歳の暮れに思う

2015-12-30 15:01:56 | 「学ぶ」ということ

庭続きの雑木林の朝の光景です

ここ最近、当ブログで一番読まれているのは、「シャチ継」の工程を写真で紹介した記事です。お役に立てればいいな、とは思う一方で、何のためにお知りになりたいのか、非常に気になっています。余計なお世話かもしれませんが、単なる「知識の収集」でなければいいけれど・・・、と思うからです。
同じような思いで書いた数年前の記事があったことを思い出しました。「日本家屋構造」を紹介していた時に書いたものです。
今と変わらない「思い」が書かれていましたので、そこから、該当部分を再掲することにしました。


ここしばらく、このブログに、「日本家屋」の「各部の名称」や「各部の構造」(「つくりかた」か?)を調べるために(?)寄られる方が大勢居られます。建築系の学校で宿題でも出されたのかな、などと訝っています。
そして、この「現象」を見るにつけ、「日本家屋構造・上巻」を紹介する際に、先ずはじめに書いておくべきことがあった、とあらためて思いましたので、遅まきながら、中巻を紹介するにあたって書いておくことにします。

それは、「日本家屋構造」を「教科書」として「日本の家屋・建築」について学ぼうとした人びと、つまり学生たちが生きていた社会が、どういう社会であったか、ということについてです。
一言でいえば、この「教科書」に取り上げられている各種の「事例」は、明治年間には、どの地域でも普通に見られる「事例」であった、つまり、学生たちは、各部の「名称」や「構造」は知らなくても、そこに載っている「事例」の存在をよく知っていた、決して珍しいものではなかったのです。
さらに言えば、学生たちの身の回りには、江戸時代に建てられた家屋はもとより、それ以前に建てられた例も、数は少ないとはいえ、在ったはずです。大げさに言えば、身の回りに古今の建物が、重層的に蓄積され、存在していたのです(それが、人の暮す「家並」「街並」の本来の姿なのです)。

    この書の事例に違和感なく接することができるのは、
    かつて、「文化度の高い:cultivated な地域」(後註参照)で暮していた、ある年代より上の方がたか、
    現在、「文化度の高い:cultivated な地域」にお住いの方がた
    そして、そういう場所で暮してはいないが、そのような地域やそこにある建物群を意識的に観てきた方がた、
    に限られるのではないでしょうか。

では、今、この書のなかみに触れる若い方がたはどうでしょうか?
おそらく、そこに載っている各種の図面は、身の回りで見たことがない事例についての図がほとんどでしょう。
もちろん、どの地域に住まわれているかによって異なります。
しかし、少なくとも大都会では、身の回りには見かけることはなく、博物館か郷土資料館にでも行かなければ見ることもできないでしょう(それさえもかなわないかもしれません)。
つまり、身の回りで目にすることとは関係ないため、見ても実感が伴わないのです。

都市化の進んだ地域の若い方がたが身の回りで目にするもの、それは住宅メーカーのつくる建物であり、たまに「木造家屋」があっても、それは、現行の法規に拠った「かつての日本家屋、日本建築とは(意図的に)縁を切ったつくりの建物」。まして、古今の建物が目の前に実在するなどということはまずない。目にする事例すべてが、前代と断絶している。
   千葉県・佐倉にある「歴史民俗博物館」はお勧めです。「家屋」だけではなく「古建築」全般にわたり知ることができます(大縮尺の模型も多数あります)。

しかし、幸いなことに、大都会を離れれば、あるいは、「都市化・近代化に遅れたとされる」地域に行けば、古今の断絶を感じないで済む地域がまだ多数残っています。そういう地域に住まわれている方がたは、明治の若者と同じく、この書の内容に違和感を感じることはないはずです。
   私は、大都会を離れ、「都市化・近代化に遅れたとされる」地域「文化度の高い:cultivated な地域」と考えています。

