表現の自由とは、日本国憲法第21条で保障されている基本的人権である。
憲法第21条で保障される「表現の自由」の中の「表現」とは、方法のいかんを問わず、人の内心における精神作用を外部に公表することである[1]。
表現の方法は、口頭・文章のほか、絵画・彫刻・音楽・演劇・映画・放送などと多種多様であり、憲法第21条の条文にも「一切の表現」とあるように、これらを広く包摂する[2]。芸術上の表現活動も含まれるし、国旗を飾ったり国旗を燃やしたりする象徴的表現も含まれる。
マスメディアや個人ジャーナリストが見たままのことを報道することも表現の中に含まれる[3]。
表現をさらに定義すると、思想・信条・意見・知識・事実・感情など人の精神活動に関わる一切のものを伝達する行為である。つまり、情報を伝達する行為である[4]。
表現の自由とは、このような表現について、政府などの公権力によって妨害されないことを意味する。
そして情報提供は、誰かが情報を受け取る行為を自由に行うことで初めて意味を持つ。「自分が提供する情報を誰も受け取ってくれない」と思うと情報を提供する意欲が失われていくからである。このため、表現の自由には情報を受け取る自由(情報受領権)が含まれるとされる。
また、表現の自由は情報を提供する自由であるが、そうした行為を行うためには、多かれ少なかれ情報収集行為を必要とする。逆に言うと、情報を収集する行為を阻害されてしまうと情報を提供することが困難になる。このため、表現の自由には情報収集をする自由(情報収集権)が含まれるとされる。
情報提供権と情報受領権と情報収集権をすべて含む表現の自由は、個人の人格の形成と展開(個人の自己実現)にとって不可欠であり、また立憲民主制の維持・運営(国民の自己統治)にとっても不可欠であり、このため「表現の自由の優越的地位が当然である」という結論に至る[5]。
表現の自由は人間の精神活動の自由の実際的・象徴的基盤であるとともに、人の内面的精神活動の自由や人身の自由や私生活の自由などの保障度を国民が不断に監視し、自由の体系を維持する最も基本的な条件である[6]。
ベンジャミン・カードーゾ裁判官は「(表現の自由は)ほとんどすべての他の形式の自由の母体であり、不可欠の条件である」と語った[7]。
また、表現の自由を尊重することによって情報の流通が活性化し、社会全体の発展が期待できる。
英語圏には「四つの目は二つの目より多くを見る(Four eyes see more than two eyes)」という格言や四つの目の原理(Four eyes principle)という概念がある。つまり、1人の情報収集には限界があって2人の情報収集の方が優れているという思想である。こうした思想から、表現の自由を尊重して情報伝達を促進し、2人以上で情報収集しつつ情報流通を促進し、社会の発展を加速させるべきだという思想が生まれる。
ノーベル賞の自然科学分野では単独受賞が少なくて共同受賞が多いのだが、共同研究は研究者間の情報伝達が必須である。こうした例からも表現の自由を尊重して情報流通を促進することの重要性が理解できる。
日本の江戸時代は民衆の表現の自由を認め、民衆の請願を受け入れ、それによって行政の向上に役立てた例が多い[8]。また日本の近現代では大日本帝国憲法第30条や日本国憲法第16条において民衆の表現の自由を認め、民衆の請願を受け入れ、それによって行政の向上に役立てた。これらは、表現の自由を尊重して民衆から行政官への情報流通を促進し、社会全体の発展の基礎にした例である。
表現の自由の保障を示したのが日本国憲法第21条である。
日本国憲法第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
表現の自由は6つに分類することができる。
積極的情報提供権は「言いたいことを言う」「好きなように情報を提供する」というものである。
消極的情報提供権は「言いたくないことは言わない」というものであり、沈黙の自由とも言われる。憲法第13条で保障されるプライバシー権を保護するための権利となる。
自らの思想や信教に関する告白を強制されない自由は、消極的情報提供権の1つとも言えるが、それに加えて、思想・良心の自由の「思想・良心を告白しない自由」や信教の自由の「消極的信仰告白の自由(告白をしない自由)」としても扱われる。
積極的情報受領権は「誰かが言ったことを受け取る自由」であり、知る権利(知る自由)[9]の一部である。
消極的情報受領権は「誰かが言ったことを受け取らない自由」である。例えば、世論形成を目的として政府が膨大な情報を提供する政府言論という現象があるが、その政府言論を制限する権利というものが考えられる。言論を一方的に聞かされる「囚われの聴衆」の立場から脱出する権利とも言い換えることができる。
あるいは消極的情報受領権は、「SNSの書き込みを読まない権利」というものも考えられる。TwitterなどのSNSが発達するにつれて、SNSでの名誉毀損・侮辱を苦にして自殺したり精神を病んだりする例が見られるようになった[10]。そうしたことを避けるためには、名誉毀損・侮辱をするものを刑法第230条の名誉毀損罪や刑法第231条の侮辱罪で警察に通報することも有力な手段だが、日本国憲法第21条第1項に基づいて消極的情報受領権の「SNSの書き込みを読まない権利」を行使することも有力な手段である。
積極的情報収集権は政府など公権力に対して情報公開を求める自由であり、政府情報開示請求権とも言われる。こちらも知る権利の一部とされる。積極的情報収集権は「本来は消極的権利[11]である『表現の自由』が積極的権利[12]の側面を持つに至ったもの」とされる。
また、積極的情報収集権は抽象的権利[13]とされ、憲法第20条をもとに直接的に与えられず、情報公開法などの法律を作ってその法律をもとに与えられる[14]。
消極的情報収集権は情報収集を政府など公権力に妨害されない自由であり、取材の自由[15]が典型例である。
表現の自由は人の外部的行動に関わるため、他人または社会の利益と抵触しやすく、制約される可能性がありうる。つまり、他者加害原理に基づいた公共の福祉によって表現の自由が制約されることがあり得る。
表現の自由は優越的地位を持っているので、「表現の自由以外の一般的な権利」を制約するかどうか判断する際の「合憲性推定の原則」[16]が排除され、違憲性推定の原則が当てはめられる。つまり、表現の自由を制約する法律を適用する公権力の側が、「この法律は合憲である」と裁判所に積極的に主張しなければならない[17]。
