補足・「日本家屋構造」-7・・・・武家・横田家の敷居・鴨居 (付・日本の建物の開口装置:その変遷)  

2012-11-24 18:06:46 | 「日本家屋構造」の紹介
[図版を更改、註記追加しました 25日 10.00 ]

先に、「日本家屋構造」所載の敷居・鴨居と柱の仕口を紹介しました。

2009年9月に、江戸期の武家住宅「信州・松代『横田家』」を「重要文化財 横田家住宅 修理工事報告書」(長野県)を基に紹介いたしましたが(下記)、同報告書では、架構から造作まで、各部がきわめて詳細に調べられています。
   「信州・松代『横田家』-1
   「信州・松代『横田家』-2
   「信州・松代『横田家』-3
   「信州・松代『横田家』-4
理由は分りませんが、「横田家」では、敷居の仕口に、簡単な方法から手の込んだ方法まで、各種の方法が採られています。
そこで、上記「信州・松代『横田家』-4」から、敷居の仕口と柱の刻みの部分を再構成したのが下図です。

この図の左側:「柱の刻み」は「修理工事報告書」から転載し、文字を加筆してあります。
右側の敷居の各種仕口図は、報告書の解説を基に筆者が作成した図です。
詳しくは、前記「信州・松代『横田家』-4」をご覧ください。 

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

ところで、最近建てられる住宅では、外部の開口の姿がかつての姿とはまったくと言ってよいほど変ってきています。
最も一般的になっているのは、「掃出し窓」では、「内法高さ2m、欄間なし+シャッター」。当然、「腰付き窓」でも欄間はなく、時にはシャッターが付いています。
   最近まで、住宅用アルミサッシの規格は、従前の開口部の「規格」に準じていましたが、
   近年、「専門家」の手に拠って、少なくとも私にはその訳が分らない《規格》になってしまいました。
   そこで一般的なのが高さ2mの掃出し窓なのです。
   内法高5尺7寸~6尺では、頭をぶつける人が増えたから、だそうです。
   茶室のにじり口は、なぜ低いのでしょう?
   開口部とは、いったい何なのでしょう?
   かつての木製建具の規格については、下記に概略を書いています。
    「建物づくりと寸法-1・・・・1間は6尺ではなかった」」[註記追加 25日 10.00] 
その一方で、かつての姿と変っていない開口:窓があります。
便所、風呂場の窓です(ときに台所の窓も)。ほとんど、格子が付けられるのです。もちろんアルミ製。それゆえ、何処が便所、風呂場であるか、たちどころに分る。
なぜなのでしょう?
たしかに、かつては、便所や風呂場、台所の窓には格子が付きものでした。
その格子は、何のために設けたのか。
町家などの場合は視線の制御も役割の一つでしたが、一般には、格子は防犯の意味が強かった、と考えてよいでしょう。
他の開口部にはたいてい雨戸が設けることができましたが、便所、風呂場、台所などには雨戸が設けにくかったのです。出し入れも面倒。そこで、格子を付けた。格子を外すのは面倒、ゆえに設ける。
   余談ですが、アルミ製の格子は、いわゆるジャロジーと同じで、取外しが木製よりも簡単とのこと。
   ビスを静かに外せばよいからです・・・。
その「習慣」が、現在も引継がれているのでしょう。

私はシャッター付きの住居の経験はありませんのでまったく知らないのですが、
たとえば、シャッターを閉めた部屋で寝ていて、朝が来たことをどういう手立てで知るのでしょう?
春や秋の気持ちのよい天気のとき、少しばかり外の風を部屋に入れたい、などというとき、どうしているのでしょう?そんな「余計な」ことは考えないのかな・・・。
雨戸を閉めた時代、少し外気を入れたいと思うときは、雨戸を少し開けて過ごしたものです。第一、雨戸の上は、欄間で、欄間の開閉は自由、という例も多くありました。
   内法:5尺7~8寸までが雨戸、そこから上が欄間で雨戸はなく、
   かつては無双窓、新しくはガラス戸が入っていました。
おそらく、現在の欄間なし、シャッターという姿は、エアコン全面依存型の暮らし方が前提になっているのではないか、と思えます。
《効率的なエアコン使用》のためには、たしかに欄間なし・シャッターは《模範的省エネ》なのかもしれません。
しかし、それでほんとによいのでしょうか?私の感覚では、それは省エネの範疇には入らないのです。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

