミニストは環境保護活動に関わったり環境学を学ぶことを通じて女達はこうした領域における女性の実践的役割に目覚めていくとした。また別のエコ・フェミニストは、「父」を崇拝するキリスト教が封殺した異教徒の女性の霊的運動に着目した。
カルチュラル・エコ・フェミニストは人類の自然搾取と男性の女性搾取は同根のものであると考えた。彼女/彼らによれば16,17世紀の科学革命以来、人類は男性原理(理性的、能動的、競争的)で自然を支配してきており、女性原理(自然的、受動的、平和的)は現代に至るまでに次第に弱められてしまった。よって女性原理こそが自然破壊を防ぎ、人と自然との関係を修復できるとする。一方でソーシャル・エコ・フェミニストはこのような「女性=自然的」という性的役割や自然と文化の二項対立を批判した。
男/女、自然/文化、動物/人間などの二元論などサイボーグの前では無意味というフェミニズム。アメリカのフェミニストのダナ・ハラウェイによって提唱された一派で、ここでいうサイボーグとはターミネーターのようなロボット兵器とかでなく、近代社会において技術革新が進んだ結果、男性や女性というカテゴリーが曖昧化された人類のことである。例えば、生来の男女には拭い難い腕力差があるが、フォークリフトを使えばその差は埋まる。私たちがサイボーグ化したポストジェンダー社会では、旧態依然の様々な男性主義的な再生産構造(家事労働、育児・出産労働など)の解体が迫られるようになったとハラウェイは考える。例としては、医学の進歩に伴う人口子宮や代理出産の普及は既存の出産システムを大きく変えることになった。
明治日本が文明開花を迎えた時、当時の日本人は近代国家建設に益する婦人の再定義を行なった。目指すものは江戸時代の封建的男尊女卑体制の解体と近代天皇制国家における婦人の確立。その結論が「よく家庭を守り、健康な子を産み、夫を影から支える良妻賢母」という模範な女性像であった。それは国家による新しい形の女性支配であり、近世には持っていた財産権や契約の自由などを奪われた女性達は家父長制の下で男性支配に浴することとなった。ここでいう家父長制は現代フェミニズムでいう家父長制とは少し意味が異なり、イエを社会の一単位として、家長が家族を支配する社会形態のことを言う。戸主制度やイエ制度ともいい、現在では保守派から「伝統的家族観」と呼ばれてニュースに取り上げられることもある。
戦前の社会にも自由民権運動や大正デモクラシーなど市民の権利と自由を求める運動があったが、ヨーロッパと同じようにその主役は男子であり、彼らの希求していたのはあくまで男の権利と自由でしかなかった。戦前の女性は普通選挙法においても選挙権はなく、大きな法契約する際には父や夫の許可が必要とされた。姦通罪で女性のみが不倫を処罰される一方で著名な自由民権運動家が多くの愛妾を囲っていたという話は枚挙に遑がない。女性の貞操は夫の所有物とされ、夫婦間での強姦は成立しなかった。
このような儒教的男性優位社会に挑戦する形で明治後半から大正にかけてキリスト教婦人論や社会主義婦人論など日本のフェミニズムが生まれていく。1921年に最初の社会主義婦人団体「赤瀾会」を結成した山川菊栄は、女性の労働権と生活権を剥奪する資本主義の階級的搾取体制を批判し、社会に対して次の8項目を要求した。当時の女性がどのように抑圧されていたかの一端が見てとれるだろう。
戦前の日本のフェミニズムといえば平塚らいてうと与謝野晶子も有名である。
拠点となった雑誌の名から青鞜フェミニズムと呼ばれた平塚らの活動は単に制度的な女性の権利拡張を訴えるだけでなく、女性の内面的な意識を高めて新たな自己表現をしていった点(コンシャスネスライジング)で欧米のラディカル・フェミニズムとの強い共通点が認められる。
戦前の家父長制社会では男は好き勝手に女遊びをする一方で女性は貞淑を求められ、堕胎の権利も離婚の権利も与えられていなかった。そのため平塚達の開放的な恋愛観、性愛観は既存社会に対する挑戦と受け止められ激しい反発を引き起こした。早稲田大学を創設した大隈重信は、当時は「新しい女」と呼ばれたフェミニスト達をこう評している。