   逆に、都市化の進んだ地域、たとえば、東京の「発展地」:「地価の高騰地域」は、「文化度が低い」と見なします。
   なぜなら、そこで目にする建物は、その多くが、「根無し」。
     ・・・・・
     (われわれを取り囲むのは)まがいものの建築、すなわち模倣、すなわち虚偽(Sham Architecture;i.e.,imitation;i.e.,lying)」(i.e.=すなわち)・・・・
     「われわれも両親も祖父母も、かつてなかったような忌むべき環境(surroundings)に生活してきた。・・・・
     虚偽が法則(rule)となり、真実(truth)は例外となっている。・・・・

   これは、19世紀末のヨーロッパの建築についてのオランダの建築家ベルラーヘが語った言葉です(「まがいもの・模倣・虚偽からの脱却」参照)。
   今の日本の都会はまさにこの姿に重なります。
 
   もちろん、「文化度の高い:cultivated な地域」は、大都会・東京でも皆無ではありません。
   根岸や谷中のあたりにゆけば、体験することができます。そのほかにも点在してはいます。

そして、「日本家屋」の「各部の名称」や「各部の構造」を学びたいのであれば、先ず、そういう地域・場所へ出向き、実際の事例を観察するのが必須ではないか、とも考えます。
いったい、目の前の建物は、どうしてこのような「平面」になっているのか、「形」になっているのか、・・・・そして、いったいどのような手順でつくるのか、・・・・その場で観ながら考える。「名称」を知るのは、それからでも遅くはない
のではないでしょうか。
   もしも、「各部の名称を調べてこい」、などという「宿題」が出されていたとするならば、それは、「教育」として間違っている、と私は思います。
なんなら、「対象」を写生:スケッチし(写真ではダメ)、それを持って、図書館、博物館、資料館を訪ね、書物を紐解いたり、あるいは学芸員や司書に教えを乞う、これが最高の「学習」ではないか、と私は考えます。大工さんに訊けたら最高ですね!

   書物を読んで集めただけの「知識」は「知恵」にならない、と思っています。サンテグジュペリならずとも、それでは「辞書」と同じだ!
       ・・・・
      私が山と言うとき、私の言葉は、
      茨で身を切り裂き、断崖を転落し、岩にとりついて汗にぬれ、その花を摘み、
      そしてついに、絶頂の吹きさらしで息をついたおまえに対してのみ、
      山を言葉で示し得るのだ。
      言葉で示すことは把握することではない。
      ・・・・      
      ・・・・
      言葉で指し示すことを教えるよりも、
      把握することを教える方が、はるかに重要なのだ。
      ものをつかみとらえる操作のしかたを教える方が重要なのだ。
      おまえが私に示す人間が、なにを知っていようが、
      それが私にとってなんの意味があろう?それなら辞書と同様である。
      ・・・・         サン・テグジュペリ「城砦」(みすず書房)より

   写真ではなぜダメか。それは、「対象」を観ないからです。ファインダーを見ているだけになるからです。



読み直してみて、改訂するところは、ありませんでした。そして、このような「現象」は、何も現今の若い世代だけではないことが、例の「オリンピックエンブレム案」「新国立競技場設計案」問題で明らかになったのです。名を成した「大人」もまた、いいかげんであることが「立証」されたではありませんか!「大人」が率先して、ものごとを5W1Hで問い続けることを忘れている・・・!

今年もあと一日になりました。来年は、もう少し真っ当な世の中でありたい、と思います。
「中世ケントの家々」の紹介の続きも、来年になってしまいました。よろしくご了承のほど・・・。

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また《神話》がつくられた!?

2015-12-26 10:57:12 | 近時雑感
[変換ミス訂正 27日9.30]

車を運転しているとき、交通標識の「規定」どおりに運転していれば安全である、と思って運転している人は、まずいないでしょう。普通、視界の状況を判断して、速度はもちろん道路上のコースも決めながら運転していると思います。多分それは、各時点で起きるかもしれない事態を「想定」しているからではないでしょうか。
交通標識に従っていれば、絶対に安全に運転できる、などということは、それこそ絶対にあり得ないことなのです。
  私は最近、日が暮れてからの運転は、極力しないようにしています。夜間の「視力」に自信が持てなくなったからです。
  先日、免許の更新で、高齢者講習会に出てきました。幸い、「認知機能検査」は良好でしたが、暗い状況での動体視力は、悪くなっていました。