事前抑制とは、情報の提供・受領が行われる前に公権力が何らかの方法で情報の提供・受領を抑制することをいう。これに対して事後抑制とは情報の提供・受領が行われたあとで公権力が何らかの方法で情報の提供・受領を抑制することをいう。
事前抑制は、情報が市場に出る前に行われるので、人々の情報提供権と情報受領権を完全に侵害している。事後抑制は、情報が市場に出た後に行われるので、情報提供権と情報受領権を一部ではあるが尊重している。
また事前抑制は予測に基づいたものになりやすく、抑制の範囲が広範にわたりやすく、濫用されやすい[18]。一方で事後予測は予測に基づかず、抑制の範囲が限定されやすく、濫用されにくい。
このため事前抑制の方が事後抑制よりも問題が多く、「事前抑制の原則的禁止」が一般的に承認される[19]。
事前抑制には出版禁止・放送禁止・上演禁止などのように製造元の国における情報の提供・受領を禁止するものと、輸入禁止のように製造元の国における情報の提供・受領を禁止しないものがある[20]。
事前抑制の中には、行政がすべてを行って司法が全く関与しないものと、行政だけでなく司法が関与するものの2種類がある。
行政がすべてを行って司法が全く関与しない事前抑制には許可制と届出制がある。許可制は行政の恣意的裁量の余地が極めて大きいので、検閲にあたり、憲法第21条第2項によって絶対的に禁止される。簡素な届出制なら、行政の恣意的裁量の余地が少ないのである程度は認められる。ただし、極端に届出の手間を増やして「煩雑な届出制」にしてしまえば、「届出の手間が増えてやっかいなので表現をやめよう」という心理が働き、表現の抑圧になる。
行政だけでなく司法が関与する事前抑制には、適正な司法手続きが行われる許可制が考えられる。これは行政の恣意的裁量の余地が少ないので、ある程度は認められる。
税関による輸入禁止は、税関長が通知を行ったあとに司法審査の機会が与えられているので、「行政だけでなく司法が関与する事前抑制」に当たるとされる[21]。
以上に述べた事前抑制の4形態をまとめると次のようになる。
行政がすべてを行う | 簡素な届出制 | ある程度は認められる |
行政がすべてを行う | 複雑な届出制 | 表現を抑制するので認められない |
行政がすべてを行う | 許可制 | 表現を抑制するので認められない。検閲に当たる |
行政と司法が行う | 許可制 | ある程度は認められる |
原則的に禁止されている事前抑制が行われた例がある。
北方ジャーナル事件では、北海道知事選挙の候補者が、名誉毀損に当たる出版物の出版の事前差し止めを求め、これを裁判所に認められた相手方の出版社が損害賠償を求めたが、事前差し止めが合憲とされた。
最高裁は「とりわけの公務員又は公職選挙の候補者に対する評価・批判などにかかわる表現行為に対する事前差止は原則として許されない」としつつ、「その表現内容が真実でなく、またはそれが専ら公益を図る目的のものでないことが明白であって、被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被るおそれがあるときは、例外的に事前差止も許される」としている[22]。
アメリカ合衆国でも事前抑制が認められることがある。判例なら、①公表されたならば害悪が発生することが異例なほど明白である場合と、②公表されたならば取り返しの付かない害悪が発生するような場合、には事前差し止めが許容される傾向があるようである[23]。
人の行為を規制して処罰する法律が明確な法文構成を取るべきだということは、憲法第13条や憲法第31条の要請するところである[24]。
表現の自由は優越的地位を持っているので、表現の自由を取り締まる法律に対しては明確な法文構成がさらに要求される。漠然として曖昧で不明確な法文構成を持っている表現規制法律は、文面上違憲無効とされる[25]。これを漠然性ゆえの無効の法理とか明確性の法理という。
徳島市公安条例事件で最高裁は「ある刑罰法規があいまい不明確のゆえに憲法三一条に違反するものと認めるべきかどうかは、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読みとれるかどうかによつてこれを決定すべきである」と述べている[26]。
ただし、徳島市公安条例事件判決の最高裁判決は、集会の自由を制限する法律の明確性について語ったものである。表現の自由を制限する法律には、表現の自由の優越的地位を考慮して、「通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読みとれるかどうかで憲法第31条に違反するかどうかが分かれる」という基準よりもさらに厳しい基準が適用されても不自然ではない。
基本的人権の制限が最小限度になるべきということは、憲法第13条が要請するところである[27]。
表現の自由は優越的地位を持っているので、表現の自由を取り締まる法律に対しては基本的人権の制限が最小限度になるべきということがさらに要求され、制約が過度に広範にわたっていないかが厳密に問われる。
過度に広範にわたる法文構成を持っている表現規制法律は、文面上違憲無効とされる[28]。これを過度の広汎性ゆえの無効の法理と言う。
前項目の「漠然性ゆえの無効の法理(明確性の法理)」と、本項目の「過度の広汎性ゆえの無効の法理」はよく似たところがある。
「漠然性ゆえの無効の法理(明確性の法理)」は、法律を適用される人の行為によって文面上違憲無効の争いができる場合とできない場合がある。「過度の広汎性ゆえの無効の法理」は、法律を適用される人の行為に関わらず文面上違憲無効の争いができる[29]。
基本的人権の制限が最小限度になるべきということは、憲法第13条が要請するところである。表現の自由は優越的地位を持っているので、表現の自由を取り締まる法律に対しては基本的人権の制限が最小限度になるべきということがさらに要求される。
ここまでは前項目のおさらいである。
そして、「制約が過度に広範にわたっていないか」だけではなく、「より制限的ではない他の方法が存在しないか」も厳密に問われる。
より制限的ではない他の方法が存在していたら文面上違憲無効とされる。これをより制限的でない他の選択しうる手段の法理(LRAの法理、less restrictive alternativeの法理)という。