新しい女は動物に近い。離婚を尊ぶようだ。婦人は結婚しなければ肩身が狭くなり自然に背いて早死にする。新しい女はそれを尊んでいるから、そんな思想の女は死んだ方が良い。(『東京日日』大正二年四月二十八日)
大正の話とはいえ酷い言種である。政府の高官がこの態度であるのでは世の中の「新しい女」への白眼視は推して知るべしである。「婦徳に欠ける」「日本古来の倫理に反する」「国家道徳と相入れない」という名目で、フェミニズム運動や女性の性表現は厳しい弾圧と検閲を受けた。例えば女性がキスをしているだけの広告が「風俗潰乱」だと当局から規制されたのは、現在のフェミニストのキャンセルカルチャーを思えば皮肉なものである。
以上のような抑圧にも負けず平塚らいてうは政治団体「婦人参政権同盟」を結成し、女性の権利向上運動を続けていた。平塚は奥村博と恋をして共同生活を営んでいたが、現行の結婚制度への反発のために籍はいれなかった。この時、平塚は「女が結婚すると今までの姓を捨て、男の姓を名乗らなければいけないことに大きな疑問と不満を持つ」と述べている。戦前から夫婦別姓推進思想があったことがうかがえる。
大正では時代潮流に乗って青鞜社や婦人公論などのフェミニズム運動が躍動したが、昭和に入ると軍国主義の圧力に押し潰されていく。昭和7年には陸軍省の肝入りで「国防婦人会」が結成。昭和17年には「大日本婦人会」が結成され、女性参政権獲得を目指す「婦選獲得同盟」は解散した。女性たちは「お国のために産めや増やせ」と子を産み、育った我が子を戦地へ出征させていった。
アジア・太平洋戦争の敗戦を機に日本はGHQによる民主化が進み法的男女平等が実現する。この際、占領軍による強権的改革が行われたため、本国アメリカよりも日本の方が法的男女平等が進むという逆転現象も起きている。結婚にも家長の同意は不要となり「お義父さん、娘さんを僕にください」というお馴染みのやつも少なくとも法的には必須でなくなった。従来のイエ制度を保全したいと考える保守派はこの改革に反発したが戦争に負けた日本人がGHQにNOを突きつけるのは不可能であった。フェミニスト達は勿論これを喜んで受け入れたが、一方で婦人運動が戦中は軍事体制に積極的に協力していたことへの反省の機会は失われてしまう。
天から降ってくる形で権利が与えられた上に高度経済成長によって裕福になった女性達はしばしフェミニズム運動から関心を無くした。女性達は進んで社会から外れ、専業主婦になることを人生の最終目標とした。戦後日本も戦前からの良妻賢母像と男性中心社会は保全されてしまったが、専業主婦となった女性達はそのことに無批判であった。しかし60年代末から欧米のラディカル・フェミニズムと連動し日本でも反動化が始まる。それがウーマンリブ運動である。
日本のウーマンリブ運動も欧米と同じように私的領域での男女平等を目指すものであるが、本邦のそれは新左翼運動を結びついたことに特徴があった。新左翼の「自己批判」「自己否定」のやり方を通じて日本のフェミニスト達は「女」を自己解剖し、内なる女意識を暴きだした。1970年、田中美津は「便所からの解放」という刺激的な題のパンフレットを頒布し、女性の自己批判を通じた主体性獲得の可能性を提示した。
男にとって女とは、母性のやさしさ=母か、性欲処理機械=便所か、という二つのイメージに分かれる存在としてある。(田中美津、便所からの解放)
90年代に入り、社会に存在する差別とは単に男と女だけのものでなく、人種差別、身分差別などが組み合わさった多重的なものであると気づいた日本のフェミニスト達は、欧米の白人フェミニストが黒人女性を差別していたことを反省したように、過去の日本人女性がアジア人女性や部落出身女性を差別していたことを顧みて幅広い人権問題に関心を向けていった。彼女/彼らは日本の戦争責任追求および戦中の従軍慰安婦補償問題に取り組んだり、戦前の家父長制の頂点に立っていた天皇を部落差別や民族差別の根源と捉え天皇制廃止運動にも進んでいった。
2022年現在、日本はジェンダーギャップ指数で116位と先進国ではダントツのドベにランクインしている。このジェンダーギャップ指数は、女性に全く人権がない国が日本より上にきてしまうように色々問題が多いものであるが、それでも日本の女性の政治参加率の低さは顕著である。職場でのセクシャルハラスメントや男女間の給料格差も根絶の兆しは見えない。家庭の面でも、夫と妻が二人とも結婚後に自分の姓を用いられる選択制夫婦別姓は保守派から「伝統的家族観(≒家父長制)に反する」として導入を何十年も見送られている。現代日本でもフェミニズムの課題はまだまだ多いと言えよう。
フェミニズムの重要ワードには「家父長制」「セクシュアリティ」「リプロダクティブライツ」「再生産労働」「セックスワーク」「母性」「ジェンダー」「エンパワメント」など色々あるが、ここではネットのフェミ論壇レスバトル頻出ワード、スラングを解説する。これを覚えて貴方も今日から一人前のインターネットフェミ論者だ。
意味 | |
アンチナタリズム | 反出生主義。人間は子供を産むべきではないとする考え。対義語はナタフェミ(ナタリズムフェミニズム)。 |
アンフェ | アンチフェミニストの略。 |
インセル | involuntarily celibate(非自発的な禁欲)。女性に縁がない非モテ男子のこと。 |
キャンセルカルチャー | 差別的な表現、あるいは差別的な発言をした人を追放すること。 |
シーライオニング | 一見礼儀正しく質問攻めにして相手に嫌がらせすること。元ネタの海外の漫画がアシカ(シーライオン)のキャラクターだったのでこう呼ばれる。 |
シールドバッシュ | 盾を使って攻撃すること。転じて「弱者であること」、「被害者であること」を武器にして相手を攻撃すること。 |
ストローマン論法 | ストローマンとは案山子のこと。相手の主張を歪めて引用し、それを論破してあたかも相手の主張が間違っているように見せかけること。 |
性的消費 | 相手を性的な目でみること。 |
チン騎士 | チンコ+騎士の合成語。フェミニズムに賛同する男性への蔑称。 |
トーンポリシング | 直訳で「話し方警察」。「貴方の主張はもっともだが、そんな乱暴な言い方では誰も聞く耳をもってくれないよ」と相手の主張の内容でなく話し方を非難すること。 |
バックラッシュ | 元々は「反動」の意味。女性や少数民族、性的少数派など被差別者が権利を得ることに反発する動きのこと。 |
表現の自由戦士 | キャンセルカルチャーに対抗して「表現の自由」掲げて対抗する人々への蔑称。縮めて表自戦士ともいう。 |
マンスプレイニング | おっさんが女性に対して「女はこんなことも知らないだろう」と上から目線で聞いてもいないのにベラベラと説明しだすこと。縮めてマンスプともいう。 |
ミグタウ | "MGTOW(Men Going Their Own Way)"、直訳で「我が道をいく男」の意味で、女性と関わることを積極的に避ける男性のこと。日本語では草食系男子とも呼ばれる。 |
ミサンドリー | 男性嫌悪。 |
ミソジニー | 女性嫌悪。 |
ミラーリング | 女性への抑圧や性被害の場面を「もし男女逆だったら」と仮定して提示すること。 |
名誉男性 | 男性支配社会を支持する女性への蔑称。 |
掲示板
24747 ななしのよっしん
2024/12/15(日) 15:34:29 ID: gdxDKCw1hT
女児の性器をハサミで切り取り、縫い合わせる…日本のフェミニストがなぜかスルーする「女子割礼」の大問題
https://
24748 ななしのよっしん
2024/12/16(月) 23:07:54 ID: 9rM8xLXMM0
女子割礼こそ医師の元安全に行われるなら尊重されるべき側面もあるだろうって気はするけどね
啓蒙時代と何も変わってないよ欧米は
24749 ななしのよっしん
2024/12/18(水) 20:08:14 ID: cj5HUveBa3
急上昇ワード改
最終更新:2024/12/19(木) 18:00
最終更新:2024/12/19(木) 18:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。