「付録2 日本建築の開口部と建具・概要-1」 日本の木造建築工法の展開

2019-02-26 10:22:01 | 日本の木造建築工法の展開

   「日本の木造建築工法の展開」   

  PDF「付録2 日本建築の開口部と建具・概要」 A4版12頁 (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 

付録2 日本建築の開口部と建具・概要・・・建具の種類、納めかた 

1.日本建築の開口装置

 古代~中世の開口部・間仕切り

 御簾、蔀の利用

貴族の住居:寝殿造の外周の廂(庇)部では、吹き放しの箇所と、御簾(みす)(すだれ)蔀戸(しとみど)、または板戸舞良戸(まいらど)もある)が入る場合があり、間仕切りとしては屏風(びょうぶ)などが用いられ、土壁で塗り囲まれた塗籠(ぬりごめ)では、妻戸(つまど)(室の隅に設ける両開き戸)が使われていた。 

  

東三條殿復元平面図 部分  日本建築史図集 より        御簾、屏風の図 源氏物語絵巻 日本建築史図集 より

 

 軸釣り開き戸(奈良~平安時代)

奈良時代の寺院建築の外部出入口は、すべて開き戸で、柱外側の上下の長押軸釣り(現在のピボットヒンジ)で仕込むが、平安時代には、柱外側に添えた太目の額縁(がくぶち)軸釣りとする方法も生まれる。

貫工法が主流となり長押を使わなくなる鎌倉時代以降は(主に大仏様禅宗様の建物)、外側に扉を支持する部材(藁座(わらざ)と呼ぶ)を別途設けて釣っている。

   

上:端喰による板戸(法隆寺・伝法堂)奈良六大寺大観 法隆寺一 より  下:蔀戸、半蔀(西明寺本堂)日本建築史図集より   藁座による軸釣り開き戸(東大寺法華堂礼堂) 奈良六大寺大観 東大寺一より

 奈良~平安時代の建具

板 戸:奈良時代に使われた扉は、厚さ3寸ほどの板を矧(は)いでいる(時には1枚板)が、平安時代には板厚が2寸程度になり、反りを防ぐため上下に端喰(はしばみ)(端嵌め(はしはめ)から転じた語)を設ける技法も生まれている。

蔀 戸(しとみど):四周に(かまち)を組み薄い板を張り、前面を格子、裏面を横桟に組んだ跳ね上げ建具長押に外付け。上層階級の住宅で多用され、後に寺院でも使われる(左上図参照)。

半 蔀(はんじとみ)蔀戸を上下に分け、上部は跳ね上げ、下部は落し込みで取付け、取り外し可能(上図参照。外した戸は別の場所に格納)。

格子戸(こうしど):周に(かまち)を回し格子を組み、薄い板を張った戸。 

舞良戸(まいらど):四周に框(かまち)を組み、見付けの細い横桟または縦桟を繁く設け、薄い板を張った戸。この形をした開き戸もある。

杉 戸 :四周に框を組み、薄板の鏡板をはめた戸。絵が描かれることもある。

(ふすま)  :格子の両面に厚紙や布を貼った戸。

明り障子(あかりしょうじ)格子に薄い紙を貼った建具。平安時代末期までに生まれた。現在の障子。当初はが現在に比べ太く、框と大差ないが、次第には細くなる。明り取りのために、蔀戸連子窓格子窓の内側に仕込まれた。⇒次項参照

遣 戸(やりど)引き戸の当初の呼称。⇒次項参照

なお、室内の仕切りには、衝立(ついたて)や板を張らない格子戸が使われた。障子は、(ふすま)、衝立(ついたて)など仕切りに使うものの総称であった。

 

 引違い戸の普及(平安末・鎌倉時代以降)

鎌倉時代までには、格子戸、舞良戸、板戸、明り障子敷居・鴨居の間で引違いに引く方式:遣戸(やりど)が定着、普及する。

当初の引違い戸は、敷居・鴨居に設ける戸を仕込む(樋端(ひばた))の幅が戸の見込み全部が入る溝であったため(ドブと通称)、引き違い戸相互の間には3分(約9㎜)以上の隙間があった。樋端の溝彫りの工具がなかったためで、付け樋端とする例が多い。 後に、樋端幅を、現在のように、戸の見込み寸法の7割程度にして引き戸間の隙間を1分(3㎜)程度にする方法が生まれる。

 書院造の引き戸

書院造で普通に見られる引き戸は、柱幅が一般に4寸2~3分(約130㎜)程度あるため、以下の構成とする例が多い。

① 3本溝板戸2枚、明り障子1枚の3枚構成とする。柱間の半分が明るくなる。 ② 柱間の中間に方立を立てて柱間の半分を袖壁として、2本溝で板戸明り障子各1本を袖壁部に引込む(片引き戸)。明るさは①に同じ。  

   

光浄院客殿 部分平面図                     浄院客殿東面 玄関建具詳細   

六畳東面の中門廊寄り1間が玄関の両開き戸(右図)  玄関北側の各柱間は明り障子蔀戸・半蔀(下断面図)

     

                 光浄院客殿 東面 開口部 解説図(単位 寸)

    

光浄院客殿上座の間 広縁 開口部 左:外部 右:内部   板戸(舞良戸)を開けた状態。明り障子1枚分から外光が入る。舞良戸の室内側は紙貼り(絵が描かれていた)。  上図は、この部分の詳細図断面詳細図より作成)  図、写真は 日本建築史基礎資料集成 書院一 より

 

 雨戸の誕生(桃山時代以降)

書院造遣戸方式は、開閉は容易である全面開放ができないため、室内は蔀戸方式よりも暗くなる(前項参照)。

桃山時代以降には、柱通りの外側に1本溝の敷居・鴨居一筋(ひとすじ)と呼ぶ)を設け、開口部の端部に半間幅の戸袋(とぶくろ)を設けて板戸をしまい込む雨戸が考案される。

   

中級旗本の住居の開口部            中級武士目加田家の開口部の構成

 

 庶民の住居の建具構成

庶民の住居には、近世以前の遺構は見当たらない。室町期に建てられた古井家箱木家では、主要な開口には、室内外とも片引き板戸が入り、部分的に明り障子を入れている。

  

古井家 復元平面                    日本家屋構造所載の明治期の開口部例 一般住宅の縁側 商店の上げ戸 

 17世紀後半には、書院造同様、敷居・鴨居に3本溝を彫り、板戸2本・明り障子1本の構成が現れる    さらに時代が下ると、武家の住居同様、開口部を広くとり、縁側を設け、柱外側に雨戸を仕込む例が一般化する。   なお、商家・町家では、表通りの店先に、現在のシャッターに相当する上げ戸(揚げ戸)を設ける例が増える。   

  規格建具の流通

江戸時代には、柱間1間を基準とし内法高を一定(5尺7寸、5尺8寸など)にして、一般の住居向けの規格建具:掃出し、肘掛け、腰高など(鴨居下端からの寸法で指示)が用意されるようになる。住宅用アルミサッシの旧規格は、この規格建具の寸法体系による。

  ガラス戸の導入・普及

ガラスの生産は明治末期に始まり、昭和初期に大量生産が本格化し、以降一般に普及する。初期のガラスは厚さ1.5~4㎜、大きさも小さい。 

ガラスは、当初、明り障子の一部に組み込む使い方がされ、その後、を組み、数本の横桟の間にガラスを入れるガラス戸として普及する。それにともない、雨戸の内側にガラス戸を入れる方式が生まれ、雨戸を開放すると外気に曝されていた縁側が、ガラス戸で囲われるガラス戸+雨戸という縁側の定型が生まれる。

 

大正期の中廊下式住宅 ガラス戸+雨戸による縁側

参考資料 日本建築の構造 浅野清著(至文堂) 日本建築史基礎資料集成 (中央公論美術出版)  日本建築の鑑賞基礎知識 平井聖著(至文堂)  日本建築史図集 日本建築学会(彰国社)  

 

 2.真壁の開口部:枠回り

木造軸組工法の建物の開口部:枠回りは、大壁仕様の場合も、真壁仕様の納まりを基本とすると分かりやすい。

 真壁仕様の枠回りの基本

① 縦方向は柱をそのまま利用し、横方向は柱間に敷居・鴨居を取付ける。開口部が柱間よりも狭い場合は、方立を設けて調整する。 註 引き戸の溝を設ける場合を敷居・鴨居と呼び、溝のない場合を「無目(むめ)(無目敷居・無目鴨居)」と言う。

敷居・鴨居・無目、方立には、一般にスギ、ヒノキ、マツ、ツガ、米マツ、米ツガなどが使われるが、真壁の場合は、柱材と同一にすると違和感がない。註 材の反りを考慮し、鴨居は木表を上端側、敷居は木表を下端側にする(開口側が木裏となる)。

② 敷居・鴨居の幅は、一般に、柱の面内(めんうち)納めとするが、敷居床面が同高のときは、敷居は柱幅にそろえる。 また、小さな開口で、方立敷居・鴨居が取付く場合は、一般に、方立を優先し縦勝ち)、方立面内敷居・鴨居を取付ける(見込み寸法が同一でない)。 註 真壁仕様では、縦材と横材を留めにすることは稀で、どちらかを面内で納めるのを常とする。

③ 敷居・鴨居・無目の見付け寸法(厚さ)は、1寸~1寸5分(約30~45㎜)以上。 鴨居の見付け寸法は、真壁の場合、壁面の見えがかりに影響するので、任意に設定できる。構造材を兼ねた差鴨居とすることもできる。          

④ 引き戸の場合、通常、は、敷居・鴨居の芯振り分けで彫り込む柱芯、敷居・鴨居芯が基準となるため、仕事に間違いが起きにくい)。 を彫り残した部分を樋端(ひばた)と呼ぶ。 の深さは、鴨居は5分(約15㎜)、敷居は仕上がりで0.5~0.6分(約1.5~1.8㎜)程度。 敷居溝には、一般に、磨耗を防ぐため堅木の埋め樫(うめがし)や塩ビ製敷居すべりを張るので、自体の深さは1分(約3㎜)。註 樋端芯振り分けのとき、引き戸芯振り分けには納まらず、内外のどちらかに寄る。建具を芯振り分けで納めることもできるが、溝彫りの墨付けに対して、適確な指示が必要。その場合も、材芯からの寸法指示が適切。材の端部からの寸法指示は間違いを起こしやすい。一般に、木造軸組工法では、墨付けは、常に、材の芯からの寸法で行う。

溝の形状は、一般に戸の見込み寸法に応じて決めるが、地域によって異なる。 関東地方の通常の引き違い戸の敷居・鴨居形状例は下図(単位は寸表示)の通り。 註 戸と戸の隙間を1分(3㎜)、溝幅7分(21㎜)とした寸法であり、ガラス戸、板戸、フラッシュ戸、障子に共用できる(見込み6分仕様の伝統的な襖も含む)。

註 建具の見込み寸法が1寸2分(約36㎜)を超える場合は、溝幅を8分(約24㎜)以上とする。レール・戸車式の引き戸では敷居の溝は設けないが、平戸車の場合は溝あり。

⑤ 開き戸の場合は、戸当り柱・方立・鴨居に設ける。真壁では、敷居は平が一般的だが、靴摺り・戸当たりを設けることもできる。 註 建具の位置は任意に設定できるが、指示に適確さが必要。材の芯に戸当りを付けると間違いがない。  戸当りは、幅8分~1寸×出3~4分程度。戸当りの取付けは、丁寧な場合は小穴を突く。

⑥ 雨戸は、柱の外側に、雨戸用の1本溝の敷居・鴨居を本体の敷居・鴨居に小穴を突き取付ける。

⑦ 外部などで建具を多重に設ける場合(柱間に障子を備え、さらにガラス戸、網戸を備えるなどの場合)、柱の外側に縦枠、敷居・鴨居を取付ける。 註 ⑥⑦の方法は、室内でも応用可能。外部ではレール・戸車式として、敷居に水勾配を付ける。

⑧ アルミサッシとする場合は、開口部の建具構成によって、内付け、半外付け、外付けを使い分ける。柱間に障子などを建て込む場合は外付け、ブラインド、カーテンなどの場合は半外付けまたは内付け 註 アルミサッシは、外部大壁納めを前提にした断面であるため、外部真壁の場合、いずれを用いても、取付け用のつば部分が露出する。つばを隠すには、枠の外側に見切縁を取付ける。                        

 

「付録2-2」へ続く               


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「付録2 日本建築の開口部と建具・概要-2」

2019-02-26 10:21:30 | 日本の木造建築工法の展開

 付録2 日本建築の開口部と建具・概要・・・建具の種類、納めかた 続き

 

 3.大壁の開口部:枠回り

大壁仕様の場合も、枠の取付けの点で柱幅を基準とする方が適切である。

 大壁仕様の枠回りの基本

① 建具の納まる部分(縦枠、敷居・鴨居)と、壁の見切になる部分(見切縁、額縁)で構成する。 縦枠の見込み寸法は、柱幅になるため、柱をそのまま使うこともできる(柱を仕上げておく必要がある)。 註 見切縁を一体の材とすると、見込み寸法が大きくなり、良材を用いても狂いやすい(反る)。  縦枠、敷居・鴨居には、一般にスギ、ヒノキ、マツ、ツガ、米ツガ、米マツなどが使われ、額縁には、縦枠、敷居・鴨居と同材にする場合と、堅木を用いる場合がある。註 の反りを考慮し、鴨居木表上端側敷居木表下端側にする(開口側が木裏となる)。 額縁は、縦枠、鴨居に小穴を突き納める。額縁壁しゃくりを設けると壁の納まりがよい。

② 縦枠敷居・鴨居の見込み寸法は、軸組の柱と同一にし、縦枠を先行して敷居・鴨居を取付ける。一般に、縦額縁(見切縁)・横額縁(見切縁)の見込み寸法を同寸として、隅部は留めで納める。留めは最低でも下図の仕口にしないと留め面に隙ができる。 

③ 縦枠敷居・鴨居無目材の見付け寸法は、一般に1~1寸5分(約30~45㎜)以上。 額縁の見込み寸法は壁厚により決まるが、見付け寸法は任意(見えがかりによる)。

④ 引き戸では、敷居・鴨居を彫る。真壁納めの場合に同じ(真壁仕様の枠回りの基本④項参照)。

⑤ 開き戸の納めは、真壁仕様の枠回りの基本⑤項にならう。戸当りを、と一体に加工する方法もある(確実ではあるが、材寸が厚くなる)。

⑥ 雨戸多重の建具を外側に設ける場合は、真壁仕様の枠回りの基本⑥⑦項にならう。

⑦ 外部建具をアルミサッシとする場合は、真壁仕様の枠回りの基本⑧項にならう。大壁の場合、アルミサッシのつば部分は、壁に隠れる。

 

  4.真壁から大壁への切換え  

大壁仕様主体の建物内に和室をつくる場合には、枠回りの切換えが必要になる。

一般には、大壁付け柱などを付け真壁風にする例が多いが、畳が小さくなり(特に3尺格子では)、全体に小ぶりの和室になる。以下では、真壁仕様と大壁仕様を併用する場合を想定する。

 真壁~大壁切換えの基本

① 大壁部分の柱も、真壁部分と同じ仕上がり寸法に仕上げる。

② 真壁部分の方立位置、敷居・鴨居を優先的に決める。  大壁側の納まりは、「柱幅の枠+額縁(見切縁)」の構成を原則とする。

③ できるだけ、部屋の隅部は壁にする。

④ 隅を壁にせず、真壁大壁が一面で連なる場合(和室と大壁の洋室が全面開口で連なる場合など)は、間仕切部の両端の方立を添わせ、大壁側の壁を方立に納め、敷居・鴨居方立で受ける。大壁側の縦額縁は省く(下り壁横額縁で止まる形をとる)。

⑤ 間仕切部の一部に設ける開口部では、真壁部分のを利用し、縦額縁に小穴を突き取付ける。   

 

 5.枠回り材:造作材の組み方 現在可能な施工法

 木造軸組工法の場合、真壁仕様の組み方、取付け方法を基本と考えると決めやすい。見えがかりだけを優先した簡易な取付けが多いが、長年のうちにかならず狂いが生じる。

真壁仕様の場合  各項目の[a]、[b]などの囲み記号は、勧められる方法を示す。

鴨居の取付け  a あるいは方立鴨居の形状を彫り込み、片方の彫り込みを深くしておき、やり返しで納める大入れの方法。手間がかかる丁寧仕事。  [柱間の寸法に合わせた長さの鴨居をつくり、両端木口に1分(約3㎜)程度のをつくりだし、に枘穴を彫り、柱間を若干開いて鴨居を納める。仕口に隙間ができない一般的な確実な方法で、専用のジャッキの応用で柱間を開く工具もある。 c 片方の端だけ枘をつくりだし、他方は上面から釘打ち止め。 d 柱間の寸法の材を上面から釘打ち止め、L型金物を添える場合もあるが狂い、隙間が生じやすい。

鴨居の途中   鴨居の長さが9尺(2,727㎜)を越えるときは、梁・桁から吊り束で吊る。吊り束は、寄せ蟻で取付けるのが確実。

 納まり詳細図(理工学社)より

 

納まり詳細図集(理工学社)より 寸法単位:㎜

敷居の取付け  [a]柱間の寸法に合わせた敷居をつくり、敷居の取付く一方の柱と敷居の木口に2個の待ち枘の穴を彫る。もう一方の敷居木口に、1個の待ち枘の穴と横栓の穴を彫る。柱の待ち枘の穴に、堅木製の待ち枘を植え込み、敷居を落し、横栓を打つ。近世以降、一般に行なわれてきた確実で丁寧な仕事。                      [b]柱間の寸法に合わせた敷居をつくり、両端に待ち枘を設け落し込む。  [c]柱間の寸法に合わせた敷居をつくり、横栓の穴を、敷居両端の木口に彫り、横栓打ち。  [d]柱間の寸法に合わせた敷居の両端の木口に1分(約3㎜)程度のをつくりだし、柱に彫った枘穴に横から入れる。 註 a~dでは、敷居の長さを、柱間の寸法より僅かにきつめにつくる。   柱間の寸法に合わせた敷居をつくり、側面から釘打ち。最も簡易な仕事。  f 窓などの場合、鴨居のbと同様な方法。   g 敷居の形状なりの深さ1分程度の彫り込みを設け、下からすくい入れて下面にを打つ。手間がかかる。納まりはきれいだががたより。 