やむにやまれざる政府利益は、やむにやまれざる公共利益ともいう。
情報収集権を制限するときに比較衡量の考えを使い、「やむにやまれざる政府利益のほうが、情報収集権を制限して失う利益よりも大きい」と判断して合憲と判断する。
たとえば、「軍事機密を保持することは『やむにやまれざる政府利益』になり、情報収集権を制限して失う利益よりも大きい」と言ってマスコミの取材を制限する法律を合憲とする。
明白かつ現在の危険の法理はアメリカ合衆国で発達した法理である。
政府が表現の自由を制限できるのは、「実体的害悪がもたらされるような明白にして差し迫った危険」が存在する時に限られる、というものである。
非常に厳格な違憲審査基準であり、表現の自由を手厚く保護するものである。
犯罪や禁止行為を煽動(せん動)することを禁ずる法律があり、破壊活動防止法第38条~第40条や国税犯則取締法第22条や国家公務員法第110条第1項第17号が挙げられる。
破壊活動防止法第4条第2項では「この法律で『煽動』とは、特定の行為を実行させる目的をもって、文書若しくは図画又は言動により、人に対し、その行為を実行する決意を生ぜしめ又は既に生じている決意を助長させるような勢のある刺激を与えることをいう。」と定義している。
煽動に対する処罰は、犯罪・禁止行為が実行されていないのにもかかわらず「犯罪・禁止行為の実行の危険性がある」というだけで表現行為を実行した人を処罰するものであり、表現の自由に対する制限そのものである。
各国の歴史において、権威主義的な政治家が自分に敵対する勢力に対して「彼らは犯罪・禁止行為を煽動している」と決めつけて投獄してきた。
煽動という表現に対して処罰するときは、非常に厳格な違憲審査基準とされる「明白かつ現在の危険の法理」を適用するのが望ましい[30]。
表現によって相手を畏怖させて相手の意思決定の自由を奪うことがある。このため他者加害原理に基づいて表現の自由が制限される。
刑法第222条には脅迫罪が規定されており、次のように書かれている。
(脅迫)
第二百二十二条 生命、身体、自由、名誉又は財産に対し害を加える旨を告知して人を脅迫した者は、二年以下の懲役又は三十万円以下の罰金に処する。
一般人が畏怖する程度の表現を用いて、相手または相手の親族の生命・身体・自由・名誉・財産に対して危害を加えることを告知すると、すなわち害悪の告知をすると、脅迫罪になる。
脅迫罪の保護法益は「意思決定の自由」とか「自由意志」とされる。
「意思決定の自由」というのは、日本国憲法第13条で保障される自己決定権の1つである。また日本国憲法第19条で保障される思想・良心の自由について広義説(内心説)を採用する場合、「意思決定の自由」は思想・良心の自由の一部になる。ゆえに脅迫罪を犯して「意思決定の自由」を侵害することは、人権侵害の1つである。
脅迫は様々な犯罪の手段となっている。刑法第95条の公務執行妨害罪、刑法第223条の強要罪、刑法第236条の強盗罪、刑法第249条の恐喝罪などである。
刑法175条では「わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、二年以下の懲役若しくは二百五十万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する。電気通信の送信によりわいせつな電磁的記録その他の記録を頒布した者も、同様とする」と定めている。
チャタレー事件の最高裁は、わいせつについて「①徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、②且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、③善良な性的道義観念に反するものをいう」と定義している。これは「わいせつの三要素」として知られるようになった。
そしてチャタレー事件の最高裁は、「わいせつ文書に当たるかどうかは社会通念によるもので、社会通念がどういうものかの判断は裁判所に委ねられている」と述べている。そして「性行為の非公然性の原則はあらゆる時代に存在するのであり、時代が変わって社会通念が変化したとしても存在する」といった意味のことを述べている。
「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する文書」がわいせつ文書とされて刑法175条で処罰されるのはなぜだろうか。そのことについて簡単な答えを用意すると「性欲が興奮したり性的羞恥心が刺激されたりすると判断力が低下して生産力が低下するため」となる。「人というのは何かを生産するのが大事であるから、人の生産力を低下させてはならない」といった生産力重視主義というべき思想が根底にある[31]。
このため刑法175条は、「他者の生産力を低下させる効果を持つ文書は他者に対して危害を加えているのと同じである」と判断し、他者加害原理に基づいて表現の自由という基本的人権を制限しているものである。
ただし「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する文書」による判断力と生産力の低下は、一時的なものになると思われる。他者加害原理を適用して頒布禁止に追い込むほどの大きな危害ではなさそうである。
刑法175条は違憲論も根強いとされる。専門書には次のように書かれている。
「わいせつ」文書取締まりの理由は、①性犯罪などの増大といった直接的・具体的実害をともなう、②チャタレー判決のいうようにおよそ社会には「性行為非公然性の原則」のごときものがあり、善良な性道徳の維持のための規制が許される、かのいずれかになると解される。そして①を実証的に裏づけるものがないとすれば、②に落ち着かざるを得ない。しかし、善良な性道徳を脅かすものは「わいせつ」文書以外にもあることを考慮すれば、「性行為非公然性の原則」そのものに「わいせつ」文書取締まりの根拠があることになる。確かに、社会は、性行為を公然となすことを禁止しうるとしても(刑法174条の公然わいせつ罪参照)、その趣旨を文書による表現の領域に及ぼすことには飛躍がある。しかも、刑法の規定および判例の定義は曖昧かつ広汎に過ぎる。
21世紀の日本では「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する文書」が至る所で販売され、アップロードされ、そこらじゅうに溢れかえっている。そういう社会に住んでいると、刑法175条について真剣に論議するのが馬鹿馬鹿しい気分になるのは否めないところである。しかしそれでも刑法175条についての著名な判例を紹介しておくなら、チャタレー事件、悪徳の栄え事件(サド判決)、四畳半襖の下張事件、メイプルソープ事件といったところとなる。
