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初代iPadが日本で発売されたのは2010年5月です。発売初日、銀座のアップルストアには開店前から長い列ができ、ニュースになりました。 同じ日の午前中、田舎に暮らすわたしの自宅には宅配便でiPadが届きました。アップルの公式サイトで、事前に購入予約していたのです。タブレット端末というものが、日本で初めて世に出た日でした(アメリカでは一足早く発売されていた)。 事前予約までしてiPadを求めたのは、わたしが筋金入りのアップルファンだったことに加え、「これで本を買わなくてもいいのではないか」という希望を抱いたからです。iPadを読書端末にし、新刊本も電子書籍で買えばいい。 当時すでに、狭い部屋は本であふれていました。今後はiPadを書斎にし、そちらに新しい本を蓄積すれば、図書館に匹敵する空間を手に入れたようなもの。仮に部屋の本すべてをデータ化できれば、それも楽々と小さなタブレット端末に入ってし
久しぶりに会う約束をした友人から、待ち合わせ場所に着く直前にメッセージが入りました。 「病院にいる。すまん」 彼はある病気と長く付き合いながら仕事を続けています。事情をよく知っているから、怒る気になれないし、必要以上に心配もしません。ときどき悪化して激しい痛みに襲われる。しかし、そのまま命に直結する病気ではない。 悪化すると処方されている鎮痛剤では効きめがなく、病院のベッドで点滴の鎮痛剤を入れて、ひたすら耐えるしかないようです。キャンセルが遅れたのは、直前までなんとか約束を守れないかと考えていたのでしょう。 想像してわたしの心も痛むけれど、元気になったときにまた会えばいい。そんなふうにして、ずいぶん付き合ってきました。 必要に迫られないのに長く続く繋がりというのは、どこかで一つ、ピースがはまっているのだと思います。男と男、男と女、女と女など性別に関係はありません。 気が遠くなるほど数の多い
本好きは、常に新しい出会いを求めています。書店で、図書館で、目立つよう平積みされた本をチェックし、次は林立した書架にぎっしり並ぶ背表紙を眺めてうろうろ。事前の情報収集で、読みたい本が決まっていれば、真っ直ぐお目当ての1冊に向かうこともあるでしょう。 読んで面白かった本があり、またがっかりする場合もあります。本選びは、作品内容と自分とのマッチングを推測する「目利き」のようなもので、読書の楽しみはもうそこから始まっています。 ときには、読み終えるのが惜しい本に遭遇します。ところがそんな1冊でさえ、再読することはめったにありません。 音楽なら、お気に入りの曲を繰り返し聴きます。20代にLPレコードで出会ったG・グールドの演奏を、今はCDの音源をMacに取り込んで再生していたり。また、わたしの知人に落語好きがいて、彼は古典落語のCDを何枚か、飽きもせず運転中に楽しんでいます。 これに対して本は、<
陽が射し、朝から1カ月ほど季節を先取りしたような陽気でした。庭先で桜桃の開花が始まり、春を告げています。20年余り前、一番花の枝を折って母の枕元へ届けたことを思い出します。 末期がんで在宅死を望んだ母は、翌日逝きました。 庭に出て雪つり縄を取り払い、地面を見回せば早くも伸び始めている雑草。小さな花をつけている草もあります。放っておけず、黙々と抜き続けました。 前夜、部屋の本棚の片隅に懐かしい<昭和の路地>が完成しました。 昭和の街並みを再現する模型・ジオラマです。2月初めから制作に入って1カ月半、気づいてみれば大いに楽しんでいました。とにかくパーツが細かい。最初は気が遠くなりました。 雑念が入ると制作が進まない。あるいは組み上げを失敗する。没入するしかないわけで、結果的に日常を離れた時間に遊ぶことができます。 完成した路地を左右に展開すると、こんな具合。計10カ所にLEDの灯りが仕込んであ