敷居の途中   粗床面あるいは大引根太上に飼いものを入れて調整。埋樫(うめがし)敷居すべりを入れるときには、溝面で釘打ちまたはビス留めとすることもある。

 

 大壁仕様の場合

枠+額縁の構成とする場合を想定。取付け下地として、柱、半柱、まぐさを使う。註 大壁仕様の場合、加工場で枠・鴨居・敷居を組み、現場に搬入、飼いもので調整、釘留めとすることもある。

縦枠鴨居   [a]真壁仕様の柱への鴨居取付け法dにならい、1分(約3㎜)程度の出の枘を鴨居両端の木口につくりだし、縦枠に彫った枘穴に組み込み枠裏側から釘打ちまたはコーススレッド締めとする。 b 鴨居縦枠に突き付けで納め、枠裏側から釘打ちまたはコーススレッド締めとする。最も簡便な方法。狂いやすい。

縦枠下地   a 材の側面:見付け面に額縁取付け用の小穴を突き、小穴部分で下地のまたは半柱に斜めに釘打ち。  b 半柱側からコーススレッドで留める。  c 縦枠の見込み面に9㎜φ×深さ10㎜程度の穴をあけ、釘打ちまたはコーススレッド留めの上、埋木。塗装仕上げで用いられる。

鴨居下地   [a]鴨居の側面:見付け面に額縁取付け用の小穴を突き、小穴部分で下地のまぐさに斜めに釘打ち。  b まぐさ側からコーススレッドで留める。  c 鴨居の見込み面に9㎜φ×深さ10㎜程度の穴をあけ、釘打ちまたはコーススレッド留めの上、埋木。塗装仕上げで用いられる。

縦枠敷居   [a]真壁仕様の柱への敷居取付け法dにならい、1分(約3㎜)程度の出の枘を鴨居両端の木口につくりだし、に彫った枘穴に組み込み、枠裏側から釘打ちまたはコーススレッド締めとする。          b 敷居に突き付けで納め、枠裏側から釘打ちまたはコーススレッド締めとする。最も簡便な方法。狂いやすい。

敷居下地   一般には、敷居側面から荒床に向かって斜めに釘打ちする例が多い。

額縁の取付け  a 額縁に設けた壁しゃくり部分から縦枠鴨居に釘打ち。  b 見付け面に9㎜φ×深さ10㎜程度の穴をあけ、枠に釘打ちまたはコーススレッド留めの上、埋木。塗装仕上げで用いられる。

 

 日本家屋構造所載の造作解説図

 

 6.建具実例 

 旧西川家住宅の建具    旧西川家住宅修理工事報告書より抜粋

西川家は、滋賀県近江八幡市にある1706年建設の典型的な近江商人の家。以下に紹介する旧西川家住宅の建具は、近世末~明治にかけて行なわれていた製作法で復刻したもの。

1.板戸 土間店座敷の境の板戸  

 

2.舞良戸 店 表玄関縦舞良戸 

  旧 西川家 一階平面図

3.腰付障子  4枚引き腰付明り障子 奥の間(座敷)西面濡れ縁境 

4.片開き 板戸 台所どま北面   

 

5.板戸4枚(雨戸形式) 座敷~どま境  どまは外部と考えている。座敷どま側にが設けられているが。このは、座敷縁と呼んでいる。これは、その境に設けた雨戸仕様は、外に向くに設ける雨戸と同じ。 

 

 

6.腰付障子および雨戸   2枚引き 腰付明り障子+雨戸2本(戸袋付) 仏間(店裏)南面 

 

上図の明り障子外側雨戸    

 

   現在では上框を設けるのが普通だが、昔の雨戸には縦框だけを樋端に入れるつくりが多い。  縦框相互に召し合わせを設け、猿棒で相互を連結し、はずれを防止している。  板の継ぎ目は内側で目板張り。 の仕口は、きわめて丁寧。

 

 参考 障子について

元来は、衝立(ついたて)や襖の総称。近世以降、格子戸に薄い和紙を貼った明り障子(あかりしょうじ)を、障子と呼ぶ。 四周にをまわし組子(くみこ)を格子状に組み和紙を貼る。  縦框は見付 9分~1寸1分(約27~33㎜)×見込通常1寸(約30㎜)、組子は見付2~3分(約6~9㎜)×見込5分(約15㎜)程度。組子に直接取付ける場合と、付子(つけご)を回す場合がある。 材料は、スギ、サワラ、スプルスなど。

 代表的な形状 

腰付(こしつき)障子:高さ1~1尺2寸程度の腰を設ける。腰障子とも呼ぶ。  腰高(こしだか)障子:高さ2~3尺程度の腰を設ける。高腰障子とも呼ぶ。  水腰(みずこし)障子:腰を設けない障子。「見ず腰(腰が見えない)が転じたという。  猫間(ねこま)障子:上げ下げ障子。障子にガラスを組入れ、内側に、開閉できる小障子を設ける。  雪見(ゆきみ)障子:ガラス無しの場合を猫間、ガラス入りを雪見と呼ぶ、という説もあり、用語は一定していない。指示にあたり、確認が必要。

桟の割付は、かつては、和紙の規格(半紙判:約8寸、美濃判:約9寸)を基準としたため、一段あたり4寸、または4寸5分程度になる。現在は幅950㎜程度の紙があり、割付は自由。 なお、桟の割付けは、開口部の光の強さの調節、部屋の方向性などを考慮して決める。 

  通常の障子 雪見障子     雪見障子       普通の障子(付子なし) 

 

 

 


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「付録1 日本の木造軸組工法の継手・仕口」 日本の木造建築工法の展開

2019-02-22 10:50:35 | 継手・仕口

 PDF「付録1 日本の木造軸組工法の継手・仕口」 A4版8頁 (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

付録1 日本の木造軸組工法の継手・仕口 若い方がたのために

      (付録1-2 継手・仕口の実際 土台~2階床組~軒桁  2020年3月投稿記事トップへのリンク)

継手・仕口の基本原理

継手・仕口の定義       文化財建造物伝統技法集成(文化財建造物保存技術協会刊 )より転載

継手とは、一材の長さを増す(材軸方向に継ぐ)ための工法、叉はその部分をいう。木材の長さには限界があり、また必要とする材長の用材があったとしても、運材の難易度や経済性から適宜な長さの材を求めて、これを継ぎ合わせた方が有利な場合がある。規格化された市場品が容易に手に入りやすくなればなおさらである。

仕口とは、二材以上の材を片方または相互に工作を施して組み合わせる工法、叉はその部分をいう。仕口は日本建築の特徴の一つで*、これによって複雑な部材の構成が可能になる。

釘や金物によって強制的に結合する方法と異なり木材を巧みに組み合わせるので、外力に対して見かけよりも遥かに建物全体の耐力が大きい。 二材以上の材が組み合わさった状態、叉はその部分を組手(くみて)、一材に他材が差さる状態、叉は部分を差口(さしくち)と言う。 * たしかに日本建築の特徴ではあるが、ヨーロッパにも同様の接合法がある。

継手の条件  接合箇所が、引いても、押しても、曲げても、捻っても、長期にわたりはずれず、一方にかかった力を、できるかぎり相手の材に伝えられること。力の伝達の程度は、継手により異なる。

継手の位置 通常、継手は横材において、材の延長のために設けるが、継手の位置は、次の場合がある。 ① 横材を支持する材(柱あるいは受材)の上で継ぐ  ② 横材を支持する材(柱あるいは受材)から持ち出した位置で継ぐ(持ち出し継ぎ)

一般に、継手位置では力の伝達は途切れると見なしてよく、したがって、継手位置が支点になると考えられる。それゆえ、持ち出し継ぎは、大きな力が伝わる材(ex 梁や桁)には不適である。持ち出し継ぎで大きな力を伝えられる継手は、きわめて限られる。

 

註 横材の継手位置について 荷重によって材に生じる曲げモーメントは、下図のように材の架け方(支持方法)によって異なる。

 

 材断面同一、各支点間の距離同一とした場合、等分布荷重による最大曲げモーメントは、次の関係にあると見なすことができる。  m1>m2>m3≧m4≒m5 ∴材の必要断面も A>B>C≒C′になる。

 

持ち出し継ぎの場合は、通常、継手位置が支点になるので、垂直の荷重に対してだけならば継がれる材の長さが短くなり、材寸は小さくて済む。実際、そのように記載されている木造のテキストもある。

しかし、横材:梁・桁は、単に荷重を受けるだけではなく、受けた荷重による力を柱へ伝える役割を持つ必要があり、持ち出し継では、継手位置で力の伝達が途切れ柱に伝わらない。  それゆえ、古代~近世では、梁・桁の継手は支持材(柱や受材)位置に設けるのが普通である。  中世以降、化粧材持ち出し位置で継ぐことが増えるが、構造に係わる材の例は少ない。たとえば追掛大栓継ぎは、化粧材を持ち出し位置で継ぐ場合に、継手箇所での材の不陸や暴れを避けるために用いられる例はあるが、構造に係わる材に用いる例はない(次頁以降参照)。 追掛大栓継ぎを構造材に用いるようになるのは、近代~現代になってからのようである。 

以下に、中世に使われた継手の諸例を、文化財建造物伝統技法集成(文化財建造物保存技術協会刊 )の中から抜粋して紹介する。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

継手の種類・概要

継手の原理 ① 互いの材の全体を、上下または左右対称に、鉤型に加工して互いを引っ掛ける。一般に相欠きと呼ぶ。布継ぎ略鎌追掛大栓継ぎ金輪継ぎなど(赤字の継手は、継いでも一材同様になる)

② 材の端部を凹凸に逆対称に加工して、片方を他方に落し込む。 蟻継ぎ鎌継ぎシャチ継ぎなど

 

 

 この二つの継手は、継いでも一材と同じ強さを保てる

 

継手に付け加えられる端部加工

 通常、上下左右の動き捩れはずれなどの防止のために、基本形に端部加工を追加する。

 

 

 

仕口の条件接合箇所が、引いても、押しても、曲げても、捻っても、長期にわたりはずれず、一方にかかった力を、できるかぎり相手の材に伝えられること。 

仕口の種類仕口の基本形は、蟻掛け枘差し

仕口に付け加えられる端部加工通常、上下左右の動き、捩れ、はずれなどの防止のために、基本形に端部加工を追加する。

蟻掛けに付け加える加工

 

註 胴突は胴附(付)と書くのが正しいという。英語ではshoulder:肩

 

枘差しに付け加える加工 

 

 

 

継手・仕口の加工(刻み(きざみ)

継手・仕口の加工のことを、刻みと呼んでいる。  継手・仕口は、木材の弾力性・復元性、材相互の摩擦を利用するため、相応の加工精度が必要。 現在は、加工機械で大体の継手・仕口が加工できる(追掛け大栓継ぎ、金輪継ぎも可能になった)

一般に、継手・仕口を刻める職人がいなくなった、あるいは、継手・仕口の加工に手間がかかるから、継手・仕口を使った建物はつくれない、と言われているが、事実ではない。刻める職人は各地に居り、また各種加工機械の出現で従前のようには手間もかからなくなっている。  継手・仕口による建物が少なくなった理由として、①設計者が、継手・仕口の存在と継手・仕口の原理を忘れてしまったこと、②手間の省略を、工程、工期、工費の《合理化》と見なす傾向があること、が挙げられる。

 

継手・仕口の下木(したっき)、上木(うわっき)

継手・仕口は、先に据える材(受ける材)後から据える材(載せ架ける材)とで構成される。 現場で先に据える材(受ける材)下木後から据える材(載せ架ける材)上木と呼ぶ。 上木下木は、現場でどこから組立てを始めるかによって決める(⇒番付)。

 

継手・仕口の呼称

追掛け大栓継ぎ、金輪継ぎなどを除き、継手・仕口の呼称は、以下のように付けられている。

a)形状による名称       蟻  鎌  腰掛け  枘差し  栓  楔(くさび)   目違い など

b)形状に作業の内容を付ける  大入れにする   胴附を設ける  割楔(わりくさび)で締める  込み栓を打つ    シャチ栓を打つ(差す) 蟻落とし  寄せ蟻  蟻掛け など

c)部位の名称に形容詞を付ける 長(なが)ほぞ  短(たん)ほぞ  小根(こね)ほぞ  平(ひら)ほぞ (または横ほぞ など

d)a)b)c)を組み合わせる 腰掛け 鎌継ぎ←鎌継ぎ+腰掛け  腰掛け鎌継ぎ 目違い付き←腰掛け鎌継ぎ+目違い  小根枘差し 割楔(わりくさび)締め←小根枘差し+割楔締め  小根枘差し割楔締め 目違い付き←小根枘差し割楔締め+目違い              

を用いて継ぐときは蟻継ぎを用いて他材に載せ架けるときは蟻掛けのように呼ぶ。 継手・仕口の呼称は、地域、大工職により異なる(茨城では蟻落とし下げ蟻と呼ぶことがある、など)。 設計図には、呼称だけではなく、簡単な図を示すと混乱が起きない。

 

参考 日本家屋構造所載継手・仕口解説図

 

 

日本家屋構造は、高等工業専門学校向けの教科書。 継手・仕口の諸相が解説され、若干その効能について触れてはいるが、どのような場合に使うかの説明は少ない。 ただ、次頁のような手の込んだ方法についての解説はかなり詳しく書かれている。 高木家の差鴨居に同様の差口があるので、江戸後期頃から増え始めたのではないかと考えられる。

 

 

鴻の巣(こうのす)  「・・・右図の如く、横差物を大入れに仕付け、その深さは柱直径の八分の一ぐらいにして、(い)(い)の如く柱の枘穴左右の一部分を図の如くのこし他を掘り取り差し合す。 この如くなしたるものを鴻の巣(こうのす)といふ。

また鴻の巣をその差物の成(せい)(丈)の全部を通して入れることもあり。れ全く柱の力を弱めざるのみならず、その差物の曲(くるひ)を止め、かつ(ろ)の穴底に柱を接せしめを堅固ならしむるなり。 本図は二階梁の三方差にして斯くの如き仕口にありては、一方桁行シャチ継ぎとなし、梁間の方を小根枘差とす。(は)の込み栓を(に)の穴中より差しかつ(ほ)の切欠きに(へ)の下端を通しての脱出(ぬけいで)するを防ぐものとす。」  註 鴻の巣は、香の図の訛り。 香の図 香合せ点取り表の形(下図は一例) 刻みの形がこの形に似ていることからの名前

「世界大百科事典 10」平凡社

 

 

 参考 ヨーロッパの木造建築(軸組工法)の継手・仕口

人が現場で考えることは同じ。それゆえ異なる地域で同じ方法、似た方法が考案される。 技術の習得は現場で行われるもの。机上で考える際も、常に現場を念頭に置くことが必要。 机上だけでの考えが現場の考えを差配するようになったとき、技術は衰退する。

 

    

 

△ スイスの継手・仕口例 Fachwerk in der Schweiz より  △ ドイツの継手・仕口例 Handverkliche Holzverbindungen der Zimmerer より

 


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「Ⅰー2住まいの基本の形, 3既存の地物や近隣への作法」 木造建築工法の展開

2019-02-18 18:12:10 | 日本の木造建築工法の展開

  「日本の木造建築工法の展開」   

 PDF「Ⅰー2住まいの基本の形, 3既存の地物や近隣への作法」 A4版7頁 (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 

 Ⅰ-2 住まいの基本の形・・・・住まいは、建物づくりの原型  

  最近、住宅を言い表すときに3LDK、2DKなどという言い方をします。これは、住宅とは、生活に必要な部屋数(living room)、(dining room)、(kitchen)の組み合わせ方で決まる、という考え方が広まっているからだと思います。そのため、全体の面積の大小にかかわらず部屋数の確保にこだわり、部屋の大きさが小さくなる例をよく見かけます。 

  しかし、元来、住まいの持たなければならない基本的な性格は、大地の上に(あるいは世界の中に)、自分たちが安心して閉じこもることのできる空間を確保することにあります。その空間から外の世界へ出てゆき、そしてふたたびそこに帰ってくる、生活・暮しの根拠地・拠点、拠りどころとなるかけがえのない空間、と言えばよいでしょう。この視点に立つと、見え方が変ってきます。   

 そのような空間をどのようにつくるかは、地域により、そして暮しかたによって異なります。

 遊牧生活の人びとは、旅の先々で根拠地を簡単につくれる折りたたみ式のテントが住まいです。 ある場所に定住して暮すならば、木の豊富な地域の人たちは木でつくり、木のない地域では土でつくり、石が得やすい場所では石でつくる、つまり、身近で得られる材料で空間をつくるのです。

 下の図と写真は、敦煌近在の農業用水路(運河)沿いの集落で見た普通の農家の住宅ですが、主要部は土でつくられています。このつくりかたは、現在も黄土高原では普通に見られます。  

 この住居は、まず四周の囲い:塀をつくることから始まります。 足元の地面の土を練り形枠内に5~10cmほど詰めて叩き締め、それを繰り返してゆく版築(はんちく)が普通ですが、日干し煉瓦を積む場合あります。註 版築は、日本では奈良時代に地盤造成に使われた。また、築地塀にも実例を見ることができる。

  には出入口が一箇所あり、が所定の高さまで達すると(3m程度)、出入口には頑丈な木製の板戸が取付けられます。 その段階で、部屋がつくられていなくても、暮し始めます。安心していられる場所が確保され、そこでテントを張ってでも暮してゆけるからです。(室)はゆっくり時間をかけてつくってゆきますが、土の壁に楊樹(ようじゅ)の丸太を架け、屋根がつくられます。    

 

写真説明   上段 版築の様子(別の住居の塀の新築中)  中段 上掲の住居の塀(囲い)の内側   下段 上掲の住居の房(室)の内部              

 