児童ポルノの所持・保管・提供・公然陳列・製造・運搬・輸入・輸出をすると、児童ポルノ禁止法第7条によって処罰される。児童ポルノは表現物なので児童ポルノ法は表現規制である。
児童ポルノの所持などにより、その被写体となった児童の名誉とプライバシーに対して大きな危害が加えられる。このため他者加害原理に基づいて表現の自由が制限される。
AVに出演したことがある人物は、AVに関する活動を停止したあと、そのAVの販売を差し止めるための行動をとることがある。AV人権倫理機構に加盟しているAVメーカーに対してはAV人権倫理機構を通じて販売差し止めを請求するし、それ以外のAVメーカーに対しては弁護士を通じて販売差し止め請求をする。AVメーカーが応じない場合は民事訴訟を起こし、裁判所が販売差し止め請求を認める。AVは表現物なので、販売差し止めは表現の自由を制限するものである。
AVの存在により、その登場人物の名誉とプライバシーに対して大きな危害が加えられる。このため他者加害原理に基づいて表現の自由が制限される。
事実[32]を摘示する表現によって他者の外部的名誉(社会的評価)が傷つくことがある。このため他者加害原理に基づいて表現の自由が制限される。
刑法第230条と刑法第230条の2には名誉毀損罪が規定されており、次のように書かれている。
(名誉毀損)
第二百三十条 公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、三年以下の懲役若しくは禁錮又は五十万円以下の罰金に処する。2 死者の名誉を毀損した者は、虚偽の事実を摘示することによってした場合でなければ、罰しない。
(公共の利害に関する場合の特例)
第二百三十条の二 前条第一項の行為が公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあったと認める場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない。2 前項の規定の適用については、公訴が提起されるに至っていない人の犯罪行為に関する事実は、公共の利害に関する事実とみなす。
3 前条第一項の行為が公務員又は公選による公務員の候補者に関する事実に係る場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない。
刑法第230条と刑法第230条の2によると、生存者に対して事実を摘示して名誉を傷つける表現を行うときは、摘示する事実が真実であることの証明を表現者が行わねばならない。
しかし、署名狂やら殺人前科事件で最高裁は「右事実が真実であることが証明されなくても、その行為者においてその事実を真実と信ずるについて相当の理由があるときには、右行為には故意もしくは過失がなく、結局、不法行為は成立しないものと解するのが相当である」と述べ、夕刊和歌山時事事件でも最高裁は「事実が真実であることの証明がない場合でも、行為者がその事実を真実であると誤信し、その誤信したことについて、確実な資料、根拠に照らし相当の理由があるときは、犯罪の故意がなく、名誉毀損の罪は成立しないものと解するのが相当である」と述べ、誤信相当性の法理を確立した。
署名狂やら殺人前科事件の最高裁判決は1966年であるが、その2年前のアメリカ合衆国でニューヨークタイムズ対サリバン事件の最高裁判決が下された。そこで「誤謬を含む陳述は自由な討議において避け難いものであり、表現の自由が『息をつく余裕』をもつためにはそれも保護されなければならない」という考えが示された[33]。日本の「誤信相当性の法理」もその考えに影響されているものと思われる。
生存者に対して事実を摘示して名誉を傷つける表現は、刑法第230条と刑法第230条の2と誤信相当性の法理により、合法になったり違法になったりする。そのことをまとめると次のようになる。
「公共の利害に関する事実を摘示する表現である」と裁判所が判断し、公共性を認める | 「もっぱら公益を図る目的で行った表現である」と裁判所が判断し、公益性を認める | 表現の中で摘示された事実が真実であると表現者が証明して裁判所がそれを認めるか、「表現者が相応の理由で真実であると誤信していた」と裁判所が判断し、真実性を認める | |
「刑事事件の容疑者・公職選挙の候補者・公務員ではない生存者」に対する名誉毀損の表現 | 合法化のために必要 | 合法化のために必要 | 合法化のために必要 |
刑事事件の容疑者に対する名誉毀損の表現 | 自動的に該当する | 合法化のために必要 | 合法化のために必要 |
公職選挙の候補者や公務員に対する名誉毀損の表現 | 自動的に該当する | 自動的に該当する | 合法化のために必要 |
月刊ペン事件で最高裁は「私人の私生活上の行状であっても、そのたずさわる社会的活動の性質及びこれを通じて社会に及ぼす影響力の程度などのいかんによつては、その社会的活動に対する批判ないし評価の一資料として、刑法二三〇条ノ二第一項にいう『公共ノ利害ニ関スル事実』にあたる場合があると解すべきである」と述べ、私人に対する名誉毀損の表現について規制緩和をした。
ちなみに、アメリカ合衆国においては、公人に対して事実を摘示して名誉を傷つけることに対し、真実性がなくても、「摘示した事実が虚偽であることを表現者が知っていた」ということを公人が証明できない限り、罪に問うことができない。これを現実的悪意の法理(現実の悪意の法理)という。1964年のニューヨークタイムズ対サリバン事件で確立した法理である。
公人が「事実を摘示して名誉を傷つける表現」の対象となり、公人が表現者に対して名誉毀損の訴えを起こしたとする。公人の原告は、「表現者が、その表現にかかる事実が虚偽であることを知っていたこと」か、または「表現者が、虚偽であるか否かを無謀にも無視して表現行為に踏み切ったこと」を立証しない限り、名誉毀損を認められず、勝訴できない[34]。
日本の刑法の名誉毀損罪は表現者に真実性の証明義務があるが、アメリカ合衆国では「表現の対象となった公人」に虚偽性の証明義務がある。このように、アメリカ合衆国では「公人を批判する表現者」が手厚く保護されている。