2月がまもなく終わる寒い日、朝から車で高速道路を走りました。行き先は京都の山里、大原。かわり映えしない日常を、変えてくれるのは小さな旅です。京都は何度か訪れたことがあっても、大原とその周辺は未踏の地でした。 現役引退し、差し迫った仕事に縛られなくなると、むしろ腰が重くなりがちです。だからこそ、思い立ったらすぐ出かけることが大切。地図アプリによると自宅から車で片道3時間余り。観光シーズンではないので、民宿をすぐに予約できました。 民宿の駐車場に車を入れ、谷川沿いの細い坂道を歩いて上ると、右に寂光院。長い石段の向こうに門がのぞめ、門をくぐれば天台宗の尼寺が静かな佇まいで来訪者を迎えてくれました。ときどき小雪が舞い、観光客の姿は少ない。 寂光院は推古2(594)年に聖徳太子が建立したと伝わる...と、パンフレットに教わりました。そうなのかあ。 わたしが寂光院を訪ねたいと思ったのは、平家滅亡後に建
わたしが子どものころ住んでいたぼろ家の、居間兼座敷に1枚の色紙が掛けてありました。本物ではなく、安っぽい複製品です。子どもながらにも達筆とは思えない毛筆で、こう書かれていました。 「この道より我を生かす道なし この道を歩く 武者小路実篤」 色紙を掛けたのは、無口な職人だった父でした。色紙がいつからあったのか分かりませんが、やがて反抗期・思春期を迎えたわたしは、次第にその色紙に我慢がならなくなりました。 ふつうなら居間に掛かった色紙など、子どもの記憶に残らないでしょう。ところが武者小路に、柔らかい心の土台を逆撫でされるような気持ち悪さが尾を引いたのです。うまく説明できないけれど、不快な言葉だった。ひねくれていたのでしょうか?。だとしたら今も、わたしはかなりひねくれたままです。 改めて考えると、「この道より....」のフレーズは、苦労を経て行き着いた現在への自己肯定で充足しています。 当時のわ
少し前から、書店に行くと気になっていたのが、角川文庫の近代文学に使われているカバーです。こんな具合。 みなさま、自分のイメージとどれくらいマッチするでしょうか? 文豪ストレイドックスコラボカバーをさらに見る うーん、個人的に太宰はじめみんな垢抜けし過ぎていて、「みだれ髪」なんかは漆黒の長い髪のイメージなんだけど..。 調べてみると「文豪ストレイドッグス」という漫画と、角川文庫のコラボ企画なんですね。どのキャラも、漫画に登場する文豪たちのようです。なるほどそういう戦略かあ〜。 さて、数ある太宰治の小説から1作だけ選べと言われたら、わたしは迷うことなく「津軽」と答えます。 東京で女性たちとのスキャンダルや作家としての埃にまみれた太宰が、古里の津軽を旅し、自分の子守りだった老婆のタケと出会う、紀行文(ルポルタージュ)のような作品。小説家として清濁併せ持つ太宰の、澄んだ感性だけが凝縮された佳品だと
世に中にはおびただしい本があって、どんな小説が好きかは人によって異なります。わたしが「この作品は素晴らしい」と思っても、ついさっきショッピングモールですれ違ったたくさんの人たちは、みんな自分だけのお気に入りを持っています。 若い女性ならハッピーエンドの恋愛ものとか、4人くらい殺されるミステリーに限るとか。いや、そもそも小説なんて読まない人の方が圧倒的に多いかな。 「名作」とはいったい何なのか。「これはいい」と思った人の数が多くても、ベストセラーは、イコール名作ではない。では偉い文学者や批評家が名作だと判断したら、そうなるのか。なんか違うよなあ。さてさて... ..と、こんな1ミリも世の中の役に立たないことを考え始めたのは、「老人と海」(アーネスト・ヘミングウェイ)を読み終わり、この作品について書こうとしたつい先ほどでした。書き出しを迷っているうち、頭の中の思考が見当違いの方向へ逃避行したの