 下は、兵庫県の中国山地にあるわが国の最も古い住宅遺構の一つ、古井家(所在地 兵庫県宍粟(しそう)市安富、室町時代末:15世紀末建設)の平面図と外観及び内部の様子です。    

 建物は壁で塗り篭められていて、主出入口は一つ、窓は小さく閉鎖的な空間です。この建物の屋根を取り去ると、中国西域の住宅と同じような塀で囲まれた空間が表れます。

  

  南 面       日本の民家農家Ⅲ (学研)より      平面図       日本の民家 農家Ⅲ (学研)より 

 

 東~北面                             桁行断面図     日本の民家農家Ⅲ (学研)より 

 

 おもて 西面を見る               にわからちゃのまを見る  モノクロ写真は 古井家住宅修理工事報告書 より

  この二例は、住まいとしての基本は同じで、材料と屋根の有無が違うだけ見ることができます。中国西域が雨の多い地域ならば、囲いの上全部に屋根をかけるつくりになっているでしょう。

 

 

 上の図に、住まいの原初的な例を集めてあります(川島宙次著 滅びゆく民家 より)。

 ①の出作り(でづくり)小屋というのは、焼畑(やきはた)農業が盛んであったころ、麓の住まいからの往復の手間を省くため、高地にある営農地のそばに建てた仮の小屋です。

 これらに共通していることは、いずれも出入口が一つの一室:ワンルームの建屋であり、そのワンルームの中を、暮しの場面に応じて使い分けていることです。

 その使い分けは、出入口との位置関係で、おおよそ、の三つのゾーンに分かれることが読み取れます。そしてそれは、神社の構成にも言い得るのです。神社は神の住まう家だからです。そのうち①②③では三つのゾーンは明確な仕切りで区画されていませんが、④⑤ではB、Cは、目に見える形で区画されています。

 ここに載せた例は、いずれも川島宙次氏による調査に基づいた記録ですが、おそらく縄文・弥生期の竪穴住居もまた同じような使われ方、使い分けがされていたものと考えられます。

 これらの例は、ワンルーム自体が小さい場合ですが、規模が大きくなると、はっきりとした間仕切でゾーンが区画され、部屋として分化します。その場合、初めに分化するのはCのゾーンです。

 左頁の古井家の平面図で、にわは土間、おもては板の間、ちゃのま、なんどは竹すのこ敷きで莚(むしろ)を敷いていたようです。にわおもての境は板戸が1枚開くだけ、にわちゃのま境は常時開いています。なんどへはちゃのまからしか入れません。

 このことから、にわゾーン、ちゃのま、そしてなんどという使い分けで、家人の日常の暮しは、主に、にわ、ちゃのま、なんどで営まれていたと考えられます。

 この建物の建てられた頃(15世紀末)、古井家は村役を務めていて、主に接客用(武家の接待)に使われる特別なゾーンとして「おもて」が設けられていたのです。これに対して、先にあげた五つの例は、規模も小さく、家人の暮しだけを考えればよいため、のゾーンは必要ないのです。 現在でも、農家の住宅には、寄合いなどを目的としてのゾーンを設ける例を見かけます。

 

 このように、古い時代の日本の住居の建屋は、一般に閉鎖的な空間になっていますが、同じ古い時代の建屋でも、寝殿造と呼ばれる上層貴族の住宅の建屋は、きわめて開放的なつくりです。

 下の図は、9世紀に建てられた藤原氏の邸宅東山三條殿(ひがしやまさんじょうどの)の復元平面図と、寝殿造での生活を描いた源氏物語絵巻の一部です。建屋の四周は、絵のように、ほとんど開放されています。

 

日本建築史図集(彰国社)より

 

  

 このような開放的な建屋がつくることができたのは、敷地全体が塀で囲まれているからです。の中は自分たちだけの世界になり安心して暮せるため、建屋を開放的にすることができるのです。

 農家の住宅でも、中世から近世になるにつれ、屋敷を塀や生垣、防風林などで囲み屋敷を構えるようになり、それとともに建屋が開放的になってきます。農家住宅に多い一文字やL字型の縁側は、屋敷の確立とともに現われます。屋敷の中では気がねなく振舞うことができるようになったからです。

 敷構えがある場合には、建屋だけが住まいなのではなく屋敷全体が住まいなのです。

 

 以上見てきたことから、住まいをつくるときに考えなければならない要点が見えてきます。それを要約すると、次のようにまとめられます(それは、建物づくり一般に共通する原理でもあります)。 

① 住まいの基本は、安心していられる空間:ワンルームを、外界の中に確保すること。  ② ワンルームの大きさ:面積は建設場所:敷地の大きさによって違う。  ③ ワンルームには、外界に通じる出入口:玄関を一つ設ける。  ④ ワンルームの中の使い分けは、出入口との(心理的な)位置関係で自ずと決まる。  ⑤ 使い分けが間仕切られて部屋になるかどうかは、ワンルームの大きさにより決まる。

 ワンルームの大きさには、これでなければならない、という推奨値はありません。建屋の大きさは、敷地の大きさと予算で決まりますから、あらかじめ決めた部屋数を、建屋の大小にかかわらず設けようとすると、たとえば、小さな建屋に部屋数をそろえようとすると、部屋が小さくなり、使い勝手が悪く、暮しにくく、転用もできなくなってしまいます。

 それゆえ、間取りを考えるにあたっては、次の手順を踏むことが望ましいのです。

① 建屋の大きさに応じた使い分け方:暮し方を考える。  ② その結果、どのような部屋が分化してくるか考える。 

 しかし、このような建物を、人々は好き勝手につくったのではありません常に、建物をつくる場所にある既存の地物や、すでに暮している人びとに対して気づかうことを当然としています。人びとの間には、ある場所で暮してゆく上の了解事項・作法があったのです

 

 

Ⅰ-3 既存の地物や近隣への作法・・・・心和む町並はどうして生まれたか

 1970年代ごろから、町並の景観や修景などが大きな話題になってきます。日照権をめぐる裁判、景観悪化をめぐる騒動なども、このころから多発するようになります。

 江戸時代の姿を残す街道筋や町並が伝統的建造物群として保存地区に指定される制度も、このころからです。

  

 福島県 大内宿                                   長野県 妻籠宿  妻籠宿 その保存と再生(彰国社)より

 このことは、逆に言えば、新しくつくられる建物が、隣人に迷惑をかけ、景観・町並を乱すつくりになる例が増えてきたことを、人びとが身をもって知り始めたことを示しているのです。

 このため、建築にあたっての条件を規定した建築協定などを設ける例が増えています。協定のなかみは、たとえば壁面の境界線からの後退距離の指定、街路側の建物の高さの規定、屋根材や壁材など外装材の指定、外装の色彩の指定、あるいは塀や垣根の指定、などです。

 しかし、その協定に従うことで、かつての町並同様の質を確保できるか、というと、必ずしもそうではないことは、いくつかの事例で明らかです。

 奈良県橿原(かしはら)市の今井町(下図)は、伝統的建造物群保存地区に指定され、改造・改修・新築にあたり、少なくとも見える部位は、重要文化財に指定された建物に似た外観にすることが求められます。

 その結果、あたかも時代劇のセットのようになり、その町で現在暮す人びとの活き活きとした生活の息吹きが感じられない町になってしまいました。

今井町町並図  日本の民家 6 町家Ⅱ(学研)より

 大内宿妻籠宿など、他の伝統的建造物群保存地区に於いても同様な事態が生じています。また、建築協定の下で開発された新興住宅地も、それによって町並の質が向上したとは言いがたいのが現状です。

 建築協定などを制定しても、かつてのような町並が生まれないのはなぜなのでしょうか。

 それは、それらの方策が、町並の成立過程についての認識を欠いているからなのです。町並は、ある時突然できあがるものではなく、長い年月をかけてつくられるのです。別の言い方をすれば、常に変貌をとげるのが町並なのです。

 建物の外観を過去の時代につくられた建物の形に似せるということは、この時間の流れを止めることに等しく、その結果、「現在」の感じられない時代劇のセットを思わせてしまうのです。

一方で、地域によると、江戸時代末に建てられた建物から、昭和初期の建物に至るまで、各時期につくられた建物が町並をつくっている町が残っています。関東近辺では、群馬県桐生市、栃木県栃木市などが例として挙げられるでしょう。

 そこでは、江戸時代に建てられた商店があり、明治時代の土蔵造があり、大正から昭和にかけて文様を打ち出した鉄板で被った建物があり、あるいは煉瓦造があるなど、材料も形も色彩もさまざまな建物が並び、しかし、好ましい雰囲気を醸しだしています。

 質のよい町並をつくる要件は、使っている材料や、形や、色彩・・・ではないのです。

 質のよい町並が生まれるための建物づくりの要点は、建て主と設計者のマナーにあるとえるでしょう。

 それは、新に建物をつくるにあたって、建て主ならびに設計者は、そのときすでに敷地周辺にあるもの、それは、隣地の人の住まいかもしれず、樹林かも知れませんが、その存在を尊重する、というマナー:作法、すなわち、向う三軒両隣の存在を尊重する、ということです。

 隣人は、そこですでに長いこと暮しています。樹林はそこで長い間生きています。ことによると鳥や昆虫などの棲家かもしれません。

それを、新しい建て主はもちろん設計者も、無視してよいという理由はどこにもありません。

 そしてそれは、それを規制する法律があるかどうか、法律がないから構わない、と言った類の判断ではないのです。それ以前の判断、それを越えた判断、それゆえに作法:マナーなのです。

 実は、これは目新しいことではなく、近世までの人びとにとっては、あたりまえのことでした。しかし、明文化されていたわけではなく、人と付き合いながら暮してゆくための、互いの暗黙の了解、不文律だったのです。

 たとえば、〇 自分の暮す土地に降った雨の処理は、その土地の内で処理する  〇 隣家の開口部が、これから自分が建物を建てる敷地の方に向いて開いているのならば、その暮しぶりを損なわないように工夫する  〇 隣家の井戸があれば、その近くには厠は設けない・・・   〇 近隣の人びとから愛でられている地物(樹林や風景など)があったならば、その存在を存続させるように努める  などなど。 これらの不文律は地域によってさまざまで(雪が多い、風が強い・・などの特徴)、明治政府の制定した民法は、それらを採集・編集したものと言われています。

 下の図は、京都の指物屋(さしものや)町の町家の間取りを並べた地図:連続平面図(文化5年:1808年ごろ)です。 この町並は、もちろん、一時に完成したわけではありません。  それぞれの家が、似たような平面になっていますが、もちろん、そのようにしなければならない法律や規制があったわけでもありません。

 それぞれの家が、隣家の暮しの存在を尊重しつつ、長年にわたってつくってきた、その結果生まれた町並なのです。

 

 文化5年:1808年ごろの指物屋町 連続平面図    図集 日本都市史(東京大学出版会)より

 この中の、どの家が最初につくられたかは分りませんが、このように全区画に家が建ち並ぶまでには、相当時間がかかっています。

 最初につくられた家の隣に建てる人は、そのときすでにある隣家の暮しを尊重し、その隣に建てる人もすでに建っている隣近所の暮しを尊重する、・・・、人びとが皆、向う三軒両隣の暮しの存在を尊重して新築する、その繰り返しが続いて、結果としてこのような町筋ができあがったのです。

 そして、ある時間が過ぎ、最初のころに建った家の建替えの時期がくる。そのときにはまわりには隣家が建っている。そうなると、建替える人は、隣家の暮しを尊重する・・・。この繰返しが続いたとき、町家の間取りに一つの定型が現れてくるのです。

 コンプライアンス:法令遵守ということが盛んに言われます。しかし、法令の遵守だけでは、決して、かつてのような、百年後あるいは数百年後、昔の人はこんな素晴らしい建物を、こんな素晴らしい町並をつくった、と称賛される建物や町並は生まれません。

 ここであらためて、この大地の上で、人が暮すとはどういうことだったのか、住まいとは何だったのか、立ち止まって考えてみることは、無意味なことではないと思います。

                                        Ⅰ-2, 3 了                                                       

 

 

投稿者より:次回は「目次」の末尾にあります、「付録1若い方がたのために, 2」を掲載する予定です。

      下記は全20頁あまりですが、歴史的事柄が過半を占めます。 詳細については、建築各部位名で「ブログ内検索」をして頂けたらと思います。

      追記:「付録2 開口部・建具」はページ数が多いため、「付録1」の次の投稿になります。( 2月21日)


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「8月15日によせて」 前半  1981年9月

2019-02-15 09:26:03 | 1981年度 「筑波通信」

PDF「筑波通信 №6」1981年9月 A4版12頁 

   「8月15日」によせて‥‥‥「お国のため」は「公共のため」?  1981年度「筑波通信 №6」 

 いまから36年前の8月15日、私は小学校の3年生であった。正確に言えば「国民学校」3年生である(私の入学の年だったかに改名されたのだ。卒業のときは、再び小学校の名称になっていた)。

 そのとき私は、山梨県の竜王という町にいた。もともとは東京の(その当時の)西のはずれに住んでいたのだが、その町へ、いわゆる「疎開」をしていたのである。

 なぜ「避難」というような言葉でなく「疎開」を使ったのか、興味深い。

 普通「学童疎開」あるいは「集団疎開」の名称が有名であるが、「疎開」という言葉のもともとの意味を知るには「強制疎開」という言葉があったということを思いだすだけでよかろう。空襲などの被害を軽減するため、住人を追いだして家々を強制的にとり壊し空地をつくるのである。もうもうと土煙りが上り建物がこわされてゆく光景を審りながら見ていたのを不思議と覚えている。後になって考えてみると、そこは軍需工場のそばだったのだ。何の被害を軽減しようとしたか、言うまでもあるまい。「学童疎開」もまた、先きゆきの兵員確保のためであったことは、敵の攻撃による兵の損傷の軽減のため隊と隊の間をあけることを「疎開」というらしいから、自ずと明らかだろう。つまり、あたりまえと言ってしまえばそれまでだが、あくまでも学童のためでなく、「国」のため、軍事のため、軍事の都合上の方策を示す軍事用語であったわけだ。こういったもとの意味が忘れられ、ただ「そかい」という「ことば」になってしまうのは、たとえ言葉は風化すのが常だとしても、この場合のそれは、非常に怖いことだと思う。

  その疎開していた竜王という町は、甲府盆地北辺の西のはずれ、新宿を出た中央線が甲府盆地を離れ再び信州へと向い登りだす、丁度そのふもと、富士川上流の釜無川(かまなしがわ)の左岸にある小さな町である。まわりに田んぼがひろがり、北あがりの丘には桑畑、麦畑、そしてところどころにすももの畑があったように思う。そこを横切って蒸気機関車がほえるような汽笛の音をこだまさせて列車をひっぱってゆく光景は、絵になったし、そして夜などはなんとなくもの寂しい気分になったものであった。盆地のへりに位置しているからだろう、冬は雪はめったに降らなかったけれど冷えこみは厳しく、そして夏はかなりの暑さになった。(地図参照)

 その8月15日は、かんかん照りであった。地面は乾ききって、歩くとほかほかと白茶けた土煙りがたつほどであった。私は外にいた。何をしていたのか、それは記憶にない。乾いた土の色だけが昨日のことのように目に浮ぶ。昨年の夏トンコウの街なかを歩いていたとき、ほんとに珍らしいことなのだそうだが、雨がぱらぱらと数滴落ち黄土色の地面にありぢごくの巣のような跡だけ残して消えていった、それを見ていて、どういうわけかふとこの日のことを思いだした。そういえばあの時、空は見事に晴れていた。トンコウの乾ききった空の色や、あたりの土っぽい景色、おそらくそういった光景全体の感じが、日ごろ忘れていた幼き日の一瞬の情景の記憶をゆり起こしたのだと思う。やはりそれなりに、印象として強く残っているのだ。

  そんな日の昼下り、戦争は終った。しかし未だ私には、何の感懐もわかなかったように思う。私の1・2年生のときというのは、後にも書くようにただあわただしいだけで、「お国のため」の戦争が何であるかなどという以前の毎日であったように思う。その後3年の2学期まで竜王で過ごしたのだと思うが、学校で何を数わったのか、まるっきり覚えていない。単に忘れたのかごたごたしていて何もなかったのか、それさえもおぼつかない。

  実際、私の小学校生活前半の思い出というのは、ただもうあわただしいの一語に尽きる。1・2年生のころ(東京にいたわけだが)といえば、登校するとすぐ警戒警報そして追いかけるように空襲警報、サイレンにせかれるようにして、防空頭巾を被って必死になって逃げ帰った。そんなことしか浮かんでこない。みじめなものだ。だから唯一楽しい思い出というのは、疎開先の竜王の野山や小川で遊んだことぐらいである。

 3年の3学期、再びもとの東京の学校へもどった。いまから考えてみれば、教育はめちゃくちゃであった。教科の不当な箇所に墨をぬった。おそらく私たちが教科書に墨をぬった最後の世代ではなかろうか。次の代からは新しい教科書に全部変ったのだと思う。それ以後もずっと、私たちは常に、各種の新しい制度が定着する寸前の不安定の時期を通過してゆく破目になる。旧を新に改めるに伴う混乱の状況を、幸か不幸か味わうのだ。3年から4年にかけて、授業はしょっちゅう休みで、自習と称して、教室のなかでただわさわさするだけの、随分とすさんだ毎日であったような気がする。これまた、みじめである。

 そんななかで、5年と6年の担任となったN先生のことは忘れ難い。もしこの先生に巡り会わなかったら、私の小学校時代は、みじめなまま終ってしまったに違いない。そのときN先生は確か23・4歳、特攻の生き残りだときいた覚えがある。

