幕末の「公武合体」で質問します。 □ 公武合体で国難を乗り切ろうという大名は数多くいました。それには2通りあっ たと思います。薩摩・土佐・福井・宇和島などは有力大名が京都で会議をおこし て朝廷中心で政治を行おうとしました。それに対して、政治はあくまでも幕府中 心であるべきと考えた大名もいたのではないですか? □ ■公武合体でも、政治は幕府中心であるべきと考えた大名を教えてください。 □ <徳川家茂>

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日本史 | 一般教養74閲覧

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井伊直弼の末路を見て幕閣の譜代大名で幕府中心で国難を乗り切ろうというのは存在しなくなりました。 ただ、政治の中心はあくまで幕府であるべきと強く主張していた人物がいます。 それが天皇。孝明天皇です。 孝明天皇は 政治はあくまでも幕府中心でやっていくと同時に攘夷はしてもらいたいという発想の持ち主でした。 尊王攘夷からすると攘夷は自分たちと同じなのですが、尊王のところが合致しません。 天皇中心・朝廷中心の政治を嫌うのが孝明天皇です。 公武合体からすると幕府を立てる政治は都合がよいのですが、開国したことに天皇は大不満で攘夷を強く主張していました。 孝明天皇、チグハグのような印象を持ちますが、実は別におかしなことではなく、ただ単に鎖国時代の平和な日本に戻してほしいというだけなのです。 ということで、幕府中心の政治を強く求めていたのは孝明天皇。 そのため孝明天皇は討幕派から毒を盛られて暗殺されたという説まであります。