車のアクセル踏んで小さな旅をして、金沢駅近くのホテルに投宿。深夜まで、腐れ縁の友と飲み、ホテルで目が覚めたら小雨模様でした。 チェックアウトを済ませ、加賀百万石の名園・兼六園に隣接する歴史文化施設エリアへ。駐車場に入れたころちょうど雨が上がり、ぶらぶら散策しました。何やってるかな、と立ち寄った石川県立美術館。入り口を覗くと「川瀬巴水 旅と郷愁の風景」(2023年9月2日▷10月1日)の掲示が。 や、なんと。これは見なければ。 巴水は大正から昭和の戦後まで活躍し、木版で風景を描き続けた浮世絵師です。欧米では東海道五十三次を描いた安藤(歌川)広重になぞらえ「昭和の広重」と称されています。アップルコンピユータの故スティーブ・ジョブスは、来日のたびに銀座の画廊で巴水作品を探したとか。 そしてわたしも、ファンの一人です。2年前、新宿のSOMPO美術館でも巴水の企画展があって見に行きました。今回は展示
読んでいるうちに、何かをしたくなる本があります。そわそわと、椅子から立ち上がりそうになってしまい。「灯台からの響き」(宮本輝、集英社文庫)も、そんな1冊でした。 父の味を守ってきた中華そば屋の62歳の男が、黙々と仕込みをするシーンを読むうち、無性に彼の店に行きたくなりました。下町の商店街とお店が眼前に浮かび、癖のないスープのすっきり味が、口の中に広がったのです。 また急死した妻に導かれ、日本各地の灯台を巡る彼の姿に、いつの間にか自分を重ねて旅に出たくなったり。 戦後に父が開いた店・中華そば「まきの」は、東京のとある商店街にあります。高校を中退した彼は、父の店を継いで結婚、夫婦で店を切り盛りして味を磨き、中華そばを売って3人の子どもを育て上げました。 流行りの奇抜なラーメンではなく、昔ながらの中華そばの味に、彼は黙々とこだわっています。ところが2年前に妻が急死。以来、店は休業したままでした。
富山県氷見市から日本海に面した山中の高速道路を走り、能登半島の中ほどに位置する石川県七尾市へ向かいました。8月末だというのに、車の温度計は35度。 歴史的に七尾市は海運で栄え、戦国期には背後に迫る半島の丘陵に室町幕府の有力大名で管領・畠山一族の山城が築かれていました。能登は江戸期以降、加賀藩に組み込まれましたが、船の往来でむしろ越中(富山県)と結びつきが強い地でした。 その七尾に、長谷川信春という若い絵師がいました。彼は志を持って京に上り、やがて安土桃山時代を代表する絵師になります。 長谷川等伯です。 松林図屏風(長谷川等伯。国宝、六曲一双。東京国立博物館蔵) 文化的にはきらびやかな安土桃山時代。色彩の魔術師・等伯がたどり着いたのは、墨の濃淡の世界でした。彼の一生は安部龍太郎さんが「等伯」(直木賞受賞作、文春文庫)で描いています。 石川県立七尾美術館には、若き能登の絵師・信春時代の等伯作品
8月初めに義父が逝って、喪主を務めました。93歳。若いころから交友関係が広かった人で、通夜と葬儀に100人を超える参列をいただき、息を引き取るまでの義父の人生について簡潔に話すことで、お礼のあいさつとしました。 わたしは11年前に実父をがんで失っていて、喪主として故人を見送ったのは2回目でした。自己にとって、たとえ肉親であっても他者の死とは「いた人が、いなくなる」という、単純な事実です。これが遺された人それぞれに、極めて深く、また浅く、疵を刻みます。 そして棺の中で花に囲まれた、無表情な顔を見ると、故人との思い出とともに、自分もまたこの世から消える日が必ずやってくるのだと沁みてきます。それは悲しみなのか、救いでもあるのか。確かなのは、人はなかなか死に親しむことはできないということでしょう。 子供のころ、わたしをかわいがってくれた叔母がいました。やや歳が離れた母の妹です。母が里帰りすると、幼