以下に、日本の建物で、開口装置がどのような過程をたどってきたか、その概略をまとめてみました。
これは、茨城県建築士事務所協会主催の「建築設計講座」のテキストからの抜粋です(「伝統を語る前に」の講習会テキストでも使っています)。
日本でも、当初は、開き戸が主流でした。その「不便」さから「引戸」に変化してきたのです。
「不便」とは、「日本の環境で暮すには不便」、ということです。




「建具」についての解説がこれに続くのですが、長くなりますので今回はやめ、いずれあらためて紹介させていただきます。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この国を・・・・36:「福島の人びとの真情」

2012-11-18 07:50:05 | この国を・・・
[標題通し番号、間違ってました!訂正しました]

11月15日付のブログ「リベラル21」に、「原発ゼロは福島の人びとの真情」という記事が載っていました。
新聞、TVなどではまったく報道されていなかった(私の知る限り)11月10日に南相馬市で開かれた「講演会」についての報告です。
以下に、全文を転載させていただきます(読みやすいように段落を変えさせていただきました)。

追記 18日 11.45
今日の東京新聞の社説も是非お読みください。
標題は「私たちを侮辱するな」。
リベラル21の記事の紹介の後に、TOKYO Web から、全文、コピーして転載します。                                        **********************************************************************************************

原発ゼロは福島の人びとの真情・・・・世界平和アピール七人委員会が南相馬市で講演会   
伊藤力司 (ジャーナリスト)     

世界に向かって「核兵器廃絶」「原発ゼロ」を訴えている「世界平和アピール七人委員会」は11月10日、東電福島第一原発事故の被災地福島県南相馬市で「福島の人びとと共に」と題する講演会を開いた。
今年の文化功労章を受章したばかりの辻井喬委員(詩人・作家)の「中央集権の時代は終わった」とのスピーチを始め、
被災した人々を撮り続けている大石芳野委員が撮影したモノクロ映像の数々、
原発と核兵器の時代は終わったことを検証した核物理学者小沼通二博士(委員兼事務局長)の報告、
さらに世界中の人々がインターネットの「フェイスブック」を通じ「福島のお母さんたち」と連帯していることを紹介した武者小路公秀委員の発言に拍手が湧いた。

しかしこの講演会が感動的だったのは、大事故を起こした東京電力福島第一原発の放射能被災地に住んでいる人たちの声が聞かれたことだった。
福島第一原発から20㌔圏内、つまり日本政府が「放射能被害があるかもしれないので退避せよと指定している区域で生きている人々の「生の声」であった。

とりわけ衝撃的だったのは、福島原発から12キロ地点の牧場で1年8カ月経った今も、400頭近い牛に餌と水をやるために、外から毎日通っているという吉沢克己さん(59)の演説だった。
吉沢さんの父親は満州開拓義勇団に応募し、日本の敗戦後ソ連に抑留されて強制労働に服して3年後ようやく帰国、生きるために千葉県で農地を開拓し、農業経営者として成功したという人だった。
吉沢さんは父の遺産(千葉の農地)を売った資金で父の故郷に近い福島県南相馬郡浪江町に牧場用地を買い、300頭の牛を飼う酪農家となった。

そこへ2011年3月11日、東日本大地震・大津波・東電原発事故が起きた。
3月12日福島原発1号炉の建屋は水素爆発を起こし、放射性物質は空中に飛び散った。
放射性物質は福島県の各地方やそれ以遠に飛び散ったが、日本政府は「直ちに住民の健康に被害を及ぼすレベルではない」との“安心メッセージ”を流した。
しかしこの安心メッセージはその後の検証で、文部科学省と経済産業省が現地住民に「パニックを起こさせない」ために流したインチキ広報資料だったことが判明した。

「直ちに健康に被害を及ぼさない」はずの放射能が、本当は人体にかなり危険なレベルであることを承知していたはずの政府は、間もなく30キロ以内を避難区域に指定。避難区域への立ち入りを禁止した。
それでも毎日牛に餌をやりに来る吉沢さんは非合法な人物とされ、彼が育てた牛は日本政府の方針に従えば「殺処分」される運命にあった。
しかし吉沢さんは殺処分に従わなかった。