 この先生が、私(たち)に、ほんとうの「民主主義」を教えてくれたのだと、いまでも私は思っている。色々な個牲や特能をもった私たちそれぞれが、それぞれなりにそれを発揮し、ときにはけんかや口論をしながら、それでもクラス全体の合意のもとで生活をしてゆく、そんななかで、ものごとの判断だとか、人への思いやりだとかを、観念的、標語的でなく、身をもって体得していったような気がする(それがいま、花咲き実をつけたかとなると、多少後ろめたい気もするが)。例えばこういうことがあった。当時お互いにみな貧しかった。6年の修学旅行は箱根行と決って、費用の積立てをはじめた。しかし、散人ほど、それも無理だから参加しないというものがでてきた。そうこうするうち、誰いうとなく、全員で行けるようにするため費用かせぎの内職(いま風に言えばアルバイト)をしようということになり、放課後、行くのを渋った人も舎め(もちろん先生も)、クラス全員でそれをやってのけ(百円ライターより少し大き目の停電用石油ランプづくりだったと思う)全員無事旅行に行ったのであった。私たちには、行けない人のためにやっているという気はなかったように思う。だから、行けないと言った人の名を覚えていない。覚えているのは、とにかく全員参加できたということだけ。幸せな時代であった。よき時代であった。数年前、30年ぶりかにクラスの三分の一ほどが集ったとき、なかの一人が言いだすまで、ほとんどみんなこのことをすっかり忘れていて、そういえば、という話になったものである。いまの学校では、色々な意味で、全くあり得ないことだらけであった。そしてみな一様に、自分たちの子どもの通っている「いまの学校」を、大けさにいえば嘆き悲しんだ。その日私たちは昔のように合唱をして別れたのであった(昔、音楽の時間、晴れていれば決まって外に出て、その辺の田んぼや小高い丘に日かげや日だまりを求めて・・・・その当時、東京にも田も林も丘もあったのだ・・・・思いきり歌うのを常とした。この私さえも。)

  時代の混乱していたときのこの2年間、これは、いま考えてみると、子どもの心に決定的な影響を与えたように思えてならない。観念的でなく身をもって、人が生きてゆく、集団で生きてゆく、そのゆきかたの基礎を、この先生は私たちに数えてくれたのだ。おそらくそれは、先生の戦時中の体験がそうさせたのだと、いま私は思っている。教師は子どもと触れあえる現場こそが大事だから、といって管理職試験の受験をすすめられるのを断っているのだと、その久かたぶりに会ったとき語っていた。

 それから30余年、旧から新への混乱のなかで大人になった私たちが自ら身につけたものから見れば、明らかに「民主主義」は風化してしまったように見える。いや、私たちに言わせれば、新しい制度が定着しだす私たちの数年後からして既に風化は始まっているように見える。いま「私たち」と書いたのは、そういう混乱の時期に少年時代を過ごした世代の「私たち」だ。そう思うのは、私たちの思いあがりか、それとも私たちがもう旧くなったせいなのだろうか。

 私は、そして私たちは、そうは思わない。私たちには、できあがった形式に流されるとか、もっともらしい言説をそのままうのみにするとか、そうすれば気楽でよいと思うのに、どうしてもそうはできないという悪い癖がある。そういう時代に育ってしまったせいか、結果は結果として、むしろ過程を大事にし、またなにごとによらず、自ら納得するまで確かめないではいられないという習性がついてしまっている。決してそれは人の言うことを信用しないというのではない。むしろ人の意見はよくきく方である。ただ、その過程・途中をも納得できない限り(これがあたりまえだと思うのだが)いかに偉い人の言であろうが納得しないだけである。そしてまた、私(たち)は、個人を大事にする。集団で行動するときでも、個人をないがしろにした集団の論理は信じない。あくまでも個々人の了解があって集団が成りたつ、こう考えるがある。形式的あるいは手続きのためにだけの民主主義?は好きではない(先号に書いたしたたな人たちも大体そうだ)。

      

 数年前、30数年ぶりに、竜王の町へ行ってみた。先に掲げた地図は最近の二万五千分の一地形図である。この地図の左上から右下へ斜めに走っている通称甲府バイパスは比較的よく通るのだが、ついぞ町へは寄らなかったのである。実は、この地形図はこの文を書くにあたって初めて見るのである。そのときも全く地図なしで、昔の記憶に頼ればよいと思い、竜王市街を指示する標識に従ってバイパスを下りたのである。しかし下りた辺は全く見慣れない風景である。止むを得ず、川にぶつかるはずだと思い西へ向う。そして、あっという間に信玄橋へ出てしまった。私の昔いたところはその手前だ。こんどはゆっくりともどった。そして、やっとなんとなく見覚えのある街かどに出る。郵便局もあった。だんだん見覚えあるものが増えてくる。というより、私の頭のなかから、目の前に移り変る光景とともに「昔」が発掘されるという感じである。街すじの家々も、私のいたころから大分たっているから改築されたりして変っているにちがいない。なんとなく見覚えがあるというのは、だから個々のものの覚えでなく、いわばその「雰囲気」なのではあるまいか。次いで私は、昔よく遊んだ田や丘の面影を探したが、どこだか分らず、やっぱり道を忘れてしまったのだと思い、あきらめて町を出た。

 町は思いのほか小さかった。いくら車で走ったからといって、あっという間に通り過ぎてしまう。それほど小さい。私の記憶ではかなりのものだった。しかし考えてみれば、あたりまえなのかも知れない。子どもの世界は、小さくても広いのだ

 またあらためて気づいたのだが、まわりに見える山が意外に大きい。それはそうで西に見えるのは南アルプスの山塊だし、北にあるの茅ヶ岳である。しかし当時、確かに山はあったけれども、はるか向うにあったような気がする。もちろんそういう山の名はあとになって知ったのだ。八ヶ岳の名は、それはそこからは見えず、甲州往還をもう少し信州よりへ進んでから見えはじめるのだが、それにも拘らず、八ヶ岳おろしの名でそれを知っていた。冬、峡谷沿いに寒風が吹き下りてくるのだ。

 その当時の私のものの知りかたは、全く先号で書いた番頭のそれに似ていた。私がよく知っていたのは、桑畑のひろがり(その名を思い出せないのだが、桑の実を食べにゆくのだ。うまかった。中央線の向う側には人がめったに行かないからたくさんあるとか、色々詳しかった)、用水沿いの足場の悪い学校への近道、竜王の駅へ行く微妙な近道、駅うらに野積みされている防弾ガラスの山(こするといいにおいがする子どもの宝物)、街すじをはるか南に歩いて行くと林の中に飛行機が隠してあること、そして一見道に見えるが紛れもなく隠し滑走路らしいものがあること(あまり広い道なので驚いた)、などなど専ら遊びがらみのことどもだ。いま考えてみれば、私のなかに、一枚の地図ができあがっていたのである。

 けれども、その地図には、信玄橋の向う岸だとか、街すじを北に上った線路を越えた上の方だとかは描かれてない。橋の向うなど、確かに行ったことはあるのだが、いつも橋の途中から気持が後へ向いてしまって、渡りきるとまた早々に逃げるが如く引返したものだ。それほど長く、どこかとんでもないところに行ってしまうような気がしたのだろう。北のはずれもそうだった。だから私の地図にはのってこない。

 いまこの機会に、あらためて本物の地図をながめてみて、意外と私の地図をそれにあてがうことができて楽しかった。そしてあれはこういうことだったのか、などという発見もあった。いま私たちは、なにかというとすぐ本物の地図を見ることから始めてしまうけれど、ほんとにそれでよいのだろうかと、ふと思いたくなる。本物を見てもよい。要は、その見かた、なにを見るかである。「私(たち)の地図」を本物にあてがうことは、30年も昔の、しかも子どものころのものでさえできるのだから、それは多分易しいことだ。しかし、本物の地図の上に「私(たち)の地図」を見ること、それができるか。けれどもそれをこそ見なければならぬのではなかろうか。その気がないと、その本物の地図に記されていること、道一本にしてさえ、そのほんとの意味が分らないのではないかと思う。本物の地図に記されていることは、いかにも現状の地表の表情:地形図ではある。しかしその大半は人々のやってきたこと:人間の営為の記録に他ならない。そしてその記録の大半以上がまだ本物の地図のなかった時代:あるとすれば「私の地図」しかない時代:のそれだということに気づいてよいと思う、いや気づくべきだ。つまり、地図に記されていることの大半は、本物の地図のなかった時代に生きた人々の、もろにその生きてゆかねばならなかった大地と格闘したそのあとなのだ。後に続く人々はみな、そのいわば上ずみをすくいとって生きてきた。そしてそのことを、ちゃんとわきまえていた。近代になって、それを全くわきまえなくなってしまったのである。いま、本物の地図の上にそれらを見る気のある人たちが(特に町づくりや建物づくりに係わりを持つ人々のなかに)どれだけいてくれるだろうか、考えると悲しくなる。

 先に私は、昔よく遊んだ田や丘の面影を探したが分らなかったと書いたけれど、分らなくて当然であった。本物の地図を見て判ったのだが、どうやら私の探し求めていた当の田や丘の辺を例のバイパスが通っているらしい。我が懐しの遊び場はドライブインやガソリンスタンドに占められ、その上を私白身しょっちゅう通過していたというわけなのだ。

 懐しの町は、だから、万里の長城のようなバイパスと大河のような車の流れによって、ものの見事に南北に分断されている。いまや一つの町ではない。向う岸である。いったい、こういう道路というのはどう考えたらよいのだろうか。

 先の私の竜王での幼き日の思い出をよく見なおしてみると、意外に「道すがら」の記憶だとか、道にからんだ話が多い。しかし、よく考えてみればあたりまえ、道というのは、私たちの子どものころ、そういう場所だったのだ。

 町のなかの道は、単に家々をつなぐ交通のため以上に、人々の交流の揚所だったし、実際道のつくりも家々の表情も、それに相応しいものだった。町と町をつなぐ道だって、私たちが必要あって歩くところだった。通学の途中いつも、我がもの顔に所狭しとばかりねり歩いたものだった。筑波には、いまでも少し奥に入ると、そういう昔ながらのところがあるし、時おり赴く山村などで、道ばたを清流が流れ、おかみさんが洗いものをし、わきで子どもが遊んでいたりするのをみて、そういえば竜王の家の前にも、もうほとんど使ってなかったように思うが、きれいな水が流れていたなどと思いだしながら、悲しいのは習性で、いつの間にか私は道の端を歩いている。車なんて通りもしないのに。

 いま私たちの大半は、こういう道のあったこと、道というのがこういうものであったことを、すっかり忘れてしまった。そして、道とは単に交通の場所だと思って別段不思議に思わない。そういう昔的な道というとすぐに、歩行者専用道路の発想になっでしまう。そこにあるのは、人が安全に通行できる、という視点のみだ。このごろは気分よく快適に人が歩けるためにと称してそれがデザインであると称して、わざと気分を変えるために(と思いこんで)色々と曲りくねらしてみたり、石を置いたり、舗装の色を変えてみたり、そういうことが流行している。残念ながら、それは、そうすることが、道の本質を考えたことなのでは決してない。むしろ、昔の道の方が、たとえ砂利道であろうが、数等秀れていたように私は思う。生活が快適だということは、単に視覚的に楽しいなどということではない。こんなことは、ことあらためていうまでもなくあたりまえだ。しかるに、人の住む場所という場所を、指折り数えあげて機能に分解した結果、道もまたこういうふざけた理解!になってしまったのだ。

 昔の町なかの道は町を一つにまとめる役割をはたしていた。よくいう向う三軒両隣り、それは道を介してのはなしであるし、なんとか小路という類の地番表示も、その道を介してのはなしであった。道によるまとまりがあったのだ。いま、町なかの道は町を分けるものになった。向うは向う岸、あるのは両隣りだけ。それは、いまの住居表示のつけかたに端的に示されている。

 もちろん、こうなった最大の原因の一つは、(道の本質が分らなくなったことに加えて)車の増加である。昔からの甲州街道は、甲府の目扱きを通っていた。というのは正しくない。甲州街道の通っていたところが目抜きになったのだ。街道という街道みなどこでもそうだった。それは必らず町々を通過してゆき、その町に用のない人々も必らずその町を通らねばならなかったし、また別にそれを不都合だとも思わなかった。むしろそのことに、町の人も通りすがりの人も、ともにある種の意義や楽しみを認めていたのではなかろうか。街道もまた、とにかく町と一体のものとしてあったのだ。

 こういう道に車が入ってきたときに、しかも大量に入ってきたときに話が一変する。

 車の流れ、その渋滞。町は道により細かくこまぎれに分断される。そして車の側からみれば、別に用のない町なかで、かといって気晴らしに車を離れてぶらぶらするわけにもゆかず、またそうするには駐車場所を探さねばならず、止むを得ず車にこもっていらいらしながら渋滞に耐えるしかない。その意味で、それは全く無用な「途中」である。自動車という乗物は、だから、出発点と目的(到着)点とにだけ係わる乗物だといってよいかもしれない。よその土地を通過するというより、(たまたまよその土地を通過している)道路の上を通過するにすぎない。(これに対して、先にも書いたが、歩いての移動はもとより、鉄道やバスによる移動は、本人の意志に拘らず、必らず他人との係わりをもつ。よその土地を通過するだけでなく、よその人とも触れあわざるを得ない。そういう「途中」をもたなければ、先に進まない。)

 そういうわけで、町のなかから町にとって不要な車を追いだすこと、車にとって無用なところで滞らないこと、これを一石二鳥的に解決しようとする策:バイパスという発想が生まれてくる。道路は交通の揚所だと考えるときの当然の発想だといってよいだろう。

 バイパスはその目的から、市街地(家のたてこんだ所)を離れた場所に建設されるのが常だ。甲府バイパスの場合、先に掲げた地図の元図を拡げてもらえば一目で分るけれど、東の端から西の端まで、甲府市街地を南回りで大きく迂回している。おそらく、バイパスの当初の目的はいまのところ達しているものと思う。実際、車の立場でいえば、片道二車線になったいま、通り過ぎるにはまことに快適で、逆に甲府市内に行くにはどうしたらよいか迷うくらいである。気をつけていないと通り過ぎる。

 これで一応、問題は解決されたようにみえる。しかしよく考えてみると、それは甲府市内の問題を解決したにすぎないのではなかろうか。なぜなら、このバイパスはとりたてて竜王にとって必要ではない。もともと大きな街道が通っているわけでもないから、車の量もさほど多くなく、別に問題があったわけでもない。そこへ、いわば突如として、万里の長城のような道路と車の大河が出現したのである。町はほぼ完全に二分されたのである。なんのことはない、市街地で不要と考えられたものが、もともと車とは縁の薄かった隣りの小さな町や村に肩替りされたのだ。けれどもそれが、迷惑の肩替わりなのであるとか、町や村を二分するものなのだ、というようなことは、それほど深く考えられたことはないだろう。そういうバイパスは、人家のない田畑・山林などをねらってつくられる。町うちを通過しているわけではない。むしろ空地を通っている、そういう意識の方が強いだろう。

 これは、都会的な感覚からいえば、むしろ当然かもしれない。代替地を用意、あるいは地価(市街地より安い。買う側にとって好都合だ)に応じて買収する、つまり代価を払えばよいと考える。これも考えてみれば都会的感覚だ。けれども、ちょっと考えてみれば直ちに分ることなのだが、田畑や山林は単なる空地ではない。それに依存して暮している町や村に住む人たちにとって、それは自分たちの住んでいる町うちと一体のものとしてあるし、またそういう土地が、何もしないで産物を生みだすわけでもない。土地の二分は生活の分断に等しく、買収はそういう生活をやめろということに等しいし、代替地は初めからやりなおせということに等しい。田畑は決してその初めからから田畑であったわけでない、という単純な事実さえもが忘れられているのである。そこに依拠した生活があるということが忘れられている。そこにあるのは、「土地」ではなく単なる「地面」の視点のみだ。

  こういう計画を考えるとき、せめて、都会的生活形態を唯一絶対とするのではなくそれぞれの村や町にはそれぞれなりの固有の生活の形がある、そのそれぞれの村や町の生活の構造を具体的に、彼等の立場にたつべく、謙虚に知ることから始められないものだろうか。(ほんとは都会のなかでも同じなのだ。村や町に都会的生活がぶつかるときに、問題が顕在化してあらわれてくるにすぎない。)

 それが、先に書いた、本物の地図に「私の地図」を見る、ということなのだ。

 先日のこと、東京・中野の人たちに呼ばれて、区の児童館計画について意見を求められた。見ると、ある空地があり、そこが建設予定地となって、その他の既存の児童館をプロットした地図に、館を中心に半径500メートルの円が書かれている。利用圏なのだそうである。私は、弱ったな、と思った。これは施設の利用圏域なるものをテーマに研究する人たちの常とう手段の応用なのだ。非常に巨視的に見るならば、つまりこれこれの人口の町に、館をいくつぐらい必要とするか、そういったあたりをつけるには、まあよいかもしれない。けれどもこれをいきなり、現実の生活レベルにまで応用されたのではたまったものではない。むしろ、ふざけるんじゃないよ、とさえ言いたくなる。敷地のまわりには当然道が通じているだろう。そしてそれは決して均質ではなく、広い、狭い、人通りが多い、少ない、通学路かどうか、まわりになにがあるか‥‥それぞれ性格があるだろう。子どもたちはそういう道を通ってくるに決っている。そういったことを実際に見るならば仮に館が建ったとき、どのあたりの子どもたちの「私の地図」にその館が組みこまれ得るか、およその見当がつこうというものである。集まるだろう子どもたちの想定さえも確かめもしないで(この碓かめは、自らの目を信ずるしかない)研究者の研究成果:客観的(と称する)データを(徒らに)信じて500メートルの円を書いて、十分に考えたとする、これはもう、なんと言ったらよいのだろうか。おそらくこの計画立案者は、敷地に行ったし、まわりも歩いただろう。しかし、何も見なかったにちがいない。いや見えなかったにちがいない。これは、児童館のなかみ以前の話であるし、またこうである以上当然なかみも推して知るべしであろう。

  先ほど来私は、都会的感覚だとか都会的生活、都会的発想という言いかたをしてきた。それはほぼ、近代的合理主義的な、という意味と同義だとみてもらってよいと思う。そういうものの見かたでは、本物の地図は、本物の地図としか見えず、というより本物の地図としてしか見ず、「私の地図」などという「主観的」なものの見かたは頭から否定されるのがおちである。

 実際、私の受けた建築の教育でも、半径500メートル的知識は多分に教えられはしたけれども、「私の地図」を私たちが持っているということ、それによって生活しているということ(現在も、そして大人も子どもも)、そういうことは、ついぞききもしなかった。「個人」の「主観」は省かれていた。

 かくして、極めてスムーズに流れる道路の狭間に、村や町の人たちが不便を強いられ生活し、子どもの地図に描かれもしないかもしれないような子どものための建物がつくられる。これがまさに現実の客観的事実なのだ。そして、私自身、こんなことを書きながら、甲府バイパスをかけぬけ、その利便を満喫(?)しているではないか!