「仏果を得ず」(三浦しをん、双葉社)は日本の伝統芸能・文楽の世界で、芸に命をかける青年の物語です。といっても、カタイ話ばかりではありません。なにしろこの青年、知人が経営するラブホテルの一室を格安で借り切って、アパート代わりにしているくらいだから。 えっ、ぶんらく・文楽?。歌舞伎なら、なんとなくイメージあるけど...。 ところが読み始めると面白く、つい本を置いて文楽についてネットで調べ上げ、再び本を手にして読み終えたころには、表も裏も知り尽くして<通>になった気がします。気だけですが。 三浦さん、あまり知られていない世界を取り上げて、魅力的な作品に仕立てるのがうまい。「舟を編む」は国語辞典の編集者たちでしたが、こちらは伝統芸能を担う個性豊かな人たち。両作に共通しているのは<言葉>や<読み>へのこだわりです。 文楽とは、江戸時代前半に大阪で始まった人形浄瑠璃。なるほど...と、一瞬分かった気に
幕末という激動期。自らの信念を貫こうと時代のうねりに逆えば、人間一人など跡形もなく滅びて消えてしまう。そうして歴史の闇に消え去った人は、少なくなかったはずです。 「幕末遊撃隊」(池波正太郎、新潮文庫)は、若い剣士の生き様と死までを、一条の閃光のように描いた小説です。鮮やかであるほど、歴史という怪物の前では儚い。 外国から開国を迫られ、右往左往を繰り返す江戸幕府。天皇のokを待たずに下田を開港しちゃったもんだから「尊皇攘夷」(つまり天皇家を尊べ!、西洋など追い払え!!)が大ブームに。ブームに乗った薩摩と長州、幕府を糾弾しながら、藩単独で外国船に大砲を撃ちかけたりして、逆に痛い目に遭った。さらにこの2藩もいろいろあって、京では骨肉の争い。間を取り持ったのが坂本龍馬で、龍馬はすぐに暗殺されてしまい...と。いやはや。 「尊皇」と「攘夷」という政治思想が状況に応じて利用され、複数の立場で政治闘争を
面白い小説は、例外なく脇役が魅力的です。悪者であれ善人であれ、主役を生かすのは脇役ですから、彼らがくっきり描かれているほど、その対比で主役が際立ちます。 題名を忘れてしまったのですが、北方謙三さんの時代小説にちょい役で出てくる研師がいます。 偏屈な老人で、気が向かない仕事は一切受けない貧乏暮らし。しかし、研師としての感性がざわめく刀に出会うと、人が変わります。 三日三晩、食い物は塩握りと水だけで刀を研ぎ続けます。何人もの血を吸った刃の曇りを、ひたすら研ぐことで清めようとするのです。これ以上人を斬って曇るな、と。 ところが、刃先を清め、鋭利な輝きを与えるほど、そこに新しい血を求める妖しい気配が宿ってしまう。... あけましておめでとうございます。 正月2日、夕方から台所で立ち飲みしながら、包丁を研ぎました。酔っ払っても集中力を求められる微妙な作業ですが、集中力の方が勝っていて、しかしちびちび
連日の仕事の息抜きに、ふと、一昨年から描いた素描を紹介させていただこうかと思いつきました。ささやかな<ブログ上の個展>。出品者としては会場費も額装費も必要なし!。うん、そこに関してははいいかも。 絵は素人のお遊びゆえ、未熟な点はご容赦ください。 <第一部>は、植物から.. +++++++++ バラ、鉛筆 うちの庭に咲いたバラです。デッサンに数日かかったので、モデルは仕上がる前に散ってしまいました。(現物の素描はもう少し明るいのですが、撮影時の光の具合で暗く見える写真になりました。画像補正する元気なしww) +++++++++ 無花果、鉛筆と油彩着色 スーパーの食品売り場で買った無花果。油彩のためのエスキース(準備)として描いたのですが、結局油彩の方はもっと成熟して割れた無花果をモデルに使いました。 +++++++++ 葉とガラス、鉛筆と水彩着色 絵を描き始めて間もない頃の習作素描。ガラスの
80歳をとうに越えた農家の叔父が、軽トラを運転して柿を届けてくれました。これから雪が降ると、白い景色の中に鮮やかに色映えるのは柿です。わたしにとっては冬の初めの見慣れた景色でありながら、どこか懐かしい点景。 江戸時代から、越中の農民は飢饉に備えた非常食として庭先に柿の木を植えました。江戸期後半には、東北地方の太平洋側に移住してその文化を伝えました。東北の飢饉で離散した土地へ入植したのです。 全米図書館賞を受賞した柳美里さんの「JR上野駅公園口」に、そのくだりが描かれています。 もちろん柿は関東その他の地でも植えられていて、子供のおやつなどとして重宝されました。しかし貧しい農村部では、万が一の飢饉のとき、生き延びるための貴重な栄養源でもあったのです。食べ物に困らない年であれば「てっぺんの実は鳥のもの。道へはみ出た分は旅人のため」とも言われました。 柿が育んだ日本の情と文化ですね。そういえば