吉沢さんが原発事故後「原発一揆」のスローガンを掲げて、福島県南相馬郡浪江町の牧場で400頭近い牛(過去1年8カ月の間に自然分娩で牛の頭数が増えた)に水と餌をやっているのは、酪農家としての意地でもあり、平気で家畜の殺処分を強制する中央の官僚に対する反逆である。
吉沢さんにしてみれば、福島の貧しい農家に生まれた父は、時の政府の宣伝に乗せられて満州に入植、関東軍に見捨てられた敗戦後シベリアに3年間抑留されるなど、国に裏切られ続けた。
その父の怨念を込めた牧場を見捨てられるか。

「原発は安全」「原発が福島を豊かにする」という、きれいごとの文句に胡散臭いものを感じていた吉沢さんたちは、今度の東電原発事故以前から、地域独占の電力会社とこれを支える日本政府に不信感を抱いていた。
だから現在、牛に飲ませる給水や給餌システムなど牧場に必要な電力は、牛舎の屋根に置いた太陽光発電でまかなっている。
放射能を浴びている乳牛から毎日絞るミルクはただ捨てるだけだ。
お金のことだけ考えるなら全くの徒労である。
しかし吉沢さんは生きている牛を殺すことは忍びないし、放射能を浴びた牛が被曝医療研究のための検体になるかもしれないという望みを秘かに抱いている。


さて七人委員会の講演の皮切りは、辻井喬委員の文化功労者受賞後初のスピーチだった。優しい表情の辻井さんは、日本は明治維新以来100年以上も中央集権の官僚制度を続けてきたが、今こそ地方自治に切り替えるべき時を迎えていると指摘。
明治維新後の日本人は「富国強兵」を合言葉に頑張らされた。
愚かな戦争に負けた1945年以降、われわれ日本人は「強兵」のない「富国」でがんばってきた。
しかし国が豊かになっても国民すべてが幸せになったわけではない。
そこで起きた大地震・津波・原発事故を体験した福島の人々に「導かれて」こそ、日本人はこれから何を生き甲斐とするかを学べるのはないかと結んだ。

辻井さんの後は、大型スクリーンに映し出された大石芳野委員撮影の写真の数々に会衆は見入った。
地震と津波による被害の爪痕もさることながら、原発事故のために自宅を、畑を、故郷を捨てて避難せざるを得なくなった人びとの姿、表情である。
耕作を放棄せざるを得なくなった田畑の荒れた姿。
しかし耕作を放棄せざるを得なかったおじさん、おばさんたちの顔に刻まれたしわとうつろな視線。
それは何万言を費やしても表現しきれないモノクロ写真の力だった。

大石委員の次は、日本初のノーベル賞受賞者湯川秀樹博士のお弟子さんでもある小沼通二博士。
小沼さんは「七人委員会」の事務局長でもあり、物理学者とマネージャーの両方をこなせるタレントだ。
原子物理学者としての小沼さんは、パソコンのパワーポイントを駆使し大型スクリーンに講演内容を図示しながらの説明。
原子核分裂で発生する膨大なエネルギーが核兵器と原子力発電の源であること、
核分裂がもたらす有害な放射性物質が、長いものでは10万年にわたって動植物の生命に危険であること。
そして結論は、21世紀の世界には核兵器も原子力発電も「時代遅れ」で、ともに消えて行くべき運命だと。


「世界平和アピール七人委員会」は、1954年に南太平洋ビキニ環礁で行われた米水爆実験で日本人漁船員らの被曝の悲劇を繰り返してはならないと考えた、英哲学者バートランド・ラッセルや天才科学者アインシュタイン博士らが、核兵器廃絶と世界平和を訴える声明を1955年に発表したのを受けて発足した。
第2次世界大戦後、2度と戦争を起こすべきでないとする世界連邦運動の下中弥三郎平凡社社長の呼びかけで、湯川秀樹博士、植村環(日本YWCA会長)、茅誠司(東大総長)、上代たの(日本女子大学長)、平塚らいてう(日本婦人団体連合会会長)、前田多門(文相)の知識人7人で結成。以後逝去したメンバーの後をその都度入れ替えて今日まで57年間、世界に平和と核兵器廃絶を訴え続けてきた。

**********************************************************************************************

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「日本家屋構造」の紹介-16・・・・長押(なげし)の構造