 もし仮に、ある町・村の田畑を横切ってバイパスを通す計画がもちあがり、ところが土地の人たちが生活の分断をきらって異論をさしはさんだとしよう。それへの対応は先に書いたとおり大体決っている。代書地を用意する、分断された二つの地区をつなぐ代替道をつくる、買収費の他に生活補償金!を積む等々である。それでだめなとき、必らずでてくることばがある。あなたがた、反対するほんのわずかな人たち、その反対のために、実に多くの人たちが不便を被るのだ、「公共の利益」を考えてほしいということばである。最近の例で、名古屋の新幹線騒音訴訟がよい例だ。速度をおとし騒音をさけるべきだというのに対し、判断は、この程度の騒音は「公共の」利便のために我慢すべきだというような趣旨だったように思う。これでは「利益」の享受者の数の多少が天びんにかけられるみたいである。少数意見は少数の異見にすぎず、ことによると多くの場合単なるエゴイズム扱いされる。しかし、ふとたちどまって考えてみると、むしろ多数の方がエゴイズムかもしれないのだ。第一、少数意見が少数なのは決りきった話だ。そこに住んでいるのはその人たちだけなのだから。極端に言えば、その人たち以外が「公共」だというのに等しくなってしまう。けれども、このような「公共」が、この「民主主義」の世のなかに横行しすぎるように思う。そうなると、その「民主主義」のなかみまで疑いたくなる。

 

 (次記事「筑波通信№6 後半,あとがき」に続く)

 (「1投稿の文字制限3万字」を越えるので、前半と後半に分けて掲載します。)


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「8月15日によせて」 後半, あとがき   1981年9月 

2019-02-15 09:25:01 | 1981年度 「筑波通信」

(「筑波通信№6 前半より」続く)

 

 いったい。「公共」とは何なのか。

 「公共」施設、「公共」投資、「公共」の福祉、「公共」の利益・・・・微妙に意味が違うようだ。唯一共通していること、それは、ひびきがいいということだ。字づらからしてなにか「みんなのもの」というような甘いひびきがある。みんな、自分も「みんな」のうちに含まれているかのような幻想をもつ、そういうことばだ。

 しかし、この「みんな」のなかみを考えだすと、とたんにそれはあやふやになる。私に言わせれば、これは極めていいかげんで、それ故また極めて危険なことばである。それが甘いひびきをともなうが故に、なおさらそう思う。

  先日、行政マンと話をする機会があった。住民参加の行政、それが「公共」のためだと考えているという。ただ、多様の住民の意向のなかから「どうやって最大公約数を決めるか」それが問題なのだという。これは一見したところ、良心的なやりかたに見えるだろう。しかし、つまるところこの場合、「公共」とは人々の「最大公約数」だということだ。そこで単純に、「最大公約数」なのだから人々の共通の最低の意向がくまれている、などとよろこんではいけない。最大公約数ということばは、もののたとえにすぎず、人々の意向なるものは、「数」みたいに割り切って考えられはしないのだ。二人の意向を足して2で割ったら平均値になった、なんてことがあり得ないようにあり得ない。建築の世界で「公共建築」という言いかたがある。この意味は、「不特定多数」の人々が利用する建築:学校、病院、図書館‥‥つまり「公共」が利用する建築のことだ。「不特定多数」という言いかたは、個人対応の建築は特定の個人を対象とするが、「公共建築」の利用者は特定できない多数である、そういう見かたからでてくる言いかたである。つまり、この見かたでは、「公共」とは、特定できない大勢の人たちということになる。

 だから、公共建築の研究者たちは、大抵のっけから、その利用者を「群れ」として扱うことが多い。いろんな人がいて、つまり特定できないから、個々の人につきあえない、群れとしてしか見ることができないというわけだ。かくして、人々は「群」としてひとまとめに括られる。統計的に処理される。そこでは、「個人」は消去される。先の「最大公約数」の発想も、構造は基本的にこれと同じである。いずれにしろ、公共を考えるために、「個々人」は消去される。されねばならない。

 そしていま、仮に「公共」=不特定多数の「意向」が定まったとしよう。「公共の論理」が定まった。そうなると、いま大抵その「公共の論理」は(その成りたった過程を離れ)自立性を確立してしまう。簡単に言えば、「公共の論理」が「個人」を越え、「個人」を支配する、つまり「個人の論理」より上位のものとして機能するもののように、あたりまえのように、扱われてしまうということだ。なぜか。おそらくきっと、こういう答が返ってくるはずだ。公共、つまり不特定多数の人々とは、個人の集合であり、その集合から抽出したのが、この「公共の論理」である。故に、個人は公共に包含される、と。

 しかし、それはうそだ。論理のすりかえである。この「公共」理論では、「公共の論理」が「個人」より上位にたつというときになって初めて「個人」が顔を出すのが特徴だ。そのときまで、「個人」は消去され、不特定多数として扱われていたのではなかったか。

  「公共」という言葉が危険な言葉だと私が言うのはこのためなのだ。それが、「個人」を左右し支配するのに極めて有効に機能するのが、目に見えるようだからだ。先の新幹線の騒音問題の例のように、既にそのようになっている。「公共」が「個人」に優先するというのである。

 先きごろの教科書問題が世をにぎわしていたとき、批判派の人たちが、「公共の福祉」をもっと前面に押しだして書かれるべきだと言っているという新聞の見出しを読んで、一瞬とまどった。そんなはずはない彼らがそういうことを言うわけがない、福祉は金がかかりすぎると言っているのに、どうしてか。そうではないのである。記事を読んで納得した。原子力発電とか工業立地とか色々の「公共」投資に対して反対が多い(ためにことが運ばない)が、それは「公共」の利益つまりは「公共の福祉」に反することだ、この「公共の福祉」が(個人よりも先ず)大事であるということを、もっと前面に出して書<べきだ、というのであった。

  あるいは、事態はもうここまで来ていると言った方がよいのかもしれない。

  いま、ひょいと、この「公共」の文字のところを「国家」あるいは「お国」の文字に置き替えたとしよう。直ちに分ることだが、そのまま通用する。論理の構造は何も変ってないのである。36年前そのものだ。いずれの場合をとっても(つまり文字がどうあれ)、「個人」を支配する、あるいは、「個人」が自らを殺して従わねばならないより上位の概念・論理がある、という発想であることに何ら変りがない。

  怖いのは、いまのそれが、「公共」というなんとなく甘いひびきの言葉を使っていることだ。「公共」=「みんな」、この錯覚を巧みにあやつれば、なんでもできてしまう。

  「みんな」の利益になるのに、なぜあなたは反対するのか、ということは、あなたは「みんな」でない、「みんな」の一員でない、「みんな」の利益になることに賛成すれば、あなたも「みんな」になれる。この全くの逆転した(というかめちゃくちゃな)論理!に、大抵のあなたはびびってしまうのだ。なんのことはない、反対するのは、あるいは批判するのは「国賊」だ、というのと、いったいどこが変っていよう。「民主主義」というもの、敗戦を契機に獲得した「民主主義」というのは、こんなことだったのか。私には、とても信じられない。

  私の民主主義、私の自分で身につけたと思っている民主主義では、いかなる場合でも、「個人」は消えることはない。「個人」を認めないものは、私にとって民主主義ではない。だから、たとえば、「個人」の集まりを「不特定多数」で処理して済ますなどという考えは、それこそまさに、「個人」より上位の概念としての「公共」があるという考えをバックアップするようなものだ、いやことによると、もともとそういう考えだからこそ「不特定多数」がでてくるのだ、そのように私は思う。

  私には、「個人」のいない「公共」など全く思いも及ばないのである。いま、「公共」は、実体のないひびきだけよい「ことば」になってしまっている、むしろ、言うならば一種の「操作用用語」となってしまっているように、私には思える。

  このような「公共」「個人」の変な関係は、日本独特のものなのだろうと思う。いま、この「公共」と、それに対応すると思われるpublicについて、辞書は何と説明しているか、まるのまま転載すると次のようだ。

 

    

因みに「公」の字のもともとの意は、つつぬけである、つまり、閉じていない(open)ということの象形なのだそうである。

 彼我の差歴然たるものがあると思うのは私だけであろうか。我が日本において「公共」とは、社会一般であると同時に即「政府」「お上」なのだ。当の「お上」も、また「下じも」も、そう思ってきた、それが辞書の説明となって現われている、そう見てよいだろう。だから、普通publicを「公共」と訳して済ましてきているけれども、原文において「個人」が(あたりまえなこととして)生きていたものが、日本語になったとたん、ことによると(あるいはきっと)「個人」はどこかへ吹きとんでしまう、つまり、まるっきり意味が違って読まれてしまう可能性が強い。(こういう例は、前にちょっと書いたけれども、文明開化以来、非常に多いはずである。「地方」とloca lの例もその一例だ。)

 (もしかすると)日本人は、その長い習慣から、個人を越えた上位に、頼るべきよすがを欲しがる性向があり、そういう「お上のいうこと」にすなおに従う癖から、36年もたってもまだ、披けきれていないのかもしれない。

 しかしながら、辞書にも「公」は「私」と対をなすとある如く、「公」と「私」あるいは「個」は、それを正当に対置して初めて、そのそれぞれの意味が明らかになるはずで、そうせずに、どちらか一方のみでことが処理されるとき、事態がおかしなことになる。とりわけ、「私」の係わりないところで生まれた、得体の知れない「公」に「私」が押しつぶされるのは、全く許しがたいことだと私は思う。

  それゆえ、現実に目に見えた形となって現われてくるところの「私」たちの心情を逆なでするような諸々の(人為的)現象に対して異議をさしはさむのはもちろんであるが、むしろ、そういった現象の拠ってきたるものの見かた考えかた対して、より強く異議をとなえ続けたいと私は思う。それが、おそらく、私たちの世代の役目なのではなかろうか。

  私は、あの8月15日前の状況が何であるか、体でそれを感じたわけではない。それには幼なすぎた。しかし、いかなる理由があろうとも、あの8月15日以前には戻りたくないし、また決して戻したくないと思う。なぜなら、私は、私の身につけた民主主義は決し誤っていないと思うし、そして、それがきらいではないからだ。

あとがき 

 いまこの号は、八ヶ岳を目の前にして書いている。大分かすんでいる。秋から冬あるいは冬から春、それも朝か夕がたがほんとはいい。そういう山をみていると、山をみているようで、みている自分がそれに対置されてみえてくるような、なにかそんなこわい感じがしてくることがある。(こういうときのみるは、どの漢字をあてたらよいのだろうか。) そして、私のようにときおりではなく、いつも山に囲まれている人たちはいまどうなのか、一度尋ねてみたい気がする。

〇この8月15日、諏訪湖の花火を観に行った。ちょうど満月。盆地を囲む山々の稜線が、そこだけ月あかりに照らされ淡く輝きあとは空に溶けこんでいた。もう秋である。花火は壮観であった。ずしんと体にこたえるあの音、これがないと花火ではないのだが、あのシュルシュルという音とともに、それはどうしても高射砲と艦載機の機銃の音を思いださせ、慣れるまで、どうもいけなかった(東京の防空ごうにもぐっていたころのことだ)。こういうちょっとした光景や音、ときにはにおいまでも、それは突然忘れていた昔の一瞬の情最を頭のすみから掘りおこす。

 建物づくりや町づくりというのは、本質的に、いつの日にかこういう具合に掘りおこされる情景の根となるものをつくっているのだということに、気がつかなければならないと思う。

〇こんな内容の文を書きつつ、一方で私は車の利便に酔って?いる。車に限らず、諸々の近代「文明」のもとで暮している。それを統御しているのか、それに統御されているのか。

〇それぞれなりのご活躍を祈る。

                                            下山 眞司


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「Ⅰー1 人はどこにでも住めるか」 日本の木造建築工法の展開

2019-02-13 10:38:20 | 日本の木造建築工法の展開

 「日本の木造建築工法の展開」   

PDF「Ⅰー1人はどこにでも住めるか」 A4版7頁 (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 

Ⅰ-1 人はどこにでも住めるか・・・・集落:村、町の立地の条件

  人が住むことができるための「必要条件」は、「食料」「飲み水」が得られることです。

「必要条件」とは、生物の生存条件にほかなりません。そして、この「必要条件」の有無が「集落」の原初的な段階での「立地」選定にあたって、根本的な選択・判断指標になります。

  日本の場合、当初、「飲み水」は湧き水や井戸が頼り、「食料」は主として、米が得られること、手近に稲が栽培できることでした(稲作をはじめとする農耕は縄文期の後半から始まるとされています)。

  東京から中央線で西へ向う車窓からは、視界の一帯が建物で埋め尽くされているのが見えます(下の地図は、東京周辺の国土地理院の1/20万地形図:1989年発行。都心から30~40kmは家並で埋められている)。

 こういう風景を見慣れてしまうと、人はどこにでも住める、と思ってしまうかもしれませんが、こうなったのは、そんなに昔からではありません。

 東京でも、最初に人が住み着き「集落」が生まれたのは、「必要条件」の確保できた限られた場所です(古代~中世、東京の中心部は沼沢地。13、14頁参照)。そして、「必要条件」を確保するための「技術」の進展とともに「集落」が増殖する、この「必要条件の確保の連続」が現在の東京を生んだのです。  註 「集落」とは人びとが定住することにより生まれる一定の地区:村や町を言う。「落」:「落ち着く」の意⇒着、慶・・・。一字でも村、町を指す。

 一方、西欧の都市では、建物で埋め尽くされるようなことが起きてはいません(下図の地図はロンドン周辺地図:帝国書院刊 基本地図帳より)。それは、人びとが「必要条件」だけで「事」を決めず「十分条件」をも考慮したからです。「十分条件」とは、「人間的」「感性的」な「条件」と言えばよいでしょう。

 たとえば、弁当持参で山道を歩いているとき、腹がへったからといって、所構わずに弁当を開く、ということはなく、弁当を食べるのに相応しいと思える場所を選びます。日々の行動に際して、無意識のうちに行なっている「選ぶ」という判断をさせるもの、それが「十分条件」の中味なのです。

 

 

  

 東京でも、第二次大戦前の都市計画では、西欧の都市にならい、環状8号線(都心から約15~20㎞)の外側にグリーンベルトを設ける構想がありました。その内側が市街化区域、そこから出るゴミの処理は、グリーンベルトに設ける清掃工場で処理することも計画されていました。

 しかし、この「理念」「計画」は、「地価の上昇⇒地域経済の活性化」という「全国総合開発計画」の下で消滅してしまいます。 

 ただ、清掃工場だけは「計画」どおりにつくられ、住宅密集地の中に清掃工場があるという現在の姿になったのです。当初の構想の姿は、砧緑地の中の清掃工場に見られます。 ただ、清掃工場だけは「計画」どおりにつくられ、住宅密集地の中に清掃工場があるという現在の姿になったのです。当初の構想の姿は、砧緑地の中の清掃工場に見られます。

 以後、東京は、田畑や山林が家々に埋め尽くされ、西欧の都市とは異なる姿になってゆきます。

 それは「必要条件」の「整備」のみにつとめ、「十分条件」について思いやることを忘れた結果と考えることができます。

 参考 地図で見る東京の変遷 

 

 図1 古代の関東平野 利根川と淀川(中公新書)より

 関東平野の西半分の河川は東京湾へ、東半分は霞ヶ浦一帯を経て銚子にそそいでいた。 両者の間に、微高地があり、それが分水嶺になっていたからである。  徳川幕府は、江戸に居城を移してから直ぐに、この分水嶺を掘削し、利根川の流路を銚子へ変える工事を行なった。 その目的は、水害防止とともに、舟運・水運の安定化:水量・水位の安定化にあった、と考えられている。

 

 

 図2 中世末の東京 図集 日本都市史(東京大学出版会)より

中世末、浅草寺、江戸氏の江戸館、大田道灌の居城などのほかは、一帯がどのような状況であったかは不明図は、考古学資料、地質、地図などを基にした推定図。

 

  

 図3 寛文年間(1660年代)の江戸 図集 日本都市史(東京大学出版会)より

 

 

 

 図4 江戸の藩邸の立地 同書より

 

 

 図5 明治30年頃の東京中心部 陸地測量部 1/20000地形図より  「浅草米庫」とは、徳川幕府が設置した米の備蓄倉庫。  専用の船着場を持つ。 図3にも見える。

 関東平野の米が、この米庫に集められ、武士に配布された。このことから、この一帯を蔵前と呼ぶようになった。   この一帯、いわゆる下町は商工主体、山の手は武士、そして郊外に農民、とのように住み分けられていた。 商工がこの一帯に定着したのは、通運の便を必要としたから(水害などは承知の上)。  当時の通運では、水運・舟運が大きな比重を占めている。 これは明治になっても続き、鉄道開設後は水運・鉄道が両輪となり、一帯の商工業を支えてきた。その延長で、近代的な工場群も一帯に成長する(鐘淵紡績、王子製紙、十条製紙、石川島重工・・青字はいずれも地名)。

  昭和30年代に入り、自動車運送が盛んになると、工場立地の要件が変り、工場は一帯から撤退し始める。  そしてその跡地が中高層集合住宅に変貌した。  ただし、その一帯は住居地としての必要・十分条件(次頁参照)の整った場所ではないことに留意する必要がある。

 

 「集落」の成り立つ「必要条件」「十分条件」双方を充たして生まれ、建物で埋め尽くされることもなく当初の姿を残している地域の例を見てみます。それは、近世までのあるいは、第二次大戦前の)日本の村・町の姿の名残(なごり)にほかなりません。