父の地方勤務に伴い、思春期を草深い東国で過ごす少女。彼女は姉や継母から、光源氏のことなど様々な物語について教えられます。すぐにも読みたいのですが、何しろ田舎のこと。本屋さんなんて、どこにもない時代です。 「更級日記」=菅原孝標の女(すがわらたかすえ の むすめ)=は、そんな熱烈な文学「推し」だった少女が、やがて晩年に至り、苦い思いと共に一生を振り返った回想録です。 彼女が生まれたのは西暦1008年(寛弘5年)、今から千年以上昔の平安時代。同じ年、政界のトップである藤原家に何が起きたかは、源氏物語で知られるあの人が「紫式部日記」に詳細に記録しています。もちろんそこに、半端な役人に過ぎない菅原孝標に女児が誕生したなんて、かけらも出てきませんが。 やがて父の地方勤務が終わり、京の都に帰った彼女は「源氏物語」50余帖をはじめ、「在中将」「とほぎみ」「せりかは」などなど、手を尽くして物語を集め、寝る
11月に入って庭のドウダンツツジが赤く色づき、斜めから射す光を浴びています。夏の太陽は頭上から照りつけるけれど、冬を控えたこの時期は真昼も空の低い位置から光が射し、景色が輝いて見えるのはそのせいだろうか...と、ふと思いました。 「古本食堂」(原田ひ香、角川春樹事務所)は、穏やかな午後の休日に読むのがぴったりの小説です。リラックスした心に沁みてくる、何気ない、でも旋律が楽しいお気に入りの曲のような。 東京・神田神保町の表通りから外れた鷹島古書店。長年営んできた男性が急死し、北海道帯広市から上京した妹の珊瑚がとりあえず店を引き継ぎます。遺産を処分して北海道に戻りたいけれど、兄への愛着がそれをためらわせる。珊瑚の年齢について具体的な説明はありませんが、両親を看取ったたぶん60代後半の独身女性。 店の品揃え、値付け、一つひとつに兄の意思が遺されています。珊瑚がガラガラと店のシャッターを上げて、1
18世紀に人口が100万人を超え、世界最大の都市になったのは徳川幕府のお膝元・江戸です。欧州最大の都市、ロンドンでも当時は85万人程度だったとか。 天下を統一した秀吉が、北条氏の所領だった関東八カ国へ移るよう、家康に申し渡したのは16世紀の終わりころ。家康は京、大阪から遠い関東へ、体よく追い払われたのでした。 家康が関東に足を踏み入れたとき、目の前に広がるのは干潟と海、漁師が住むと思しき集落がぽつり。目を転じれば、どこまでも続く茫茫たる萱原でした。「家康、江戸を建てる」(門井慶喜、祥伝社)は、いかにしてその地に街を作り、都市基盤を整備したのかを語る異色の小説です。 全6話の構成。第1話「流れを変える」は、江戸を水浸しにする大河川・利根川の流れを上流で変え、河口を東に移動させた、親から孫まで三代にわたる土木事業の物語です。 第2話「金を延べる」は江戸の小判で貨幣経済を支配するための、秀吉の大
書庫であり、書斎であり、アトリエでもあり、見方を変えれば整理不可能なあきれた物置、そして夜毎独り呑みの空間である6畳の部屋。そこにある机上、および手が届く範囲には常時4、50冊の本が積まれているか並んでいます。未読のいわゆる<積読本>がある一方、何らかの理由で昔の本を書架の奥から探し出し、ものぐさで元に戻さないままになっているのも結構あります。 そんな<出戻り本>が手元に積み重なる原因の一つは、今読んでいる作品から連想が弾けて、「確か...」と以前に読んだけれど記憶が曖昧な本を再び開きたくなるためです。 この1年半、途切れ途切れに「源氏物語」を読み進めながら、源氏について書かれた<出戻り本>や新しい関連本が、手の届く範囲で一角を占めるまでになりました。 面白いのは<出戻り本>でありながら、拾い読みして刺さる一節に遭遇すると(かつて読んだはずなのに全く記憶に残っていない)、そもそもの発端であ