2012-11-16 17:14:14 | 「日本家屋構造」の紹介

今回は、これも最近見かけなくなった「長押」について。

「長押」は、かつて、少し格の高い住宅に欠かせない化粧部材でした。
「長押」は、元はと言えば、古代日本において軸組工法の架構を保持するために工夫された技法・部材で、他地域には見かけません。
しかし、架構保持にとって「貫」の効能が広く確認され普及するとともに、「長押」は、「古代の建物の形式」を継承するための、つまり「様式」のための化粧部材となってしまいます。   
その「謂れ」については、下記をご覧ください。
   「日本の建物づくりを支えてきた技術-7
「貫」は、軸組工法の他の部材と同じく、そのまま表に現れることを厭わない使い方がされていました(東大寺・南大門、浄土寺・浄土堂など)。
   これについては、下記をご覧ください(関連記事も示してあります)。
   「日本の建築技術の展開-9」   
   「日本の建物づくりを支えてきた技術-20
しかし、「古代の建物の形式」にこだわる人びとの間では、「貫」の効能を知ってそれを用いても、表に現れないように隠す「習慣」が残ります。「貫」を表すと、古代の「形式」を損なうからです。
そのいわば「極値」がいわゆる「書院造」であったと見なすことができます。
そこでは盛大に「貫」が用いられ、架構の維持に大きな役割を担っているのですが、多くの場合、そのすべてが壁内に隠されています。
そして、その「隠すための方策」の一つとして、化粧の「長押」が使われました。
「長押」が柱の外面に設けられるため、その内側ならば、厚い「貫」をしまい込むことができるからです。
   その方策の事例は、たとえば下記をご覧ください。
   「園城寺・光浄院客殿の補足
   
いわゆる「書院造」の「形式」は、そこに現れる「上下関係の格」が武家層に好まれ、武家の住居にも多用されたことは以前にも触れました。
明治以降、いわゆる幕藩体制の崩壊後、主たる都市居住者となった旧武家階級の人びとの住まいにもこの「形式」は、少し矮小化された形ですが、引継がれます。
つまり、「日本家屋構造」が紹介している「長押」は、古代に生まれた「長押」が、長い時間を経て行き着いた先の姿がである、と言ってよいでしょう。「長押」は、いわば、格の象徴であったのです。
したがって、すでにそこには、「長押」の「謂れ」:「来し方」を見ることはできません。
ここでは、「形式」をどうしたら確保できるか、という視点で語られます。その点に留意の上、お読みください。


第一 長押に取付ける仕口
第五十一図は、長押に取付ける仕口を表した図。
図のおよびは、長押を裏側から見た図で、襟輪欠き(えりわがき)で取付け、釘彫りを設けた個所で鴨居釘打ちする。釘打ちの間隔は8寸程度。
   釘打ち箇所を丸鉋で凹型に削るのは、凹部の縁に力が集中して、長押と鴨居の密着具合をよくするための工夫。
図のは、長押入隅(いりずみ:内側になる隅)の仕口を示す。上端側には目違いを設け、下端の目に見える部分を留めにする方法。
図のは、長押鴨居(および)の断面図を示す。
長押の取付く位置には各種あるが、そのうち鴨居の上に取付けるのが普通で、これを内法長押(うちのり なげし)と呼んでいる。
長押(の幅)には、本長押半長押などがある。
本長押は、その幅(丈)を柱径の8~9/10ほど、半長押は6~7/10くらいとするのが普通。天井長押(次項参照)は柱の6/10程度とする。
各部の大きさは、「製図編」の木割に示してある。
   製図編の木割寸法の解説を、今回の末尾に転載します。
次は蟻壁についての解説。