 下の地図は、最近、研究学園都市の周辺の「開発」の結果、とみに変貌の著しい筑波山麓一帯が、まだ静かだった20年ほど前の地図です(1/5万地形図 国土地理院より 網掛けは筆者)。

 

 網を掛けてあるところは水田です。水田が東の方へ伸びています。地図でAと記した部分です。このような地形は、東側の山から流れてきた川によってつくられています。

 地図には、北側と南側に東に向う道が2本あります(北側は広く、南側は山道で細い)。いずれも坂道で、鞍部を越えて山向うの集落に至ります。と言うより、地質上、水が流れて鞍部が生まれた、その谷沿いに峠越えの道ができた、と言う方が正しいでしょう(谷にいつも水が流れているわけではありません)。

 このの部分は、何の手も加えずに稲を育てることのできる絶好の場所、天然の田んぼでした。しかも裏山では綺麗な水が湧いています。「必要条件」はそろっています。そのような所を見つけて人は住み着きます。には古代の条里制の水田遺構がありました。

 そして集落は、おそらく山裾の田んぼの縁にあったのだと思われます。と付した東側の「六所」「立野」そして、田んぼの南の「館」などのあたりです。どこも飲み水には恵まれています。   網をかけた水田の北の縁、筑波山の南麓に沿ってほぼ等高線上にと付した集落が並んでいます。この集落内には、北側に自噴する泉水のある庭を設けている家があります。   この等高線のあたりは、筑波山に降った雨水が地下水となり地表近くに表れる地点ですが、等高線のどこでもいい水が得られるのに、と付した集落は連続せずに飛び飛びに並んでいます。

 これは、「必要条件」が揃っていれば、かならずそこに住み着くとは限らない、ということにほかなりません。ここで「選択」が行なわれているのです。そして、その「選択」にあたっての指標になるのが「十分条件」なのです。これは、あたりを実際に歩いてみると直ちに納得します。集落のない場所は、まわりに比べ、それほど気分のよい場所ではないのです。

  東京の近くだったら、所構わず家が建てられると思われますが、このあたりでは、人はこういう「選択」をして住み着いたのです。

 さて、天然の田んぼの容量には限りがあります。天然田んぼだけで暮せる人口には限りがあるのです。そこで次に人が住み着くのは、天然田んぼよりは見劣りはするけれども水田化できる場所です。それは、河川のつくりなした「自然堤防」や「中洲」で、そこに開かれた新たな集落を「新田」と呼びます。地図ではという符号を付けてあります。当然、のような良好な地下水が手近に得られるわけではなく、井戸が頼りですから、井戸の水質のよいところが集落の拠点になります。  には、新たに人が外からたどりついて開いた場合と、周辺の集落から意図的に住み着く「新田」の場合とがあります。後者の場合は、一般に出身の集落名が付けられます(例:「国松新田」)。 

 この地図の範囲にはありませんが、近世になると、政府による大規模の開発による「新田」も生まれます。この開発を実際に差配した人たちを「地方(ぢかた)巧者(こうじゃ)(功者)と呼んでいます。

  このほかに、この地図には見当たりませんが、奈良盆地などで多く見かける「環濠(かんごう)集落」と言われる集落があります(関東平野にもあります)。   これは、さらに条件の悪い低湿地に住み着く方法で、周辺に濠を掘り、その土で居住地をかさ上げするのです。濠が排水先になり、居住地は居住条件がよくなります。当然飲み水は井戸が頼りです。

  以上が、この地域の(多分、各地域の農業集落に共通の)諸相なのですが、1960年代頃から、大きく変ってきます。その要因は、簡易水道の普及です。

 自給体制:農業や商業は早くから大きく変っても、飲み水に頼ることだけは変りませんから、住居の立地は相変わらず集落内でした(「必要条件」とは、人が生きてゆくための条件なのですが、その具体的な姿は時代により変るのです)。    これが簡易水道の普及で大きく変り、居住地が集落の外に出るようになってきます。中には田んぼを埋め立てて、そして住宅メーカーも進出し始めています。集落の「秩序」が大きく変り始めた、と言うより、新たな「秩序」が見出せないまま集落が崩れてゆく、と言う方が当っているでしょう。

 観ていると、その土地での暮し方とは関係なく、単に都会の恰好を追いかけているのではないか、とさえ思います。なぜなら、自然環境はまったく以前と変っていないのに、「都会の環境?」向きのつくりが多く見られるようになっているからです。

「必要条件」は所によって変ることはありません。

 一方で、「十分条件」は地域によって異なって当然なのですが、「各地域なりの十分条件」を考えない「都会風のつくりかた」が農村地域にも現われ始めている、そんな風に思えます。たとえば、きれいな空気に満ちている地域で、開口部を小さく狭くして、「空調」を前提にしたつくりが増えている、などというのもその一例と考えてよいでしょう。

 建物は、その地の「必要にして十分な条件」を備えて初めて、その地になじんだ建物になる、ということを、あらためて認識する必要があるのではないでしょうか。

 以上のように、日本では、当初山裾の湧水点近くに居を求めた人びとは、「必要条件」の獲得技術:井戸の掘削などの利水技術(ダムや水道も含む):の進展とともに、徐々に平地へと進出してきたのです。

  関東平野では、今でこそ東京が「中心」ですが、それは、江戸時代:徳川の世になってからのことです。関東平野に人びとが住み着いたのは、平野を形づくり囲んでいる山なみの山麓、水に恵まれ、自然の可耕地も広がる一帯。とりわけ、平野北部の上州:群馬県(上州・上毛野(かみつけの))の南部、利根川上流左岸のあたりです。   上州の南部一帯は、手を加えないで使える水が豊富でしたから(「大泉」「小泉」などの地名がある)、人が早く住み着き、その中から後の「東国の武士」の祖になる豪族が生まれます。   一帯が古墳だらけであること、時の政府が、官道・「東山道(とうさんどう)」をこの一帯へ通したのも、この一帯の繁栄を物語っています。なお、徳川家も、元をただせばこの地の出です(太田市世良田(せらだ))。    現代の感覚では、「利水」のためには先ず「治水」と考えたくなりますが、最初人びとはまったく逆、「利水」:目の前にある使える水を利用すること:から始めたのです。高崎の標高は80~90m、そのあたりから始まった開拓は、埼玉南部あたりで、標高0mに達してしまい、その水処理の対策として、各種の土木技術が発展する* という皮肉なことも起こります(* 川が川を越える、などという場所もあります)。          

 このように、普段気が付きませんが、日本は、「必要条件を整える術」を用意することがきわめて容易な(いわば特殊な)地域なのです。    「必要条件」が簡単に整えられるため、「都市計画」も簡単に変更可能、その上、「必要条件確保の容易さ」に寄りかかり、「十分条件」を思いやることを忘れた結果、それが今の東京の姿なのです。

 こういうことは、他の地域では普通に見られることではなく、日本という特別な地理的環境ゆえの姿だと言ってよいと思います。当然ですが、世界の他の地域は、すべて日本と同じではありません。

 日本と大きく異なる例を挙げます。    中国西域・敦煌(とんこう)を訪ねたことがありますが、西安(せいあん 古代の長安)から蘭州(らんしゅう)そして敦煌(とんこう)への鉄道沿線で見た風景に強烈を受けました(地名は日本語読み)。一帯はいわゆる「黄土(こうど)高原(こうげん)」。山脈が延々と続きますが、その山肌は赤茶色、日本なら人が住み着くはずの山麓にはまったく人家が見えません。

 この乾燥の激しい一帯では、雨季に山に降る雨雪が地中に深く浸透し、標高最低地点で地表に顔を出す、それがいわゆる「オアシス」ですが(仏像群で有名な敦煌もその一つ)、定住する人びと、その地を居住地に選びます。「人が暮すための必要条件」を、そこでのみ確保できるからです。

 

 黄土高原 世界地図帳(平凡社)より

 オアシスは盆地の底にあるため、昼間は暑く夜は冷えます。日本では人びとが最初に住み着く土地ではありません。   そして、このオアシス以外の場所の居住地としての「必要条件」の整備は、並大抵のことではありません。河川は遥か彼方のため、水路を設けても、大部分の水は目的地にたどりつく前に大地に吸い込まれてしまうからです(西域には、海に注ぐ河川はありません)。水を吸わない材料で水路をつくるか、吸い込まれてもなお流れるだけの大量の水を流すか、蒸発しない地下水路をつくり汲み上げるか・・・・、それは大土木工事を必要とします。東京のようには、簡単にはなり得ないのです。 

 黄土高原の一般的な住居は、次頁の例のように、版築でつくられるのが普通ですが、西域に比べれば降雨量の多い古代中国の中心長安(それでも、日本の約4割:「各地の気象」参照)、現在の西安郊外には、下の写真(撮影筆者)のように、地面に約10~15m角、深さ5mほどの竪穴を掘り、それを中庭:広間として、四周の壁に横穴の房を掘って(すべて手掘り)住居にする例が見られ、窯ヤオトン)と呼ばれ、現在でもつくられています(崖に横穴を掘り房にする例もあります)。   冬暖かく、夏は涼しい快適な居住環境となるようです。  版築は、この土層から学んだ発案だという説もあります。

 

 丘陵の端部:崖に掘られた横穴住居    窯洞1 広間:中庭に別棟の建屋     窯洞2 典型的な例 

 窯洞(ヤオトン)の内部()は下の写真のようになっています。 中国伝統民居建築(台北 美工図書社 刊)より  

   

               

   


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「はじめに,Ⅰー0日本の自然環境」 日本の木造建築工法の展開

2019-02-12 15:17:23 | 日本の木造建築工法の展開

「日本の木造建築工法の展開」   

PDF「はじめに,Ⅰー0日本の自然環境」 A4版11頁 (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 ・・・・
  けだしわれわれがわれわれの感官や 
  風景や人物をかんずるやうに
  そしてたゞ共通にかんずるだけであるやうに
  記録や歴史 あるいは地史といふものも
  それのいろいろの論料といつしよに
  (因果の時空的制約のもとに)
  われわれがかんじてゐるのに過ぎません
  ・・・・
        校本 宮澤賢治 全集 第二巻 「春と修羅」より

 

主な参考資料 原則として、図版には引用資料名を記してあります
季刊カラム №78(新日本製鉄株式会社)  理科年表(丸善)   地震の揺れやすさマップ(内閣府) 注 インターネットで公開   世界地図帳(平凡社)  日本大地図帳(平凡社)   利根川と淀川 小出 博(中公新書) 注 1975年初版 現在絶版
1/5万および1/20万地形図(国土地理院)   滅びゆく民家 川島宙次(主婦と生活社 絶版)   日本の民家3 農家Ⅲ、同 民家1 農家Ⅰ、同 6 町家Ⅱ(学研 絶版)   古井家住宅修理工事報告書(古井家住宅保存修理委員会)   日本建築史図集(彰国社)   日本の美術 №80、№196(至文堂)   奈良六大寺大観 法隆寺一、東大寺一(岩波書店)


 

はじめに  

 今から30年前の1980年(昭和55年)10月、新日本製鉄株式会社の広報誌「季刊カラム №78」に、桐敷真次郎氏(建築史家、東京都立大学名誉教授)が「耐久建築論――建築意匠と建築工法のあいだ――」という一文を寄稿し、建築の耐久性の確保の必要を論じています。
 木造建築の耐久性についても一項目を設けて触れられていますが、この30年前の一文は、いわゆる100年住宅、200年住宅が話題になっている現在こそ、耳を傾けてよい内容と言えるでしょう。
 そこで、木造建築の耐久性について書かれた部分を全文引用紹介します。 
要所をゴシック体(ブログでは太字)にし、傍点(茶色)を振った以外は原文のままです。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
木造建築の耐久力
 われわれは、伝統的日本建築には耐久力がないことを無造作に常識化している。これは、鉄筋コンクリート造は耐久力があるという常識の裏返しである。
 しかし、事実はそれほど簡単ではない。日本建築といっても、社寺と住宅とは異なるし、住宅といっても、本格的な書院造や民家と、貸家・建売り・バラックの類とはまるで違う。
 しかし、ふしぎなことに、建物の維持管理には一定の通則があるようで、毎年の点検、10年毎の小修理、30~50年毎の大修理、100~300年で解体修理というのが一般的な手入れの仕方である。社寺・宮殿のような文化財建造物でも、ほぼ似たような数字があげられている。
 ていねいな維持管理をすれば、木造建築の寿命もかなりのものとなるのである。
 わが国の伝統建築では、このような手入れや修理がしやすいような工法が用いられてきた。
 例えば屋根であるが、瓦もタルキもはずしやすいようにつくられている。また柱も、腐りやすい下端部は根継ぎによって比較的簡単に補修できる。日本壁、ふすま、障子、タタミ、押縁下見に至っては、始めから定期的に修理、或は更新されることを前提にしている。適切なメンテナンスと結合されれば、伝統的日本建築はやはり耐久建築なのである。
 これに対して、現行の木造建築は、始めから耐久性を放棄しているように見える。当座の強度だけを問題にし、しかも、それを法的に、或は技術的に正当化しているのである。
 まず柱が4寸(12cm)角以下でもよい、10㎝角でもよいと、むしろ伝統規格より弱化させている。これは構造的な面ばかりでなく、建具のおさまりが無理になるという点からも改悪であろう。
 まして、耐久力の劣る外国材を用い(原註)、合理化と称して柱数を最小限にすれば、耐久力は更に落ちる。柱を細くした結果、厚いが通せず、代りに筋違い(すじかい)を奨励した。これも柱の上下を切り欠き、桁を突き上げ、結局金物を使えという結果になってしまう。
    原註 これは現在(1980年当時)輸入されている外国産木材のことで、伝統的西欧建築に用いられているオーク材は300~500年の耐久力がある。
 金物を多用せよというすすめには、始めは心ある大工たちが強く反抗した。金物をできるだけ用いないことがよい仕事のしるしだったからである。
 日本では「釘を全く使っていない」というのが、建物の優秀性をあらわす表現だった。釘を全く使わない木造建築などあるわけがないが、金物をやたらに使ってようやく立っているような木造建築は下等であるという事実はよく表現されている。
 更に、防火性を高めると称してモルタル塗りを奨励したが、モルタル塗りの厚さが薄すぎて、亀裂による浸水が軸組を傷めてしまう。モルタル塗りは少なくとも3cm以上の塗厚がなければ耐久性がなく、日本でも大正・昭和初期にはそのように行われていた。
 また最近は、断熱性を高めると称して、壁のなかにやたらに詰物をすることが流行している。軸組が早くむれて早く腐るほうがよろしいとしているような状況である。
 どんな建物にも布基礎と土台を入れるという実務も耐久力を落している。布基礎にボルトで緊結された土台は、腐朽してもまともに入れ替えることができない。そのうえ、一般に行われている布基礎の規格程度では、不同沈下を起こしやすく、起こしても直しようがない。せめて土台だけは檜の4寸角としたいが、そのようにしている住宅を見ることは殆どない。わずか2間か2間半のスパンに鉄梁を組み込んでいる住宅などをみると、わが国の木造建築の衰退堕落もここまできたかと痛感するのである(引用者註 この部分は、1980年当時の基準や状況を基にしての言である)
 屋根を軽くせよという一言で、鉄板葺きを流行させたのも同じ傾向である。正直に見れば、今日でも瓦にまさる葺材はないことが誰にもわかる。鉄板葺きのメンテナンスの苦労と費用を考えれば、瓦葺きの維持の楽なこと、耐候性、雨音防ぎ、落着きと重厚さなど、多くの長所が明らかである。
 第一、瓦葺きであるか、ないかで、大工の評価や意気込みがまるで違う。鉄板葺きであるというだけで、心ならずも気が入らず、手を抜いてしまうのである。しかし、瓦葺きが断然すぐれているという建築家の発言を聞いたことがない。確かに鉄板葺きは勾配をゆるくできるので、屋根のおさまりが楽になる。だが、緩傾斜の屋根は台風に弱い。風による屋根の吸い上げや、軒先のあおりを防ぐため、またしても手違いカスガイなどの金物でタルキを留めなければならない。雨押えを鉄板でするのも悪いプラクティスのひとつである。雨押えの取り替えは容易でないから、当然銅板を標準工法とすべきであるのに、銅板をぜいたく品のようにみなすのはおかしいのである(引用者註 この部分も、1980年当時の基準や状況についての言) 
 どの国のどの時代にも、一般建築の良心的な規格や標準工法というものがあるが、以上のような明々白々たる技術的低下、水準の引下げを公然と行い、それを進歩と考えている国は、残念ながらわが国ぐらいしか見当たらない。
 もちろん表向きの理由には、耐震性と防火性能の向上という大義名分がある。布基礎を入れ、土台を入れボルトで緊結し、金物を多用し、屋根を軽くすれば、確かに耐震性能は上る。しかし、所詮たいしたことはない。モルタルを塗り、鉄板や石綿板で蔽えば、確かに防火性能は高まる。しかし、これもたいしたことはない。耐震防火のためだけに、耐久力と意匠を犠牲にしているからである。
 建築にとって、耐震・防火・耐久力・意匠のいずれも大切な項目である。
そのなかで、むかしから「便利・耐久力・意匠」といわれている建築の三大項目の二つまでを犠牲にして耐震防火を達成したところで、建築学の進歩とはとうてい言い得ない。現に日本住宅の建築的水準は、設備・備品を除いて、史上最低のみじめさに低迷している(引用者註 1980年代の状況)。
 ローコストの住宅を提供するという名目は、社会的にはいかにも立派で、大衆にはアピールするかもしれないが、建築的には良心的ではない。建築は高価なものだから、より耐久力があるようにつくるという方がよほど健全である。このように考えれば、現代といえども、それほど多種多様の工法が残るわけではない。良心的で健全な建てかたとは、かなり限られた手法となるはずである。これが意匠にも反映する。健全な工法から生まれてくる意匠だけが健全なのである。日本の木造建築の再生はそこからしか現われないだろう。しかし、そうした耐久建築の研究がどこかで行われているという形跡さえ、いまは全くないのだ(引用者註 現在の状況は、1980年代よりも更に悪化しています)

 

Ⅰ-0 日本の自然環境・・・その特徴

1.日本の地形・地質 

 縄文期は、東北日本(関東以東)が西南日本に比べ栄える。
弥生期になると、逆転し、西南日本が栄えるようになる。
この変化は、地質、地形、地勢の違いが影響していると考えられている。                                                                

 

 

    

大地形区  A1 北海道主部内帯   A2 北海道主部外帯   B1 東北日本弧内弧   B2 東北日本弧外弧   C1 伊豆小笠原内弧   C2 伊豆小笠原外弧   D1 西南日本内帯   D2 西南日本外帯   DC1 中央日本西帯(中部山地)   DC2 中央日本東帯(関東)  E1 琉球弧内弧   E2 琉球弧外弧   日本の地形区分理科年表2006年版(丸善) より


  東北日本の地質は第三紀、四紀の若い岩層が多く、西南日本では古生層、中生層、花崗岩類などの古い岩層が多い。また、東北日本では第三紀以降、火山活動が激しく、それに関連し、第四紀層の広大な平原が発達する(関東平野など)。

  つまり、日本列島の地質は、西南日本は古い岩層でできているのに対し、東北日本は、この古い岩層の基盤の上に、新しい岩層が堆積したもので、その過程で起きた火山活動にともなう噴出物がさらにその上を覆っている(関東ローム層など)。東北日本の山間部に地すべり地域が多いのは、そのためである。

 この両地域の地質の特徴は、畑地の面積に示される。すなわち、畑地は東北日本の方が多い。 出博著 利根川と淀川(中公新書) より
  

 


2.ランドサット画像による日本の地勢  日本大地図帳 1994年版(平凡社)より
[ ランドサット画像の色 ] 東海大学情報センター 中野良志氏の解説による
 樹林や草で覆われているところ:明るい赤       裸地が増えまたは枯れ始める:ピンクや白っぽい肌色     乾いた裸地や稲刈り後の水田:白く明るく見える    火山の山頂などの裸地:濃い青    水の張られた水田や都市:暗い青~青系の色      紅葉時の森林:黄色    都市:中心部が濃い青で、周辺部は淡い青になる。 都市の青の中の赤は公園や緑地    雲:白く、黒い影が北西側にある  雪:白い

 

 

 

 


3.気候・・・・各地の気象 理科年表2006年版(丸善)より抜粋

 

 奈良と西安では、平均気温、平均湿度は大差ないが、年間降水量が著しく異なる(西安は奈良の約40%)。

 

 

 4.地震
a 地震の伝わり方 地震の揺れやすさマップ(内閣府)より 

 地震の揺れ方は、表層地盤の状況によって異なります。
 建物を建てるにあたって、建設地の選定が重要である理由の一つです。

 

b 表層の揺れやすさ 地震の揺れやすさマップ(内閣府)より

 

 


 参考 表層の揺れやすさと微地形区分(東京都の場合) 地震の揺れやすさマップ(内閣府)より 

                         

 

 

 東京地方のランドサット写真(6頁)と、上記2枚の区分図(地震の揺れやすさ、微地形)とを対比すると、現在の東京では人口が極めて揺れやすい地域に集中していることが分ります。

 

c 日本の地震源の分布  理科年表2006年版(丸善)より

 地震の震源と地質・地形が大きく関係していることが、5頁の地質構造図、地形区分図との対照で、分ります

 建物の地震への対応は、全国一律ではなく、建物の建つ地域の特性に応じて勘案するのが妥当な方策と言えるでしょう。   来、日本では、それぞれの地域の特性を十分認識して、その地域なりの方策を採っていたと考えられます。   地盤の悪い土地に建てる建物と、良い土地に建てる建物とを、同じに扱うと不合理な点が多々生じることは明らかです。

考 世界地震分布図  理科年表2006年版(丸善)より  

 

 

 


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「日本の木造建築工法の展開 目次」

2019-02-12 15:16:47 | 日本の木造建築工法の展開

  故人下山眞司が、2010年に最終的に1枚のCDに納めた「伝統を語るまえに 知っておきたい日本の木造建築工法の展開 私家版 日本の建築技術史」 全約260頁があります。

 原稿はワードで編集されCDに納められています。

 このブログのカテゴリー「日本の建築技術の展開」「日本の建物づくりを支えてきた技術」を始めとした多くの記事の「元原稿」ともいえるもので、当時このブログを通してご希望の方にお送りしたことがあります。

 これは、1990年代に依頼を頂いた(一社)茨城県建築士事務所協会主催の講習会を毎年開催する中で、改稿を続け、講習会終了後にさらに手を加えて最終的なものとなりました。

 この全260頁あまりを、小節に分けて、掲載を始めさせて頂きます。  各回ごとにワードをPDFに変換したものにリンクをかけます。

 内容的には、すでにこのブログに掲載されている資料が多く、またそちらの方が自由に書かれ詳しくなっている場合もありますので、もの足りない部分もあるかとは思いますが、「木造建築の歴史、木造建築の技術の歴史」という「流れ」の中で捉えて頂けたらと思います。

 下記がその「目次」になります。  故人のCD内には目次がなく、卒業生のお一人が「目次」を作って下さいました。 (ページ数の入った目次は、最後にもう一度掲載致します。)

PDF「日本の木造建築工法の展開 目次」A4版3頁

     

      

    

  全体の量が多いので、また筑波通信等の掲載もありますので、全掲載には時間がかかると思いますが、どうぞよろしくお願い致します。

                                       下山 悦子

 


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「『無名』抄・・・・名前を知ること=ものが分ること?」  1981年8月

2019-02-05 00:08:12 | 1981年度 「筑波通信」

 PDF「筑波通信 №5」1981年8月 A4版10頁 

      「無名」抄・・・・名前を知ること=ものが分ること?    1981年度「筑波通信 №5」

 山の季節だからというわけでもないが、今回は山について書かれた文章をもとに話をすすめようと思う。

 下に引用したのは、臼井吉見の随筆「幼き日の山やま」の一節である。勘のよい方は、この一文を続んで、私が何を言おうとしているか、およその見当がつくことと思う。この文章には、私たちの「もの」への対しかた、見かた、知りかた、の根本的な問題が、さりげない思い出というかたちであるが、実に見ごとに言い表わされていると思うのだ。      

 

            ・・・・・・・・・・・・・・・・

 宇野浩二に「山恋ひ」という中篇小説がある。諏訪芸者と、作者とおぼしき主人公との古風な恋物語である。この主人公が、諏訪の宿屋の窓から、あたりの山々を眺める場面が小説のはじめに出てくる。湖水の西ぞら、低くつづく山なみの上から、あたまだけのぞかせている一万尺前後と思われるのを指して、あの高いのは何という山かね? ときかれた番頭は、さあ? と首をかしげる恰好をして、たしかに高い山のようですが、名前は存じませんという。木曽の御嶽ではないのかねとかさねて聞くと、さあ、そうかもしれませんね、ともう一度首をひねってみせる。君はこのごろ、どこかよそから来たのかね? と問うと、いいえ、私はこの町の生れの者でございます。と答えて、気の毒そうな顔つきをするのである。

 この小説の書かれたのは大正の中頃だが、当時の読者だって、この番頭変ってると思ったにちがいない。いまの読者なら、なおさらのことだ。

 信濃のように、まわりを幾重にも山にかこまれている国では、この番頭のようなのは、当時として、決して珍しくはなかった。むしろ、あたりまえだったといってよい。生れたときから、里近くの山に特別に深く馴染んでいるので、奥の高い山などには、とんと無関心で過ごしてしまうのが普通だった。わらびを採り、うさぎを迫い、きのこを探し、すがれ蜂を釣ったのは、みんな里近い山でだった。近くの山なら。松茸は、どことどこの松の根もとだとか、うさぎの道は、どこそこの藪かげだとか、知識経験の最富な蓄積があった。おとなたちが、木を伐り、薪を集め、炭を焼くのも、これまた近くの山だった。                  

 現に信濃で生れ、信濃で育った僕の生家などは、あまりに山に近いので、前山のつながりの一つ奥の、一段と大きく高い鎬冠山(なべつかぶり)が威張っていて、その肩のあたりに、てっぺんだけのぞかせる常念岳にさえ気がつかなかったのである。

 常念岳の存在が大きく僕の前に姿を現してきたのは、小学校の三年生のときからである。三年生のとき、新しい校長がきた。なりは小さかったが、目は鋭く、黒いあごひげが胸の半ばまでたれていた。この校長は、月曜日の朝礼には、校庭の壇上から、毎回、常念を見よ!と呼びかけた。常念を見ろ! 今朝は特別よく晴れている。あんな美しい山はない、とか。常念を見ろ! 今朝はいたってごきげんがいい。あんな気持のいい山はない、とか。今朝は曇って常念が見えないのは残念だ、とか。常念を見ろ! あれはことしはじめて降った雪だ、とか。祭礼といえば、きまって常念の話だった。

 常念校長の呼びかけによって、僕らはこれまでとはまったくちがった思いを山に寄せるようになった。おおげさにいえば、常念岳によって、新しい精神の世界を発見したのである。常念岳は、わらびや、きのこや、栗や、小鳥や、うさぎの山とは、まったく別の山であった。それは眺める山であり、仰ぎみる山であった。

 東京や大阪など、都会の人たちが山について最初から持っているあたりまえの考えを、僕らはこの風変りな校長によって、はじめて教えられたのであった。しかし、常念小学校の生徒にとっては、常念はあくまでも眺める山であり、仰ぐ山だっただけに、常念登山などということは、まだ行われるに至らなかった。

 小学生の僕は。よく祖父のお伴をして、幌馬車で浅間温泉へ出かけたが、そのころ宿の上等の座敷というのは、むしろ山とは逆な方角に窓を開いていた。アルプスの見える窓などは、冬になると、寒い風が吹きこんでくるものとしか考えられていなかった。アルプスの見える部屋が。上等の座敷とされるようになってきたのは、僕が中学生になった頃からであった。

            ・・・・・・・・・・・・・・ 

 

  私たちはいま、ものについて知るということが、それの名前を知ることに等値であるかのようにみなして済ましてしまうことが多分にありはしないだろうか。あるいは又、目の前に在るというだけで、つまり見えるというだけで、それらのもの全てが均質・等質に見えているとのように思ってしまってはいないだろうか。存在するものを全て対象化して見るいわゆる自然科学的なものの見かたが隆盛を窮めるようになってからこのかた、ものが全て等値に見え、それ故ものの名前も又、それら等値のものの単なる区分上の符号になってしまったような気配さえ感じられる。

 いったい私たちにとって、あることを知るということ、知っているということ、あるいはあるものの名を知るということ、知っているということ、そしてより根本的には、あるものに名前をつけるということ、これらはいったい、もともとどういうことであったのか、数限りなく色々な知識や情報が満ちあふれているいま、これらについて一度落ち着いて考えてみてもよいのではないかと思い、この文章を話題にしようと思いたったのである。

 さて、この文章のなかの、番頭と中年の客のやりとりであるが、いったい何故このようなやりとりが生まれたのであろうか。

 彼の番頭は、木曽の御岳という(そう呼ばれる)山が在るということは、どうやら知ってはいるようだ。しかし、毎日自分の目の前に見えている山やまのなかの一角にそれが在るなどということは露知らない。ここで「知らない」というのはそういう呼称の山が在るということは(おぼろげながら)知っているが、その呼称に対応する具体的な山そのものは知らないということだ。おそらく、そういえばどこかで聞いたことがありますね、という程度ではなかろうか。

 それに対して、この中年の客は、毎日見ていて(見ているはずで)、しかもあんな有名な山を、どうして知らないのかと不思議に思ったのだ。そこには、毎日目の前にしているもの、しかも有名なものであるならばなおさら、常にそれを目の前にしている人々は、必らずそれを(直ちに指示できるぐらいに)知っていなければならない、それであたりまえだ、という考えが前提としてひそんでいる。だから、どこかよそから来たのかね、という言葉のうらには、明らかに、そんなことも知らないの!という、番頭の「無知」に対する非難の響きがのぞいている。文中にもあるが、いま私たちの大かたは、この中年の客に右同じだろう。しかし、この「無知」は、はたしてそんな単純に非難したり笑いものにしたりすることができる類のものなのであろうか。

 では、この中年の客:私たちの大かたの右代表の知っていることは、いったい何なのだろう。何故彼は木曽の御岳を知っているのか。彼がその実物を知らないことは、彼がそれを指示できなかったことで明らかである。ところが、どこかで聞いたことがありますね、などという以上に色々知っている。具体的に目の前にしたことのないものの具体的内容を結構よく知っているようだ。しかし残念ながら、それが現実に目の前に見えてきたとしても(現にそうなのだが)あれこれと比定する手段は、自らのものとしては何も持ちあわせていない。人に尋ねるか、地図を見ることになる。(もちろん、勘によって、これだこれだと思うことはある。しかしそれは、あくまでも、これにちがいない、である。)

 そうすると、この中年の客が知っていることというのも、実に不可思議なものだという気がしてこないだろうか。

 中年の客が木曽の御岳(の名)を知っていること、それについて知っていること、それはきっと彼がどこから仕入れた「知識」なのである。それは本で読んだのかもしれないし、人に聞いたのかもしれない。あるいは学校で教えられたのかもしれない。いずれにしろ彼は、中部地方の一角、信州の南の方に木曽の御岳という山が在り、高さがどのくらいで、信仰の対象となっておりきわだって目だつ山だ‥‥といったこと:知識を持っているにちがいない。その知識を持って、その先何を思っていたかは詳らかではない。そういう有名な山なら一度は見てみたいと思っていたかもしれないし、ことによると登ってみたいと思ったかもしれない。ともあれ、おそらく彼は、木曽の御岳の他にも、こういった「知識」をいっぱい仕入れてあるにちがいない。どこへ行ってもこれと同じようなことが起きただろう。

 そしていま、私たちも大概こうだから、例えばあれが槍、こっちが穂高・・・・といった具合に私たちの知っている名前が具体的に一つ一つその対象をあてがわれてゆくとなんだか長年の宿題が一つ一つ解けてゆくような快感が味わえ、なんとなく何かが分ったような満足な気分となり、感慨にふけることになるわけだ。けれども、あるものの名を知っている。何の名であるかも知っている。それがどんなものなのかも知っている。しかし実物は知らない。実物により「知った」のではない。すると、その知っているというのは何なのか。そして又、それに実物があてがわれて分った気分になったとき、いったい何が分ったのだろうか。単なるカード合せの快感でなければ幸である。

 いま私たちの頭のなかには、見たことのないものも含めて、いっぱいのものの名前がつめこまれている。それは何なのだろうか。何のためにつめこまれたのだろうか。それは、自分の「知識」の世界が広くなっているということなのか。そのためにつめこむのだろうか。しかしそれは、「自分の世界」が広くなったということと同じなのだろうか。もちろんなかにはそれが等値の人もあるだろう。しかし、そのときでさえその人にとって、そのつめこむべき「知識」の選別の拠りどころはいったい何なのだろう。そして多くの場合、もしも目の前に現われてきたものが、どこかきわだったものでもあればまだしも、何の変哲もない、それこそ事前には名も知らないものであったとき、彼の目には何の気もひかないものとしてしか映らないであろうから、彼はそれを雑物として見すごしてゆくだろう。

 けだし、この中年の客的私たちの多くは、きれいな花をつける草木には(それがきわだって見えるということなのだが)それなりの名前をつけ、あるいはそれを見たことがなくてもその名前を知り、そうでないものはその他大勢、雑物雑草として、名もなきものとして(ときには、あたかも存在しないかの如くに)扱い済ましてしまうのだ。単に名前がない、名前を知らないというだけで、そのときそれらは、たとえ彼らの目の前にそれらが在ったとしても、彼らの目には映らないのである。彼は何をみたのだろうか。彼の目には、「知識」という眼鏡がかかっているのである。

  ひとことで言えば、彼の中年の客すなわち我が近代人右代表のこれらの「知識」はいわゆる「教養」なのだ。おそらく彼は、専門家ではないにしても、色々なものごとについて、それはかくかくしかじかのものなりという(だれかがつくってくれた)「知識」を、どこかで身につけたのである。しかしそれは、あくまでもつるしの「知識」を知識として仕入れたのであって、そのことが日ごろの自分の生活とどう結びついているかなどということとは全然別な話として、ただ自分がそういった諸々の「知識のかたまり」と結びついているということ自体に「意義」を見出しているのであろう。そういう「博識」こそが自分の人格を向上させるのだ、なにかそういう気分さえあるのである。

 いま私たちのまわりを見わたしたとき、こういう物識り顔、分け織り顔の人たちが幅をきかし、あの番頭のような「無教養」な人々が小さくなっている、ならざるを得ない、そんな状景があちこちに見えてこないだろうか。この随筆のエピソードは大正中ごろの話である。この中年の「教養人」と「無教養」な番頭の間の話のくいちがいのような例は、いまよりもずっと多かったと思われる。そして「無教養」な番頭の方も、少しも無教養だとは思わず、気の毒そうな顔つきのうら側で、変な客だ、なんで私が木曽の御岳を知ってなけりゃあいけないんだい、などと思っていたにちがいないのである。(しかしいまだったら、番頭もそれがサービスというものだと思って、ききもしないのに、さしづめバスガイドの如くに、山々の名を得々と説明しだすにちがいあるまい。)この話が大正中ごろだというのが象徴的である。おそらくこのころからこういう中年の客的人間が増えだしたのだと思う。自分で構築したものでない、あれもこれもの「知識」が、人々の(特に「教養」あることをほこりに思う人々の)頭のなかを占領しだしたのである。いまはもっと激しくなっているにちがいない。だからそういう意味で「無教養」な人々は、由なく非常に肩身の狭い思いをさせられるのである。

  それでは、かの番頭は何故、かの有名な御岳を(それが目の前に在るにも拘らず)指し示すことができなかったのか。

 その解答は既に先の文章中に書かれている。「生まれたときから里近くの山に特別に深くなじんでいるので、奥の高い山などにはとんと無関心で過ごしてしまう」からなのだ。それは何故なのか。そこにははっきりそうだとは書かれてはいないが、それは、里近くの山々が、彼らの(その土地に住む人々の)生活そのものの範囲としてとりこまれたものとしてあったからなのだ。そこは、彼らの生活と切っても切れない関係にある。単なる見る景色、景観ではないのである。だから、目の前にするものが決して全て等質ではなく、そのうちの、彼らの生活に具体的に係るものが、先ず浮きあがって見えてくるのである。それらは、「教養ある」人々の目に見えている以上に(彼らの生活なりに)より細やかに、彼らには見えているはずだ(そして、同じよそもの、中年の客的でなく、彼らと同様な生活基盤をもつ人たちには、それが見えるだろう)。そしてそれらには、彼らによって、それなりの名前がつけられたのである。

  狭間に見える遠くの高山などは、文中にある如く、どこか遠くの彼らに直接係わりのない高山にすぎないのであった。もちろんそれがもっと近くにあって、どうしても日常「気になって」しようがない山であったならば、たとえそれが直接的に生活の範囲でなくとも、それはそれなりの「気づかい」が見られるだろう。例えば諏訪ならば、蓼科山や八ヶ岳などは決して放っておかれずましてやその名も知らず、どれでしょうなどということはあり得ないのだ(事実それらは諏訪大社と密な関係がある)。それに比べ、木曽の御岳は彼らとの係わりからいえば「遠い」山であった。早い話、御岳という名の山は各地に在る。それはそれぞれその地元の人たちが、そう尊称をもって呼んだのだ。「木曽の」とわざわざことわるようになったのは、各地にそれが在るということが分ってきてから、その区別が必要になってからのことである。番頭にしてみれば、いくら目の前にそれが見えようともそれは「地元の」山でなかったということなのだ。

 つまり、彼らが日常的に名づけて呼んでいるものは、彼らのその土地での生活の都合上知っているものに限られ、従ってそれは、決して「全国的」に有名になるとは限らない類のものが大半を占め、従って又この中年の客などが興味を示すような類のものでも決してないのである。番頭が木曽の御岳を知っていたのも、泊り客からでもきいたことにすぎず、せいぜい、そういう山があるんだってさ、というぐらいの、言わば彼にとっても余計な知識でしかなかっただろう。実際のはなし、その土地で長く暮してきた人たちのなかには、木曽の御岳も富士山も、そしてもちろん東京さえも知らないで生きた人たちがいたにちがいないのである。そういう知識に対し、「無知」で生きたのである。生きられたのだ。

 だから、中年の客と番頭では、明らかにその「知っていること」のなかみがちがうのだ。この番頭に一代表される地元に根づいた生活をしてきた人たちの知識は、だからいわゆる「教養」ではない。「教養的知識」ではないのである。いまや(この現代において)こういう知識を何と呼んだらよいのだろうか。

 いま私たちが「教養的知識」として得ている例えば山の名前にしたところで、いま私たちはその名前によって、その名前のついたものについてのある程度詳細な事実をも思い浮かべ、名前=もののようにみてあたりまえのようになってしまっているわけだが、その名前というのは、実はそういう扱いをするようになった私たちによって名づけられたわけではないということ、もう一つ、その詳細な事実というのも、私たちが直接それに「触れて」得たものでなく、従って、ものと私たちの「知識」との関には一つ「回路」がはさまっているのだということに、いまこそあらためて気がつかなければならないように、私は思う。(その「回路」が問題なのだ。)そして、実は、多くの場合例えば山の名前は、この番頭のような暮しかたをしていた人々、私たちがともすると「無教養」「無知」だとあきれるそういった人たちによって名づけられてきたものなのだということにも気がつくべきだ。同様に、それらについての詳細な知識というのも、その根は、そういった人たちの知識を集大成することからはじまったのだ。

 そしてこのことは、国土地理院:昔の参謀本部測量局(後の陸地測量部)の地図に記入される山などの地名は、そういった地元での呼称が採集され、そのなかから選ばれたということ、たとえばある山の名は、測量班が最初にその山のどちら側から近づいたかにより(たとえば飛騨側か信州側か)その初めに近づいた側で呼ばれる名のつけられることが多かったということなどで明らかだろう、(これは、一つの山に対して、いくつもの呼称があったということ、言いかえれば、いくつかの「地元」があったということである。そういった地元の呼称が無視されるときには、最初の測量者の名前:たとえばエベレスト:だとか、測量上の符号:たとえばK2:などで済まされる)。これは、しかし、地元の人たちの苦心の作たる諸々の概念の上っ面だけすくいとったことに他ならない。何故なら、実はそのときそれらの深い根や地下茎を、きれいさっぱり切りおとしてしまい、単なる符号としてしまったからである。

 それ以後、名前は単なる名前としてのみ通用するように(地元以外では)なってしまうのだ。(昭和初期以降の新興住宅地につけられる呼称が、その言葉のにおわすイメージやひびきだけでつけられているというのも、このことと関係があるだろう。たとえば、自由ヶ丘、桜ヶ丘、桜台、希望ヶ丘・・・・といった具合である。その土地からイメージが出てくるのではなく、名前が先行するのである。これが更に文学的イメージを切り捨て、物理的イメージに徹すれば、最近の住居表示で各地に見かける「中央〇丁目」などというのになる。)

  以上で明らかなように、番頭(に代表される人々)には、「目の前に在るもの」はいわばその「生活体系」のなかに、その生活との係わりの遠近あるいは濃淡の度合なりに整えられ位置づけられ、それが彼らの知恵となってゆくのに対し、中年の客(に代表される人々)においては、それは、日ごろの彼らの生活自体とは関係のない、何らかの規範により選択をうけ、「知識体系」なるもののなかに、いわば「客観的」に位置づけられてゆくということになる。

 おそらくこれは、重要にして決定的なちがいのはずである。極端に言えば。近代的教養人にとって、その日常は、とるに足らない、下らないものとのうっとおしいつきあいに他なるまい。大事なのは、自分の仕入れた高尚な「知識」「教養」とつきあうことなのだ。自ずとそれは、自分をかけて社会に係わるのではなく、自分の主たる興味の中心たる「知識」体系を通じてのみ、それと係わり、それ以外は我関せずとして過ごしてゆくことになる。そして自ら称して「専門家」という。彼らは、いわばフィクションの世界に遊んでいるのである。具体的な生活という根がないのである。だから、逆説的に言えば、泥くさい根や地下茎に触れることを避けることによって、私たちは今様の「教養人」「知識人」「専門家」に、なろうと思えば簡単になれるのだ。 

 しかしいま、番頭に代表されるような草の根付きものの見かた、知識は一般的ではなくなっているから、その意味さえ分らなくなろうとしているといってよかろう。番頭と中年の客のちがい、それ自体が、もう分らなくなってきているのである。しかしいま仮に絶海の孤島にでも、突然私たちが放り出されたことを想定してみたとき、この違いが歴然として露になってくるだろう。そのとき初めて、フィクションの世界がフィクションにすぎないこと、つまり星座でなくて星の大事さが、そして初めて星座の意昧が、分ってくるだろう。知識というもののほんとの意味が見えてこよう。しかし、こんなことは、なにも絶海の孤島に出かけなくたって、それこそ日常において分らなければならないのだ。私たちはいま、「常識」という二重三重にも重なった星座でものを見る癖がついて(つけられて)しまっているのである。

 私は最近、子どもの本箱から「十五少年漂流記」をひっぱりだして続んでみた。昔懐かしい本であった。そしてふと思ったのである。これは単なる冒険ものではない。著者は、近代という時代のあぶなっかしい傾向に対して一言言いたかったのではなかったか。そこには、番頭的なのも、中年の客的なのも、もっと知識人的な(行動のともなえない)人物も、あたかもこの世の縮図のように(だから十五人に意味がある。ロビンソンでは迫力がない)でてくるのだ。少しばかりうがちすぎであろうか。

  私は別に、「知識体系」や「教養」をもつこと否定しているのではない。そうではなく、日常の営為とそれとの遊離、言いかえれば、生活の根や地下茎を切り捨てて済ますこと。それを問題にしているのだ。何らの正当な理由もないままそれを切り捨てる癖がついたからこそ「それはそれ、昔は昔、いまはいま」になってしまったのだと私は思うのだ。自らの生活の体系と知識の体系の遊離、そして知識体系への寄りかかり、現実からの逃避あるいは傍観者的態度、これはどうも頭初の文にもあったように、大正中ごろからこのかた、あたりまえになってきたような気がするのである。

  そしていま、私たちの身のまわりのものや町や建物などが、ほとんど全て、この私たち(の生活)との真の意味の係わり、つまり根や地下茎を見失なったかの中年の客的発想で語られ、そしてつくられるようになってしまっている。人々は抽象的人間として対象化され理解され、生身の人間はどこかに雲散霧消してしまい(またそうすることが科学的だなどと愚かにも思い)、目の前のものも、全てが「景色」や「景観」としてのみ扱われ、その見えがかり(分り易く言えば、写真映り)ばかりが問題にされて、決してそれらのもつ私たち(の生活)にとっての重い意味はかえりみられもしない。たとえ「教養」にもたれかかって現実から逃けだすことを願ったところで、それはできない相談である。必らず、大なり小なりその日常には、番頭的局面がある。であるにも拘らず、どういうわけか、この番頭(に代表される人々)の立場・発想が完全に切り捨てられてしまう。

 従って、そういうなかでつくられるものは、ほとんど全てが、私たちとの語らいを許さないような、白々しい、あるいは私たちの神経を逆なでするような、あるいは又私たちに一定の行動しか許さないような、そして、ある詩人の言葉を借りて一言で言うなら「体験の内容と成り得」ないもの、「魂の象徴を伴わぬような用具に過ぎ」なくなってしまっている。

  「私たちの祖父母にとっては、まだ家とか井戸とか、なじみ深い塔とか、それのみか彼等の着物やマントさえも、今日より段違いに大切なものであり、また親しみ深いものであった。彼等にとっては、すべてのものが、その中に人間的なものを見出したり、またそれを貯えたりしている器であった。ところが今は、アメリカから中身のない殺風景な物品が殺到してくる。それらはただの仮りの物、生活の玩具にすぎない。アメリカ式の考えによる住居、アメリカの林檎、アメリカの葡萄には、私たちの祖先がその希望と心やりをそのなかにこめていた家やくだものや葡萄とは、少しも共通なところはない。私たちからいのちを吹きこまれ、私たちによって体験され、私たちと苦薬をともにするところの、ものは、いまだんだん消滅しつつある上に、もはやこれを補う道もない。たぶん私たちは、このようなものを知っている最後の人々であろう。」

 これを読んで、いったいこの文がいつごろ書かれたものと思うだろうか。実はこれは、1925年に先のある詩人が記した手紙の一節なのだ。それから五十余年、いま私たちはヨーロッパから半世紀連れて最後に直面しているのだろうか。それとももう最後を通りすぎてしまったのか、まだ辛じて最後ひきずっているのだろうか。

 そして私は、「もはやこれを補う道もない」のかもしれない、という暗い気分にともすればおちいりそうになりつつも、しかしどうしてもそのままで済ます気にもなれないのである。むしろ、補えるという確とした見通しがあるわけではないが、私たちこそがそれをしなくていったいだれがそれをするのか、そう思うだけである。それがきっと、いま生きている私たちの、私たちに課せられた、義務なのだ。そう思いたい。私たちはせいいっぱい、切ってしまった根や地下茎を再び探してつなげなおす責を、きっと負っているのである。

  私はここ十年近く、幸いなことに、学識のない無知の、専門家でもない人たちが、普通は素人は口をさしはさむべきでないとされるいわゆる専門的なことがらについて、学識ある、専門的知識あふれる専門家に対して、おずおずと、しかししたたかに、いうところの素朴な問いかけをする場面に何度も会ってきた。何故彼らがおずおずするかといえば、かならず専門のことは専門家のいうとおり聞いていればよい、とか、専門的なことだから、どうせ説明したって分らない、などとだいたい門前払いをくうのが常だからである。そして何故したたかかといえば、それでも彼らは問い続けるからだ。何故彼らはあきらめないか。それは単純な、全く単純な理由である。おかしいと自らの体験で思ったことはおかしいという、そして、同じくどう考えても分らないものに対しては素直に分らない、説明してくれという。それだけである。しかしそれは、いかに並大抵でない「それだけ」か。世のなかの「常識」「慣習」という峠を何回も越えなければならないからだ。

 そして実にこういう問いかけこそが、まさに学識ある専門家たちを根底からゆさぶることになるという例に、ことあるたびにぶつかったのだ。なにしろ彼らのほとんどは根なし草だから、ひとたまりもない。生活にがっちりとした根をはっている人たちの素朴な問というのは、どうしたって根源的(radical)だからである。

 そして、このいわゆる素人たちは、その専門家たちとのやりとりのなかから、自分たちなりにどんどん「知識」を吸収し、自らの生活体系のなかに組みこんでゆく。そこには生活体系と知識体系の二本だてはない。根から幹へ、幹から枝へ、そして花へと、一本のしたたかな樹木となる。ますます自らの生活をとりかこむものが「分って」くる。言うなれば、新しい型の番頭的人々が生まれているのである。そしてこの「無知」で「無名」な人たちが、「知識あふれる」「有名」「高名」な人たちと、対等に、ときには対等以上に話を交わすまでになる。

 そうなると、ここであらためて、「専門家」とはいったい何かということが問われることになる。

  もちろん、未だこういうしたたかな人たちの数は絶対的に少い。あいかわらず多くの人たちは、自らを「無知」だときめこんで、雲の上のえらい人たちの言いなりになっている。だから雲の上の人たちは、ますますいい気になる。雲の上にいることが、知識人、専門家の望むべき姿だとさえ思っている。

 けれども現実に、あそこにもここにも、こういう自分たちの上におおい被さる暗雲をとり除こうとする人たち、自分たちの生活に根ざし、それを大事にする人たち、こういう人たちがいるということ、そして、そういうことの大事さに気のつく人がそのまわりに増えているということ、そういう現実を目のあたりにするとき、決して未だ「最後」ではないのだ、と私は思うのである。明らかに、根や地下茎を切ることを拒み、「間」抜けをきらう人たちが、いつも踏みつけにされながら、そしてそのたびに強くなりながら、したたかに生きている。

 そしていつも、こういう素晴らしい「無名」な人たちの存在に、私は勇気づけられてきた。ここに「同志」がいる、一人ではないのだと。これはほんとに「幸いなこと」であった。

 

あとがき  〇猛烈な暑さである。そして、毎日のように雷雨。暑中お見舞申し上げます。   〇先号のあとがき中に引用した文章は、ソロー「森の生活」の一節である。同じく先号あとがきと今回引用した詩はリルケ「第九の悲歌」そして手紙は「ミュゾットの手紙」の一部である。なお後者は唐木順三「事実と虚構」中より孫引した。

この文を書いていて、この五月の末だったかに久しぶりに訪ねにきてくれた卒業生の話していったことを思いだした。   この人は、この春さき二ヶ月ほど信州白馬のペンションでアルバイトをしたのだそうである。その持主は都会のいわゆる脱サラで、とにかく無性に山が好きでそれをはじめたのだそうだ。しかしこの商売は言ってみれば季節もので、雪が消えたら客足はぱったりと途絶える。食えなくなる。どうするか。いわゆる日やといで土方をしてすごすのだそうである。彼の目ざすのは、より充実した「森の生活」なのだそうだ。かといって、ほんとの自給自足的「森の生活」ではない。森の生活というもののいわば口マンチックな側面がその想いの対象である。山が好きだというのも多分同じだろう。その実現のために(金がいるから)身すぎ世すぎのための金かせぎをするというわけだ。つまり生活が二重の構造で成り立っているのである。もっとえげつない言いかたをすれば、遊びのために金かせぎをするという生活である。これと、食うために働くこと自体が即生きることであり、その息ぬきとしてときたま湯治に赴く、という昔の農民の生活では、まるっきりちがうだろう。考えてみれば、近代人の生活は概ねこういう二重構造、二重生活になっているわけではなかろうか。好きなことをする「生活」とそれを行うための「生活」と。これも又、知識と生活、教養と生活、そしてこの場合は趣味と生活、この遊離だと言ってよいだろう。

 そしてこの卒業生、最初はこの人の生活が素晴らしいようにも見えたけれども、そのうちだんだんと、そのあまりの夢想にちかい根なしぐさの発想にいや気がさしてきたそうである。そして、おかげで、自分がしなければならないことが、おぼろげながら見えてきたらしかった。

〇先日の暑い夜、卒業生の一人から電話がかかってきた。いま、非常に問題だと思える計画をやっている。長い目でみたとき、いわゆる環境破壊以外のなにものでもないと思う。別のやりかたがあるはずだと言っても分ってもらえない。不本意ながらやってしまうことになる。いったいどうしたらいいのだろうか。ざっとこういう内容であったと思う。返答に窮した。この人が、その仕事から手を引けばよいというような問題ではない。五年後そして十年後、あなたが「分らない人だ」などと言われないように、それこそしこしこ、たとえ百分の一でもよい方向に向くように、あきらめないでしつこく毎日をすごすしかないのではないか、というまるで答にならない答を言うのがせいいっぱいであった。それとも、そんなこと自分で考えろ、とでも言うのがよかったのだろうか。こういうとき、教師とは何なのか、つくづく考えてしまう。

〇そうかと思うと、こういう物騒な手紙が来た。・・・・(世の中を)変えるよい方法があったら是非教えて下さい。爆破だろうが殺人だろうが(そんな単納な手段で世の中変えられたら悩みませんが)何でもできます!

〇たしかに、世の中、非常な危機感を感じる。あせってはいけないと思いつつ、どうしてもあせりたくなる。

〇どうにか五号までたどりついた。三号なんとかで終らなくて済みそうで、ほっとしている。でも、まだ先がある。

〇字の大きさを読みにくくするのが省資源とはこれいかに、という詰問をうけた。弁解の余地なし。老眼でないけれど、自分でも読みにくかったもの。よって修正する気になった。おかげで、一度打ったタイプを全面打ち直し!

〇それぞれなりのご活躍を!!

      1981年8月1日                        下山 眞司

 


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