[追記追加:15.25][文言追加:6月21日 8.30]
昨年の8月から、このシリーズを続けてきました。
その目的は、わが国で古来培われてきた建物づくりの技術についての、私自身のあらためての学習であるとともに、
一般の方々:建築を専門としない方々にもその「事実」を知っておいていただきたい、と考えたからです。
かつては、一般の方々も、建物づくりについて、かなり知っていたものですが、それゆえ、専門家たちもおちおちしてはいられなかったのですが、今ではまるで「他人事」、「専門家」に任せっぱなしになっていて、そのため、「いかがわしい話」が、あたかも真実・事実であるかのように蔓延っています。
さて、今の世の中では、「わが国で古来培われてきた建物づくりの技術」は、過去の古いもの、現代の進んだ科学技術の裏付けのない劣るもの・・・、と言った見かたの下で、ないがしろにされてきています。
その技術によって、建物をつくることも、現在はできません。現在の「理論」とそれを下敷きにした「法令」の指示・規定に添うべく歪められてしまうからです。
どうしてもつくりたいなら、「古来の技術を認めない考え方によって生まれた計算法」で構造計算せよ、というどうしようもない「非科学的な」指示・規定があるのです。これは、現代の『矛盾』の最たる見本と言ってよいでしょう。
日本は西欧に並ぶ「先進国」なのだそうですが、西欧諸国で、自国の技術をダメ扱いする国はありません。
建物づくりの技術というのは、地域の環境によって大きく影響を受けますから、当然地域によって異なります。
ところが、日本は、西欧化=近代化と「理解」したために、進んで自国の技術の廃棄に努めてきました。
この「傾向・風潮」に対する批判は明治時代からあることはあったのですが、多勢に無勢でした。さらに、第二次大戦後はさらにその傾向は「深化」します。そこへさらに「科学技術《信仰》」=「何でも計算優先主義」が追い討ちをかけました。
この驚くべき状況に対して、四半世紀以上前にも建築史家が批判していますが(下記参照)、やはり多勢に無勢、無視され続け、現在に至っているのです。
註 「桐敷真次郎『耐久建築論』の紹介・・・・建築史家の語る-3」)。
なお、「わが国で古来培われてきた建物づくりの技術」が、
西欧化=近代化を目指す新興の学者・建築家たちによって
貶められてゆく過程と、彼らの「机上の考え」で生まれた
「在来工法」については、 一昨年2月の下記のシリーズで
触れています。
「『在来工法』はなぜ生まれたか-1」~「同-5」
日本の環境:風をともなった雨がよく降り、湿気が多く、地震が頻発し、台風にも毎年襲われる、というきわめて特異な環境(具体的には、「日本の建物づくりを支えてきた技術-37」で触れています):のなかで「暮してゆくための建物」をつくる技術として、人びとが会得したのは、その環境ゆえに豊富な木材を用いて空間の「骨格」をつくり、「骨格」の間を他材で埋めてゆく方法、通称「木造軸組工法」でした。
「木造軸組工法」は、日本だけではなく、世界の各地域:建物づくりの主材料として木材が使われる地域:にあります。
たとえば上掲の写真は、西欧の木造軸組工法の例ですが(18世紀のスイスの町家)、日本のそれとは、大分趣きがちがいます(日本の方法に似ているのは、東南アジアなどに限られます)。
簡単に言えば、西欧の例では、開口部の位置があらかじめ限定されるのに対して、日本の場合は自由・任意なのです。
よく、日本の家屋の特徴は、屋内空間と屋外空間の融合のさせ方にある、あるいは自然との融合のさせ方にある、などとと言われ、縁側などがその例として挙げられ、ときにはその部分を「屋内」でも「屋外」でもない「中間領域」などと呼ぶ人さえあります。
しかし、その考え方は、居住空間を、「屋内」「屋外」とに二分し、その関係を云々する見かたから生じたものです。言い換えれば、「住まい」を屋根のある部分「屋内」に限定する考え方が根底にある見かたです。
このような対象を分解することでものごとを見る見かた・考え方は、とかく「迷路」に入り込み出口を見失いがちになります。「中間領域」などという「概念」が生まれるのはそのためです。この点については、大分前に、中国西域の農家の住宅を例にして触れています(下記)。
註 「分解すれば、ものごとが分るのか・・・・中国西域の住居から」
「分解すれば、ものごとが分るのか・補足」
日本の場合、初めは「壁」で囲われた建屋:家屋だけが「住まい」であったものが、自分の差配できる領域・土地:「屋敷」を「囲う」ことができるようになると(たとえば塀や生垣あるいは屋敷林・・・など)、その「囲い」のなかすべてが「住まい」となり、建屋・家屋そのものからは「囲い」:壁がなくなってくる、つまり開放的なつくりになってきます。
註 日本の場合は、西欧や中国などのように、
城壁のような強固な「囲い」をつくることは稀で、
ときには神社の「結界」のように、
「目には見えない囲い」で済ます場合もあります。
「寝殿造」の建屋が四周開け放たれているのも、「塀」で囲われた屋敷のなかに建屋があったからなのです(下註)。
註 「日本の建築技術の展開-1」
「日本の建築技術の展開-2・補足」
しかし、西欧の場合は、屋敷が囲われても開放的なつくりにはならないのが普通のようです。木造軸組工法による建物でも、開口部が小さく限定された建て方になっているのが普通で、日本のように、開口を任意に設けることは、重視していません。
それは、彼我の環境の違いによるのだと思われます。彼の地では、気候的に、できるだけ開口が少ないほうが暮しやすいのです。
日本では、「屋根はかならず設けなければならないが、壁は設けたくない=開口部を広くとりたい」というのがいわば「人びとの本音」である、と考えてよいでしょう。「風通し」を第一に考えたくなるのが日本の暮しなのです。
「寝殿造」での生活を描いた絵巻物などにある暮し方は、決して貴族階級だけの暮し方なのではなく、人びとの共通の「願望」だったのだと思います。
それゆえ、屋敷の設けられない時代の建屋では必須だった「納戸構え」は、「屋敷」を確保できるようになると、本来の役割を失い、建屋全体も、一気に開放的なつくりへと変ってくるのです。
註 エア・コン依存になってきた最近の日本の住居では、
省エネのためと称して!?、開口を限るようになっています。
環境の特性は、昔も今も同じです。
どこかでボタンを掛け違えたようです。
日本の場合、このような「暮しに見合う」建物を考えるだけでは済みません。頻繁に襲う地震や台風に対しても当然工夫が必要でした。
いつ起きるか分らない地震や、毎年かならず襲う大きさもさまざまな台風、この「自然現象」への「対応」は、日本の大地に人が住み着くようになって以来、竪穴住居の時代はもちろん、掘立て式の時代、礎石建てになってからの時代を通じて、人びとの言わば「宿命的な課題」であったはずです。
註 わざわざこのように強調するのは、
これらの「自然現象」への対応が昔はなされていなかった、
最近になって考えられるようになってきた、かのような
言説が飛び交っているからです。
これはとんでもない誤解。
この日本に暮す以上、
これらの自然現象への対応は「当然の課題」であり、
当然、それに対しての対応策が採られてきていることを、
私たちは認識する必要があります。
そしてまた、当然の話なのですが、人びとは、
先ず、日本の環境下での「暮し」を第一に考え、
その「暮し」を地震や台風の下でいかに全うさせるか考えてきた、
ということも忘れてはなりません。
先に「慈照寺・東求堂」の内法上の「小壁」の工夫を紹介しました。
内法下を全面開放するために考えられた工夫です。
(「『在来工法』はなぜ生まれたか-4の補足」参照)。
現在では、全面開放の「願い」を犠牲にして壁を増やすでしょう。
今は、「靴に足を合わせる」ことが強要されているのです。
つまり、建物づくりにあたってわが国の人びとに課せられた「命題」は、次のようにまとめられます。
① 多雨多湿の環境下で健やかに暮せる空間をつくる。
② ①の空間を、地震や風で簡単に壊れないようにつくる。
そして、②には、同時に、その保守・点検・管理(補修)への配慮も含まれます。なぜなら、いかなる材料であれ、永久不滅の材料はなく、かならず老化・風化、すなわち経年変化がありますから、それへの対応も最初から考えておかなければならないからです。
そして特に、木造の場合は、加えて、「腐朽」への配慮が必要になります。
[文言追加:6月21日 8.30]
註 この点について、現在法令等で奨められている木造工法は、
まったく考えていません。
言わば「つくりっぱなし」なのです。
そして、この命題に真摯に付き合い、工夫を重ね、実現してきたのが、これまで見てきた日本の木造軸組工法:建築技術だったと私は考えています。
そのなかみは、要約すれば次のようになります。
① 空間の形は、可能なかぎり簡潔な形状にする。
② 空間を形成する骨組:架構も、可能なかぎり簡潔な形状にする。
③ 架構を構成する「柱」「横材」を、一体の立体になるように組む。
註 以上は、各地域の軸組工法に共通します。
上掲の写真の例も同様に立体構造になっています。
ところが、
現在のわが国の主流である「在来工法」は、
立体構造化を拒否・否定した、どの地域にも存在しない、
「類い稀な」工法なのです。
④ 一体の立体に組むにあたり、「柱~柱」を、「横木」によって、
可能なかぎり「鳥居型」「梯子型」に構成する。
註 「鳥居」は、「掘立て」でも「礎石建て」でも同じ形です。
「鳥居」は要するに「門」です。
「門」型を自立させる工夫が「鳥居」型です。
すなわち、2本の柱の上に渡された横木の一段下に、
横木を柱の間にはめ込むと安定度が増すことは、
経験によって、古くから知られていたのです。
西欧のように「斜材」を使用しません。
「斜材」があると開口部をつくりにくいこと、
そして何よりも、地震や強風の際、
「斜材」が架構にもたらす影響(下記参照)を
知っていて、恐れたからです。
「『在来工法』はなぜ生まれたか-5の補足」
追記 [追加:15.25]
「斜材」を使わなければ、本来、アンカーボルトは不要です。
日本で、木造軸組工法にアンカーボルトを使い出した「理由」も
「『在来工法』はなぜ生まれたか」で書きました。
要は、部分的に「斜材」を入れたためなのです。
「斜材」を使っても、西欧の例のように、
「斜材」をくまなく入れると、架構は「立体構造」となり、
横材を突き上げたりするような現象は起きません。
西欧の軸組工法にも、アンカーボルトはありません。
西欧に地震がないからではないのです。
地震∴アンカーボルトなのではなく
地震⇒部分的「斜材」∴アンカーボルト、となったのです。
簡単に言えば、立体構造化の努力をやめたからなのです。
⑤ ④の延長として、架構の垂直各面の柱間を、
可能なかぎり「鳥居」型に構成する。
⑥ やむを得ず材を継ぐときは、無用な手間のかからない
できるかぎり簡単な方法で、できるかぎり「柱」位置で継ぐ。
註 主たる横材は、「柱」から持ち出した位置で継がない。
⑦ 「柱」と「横材」は、できるだけ簡単な方法で、
ガタのないように取付ける。
註 ⑥⑦のために考えられたのが「継手・仕口」です。
「継手・仕口」は、どの地域の軸組工法にもあります。
そして、どの地域でも、機械化された現在でも、
その「考え方」は継承されています。
「考え方」自体をも認めない点でも、日本は「類い稀」です。
「継手・仕口」は、木材の特性を知らなければ生まれません。
最近、木材の乾燥、含水率が話題になります。
しかし、いわゆる乾燥材でも、含水率が一定でないことは、
意外と知られていません。
乾燥材は収縮がない、とさえ思われています。
それはまったくの誤解です。
それについては下記で触れています。
「乾燥材とは何か・・・・木材の含水率とは?」
乾燥材でも、集成材でも、収縮します。
したがって、金物を使用するときには、
完工後常に点検が必要なのですが、
点検を考慮した例を見たことがありません。
これもまた「つくりっぱなし」なのです。
そしてそれゆえ、私は、
長年使われてきた「継手・仕口」を「信頼」するのです。
長年使われてきた、ということは、その効能が、
現場で「確認」されている、ということだからです。
以上要約したようなつくりかたをすれば、地震や大風で、壊滅的影響を受けずに健やかに暮せる空間を確保できる、これが、人びとがたどりついた「結論」だったのです。
この考え方を、「率直に」「明快に」実行したのが「大仏様」であり「古井家」「箱木家」の架構と考えてよいでしょう。すなわち、「貫」工法:「差物」工法です。
すでに見てきたように、「浄土寺・浄土堂」も「古井家」「箱木家」も、きわめて「手慣れた」方法、ごくごくあたりまえにその工法で架構をつくっています。そこには「迷い」がありません。しかし隅々まで考えつくされています。本当の意味で「計算」されています。そして、きわめて「簡にして要を得て」います。
註 この場合の「貫」は、現在言われる「貫」ではありません。
また、これもすでに紹介した近世の「高木家」の架構も、
その「原理」は、この考え方であることが分ります。
もちろん、このような方法:考え方が突然現れたわけはなく、そこに至るまでに、長い過程:試行錯誤があったのは言うまでもありません。
そして、その「過程」こそ、「日本の建物づくりの歴史」にほかならない、と私は考えています。
そして私は、その根底に流れている「考え方」を、それが正当であると思うがゆえに、「数値化できない」からと言って、安易に捨てる気にはならないのです。
この「考え方」を、今、私たちは、どのように正当に、正統に継承していったらよいのでしょうか。