第二 蟻壁および長押第五十二図のは、蟻壁を設けるときの各部の仕口を示すもので、図の長押鴨居矧ぎ合せを裏面から見た図である。
図のは、床の間長押が取付く場合の仕口で、これを雛留(ひなどめ)と呼ぶ。
図のは、の平断面である。
図のは、長押を柱の三方に廻して留めとする一見鉢巻をしたような姿になる納め方で、枕捌(まくら さばき)と呼んでいる。
   「枕」は「巻き裏」の訛りという説あり(「日本建築辞彙」)
蟻壁は、上等の客室で格天井として、その格子との割り合わせが悪い(縁の芯が柱の芯と微妙にずれる、など)ときに使われる方法である。
図のように、天井長押蟻壁長押との間、柱径の1.2本分くらいを柱面と同面で壁とする。
   格天井の場合だけでなく竿縁天井でも使われる。
   また、蟻壁面は柱面と同面でもない。むしろ、柱の外面に壁がつくられる(大壁)。
   代表的な例は下記をご覧ください。
   「園城寺・光浄院客殿・・・・ふたたび
   この壁部分をなぜ「蟻壁」と呼ぶのかは不明です。「日本建築辞彙」では、「有壁とも書く」とあります。

   なお、第五十一図、五十二図のには、数値が書いてありませんが、比率から見て、厚さが薄すぎます。
   「園城寺・光浄院客殿の補足」で紹介の事例のように、
   書院造のように壁内に隠蔽してしまう場合でも、
   は厚さは、柱の径の1/4程度はあるのが普通です。
   明治期の都市住居のは、すでに現在のいわゆる「ヌキ」材のように薄くなっていたのでしょうか。

    
次に、「第一」にあった、「日本家屋構造 製図編」の中の木割:各部材寸の項のうち、室内の部分を転載します。

後半は床の間の寸法について触れられていますので、今回までの事項にかかわる部分だけを整理して載せます。
 敷  居:幅は柱の幅と同じ。縁側付の場合は柱幅の9.5/10。丈(高さ・厚さ)は2寸。
 畳寄せ  :敷居に同じ。
 鴨  居:幅は柱径の9/10。丈(高さ・厚さ)は柱の3.5~4/10。
 付鴨居  :丈は鴨居と同じ。
 内法長押:丈(幅)は柱径の8~9.5/10。柱面から丈の1/5外に出す。
 小壁釣束:柱の8/10角。
 欄間敷居、鴨居:幅は柱の6.5~7/10、丈(厚さ)は柱径の2.5/10。
 天井長押:丈(幅)は柱径の6~6.5/10。下端は柱の外面より柱径の1/5出す。
 天井廻縁:丈(高さ)は柱の5/10。柱からの出は長押に同じ。
 天井竿縁:柱径の3/10角、または高さ3/10×幅2.5/10。
以下は床の間の解説紹介のときに載せます。

   ここで示されている数字でつくらなければならない、というわけではありません。
   また、以前に「匠明」の紹介時に触れたように、木割書の通りにすれば、かならず見栄えよくなるわけでもありません。
   最終的には、制作者の感性に拠ります。

次回は「床の間」まわりの解説の項を紹介します。    

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この国を・・・・35:危ないところ

2012-11-12 15:03:37 | この国を・・・

もうじき、鳥たちが食べにきます。渋柿です。

日本の人口のおよそ3分の1に近い3800万人が、「危ない場所」に暮している、という「研究成果」が報道されていました。
   逆に言うと、残りの3分の2の人たちは、安全な場所に暮している、ということです。
「危ない場所」とは、地震で揺れやすく、地盤の液状化も起こりやすい・・・といった地域。
どうやら、その「研究成果」を、「防災」に役立ててほしい、ということのようです。
ことによると、東日本震災後、比較的静かだった建築系の《学界》に、この「研究成果」を基に、建築に関係する諸規定・諸基準を「改定」しよう、「新・新耐震基準」のごときものをつくろう、という「下心」があるのかもしれません。
   木造建築では、そういう動きが既に始まっているようです。
   たとえば、日本建築防災協会という団体は、「2012年改訂版 木造住宅の耐震診断と補強方法」を発行し、
   それをテキストにした講習会の全国展開を、地域の建築士会と共催で始めています。
     この団体は、例の「直ぐに壊れてしまったけれども倒壊ではない」という
     訳の分らない「解説」がなされた「実験」を行なった方がたの関係する「民間の団体」です。
     私には、この団体は、災害をメシのタネにしている人たちの集団に見えてしかたがない。
     なぜなら、この講習会、参加料が一般8000円、テキスト代がなんと7000円!
     社会全体に係わる大事なことを広めることを目的にした講習会にしては、あまりにも法外な費用。
     ほんとに大事で緊急のことなら、ボランティアで無料だっていい。
     だから、メシのタネにしている、と思わざるを得ないのです。
     だいたい、こういうことを、一民間団体が牛耳るなど、もってのほか、と私は思います。
     それに、公共団体であるはずの建築士会が相乗りをするなど、もってのほか。
       ベトナムに出向き、ボランティアで白内障の治療を行なっている医師の話を聞きました。
       もう、1万人を越えた方が目が見えるようになった、とのこと。
       ベトナム行きは、偶然。そこで白内障で悩む人の多さを知って始めたとのこと。  
       一度治療費をもらうと「クセになる」、とはこの医師の言。
     ところで、この講習会に、茨城県では200人近くの人が申込をしています。
     「耐震診断」が《仕事》になるからのようです。
     そうやって、各地域で営々として培われてきた建築技術が失われてゆく・・・。
     その責任は重大です。[文言追加 13日 10.38]