ところが最近、法の規定する「安全規定」に則っていれば(規定のとおりに為されていれば)絶対に安全である、かのごとき「判断」が為されました。
よくもまあ、そんな「判断」ができるものだ、と私は驚きました。原発再稼働の件です。

この「判断」は、端的に言えば、交通標識に従っていれば絶対に安全を保証できる、ということです。それで安全が確保できる、などということは、机上の論に過ぎないことは、福島で「実証」された筈ではなかったでしょうか?新たな《神話》が生まれたか?

多くの新聞もこの「判断」を論評していましたが、私の知る限り、明解・明快だったのは、東京新聞だったように思います。下に、25日付の同紙の「社説」とコラム「筆洗」を転載させていただきます。


   もっとも、再稼働を「歓迎する」論調の新聞もありました!!

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貶められた「伝統」・・・・建築家の「底」の薄さ

2015-12-23 11:08:54 | 近時雑感
[文言補訂 16.56]

新国立競技場の二つの「計画案」の件、おそらく人びとの感想は、「どっちでもいい」(あるいは「どうでもいい」)というところではないでしょうか。

諸報道の伝える内容を見たり聞いたりして、私は次のような感想を抱きました。
日本の「(建築の)伝統」を「建築家」が貶めている!!

どちらの提案者も、それぞれの案は、「わが国の古き時代の建造物に『(イメージの)拠りどころ』を求めた」と語っているようです。
具体的には、一方は、法隆寺五重塔などの軒先(の垂木の列)を、もう一方は三内丸山遺跡の櫓を挙げているらしい。
そして、双方とも、「木材」を使えば「和(表現)」になる、とも言っている・・・!!

古の「工人」たちが聞いたら、目を白黒して訊ねるのは間違いありません。
建築家というのは何なの?

三内丸山の時代、法隆寺の時代に、このような「建築家」は、彼の工人たちの為したような建造物を造れたでしょうか?
無理でしょう。
そのとき、彼らは「(イメージの)拠りどころ」を何処に探すのでしょうネ・・・!?

この提案者たちは、「競技場とは何か」を考えていたのでしょうか・・・?
   
いずれにしても、エンブレムの件に続き、今回も、建築家:設計・デザイン界の底の薄さを世に広く開示してくれたことだけは確かです。

一昨日(21日)の毎日新聞夕刊の連載漫画「ウチの場合は」が、そのあたりを明解・明快に描いていましたので、下に転載させていただきます。
最後のコマの信一君の「ちがうだろ」の一言が効いています。「どうでもいい」ではないのです。

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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-25

2015-12-18 11:42:28 | 「学」「科学」「研究」のありかた


      *************************************************************************************************************************
   The dating of different house types
fig65 には、14世紀後期からの新しい壁の高い建物の隆盛にともなう建物形式の変容の様子が示されている。この図から、14世紀後期以降に現れる形式は、唯一 WEALDEN 形式 だけである、と言ってよいだろう。
WEALDEN 形式 は、単一の屋根に覆われた中世家屋の究極の形式として見なされ、また、常に、その出現は、 end-jetty 形式:妻側跳ね出し形式よりも遅い、と考えられてきた。しかし、もしもこの判定が間違いないとしたならば、ケント地域の最古の WEALDEN 形式の遺構は、最古の end-jetty 形式:妻側跳ね出し形式の事例よりも遅れて現れなければならないことになる。この時代判定の確度については、後に再考されるはずであるが、この2形式の前後関係の論議は、 HADLOWTHE OLD FARMHOUSE の年輪判定結果によって混乱に陥れられた。何故なら、この事例は、特に、その継手の技法、独特な架構法、古風なくり型などからして、目に見えて「古風な」形式と見なしておかしくないのであるが、これらの「特徴」のどれも、 end-jetty 形式:妻側跳ね出し形式 の建物には見られず、一方、WEALDEN 形式の事例には少なからず見られるからである(註 つまり、この事例の正体は如何?という意と思われます)。
   註  end-jetty 形式:妻側跳ね出し形式
     前回掲載の fig49(下に再掲) の e が、この形式の外観です。

