<1.南部もぐりの始まり> 【English(PDF)】 明治31年6月25日(1898年)の夜、函館から横浜に向っていた、『名護屋丸(なごやまる)』(2835トン)という船が濃霧のために、洋野町種市の平内沖で座礁(ざしょう)しました。浸水する船はそのままに避難するしかありませんでしたが、幸い乗客(34名)、乗組員(76名)は全員無事に上陸することができました。 翌(よく)明治32年、『名護屋丸』の船体を解体、引き揚げするために、『三村小太郎(みむらこたろう)』ら4名の房州(ぼうしゅう)潜水夫(房州は現在の千葉)が洋野町にやって来ました。この工事の『雑役夫(ざつえきふ)』(潜水装備を身に付ける手伝いなど、船上でダイバーの補助をする者)として雇われた地元の青年『磯崎定吉(いそざきさだきち)』は、もぐり(潜水)の達人、三村小太郎にその才能を見込まれ、ヘルメット式の潜水技術を伝えられ、『南部も