では、「危ない場所」とはどういうところか。
何のことはない、それはすなわち、いわゆる人口密集の大都会の「立地」
この「立地」の面積が、日本全体から言えば、きわめて狭小な範囲・面積であることは、公表された地図で明らかです。

これについては、かなり以前(2010年3月~4月)に、
わざわざ危ない所に暮し、安全を願う!?
危ない所が街になったのは・・・・江戸の街と今の東京の立地要件は同じか」で触れています。
しかし、この、日本全体から見ればきわめて限定され、しかもきわめて特殊な性格の地域において生じる「問題」を前提に、防災にからむ諸々の「基準」「指針」がつくられてきている、と言ってよいでしょう。
そして、そういう「危ない所向けの基準」「指針」が、他の地域:「危なくない所」にまで及んでいるのが現状です。

何故そうなるのか。
そこに人口のおよそ3分の1が暮している、ただそれだけの理由。
あるいは、その地域に「偉い方がた」が暮している、ただそれだけの理由。
   「偉い方がた」が好む多数決主義で言うなら、人数も、そして面積も少数派。
   この場合だけは、多数決主義を採らない・・・!
   ご都合主義の一例。
重要なのは、危ない所での耐震補強・・・などに専心することではなく、
そういう所には居住すべきではない、という考え方を広めることではないか、と私は考えます。
此処より下に家を建てるな」と言うことこそ、そしてその考え方を伝え広めることこそ、本当に求められる「都市計画」「地域計画」、そして「震、液状化策」である、ということです。
同趣旨の論を展開している数学者の書を、下記で紹介しています。
   「本末転倒の論理・・・・複雑系のモデル化を誤まると
実際、江戸時代の街道、街は「危なくない所」につくられているのです(下記参照)。
   「建物をつくるとは、どういうことか-16」 

つまり、その気さえあれば、簡単にできることなのです。
何故できなくなったのか。
「学の成果」に寄り掛かり、各々の自らの体験・体感に根ざさなくなったからだ、そうあることこそが「科学的」なのだと「教え込まれてきた」からだ、と私は思っています。
つまり、人の世は、「科学的」になった代りに non-scientific になってしまった、ということ。
そして、それをいいことに、「偉い方がた」は、学者も経済界の方がたも、「科学的」の名分の下で、理よりも利に目を向けている。
福島原発は、廃炉に40年以上の年月を要し、現在の見込みで4兆円の経費がかかるそうです。しかも、廃棄物の処理は、計算外らしい。
残りの原発も、いずれは廃炉のときが来る。気が遠くなりそうな膨大な経費!
それでも原発の発電コストは安いと言い続ける。これは何だ?
目先の利が、人の目を狂わしている、としか言いようありません。
これでも、現代人は江戸時代の人びとよりも「進んでいる」と言うのでしょうか。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「日本家屋構造」の紹介-15・・・・釣束(つり づか)・敷居・鴨居の構造

2012-11-05 13:41:16 | 「日本家屋構造」の紹介


少し間遠くなりましたが、「日本家屋構造」の紹介を続けます。
今回は、開口部に必須の部材である敷居鴨居構造:つくりかたについての解説です。

日本の建物:木造軸組工法の建物では、が開口部の縦枠になり、横枠だけが後から付加されるのが普通です。
これは塗り篭めるつくり大壁づくり土蔵でも同じです。
   大壁づくり土蔵では、開口部が壁に任意に設けられているように見えますが、
   必ずを利用して設けられています。
   
こういうつくりかたは、現在は、稀有かもしれません。
その意味で、この解説は、貴重なのではないか、と思います。
   西欧の煉瓦造や石造の建物づくりでも、開口部のつくりかたは、前代の木造に倣っていると考えられます。
   つまり、基本は、日本のつくりかたと大差ありません。
   現在多くなっているつくりかたは、枠組工法:2×4工法:由来なのかもしれません。
   それが「常識」になってしまっている!!