世界各国で、権力を握った公人が、自らへの批判をする表現者に対し名誉毀損の訴えを起こして自らへの批判を封じ込めることを繰り返してきた。現実的悪意の法理はそうした歴史の反省のもとに作られたものと推測することができる。
事実を摘示せず主観的評価を述べて他者の外部的名誉(社会的評価)が傷つくことがある。このため他者加害原理に基づいて表現の自由が制限される。
刑法第231条には侮辱罪が規定されており、次のように書かれている。
(侮辱)
第二百三十一条 事実を摘示しなくても、公然と人を侮辱した者は、一年以下の懲役若しくは禁錮若しくは三十万円以下の罰金又は拘留若しくは科料に処する。
人に対して「馬鹿」と述べたり「生きる価値のない馬鹿」と述べたりすると、相手の外部的名誉(社会的評価)が傷つく。
ただし、「馬鹿」と述べるだけなら正当な批判・批評の範囲内と言えそうであるから、刑法第231条に違反して侮辱罪を犯したとされないことが多い。
「生きる価値のない馬鹿」と述べると、正当な批判・批評の範囲を超えて相手の人格を否定するような攻撃的な言葉と言うべきなので、侮辱罪になる可能性がある。
表現によって他者のプライバシーが傷つくことがある。このため他者加害原理に基づいて表現の自由が制限される。
宴のあと事件で、東京地方裁判所はプライバシーの侵害を不法行為とした。個人の尊厳・幸福の追求に言及しつつ、私事をみだりに公開されないことは法的に保護されるべき人格的利益であると明言し、プライバシー侵害の成立の4要件を列挙して、「これらの4要件を満たしている場合には不法行為として法的救済が与えられる」と明言した。
そして、ノンフィクション「逆転」事件の最高裁判決でプライバシー侵害の基準がさらに示された。プライバシー侵害の表現行為は、「その事実を公表されない法的利益」と「その事実を公表する意義」を比較衡量する。「その事実を公表する意義」が小さい場合は不法行為となって、表現者が民法第709条により損害賠償責任を負うことになる。「その事実を公表する意義」が大きい場合は不法行為とならない[35]。
さらに、堺市通り魔事件の大阪高裁判決でプライバシー侵害の基準が示された。プライバシー侵害の表現行為は、社会の正当な関心事であって表現内容と表現方法が不当なものでなければ、不法行為にならない。犯罪容疑者に関する表現行為は、犯罪の内容・性質にもよるが、社会の正当な関心事になり得るものである[36]。
最高裁がプライバシー侵害を不法行為と認めた判例のなかで有名なものは石に泳ぐ魚事件である。
道府県といった地方公共団体は青少年保護育成条例を制定している。たとえば岐阜県青少年保護育成条例第10条や第11条や第12条や第16条で、「著しく性的感情を刺激し、又は著しく残忍性を助長し、又は著しく犯罪又は自殺を誘発することで、青少年の健全な育成を阻害するおそれがあると認めるとき、知事は当該図書を有害図書に指定する」とか「有害図書は青少年への販売・頒布が禁止され、自動販売機への収納も禁止される」と定めている。
岐阜県青少年保護育成条例違反事件において最高裁は「本条例の定めるような有害図書が一般に思慮分別の未熟な青少年の性に関する価値観に悪い影響を及ぼし、性的な逸脱行為や残虐な行為を容認する風潮の助長につながるものであつて、青少年の健全な育成に有害であることは、既に社会共通の認識になっているといってよい」と述べた。また、伊藤正己裁判官が補足意見で「青少年は、一般的にみて、精神的に未熟であって、右の選別能力を十全には有しておらず、その受ける知識や情報の影響をうけることが大きいとみられるから、成人と同等の知る自由を保障される前提を欠くものであり、したがつて青少年のもつ知る自由は一定の制約をうけ、その制約を通じて青少年の精神的未熟さに由来する害悪から保護される必要があるといわねばならない」と述べた[37]。
伊藤正己裁判官の補足意見からは、「性欲が興奮したり性的羞恥心が刺激されたりすると判断力が低下して生産力が低下するので、判断力・生産力の低下を防ぐためにわいせつ物の規制が必要だ」という思想や、「成人ならわいせつ物による判断力・生産力の低下は一時的だが、精神的に未熟な青少年ならわいせつ物による判断力・生産力の低下は長期にわたる」という思想が見受けられる。
「精神的に未熟な青少年ならわいせつ物による判断力・生産力の低下は長期にわたる」という思想は、ただの思想であって、科学的に立証されているわけではない。
15歳程度の青少年Aを保護育成する親というものは、10年~15年ほど前の「判断力がとても低いA」の姿が脳裏に焼き付いている。10年~15年といったら、いい年した大人にとってはつい最近のことである。このため、やや刺激的な表現物に対して、傍目には過剰に見えるような対応を取る傾向がある。
青少年保護育成条例と同じ性質を持つ法規制は、2008年に国会で可決され2009年に施行された青少年ネット規制法である。同法の第16条では、青少年へ携帯電話インターネット接続役務を提供する携帯電話会社に対し、青少年有害情報フィルタリングサービスを提供することを義務づけ、「保護者が利用しない旨を申し出たときはそうした提供を行わなくてもよい」と定めている。ただし第16条に違反していても刑事罰は科されない。
刑事事件の容疑者が未成年である場合は、その未成年の社会復帰を容易にするため[38]、少年法第61条による報道規制が行われ、実名での報道が行われない。
少年法第61条では、「家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、氏名、年齢、職業、住居、容貌等によりその者が当該事件の本人であることを推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない」と定められている。違反しても刑事罰を科されないが、不法行為なので民法第709条により損害賠償責任を負うことになる。
ただし、刑事事件容疑者が未成年であっても、社会の重大な関心を招いている事件においては、実名報道しても少年法第61条に反する不法行為と認定されず、憲法第21条第1項の表現の自由が優先されることがある。