ケント地域で、間違いなく最古と考えられるWEALDEN 形式の事例は、fig66(下図)の1379年~80年建設の CHART SUTTON に在る CHART HALL FARMHOUSE と1399年建設の SHEPHERDSWELL wuth COLDRED にある WEST COURT である。この両者には「古風な」工法や装飾が多数見られる。一方、 end-jetty 形式:妻側跳ね出し形式の最古とされる事例には、これらの特徴は見られないし、年輪判定でも時期がやや遅れる。

   註 SHEPHERDSWELL wuth COLDREDCOLDRED 教区SHEPHERDSWELLの意のようです。日本の〇〇町字△△という表示に相当か?

既に写真を載せた( fig63 下に再掲) PLAXTOLSPOUTE HOUSE は1424年築、CAPELWENHAMS and THISTLES は1431年築と判定されている。

   註  WENHAMS and THISTLES, CAPEL : 上記のように訳しましたが?です。

今回調査された end-jetty 形式:妻側跳ね出し形式 の建物で、その様式、架構法の点で間違いなくかなり旧いと思われる事例は一つもなかった。それゆえ、この様式は、WEALDEN 形式が主流になってからも~40年は造られ続けたと結論してもよいように思われる。ところが、fig65 は、15世紀中ごろまで、この両者は併存していることを示している。すなわち、WEALDEN 形式は15世紀後期には主流となるが、 end-jetty 形式:妻側跳ね出し形式 も相変らず(長い間)建てられ続けたのである。この事実は、WEALDEN 形式で建てることのできる富裕層が増えてくるのは、最初に総二階建ての建物: end-jetty 形式を望み、その建て主となった人びとが多かった時代よりもかなり遅れる、と考えれば説明できるだろう。

unjettied : 上階が跳ね出さない家屋fig49 f 参照)は数が少なく出現するのも遅く、15世紀中期以前の事例は皆無であり、いくつかある事例もこの様式であると確と判定できない。それらの多くは、hall とそれと同時期の建設と考えられる端部:妻側部分から成るが、上階が前面に跳ね出している事例はまったくなく、WEALDEN 形式に似ている例も滅多にない。つまり、その大部分は、flush-walled : 壁面が全面平坦:な、 end-jetty あるいは unjettied 形式の建物と言ってよい。

いろいろな形式の家屋の違いを見分けることは簡単ではないが、それぞれの発展過程は異なっており、また規模においても、それぞれ特有の傾向がある。各地の調査でも、家屋はぞの大きさに従って分類されたが、多くの場合、形式・形態の差異も仕分けの指標とした。
今回の調査で記録された中世家屋の数は、この「規模」と「型式・形態」の二つの観点で調べており、その方策として二つの方法が採られた。一つは、全地域に於いて、家屋の各「構成部位」について分析を行うこと、もう一つは、「形式・形態」をその家屋の「高さ」との関係で考察すること、であった。
                                               この節 了
   *************************************************************************************************************************
今回は、内容の区切りがいいので、ここまでとします。
次回は、第一の観点での考察: The relationship between size and type of house の節の紹介になります。
      ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
筆者の読後の感想
  歴史を「様式の変遷」として考察する「西洋の史学の伝統」を強く感じました。
  私は、学生の頃から、この「考え方」に違和感を感じています。
  学生のとき、「日本建築史」の「様式史」的な講義を受けました。それは多分、明治以降の「学の近代化」による西洋史学方法論の影響だったのでしょう。
  たとえば、「斗栱」の形状は建設時期で異なるので、それにより建物の時代が判定できる、というような内容。つまり、天平はこうで、白鳳はこう・・。
  私はそのとき、違和感を感じたのでした(その時の教場の様子も覚えています。「印象」が強かったのでしょう)。
  確かにそうかもしれない。しかし、「形状」はいわば「結果」であり、「なぜ時代によって異なるのか、なぜそうなるのか」こそが考察対象であるべきでは?
  「時代を標示するために、その方策を採る」?まさか・・・。
  なかには、そのように思う人、そうしないと時代に遅れる、などと思う人もいたかもしれません。
  しかし、現場の「工人」なら、「それだけ」を考えないはずです。
  もちろん、「工人」も、仕上がりが整うこと:仕上がりの格好よさ:に意を注ぐでしょう。
  しかし、彼らの念頭にあったのは「所与の目的を満たし、かつ無事に自立し、格好よいこと」だったはずです。「格好よい」だけでは無意味・・・。
  つまり、「先行」などという考え方は、ものづくりの世界では存在理由がない。「形には謂れがある」。
  私のこの見方・考え方は、以来、今に至るまで、変りありません。

  文中の fig49 。私には a, b 以外はどれも同じに見えます。上階が跳ね出しであるか否か、どちら側に跳ね出しているか・・、単にその違いではないか。
  それを別の「様式」と観るのが合点がゆきませんでした。それぞれごとの、そうなる「要因」は何か?その「説明」はなかったように思えます。
  あえて言えば、建て主の社会的「階層」とその「生活様態」にその因を求めている。それだけなのか・・・?
  後の節に「説明」のあることを期待します。

  なお、文中の「諸形式の時間的前後関係の叙述」を「理解」するのに難儀しました。ゆえに、「誤解による誤訳」があるかもしれません。
  多分、私の上記のような考え方・見方が「理解」の妨げになったのでしょう。
  

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12月8日

2015-12-09 14:22:29 | 近時雑感


初冬の水田。集落の背後の丘からの見下ろし。
黄緑色は稲の「ひこばえ」、茶色は田起こしで鋤きこんだ田。水面は蓮田。


昨日は12月8日だった。
12月8日がどういう日であるか、身に染みて知っているのは、いわゆる「後期高齢者」、75歳を超えた人びとのはずです。
私が小学生(国民学校生)低学年の頃、毎年この日の朝礼は講堂で寒い思いをしながら「勅語」を聞かされたものでした。
アメリカでは、記念日になっているらしい。
こういう「思い出」は不要です。しかし、最近の世の気配には、いささか気になるにおいが感じられるように思います。

昨日の東京新聞のコラム「筆洗」をweb版から転載させていただきます。

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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-24

2015-12-08 10:46:30 | 「学」「科学」「研究」のありかた


      *************************************************************************************************************************
  The pattern of late medieval development

ケント地域の中世家屋の調査により、調査終了時点までに、1370年代以降の建設と判定された477事例について、その詳細が明らかになった。それらは、特別な目的で造られた建物も在るが、総二階建ての事例が多数あり、その他は、全体の形態が分らない断片的な遺構である。しかし、断片的遺構のうちの379事例は open hall 形式で、これらは、いろいろな観点で分析され、この地域の建物の1370年~1540年代の発展と分布の様態を描くうえで貴重であり、役に立たない事例は一つもなかった。ただ、遺構のいくつかは、まったく年代を確定できないため、発展のどの過程にも位置付けることができない。また他の事例は多様な様相を呈していて、それぞれは別の目的があったものと考えられる。更に、まったく記録されなかった事例もかなりある。たとえば、ある wealden 型式の事例は、近づくことができなかったため、数の上では中世遺構の事例として、また wealden 型式の一事例として数えられているが、家屋の「時代-家屋」の考察からは除外されている。
それゆえ、以下の諸表で挙げられる建物の数は、表によって異なっている。たとえば、総二階建てや特別な目的の建物は含まれていない。二階建の建物は事例が少なく、その分析も定かにできていない。それゆえ、これらについての解析は、必然的に推論の域に留まらざるを得ず、解析も項目それぞれ独立に扱っている。

  The chronology of surviving houses

中世の open hall の様態を論じるためには、はじめに建物の建設年代判定の問題について考えておく必要がある。
年代構成の枠組みは、年輪判定法で年代が既定の建物を基に為され、その枠組みの中に、すべての建物の建設年代を位置付けている。なお、年輪判定法によるデータの扱い:問題点については、付録1(後に紹介予定)において詳しく論じてある。
時代を越えて発展過程を表すために、各遺構・遺物は、必ずしもすべてに適切ではないが、およそ40年程度の幅の中に位置づけるようにしている。この時間区分に割り振られた事例は、計算の都合で中間の年代が与えられる。
先ず、fig64 。これは、建物の件数を10年単位でまとめた表である。

対象になし得る建物の実数は378件であるが、事例によってはいくつもの時期にわたるものがあり、架構として際立つ様相を1件として数えているため、図表上では405件になっている。
表は、調査が集中して行われた教区の事例数とそれ以外の教区の事例数に分けて表示している(表の註記参照)。表に入れた全てを数えると、これらの教区の様相・傾向は他の地区のそれと大きな違いはないと思われる。このように色分けしてみると、この表は、全域をくまなく調べなくても、この地域で何が実際に起きていたのか、それを如実に反映していると見なせるのではなかろうか。ただ、建設年を中間の年とする方法で決めるのは逆に不確かさを増幅するのは明らかである。しかしながら、他に「これは」という絶対的な決め手がない以上、この方法が最も妥当であると考えている。
   註 60教区の調査でも(全域調査しなくても)、全域の様態を推測できること、つまりこの研究調査法の妥当性を説いているものと解します。
fig64 は、14世紀中期以降の建設とされる事例が存在しないなかで、1370年代以降の建設の新しい建物の現存数が増え始めることを示している。表に示されている各10年間の事例数は決して多くはないが、初期の状況と以降の状況の違いは注目してよい。しかしながら、15世紀初期には、事例数は増加することなくほぼ一定に推移し、状況の変化を正確に反映していると思われる調査した60教区に限れば、むしろ減少しており、その傾向は1440年~50年代まで続いている。このことは、現存している型式が、後の時代ほどには、その時代の一般的な建物の用途を反映はしておらず、また、一旦ある形式が採り入れられると、それが一定の比率で増える傾向があることを示している。それゆえ、高さの低い建物が後の時代に改造された事例も多いと思われるが、ケント地域に遺っている家屋の多くは、1370年代以降になって着実に数を増していると考えてよいだろう。
しかし、fig64 の示す数値に過度に依拠することは誤りである。たとえば、表に示されている60教区で収集された事例(数の変移)から、15世紀上半期の新築建物は減少傾向にある、と見なすには注意がいる。

変遷のペースの低下は、建物の形式が変わり始める頃と時期が重なっている。
fig65 は、1370年代以降に建てられた open hall を型式別、建設時期別に示した表である。

ただ10年ごとに仕分けるには事例数が少ないので、より大きく34~35年ごとの5期に分けてある。最初は主屋に直交配置の別棟、あるいは open hall :主屋:だけが現存する事例が主で、より新しい側壁の高い建物が少ない。第二期になると、新しい形式が旧型式を上回るようになるが、その多くは重点的に調査した60教区の事例ではない。この展開は予想外ではあるが、fig64 で明らかになっている15世紀初期の事例数減少傾向を何ら説明してはくれない。これらの主屋や別棟が中世の新形式の建物あるいは中世以降の建物に建替えられたのであるならば、中世の遺構の事例数は、減るのではなく増えていなければならない。それゆえ、14世紀後期の短期間の新築ブームの後は、15世紀中期以前の新築事例は数少なかったか、あるいは中世以降に取り壊されてしまうような相変らず小さく高さの低い建物しか建てられなかった、と考えられる。これらの詳細についての論議は後12章で触れるが、このどちらの可能性が強いかを考えるにあたっては、15世紀における農業、経済の不況下では立派な建物を造る費用はなく、不況から抜け出せるのは15世紀下半期になってからである、という事実に留意する必要があろう。それまでは、新形式の建物など、彼らの手の届くものではなかったのである。
新しいより良い建物の建設が急増するのは1450年以降に集中しており、fig64 の示す変遷の様態や、年輪時代判定法で1460年代建設とされた事例がいくつかあることから、新築しようとする気運は既にその頃にあり、増加への変化はその10年間に始まっていることが推論できる。その頃から16世紀初頭の10年にかけて、目に見えて遺構数が増加している。fig64を見ると1480年代、90年代に最大になっているが、遺構のいくつかの年代判定に誤りがあったとしても、この傾向には変りがないだろう。
そして、16世紀初頭には、遺構数は15世紀中期と同程度にまで劇減している。これまでの研究では、見事なつくりの open hall のいくつかは、1520~30年代に建てられたとされてきた。しかし、年輪測定法の判定に拠って、その再考が必要になってきている。open hall 型式流行の最終段階に建てられたと考えられる見事なつくりの建物のなかには、実際は1480年代より以前に建てられているが、1510年代までに総二階建ての家屋に建替えられたと見られる例がある。これは、ある一定の地域の様態である。なぜならば、立派な open hall が建てられなくなる地域がある一方で、16世紀中期の終わる頃までは、幾分印象は薄いが open hall 形式の建物は各地で建てられていたのである。ただ、これら後期の事例で現存している遺構は少ない。
しかしながら、fig64 に示されている open hall 激減の理由として、二階建ての hall の導入を挙げるのは、適切ではないだろう。16世紀初期の新築の二階建て家屋は、これまで正式な数や分析は為されておらず、ただ見つかり次第記録されてきただけである。それらの中には、たとえば1506年建設の LINTONCOURT LODGE 、1507年の STAPLEHURSTLITTLE HARTS HEATH などがある。ただ、このような初期の事例は稀であるが、16世紀後期になると、総二階建て家屋が当たり前のように造られ始める。そして、最も興味深いのは、fig64,65 で分るように、16世紀初頭、新築家屋の総数が、100年前(15世紀初頭)と同じような様態で激減していることである。
                                                この節 了
 
  註 イギリスケント地域の中世の家屋の形態・形式の諸相
    このシリーズの第19回で載せたwealden 形式など、イギリス中世の家屋の諸形式を図解した fig49 を下に再掲します。

      ************************************************************************************************************************* 
次回は The dating of different house types の節を紹介の予定です。
      ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
筆者の読後の感想
  調査地域内の中世家屋の遺構数の多さ(500に近い!)に驚きました。知る限り、日本では、まったく考えられないことだからです。
  たとえば、私の暮している集落は、総戸数50戸以下と思います。8割以上が地付きの方がた。つまり、代々この地で暮してこられた方がた。
  その方がたの住まいで、明治以前にまでさかのぼると思しき家は多分存在せず、ほとんどは明治以降、おそらく昭和になってからの建設が最多でしょう。
  詳しく調べたわけではありませんが、昭和30年代に建替え・新築のブームがあったようです。
  おそらく、改造・建替えは、何時の時代にも、頻繁に行われてきているのだと思われます。日本の場合、他の地域でも同じでしょう。
  それゆえ、中世の遺構が多数現存するイギリスの様態に、驚かざるを得ないのです。
  何故なのか、ここまで読んだ限りでは、読み解けません。これも工法の違いが関係しているのかな・・・?

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早くも師走

2015-12-04 11:00:06 | 近時雑感

神社の杜の大イチョウ
今年は、例年になく暖かいように感じられます。
それでも、昨日、今日は薄っすらと霜が降りました。氷はまだです。
今日は日差しもありますが、先ほどから北西風:筑波颪が吹き出し、空気が冷たくなってきました。輝いていたイチョウも冬の佇まいに・・・。

発症以来、もうじき二年(発症した2013年も入れると三年)が過ぎます。[文言補訂]
左手左脚のシビレ感は相変らずで、動きの微妙な調整に難がありますが、杖なしで歩けていることだけでもよしとしなければ、と思うことにしています。[文言補訂]
それでも、寒いときは、外に出るときかなり慎重になります(医者からも、注意するように言われています)。

暖冬とはいえ、今週末から冷え込む予報。皆様、くれぐれも体調にお気を付けください・・。

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