はじめは、鴨居を釣る束:釣束(つり づか)のいろいろの構造。

第一 枠釣(わく づり)の仕口:方法。
第四十八図のは、室内の小壁(こ かべ)の釣束(つり づか)を枠釣(わく づり)とする方法の解説図。
   小壁鴨居・内法上の丈の低い壁のこと。
小屋梁の下端(の所定の位置)に、(頭枘の)枘孔を彫り、を嵌める。
そのとき、胴付(枘を設ける面)は、梁下端より1寸くらい下になるようにつくる。および枘孔も、同様に1寸くらいの逃げをとる。
胴付から3寸ほど下に(こうがい)を差し通す蟻型の孔を彫る。
   :音はケイ たばねた髪をとめ、または冠をとめるためにさすもの。かんざし:髪挿し。・・(新漢和大辞典)
     「こうがい」の読みは、髪掻(かみかき)の変化。(新明解国語辞典)
      漢字の「意」に対する日本語の「読み」と思われます。
        余談:当地の近在に「笄崎」という地名があり、未だに読みが判っていません!
一方で、2寸角程度の角材で図のように小屋梁をくるむようなをつくり、その下枠をに掛けての上部を釣り、(の下端を鴨居または無目を取付ける)。
   は、頭枘小屋梁にあけた枘孔に嵌めてあるため、平面上で所定の位置にある。
枠釣法は、万一が所定の位置より下がったとき、小屋梁の上端と横木との間にを打込んで、高さの調節ができるようにした工夫である。
   きわめて手の込んだ構造法で、実物を見たことも、もちろんこの方法を使ったことも私はありません。
図のは、釣束の上部を寄せ蟻送り蟻とも呼ぶ)として小屋梁に取付ける方法。
この場合、蟻枘の長さは2寸~3寸程度として、蟻型の根元は、図のように多少腰を上げて刻む。
の(上端ではなく)根枘につくることもある。
いずれにしても、入念な刻みが必要な方法である。
   図のように、鴨居の向きが異なる場合は、頭枘寄せ蟻による取付けはできない。
   向きが同じの場合でも、頭枘根枘とも寄せ蟻にするには、かなりの精度の高い仕事が要求される。
図のおよびは、鴨居を取付ける方法。
鴨居の上端に篠差蟻(しの さし あり)をつくり、蟻型を嵌め、傍からを打込んで固定する。
釣束鴨居無目などの横材を取付ける場合には、すべて、これらの仕口を用いるのが望ましい。
   篠差蟻無目:前回までに説明あり。
   註 図では内法貫の位置が蟻型の直ぐ上に描かれていますが、実際は、距離をとります。
      この図のとおりでは、蟻型が取れてしまいます。

次に敷居鴨居への取付け方の解説。
容量的に、一頁に敷居・鴨居ごとの解説と図をまとめることができなかったため、はじめに両者の解説、次に両者の図、のようにまとめました。読みにくいかもしれません。ご容赦!


第一 敷居に取付ける方法
第四十九図のは、敷居待枘(まち ほぞ)および横栓を取付けたときの断面図。
図のは、この断面図の上側のように取付く場合の敷居の端部のつくり、は下側のように取付く端部のつくりを示している。
図のの平面図で説明する。
取付け法-1
図のの左側の敷居の取付く面に待枘を埋め、横栓の道を彫り、敷居の端部には図ののような刻みを施す。
敷居の右側の端部に横枘をつくり、にはそのの嵌まる孔を刻む。
横枘はおおよそ5分角(図の)。
先ず、敷居の右側の横枘を嵌め、次いで左側を下して待枘に嵌め、横栓を打って固める。
   嵌め込み下す際に、右側の横枘に一定程度無理がかかる。
待枘は、高さは敷居の丈より5分短く、幅は3分程度、堅木でつくる。
   待枘雇い枘の一。後から柱に孔を穿ち取付ける。下に床板などがあることが必要。
取付け法-2
敷居下に足固め(あし がため)がある場合、両側のおよび敷居の両端に、図ののように待枘を2箇所設け、敷居を落して取付け、足固め敷居を、およそ3尺ピッチの吸付蟻(すいつき あり)で固定する。
   これは、足固めの上に敷居を載せた場合の方法。