先月から、油の絵筆を持ってF10のキャンバスにしこしこ再開しました。下塗り段階で、今は大まかな色のイメージを固めているさ中です。描いているのはモズの巣。地元のバードウオッチセンターに展示してあるのです。 今はこんな具合ですが、これでは抽象画みたいな...。 もうしばらく、背景にいろんな色を薄く塗り重ねて空気感を手探りし、今月末くらいから、本格的な描き込みに入りたいと思っています。 鳥の巣を形成する藁、細枝1本1本、羽根の細部まで緻密に写実表現したいので、完成は来年夏が目標かなあ。 ちなみに、モチーフにするモズの巣の写真はこんな具合。うーん、この線全部描くなんで、無謀だろうかw。その無謀を、急がず楽しむことにします^^ **************** 急に寒くなって桜の落葉が庭に重なり、踏みしめて歩くとカサカサ鳴ります。晩秋の音ですね。 おまけで、前作の静物画のメイキング画像でも載せて(再
「60半ば過ぎた男性って、どうしてあんなに時代物が好きなの?」 以前、わたしにそう問いかけたのは、とある公立図書館に勤める知人女性でした。貸し出し業務をしているので、今どんな本が人気か、仕事を通じて手にとるように分かるわけですが、時代物だけは世の流行り廃りに関係なく人気なのだとか。特に、年配の男たちに。 人気の理由は、例えば「剣客商売」(池波正太郎、新潮文庫、シリーズ全16冊+番外編あり)を読めば分かります。 面白い。そもそも人というもの、腹が減るから食べるし、面白いから飽かずに読むわけです。 「剣客商売」という小説、料理に例えるなら高級なフレンチやおしゃれなイタリアンではなく、凝った和食でもありません。年季が入って、少々くたびれたのれんを掲げる街中の店。出てくるのはお任せ定食で、これが...。 ある日はピリリと山椒が活かしてあって箸が進み、別の日は、ふっくら炊き上げたご飯に煮染めたアサリ
沁みるなあ。 感動した、と表すのはどこか違う。目の前に新しい世界が拓けたとか、魂が揺さぶられたなど、そんな大げさではないのです。読んで涙することもない。ただ、沁みるなあ。 例えて言えば、大人には大人の癒され方があって、真夜中に一人で飲む酒が、美味しいほど悲しくなるような味わい。ややカッコ良過ぎますが、「俺と師匠とブルーボーイとストリッパー」(桜木紫乃、角川書店)は、そんな小説でした。 桜木さんは「ホテルローヤル」で2013年に直木賞を受賞し、昨年は「家族じまい」が中央公論文芸賞になっていますが、ベストセラーを連発するような派手な作家ではありません。 でもわたしにとっては、新刊を見つけるとすぐに買ってしまう、数少ない一人なのです。たいてい明るい話ではなくて、北海道の厳しい気候と、その風土に生きる男と女の姿を描いた作品が多い。 今回も、舞台は寒さ厳しい北海道、釧路のキャバレーとボロい従業員寮。
敗戦によって根底から社会の価値観が覆った1948年ー50年の日本を舞台に、ある画家の心の揺らぎを、一人称の<わたし>の世界として描いたのが「浮世の画家」(カズオ・イシグロ、飛田茂雄=訳、ハヤカワepi文庫)です。 戦時中に至るまでの<わたし>は著名な画家であり、戦争に向けて国民を鼓舞する作品を発表していました。激動の時代に芸術家として生きる<わたし>の、信念に基づいた姿勢でした。 しかし、敗戦によって日本には米国流の価値観と民主主義が持ち込まれ、<わたし>への世間の視線は一変します。画家としては引退同然になり、娘の縁談が進まないことを気に病み、自らの人生を振り返るのです。 以上は小説の骨格ですが、作品としての魅力は<わたし>の意識の流れに任せた、骨格への<肉付け>にあります。全編が回想による語りで、意識はしばしば違うところへ流れ、また戻ってきます。 そして<わたし>の主観にとって事実である
「発熱した。PCR検査の結果は明日だけど、もし陽性だったら、お前も新型コロナの濃厚接触者になる。申し訳ない」 結果から言ってしまえば、わたしは感染していませんでしたが、つい先日まで<濃厚接触者>でした。 知人から連絡をもらって、とっさに思ったのは「なんと!」。次に「とうとう来たか」。 現在の日本の状況を眺めれば、新型コロナがどこから迫ってきても、なんの不思議もないと思っていたからです。 「仕方ないさ。で、具合どうなんだ?」 「38度くらいの熱と、背中の筋肉が痛い。肺炎はないと思う。発症前の行動を聴き取りされたから、もし陽性なら、こちらの保健所からそっちの保健所に連絡がいくことになる。すまない」 彼はうちの夫婦共通の知人で、愛知県に住んでいます。こちらの出身で、老いたご両親はうちの隣の市に暮らしていらっしゃいます。家の事情があって短期帰省したのですが、出発前に自費でPCR検査を受け、陰性を確
舞台は1959年、60年あまり過去のニューヨーク。戦後の繁栄を誇る大都会には、根強い人種差別や、不用意に踏み込めば身に危険が及ぶエリアがあちこちにあります。都会の表と裏を渡り歩いて殺人鬼を追う主人公・ジョーは、元ニューヨーク市警の刑事で、独り者の探偵です。 登場するのはさまざまな人種、ルーツを持つアメリカ人。かろうじて日本的な要素があるとすれば、日系の刑事が脇役としていい味を出している部分くらいです。 ハードボイルド小説のど真ん中直球、というか昔懐かしいくらいの<王道>です。ただし、書いたのはアメリカ人作家ではありません。「ピットフォール・PITFALL」(堂場瞬一、講談社文庫)は、そんな作品です。 途中、読みながら思いました。なぜ日本人の堂場さんが、アメリカ人しか出てこない小説を書かなくてはならなかったのか...。ところが話の展開が面白いものだから、そんなことはすぐにどうでもよくなって、
新緑から、日々緑が濃くなる5月。現代は冬なら暖房、夏は冷房のために窓を閉め切る生活が普通ですが、今はどこも窓を開けるシーズンなので、ご近所の生活の音が聞こえてきます。 わたしは庭に出ている時間が多く、夕刻にもなれば隅のベンチでビールを飲み始めます。そこへ子供や母さんの声、普段は室内で飼われている犬の鳴き声などが流れてきます。個人的にはこれが、この時期だけの癒しの音<ヒーリングサウンド>。 豪雪だったのに、桜の開花が早かった2021年。桜だけでなく、うちの庭もさまざまな花の開花が早いようです。 アーチのツルバラは、例年より1週間早く咲き始めました。満開まで、あと2、3日かな。 もう1株あるツルバラも、ちらほら開花。下の写真左ですが、冬の雪の重みで根元から昨年伸びた新しい枝2本が折れてしまい、やや控えめな姿です。残念...。 よく見えませんが、奥にベンチが置いてあって、夏も木々が日陰を作ってく
見ているけど見えていない、聞こえているけれど、聴いていない。つまり、いつの間にか「ぼー」と放心しているとき、突然肩をたたかれたら、ぎくりと条件反射します。 普段は周囲に張り巡らせている五感のセンサーが麻痺していて、いきなり何かに自分が鷲掴みにされたような感じ。だれでも経験がある、些細な出来事です。だから変にムズカシク考えるのも野暮、....は承知なのですが。 肩をたたかれた瞬間に、裸の<私>が剥き出しになります。そして<私>以外の全ての存在は、外部の<異物>であるという、世界との根本の関係性が露わになるのです。 五感がフルに働いているときであれば、<私>の外にある全て、モノであれ人であれ、<異物>は常に私に緊張を強い、対処を求めてきます。そんな、重くて張り詰めた空気に、支配された小説が「掏摸(スリ)」(中村文則、中央公論社)です。いや、理屈っぽくて申し訳ない...^^;。 そもそも、中村さ
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