堺市通り魔事件では、月刊誌『新潮45』が未成年容疑者の実名を掲載した。大阪高等裁判所は「少年法がその違反者に対して何らの罰則も規定していないことにもかんがみると、表現の自由との関係において、同条が当然に優先するものと解することもできない。」「したがって、本件記事に被控訴人の実名が記載されたことによって、被控訴人が社会復帰した後の更生の妨げになる可能性が抽象的にはあるとしても、そして更生の妨げになる抽象的な可能性をも排除することが少年法六一条の立法趣旨であるとしても、そのことをもって控訴人らに対する損害賠償請求の根拠とすることはできないといわなければならない」と述べた。
さらに大阪高等裁判所は、『新潮45』の記事の公共性・公益性・真実性を認めて名誉毀損に当たらないという判断を示した。さらに「社会の正当な関心事であってその表現内容・方法も不当なものとはいえないので、プライバシーを侵害する表現行為だが不法行為ではない」という判断を示した。
大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件が起きたあと、週刊文春が記事を掲載した。その記事は、未成年容疑者の実名にある字と同じ読みの字などを使った仮名を用いたもので、未成年容疑者と面識のある特定多数の一般人なら誰のことかすぐ分かるものであった。
最高裁は、「仮名を使いつつ未成年容疑者を特定できるような情報を伏せていれば、未成年容疑者と面識のない不特定多数の一般人には誰のことか分からないので、少年法第61条には違反しない」と述べた[39]。
また、最高裁は「週刊文春の記事によって未成年容疑者の名誉が毀損されてプライバシーを侵害したことは是認できる」「名古屋高等裁判所は名誉毀損・プライバシー侵害について個別具体的な事情の審理をしていない」として名古屋高等裁判所に差し戻した。
名古屋高裁は平成16年5月12日の差し戻し審で週刊文春の記事の公共性・公益性・真実性を認めて名誉毀損に当たらないという判断を示した。さらに「未成年容疑者が失う利益」と「プライバシー侵害の意義」を比較衡量して後者の大きさを指摘しつつ、「プライバシーを侵害する表現行為だが不法行為ではない」という判断を示した。
人種や国籍や信教や性別や性的趣向や身体障害といった共通要素を持つ集団に対する差別的言動(ヘイトスピーチ)に対し、表現の自由を認めずに規制しようという政治的な動きがある。
ただし、「過度の広汎性ゆえの無効の法理」があり、差別的言動に対する法規制は難しい。
差別用語に関わる判例として有名なものに政見放送削除事件というものがある。東郷健という立候補者が政見放送に出て、身体の不自由な人とコンサートを開いたときに「●●のチケットなんて、誰が買うか」という意味の心ない言葉を浴びせられたことを振り返り、「このような差別がある限り、この世に幸福はありません」と主張した。このとき●●は身体の不自由な人を侮辱する意味の言葉だったので、NHKが自治省の了解を得た上で音声を削除した。
東郷健は身体の不自由な人を侮辱する意図で●●という言葉を使ったのではないが、表現の自由を制限された。その理由は、公職選挙法第150条の2の「他人若しくは他の政党その他の政治団体の名誉を傷つけ若しくは善良な風俗を害し又は特定の商品の広告その他営業に関する宣伝をする等いやしくも政見放送としての品位を損なう言動をしてはならない」という条文が根拠だった。
ちなみに公職選挙法第150条の2の「善良な風俗を害するなどの品位を損なう言動をしてはならない」は単なる心構え規定であり、違反しても刑罰を科されないものである[40]。
広告は営利的言論とされ、表現の一種とされる。広告は法律によって制限されることがある。
食品衛生法第20条や薬事法第66条や宅地建物取引業法第32条で、虚偽で誇大な広告が制限されている。また、薬事法第68条や宅地建物取引業法第33条で、「承認される前の薬」「工事が完了する前の建物」についての広告が制限されている。
一方で、あはき法(あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律)第7条で、「あん摩は○×に効く」という広告が禁止されている。
あん摩師はり師きゆう師及び柔道整復師法第七条違反事件というものがある。きゅう師Aが「きゅうはリウマチに効く」という広告を出したところ、あはき法第7条違反で摘発された。これに対してAは「表現の自由を侵害している」と訴えたが、最高裁は「国民の保健衛生上の見地から、公共の福祉を維持するための措置である」として合憲とした[41]。ただし、憲法学者の佐藤幸治は「あはき法第7条は真実の情報まで規制している点で合憲といえるかは相当疑わしいものであった」と述べている[42]。
公務員は憲法第15条第2項で「全体の奉仕者」とされており、その影響もあって、政治に関する表現を制限されている。
国家公務員法第102条第1項は、一般職の国家公務員に関し、「職員は、政党又は政治的目的のために、寄附金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らの方法を以てするを問わず、これらの行為に関与し、あるいは選挙権の行使を除く外、人事院規則で定める政治的行為をしてはならない。」と定めている。
人事院規則14-7第5項3号では「特定の政党その他の政治的団体を支持し又はこれに反対すること」とあり、第6項13号では「政治的目的を有する署名又は無署名の文書、図画、音盤又は形象を発行し、回覧に供し、掲示し若しくは配布し又は多数の人に対して朗読し若しくは聴取させ、あるいはこれらの用に供するために著作し又は編集すること」とある。
猿払事件は、郵便局に勤務する郵政省の現業公務員が、1967年の衆議院議員選挙に関して、労働組合の決定に従い、勤務時間以外の時間帯に、社会党を支持する目的で同党公認候補者の選挙ポスターを掲示したり配布したりする表現行為をしたところ、国家公務員法第102条第1項違反として起訴された事件である。被告人は「国家公務員法第102条第1項は過度の広汎性をもっていて違憲である」と主張したが、最高裁は合憲と判断した。
厚生労働省職員国家公務員法違反事件は、東京都世田谷区の警視庁の職員官舎において、厚生労働省課長補佐の職員が、勤務時間以外の日に、職場から遠く離れた場所で、政党機関誌号外を集合ポストに投函したところ、その行為が国家公務員法第102条第1項と人事院規則14-7第6項7号[43]に違反しているとして起訴されたものである。これは最高裁により「管理職の公務員が勤務時間以外の日に政党機関誌を投函する行為は国家公務員法第102条第1項に違反する」という判決が出た。
目黒社会保険事務所事件(堀越事件)は、社会保険庁目黒社会保険事務所に勤務し非管理的事務に携わる公務員が、私服かつ単独で、勤務時間以外の日に、職場から遠く離れた場所で、郵便受けに政党機関誌号外を投函したところ、その行為が国家公務員法第102条第1項と人事院規則14-7第6項7号に違反しているとして起訴されたものである。これは最高裁により「権限のない公務員が勤務時間以外の日に政党機関誌を投函する行為は国家公務員法第102条第1項に違反しない」という判決が出た。
管理職であるかどうかで国家公務員法第102条第1項が適用されるかどうかが決まる、という判例になった。
これまでの項目では、表現の内容に注目して規制する「内容規制」ばかりを扱ってきたが、本項目では、表現の時・場所・方法などに注目して規制する「内容中立的規制」を扱う。
「『内容規制』は厳格な審査が求められ、『内容中立的規制』はより緩やかな審査で足りる」という考え方を表現の内容規制・内容中立的規制二元論という。アメリカ合衆国の判例・学説の動向を踏まえ、芦部信喜や高橋和之や松井茂記といった日本の憲法学者の間でも広い支持を得ている考え方であるが、佐藤幸治は懐疑的な立場を取っている[44]。
道路交通秩序の維持を目的として、道路交通法第77条第1項第4号[45]に基づき、一般交通に著しい影響をもたらす方法での道路上における表現行為が規制される。そういう表現行為をするのなら警察署長の許可を必要とする。
駅構内の秩序の維持を目的として、鉄道営業法第35条に基づき、駅構内における表現行為が規制される。ビラ配りなどの表現行為をしたいのなら鉄道係員の許可を必要とする。
居住者の私生活の平穏の維持を目的として、刑法第130条(住居侵入罪)に基づき、人の管理する住宅の敷地内に入ってビラ配りなどの表現をすることが規制される。ビラ配りなどの表現行為をしたいのなら住宅管理者の許可を必要とする。
静穏の維持を目的として、軽犯罪法第1条第14号[46]や騒音防止条例に基づき、過度に大きな音を立てて表現をすることが規制される。
美観風致の維持を目的として、軽犯罪法第1条第33号[47]や屋外広告物法や屋外広告物条例に基づき、電柱などにビラ貼りをすることが規制される。
静穏の維持や金権政治の防止などを目的として、公職選挙法に基づき、選挙運動が広範にわたって規制される。
これらの法令に関する有名な判例は有楽町ビラまき事件、吉祥寺駅構内ビラ配布事件、立川反戦ビラ配布事件、大阪市屋外広告物条例違反事件、大分県屋外広告物条例違反事件である。
有楽町ビラまき事件は、交通が頻繁な駅前の道路において無許可でビラ配りをしたところ道路交通法第77条第1項第4号違反とされたが、東京高等裁判所が「一般交通に著しい影響をもたらすものではない」として無罪となった。
立川反戦ビラ事件は、防衛庁の立川宿舎に無許可で立ち入って反戦ビラを投函したら刑法第130条に基づき違法とされた事件である。宿舎の棟の出入り口には施錠がなく、日常的に各種ビラが各室新聞受けに配布され、ときには宗教の勧誘が玄関前でなされていた状況のなかでのものだった[48]。
外国から輸入された表現物が、税関によって関税法第69条の11第1項7号(かつては関税定率法第21条1項3号)の「公安又は風俗を害すべき書籍、図画、彫刻物、その他の物品」に当たると判断されて、輸入を禁止されることがある。
日本政府は、刑務所に収監されている受刑者や、拘置所に収容されている未決勾留者に対して、私費で新聞を購読することを許可している。しかし刑事収容施設法第70条(かつては監獄法第31条第2項)に基づいて新聞の内容の一部を墨塗りにしてから新聞を渡すことがある。
政府が受刑者や未決拘留者の積極的情報受領権を制限するときは、「制限によって得られる公共の利益」と「受刑者などが失う利益」を比較衡量して決められる[49]。
日本では、私人であるインターネットプロバイダーがブロッキングを行い、書籍や映画などの海賊版をアップロードしている海外のウェブサイトに対して国民が接続できないようにしている。
国民の積極的情報受領権を制限しているが、日本国内の著作権者に害を加える団体を支援しないためのやむを得ない措置とされる。
これに対して不満がある人は、間接適用説に従い、インターネットプロバイダーに対して民事訴訟を起こして、民法第90条を通じて憲法第21条を適用する判決を要求することができる。
ちなみに世界全体ではブロッキングを行っている国・地域が42ヶ所ほど存在する。
教科書検定という制度があり、学校教育法第34条の定めにより、文部科学大臣の検定を受けた教科書のみが学校で使用される。
家永教科書裁判において最高裁は「教科書検定に不合格になったとしても一般図書としての発行は禁止されない」として、出版社や著者に対する積極的情報提供権を抑制するものではないとした。
しかし、教科書検定は児童・生徒の持つ消極的情報受領権(読みたくない本を読まない自由)に対して一定の制約をするものと言える。
市区町村は、防災行政無線を使って大音量で一定の言葉を呼びかけることがある。選挙の当日になると投票を呼びかける言葉を大音量で流すし、徘徊老人・迷子が発生したらそのことを知らせる言葉を大音量で流す。
これは情報を強制的に聞かせるものであって、公権力による消極的情報受領権(聞きたくないものを聞かない自由)の制限である。選挙権の行使を促すことや徘徊老人・迷子への注意を促すことは公共の福祉にかなうものとされ、人々の消極的情報受領権が最小限度で制限される。
「法廷における写真撮影・録音・録画・中継は裁判所の許可無しで行うことができない」といったことが刑事訴訟規則第215条や民事訴訟規則第77条に定められている。北海タイムス事件では、裁判長の制止を無視して法廷内で写真を撮った記者が科料を科せられた。
法廷の秩序維持、公正な裁判の確保、被告人のプライバシーの保全、がその背景にある[50]。
「憲法第82条第1項で『裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ。』とされており、それにより傍聴の自由が発生するが、法(制度)が反射したもので国民に権利を与えたものではない」というものが通説である[51]。そのため法廷における取材活動は憲法第82条第1項の支援を得られない。
かつては法廷内で傍聴人がメモを取ることやスケッチ(簡単な絵)を描くことも禁じられていたが、法廷メモ訴訟の最高裁判決で「筆記行為は憲法第21条に照らして尊重されるべきである」とされた[52]。
法廷メモ訴訟のあとは、マスコミ各社が法廷画家を雇い、法廷内の様子をスケッチして報道するようになった。
「公務員や自衛官は、職務上知ることができた秘密を漏示することができない。公務員や自衛官に対してそうした秘密を漏示するようにそそのかすこともできない」といったことが国家公務員法第100条1項と第111条、地方公務員法第34条と第62条、自衛隊法第59条第1項と第118条第2項で定められている。
ここでいう秘密とは、秘密保全の意欲が認められるもので、かつ客観的事実の要件(非公知性、必要性、相当性)を備えたものをいう[53]。
言い換えると、公的組織が秘密にしたがっている情報のなかで、いまだに世間に知れ渡っておらず、なおかつ必要性と相当性があるものを秘密という[54]。
そそのかしについては、その手段・方法が法秩序全体の精神に照らして相当なものとして社会観念上で是認されるものであれば正当な業務行為であり、合法の取材活動になる。
報道機関が根気よく執拗に公務員に対して質問し続けるのは、合法の取材活動になる[55]。
その手段・方法が法秩序全体の精神に照らして不当なものとして社会観念上で否認されるものであれば不当な業務行為であり、違法になる。
西山事件において西山記者は、既婚の外務省の事務官に近づき、社会観念上から考えて許されざる方法で関係を結び、その関係を利用して事務官から情報を得て、情報を得たあとは態度を急変させて事務官を捨てた。つまり取材対象者の人格を著しく蹂躪した。これに対して最高裁は「正当な取材活動の範囲を逸脱するもの」と認定した[56]。
裁判所はマスコミ関係者を呼んで証言してもらうことがある。そのとき、取材源の名前を明かすように求められたマスコミ関係者は「誰に取材したかは言えません」と証言を拒否することがある。これを狭義の取材源秘匿権という。
マスコミ関係者にとって、取材するときに「あなたの名前は誰にも言いませんから、安心して喋ってください」などと言って取材することがあるので、狭義の取材源秘匿権は職業上の生命線と言える。
日本では、裁判における真実の追求を重視する時代があった。そういう時代では狭義の取材源秘匿権を制限し、「誰に取材したかは言えません」と証言を拒否する者に対して証言拒絶罪(刑事訴訟法第161条)を適用していた。石井記者事件がその典型例であり、最高裁が「裁判で真実を追求して得られる利益は、国民の自由を制限して失う利益よりも大きい」という内容のことを述べて[57]、比較衡量の考えから狭義の取材源秘匿権を制限していた。
しかし時代が下るにつれ、狭義の取材源秘匿権を表現の自由の一部として尊重するようになっていった。島田記者事件の高裁判決で狭義の取材源秘匿権を認める判例ができた[58]。そしてNHK記者取材源開示拒否事件で最高裁が初めて狭義の取材源秘匿権のことを職業上の秘密(民事訴訟法第197条第1項第3号)に当たるとして認めた[59]。
裁判所はマスコミに対して取材メモや音声テープや録画ビデオといった証拠の提出を求めることがある。そのときマスコミ関係者は「この取材メモなどは、非公開を条件にして取材して得られたものなので、提出できません」と提出を拒否することがある。これを広義の取材源秘匿権という。
博多駅フィルム事件や、日本テレビビデオテープ押収事件[60]や、TBSテレビビデオテープ押収事件では、「公正な裁判の実現のためには、広義の取材源秘匿権の制限もやむをえない」という比較衡量の考えで最高裁が公権力の行動を合憲と判断した。
政府は、情報公開法第5条に基づいて公文書の一部を不開示にすることがある。これは公権力による積極的情報収集権の否定である。
たとえば、同法第5条三は「公にすることにより、国の安全が害されるおそれ、他国若しくは国際機関との信頼関係が損なわれるおそれ又は他国若しくは国際機関との交渉上不利益を被るおそれがあると行政機関の長が認めることにつき相当の理由がある情報」を不開示にしてよい、という意味である。
これに対し、情報公開法第3条で外国人を含むすべての人に行政文書の開示請求権を認め、不開示決定に不服のある請求権者は行政不服審査法に基づきその取り消しを求めることができる。
掲示板
190 ななしのよっしん
2024/11/17(日) 17:21:12 ID: APdavXJ9Ag
反権力や反権威を掲げる連中の言う表現の自由って、基本的に暴言とか悪口の自由だから擁護する気になれない。
それを批判されると権力の有無による対称性とか言って自己正当化には走るが、口の悪い連中の語る自由なんて誰も賛同したくないわ。
191 ななしのよっしん
2024/11/20(水) 01:21:25 ID: qB6gNGoC1e
>>163
既に貼ってあるリンク先を見て数値を確認する知性すら無いのか?
米国政治が強く分断されてるデータ
https://
リベラルの移民・麻薬の政策は評判が悪いというデータ
https://
最高裁が機能不全で信頼されてないというデータ
https://
言論の自由も表現の自由もそれ自体は単なる手段や道具に過ぎないんだから
自由を守ってるにも関わらず米国みたく民主主義が機能不全起こしちゃう事もあるし
だからこそ表現にせよ言論にせよ、自由をどう使いこなすかが大事って話してるだけよ
192 ななしのよっしん
2024/11/20(水) 03:05:37 ID: qB6gNGoC1e
>>160
そもそも>>126と>>127の会話で
多様性があるなら過激派も受け入れるべきって主張に対して
民主国家なら幾ら多様性があっても法に基づいて過激派は排除されるはずって主張があった
だからそれに対して米国という分かりやすい失敗事例を出して
民主国家でも白人至上主義を排除出来ずに権力握らせる事はあるってデータで証明しただけ
だから別に米国を民主主義の代表として扱ってる訳じゃないし米国を例えに出しても問題はない
ていうか米国が自由と民主主義の代表じゃなかったら一体どこが代表なのってくらい影響力強いのに
肝心の米国が左右で法の運用変えてる時点で民主国家の法運用は結構適当
米国以外でもドイツやフランスや東欧を見ると民主国家なのに極右が台頭してるし
民主主義なら法が機能して過激派が排除されるってのは理想論で、政治の現実としては必ずしも正しくない
急上昇ワード改
最終更新:2024/12/23(月) 15:00
最終更新:2024/12/23(月) 15:00
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