図の下側()は、敷居の長さを正確に写し取る方法の解説図。
   これは、に大きながあったり、あるいはに図のように狂いがある場合の敷居の形状を決める方法。
先ず敷居材の側面を柱間に押し当て、敷居の上端の前面の角に、の前側の角から直角の線を引き[い][ろ]点を付ける。
次に右側のの内側の側面に曲尺を当て、敷居の上端に[は][に]の線を記し、この線に直交しかつ[い]点を通る直線を作図する。この線が、敷居の胴付:(右側の)に当たる面:を示す。
左側ののような大面を写し取るには、それぞれの面に曲尺を当て[ほ][へ]および[と][ち]の点を記し(あるいは線を引き記し)、次にの面角[り][ぬ]の距離を敷居上端に写し、[り]点を通り[へ]~[ほ]に直交する線、および[ぬ]点を通り[と]~[ち]に直交する線を引くと、各を写し取ることができる。
   要は「図学」の実践である。というより、「図学」の源は実践にあった、ということ。

第二 鴨居の取付け方
第五十図のは、片方の端部に横枘をつくり、他端は2箇所の釘彫りをしてを打つ粗末な仕口。
中央部では(小舞竹を取付ける)塗込み貫枘差しとし、それにまたは目鎹(目違い鎹)で取付ける。
   註 現在は、これよりも「粗末」なのが実際ではないでしょうか。
図のは、鴨居の一端に横枘をつくり、他端には繰出し枘(くりだし ほぞ)をつくって所定の位置に設置してを繰り出し、が抜けないようにを打つ方法。
   繰出し枘:別材でつくって嵌め込み、移動させることができる
   これもきわめて手の込んだ方法。私は見たことがありません。
図のは、鴨居大入れにする方法。
鴨居の上端に箱目違いを彫り、その木口を図の丁一のように切り落としの所定位置にその形を写し取り、一方を深さ3分、他方は一分5厘ほどの深さに彫り、遣り返しで嵌め込み、片方の上端にを打って固める。
   遣り返し:一旦、深い方の孔へ全体を入れ、次いで浅い方の孔に材を引き戻す方法。通称「行って来い」。
   きわめて精度の高い刻みが必要ですが、仕上りは逸品です。
   大入れ敷居でも可能で、そのときは、大入れの彫り込みの下端にの道をつくっておき、
   取り付け後、を打って大入れの形に密着させる方法がとられます。
   これもきわめて丁寧仕事。
図の丁二は、長押の矧ぎ付けを容易にするため丸鉋をかけた場合の断面図。
図のは、敷居引独鈷(ひき どっこ)で足固めに固定する方法を示した図。
   この図は敷居の裏面を見ている。
   引独鈷:接合する二材を、別の材:雇い材:で引きつけて接合する継手・仕口をいう。
   継手・仕口または雇い材、そのどちらも「ひきどっこ」と呼んでいます。
   独鈷:仏具の一。銅または鉄製の両端のとがった短い棒。(「新明解国語辞典」)
       建築用語は、その形状から生まれたのでしょう。
図のは、引独鈷の姿。
敷居下の足固め下端で引独鈷鼻栓を打って敷居の位置を固定する。
   これも丁寧な仕事です。
   足固めがないときは、根太掛などの横材が代用されます。

   ここに紹介されている方法は、鴨居の取付け方の冒頭で「普通の粗末なる仕口」と述べられている方法でさえ、
   現在では見かけなくなっているように思えます。
   今では、それが丁寧な仕事と言われかねない・・・。
   残念ながら、木ねじ、ビスの類にたよって、突き付けでおしまい、などという
   日曜大工なみの仕事がまかり通っているのではないでしょうか。
   そのため、乾燥材、人工乾燥・・・などと騒ぐのかもしれませんね。
   ここで紹介されている方法は、どれも、木材の特徴に習熟して工夫された方法と言えるでしょう。

今回はここまでにします。
次回は、長押の取付けの解説になります。
           
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする